暮らしのかたわらに 一閑張を

一閑張(いっかんばり)とは、和紙を張り重ねた上に柿渋や漆を塗って仕上げた生活道具です。軽くて丈夫、また補修して長く使えることから、日々の暮らしに重宝されてきました。形あるものは最後まで使い切って、ものの命をまっとうする大切さに気付かせてくれます。
「伝統を暮らしに生かす」とは、どういうことかについては「そんなに難しく、堅苦しく考えなくていいのですよ。それより楽しんで、そのなかで一閑張の良さを知ってもらえれば」と、語るのは、飛来一閑 泉王子家十四代尾上瑞宝さんです。もの心ついた2、3歳の頃には見よう見まねで、おもちゃを作るように、一閑張にふれていたという申し子のような方です。伝統工芸一閑張の本当の姿を多くの人に知ってもらい、日々の暮らしが少しでも豊かになるようにと熱い思いがあふれるお話を、生まれ育った自然豊かな右京区のアトリエでお聞きしました。

和紙と柿渋、漆。そして人

一閑張 飛来一閑 泉王子家
一閑張の歴史は古く、江戸時代初期に、戦乱の中国から日本へ渡った明の学者、飛来一閑によって伝えられました。乾漆工芸の技術の持ち主でもあったことから、日本の質の良い和紙を主な原料として、独自の技術を開拓したことが日本での一閑張の始まりです。
かごや菓子器、文箱、つづらなど様々な日常の用に使えるものが作られてきました。このように生活に密着したものでしたが、ある時、茶道千家三代家元の目にとまり、茶道具としての用も果たすことになり、ここで千家十職「飛来一閑 飛来(ひき)家」と、暮らしに根差した生活道具を作る「泉王子家」に分かれ、今日まで、それぞれの歴史を刻んでいます。
「泉王子」の名は「菊水紋」とともに、江戸前期の百十二代霊元天皇から賜り、現十五代まで続いています。これだけでもう、泉王子家を雲の上の存在に感じてしまいますが、十四代の尾上さんはいたって気さくな方で、垣根を一切感じさせない物腰で、一閑張についてていねいにお話されました。
泉王子家十四代尾上瑞宝さん

和紙だけで作られたフレーム
和紙だけで作られたフレーム

一閑張は「竹に和紙を張ったもの」と思いこんでいましたが、基本は和紙です。何枚も張り重ねてもとても軽く、その上強度もあります。柿渋や漆を塗ることで防水性や防虫効果も生まれます。実際にアトリエにある作品を手にとると驚くほどの軽さです。和紙を張り重ねただけでも、しっかりしています。現代は「軽量・防水・耐久性」などをうたう商品があふれていますが、一閑張の丈夫で軽く、水に強いということが、江戸の昔の人々にとって、どれほどありがたかったことかと、しみじみ感じました。
和紙は、張り重ねることはもちろん、竹や木、石、布などどんな素材にも使うことができます。その柔軟性は無限に新しいものを生んでいきます。それを可能にしているのが、素材を大切にして、持ち味や特性を生かせる技術、人の手です。日本の素材と物を大切にする作り手によって生まれ、それぞれの時代を経てきました。一閑張を手にした時に感じるあたたかみややさしさは、まさに人の手によるものです。このことが長く愛着をもって使うことにつながると感じました。

家訓は今も変わらず大切な指針

一閑張 飛来一閑 泉王子家
泉王子家の家訓と技術は、代々一子相伝、口伝(くでん)によって受け継がれてきました。家訓の最初に「四十になるまで己の作品を世に問うてはならぬ」とあります。これはまず諸国をめぐり多くの人と出会い、見聞を広めよ、人間としてどうあるべきかが作品にも問われるということにつながります。
そして、長い間各地をめぐり歩き、京都へもどった時は風貌も変わっていることもあったでしょう。確かに泉王子家の者であることを証明する手立てとして「家訓をそらで言える」ことが重要でした。尾上さんは二、三歳の頃にはすでに、門前の小僧習わぬ経を読むのたとえの通り、完全に覚えていたそうです。泉王子家には、研究者や技術を習得したい人など多くの人が出入りしていました。そのお客様へ家訓を披露する時は、いつも尾上さんの出番でした。みんなが感心してほめてくれるのがとてもうれしかったとなつかしそうに話してくれました。

泉王子家十四代尾上瑞宝さんのアトリエ
愛用の道具が並んだ尾上さんのアトリエ

家訓は口伝を固く守ってきましたが、現在は文字にして公開し、伝統的技法も教室を開いてだれでも体験できるようにしています。一閑張の素材の確保は、年々大変になっていますが、信頼できる職人さんから入手しています。和紙はしっかりした技術の職人さんの手漉き和紙を多く使い、糊は添加物の一切ない天然のでんぷん糊、骨格として竹や木を使う時も、天然のものです。そして、受け継がれた技法によって、が天然自然の素材を生かした作品ができあがります。それに対して、合成の接着剤や天然素材ではない紙を使うなど、素材も技法も一閑張とは言い難いものが「一閑張」として世間に出回るようになった背景があります。このことに危機感を持った尾上さんは、本来の一閑張を知ってもらうための活動を始めました。このお話を聞いて、時代の変化のなかで、一閑張を継承していくためにはその時々の決断が必要なのだと感じました。家訓には「血筋にこだわるべからず 技術をもって引き継ぐを主とすべし」という条項があります。これも「本来の姿、本当の一閑張」を継承していくという本筋を大切にするための決断と感じられました。そして血筋にこだわらないという柔軟な考えにも感心しました。尾上さんが始めた、だれでも気軽に一閑張を楽しめ、そのことにより、正しく伝えていくという活動は「家訓の実践」であると感じました。それが実を結び、今の時代に一閑張のすばらしさを広げています。

