京都の三味線職人と 職住一体の路地

京都のなかでも最も華やかな祇園界隈。顔見世興行決定の話題に湧く南座の近辺は、和装小物やぞうり、べっ甲、和楽器店などの専門店があり、三味線の爪弾きが聞こえてきそうな情緒を感じます。
「歌舞音曲」と言いますが、今まで縁のなかった邦楽のことを知る機会がありました。三味線職人であり、弾き手としても活躍するその人、野中智史さんの工房で話をお聞きしました。

棹や胴、皮張り、分業の三味線製作

野中智史さんの作られた三味線
三味線は多くの場合、分業制がとられていて、主に「棹」「同」「皮張り」に分かれて仕事をしています。
野中さんは棹作りです。工房には作業中の棹とともに、材料の木や様々な道具で埋まっていますが、整然とした感じがします。使う場所や作業の内容により、ノミだけでも何種類も使い分け、のこぎりや木づちまであります。

取材に伺った時は棹の修理中で、手元に置いた砥石でノミを研ぎながら、丹念に仕事をされていました。このような道具も、熟練の職人技で鍛えられたものですが、柄が継ぎ足されているなど、使いやすいようにカスタマイズされています。
何年も使い込まれたノミは、新しいものと比べると、先が、ずいぶんすり減っていました。まさに自分の手先となっています。三味線は通常三つ折りの仕様で作られますが、昔は「八折り」作らせて、職人さんの技を披露させた酔狂な人もいたのでそうです。

野中さんは、現在の工房の近く、祇園界隈で生まれ幼少を過ごしました。三味線や常磐津など邦楽を教える人も身近にいて、4歳から、けい古を始めたそうです。高校卒業後、伝統産業の専門学校に入学し、20歳の時に卒業制作の三味線を完成させたのが最初ということです。20歳の時、師匠のもとへ弟子入りを志願し、3回めにやっと承知してくれた時にかけられた言葉は「ただし、給料は払えない」でした。アルバイトをしながら師匠のもとに通い、やっと三味線で暮らしていけるようになったのは27~28歳の時だったそうです。
そして今日、京都に二人しかいない、棹作り職人の一人となって伝統の三味線作りを担っています。

野中智史さんが作った三味線の部品
三味線には、固くて緻密な木材である黒檀、かりん、紅木(こうき)が使われていますが、木目も美しい紅木が最高なのだそうです。実際にかりんと紅木の棹用の木材を持たせてもらいましたが、その固さと重さに驚きました。三味線の作り手がほとんどいなくなったと同じように、木材も枯渇してきて、あっても良い材が少ないということでした。危機には違いありませんが「良い音が出るなら、他の木でもいいのです」という野中さんの言葉に、悲観ばかりするのではない、こんな柔軟な思考がとても新鮮でした。かたわらのブリキの中には、木端がたくさん入っています。「捨てられなくて置いているのですが、修理の時に良い具合に使えて役に立ちます」ということでした。日々三味線に向かう、職人さんの言葉だと感じました。

いくつものけい古事のなかで唯一続いた三味線


野中さんは、先述したように幼い時から、芸事に親しんできました。謡、仕舞、踊り、常磐津のけい古もつけてもらったそうです。そして三味線だけは、途中で途切れることなく習い続けました。三味線の魅力を「フォルムも音色もすべてが美しい」と語る言葉に、好きを超えて、三味線と二人三脚のようにして、この楽器を究めていく姿を、垣間見た気がしました。
野中さんは、古くからの知り合いの依頼で、「ジャンルは色々、散財節」を、お座敷の宴席で弾いています。散財節とは「芸妓さん、舞妓さんを呼んで散財する」ことからきているとのこと。そういった粋なあそびをするお人が、まだいるいうことなのですね。最初に野中さんと会った時は、宴席での仕事が終わったところでした。銀鼠色の単衣に黒の絽の羽織を重ね、惚れ惚れする姿でした。
野中さんは「小唄くらいなら、だれでも気軽に始められます。初心者でも教えてくれるお師匠さんもおられますので、ぜひ、邦楽の世界をのぞいてほしい」と、思っています。また、芸術系の大学や、長唄三味線の方のワークショップ、お寺の檀家さんの集いなどで、講演mされています。縁遠い世界と食わず嫌いにならずに、一歩奥の京都へ、踏み出してみても楽しそうです。

「職住一体」京都の再生、あじき路地


野中さんは、若手の作家たちの、住まい兼工房が並ぶ路地の住人で、住人歴11年になります。空き家だった町家のある路地を再生して、若手作家が巣立ち、近所も含めて界隈の活気を生んだ例として、これまで様々なメディアで紹介され「京都景観賞」も受賞しています。西に五花街のひとつ宮川町、東に奈良の大和へ続く大和大路の間にある、この大黒町通は、町内が機能している地域です。

あじき路地を訪ねる時、目印になる「大黒湯」の高い煙突も、風景としてなじみ、路地にある現代アートのような手押しポンプもしっくりとけこんでいます。今回の取材を通して、ものづくり、職住一体、路地と町家といった、長年培ってきた京都の本来の姿は、まだまだ健在であることを認識できました。あじき路地には次々と魅力的な工房やショップができています。
東山区はことに変貌が激しかったここ数年ですが、暮らしのまちは脈々と生きています。

 

