山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日

京繍のすそ野を 世界へ広げる

日本の文化を象徴する着物や帯を、いっそう美しく彩る日本刺繍。奈良時代に仏教とともに伝来し、やがて十二単や武将の衣服、能衣装などに様々な刺繍がほどこされて技法も発達していきました。「京繍(きょうぬい)」は、優れた技術とともに、繊細で雅な色使いや意匠を特徴とします。京繍の伝統を、日本の文化とともに多くの人に伝えたいと、体験や教室、講師育成講座、そして日本で初の「日本刺繍通信教室」を開設し、新たな展開を実現した「中村刺繍」の、伝統工芸士 中村彩園さんに話を伺いました。

波乱万丈、京繍がたどった歴史


貴族や武士階級の衣装や、社寺の装飾に用いられた京繍は、様々な技法が発達し、安土・桃山時代には絢爛豪華な能衣装や小袖が生まれ、江戸時代まで、多くの刺繍職人や下絵師が腕を振るいました。しかし、明治維新になり、強力な注文主であった武士や寺社などが力を失い、その混乱のなかで、贅沢品であった刺繍も大きな打撃を受けました。そこで、先人たちは海外に活路を見い出そうとしたのでした。

ウィーン万博に出品して好評を得たことがきっかけとなり、大量に輸出されるようになり、製品も、壁掛け、額装、ついたてなど、インテリアにも多様に応用の範囲を広げました。その中で確立されたのが、画面を細かい刺繍で表現した絹糸の艶や風合いにより、絵画以上に写実的に見える「刺繍絵画」です。これらの刺繍製品は「貿易刺繍」と呼ばれ、手の込んだ良いものはほとんどが海外へ出て行き、日本に残っているものは非常に少ないそうです。
壊滅的な打撃から立ち直るために、果敢な挑戦をした当時の先人たちの並大抵ではない、強さを感じます。京繍の繁栄は続き、仕事は大量にあり、職人さんは大忙しだったそうです。しかし、経済の波や、刺繍絵画が中国で作られるようになったこと、近年では、生活様式の変化による着物ばなれなどの影響を受け、徐々に西陣でも後継者不足や刺繍屋さんの廃業などの問題があらわれてくるようになっていきました。
そのような状況のもと、中村刺繍は、一日体験コース、日本刺繍教室や講師育成講座を開設、初の通信講座など、伝統の京繍を次世代へつなげるための一石を投じたのです。

繊細、優美な京繍の魅力


京繍は、1976年に伝統工芸品として国の指定を受けました。技法は100に及び、絹の刺繍糸は3000~4000色、針は太さの違う15種類ほどがあります。刺繍糸は絹、縫う際は両手を使う点も京繍(日本刺繍)独自です。木枠に張った布の裏側から、刺繍する部分に針を刺すのは大変難しく思いますが、中村さんの、下に隠れた右手は、ぴたっと思い通りのポイントに針を通します。ひと針、ひと針の根気のいる緻密な作業から、美しい花や鳥、おめでたい意匠が形づくられていきます。

これから額装にまわすという、みみずくと鷹の大作を見せていただきました。鋭い目、翼を広げてこちらに飛び立ってきそうな迫力です。干支シリーズ、ふくさ、制作途中の作品なども、それぞれのイメージに合った配色と縫い方で、個性的であったり、優美さや可憐さが表現されています。仕事を受けた時、色使いや縫い方など細かい指定はなく、ほとんどが「おまかせ」なのだそうです。

常時2000色はある絹糸から配色を考えて糸を選びます。刺繍糸は、細い糸12本が1本になっていますが、使う時に、その都度撚りをかけ、撚り方と本数によって太さを変えます。絵具を混ぜるように、違う色の糸を撚り合わせることもあるそうです。お客さんの年齢や、発注してきたお店の好みなどを念頭に置き、イメージを描いて「色を塗っていく感覚」で針を進めるそうです。まさに職人のセンスと腕の見せどころです。

色の系統ごとに納められている絹糸は、ため息が出る美しさです。かめ覗き、浅葱、はなだ、茜、紅梅、萌黄・・・。日本の伝統色の美しい名前が浮かびます。中村刺繍は国産の絹糸のみを使用しています。その艶と微妙な色あいは、日本の絹の美しさです。広島県に一軒残るだけという針も含めて、雅な京繍の伝統を支えています。

新しい構想を胸にあたためて


中村刺繍は、街路樹の銀杏が色付き始めた堀川通りに近く、昔から染織に関連する店や職人が多い西陣地域にあります。大正10年に刺繍職人として活躍した彩園さんのお祖父さんが初代となり、そこから90年。現在は彩園さんのお姉さんで、やはり伝統工芸士の後藤美鈴さん、ネット担当の息子さんと三人で生業として勤しんでいます。