日々の暮らしを豊かに、人生を楽しく

出前講座の生徒さんのお手製

尾上さんは、小学生や大学生、一般市民向けの教室を各地で開いて、一閑張の普及に積極的に取り組んでいます。近くの小学校へは3年間、出前講座を行いました。作るものは自由。みんな夢中になって、休み時間や給食もそこそこに、作品作りに没頭していたそうです。「自分の部屋がないから作りたい、と本当に自分が入れる大きさの部屋を段ボールなどで作り、家へ持って帰って、その中で宿題をしている」「かばんを作っておかあさんにプレゼントした。おかあさんは毎日使ってくれている」「おもしろい椅子を作った」など、作ることの楽しさ、完成した喜びにあふれた声が寄せられました。
高校生や大学生も、わいわい楽しく作業をしていたそうで「本当にみんな、きらきら生き生きしています。きっかけや出会いさえあれば、だれもが手先を動かすおもしろさを知ることができます。これからも、特におもしろさを伝えていければと思います。そのなかで自分に自信を持てたり、新しいことを知る楽しさを感じられます」と、体験教室の様子を尾上さん自身も楽しそうに生き生きと伝えてくれました。
泉王子家十四代尾上瑞宝さん
東日本大震災が起きた時も福島へおもむき、仮設住宅へ入っている妊婦さんから「中のにおいが耐え難い」という声を聞き、調べると化学物質の資材が原因とわかったそうです。そこであらためて、自然素材を大切にした、ものづくりや暮らし方を思ったそうです。
環境とものづくりがつながっていること、こうした考えを身近にしたい、広げたいと福島へは8年間通い、一閑張のワークショップを続け作品展を開くまでになりました。一心に和紙を張り、形ができる達成感はきっと地元のみなさんの気持ちの支えになったのだと感じました。教室は今も続いているそうです。

一閑張 飛来一閑 泉王子家
尾上さんが修復した網目が見事な思い出のかご

アトリエには、修復した250年前の箱、茶箱など時代を経たものや「おじいちゃんが大切にしていたかごを直してほしい。手元に置くと、僕をかわいがってくれたおじいちゃんの思い出がよみがえる」と持ち込まれた品もあります。また尾上さんは材木屋さんで捨てられていた木の端材をもらって来て、和紙を張り、柿渋を塗って手近に置いて小物として使っています。もう職人さんはいないという和菓子の木型も最後の職人さんからいただいたそうです。尾上さんのところへは、こうして一閑張という枠を超え、またどんな素材とも親しくなじむ一閑張だからこそ、様々な物が集まって来ます。人間が生きる時間より、物の命は長いのだと知らされます。またそのすぐれた特性から驚くものにも使われています。
八代将軍吉宗公に献上された望遠鏡、また全国を測量し日本地図を作った伊能忠敬が使った望遠鏡にも、筒に一閑張が使われています。武士の陣笠も軽くて丈夫、雨も通さない一閑張でした。そして今、だれもが一閑張を体験することができ、身近なアイテムも作られています。
和菓子の木枠
尾上さんは銀行員やその他の職業を経験した後、四十歳を迎えてから十四代となりました。父親の先代は跡継ぎになれとは一度も口にしたことはなかったそうです。尾上さんが跡継ぎになる決心を伝えた時「なぜ継ぎたいと思ったのか」とたずねられ「多くの人とめぐり合い、人との出会いの大切さを知った」と答えたところ「良し」と、こたえられたそうです。先代は常に「人として大事なこと」を基本にして「たて割りで世の中は成り立っていない。横割りで物を見られるように」と言われていたそうです。
失敗から学ぶ。失敗したからこそ工夫する。一閑張は伝統技術を引き継ぎつつ、新しいものをプラスしています。「作り出せるものは無限大。知恵や工夫でもっと使いやすく、おもしろくなります。そしてそれは身近にある物を利用して、だれにもできること。これは人生も同じ」と語ります。生きていく上でマイナスなことに度々出会うけれど、マイナスをプラスに変えていく力をみんな持っていると力を込めました。アトリエの屋号「夢一人」は20年間拠点をおいた北区のお寺のご住職がつけてくれたそうです。「ひとり、ひとりに夢を」という思いと期待を込めて贈ってくださった屋号です。
四百年の伝統は、実は普通の暮らしのすぐそばにあり、工夫することで普段の暮らしに生かせます。「だれもがその知恵をもっている。一閑張を通して、毎日が少しでも豊かになるように。そして自由自在な和紙のように楽しい人生を」というメッセージを強く感じました。そしてその根源にある家訓は、今を生きる指針でもあることを感じた取材でした。

 

一閑張 飛来一閑 泉王子家(いっかんばり ひらいいっかん せんおうしけ)
アトリエ夢一人

祇園に佇む 現代アートギャラリー

観光に訪れた人々でにぎわう四条通や八坂神社あたりから一歩入れば、暮らしが感じられる界隈となります。そんな静かな通りの一画に、ガラス張りの白い建物のギャラリーがあります。
企画展の会期中は通りからも、展示の様子がうかがえます。現代的な建物でありながら、気取ったふうもなく、明るく開放的な雰囲気が感じられます。
祇園祭の鉾建てにわく日、「現代アートうちわ展」を開催中の「ギャラリー白川」のドアを開けました。オーナー池田眞知子さんのお話と執筆された著書から、画廊という発表の場、その役割についてはじめて知ったこと、感じたことを綴ります。

