京都と世界をむすぶ 京町家

京都の中心部、新町通り界隈は、今も和装関係の企業や伝統的な建築の家も見られる、京都らしいたたずまいを感じる界隈です。そのなかに、目立つ看板などはないものの、通りすがりに、美しい色調や明るく元気な色にあふれた店内が見えます。洋裁指導によって開発途上国の女性を支援する「NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村」です。
日本の素晴らしい技で染め、織りあげられた、天然素材の着物や帯を全国から寄贈してもらい、ラオスやヨルダン、ルワンダなどの国々の女性たちが仕立てた洋服やバッグ、小物を販売しています。繰り返し訪れる人の多いアンテナショップ三田村の魅力を、販売品と人、そして町家とともにご紹介します。

「甦」のロゴから受け取るメッセージ

NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村
アフリカを思わせる鮮やかな色合いと大胆な柄の洋服やバッグ、絹の風合いや着物の色柄を上手に生かしたワンピースやジャケット、ブラウスなど、専門家のデザインとしっかりした縫製の指導によって魅力的な製品が誕生しています。手に取ったり、試着してみたりと、お客さんも楽しそうです。
「よう似おうてますよ」「顔移りもよろしいね」お店で応対するのはボランティアスタッフのみなさんです。親しいご近所に来たような和やかな雰囲気に、はじめてのお客さんも「似合っているかどうか」など、気軽にアドバイスや意見を求めることができます。
ギテンゲ
個性的なアフリカのプリントは、数年前から注目され始めましたが、リ・ボーン京都では2013年からルワンダでのプロジェクトを開始し、製品として手掛けています。「ギテンゲ」と呼ばれるアフリカのプリントは京都のファッションを元気づけています。
また、着物の下に着る長襦袢は多くの場合、薄色で光沢のある生地で作られていますが、洋服にリメイクするのは難しい素材です。それが「絹のパジャマ」として完成していました。気温の高い期間が長くなっているこの頃「昼間は洗いざらしのTシャツを着ていても、夜は贅沢にシルク」とは、購入された方の笑い話です。

なんでも挟めるかわいいクリップ
なんでも挟めるかわいいクリップ

ねこ好きにはたまらないその名も秀逸なお細工物のねこ「はさんでニャンコ」や、ラオスからやって来た恐竜の集団など、楽しさも次々発見できます。
着物をほどき、洗い、素材として使えるようにするには大変な手間がかかりますが、ボランティアさんによって、創作意欲をかき立てる布として送られます。柿渋塗りの壁紙張りや、姿見のまわりの壁紙の破れを見えないようにする布おおいも、着物地ののれんもすべてボランティアさんのお手製と聞き、その底力に驚きました。

製品には「甦」のロゴがつけられています。愛着をもって着たもの、あるいは着なかったけれど親御さんが用意してくれた愛情がこもった着物など、たんすに眠っていた着物や帯は人を介して、新しいかたちによみがえります。作る人や買ってくれた人、縁あって出会えたこと。その喜びや大切さを「甦」のひと文字が伝えています。

お茶目で、はっきり物申す看板娘


アンテナショップの京町家は、もと「三田村金物店」を営み、ご家族の住まいでした。
ショップを取り仕切るのは昭和三年生まれの三田村るい子さんです。今年で満93歳になられました。お店に出てお客さんの質問に答えたり、時にはボランティアさんに「それ違う」と厳しいひと声をかけたりしっかり店内を切りまわしています。

三田村さん
リ・ボーンの製品を着た三田村さん(左)と購入した着物を着てご来店のお客さん

「昭和3年生まれ」と聞いて、年齢としっかり加減にだれもが驚きますが「町内で一番古い」「もう年やし口だけ元気」などと言ってみんなを笑わせ、その場を明るくします。「おかあさんは間違いなく、ここの看板娘」とボランティアさんが合いの手を入れて、また大笑いしています。
金物店は、80歳になるまで続けました。長年「三田村金物店」を中京区で続けてきたこの経験が、今も力を発揮していると感じます。人の気持ちを逸らさない応対、鮮明な記憶力は感心するばかりです。

祇園祭の山鉾、八幡山
祇園祭の山鉾、八幡山

お店のある新町通りは、祇園祭の鉾と山がたち三条町は「八幡山」の地元です。取材に伺った日は後祭り期間にあたり、巡行は中止になったものの、お祭特有の華やぎがありました。町内の家々には、八幡山の向かい合った鳩を染め抜いた幔幕が掛けられ、伝統ある商家の並ぶ中京の町らしい風情がありました。
三田村さんのお家では毎年、宵山の日に親戚や知り合いを招待していたとのこと。おくどさんで蒸すお赤飯は「小豆が腹切りせんように気を使った。今でもお釜さんもせいろも残してある」そうです。時には知らない人も交じっていたけれど、同じようにご馳走したという、なんとも鷹揚な良い時代だったのだと思いました。
巡行は二階の窓の戸を外して観覧します。鉾に乗っている人と同じ高さになり、新町通りは鉾がやっと通れる道幅なので、それは迫力があります。
饅頭袱紗
店内にあったとても手のこんだ袱紗は「饅頭袱紗」と言って、お嫁さんがご近所への挨拶に使う紅白の薯蕷饅頭に掛けるものなのだそうです。今はそのような仕来りは京都といえども、されるお家は本当に少ないようですが、とても雅やかな習わしに思えます。
NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村の京町家

京町家特有の台所
京町家特有の台所

三田村家は、商家として建てられた典型的な京町家です。「店の間」はそのまま畳敷きで残し「座売り」的な感じになっています。上がり框に腰かけて話すのも「町家体験」のような雰囲気です。店の奥は流しやおくどさんが並ぶ走り庭があり、中庭、そして土蔵も残っています。
ここへ来ると実際に住み暮らしている三田村のおかあさんやボランティアさんに、京都の奥にある習わしや暮らしの文化など、いろいろなことを教えてもらえます。リ・ボーン京都アンテナショップ三田村は、アジアやアフリカから届く製品との出会いとともに、京都の暮らしの文化を伝えています。

かたちあるものを最後まで使い切る心を世界で共有


リ・ボーン京都では、寄贈された着物や帯から新しい商品を生み出すとともに「そのまま着て生かす」ことにも取り組んでいます。
寄贈された着物や帯のなかには、今では手に入れることは難しい、例えば非常に高価であったり、すでに技術が途絶えてしまったものもあります。着物を着たいという人も増えているように思います。染や織の知識が豊富なボランティアさんもいて、新たなきものを着る層の開拓にもつながりそうです。
リメイクうちわ
またリメイクに使った後のはぎれは工夫して様々な小物を作ります。ポーチや布玉のネックレス、マスク、今や定番として多くの人が楽しみにしている、うちわなどです。うちわは細い竹骨を地紙(布)に張り、柄を差し込んだ差し柄が特徴の「京うちわ」です。使われている布は絽に草花や水を描いた季節感あふれる図柄や、「裏に凝る」日本の美的センスやあそび心が楽しい個性ある羽織の裏地「羽裏」など、ここぞという見事な絵柄の取り方で張られいます。

「始末の京都」と言われますが、食材でも着るものでも、ものの命を最後まで使い切る、全うさせる暮らし方は、今こそ求められている考え方であり暮らし方です。それは世界で共有することができます。NPO法人リ・ボーン京都のアンテナショップ三田村へ、足を運んでいただき、途上国の女性への自立支援や着物文化の発信にふれていただきたいと思います。