あじき路地
京都市東山区大黒町松原下ル2丁目山城町284
*工房もありますが居住もされていますので、訪問の際はご配慮ください。

西陣に開店 どら焼き&クラフト

北野天満宮にほど近い千本中立売(せんぼんなかだちうり)界隈は「せんなか」とも呼ばれ、西陣織の繁栄とともに歩んできた庶民的な繁華街です。観光地や四条、河原町近辺の繁華街とはひと違う、奥まった濃い京都が存在する地域です。
その千中に先月、素敵なカフェ&クラフトショップが開店しました。店内には紙と染を中心としたオリジナル商品が展示され、自社工房で作られるレアチーズケーキやどら焼きを、香り高いコーヒーと楽しめます。
スタイリッシュでありながら、どこか職人気質を感じるその店「天御八(てんみはち)」へ伺いました。

伝統的な味わいを大切にしながら、自由に

天御八の看板
「天御八(てんみはち)」という個性的な店名は、清水寺参道にある既存店「天」から一字取り御八は「おやつ」。しかしそのままおやつではおもしろみに欠けるので、読みは「みはち」としたそうです。店舗は、喫茶と雑貨の企画・デザインのメーカーである羅工房が、以前から工房としていた建物の一階をリノベーションし、自社で営業を始めました。
天御八の張子の猫
店内にディスプレイされた様々な紙の雑貨が、目を和ませ楽しい気分にしてくれます。とぼけた表情の張子や、手摺りの味わいのあるぽち袋や金封、何を入れようかと心が躍る小箱など、自社で企画・制作しています。
企画展として開催中の「かばんいろいろ展」では、シルクスクリーンや手描き、ステンシルなどの技法のおもしろいかばんに加え、インドシルクに手刺繍、刺し子などアジアの魅力ある手仕事も紹介しています。

中尾憲二さんとご家族
中尾憲二さんとご家族

羅工房の代表、中尾憲二さんは陶芸、飲食店、手漉きの紙雑貨、染めを手がけるなど、多方面にわたって仕事をされてきました。多くの作家さんと組んで暖簾の制作をするなど、プロデューサーとしても力を発揮しています。「桜」をテーマにした暖簾展は、会場を鹿児島から段々と桜前線のように北上する、日本の季節感と呼応したすばらしい企画も実施されました。
また、ものづくりについて共感し、刺激し合う間柄の石川県の呉服店と、昨年11月、のれんやタペストリー、パネルを一堂に展示した、圧巻の「百の絵展」も行なわれました。「作家」という定位置に納まらず、制作を続けながら、30年前にメーカーとして会社を起ち上げた中尾さんの行動力と決断は、天御八の開店にも発揮されています。
清水店は、コロナウイルスの逆風を受け、半年前には夢にも思わなかった状況ですが、そのなかで、伝統的な味わいや季節感を大切にしながら、和の文化を今の暮らしのなかに生かせるものづくりを追求しています。
そして「天御八」が「千中の、てんみはち」として親しまれるお店になるように、地元のみなさんの息抜きの場、他愛のない世間話ができる場となるようにと、汗を流す毎日です。

心強い、ご近所さんからの応援

天御八のある千本中立売
天御八のお店のある、千本通りの界隈は、古くは平安京の中心であり、豊臣秀吉の時代には聚楽第が造営された歴史ある土地柄です。
西陣織の織元や職人のまちとして栄え、チンチン電車が通り、飲食店や寄席、映画館などが建ち並んでいました。庶民的な親しみのある繁華街で多くの人が「千ぶら」を楽しみ、それはそれはにぎやかだったという話を聞くことは、以前はさほど珍しくなかったように思います。今は商店街の店舗も減り、人出も少なくなってはいますが地元の方が子どもの頃から行ってた店や、気取りのない雰囲気はまだまだ残っています。

天御八の外観
ガラス戸が素敵な天御八の外観

天御八の店舗の工事を始めた頃、近所のみなさんは「引っ越してしまうのやろか」と心配されたそうです。コーヒー屋さんとわかってからは、「がんばってや」「ここ何屋さんかわからんし、帰らはった人がいるし看板出したらどうや」などと、親身な助言もいただいたそうです。

天御八の内観
店内は木材を多く使ったシンプルなつくりの、今の雰囲気を感じるおしゃれな空間になっています。道路に面した扉の全面が波板ガラスで、外の風景が映像のように映ります。アンティークの風合いのランプシェード、ドアや壁にはめ込まれたステンドグラスなどは、中尾さんとご家族で、お店を回って探して来たそうです。コーヒーで一服し、ショップスペースを見て、一人でのんびり過ごすもよし、友達とおしゃべりを楽しむもよし。こんなお店が近所にあったらいいのになあと思う空間です。
お店へ来るのに、着替えて来られたお客さんもいたそうです。もちろん、気軽にげたばきで来られるお店がいいと思いますが、ちょっとおしゃれをしてお茶の時間を楽しむ。そういう喫茶店の使い方もすてきだなと思いました。お客さんの個性が交ざりあって、天御八というお店の個性も表れてくるのが楽しみでもあります。