今年で39年を迎えるギャラリー

ギャラリー白川
自宅から見える白い建物の空き店舗を眺めていて「お茶を飲める、可愛い画廊」が目に浮かんだことが、ギャラリー白川の始まりでした。絵の好きな人や作家さんが訪れ、徐々に企画した展覧会を開けるようになりましたが、やがて「世界のアートを自由に紹介したい」という思いがつのり、家族の理解と協力を得て単身パリとニューヨークへ飛び立ちました。

オーナー池田眞知子さんの著作「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」
オーナー池田眞知子さんの著作「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」

1980年代の躍動感あふれるアメリカンアートの魅力は目にまぶしいほどだったと著書のなかで語っています。何度か訪れるうちに、多くの美術関係者ともつながりができ、京都で紹介できるようになったそうです。ジョン・ケージ、サム・フランシス、フランク・ステラ等々、現代の美術界を華やかに彩る海外の作家たちの展示会を実施したのでした。

当時の日本はバブル景気にわき、絵画もどんどん動いた時代でした。百貨店での企画も多く、また地方に美術館が次々と建設され、「絵具が乾く間がない」というほど、作家も次々と制作を続けたそうです。
現代アートがまだ日本に根付いていない頃から、アメリカで絵画の新しい潮流を目のあたりにしてきた池田さんは、美術館へ作品をおさめたり、展覧会の企画など数多くかかわっていました。

やがてバブル経済の終わりが来て、美術館には作品を買い上げる予算がなく、百貨店でも動きが止まりました。日本全体が不景気の影におおわれた1999年、今後を見据えて、現在の祇園の地に移転しました。それは「ここで何ができるか」という自分自身への問いかけでした。
画廊経営という未知の世界へ飛び込んだ最初とは違い、多くの人との出会いや経験のなかで得た「企画する喜び」を礎に、新たな取り組みを始めたのでした。

17回続く「現代アートうちわ展」

ゆかたとうちわ
アメリカをはじめ海外の現代アートを日本に紹介した草分け的な存在の池田さんは、再び日本の作家へ目を向けるようになりました。
うちわが日本へ伝わったのは6~7世紀とされていますが、はじめは祭祀や貴族のあいだでのみ使われていました。現在の「風を送って涼む」竹骨に紙を張った形となるのは室町時代とされています。江戸時代へ入ると、庶民の間に広まり、浮世絵や人気役者の姿、美人画などが描かれ、床の間へ飾ったり、おしゃれとして持ったり、うちわの文化は見事に花開きました。
ギャラリー白川のうちわ展
池田さんは「この時代の日本人の豊かな感性とすばらしい職人技を、今の作家さんにも知ってほしい」と、現代アートうちわ展を企画しました。今年でもう17回を迎え、27人の作品が展示されています。日本画、漆、油彩、版画、現代美術、水墨画、織り、フレスコ画、グラフィックデザインなど様々な技法、分野の作家さんのうちわが展示されています。
その展示がすばらしく、美術とは縁遠い人も十分楽しめる空間になっています。フランス、カナダ、アメリカ、マカオと海外からの参加もあり、結びつきの広さと確かさを感じます。
ギャラリー白川のうちわ展ギャラリー白川のうちわ展
思い切り飛んでいる作品が日本画の作家さんとか、鮮やかにひまわりを描いたうちわはフレスコ画など、新鮮な驚きが続きます。
「普段は四角なキャンバスと向き合ったいるので、うちわのように丸いなかに描くの難しい」そうです。夏の風物として、普通の制作とは違って楽しんで描いているのかと思ったのですが、そんなものではなく苦労し、一心につくり上げるものでした。
「夏だからこの時期はうちわ、という意図でやっているのではありません。江戸時代に発展した、身近にある道具をアートにして楽しむことを掘り下げていってほしいと思うからです」と話されました。
もちろん、夏の季節感としてうちわを楽しむことはすてきなことです。そのことを十分含んだうえで、池田さんの現代アートうちわ展には、美術・作家・画廊というもに対する、季節の楽しみだけではない、もっと強い意思が伝わってきました。

39年のその先へ、できること

ギャラリー白川
バブル後の激変に備えて新たなスタートをきり、歩んでいましたが、コロナ禍という世界中が巻き込まれている思いもかけない事態が続いています。ギャラリーへ足を運ぶ人もぐんと減ったそうです。そのようななかで池田さんはデジタルでの発信を充実させています。
ユーチューブでの配信は、作家の制作風景と作品が映し出され、娘さんが弾くピアノが想像をふくらませ、ひとつの映像作品として見ごたえがあります。
ギャラリー白川のYoutubeチャンネル
池田さんが「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」を著してから4年たちました。池田さんは、コロナになってから人の行動パターンや暮らし方が変わったと実感しています。
外で過ごすことが少なくなり、みんな家でゆっくりする方向になっています。そのようななかで、アートというものをどうやって広げていくのか。池田さんは、いつも「これまでと同じことではなく、ここでできることは何か」をいつも考えています。
ギャラリー白川のうちわ展
今回のような、ギャラリーとアートとの偶然の出会いを必然にする努力を続けています。「偶然を必然に」とはジョン・ケージの言葉なのだそうですが、これは今、アートの世界に限らずどんなところ、職業にも通じることだと思います。「アートや作家さんとの出会う機会を工夫し、支える人をもっと増やすこと」が必要です。
作品を求める人がいて作品が売れて、画廊も継続できる環境やシステム的なことが必要なのだと思います。アートの世界へのとびらはオープンになっています。まずは一歩入って作品と出会うことで観る楽しさ、豊かさを感じてみたいと思います。
ギャラリー白川では、現代アートうちわ展の後にも、企画展が続きます。ぜひホームページ等でチェックしてみてださい。