 

リ・ボーン京都アンテナショップ三田村
京都市中京区新町通三条下る三条町329
営業時間 12:30~16:30
定休日 土曜日、日曜日、月曜日、祝日

ようこそ 京町家のおもちゃ映画博物館へ 

大正から昭和の初め、日本映画の黄金期に、映画館で上映された後に切り売りされた35ミリフィルムをおもちゃ映画と言います。そのフィルムは、一般家庭でブリキ製のおもちゃの映写機を使って楽しまれたことから、この名前が付けられました。
なぜフィルムが切り売りされたのか、日本の映画や、映画のまち京都はどのような歴史を刻んできたのか。時代の変遷とともに捨てられたり、かえりみられることなく劣化し、消えゆくフィルムには、無声映画の全盛期に携わった人々の息遣いや熱い思いが込められています。この貴重なフィルムを救いたいと「おもちゃ映画ミュージアム」を設立し、運営を担う、代表の太田米男さんと奥様で理事の文代さんにお話を伺いました。

切り売りでわずかに残った貴重な無声映画

おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん
おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん

おもちゃ映画ミュージアムが収集・復元したフィルムは約900本にのぼり、200点以上の映写機やカメラなども展示されています。太田さんの収集品に加え、このミュージアムの存在を知り寄贈されたものもあります。
取材に伺った日、太田さんは映写機をきれいに磨いて調整されていました。寄贈されたフィルムや映写機はすべてていねいにチェックして、可能な限り修復しています。復元できたフィルムはデジタル化して寄贈してくださった方へ送りていねいに感謝の気持ちを伝え、つながりを深めています。
映写機とフィルム
映画が音声付きのトーキーの時代になると、無声映画のフィルムは乳剤を洗い流して新品フィルムとして再利用されたり、廃棄されるなどオリジナル映画のほとんどが失われてしまいました。上映後に切り売りされた「おもちゃ映画」は、時間にすると20秒、30秒から1分、3分という短いものですが、今となっては、映画の歴史を伝える数少なくかけがえのない資料となっています。
時代劇を中心にアニメーションや実写のニュース映像もあり、当時の様子が映し出された歴史の証人です。太田さんは「家に古いフィルムや映写機、パンフレットなど映画に関係するものがあれば、劣化してしまう前にぜひご連絡ください」と呼びかけています。
また、京都市広報局が1956(昭和31)年から1994(平成6)年まで製作し、映画館で上映されていた「京都ニュース」の救出にも取り組んでいます。社会や暮らし、文化、今は失われた景観など、時代を映す貴重な映像資料です。製作から60年以上経過し、劣化が進んでいるなか、保存と活用に力を注いでいます。
おもちゃ映画ミュージアムの蓄音機
ミュージアムでは、手回し式の映写機でおもちゃ映画を見たり、手回しの蓄音機でSPレコードを聞くことができます。カタカタカタという映写機の音とモノクロの映像の世界に、ゆっくりと身を置いて過ごしてみてください。

無声映画の輝き「活弁」の世界の企画展


日本映画は無声映画時代「活動写真弁士」略して活弁と呼ばれた人々の語りが入った形式ができあがったことが大きな特徴です。これは日本独自のスタイルであり、文楽や落語、講談など「語りもの」の芸を楽しむ文化が下地としてあったからと聞き、腑に落ちました。名調子で映画を盛り立て、人々を熱狂させ、全国で大勢の活弁士が活躍しました。人気を博した活弁士は、当時のポスターやチラシに名前が大きく載っています。

活動写真弁士の世界展
活動写真弁士の世界展

おもちゃ映画ミュージアムでは今、「活動写真弁士の世界展 第2期黄金時代」が開かれています。現在では10人足らずとなった現役活弁士の一人、片岡一郎さんが所蔵する無声映画時代のポスターやチラシ、出版物など多数のすばらしいコレクションが展示されています。詳細なリストと解説資料も用意された渾身の企画展です。
大胆なレイアウトや個性的で迫力のある書体など、大正から昭和の初期という時代の勢いと、仕事を手がけた人々のエネルギーが伝わってきます。映画はもちろん、印刷やデザイン、モードなど様々な視点から楽しめるとても興味深い展示です。映画の黎明期から一番輝いていた時代、映画に心血を注いだ人々の様子が浮かび上がってきます。

映画への思いが人をつなぎ明日をつくる場所

おもちゃ映画ミュージアムの外観
代表の太田さんは京都生まれの京都育ち。家は撮影所のあった太秦にも近く、子どもの頃から映画はいつも身近にありました。映画とかかわる日々のなかで、「映画は財産」として大切に修復と保存・管理がなされているアメリカやヨーロッパに比べて、極端に少ない日本映画の保存状況に危機感を覚え、2003年から「玩具映画プロジェクト」を立ち上げ、その後、映画の復元と保存に関するワークショップを毎年開催し、その地道な積み重ねのうえに「おもちゃ映画ミュージアム」を設立しました。
当時の忠臣蔵のポスター
開館は2015年5月、映画が誕生して120年、また日本映画の草創紀に大活躍した尾上松之助の生誕140年という記念すべき年でした。この開館を祝うかのように、偶然にも尾上松之助の作品「忠臣蔵」のフィルムが寄贈されたのです。それは9.5ミリの特殊な規格でしたが、上映できる映写機があり、映してみると再編集された1時間ほどの、ほぼ完全なフィルムだったそうです。おもちゃ映画ミュージアムは、古い映写機やフィルムの安心の地であり貴重なフィルムが多くの人と出会う新たな場となります。
おもちゃ映画ミュージアムの映写機
戦前に日本で作られた映画で、残っている作品は5パーセントほどしかないそうです。「日本でも外国でも評価されているのは、現在フィルムが残っている映画だけです。出演が1000本を超える尾上松之助や日本映画の黄金期を築いた阪東妻三郎、大河内伝次郎なども、残っている作品はきわめて少なく知られることがありません。どこかに残っているかもしれないそれらの作品を発掘して、監督や俳優たちの名誉回復をしてあげたいですね。尾上松之助も派手な演技ばかり言われていますが、社会福祉団体に寄付するなど社会的貢献をしたことの顕彰もね」と語る太田さんの言葉には、映画にかかわるすべての人に対する敬意がにじみ、心に残りました。
おもちゃ映画ミュージアムの天井おもちゃ映画ミュージアムの中
おもちゃ映画ミュージアムの建物は、もと友禅の型染の工場だったそうで、高い天井にりっぱな梁が通り、間口は狭く奥に深い町家づくりです。ここには映画を通してつながった人たちの協力のかたちがあちこちに見られます。屋根に掲げられた一枚板の鮮やかな勘亭流の看板は、その道の専門の職人さん、内部の壁に張った板の色は、長年映画の美術を担当している方が「展示するものが映えるように」と、ちょっと汚してよい風合いにしてくれました。新しい柱も既存の部分と違和感のないように塗られています。すてきなのれんは、文代さんのお姉さんの作です。
太田さんご夫妻
太田さんは「映画の復元と保存に取り組むという思いがあれば、応援してくれる人は必ず出てくると、思っていますと語ります。実際に次に引き継ぐべき後進も育っているとのことです。昨年からコロナ対策のため、意欲的な企画を中止または延期にせざるを得ませんでしたが、歩みを止めることなく今できることを考えて取り組んでおられます。
太田さんご夫妻は今後さらに、おもちゃ映画ミュージアムが、映画関係の人や、映画が好きな人、みんなが集まって来て情報交換したり、励まし合い、様々なワークショップもできる「映画の基地」となればと考えています。以前にこの空間を生かして、前進座の俳優さんによる「松本清張作品の朗読劇」や歌舞伎の隈取のワークショップなど魅力ある企画も実施されてきました。より多くの人にミュージアムに足を運んでもらい、映画の発掘と復元、そしてこの京町家の空間ともども、明日へと継続されますよう願っています。