スタイリッシュで職人気質の「家業」

天御八のどら焼き
お店におやつをイメージした名前をつけたことからもうかがえるように、厳選したコーヒーとともに「甘いもの」に力を入れています。飲食部門担当は、息子さんの凜さんです。清水店での経験を積み、今回は「どら焼き」に取り組みました。皮の微妙な焼き具合に苦労し、試行錯誤の末、出来上がったどら焼きはおやつを楽しむ天御八の看板です。中のあんにも工夫を加え、5種類が完成しました。うち一種類は季節のどら焼きで、この季節は粒あんに柑橘系の寒天との組み合わせが秀逸です。
天御八のキューバサンド
また、お客さんからの要望もあり、ランチタイムも楽しんもらえるよう「キューバサンド」の新メニューが登場します。チーズ、ハム、ローストポークにピクルスが定番ですが、凜さんはここに新味を出し、柴漬けとべったら漬け、白みそを使っています。マヨネーズには辛子に柚子胡椒を加え、これもまた風味があり、単なる添え物と言えない仕上がりで、すべてに手を抜くことがありません。和風味のおいしさも食べ応えも十分です。
取材でうかがった日は、スタッフの坂本圭さんがメニューの撮影中でした。ホームページやSNSの、美しく情感のある写真は坂本さんの撮影です。
来年の干支のカレンダー
ショップコーナーには、早くも来年の干支「丑」のカレンダーがありました。これは娘さんの清(さや)さんのデザインとお聞きしました。新鮮かつ日本の伝統色を思い出す色使いが印象的です。奥さんの幸恵さんも染めの仕事をされてきたそうで、商品についてもとても詳しく、ていねいに説明してくださいました。手摺りのぽち袋や金封、はがきも様々なデザインがあり、それを楽しむことができるのも、このお店の魅力です。
ぽち袋が並んだ天御八の店内
中尾さんは、お祝いの心を表す金封や、感謝やお礼の気持ちをさらりと渡すポチ袋など、この文化をぜひ、受け継いでほしいと語ります。SNSは、とても便利で伝達手段で、今では誰でも使うと言っても過言ではありませんし、なくては困ります。それは必要として使いながら、手紙やはがきにしたためた便りを送るということも、大事にしたいと思いました。家にいる時間が多くなった今、手仕事の味わいを感じるはがきや、ぽち袋の新しい使い方が生まれて来るように思います。
取り澄ました感じがなく、居心地が良い天御八に「家業」の良さと「京都の生業」の精神が脈打っていることを感じました。京都のなかでも「ディープ」な場所にあるスタイリッシュなお店のこれからが楽しみです。

 

天御八(てんみはち)
京都市上京区一条下ル西側中筋町19-84
営業時間 10:00~18:00
定休日 水曜日

京都におもしろい 印刷会社あります

デジタル化が進み、読書や新聞もタブレットやスマートフォンという人もめずらしくなくなり、以前は町ごとにあった「名刺、はがき承ります」という印刷屋さんもあまり見かけません。「紙が好き」な者にとっては、さみしい思いがします。
しかし「紙と印刷」はしっかり存在しています。印刷は進化し、紙の手ざわりとも相まって、表現の豊かさは広がっています。新旧の機械と職人さんの協働で「こんなことができるの」と、目を見張る印刷物が生まれています。紙とインクの匂い、印刷機のまわる音。「京都でおもしろい印刷やってます」は商標のごとく、本当におもしろい印刷会社、「修美社」を訪ね、三代目の山下昌毅さんに話をお聞きしました。

「おもしろい」に込められた意味

今も活版の活字を使っての印刷やワークショップも行なっています

京都は印刷屋さんが多いと言われてきました。それは京都が寺社・仏閣、大学のまちであり、必然的に印刷の需要があり、技術も優れたいたことがあげられます。
修美社は、山下さんの祖父で、現在、会長を務める山下修吉さんが、活版職人として腕をみがいた後に独立し、自宅を改装して開業しました。社名は、ご自分と妻・美代子さんの名前から一字ずつとって名づけられました。勢いのある新しい時代に、自分たちで切り開く印刷という仕事へのふたりの思いが込められています。初めて受注した名刺が無事できあがった時の喜びは、修美社のみなもとです。以来60年、創業の地で変わらず印刷業を営んでいます。

1960年代と言えば、ドラえもん、ウルトラマンなどテレビアニメの放映開始、東京オリンピック、東海道新幹線開通など高度成長期の話題に事欠かない、何事においても旺盛な時代で、印刷業も技術革新が進みました。修美社は、この急激な変化に果敢に対応しながらも「人に喜ばれる仕事という原点は、ぶれることはありませんでした。山下さんの父親で、現社長の泰茂さんも一緒に仕事をするようになり、新しい機械を導入し社員も増やすなど会社組織として地盤を固めていきました。

山下さんは、自宅が印刷所という環境で育ちました。両親ともに仕事で忙しく、夜に「これ、頼むわ。なんとかして」と持ち込まれる仕事も断らず仕上げることもしばしばでした。家業を継ぐ気はなく、雑貨屋さんで働きながら、デザインの勉強をしていましたが、段々と家業への道が敷かれ、ついに2005年に入社しました。まわりの同業者からは「えらい業界へ入って来たなあ」「覚悟はあるんか」という言葉で迎えられました。「それなら、おもしろくやってやろう」と心に思ったそうです。しかし最初の3年間は、泣きながら印刷機を動かす毎日でした。「自分の進む道が見えていなかったのですね」と、その頃をふり返ります。