 

ギャラリー白川
京都市東山区祇園下河原上弁天町430-1
営業時間 12:00~18:00
第17回現代アートうちわ展 7月24日まで開催

西国街道に アートと暮らしの新しい風

多くの人が行き交った歴史の道、西国街道に新しい風が吹いています。長い間空き家だった建物が縁あって、多くの作家さんが参加して改装し、自由な表現と人がつながるギャラリーに生まれ変わりました。アートとていねいな暮らしの提案を共有する空間です。
wind fall(ウインドフォール)という名前には「風の贈り物が届くように、思いがけない幸運が訪れますように」という願いがこめられています。訪れる人々に「日々是好日」と感じられる、心が解き放されるひと時を贈ってくれます。
地域にとけ込み、5月に満1年を迎えたウインドフォールに2年目からはどんな風の贈り物が届くのか。最初の企画展で楽しい風を受けて来けながら3人の織姫さんにそれぞれの作品と「さをり織り」の魅力について話をお聞きしました。

「3人の織姫による45展」とは

wind fall
天井から吊るされた虹のかけ橋は、今回の企画展に参加した作家三人の合作です。

三人三様の個性が発揮された作品に、光と風が自在に通りぬけ、気持ちが軽やかにやさしくなります。「45展」とは「よんじゅうごてん」と読み、100点じゃなくてもいいし、50点でなくてもいい。力をぬいて自分らしくやっていけばいいという思い、見に来てくれる人たちへのメッセージです。

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来場者と談笑する菊本さん(左)

「それと私たち3人とも45歳なのです」と笑いながら話してくれたのは菊本凡子(なみこ)さんです。若いという年齢ではないけれど高齢ではない、微妙な年齢だけれど、まだまだ体力も気力もある45歳の年に「50歳までの5年間を元気に意欲的に取り組んで、50歳からの人生をまた新しく始めていこう」と企画したと続けました。
広島県で活動する本木ナツコさんに展示会を提案した1年前、ちょうどウインドフォールがオープンし、会場はここと決めて準備を始めました。そこへ築山泰美さんに加わってもらい「強い個性と個性の二人に、やさしくさわやかな風が通った」展示会になりました。
会場の中央に高くかけられた作品は、織りで表現した3人それぞれの虹のかけ橋です。天井の高いこの建物の特徴が生きています。
wind fall
その虹のもとにたたずんでいるのは乙女の夢「ガーデンパーティにまとうドレス」です。3着のドレスも本当によく個性が表れています。難しい技術の苦労のあとを感じさせない、感性がきらめくドレス、強い個性の唯一無二の自分自身を伸び伸び表現したどれす、清楚で可憐、気品あるドレス。ぜひ、自然の風を受けてパーティや結婚式に着てほしいと思いました。

さをり織りの世界観と可能性

wind fall
45展は「さをり織り」の魅力を広く知ってもらう機会にもなっています。普段、ポーチやバッグ、マフラーなど小物や雑貨で、さをり織りを目にした人は多いと思いますが、今回の企画は「使える」ことに加えて「アート」としての出会いをしてもらう、よい機会になっていると感じました。
「さをり織り」は50年ほど前に「技術の決まり事にとらわれず、自己表現として自由に織る」織物として始められました。「キズをデザイン」としてとらえ、年齢や経験、手先の器用さなどを超えて多くの人が楽しめることがこれまでの織物の世界にはなかった大きなことでした。

wind fall
こんな大胆な作品も

菊本さんは、ある時、展示を見た人から「さをり織りは人生模様」と表現された記憶が鮮烈に残っていると語ります。「織り出したら元へもどれない。前へ進むのみ。でも、その時は思ってもみなかったキズが、できあがってみたら「これ、けっこういけてる」と思う。このようにポジティブとらえると、少し重かった気分も軽くなり、さをり織が持っている力と言えます。
「これまでとは違う作品を作らなくては」とか「がんばって織らなくては」という苦しい気持の時は思うように織り進めることができないと聞きました。そういった気持ちにとらわれず、楽しく織っている時はあっという間に一日がたち、作品できあがっていることもよくあるそうです。
wind fall
まさに「自由に楽しく」こそ、さをり織りであり、アートとしての魅力なのだと実感しました。高い天井を生かした立体的な展示は「布」という平面の作品の新たな魅力を発見することができます。作品が、開け放したドアや窓から入って来る風の通り道になって、その時々でいろいろな表情を見せてくれます。作品と自然が呼応するギャラリーです。

建物と文化・アートでまちの循環を

wind fall
3人の作り手さんが語るさをり織の人模様もとても興味深いものがありました。
「作品をふり返ってみると、ここを織っている時は、こんな気持ちだったのだなあと、いとおしく思う」「仕事が忙しかったこともあり、しばらく遠去かっていた時もあったけれど、再開して改めて、さをり織の魅力を感じて続けたいと思った」と、それぞれの思いを話してくれました。

wind fall
菊本さんの教え子のユリちゃん

期間中は織り機が2台置いてあり、ワークショップ的に織り体験をしてもらっています。
菊本さんが指導されているユリちゃんもおかあさんと一緒に来て、本当に楽しそうに、巧みに筬を動かして織っていました。身に付けているすてきな巻きスカートは自分で織って仕立てまでされたとのこと。とてもよく似合っています。
wind fall
またギャラリーの外観は室外機まで「作品展示」のようです。スマートフォンで撮影する人もちらほら見かけます。西国街道の景観つくりにも一役かっています。カウンターと奥にもカフェスペースがあり「ていねいな暮らし」の提案である飲み物や、食事をゆっくり楽しむことができます。
wind fall
菊本さんは「この展示会へ遠くは広島、宝塚、大阪、地元の方と思いがけず多くのみなさんに来ていただています。わざわざ足を運んでいただいたことに、普段忘れがちですが、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と語ります。
この「京のさんぽ道」ではこれまで、西国街道の、元旅籠であった富永屋、中小路家、長岡京市の中野邸とご紹介してきました。今回ギャラリーという地元の人と作家を結ぶよりどころが誕生したのはすばらしいことだと思います。建物が人によって新しい役割を得たのて、文化やアートがまちの循環をになっていくのだと思います。多くの人の気持ちの居場所になりますようにと願っています。