 

おもちゃ映画ミュージアム
京都市中京区 壬生馬場町29-1
会館時間 10:30~17:00
休館日 月曜・火曜

清々しい青竹に感じる 新年を迎える喜び

門松や神社のしめ縄の青竹の色が新年にふさわしく、気持ちも改まります。成長が早く、地下でしっかり根を張る生命力の強い竹は、古くから縁起のよいものとされてきました。少し前までは暮らしのごく身近にあった竹について、京都の西、乙訓で茶道や華道、料理の道具をはじめインテリア、内装や建築資材など幅広く製造する「竹屋の六代目」東洋竹工代表 大塚正洋さんに話をお聞きし、新しい年を迎えることの大切さを思いました。

仕事や暮らしになじみ、根付いた日本の竹

東洋竹工
東洋竹工では門松や、初釜に使う青竹の蓋置や花入れ、料理に使う容器や箸、お正月飾りなど、新年用のあれこれの納品が終わり、目くるめく忙しさから、少しほっとした雰囲気が漂っています。その時々の新しい工夫やデザインを加えながら、新年に青竹を使う意味、改まった清々しさが伝える習わしを大切にしています。

現在、日本では孟宗竹、真竹、淡竹の3種類で竹全体の90%を占めています。孟宗竹はざる、かご、箸、また作物の支柱や稲はざ、鰹の一本釣りや海の中に沈めて魚を囲う生けすなど竹は、農業や漁業、建築資材など広範囲に使われてきました。日本古来種の真竹は編みやすく材質に優れているため、様々な竹工芸品が作られ、細く割りやすい淡竹は、茶筅に加工されています。また、竹製品はそれぞれの用途に合わせて、より丈夫で使いやすく工夫が続けられ、進化してきました。たとえばお茶の加工工程では、静電気の起きない竹の道具は非常に適していて、茶葉をふるう「通し」という作業に使う目の細かい竹の“ふるい”は、重要な品評会に出品するお茶の出来栄えにも影響するほどです。

東洋竹工の展示室
たくさんの竹製品が展示さてれている東洋竹工の展示室

縄文時代の遺跡から、漆を施したざるや、土に残った網目が発掘されているほど、竹は日本の風土に結びついて利用されてきました。竹の起源については、筍を収穫する孟宗竹は中国江南省あたりから鹿児島へ伝わったという説が有だと思うと、大塚さん。しかし「そのルートなら沖縄を通るはずだけれど、沖縄には孟宗竹はない」そうで、渡来したルート解明にも興味がわきます。またインドネシアやタイにも、日本の「かぐや姫」の物語に似た「竹から生まれ月へかえる」類の伝説があるそうです。東南アジアには竹の産地も多く、竹を加工する技術も伝承されているということで、大塚さんは「アジアは同じ民族だったのではないかと思う」と続けました。竹から広がる壮大なロマンの一端です。

竹林再生のボランティア活動の支え手

竹林整備
竹林の整備をされる大塚正洋さん(中)と健介さん(右)

産業構造や暮らし方の変化のなかで、竹を優れた資材として使う場面はめっきり減りました。また、京都の伝統野菜に指定されている「京たけのこ」の栽培も、後継者難もあり減少し、荒れた竹林の再生と保全は大きな課題となっています。
この京のさんぽ道「京都の竹林再生 幼竹がメンマに」でご紹介した任意団体で、竹林の環境整備と活用に取り組む「籔の傍」の活動に大塚さんも参加しています。地道な、そして創造的で楽しく、幅広い年代が参加する活動です。東洋竹工製造部長の高木稔さん、息子さんの健介さんも指導にあたるなど、竹の専門家としてのバックアップを続けています。向日市が整備した「竹の径」沿いに進められている伝統的構法による竹垣つくりにも、みんなで取り組んでいます。
今後は、このように景観保全や伝統の職人の技の継承に市民がかかわり、にない手となる流れが歓迎され、広がるのではないと感じます。
竹自動車
「竹は日本、日本の京都」を世界に知らしめたのは、エジソンがフィラメントの素材に八幡の真竹を使ったことです。大塚さんは大学や竹の研究者と一緒に、竹皮から繊維をとる開発に取り組んだり「竹自転車」や「竹自動車」の共同開発にも参画しました。
「世界に知られた京都の竹も、ぼうっとしていたら忘れられてしまう。100年以上前に積み上げてくれた遺産を食いつぶすことのないように」と、今も変わらず「竹の可能性」をいつも考えています。それは勿論簡単なことではないはずですが、「竹のことは一日話しても足らん」と笑う大塚さんの探求心が留まることはありません。

「もっと、おもしろく」をこれからも

羽田空港国際線ターミナル
竹のイルミネーションは国際線ターミナルに飾られ、海外の方をお出迎え

東洋竹工では、伝統の技術や乙訓産の竹の、素材としての質の良さにこだわりつつ、常に新しい出会いへのアンテナを張っています。東京の六本木ヒルズや羽田空港ターミナルのイルミネーション事業の仕事も手掛けました。

京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品
京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品

立体的にカットされた竹の花入れ
立体的にカットされた竹の花入れ

その時に照明デザイナーと知り合い、竹という素材の可能性やおもしろさを生かした製品が生まれました。竹を繊細に編み込んだ照明器具、竹を「三次元」にカットして竹の繊維の立体的な表情と曲線が美しい花入れ、竹の切り口を生かしたインテリアなど、竹の持ち味をこれまでにない形で生かした製品の数々です。

一人用の竹せいろ竹の盛り籠
太い孟宗竹の節に穴を開けた青竹の筒を見せてくれました。それは一人用の「せいろ」でした。大塚さんいわく「青竹の容器や箸を、1か月たっても青い色をそのまま保てるのは、板場の力」。個性的な盛り籠も料理人さんから注文されたもので「竹のことや食材のことを本当に知っている、力のある料理人が料理を盛って使いこなせる」という言葉はとても説得力がありました。
大塚さんは「竹の需要は今が一番縮こまっている時。20年たって竹の仕事があるか。次にどうするかを考えないといけない。」と語り「そういう意味では息子も、しんどい時に後継ぎになって苦労が多いと思う」と、息子さんを思いやる言葉も聞かれました。しかし、すぐに「竹という素材は応用がきく。素材から完成まで、一貫してできるのは竹」と続けました。