それから製版や印刷デザイン、断裁という工程の仕事ができるようになり、会社という組織や経営に必要なことが理解できたそうです。それは夢をあきらめたのではなく「印刷はおもしろい」と実感し、印刷を通して多くの人と出会い、新しいことに取り組み、それが自分の進む道だという確信でした。どんなところがおもしろいと感じたのですか、という質問に「紙にインクがのって、しゅっ、しゅっと出てくるんですよ。それってすごいですよね」と、いまだに印刷への興味は尽きないといった感じの答えが返ってきました。
印刷はインクの練りや機械の調整、湿気の多い日の紙の具合など、すべての工程に微妙な加減が不可欠であり、それは経験を積み、ベテランの域に達した職人さんだからこそ可能なことです。修美社は総勢14名。今は、ちょうどベテランと若手のバランスがとれていて、技術が次世代へと受け継がれています。おもしろいと思ってつくっている印刷物は、お客さんも「これ、おもしろいなあ」と喜んでくれます。それぞれの持ち場にかかわる社員みんな、そしてお客様も「おもしろい」を実感し、共有しています。

修美社の三代目、山下昌毅さん

山下さんは「おもしろいということは、単に修美社の事業のことだけではないのです。やはり人に喜んでもらう、だれかのためになるということ、印刷でできることは何か、そこを大切にしていきたいと思います」と語ります。
コロナウイルスの自粛要請により、大変な状況にある飲食店を応援しようという企画にも積極的に参画し「テイクアウトチラシ」「前払いフリーチケット」を共同してつくり、とても励みになったと喜ばれています。社会的にも「印刷でできること」の可能性を広げています。修美社の「おもしろい」は、これからも変化し、深くなり、進化を続けます。

行き場のなくなった紙の「生き場」をつくる


印刷の製品には仕上げの段階で「紙出(しで)」と呼ばれる、文字通りの、余り紙や切れ端がたくさん出ます。通常はまとめてリサイクルにまわされ、再生紙になってまた印刷所へ来ます。
原料となる木がいろいろな工程と人の手を経て紙になったのに、そしてまだ使えるのに、最後まで使命を全うできない紙が多くある、これを減らしたいという思いで有志が集まり、チーム「Noteb」をたちあげ、紙出を使ったワークショップや商品開発に取り組んでいます。そこから「星屑ノート」「印刷屋さんの星屑」「試行錯誤」が生まれました。いずれも、紙出を多くの人に知ってもらい、自由に生かす楽しみを見つけてほしいという思いが、まっすぐに伝わる商品です。

オリジナルの製品、カラフルな星屑ノート

星屑ノートは、種類、色、厚みも様々な紙が綴られています。この、紙を選んで揃える仕事を、ご縁ができた障がいのあるみなさんのクルーにお願いしています。みなさんとても楽しんで仕事をされているそうです。色や紙質の選び方など、メンバーそれぞれの個性や感覚があらわれているということです。ノートを手に取ると、一枚、一枚紙を選んで揃えている様子が浮かんできます。紙出は、行き先ができただけでなく、新しいつながりや仕事も生み出しています。この紙出の取り組みには、企業としての修美社の考えが明確に示されています。

ご近所のよしみと、人との出会い・つながり


修美社の界隈は、低層の家が並び「職住一体」のまちのたたずまいが感じられます。山下さんは今でも、近所のおっちゃんには「まさき」と呼び捨てにされる間柄です。
修美社の今日までをたどると「印刷機の音がうるさい」と近所から苦情があった時もありましたが、防音工事は複数回するなど、今の地で仕事を続けるために、ご近所と良好な関係を築いてきました。高度成長期に設備投資が進み、まちなかから南区の広い場所へ移転した印刷工場が多くあった頃です。

3年前、大規模な改修を行った時、山下さんが考えたことは「修美社へたくさんの人に来てほしい。そして印刷や紙のことを知ってほしい」ということでした。住居だったスペースを使って事務室と新たにショールームをつくり、打ち合わせや企画展もできるようにしました。センスが良く、今の雰囲気でありながら、京都らしい周囲の家並みに調和した建物です。外階段の植栽が通りにもやすらぎをもたらしています。
この改築には山下さんが親しくしている同級生や友人のみなさんの力を借りたと聞き、それで、建築主の思いが隅々まで行きわたっているのだと納得しました。

修美社では、他企業やデザイナーと組んで、装丁や印刷、書体などそれぞれの専門性を集約した美しい書籍や、普通の紙と普通のインクに新しい印刷のポスターを綴じ込んだ本など、美術印刷の領域の仕事も増えています。
「自社の商品で実験的なものもありますが、商品化した以上は売らなければなりません」と、その点がきちんとしていることも企業の経営を担う立場として、大切なことだと感じました。そして、社員さんのなかから出たアイデアで画期的な新商品がまもなく発表されるそうです。
常にやっていることをもっと広く簡単に、という考えは一貫しています。山下さんは入社して15年目。「ここでしか刷れない色の開発」を描いています。一人でも多くの人に「紙と印刷」のおもしろさが届くように願っています。
修美社はこれからも、近所のおっちゃんやおばちゃんが、夜かけ込んで来て「これ何とかして。頼むわ」と言われたら「わかった。やるわ」と引き受ける。そんな雰囲気をまとった、京都の印刷屋さんでいそうな気がします。

 