 

Wind fall GALLERY ウインドフォール ギャラリー
京都府向日市寺戸町東ノ段9-14
次回企画:6月17日~28日「夏のアートなTシャツ展」

自分で決めた道 自然体でぶれない農業

三月の声を聞き、暦は土の中の虫も目覚めて動き始める啓蟄を迎えます。
京都の西南部、長岡京市は京都市内・大阪のベッドタウンとして人口が増加したまちですが、西山の緑と住宅地に続く田んぼや畑が広がる自然を身近に感じることができるまちです。
農家の直売所も点在し、季節ごとに新鮮な野菜が並びます。長岡京市の特産、地元では「花菜(はなな)」と呼ぶ菜の花の収穫はそろそろ終わりの頃となり、もうすぐ、全国に誇るブランド品、京筍の出番となります。
長岡京の菜の花畑
化学肥料を使わずに手をかけて育てた野菜やお米が喜ばれている直売所へ、しばらくごぶさたしていましたが、最近またちょくちょく足を運んでいます。それぞれの野菜の特徴や料理のヒントなど次から次へとくり出される興味深い話に、訪ねた時はいつも、つい長居になります。

めずらしいものがある楽しい直売所

山本農園の直売所
山本農園の直売所は、西山の名刹「光明寺」へ向かう、田畑がゆるやかに広がる場所にあります。道路側の側面に大きく「低農薬、有機栽培 季節の野菜 お米販売しています」と書いてあります。通称おとうさんは「そやけど、車やと全然気がつかんと通り過ぎていく」と、さほど残念そうでもなく、おっとりした口ぶりです。それでも、車や自転車、散歩の途中の人など次々とお客さんがやって来ます。
山本農園
すべてその日の朝に収穫された、朝露にしっとりぬれている野菜を、袋詰めをしながら並べていきます。見るからに元気いっぱいの野菜です。5キロもあるはくさいの迫力、切り口のみずみずしさが想像できるずんぐりむっくりした大根の名は「三太郎」。みどりが鮮やかな春菊、養分たっぷりの畑の土がついた里芋やえび芋など、季節の顔がそろっています。
そのなかにちょくちょく、めずらしい野菜や時には果物も並びます。「これは何ですか」と聞くと、少しうれしそうに説明してくれます。
山本農園の黄金カブ
最近目についたものは、中まで黄色の「黄金かぶ」です。中まで黄色なので、サラダにしても色がきれいで、しかもほかの野菜に色が移らないと教えてくれました。炊いてもいいということですので、菜の花と一緒にオリーブオイルで焼くと彩りもきれいでおいしそうですそして「中まで緑色の大根もあるよ」と裏の畑から抜いて来てくれました。成長するにしたがって、どんどん土から上へ出ていくので太陽の光を浴びて緑色になり、皮も固くしっかりした食感になるそうです。「直売所をやっていたら、1シーズンにひとつはめずらしいものを置きたいと思う」ので、種や苗を注文する時に、何か変わったもんはないかとさがすそうです。

山本農園のフェイジョア
パイナップルやイチゴなどをミックスしたような風味がするフェイジョア

定番の季節の野菜と一緒にめずらしい野菜を置いて、お客さんにも喜んでほしいという気持を感じます。秋には「フェイジョア」というとても香りの高いあまずっぱい果物がありました。5月にはピンクのかわいい花が咲き、やはり香りもよく、イタリアンレストランのシェフは、食用花に使っているそうです。ほとんどの人が普通に売られているピーナツしか知らない「落花生」も評判になりました。殻付きのまま塩ゆでにして、まだ温かいうちに食べるおいしさを教えてもらいました。「つくる側もお客さんも楽しくなる」直売所です。

子どもたちに食べてもらえるお米野菜

山本農園の「おとうさん」
大きな芋を手に笑顔で話す「おとうさん」

おとうさんが、建築会社で技術系のサラリーマンから実家の農業を専業にして26年たちました。アレルギー体質の子どもたちにも、安心しておいしく食べてもらえるお米や野菜作りを大切にしています。小学生のお孫さんは「おじいちゃんの作った野菜」はよく食べてくれるそうです。他でとれた野菜は、これはおじいちゃんのと違うとわかると聞いて、普段の食生活の積み重ねの大きさを感じました。
山本農園の大根
「子どもの舌は正直。おとなのようにお世辞を言ったり知識の刷り込みがないから、そのまんま」という言葉には私たち買う側にとっても大切なことが含まれています。田んぼは、さらに自然豊かで水がきれいな美山町にあります。通うのは大変だと思いますが「化学肥料を使わず、減農薬で育てたおいしいお米を作る」という思いで美山へ通い続けています。
そして「うちのお米や野菜つくりの考えに賛同してくれる人がお客さんになり、常連さんになってくれる」という語り口に、26年間つちかってきた確かで静かな自信が感じられます。「来る者は拒まず、去る者は追わず」とほがらかです。
そして「野菜の説明でも、押しつけに感じることになるかもしれないから、これはおいしいというようなことは言わない。たとえば、えび芋なら皮をむく時に手がかゆくならないとかヒントになることに止めておいたほうがいい」という考え方やお客さんとの間合いは、見積りから現場、掃除までやったという建築会社での経験も生かされています。そして「お米も野菜も手をかければかけるほど、ちゃんとこたえてくれる。子どもと一緒。手をかけすぎてもだめやけど、それぞれの特性を生かして育てることが大事」と続けました。経験豊かな人の含蓄のある言葉です。