お正月用の花入れ
お正月用の花入れ

竹の用途が少なくなった今、竹と言う素材と用途がピタッと合うものはなかなか難しいそうですが、そのなかでふすまや障子の敷居の溝にはめ込んですべりをよくする建築材「竹すべり」は今も製造販売が続くロングセラー商品です。
東洋竹工の会社案内に書かれたキャッチコピーは「もっと、おもしろく」です。まん丸い竹は存在せず、節もそれぞれ違い同じものはありません。自然の素材を形にする難しさであり、そのおもしろさを引き出すことに作り手としての楽しさがあると言えます。伝統・現代・自然素材という要素を組み合わせる苦労から次の「おもしろい」が生まれると感じました。すっぱりと潔い青竹のたたずまいが、いっそう清々しく感じられる年の始めです。

 

東洋竹工株式会社
向日市寺戸町久々相13-2
営業時間 8:30~17:00
定休日 土・日曜、祝日

京印章の 1000年先をつくる

社内の書類、様々な手続きなど、はんこが必要な場面は多くあります。高校卒業の記念品として「はんこをもらった」という人も多いと思います。自分の印鑑を持つことは、おとなになった気持ちを促します。
行政手続きでの押印廃止案が発表され、メディアでも頻繁に取り上げられていますが、そのような騒がしさとは別に、印章(はんこ)は、長い歴史のなかで培われてきた技術と、崇高な文化を持っています。数センチの限られた面積のはんこに込められた作り手の思いと、その可能性について、府庁前のはんこやさん、河政印房の河合良彦さん、祥子さんに話をお聞きしました。

日本のはんこの源「京印章」

河政印房
府庁前に、大きく「はんこ」と書いた看板と「年賀状印刷」「お急ぎの実印、銀行印、認印すぐ彫ります」の張り紙も見えます。
はんこの代表的な文字は「篆書体」ですが、秦の始皇帝が決めたとされる「小篆」という書体、その後の漢の時代に「印篆」という印章に適した書体が生まれ、これが「京印章」の代表的な書体となったそうです。
金の落款
良彦さんは、このような歴史や印章全般についても、よく勉強されている「学究肌」の職人さんです。このように成り立ちの一端を聞いただけでも、はんこの奥深さを感じます。
「京印章」は、地域ブランドとして国から認定を受けています。平安時代からの伝統と技術を受け継いだ職人が京都でつくる印章を京印章と規定しています。

珍しい竹の根のはんこ
珍しい竹の根のはんこ

店内に様々な書体の「寿」の印を押した色紙が展示してありました。これは、良彦さんと祥子さんが所属する京都印章技能士会の取り組みで、100種類の寿を彫るというものです。色紙には妥協のない技術と、強く静かな心持ちがみなぎっています。来年には100種類に届く予定とのことで、京印章に新たな歴史が刻まれます。

尊重し合い刺激し合って、高みをめざす


河政印房は、良彦さんが三代目です。大学卒業後、地元の会社に就職しましたが、お父様が体調を崩されたことからサラリーマンとお店の二足のわらじの生活になりました。そして、残念なことにお父様が亡くなられ、決断の時は早く来てしまいました。その頃のはんこやさんは、注文を受けてそれを職人さんに発注する形態でしたので、良彦さんも、職人としての仕事を教えられたわけではなかったのです。しかし、せっかくここまで家族で守ってきた店を閉めるのはもったいないと、会社を退職して店を継ぎました。そして、外注して売るだけでは、はんこは、いつか消えてしまう、自分でもはんこを彫れるようになろうと決心して、職人さんに教えを乞う道を選びました。奥様の祥子さんは、結婚するまで歌劇のステージという、まったく違う世界で活躍されていましたが、職人の道を良彦さんと一緒に歩み始めたのでした。

苦労のあとを微塵も感じさせない、明るいお二人ですが、話し尽くせないほど様々なことがあったことと思います。祥子さんは時々「私たち本気やなあ。よし、本気や」と、お互いに確かめ、自分自身でも確認してきたと語ります。「大変苦労をされたと思いますが」という問いに「楽しかったのです。今も楽しいです。限られた面に、私なりの表現ができた時は本当にうれしいですし、もっと、もっと上手になろうと、いつも思います」と続けました。

はんこを彫るには、最初にお客様の好みや使用目的などに沿って、書体を決め、文字を入れるバランスなどデザインを考えます。次にそれを左右逆にした鏡文字にして、印材の面に筆で書いていきます。次は荒彫り、仕上げ、微調整という工程となります。手彫りの仕事は、見ているこちらも思わず息を詰めるほど、集中しての仕事です。その極小のスペースに広がる文字の深い世界に圧倒されました。彫りの技術以外にデザイン、書、印材など幅広い専門的な力が求められる仕事です。かたわらには、何本もの印刀が並んでいます。中には仕事を辞められた大先輩の職人さんから譲ってもらったものもあるそうで、とても大切にして手入れを怠りません。
はんこを掘る道具京もの認定工芸士の証
お二人はともに、国認定の一級印章彫刻技能士、京都府の京もの認定工芸士の資格があります。また、今年の10月には、大阪府技能競技大会に二人で出場し、祥子さんは並みいるベテラン職人さんのなかで、みごと2位に入りました。この結果を、お子さん達や先輩の職人さん達も喜んでくれたそうです。
「職人夫婦」と自ら語るお二人ですが、話しの端々から、お互いに尊重し合い、刺激し合って、京印章の高みを追求していることが伝わってきました。「彼女がワークショップで実技指導をすると、みんな本当に楽しそうで、雰囲気がすごくいいのです。デザインも繊細で感性にあふれていて」と良彦さんが、語ると「それは前段で、主人がはんこの知識をいろいろ楽しく話すので、みんな興味を持ってやってくれるからです」と、祥子さんが受けます。この間というか呼吸が絶妙です。ものづくりの道を歩む同士として、またお互いの仕事の環境をつくる家族として、そのひたむきな姿勢が、まわりも勇気づけているのだと感じました。

自在に広がる、異業種のものづくりの輪


10月の末、京の台所、錦小路の店舗の一画で「錦市場で伝統工芸 @丹後テーブル」というミニ展示会とワークショップが開かれました。飾金具、金箔、漆工芸、そして印章の4業種です。たくさんの人に楽しんでもらい、手応えがあったそうで、次はこういうものもいいね、などと話しをしたそうで、今後に期待がふくらみます。
このように、異業種の志を同じくする人たちとの出会いは大きなみのりをもたらしてくれます。京のさんぽ道でご紹介した「京都におもしろい印刷会社あります」の修美社さんの企画にも参加され、文字とはんこの世界を広げています。

新製品のシーリングスタンプ
新製品の封蝋(シーリングスタンプ)

「脱はんこ」が注目され、テレビや新聞の取材が相次いだそうですが、河政印房では、もっと以前から、はんこの新しい方向性を考えていました。実印、銀行印など今まだ必要とされるはんこはもちろんのこと、遊印、花や和柄をモチーフにしたかわいいはんこ、落款、さらに封蝋(シーリングスタンプ)など、新しい企画商品が生まれています。はがきや手紙、スケッチなどに押した、朱肉のワンポイントの色は、若い世代にも、きっとすてきに映ることでしょう。生活を豊かにし、楽しむことに、はんこを使う人が増える可能性を感じます。
「パソコンが普及すれば、なくなっていくものも当然あるでしょう。だから時代にも、技術にもしっかり向き合っていきます」と明快です。作り手の個性があらわれる、はんこ。「注文した人とはんこと職人は、一期一会。そういう気持ちで彫っています。京印章の歴史は千年ですが、次の千年を今の私たちがつくっていくのだと思っています」
取材中も、注文したはんこを受け取るお客様が続けてあり、電話での問い合わせも次々かかってきました。身近にある、まちのはんこやさんを、みんなが頼りにしています。