有限会社 修美社
京都市中京区西ノ京右馬寮町2-7
営業時間 9:00~17:30
定休日 第2土曜日、日祝

経糸横糸が織りなす 真田紐の可能性

掛け軸や茶道具を入れた桐箱に結ばれている紐と言えば「ああ、あの紐」と思い浮かぶでしょうか。経糸と横糸を使って機で織る織り紐であることが、真田紐と他の紐との一番の違いと言えます。
一番幅の狭いものは一分(約6mm)。この幅に決められた柄を織り込んでいきます。世界で一番小さな織物と言われるこの紐は、戦国時代には、甲冑や物資の輸送など軍事用に使われ、さらに茶道や各寺院の道具の箱など、その用途はさらに広がっていきました。450年続く「真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)」十五代目、和田伊三男さんが語る、強く美しい真田紐のめくるめく世界へ引き込まれます。

武士、忍者、茶人。真田紐と交わる人々

紐の源流、サナール紐

真田紐の源流を探ると、ネパールの「サナール」という仏教とともに伝来した織り紐にたどり着きます。真田紐は、戦国時代の初め、そのサナールを参考にして近江や京などで織り始められたと考えられています。
和田さんのご先祖は近江守護の佐々木六角家の家老職に就いていましたが、領地振興の一つとして真田紐を織り、領民に指導もされていたそうです。ちなみに「江南」の江は近江のことで、近江の南部の所領であったことに由来しています。

真田紐は、通常の倍以上の本数の糸を使って圧縮して織ることにより、伸びずにとても丈夫に織りあがります。「元々は庶民が荷物紐として使っていたのを見て、武士も活用し始めたのでしょう」と和田さんは語ります。
大河ドラマで一躍注目された真田氏の名が付いたのは、真田昌幸・信繁父子が、関ケ原の合戦の後、紀州の九度山に幽閉された時、恐らく紐を織っていて、行商人が、西軍の中で唯一勝利し、功績のあった真田氏の名を出して「あの真田の紐」と宣伝文句のように使って売り歩いたことから、真田紐の名が一般に広がったと推察されています。
また、この頃の豪族は、山賊の一族と山岳密教の修験道者を組織化して庇護し、諜報活動や天候の予想や鉱脈の発見などに役立てました。これが忍びの者、忍者となったそうです。しかし、庇護されているとしても生活の糧がなければ、また山賊にもどってしまうので、農閑期の仕事の一つとして真田紐も製作していたそうです。伊賀、甲賀、柳生、根来など、真田紐あるところ忍びの者ありだったようです。
真田紐は刀を受け止めることができるほど強靭で、まさに戦いの実践の場において、強さを発揮したのです。また、武将たちはそれぞれ家紋のように独自の織り模様の真田紐を使い、どこの誰の所持品であるかを知る手立てとしましました。

また戦国時代は毒を盛られる危険もありましたから、結び方も複雑にして決め事とし、結び方が変わっていれば、誰かがほどいたとわかるようにしました。この習わしにヒントを得たのが、豊臣秀吉の茶の湯師範を務めていた千利休です。利休の発案により、茶道具の桐箱にも、所有者がわかる独自の色柄の真田紐を使うようになりました。
今も、各流儀の家元、寺社や作家独自の「約束紐」「習慣紐」として伝えられています。この紐は他の人や流派には使えないものであり、道具が偽物でないことの証明にもなるのです。和田さん流でいくと「紐の柄はID,結び方はパスワード」です。道具に箱、紐まで含めて「しつらえ」が決まっています。真田紐の世界はとてつもなく広く、深いのです。

製作とともに伝える仕事の大切さ


江南は京の五条の大橋に近い、町家が並ぶ通りにあります。最近のホテルやゲストハウスの建築ラッシュで急激に変化していますが、問屋町という通り名にふさわしい、暮らしのあるまちのたたずまいをとどめています。
江南は真田紐のすべての工程とお店を、和田さんと奥様の智美さんの二人でされています。通りからも、きれいな色合いの商品がよく見えます。店内は甲冑や刀、古色が付いた風格のある木の鑑札、各家元のきまりの箱、木綿と絹の大きな巻きの真田紐に何種類ものオリジナル商品で彩られています。さながら真田紐博物館です。

真田紐をつくるところが次々姿を消し、戦国時代の製法を踏襲する木綿の糸を草木染めし、整経から手織りまで一貫して織っているのは江南ただ一軒になりました。木綿草木染の棚に、智美さんの、2019年度日本民囈館展―新作工藝公募展―に入選した2点の真田紐がありました。深くあたたかみのある色、しっかりした打ち込みの木綿の紐は、ものにも美しいたたずまいがあるのだと感じました。
そして、なんと、この入選作品を商品として、好きな長さで切り売りしてくれるのです。思わず、本当にいいのですかと聞いてしまいましたが、智美さんは「用の美ですから、役立ててもらうのが一番なので」という短い答えに、すべての思いが表れていると感じました。