寿命が来るまで精いっぱい好きなことを

山本農園のおとうさんとおかあさん
「前は正月以外ずっと直売所を開いていた。休むとかえって調子が悪い」そうです。健康管理をして体力を保ち、おいしいものをみんなに食べてもらえるようにと、いつも心がけています。「二人で一人前。ひとりではできないことも二人ならできる」という欠くことのできない大切な存在は「おかあさん」です。
「このあいだのえび芋の頭芋、びっくりするほど大きかったけど、炊いたら本当においしかったです」と伝えると、にこっと、うれしそうに「そやろ。ひと味ちがうやろ」というおとうさんの言葉に続いて「素揚げもおいしいよ。油が飛びそうなら片栗粉を付けて。揚げたてに塩をぱらっと振って、あれば青のりをちょっとかけると香りもいいしね」と教えてくれて二人の間合いが絶妙です。
長岡京市の山本農園に飾られた菜の花
農機具収納庫の直売所には、いつもさり気なく季節の野の花があり、心がなごみます。長岡京市内には、いくつも直売所があります。おとうさんは「それぞれが特色を出してやっていくことが大事」だと考えています。そして化学肥料を使わない減農薬の農業についても「無理をしない程度に、うちはうちの自然体で続けていく。自分でこれと決めた道をぶれないでやっているだけ」と気負いはありません。
ポポーという北アメリカ原産のめずらしい果樹を育てた時は、15本植えたのに、実が付いたのは1本だけという出来事にも「美山やったから目が行き届かんかったから」と原因をとらえ、前向きです。

「自分で一生懸命作った作物を納得する売り方をしたい」と考えて始めた直売所は、これからも私たちに、当たり前のように感じている毎日の食卓は、一年中、田んぼや畑に出て仕事を続ける人たちの存在があってこそという原点に立ち返らせてくれます。普段の暮らしが普通に送れるということの重みと、どれだけかけがえのないものなのかを思い、感謝する気持を忘れてはならないと感じています。
「どんなに寒くても植物は自分でわかっていて、3月になればちゃんと準備を始める」という言葉に励まされました。

 

山本農園
長岡京市 光明寺道と文化センター通り蓮ケ糸交差点西南角
営業時間 10:00~17:00頃(途中、昼食休憩あり)
定休日 水曜日

きっと行きつけになる 着物屋さん

みなさん、すこやかな新年をお迎えのことと思います。また、どのようなお正月風景のなかでお過ごしでしょうか。お正月は着物を着るいい機会ですね。
「着物は持っていないけれどいいなと思う」「家の古いたんすに入ったままの着物を着てみたい」「久しぶりに着てみようかな」また、おかあさんの若い頃のおさがり、おばあちゃんが縫ってくれたウール、市で手に入れたお気に入りなど、着物にまつわるそれぞれの思い出も大切にしながら「着たい気持ち」に応えてくれる着物屋さんがあります。「自由に、今、着る」ことを楽しみ、着物の世界を広がてくれる、頼れるお店が「燈織屋(ひおりや)」さんです。「燈」は着物好きの人の足元を照らすともしび、「織」は、着物にかかわる様々な人たちが糸のように交わり、一緒に布を織りなしていけますようにとの思いをこめて名付けられました。
その燈織屋店主の森島清香さんに話をお聞きしました。汲めども尽きず、湧き上あがるお話は切り上げることができないほどの楽しい時間でした。

自分のすきを基準にしたものたち

燈織屋店内
燈織屋で扱っている着物や帯はリサイクル品も、オリジナル商品もあります。リサイクルの着物は「古物商免許」を持つ森島さんが、自身の感性や「すき」を基準に仕入れしています。旧来の着物の柄の概念にしばられない、大胆でアート作品のようなデザインが特徴の銘仙やアンティーク、手仕事が静かな存在感を放つ友禅や刺繍の着物や帯など、そこに居合わすだけでわくわくしてきます。そのなかに「燈織屋オリジナル」商品が個性を発揮しながらも、他とぶつかることなく一つところに並んでいます。
燈織屋オリジナル帯ちよ
チョコレート好きの森島さんが企画・デザインした半幅帯と角帯シリーズ「ちよ」はチョコレートと、ながい年月を意味する「千代に八千代に」からとって「ちよ」に決めたそうです。色の説明も「ミルク多めな甘め」「ダークな苦め」など、伝え方もオリジナルです。
燈織屋オリジナル名古屋帯
もう一つのシリーズは、大好きなイラストレーターの作品をデザインしています。「線香花火のアイスティー」など、こちらも他にはない世界観をあらわしています。身に付けた人も周囲の人も楽しくする帯です。ほかにも、ころんとした形がほのぼのするガラスの針山、きりっと美しい縫製の袱紗、水引のアクセサリーなど、小物も魅力的です。これはどのように燈織屋へやってきたのか話していただきました。