 

河政印房
京都市中京区丸太町釜座東入 梅屋町175-1 井川ビル1階
営業時間 月曜~金曜 10:00~20:00 土曜13:00~17:00
定休日 日曜、祝日

京都の三味線職人と 職住一体の路地

京都のなかでも最も華やかな祇園界隈。顔見世興行決定の話題に湧く南座の近辺は、和装小物やぞうり、べっ甲、和楽器店などの専門店があり、三味線の爪弾きが聞こえてきそうな情緒を感じます。
「歌舞音曲」と言いますが、今まで縁のなかった邦楽のことを知る機会がありました。三味線職人であり、弾き手としても活躍するその人、野中智史さんの工房で話をお聞きしました。

棹や胴、皮張り、分業の三味線製作

野中智史さんの作られた三味線
三味線は多くの場合、分業制がとられていて、主に「棹」「同」「皮張り」に分かれて仕事をしています。
野中さんは棹作りです。工房には作業中の棹とともに、材料の木や様々な道具で埋まっていますが、整然とした感じがします。使う場所や作業の内容により、ノミだけでも何種類も使い分け、のこぎりや木づちまであります。

取材に伺った時は棹の修理中で、手元に置いた砥石でノミを研ぎながら、丹念に仕事をされていました。このような道具も、熟練の職人技で鍛えられたものですが、柄が継ぎ足されているなど、使いやすいようにカスタマイズされています。
何年も使い込まれたノミは、新しいものと比べると、先が、ずいぶんすり減っていました。まさに自分の手先となっています。三味線は通常三つ折りの仕様で作られますが、昔は「八折り」作らせて、職人さんの技を披露させた酔狂な人もいたのでそうです。

野中さんは、現在の工房の近く、祇園界隈で生まれ幼少を過ごしました。三味線や常磐津など邦楽を教える人も身近にいて、4歳から、けい古を始めたそうです。高校卒業後、伝統産業の専門学校に入学し、20歳の時に卒業制作の三味線を完成させたのが最初ということです。20歳の時、師匠のもとへ弟子入りを志願し、3回めにやっと承知してくれた時にかけられた言葉は「ただし、給料は払えない」でした。アルバイトをしながら師匠のもとに通い、やっと三味線で暮らしていけるようになったのは27~28歳の時だったそうです。
そして今日、京都に二人しかいない、棹作り職人の一人となって伝統の三味線作りを担っています。

野中智史さんが作った三味線の部品
三味線には、固くて緻密な木材である黒檀、かりん、紅木(こうき)が使われていますが、木目も美しい紅木が最高なのだそうです。実際にかりんと紅木の棹用の木材を持たせてもらいましたが、その固さと重さに驚きました。三味線の作り手がほとんどいなくなったと同じように、木材も枯渇してきて、あっても良い材が少ないということでした。危機には違いありませんが「良い音が出るなら、他の木でもいいのです」という野中さんの言葉に、悲観ばかりするのではない、こんな柔軟な思考がとても新鮮でした。かたわらのブリキの中には、木端がたくさん入っています。「捨てられなくて置いているのですが、修理の時に良い具合に使えて役に立ちます」ということでした。日々三味線に向かう、職人さんの言葉だと感じました。

いくつものけい古事のなかで唯一続いた三味線


野中さんは、先述したように幼い時から、芸事に親しんできました。謡、仕舞、踊り、常磐津のけい古もつけてもらったそうです。そして三味線だけは、途中で途切れることなく習い続けました。三味線の魅力を「フォルムも音色もすべてが美しい」と語る言葉に、好きを超えて、三味線と二人三脚のようにして、この楽器を究めていく姿を、垣間見た気がしました。
野中さんは、古くからの知り合いの依頼で、「ジャンルは色々、散財節」を、お座敷の宴席で弾いています。散財節とは「芸妓さん、舞妓さんを呼んで散財する」ことからきているとのこと。そういった粋なあそびをするお人が、まだいるいうことなのですね。最初に野中さんと会った時は、宴席での仕事が終わったところでした。銀鼠色の単衣に黒の絽の羽織を重ね、惚れ惚れする姿でした。
野中さんは「小唄くらいなら、だれでも気軽に始められます。初心者でも教えてくれるお師匠さんもおられますので、ぜひ、邦楽の世界をのぞいてほしい」と、思っています。また、芸術系の大学や、長唄三味線の方のワークショップ、お寺の檀家さんの集いなどで、講演mされています。縁遠い世界と食わず嫌いにならずに、一歩奥の京都へ、踏み出してみても楽しそうです。

「職住一体」京都の再生、あじき路地


野中さんは、若手の作家たちの、住まい兼工房が並ぶ路地の住人で、住人歴11年になります。空き家だった町家のある路地を再生して、若手作家が巣立ち、近所も含めて界隈の活気を生んだ例として、これまで様々なメディアで紹介され「京都景観賞」も受賞しています。西に五花街のひとつ宮川町、東に奈良の大和へ続く大和大路の間にある、この大黒町通は、町内が機能している地域です。

あじき路地を訪ねる時、目印になる「大黒湯」の高い煙突も、風景としてなじみ、路地にある現代アートのような手押しポンプもしっくりとけこんでいます。今回の取材を通して、ものづくり、職住一体、路地と町家といった、長年培ってきた京都の本来の姿は、まだまだ健在であることを認識できました。あじき路地には次々と魅力的な工房やショップができています。
東山区はことに変貌が激しかったここ数年ですが、暮らしのまちは脈々と生きています。

 

あじき路地
京都市東山区大黒町松原下ル2丁目山城町284
*工房もありますが居住もされていますので、訪問の際はご配慮ください。

西陣に開店 どら焼き&クラフト

北野天満宮にほど近い千本中立売(せんぼんなかだちうり)界隈は「せんなか」とも呼ばれ、西陣織の繁栄とともに歩んできた庶民的な繁華街です。観光地や四条、河原町近辺の繁華街とはひと違う、奥まった濃い京都が存在する地域です。
その千中に先月、素敵なカフェ&クラフトショップが開店しました。店内には紙と染を中心としたオリジナル商品が展示され、自社工房で作られるレアチーズケーキやどら焼きを、香り高いコーヒーと楽しめます。
スタイリッシュでありながら、どこか職人気質を感じるその店「天御八(てんみはち)」へ伺いました。

伝統的な味わいを大切にしながら、自由に

天御八の看板
「天御八(てんみはち)」という個性的な店名は、清水寺参道にある既存店「天」から一字取り御八は「おやつ」。しかしそのままおやつではおもしろみに欠けるので、読みは「みはち」としたそうです。店舗は、喫茶と雑貨の企画・デザインのメーカーである羅工房が、以前から工房としていた建物の一階をリノベーションし、自社で営業を始めました。
天御八の張子の猫
店内にディスプレイされた様々な紙の雑貨が、目を和ませ楽しい気分にしてくれます。とぼけた表情の張子や、手摺りの味わいのあるぽち袋や金封、何を入れようかと心が躍る小箱など、自社で企画・制作しています。
企画展として開催中の「かばんいろいろ展」では、シルクスクリーンや手描き、ステンシルなどの技法のおもしろいかばんに加え、インドシルクに手刺繍、刺し子などアジアの魅力ある手仕事も紹介しています。