「日本一やさしい日本刺繍教室」と銘打った教室は「初めてでも、伝統工芸士さんの指導でわかりやすく安心できる」と生徒さんが増えています。ここで基本を学び、さらに高度な技術や知識を学ぶ「講師育成講座」を巣立ち、中村刺繍の分室と言える教室を地元で開く人も続いています。現在は東京、横浜、愛知、大分など各地に広がっています。
教室に通うきっかけは「自分で刺繍した着物や帯を身に付けたい」「歌舞伎が好きでよく行くことから興味を持った」「京都の伝統文化に関心があった」など様々ですが、みなさん「自分で作ったものを身にまとう喜び」を実感されています。一日体験コースは修学旅行の中学生や外国からの観光客にも人気ということです。また、同業者のみなさんも「がんばりや」とあたたかい目で見て、応援してくれているそうです。

中村さんには、今あたためている構想があります。一つは「京繍」に代わる名称の「中村刺繍ブランド」の立ち上げです。「京繍」は「京都刺繍協同組合」の商標であり、組合員でなければ、決められた技法を使い、そのレベルは達していても、京繍という名称は使うことができないのです。伝統の技術を受け継ぐ人みんなが使えるように、そしてもっと広げていくためにも中村刺繍ブランドへの思いを強くしています。

そしてもう一つ、海外への展開についても考慮中とのことです。絹の刺繍糸は韓国や中国にもありますが、日本の色に魅力を感じる人が多く、糸が単体で売れるそうです。京繍はもちろん、日本の優れた素材も海外で十分評価されるのではないかと、中村さんはみています。また気軽に日常的に使える商品開発も恒常的に考えていきたいと語ります。
日本の伝統産業は、右肩下がりの面がよく言われますが、厳しい現状を直視しながらも、その素晴らしさ、伝統が持つ力を信じて新たな展開をあたためている人の存在が、未来を切り開いていくと感じました。中村刺繍と生徒さんが、ひと針ごとに心を込めた作品の展示会が開かれます。繊細な美しさのなかにも、それぞれの個性や感覚があらわれた力作をぜひご覧ください。そして、京繍の魅力を感じていただければと思います。

 

中村日本刺繍教室作品展「童夢」
11月29日(金)~12月1日(日)
京都市中京区御池通 東洞院北角
しまだいギャラリー西館

 

中村刺繍
京都市上京区上立売通堀川東入堀之上町5
営業時間 10:00~12:00、14:00~18:00
休業日 土曜日、日曜日、祝日

ご朱印帳やお経本 和本製作を見学

読むという行為が紙でなく、パソコンやスマートフォンからということが多い昨今、紙や布を張り、外函に入りの凝った装丁の書物を目にすることは、めったにありません。
そんななかで、物議をかもしながらも衰える様子のない「ご朱印ブーム」により、美しい和綴のご朱印帳が広く知られるようになったということも事実です。和綴をはじめとする、日本の伝統的手法による「和本」を専門とする会社の製作現場を見学しました。

不便を解消し、美しさを備えて進化した和本


大陸から日本へ紙が伝わったのは7世紀の初めとされています。最も古い和本として生まれたのが「巻子(かんす)」という巻物の形態です。ありがたいお経や仏画、寺院の演技なども描かれ、絵巻物も誕生しました。平家納経や源氏物語絵巻などがあります。
身近なところでは、忍者が巻物を口にくわえていたり、和装に見られる「宝尽くし」の文様にも、隠れ蓑や打ち出の小槌などと一緒に巻子が描かれています。
紙を継ぐことで長さを自由に調節でき、くるくる巻いてコンパクトに保管できることからも、巻子はたいそう優れています。しかし、必要なところ、見たいところが、すぐに探し出せないという不便さが生じてしまいました。

そこで、考え出されたのが、巻物を適当な幅に折りたたんで、開きやすいように工夫した「折り本」です。不便から生まれた画期的な形態は、今もお経本やご朱印帳などに蛇腹折り本に製本され、よく目にするところとなっています。ところが、使っているうちに折り目が擦り切れてしまうという不具合が出てきてしまいました。そこから、またさらに改良を試みて、各ページを半分に折って重ねて綴じる冊子の製本「和綴じ」に発展しました。江戸時代に木版刷の技術が発達し、黄表紙、赤本などと呼ばれた絵入の娯楽紙「絵草紙」が人気を集め、人々の間に広がることとなり、和綴じの本の製造は、明治時代まで続きます。