積み重ねた経験と人との出会いが後ろ盾

燈織屋店主の森島清香さん
森島さんは、とても厳しかった和裁の専門学校、膨大な枚数をこなしていた着物のしみ抜きとクリーニング、手描友禅の各工程のプロに技術を教えていただいた友禅組合、販売に関わったアンティーク着物店など様々な経験をされてきました。
すべて順風満帆というわけではなかったそうですが、それも含め今の燈織屋のなかに生きていると感じます。
燈織屋和裁教室スペース
厳しい和裁の専門学校で、実技のスピードが追いつけない時、友だちが放課後に教えてくれたそうです。今、和裁教室をしていて、生徒さんがどこでつまずいているか、何がわからないかなど、自分がわからなかった経験があるから教えることができると語ります。きものの形、なりたちがわかるように、窓に貼った和裁教室の案内には、たとえば「袖なおし」ならどこの部分をなおすのかが、イラストを使って説明されています。商品に付けられたサイズ表示や、「洗濯済」などのタグも親切です。
リサイクル着物の販売では、そこへやってくるお客さんは正統派だけでなく、和洋折衷の自由な着方を楽しまれている方が多く、普通の着物の着方とは全然ちがうけれど「着方は自由なんだ」と感じたそうです。違いをみて、否定から入らずに発見につなげる柔軟性と軽やかさです。それはとても大切なことだと感じました。
燈織屋の水引アクセサリー燈織屋の数寄屋袋
水引アクセサリーは以前住んでいた新潟県長岡市の和装レンタル店「縁(えにし)」さんの燈織屋オリジナル配色、袱紗は和裁の専門学校時代の友だちとの共同制作とのことです。表と内側の古布の組み合わせなど、すべておまかせですが、縫製はもちろん、センスのある美しいパッケージは「自分に贈りたい」と思います。帯のデザインのもとになった「満月珈琲店」さんの世界にまぎれこんでみたい気持ちになります。
染めやしみ抜き、洗いも信頼できる職方です。それぞれの分野の仕事の人々が専門の技術を生かし、また新たな一面を見せて燈織屋のやりたい事を実現させています。その「織」の重なりが、お店に来てくれる人たちの足元を一層明るくする「燈」になっていると感じます。

着物屋さんですが中身は変化進化しています

燈織屋外観
お店の販売日は週2日、和裁教室は週3日行われています。ゆかたを縫っている生徒さんたちで、縫いあがったら近くにある国登録有形文化財の建物「なかの邸」へ食事に行くのを楽しみにして、そのゴールをめざしてがんばっていたのですが、コロナでやむなく中止になってしまいました。
なかの邸では今、藍を育て、そのワークショップを行っています。森島さんも参加し、手始めに半幅帯を染める目標を掲げて、生徒さんと一緒に楽しみにしています。このようにご近所さんとつながりができ、それが次の新しい試みが生まれることを期待できそうです。
燈織屋内装
燈織屋の店内は上手に内装されていて、青い壁の色が印象的です。この色にする時はだいぶ冒険だったそうですが、個性的な色でありながら、ずっといても疲れない色です。和裁の仕立台を前にしても違和感がありません。空間デザインはすべてご主人がされたそうです。森島さんも全面的に信頼し、いい内装になったと言われていました。めざすもの、やりたいことが共有されているからでしょう。
燈織屋の針山
「ガラスの透明感を大切にしたかった」という針山や、果物をイメージしたおいしそうできれいな帯留め、かんざしなどガラスの作品も手がけておられます。ガラスは硬質、冷たい、鋭いイメージがありますが、ご主人の作るガラスは、やさしく、やわらかささえ感じます。帯の柄や商品の台紙は、森島さんが色鉛筆で描いたイラストをご主人がパソコンに取りこんで完成させているそうです。
燈織屋ディスプレイ燈織屋着物
森島さんは店内のディスプレイや商品、ワークショップなども含め、もっと季節感のある店内にして、季節の移ろいを感じ楽しんでもらえるようにしたいと話していました。水引ピアスの台紙に記された「いろ かさなる 織りなす 季節」の清香さん作のコピーがすてきです。伺った時はウィンドウには、すがすがしい新春の気分の、白地の着物に梅の花の染帯がディスプレイされていました。このウィンドウを楽しみにして通る人もいることでしょう。お店には梅の意匠の着物が他にも集められていました。凛とした花の姿に香りも漂ってくるようです。
燈織屋店主
森島さんは、きちんとした場に着る時はそれなりのきちんとした礼にかなった着方を大切にしています。そして、それ以外、普段のケとハレのあいだにある「ケのなかのハレ」を楽しんで、と言っています。普段の暮らしのなかにこそ、楽しみや喜びを見つけよう、そうやって着物を自由に着る楽しみを多くの人に知ってほしいと森島さんは願っています。
今の季節のヒットは「コーデュロイの羽織」です。思ったよりずっと軽くあたたかい。しかもサイズや色も選べるセミオーダーです。なくて困っている、あったらいいな、をかなえてくれるうれしいお店です。新しい一年が始まりました。着物を着る楽しさを多くの人と分かち合えるよう願っています。

 

燈織屋(ひおりや)
長岡京市友岡3丁目9-3
営業時間 11:00~18:00(販売及び仕立てその他の相談)
営業日 金曜、日曜日

世界に広がれ 京太のはちみつ

コロナの影響でぽっかり時間が空いた日々に、京都大学農学部4年生の3人は「全国各地の農家さんのお手伝いをする旅」に出ました。
そこには自然にあらがわず、様々なことをみずからの力と技術でこなしていく本当に豊かな暮らしぶりと、そこに住む人々の「かっこいい」姿がありました。お米作り、梅の栽培、養蜂や炭焼き等々の達人や師匠となる人々とめぐり合い、二ホンミツバチの養蜂で「百姓として生きていく」夢の一歩を踏み出しました。
4月から始めて10月には、市場に出回ることがきわめて少ない「幻のはちみつ」の販売にまで漕ぎつけました。名付けて「京太のはちみつ」です。
農家さんの生き方に敬意と共感をもち可能性を信じて「百姓」への道を歩む、京太のはちみつ代表の大島武生さん、副代表の三宅新さんと伊藤佑真さんに二ホンミツバチのこと、これからの夢について語っていただきました。巣箱を囲んでの愉快なひと時でした。