和田さんは、時によって刀や桐箱を使って実にわかりやすく説明してくれます。取材当日も茶碗を納める箱について聞きに来られたお客さんに「納める先の流儀はわかっていますか?」など重要な点を確認しながら話をしていました。実際に裏千家、表千家、遠州流の箱を手に取って、作りの違うところなどを、わかりやすく説明します。お店へ来られた方にも「箱を注文する時は、きちんと伝えてくださいね。箱や紐のことでわからない時はいつでも聞いてください」と丁寧にアドバイスしていました。江南は桐箱などを作る指物師としても仕事をされていたので、箱についても知り尽くしているのです。
また、茶室についても詳しく、その見識には驚くばかりです。和田さんは、真田紐を使う場面のある映画やテレビ番組の、時代考証や技術指導をしていますが、明治以降の洋風化の流れ、戦争、そしてさらに急激な生活習慣の変化によって、これまで守られてきた伝統が途絶えそうになっていることに危機感を持っています。
真田紐の技術のみならず、歴史や約束事もきちんと伝えていかなければ、「本物の証し」としての真田紐の役割が果たせなくなってしまいます。膨大な資料の整理や講演会などで伝えることもこれからの大切な仕事になります。

真田紐と何かが一緒になる楽しさ


真田紐をわらじのようにかけたおもしろいスニーカーがあります。これは、京都造形芸術大学が運営するホールラブキョートの若いメンバーと江南が共同開発した「SANAD BANDOSHOES」(サナダバンドシューズ)です。とても履きやすいそうで、試してみたいと思いました。
京コマのストラップは、江南も参加している、ごく少数の職人によって受け継がれている伝統工芸の分野の会「京都市伝統工芸連絡懇話会」の会員、京こま雀休との共同開発商品です。(雀休は以前「職人の心を映す京こまの魅力」で紹介させていただきました。)江南の真田紐を使った竹工芸のバッグが評判を呼んだこともありました。

和田さんは、鼻緒スニーカーの隣にある、明治から昭和の時代まで長野県で使われていた「下駄スケート」を手にして説明してくれました。明治時代にスケートが日本に伝わりましたが、スケート靴など作れなかったので、普通の下駄に、鍬や鍬を作っていた鍛冶屋さんがブレード部分を作り、真田紐で足を固定した傑作です。なかったら工夫して作る。昔の人はとてもクリエーティブだったのですねと、楽しそうに続けました。

和田さんは脱プラスチックの取り組みの提案として、エコバッグバンドを考案しました。買い物した後重くなったバッグをバンドに止めれば、リュックサックのように背負うことができるという優れものです。
「世界で一番小さな織物」真田紐は、伝統の本道がしっかりあるからこそ、楽しんで新しいことができます。450年の伝統は重いけれど、新たなものを生み出す源泉です。

 

真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)
京都市東山区問屋町通り五条下ル上人町430
営業時間 10:00~17:00
定休日 水曜日

山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日

京繍のすそ野を 世界へ広げる

日本の文化を象徴する着物や帯を、いっそう美しく彩る日本刺繍。奈良時代に仏教とともに伝来し、やがて十二単や武将の衣服、能衣装などに様々な刺繍がほどこされて技法も発達していきました。「京繍(きょうぬい)」は、優れた技術とともに、繊細で雅な色使いや意匠を特徴とします。京繍の伝統を、日本の文化とともに多くの人に伝えたいと、体験や教室、講師育成講座、そして日本で初の「日本刺繍通信教室」を開設し、新たな展開を実現した「中村刺繍」の、伝統工芸士 中村彩園さんに話を伺いました。

波乱万丈、京繍がたどった歴史


貴族や武士階級の衣装や、社寺の装飾に用いられた京繍は、様々な技法が発達し、安土・桃山時代には絢爛豪華な能衣装や小袖が生まれ、江戸時代まで、多くの刺繍職人や下絵師が腕を振るいました。しかし、明治維新になり、強力な注文主であった武士や寺社などが力を失い、その混乱のなかで、贅沢品であった刺繍も大きな打撃を受けました。そこで、先人たちは海外に活路を見い出そうとしたのでした。

ウィーン万博に出品して好評を得たことがきっかけとなり、大量に輸出されるようになり、製品も、壁掛け、額装、ついたてなど、インテリアにも多様に応用の範囲を広げました。その中で確立されたのが、画面を細かい刺繍で表現した絹糸の艶や風合いにより、絵画以上に写実的に見える「刺繍絵画」です。これらの刺繍製品は「貿易刺繍」と呼ばれ、手の込んだ良いものはほとんどが海外へ出て行き、日本に残っているものは非常に少ないそうです。
壊滅的な打撃から立ち直るために、果敢な挑戦をした当時の先人たちの並大抵ではない、強さを感じます。京繍の繁栄は続き、仕事は大量にあり、職人さんは大忙しだったそうです。しかし、経済の波や、刺繍絵画が中国で作られるようになったこと、近年では、生活様式の変化による着物ばなれなどの影響を受け、徐々に西陣でも後継者不足や刺繍屋さんの廃業などの問題があらわれてくるようになっていきました。
そのような状況のもと、中村刺繍は、一日体験コース、日本刺繍教室や講師育成講座を開設、初の通信講座など、伝統の京繍を次世代へつなげるための一石を投じたのです。

繊細、優美な京繍の魅力


京繍は、1976年に伝統工芸品として国の指定を受けました。技法は100に及び、絹の刺繍糸は3000~4000色、針は太さの違う15種類ほどがあります。刺繍糸は絹、縫う際は両手を使う点も京繍(日本刺繍)独自です。木枠に張った布の裏側から、刺繍する部分に針を刺すのは大変難しく思いますが、中村さんの、下に隠れた右手は、ぴたっと思い通りのポイントに針を通します。ひと針、ひと針の根気のいる緻密な作業から、美しい花や鳥、おめでたい意匠が形づくられていきます。