古書店で、出版年が明治の和綴じ本を見かけることがあります。感心するのは、不便を解消し、補強や保護の役目を果たし、そのうえ美しさも備えながら進化していったことです。
綴じ方をとってみても、一般的な「四つ目綴じ」から「亀甲綴じ」「菊綴じ」など何種類もあり、装飾も兼ねて美しい色あいの糸を選ぶなど、細部まで神経を行き届かせています。他にも、書物ではありませんが、本を保存するためのおおいとなる「帙(ちつ)」も、爪や紐、張る紙の素材や色も吟味されています。この細やかな感性と確かな技術に裏打ちされた和本の伝統を受け継ぐ会社が「エヌワホン」です。

ベテランも慣れにおちいらず「毎日挑戦」


エヌワホンは、以前は箱の製造を主にしていましたが、書籍の出版の減少や外函入りの凝った本づくりがされなくなり、受注がなくなっていきました。そこで、まだきちんと仕事が確保できていた製本の分野を中心に、そのなかでも「お経本」に特化する方向に舵を切り、新しく会社をたちあげました。エヌワホンという、カタカナの社名は、創業者のひとりのイニシャルからの命名だそうです。和本もカタカナにしたところに、お経本という伝統の技術を受け継ぎながらも、蓄積された和本の総合力を発揮して、柔軟に新しい時代に対処していこうという意気込みが感じられます。

10年ほど前から、ご朱印帳の受注がぐんと増えたそうです。多少機械化した工程もありますが、ほとんどが微妙な手作業が必要ということで、作業の現場は和やかななかにも、きりっと引き締まった雰囲気です。ご朱印帳を作っている部署では「この道60年」の大ベテランと「糊付け3年」の一番の若手の職人さんが組んで仕事をしています。真剣なまなざしで、均等に素早く糊の刷毛が動き、それを受けて表紙を張る大ベテランは、肩の力の抜けた、乱れのない一定したリズムです。みごとに息のあった仕事ぶりに感嘆します。この道60年の大ベテラン、栄本敏枝さんは、熟練の技術はもちろんのこと、仕事場の雰囲気もリードしていきます。
「手を動かす調子が二人ぴったり合うてないとだめ。どこの部署も、それぞれがプロとして責任を持って仕事をしてる」と手を止めることなく話してくれました。そして「一度覚えたら、ずっとそれでいいなんていうことはないの。毎日挑戦」と続けました。

隣では、張り終えた蛇腹折りを、ばらばらと広げながら不備がないか点検をしています。お正月のテレビ番組で放送される「大般若経」の僧侶が空で広げる儀式を思い出しました。
検品担当は、厳しい目でチェックする仕事と同時に、総数は一日1000冊にもなる出荷する製品の数や種類、納品先など間違いがないかどうかのチェックも担当しています。地味だけれど、とても大切な仕事です。
代表取締役の内橋雅志さんは「みんながそれぞれの場で責任を持って仕事をしてくれているので私は一切口出ししません。和綴の技術があり、経本と巻子、それに函(箱)の両方ができる会社はエヌワホンだけです。今、気にかけているのは技術の継承です。可能な部分は、これからも機械化を進めるつもりですが、機械では手におえない、人の手でないとできないことのほうがずっと多いのです。次の世代の職人ををしっかり育て、残す、伝えることができるように、環境を整えることが経営者の仕事だと思っています」と語ってくれました。

エヌワホンで作られたご朱印帳やお経本は、日本の多くの人が知っている有名社寺をはじめ、全国の寺社に納められていますが、販売会社から納品されるので、直接取引以外はエヌワホンの社名が出ることはありません。しかし、信頼される間違いのない和本を作り続けています。世の中から脚光を浴びるかどうかではなく、こつこつと「毎日挑戦」の気持ちで淡々と仕事をする姿に、教えられました。京都が京都であること、歴史と伝統、ものづくりの誇りはこういうところで、受け継がれているのだと改めて感じました。
エヌワホンでは、和本の良さを広げ、もっと身近に楽しんでもらえるよう、家族の歴史や作品、旅の思い出を絵草子のように綴るなど、新しく自由な和本の使い方も提案しています。オリジナルグッズの開発もさらに進めたいとのこと。古きよき伝統と革新の気風が、京都の特徴とも言われます。エヌワホンは、その気風を受け継ぐ企業です。
建都も、京都の風土と歴史が経営資源として、生きるまちをご一緒に考えてまいります。

 

株式会社 エヌワホン
京都市右京区西院安塚町97
定休日 土曜日・日曜日・祝日