中尾憲二さんとご家族
中尾憲二さんとご家族

羅工房の代表、中尾憲二さんは陶芸、飲食店、手漉きの紙雑貨、染めを手がけるなど、多方面にわたって仕事をされてきました。多くの作家さんと組んで暖簾の制作をするなど、プロデューサーとしても力を発揮しています。「桜」をテーマにした暖簾展は、会場を鹿児島から段々と桜前線のように北上する、日本の季節感と呼応したすばらしい企画も実施されました。
また、ものづくりについて共感し、刺激し合う間柄の石川県の呉服店と、昨年11月、のれんやタペストリー、パネルを一堂に展示した、圧巻の「百の絵展」も行なわれました。「作家」という定位置に納まらず、制作を続けながら、30年前にメーカーとして会社を起ち上げた中尾さんの行動力と決断は、天御八の開店にも発揮されています。
清水店は、コロナウイルスの逆風を受け、半年前には夢にも思わなかった状況ですが、そのなかで、伝統的な味わいや季節感を大切にしながら、和の文化を今の暮らしのなかに生かせるものづくりを追求しています。
そして「天御八」が「千中の、てんみはち」として親しまれるお店になるように、地元のみなさんの息抜きの場、他愛のない世間話ができる場となるようにと、汗を流す毎日です。

心強い、ご近所さんからの応援

天御八のある千本中立売
天御八のお店のある、千本通りの界隈は、古くは平安京の中心であり、豊臣秀吉の時代には聚楽第が造営された歴史ある土地柄です。
西陣織の織元や職人のまちとして栄え、チンチン電車が通り、飲食店や寄席、映画館などが建ち並んでいました。庶民的な親しみのある繁華街で多くの人が「千ぶら」を楽しみ、それはそれはにぎやかだったという話を聞くことは、以前はさほど珍しくなかったように思います。今は商店街の店舗も減り、人出も少なくなってはいますが地元の方が子どもの頃から行ってた店や、気取りのない雰囲気はまだまだ残っています。

天御八の外観
ガラス戸が素敵な天御八の外観

天御八の店舗の工事を始めた頃、近所のみなさんは「引っ越してしまうのやろか」と心配されたそうです。コーヒー屋さんとわかってからは、「がんばってや」「ここ何屋さんかわからんし、帰らはった人がいるし看板出したらどうや」などと、親身な助言もいただいたそうです。

天御八の内観
店内は木材を多く使ったシンプルなつくりの、今の雰囲気を感じるおしゃれな空間になっています。道路に面した扉の全面が波板ガラスで、外の風景が映像のように映ります。アンティークの風合いのランプシェード、ドアや壁にはめ込まれたステンドグラスなどは、中尾さんとご家族で、お店を回って探して来たそうです。コーヒーで一服し、ショップスペースを見て、一人でのんびり過ごすもよし、友達とおしゃべりを楽しむもよし。こんなお店が近所にあったらいいのになあと思う空間です。
お店へ来るのに、着替えて来られたお客さんもいたそうです。もちろん、気軽にげたばきで来られるお店がいいと思いますが、ちょっとおしゃれをしてお茶の時間を楽しむ。そういう喫茶店の使い方もすてきだなと思いました。お客さんの個性が交ざりあって、天御八というお店の個性も表れてくるのが楽しみでもあります。

スタイリッシュで職人気質の「家業」

天御八のどら焼き
お店におやつをイメージした名前をつけたことからもうかがえるように、厳選したコーヒーとともに「甘いもの」に力を入れています。飲食部門担当は、息子さんの凜さんです。清水店での経験を積み、今回は「どら焼き」に取り組みました。皮の微妙な焼き具合に苦労し、試行錯誤の末、出来上がったどら焼きはおやつを楽しむ天御八の看板です。中のあんにも工夫を加え、5種類が完成しました。うち一種類は季節のどら焼きで、この季節は粒あんに柑橘系の寒天との組み合わせが秀逸です。
天御八のキューバサンド
また、お客さんからの要望もあり、ランチタイムも楽しんもらえるよう「キューバサンド」の新メニューが登場します。チーズ、ハム、ローストポークにピクルスが定番ですが、凜さんはここに新味を出し、柴漬けとべったら漬け、白みそを使っています。マヨネーズには辛子に柚子胡椒を加え、これもまた風味があり、単なる添え物と言えない仕上がりで、すべてに手を抜くことがありません。和風味のおいしさも食べ応えも十分です。
取材でうかがった日は、スタッフの坂本圭さんがメニューの撮影中でした。ホームページやSNSの、美しく情感のある写真は坂本さんの撮影です。
来年の干支のカレンダー
ショップコーナーには、早くも来年の干支「丑」のカレンダーがありました。これは娘さんの清(さや)さんのデザインとお聞きしました。新鮮かつ日本の伝統色を思い出す色使いが印象的です。奥さんの幸恵さんも染めの仕事をされてきたそうで、商品についてもとても詳しく、ていねいに説明してくださいました。手摺りのぽち袋や金封、はがきも様々なデザインがあり、それを楽しむことができるのも、このお店の魅力です。
ぽち袋が並んだ天御八の店内
中尾さんは、お祝いの心を表す金封や、感謝やお礼の気持ちをさらりと渡すポチ袋など、この文化をぜひ、受け継いでほしいと語ります。SNSは、とても便利で伝達手段で、今では誰でも使うと言っても過言ではありませんし、なくては困ります。それは必要として使いながら、手紙やはがきにしたためた便りを送るということも、大事にしたいと思いました。家にいる時間が多くなった今、手仕事の味わいを感じるはがきや、ぽち袋の新しい使い方が生まれて来るように思います。
取り澄ました感じがなく、居心地が良い天御八に「家業」の良さと「京都の生業」の精神が脈打っていることを感じました。京都のなかでも「ディープ」な場所にあるスタイリッシュなお店のこれからが楽しみです。

 

天御八(てんみはち)
京都市上京区一条下ル西側中筋町19-84
営業時間 10:00~18:00
定休日 水曜日

京都におもしろい 印刷会社あります

デジタル化が進み、読書や新聞もタブレットやスマートフォンという人もめずらしくなくなり、以前は町ごとにあった「名刺、はがき承ります」という印刷屋さんもあまり見かけません。「紙が好き」な者にとっては、さみしい思いがします。
しかし「紙と印刷」はしっかり存在しています。印刷は進化し、紙の手ざわりとも相まって、表現の豊かさは広がっています。新旧の機械と職人さんの協働で「こんなことができるの」と、目を見張る印刷物が生まれています。紙とインクの匂い、印刷機のまわる音。「京都でおもしろい印刷やってます」は商標のごとく、本当におもしろい印刷会社、「修美社」を訪ね、三代目の山下昌毅さんに話をお聞きしました。

「おもしろい」に込められた意味

今も活版の活字を使っての印刷やワークショップも行なっています

京都は印刷屋さんが多いと言われてきました。それは京都が寺社・仏閣、大学のまちであり、必然的に印刷の需要があり、技術も優れたいたことがあげられます。
修美社は、山下さんの祖父で、現在、会長を務める山下修吉さんが、活版職人として腕をみがいた後に独立し、自宅を改装して開業しました。社名は、ご自分と妻・美代子さんの名前から一字ずつとって名づけられました。勢いのある新しい時代に、自分たちで切り開く印刷という仕事へのふたりの思いが込められています。初めて受注した名刺が無事できあがった時の喜びは、修美社のみなもとです。以来60年、創業の地で変わらず印刷業を営んでいます。