これから額装にまわすという、みみずくと鷹の大作を見せていただきました。鋭い目、翼を広げてこちらに飛び立ってきそうな迫力です。干支シリーズ、ふくさ、制作途中の作品なども、それぞれのイメージに合った配色と縫い方で、個性的であったり、優美さや可憐さが表現されています。仕事を受けた時、色使いや縫い方など細かい指定はなく、ほとんどが「おまかせ」なのだそうです。

常時2000色はある絹糸から配色を考えて糸を選びます。刺繍糸は、細い糸12本が1本になっていますが、使う時に、その都度撚りをかけ、撚り方と本数によって太さを変えます。絵具を混ぜるように、違う色の糸を撚り合わせることもあるそうです。お客さんの年齢や、発注してきたお店の好みなどを念頭に置き、イメージを描いて「色を塗っていく感覚」で針を進めるそうです。まさに職人のセンスと腕の見せどころです。

色の系統ごとに納められている絹糸は、ため息が出る美しさです。かめ覗き、浅葱、はなだ、茜、紅梅、萌黄・・・。日本の伝統色の美しい名前が浮かびます。中村刺繍は国産の絹糸のみを使用しています。その艶と微妙な色あいは、日本の絹の美しさです。広島県に一軒残るだけという針も含めて、雅な京繍の伝統を支えています。

新しい構想を胸にあたためて


中村刺繍は、街路樹の銀杏が色付き始めた堀川通りに近く、昔から染織に関連する店や職人が多い西陣地域にあります。大正10年に刺繍職人として活躍した彩園さんのお祖父さんが初代となり、そこから90年。現在は彩園さんのお姉さんで、やはり伝統工芸士の後藤美鈴さん、ネット担当の息子さんと三人で生業として勤しんでいます。

「日本一やさしい日本刺繍教室」と銘打った教室は「初めてでも、伝統工芸士さんの指導でわかりやすく安心できる」と生徒さんが増えています。ここで基本を学び、さらに高度な技術や知識を学ぶ「講師育成講座」を巣立ち、中村刺繍の分室と言える教室を地元で開く人も続いています。現在は東京、横浜、愛知、大分など各地に広がっています。
教室に通うきっかけは「自分で刺繍した着物や帯を身に付けたい」「歌舞伎が好きでよく行くことから興味を持った」「京都の伝統文化に関心があった」など様々ですが、みなさん「自分で作ったものを身にまとう喜び」を実感されています。一日体験コースは修学旅行の中学生や外国からの観光客にも人気ということです。また、同業者のみなさんも「がんばりや」とあたたかい目で見て、応援してくれているそうです。

中村さんには、今あたためている構想があります。一つは「京繍」に代わる名称の「中村刺繍ブランド」の立ち上げです。「京繍」は「京都刺繍協同組合」の商標であり、組合員でなければ、決められた技法を使い、そのレベルは達していても、京繍という名称は使うことができないのです。伝統の技術を受け継ぐ人みんなが使えるように、そしてもっと広げていくためにも中村刺繍ブランドへの思いを強くしています。

そしてもう一つ、海外への展開についても考慮中とのことです。絹の刺繍糸は韓国や中国にもありますが、日本の色に魅力を感じる人が多く、糸が単体で売れるそうです。京繍はもちろん、日本の優れた素材も海外で十分評価されるのではないかと、中村さんはみています。また気軽に日常的に使える商品開発も恒常的に考えていきたいと語ります。
日本の伝統産業は、右肩下がりの面がよく言われますが、厳しい現状を直視しながらも、その素晴らしさ、伝統が持つ力を信じて新たな展開をあたためている人の存在が、未来を切り開いていくと感じました。中村刺繍と生徒さんが、ひと針ごとに心を込めた作品の展示会が開かれます。繊細な美しさのなかにも、それぞれの個性や感覚があらわれた力作をぜひご覧ください。そして、京繍の魅力を感じていただければと思います。

 

中村日本刺繍教室作品展「童夢」
11月29日(金)~12月1日(日)
京都市中京区御池通 東洞院北角
しまだいギャラリー西館

 

中村刺繍
京都市上京区上立売通堀川東入堀之上町5
営業時間 10:00~12:00、14:00~18:00
休業日 土曜日、日曜日、祝日

ご朱印帳やお経本 和本製作を見学

読むという行為が紙でなく、パソコンやスマートフォンからということが多い昨今、紙や布を張り、外函に入りの凝った装丁の書物を目にすることは、めったにありません。
そんななかで、物議をかもしながらも衰える様子のない「ご朱印ブーム」により、美しい和綴のご朱印帳が広く知られるようになったということも事実です。和綴をはじめとする、日本の伝統的手法による「和本」を専門とする会社の製作現場を見学しました。

不便を解消し、美しさを備えて進化した和本


大陸から日本へ紙が伝わったのは7世紀の初めとされています。最も古い和本として生まれたのが「巻子(かんす)」という巻物の形態です。ありがたいお経や仏画、寺院の演技なども描かれ、絵巻物も誕生しました。平家納経や源氏物語絵巻などがあります。
身近なところでは、忍者が巻物を口にくわえていたり、和装に見られる「宝尽くし」の文様にも、隠れ蓑や打ち出の小槌などと一緒に巻子が描かれています。
紙を継ぐことで長さを自由に調節でき、くるくる巻いてコンパクトに保管できることからも、巻子はたいそう優れています。しかし、必要なところ、見たいところが、すぐに探し出せないという不便さが生じてしまいました。