1960年代と言えば、ドラえもん、ウルトラマンなどテレビアニメの放映開始、東京オリンピック、東海道新幹線開通など高度成長期の話題に事欠かない、何事においても旺盛な時代で、印刷業も技術革新が進みました。修美社は、この急激な変化に果敢に対応しながらも「人に喜ばれる仕事という原点は、ぶれることはありませんでした。山下さんの父親で、現社長の泰茂さんも一緒に仕事をするようになり、新しい機械を導入し社員も増やすなど会社組織として地盤を固めていきました。

山下さんは、自宅が印刷所という環境で育ちました。両親ともに仕事で忙しく、夜に「これ、頼むわ。なんとかして」と持ち込まれる仕事も断らず仕上げることもしばしばでした。家業を継ぐ気はなく、雑貨屋さんで働きながら、デザインの勉強をしていましたが、段々と家業への道が敷かれ、ついに2005年に入社しました。まわりの同業者からは「えらい業界へ入って来たなあ」「覚悟はあるんか」という言葉で迎えられました。「それなら、おもしろくやってやろう」と心に思ったそうです。しかし最初の3年間は、泣きながら印刷機を動かす毎日でした。「自分の進む道が見えていなかったのですね」と、その頃をふり返ります。

それから製版や印刷デザイン、断裁という工程の仕事ができるようになり、会社という組織や経営に必要なことが理解できたそうです。それは夢をあきらめたのではなく「印刷はおもしろい」と実感し、印刷を通して多くの人と出会い、新しいことに取り組み、それが自分の進む道だという確信でした。どんなところがおもしろいと感じたのですか、という質問に「紙にインクがのって、しゅっ、しゅっと出てくるんですよ。それってすごいですよね」と、いまだに印刷への興味は尽きないといった感じの答えが返ってきました。
印刷はインクの練りや機械の調整、湿気の多い日の紙の具合など、すべての工程に微妙な加減が不可欠であり、それは経験を積み、ベテランの域に達した職人さんだからこそ可能なことです。修美社は総勢14名。今は、ちょうどベテランと若手のバランスがとれていて、技術が次世代へと受け継がれています。おもしろいと思ってつくっている印刷物は、お客さんも「これ、おもしろいなあ」と喜んでくれます。それぞれの持ち場にかかわる社員みんな、そしてお客様も「おもしろい」を実感し、共有しています。

修美社の三代目、山下昌毅さん

山下さんは「おもしろいということは、単に修美社の事業のことだけではないのです。やはり人に喜んでもらう、だれかのためになるということ、印刷でできることは何か、そこを大切にしていきたいと思います」と語ります。
コロナウイルスの自粛要請により、大変な状況にある飲食店を応援しようという企画にも積極的に参画し「テイクアウトチラシ」「前払いフリーチケット」を共同してつくり、とても励みになったと喜ばれています。社会的にも「印刷でできること」の可能性を広げています。修美社の「おもしろい」は、これからも変化し、深くなり、進化を続けます。

行き場のなくなった紙の「生き場」をつくる


印刷の製品には仕上げの段階で「紙出(しで)」と呼ばれる、文字通りの、余り紙や切れ端がたくさん出ます。通常はまとめてリサイクルにまわされ、再生紙になってまた印刷所へ来ます。
原料となる木がいろいろな工程と人の手を経て紙になったのに、そしてまだ使えるのに、最後まで使命を全うできない紙が多くある、これを減らしたいという思いで有志が集まり、チーム「Noteb」をたちあげ、紙出を使ったワークショップや商品開発に取り組んでいます。そこから「星屑ノート」「印刷屋さんの星屑」「試行錯誤」が生まれました。いずれも、紙出を多くの人に知ってもらい、自由に生かす楽しみを見つけてほしいという思いが、まっすぐに伝わる商品です。

オリジナルの製品、カラフルな星屑ノート

星屑ノートは、種類、色、厚みも様々な紙が綴られています。この、紙を選んで揃える仕事を、ご縁ができた障がいのあるみなさんのクルーにお願いしています。みなさんとても楽しんで仕事をされているそうです。色や紙質の選び方など、メンバーそれぞれの個性や感覚があらわれているということです。ノートを手に取ると、一枚、一枚紙を選んで揃えている様子が浮かんできます。紙出は、行き先ができただけでなく、新しいつながりや仕事も生み出しています。この紙出の取り組みには、企業としての修美社の考えが明確に示されています。

ご近所のよしみと、人との出会い・つながり


修美社の界隈は、低層の家が並び「職住一体」のまちのたたずまいが感じられます。山下さんは今でも、近所のおっちゃんには「まさき」と呼び捨てにされる間柄です。
修美社の今日までをたどると「印刷機の音がうるさい」と近所から苦情があった時もありましたが、防音工事は複数回するなど、今の地で仕事を続けるために、ご近所と良好な関係を築いてきました。高度成長期に設備投資が進み、まちなかから南区の広い場所へ移転した印刷工場が多くあった頃です。

3年前、大規模な改修を行った時、山下さんが考えたことは「修美社へたくさんの人に来てほしい。そして印刷や紙のことを知ってほしい」ということでした。住居だったスペースを使って事務室と新たにショールームをつくり、打ち合わせや企画展もできるようにしました。センスが良く、今の雰囲気でありながら、京都らしい周囲の家並みに調和した建物です。外階段の植栽が通りにもやすらぎをもたらしています。
この改築には山下さんが親しくしている同級生や友人のみなさんの力を借りたと聞き、それで、建築主の思いが隅々まで行きわたっているのだと納得しました。

修美社では、他企業やデザイナーと組んで、装丁や印刷、書体などそれぞれの専門性を集約した美しい書籍や、普通の紙と普通のインクに新しい印刷のポスターを綴じ込んだ本など、美術印刷の領域の仕事も増えています。
「自社の商品で実験的なものもありますが、商品化した以上は売らなければなりません」と、その点がきちんとしていることも企業の経営を担う立場として、大切なことだと感じました。そして、社員さんのなかから出たアイデアで画期的な新商品がまもなく発表されるそうです。
常にやっていることをもっと広く簡単に、という考えは一貫しています。山下さんは入社して15年目。「ここでしか刷れない色の開発」を描いています。一人でも多くの人に「紙と印刷」のおもしろさが届くように願っています。
修美社はこれからも、近所のおっちゃんやおばちゃんが、夜かけ込んで来て「これ何とかして。頼むわ」と言われたら「わかった。やるわ」と引き受ける。そんな雰囲気をまとった、京都の印刷屋さんでいそうな気がします。

 

有限会社 修美社
京都市中京区西ノ京右馬寮町2-7
営業時間 9:00~17:30
定休日 第2土曜日、日祝

経糸横糸が織りなす 真田紐の可能性

掛け軸や茶道具を入れた桐箱に結ばれている紐と言えば「ああ、あの紐」と思い浮かぶでしょうか。経糸と横糸を使って機で織る織り紐であることが、真田紐と他の紐との一番の違いと言えます。
一番幅の狭いものは一分(約6mm)。この幅に決められた柄を織り込んでいきます。世界で一番小さな織物と言われるこの紐は、戦国時代には、甲冑や物資の輸送など軍事用に使われ、さらに茶道や各寺院の道具の箱など、その用途はさらに広がっていきました。450年続く「真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)」十五代目、和田伊三男さんが語る、強く美しい真田紐のめくるめく世界へ引き込まれます。