そこで、考え出されたのが、巻物を適当な幅に折りたたんで、開きやすいように工夫した「折り本」です。不便から生まれた画期的な形態は、今もお経本やご朱印帳などに蛇腹折り本に製本され、よく目にするところとなっています。ところが、使っているうちに折り目が擦り切れてしまうという不具合が出てきてしまいました。そこから、またさらに改良を試みて、各ページを半分に折って重ねて綴じる冊子の製本「和綴じ」に発展しました。江戸時代に木版刷の技術が発達し、黄表紙、赤本などと呼ばれた絵入の娯楽紙「絵草紙」が人気を集め、人々の間に広がることとなり、和綴じの本の製造は、明治時代まで続きます。

古書店で、出版年が明治の和綴じ本を見かけることがあります。感心するのは、不便を解消し、補強や保護の役目を果たし、そのうえ美しさも備えながら進化していったことです。
綴じ方をとってみても、一般的な「四つ目綴じ」から「亀甲綴じ」「菊綴じ」など何種類もあり、装飾も兼ねて美しい色あいの糸を選ぶなど、細部まで神経を行き届かせています。他にも、書物ではありませんが、本を保存するためのおおいとなる「帙(ちつ)」も、爪や紐、張る紙の素材や色も吟味されています。この細やかな感性と確かな技術に裏打ちされた和本の伝統を受け継ぐ会社が「エヌワホン」です。

ベテランも慣れにおちいらず「毎日挑戦」


エヌワホンは、以前は箱の製造を主にしていましたが、書籍の出版の減少や外函入りの凝った本づくりがされなくなり、受注がなくなっていきました。そこで、まだきちんと仕事が確保できていた製本の分野を中心に、そのなかでも「お経本」に特化する方向に舵を切り、新しく会社をたちあげました。エヌワホンという、カタカナの社名は、創業者のひとりのイニシャルからの命名だそうです。和本もカタカナにしたところに、お経本という伝統の技術を受け継ぎながらも、蓄積された和本の総合力を発揮して、柔軟に新しい時代に対処していこうという意気込みが感じられます。

10年ほど前から、ご朱印帳の受注がぐんと増えたそうです。多少機械化した工程もありますが、ほとんどが微妙な手作業が必要ということで、作業の現場は和やかななかにも、きりっと引き締まった雰囲気です。ご朱印帳を作っている部署では「この道60年」の大ベテランと「糊付け3年」の一番の若手の職人さんが組んで仕事をしています。真剣なまなざしで、均等に素早く糊の刷毛が動き、それを受けて表紙を張る大ベテランは、肩の力の抜けた、乱れのない一定したリズムです。みごとに息のあった仕事ぶりに感嘆します。この道60年の大ベテラン、栄本敏枝さんは、熟練の技術はもちろんのこと、仕事場の雰囲気もリードしていきます。
「手を動かす調子が二人ぴったり合うてないとだめ。どこの部署も、それぞれがプロとして責任を持って仕事をしてる」と手を止めることなく話してくれました。そして「一度覚えたら、ずっとそれでいいなんていうことはないの。毎日挑戦」と続けました。

隣では、張り終えた蛇腹折りを、ばらばらと広げながら不備がないか点検をしています。お正月のテレビ番組で放送される「大般若経」の僧侶が空で広げる儀式を思い出しました。
検品担当は、厳しい目でチェックする仕事と同時に、総数は一日1000冊にもなる出荷する製品の数や種類、納品先など間違いがないかどうかのチェックも担当しています。地味だけれど、とても大切な仕事です。
代表取締役の内橋雅志さんは「みんながそれぞれの場で責任を持って仕事をしてくれているので私は一切口出ししません。和綴の技術があり、経本と巻子、それに函(箱)の両方ができる会社はエヌワホンだけです。今、気にかけているのは技術の継承です。可能な部分は、これからも機械化を進めるつもりですが、機械では手におえない、人の手でないとできないことのほうがずっと多いのです。次の世代の職人ををしっかり育て、残す、伝えることができるように、環境を整えることが経営者の仕事だと思っています」と語ってくれました。

エヌワホンで作られたご朱印帳やお経本は、日本の多くの人が知っている有名社寺をはじめ、全国の寺社に納められていますが、販売会社から納品されるので、直接取引以外はエヌワホンの社名が出ることはありません。しかし、信頼される間違いのない和本を作り続けています。世の中から脚光を浴びるかどうかではなく、こつこつと「毎日挑戦」の気持ちで淡々と仕事をする姿に、教えられました。京都が京都であること、歴史と伝統、ものづくりの誇りはこういうところで、受け継がれているのだと改めて感じました。
エヌワホンでは、和本の良さを広げ、もっと身近に楽しんでもらえるよう、家族の歴史や作品、旅の思い出を絵草子のように綴るなど、新しく自由な和本の使い方も提案しています。オリジナルグッズの開発もさらに進めたいとのこと。古きよき伝統と革新の気風が、京都の特徴とも言われます。エヌワホンは、その気風を受け継ぐ企業です。
建都も、京都の風土と歴史が経営資源として、生きるまちをご一緒に考えてまいります。

 

株式会社 エヌワホン
京都市右京区西院安塚町97
定休日 土曜日・日曜日・祝日