武士、忍者、茶人。真田紐と交わる人々

紐の源流、サナール紐

真田紐の源流を探ると、ネパールの「サナール」という仏教とともに伝来した織り紐にたどり着きます。真田紐は、戦国時代の初め、そのサナールを参考にして近江や京などで織り始められたと考えられています。
和田さんのご先祖は近江守護の佐々木六角家の家老職に就いていましたが、領地振興の一つとして真田紐を織り、領民に指導もされていたそうです。ちなみに「江南」の江は近江のことで、近江の南部の所領であったことに由来しています。

真田紐は、通常の倍以上の本数の糸を使って圧縮して織ることにより、伸びずにとても丈夫に織りあがります。「元々は庶民が荷物紐として使っていたのを見て、武士も活用し始めたのでしょう」と和田さんは語ります。
大河ドラマで一躍注目された真田氏の名が付いたのは、真田昌幸・信繁父子が、関ケ原の合戦の後、紀州の九度山に幽閉された時、恐らく紐を織っていて、行商人が、西軍の中で唯一勝利し、功績のあった真田氏の名を出して「あの真田の紐」と宣伝文句のように使って売り歩いたことから、真田紐の名が一般に広がったと推察されています。
また、この頃の豪族は、山賊の一族と山岳密教の修験道者を組織化して庇護し、諜報活動や天候の予想や鉱脈の発見などに役立てました。これが忍びの者、忍者となったそうです。しかし、庇護されているとしても生活の糧がなければ、また山賊にもどってしまうので、農閑期の仕事の一つとして真田紐も製作していたそうです。伊賀、甲賀、柳生、根来など、真田紐あるところ忍びの者ありだったようです。
真田紐は刀を受け止めることができるほど強靭で、まさに戦いの実践の場において、強さを発揮したのです。また、武将たちはそれぞれ家紋のように独自の織り模様の真田紐を使い、どこの誰の所持品であるかを知る手立てとしましました。

また戦国時代は毒を盛られる危険もありましたから、結び方も複雑にして決め事とし、結び方が変わっていれば、誰かがほどいたとわかるようにしました。この習わしにヒントを得たのが、豊臣秀吉の茶の湯師範を務めていた千利休です。利休の発案により、茶道具の桐箱にも、所有者がわかる独自の色柄の真田紐を使うようになりました。
今も、各流儀の家元、寺社や作家独自の「約束紐」「習慣紐」として伝えられています。この紐は他の人や流派には使えないものであり、道具が偽物でないことの証明にもなるのです。和田さん流でいくと「紐の柄はID,結び方はパスワード」です。道具に箱、紐まで含めて「しつらえ」が決まっています。真田紐の世界はとてつもなく広く、深いのです。

製作とともに伝える仕事の大切さ


江南は京の五条の大橋に近い、町家が並ぶ通りにあります。最近のホテルやゲストハウスの建築ラッシュで急激に変化していますが、問屋町という通り名にふさわしい、暮らしのあるまちのたたずまいをとどめています。
江南は真田紐のすべての工程とお店を、和田さんと奥様の智美さんの二人でされています。通りからも、きれいな色合いの商品がよく見えます。店内は甲冑や刀、古色が付いた風格のある木の鑑札、各家元のきまりの箱、木綿と絹の大きな巻きの真田紐に何種類ものオリジナル商品で彩られています。さながら真田紐博物館です。

真田紐をつくるところが次々姿を消し、戦国時代の製法を踏襲する木綿の糸を草木染めし、整経から手織りまで一貫して織っているのは江南ただ一軒になりました。木綿草木染の棚に、智美さんの、2019年度日本民囈館展―新作工藝公募展―に入選した2点の真田紐がありました。深くあたたかみのある色、しっかりした打ち込みの木綿の紐は、ものにも美しいたたずまいがあるのだと感じました。
そして、なんと、この入選作品を商品として、好きな長さで切り売りしてくれるのです。思わず、本当にいいのですかと聞いてしまいましたが、智美さんは「用の美ですから、役立ててもらうのが一番なので」という短い答えに、すべての思いが表れていると感じました。

和田さんは、時によって刀や桐箱を使って実にわかりやすく説明してくれます。取材当日も茶碗を納める箱について聞きに来られたお客さんに「納める先の流儀はわかっていますか?」など重要な点を確認しながら話をしていました。実際に裏千家、表千家、遠州流の箱を手に取って、作りの違うところなどを、わかりやすく説明します。お店へ来られた方にも「箱を注文する時は、きちんと伝えてくださいね。箱や紐のことでわからない時はいつでも聞いてください」と丁寧にアドバイスしていました。江南は桐箱などを作る指物師としても仕事をされていたので、箱についても知り尽くしているのです。
また、茶室についても詳しく、その見識には驚くばかりです。和田さんは、真田紐を使う場面のある映画やテレビ番組の、時代考証や技術指導をしていますが、明治以降の洋風化の流れ、戦争、そしてさらに急激な生活習慣の変化によって、これまで守られてきた伝統が途絶えそうになっていることに危機感を持っています。
真田紐の技術のみならず、歴史や約束事もきちんと伝えていかなければ、「本物の証し」としての真田紐の役割が果たせなくなってしまいます。膨大な資料の整理や講演会などで伝えることもこれからの大切な仕事になります。

真田紐と何かが一緒になる楽しさ


真田紐をわらじのようにかけたおもしろいスニーカーがあります。これは、京都造形芸術大学が運営するホールラブキョートの若いメンバーと江南が共同開発した「SANAD BANDOSHOES」(サナダバンドシューズ)です。とても履きやすいそうで、試してみたいと思いました。
京コマのストラップは、江南も参加している、ごく少数の職人によって受け継がれている伝統工芸の分野の会「京都市伝統工芸連絡懇話会」の会員、京こま雀休との共同開発商品です。(雀休は以前「職人の心を映す京こまの魅力」で紹介させていただきました。)江南の真田紐を使った竹工芸のバッグが評判を呼んだこともありました。

和田さんは、鼻緒スニーカーの隣にある、明治から昭和の時代まで長野県で使われていた「下駄スケート」を手にして説明してくれました。明治時代にスケートが日本に伝わりましたが、スケート靴など作れなかったので、普通の下駄に、鍬や鍬を作っていた鍛冶屋さんがブレード部分を作り、真田紐で足を固定した傑作です。なかったら工夫して作る。昔の人はとてもクリエーティブだったのですねと、楽しそうに続けました。

和田さんは脱プラスチックの取り組みの提案として、エコバッグバンドを考案しました。買い物した後重くなったバッグをバンドに止めれば、リュックサックのように背負うことができるという優れものです。
「世界で一番小さな織物」真田紐は、伝統の本道がしっかりあるからこそ、楽しんで新しいことができます。450年の伝統は重いけれど、新たなものを生み出す源泉です。

 

真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)
京都市東山区問屋町通り五条下ル上人町430
営業時間 10:00~17:00
定休日 水曜日

山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日