養蜂を始めたわけと1パーセントの贅沢

ニホンミツバチ
市販されているはちみつの容器には「国産」「中国産」などと記載されていますが、そもそも国産とは何か、それは二ホンミツバチのはちみつではないのかなど、はじめて知ったことが多くありました。農林水産省の調査によると日本のはちみつ自給率はわずか6パーセント、そのなかで二ホンミツバチが占める割合はたったの1パーセントです。
昔から日本の山野にいた在来種の二ホンミツバチは、人間に育てられるようになっても野生の気質が抜けず、用意した巣箱も気に入らなければ引っ越してしまうという奔放さに付き合わなければなりません。セイヨウミツバチに比べ体は小さく、集める蜜の量も10分の1ほどに過ぎません。養蜂には「不向き」と言える二ホンミツバチですが、その苦労を帳消しにするほどのすばらしいはちみつをつくってくれるのです。

左から大島さん、三宅さん、伊藤さん

三人は口を揃えて、はじめて二ホンミツバチのはちみつを食べた時の味わいと香りは衝撃的だったと言います。「とにかく本当においしい」これが原点になりました。
調べていくうちに、巣箱は自分たちで作れそうなこと、とても希少なものであることがわかりました。受粉の役目をしてくれるミツバチは農家にとっても大切な存在です。将来農業をやってみようと思っている三人にとって仲間になります。かくして、貴重な1パーセントのはちみつを一人でも多くの人に知ってもらい届けるために京太のはちみつプロジェクトが始動し、養蜂を開始しました。

無添加・非加熱の百花蜜を届けるために

京太のはちみつ
二ホンミツバチが野山に咲く複数の花の蜜を集めてできたおいしい百花蜜も、加熱すると香りや味わいや多くの種類が含まれている栄養素が損なわれてしまいます。市販のはちみつのほとんどは熱処理が行われています。採蜜のタイミングや工程の効率をよくすることができるそうです。
京太のはちみつはミツバチや野山の自然のリズムに合わせて、ゆっくり時間をかけて熟成された蜜をいただき、熱処理も添加物も無しの、香りや花粉も味わいを深める「生」のままのはちみつです。
8月は5㎏、9月は2か所で合計10㎏採蜜し、10月に販売を開始しました。採取した巣から自然に垂れてくる蜜を集めた「垂れ蜜」と、垂れ蜜をとった後に巣に圧力をかけて絞った「圧搾蜜」の2種類です。趣味の養蜂ではなく、自分たちが生産したものを世の中に問い、売るというチャレンジです。
京太のはちみつ秋の垂れ密
大島さんは、高校の修学旅行で保津川下りの「船頭体験」をしたことから、すっかり京都に魅せられ、今は「若手船頭」とラフティングガイドとしてアルバイトをしています。この長年のご縁から、商品化された最初のはちみつを、保津川下りの待合所の売店に置いてもらい、130グラム3000円という高額にもかかわらず見事完売となりました。「なかなか手に入らないから」と2個、3個まとめて買ったお客さんもあったそうです。

巣箱の手入れをする三宅さん(左)と大島さん(右)

三宅さんは愛媛県で、お金のやりとりなしで「食事・宿泊場所」と、「力と知識・経験」を交換し、有機農業や環境に負荷をかけない暮らし方などについて知見を深め交流するWWOOF(ウーフ)に初参加し、その経験を現在の活動に生かしています。二人ともバトミントンが得意でその技を、二ホンミツバチを狙って襲来するスズメバチ撃退に発揮しています。

巣箱にはスズメバチ除けの赤いネットが付けられています。

10月からメンバー入りした伊藤さんは、ミツバチより後輩の一番の新参者の序列となっていますが、農業サークルに所属し、全国各地で農家の手伝いをしてきたバイク旅の愛好家です。ホームページやSNSでの発信を一手に引き受けて活躍しています。スズメバチの群れを追い払う、大島さんと三宅さんの目にもとまらぬ速さのラケット技法に感嘆していたら、そこで出くわしたセイヨウミツバチに刺されて大変な目に合ったそうですが、それにもひるまず巣箱の様子を見に来ています。
三人の二ホンミツバチとの付き合いは始まったばかり。まだまだ未知なるミツバチの世界の探求は続きます。

海外にも広げたい二ホンミツバチのはちみつ

京太のはちみつ 亀岡の巣箱
紅葉を楽しんだ野山にも枯れ色が目立つようになった12月はじめ、亀岡と京大付近に設置された巣箱の見学をさせてもらいました。
亀岡の巣箱は静かな山里にあります。ご自身も荒れた竹林整備の活動をされ、二ホンミツバチの養蜂を行っている、真福寺の満林晃典ご住職の厚意で、境内地に続く小高い場所に巣箱が置かれています。少し前まで一面にコスモスが咲いていた所もその先の竹林も、みんなで協力して整備されたそうで、手を入れた自然のよさがよみがっています。周囲の豊かな自然は百花蜜をつくる二ホンミツバチのすみかに最適です。

真福寺のご住職も一緒に様子を見に来られていました。

一週間様子を見に来てなかったそうですが安泰のようでした。これからの寒さ対策としてシートでおおうかどうか検討中ということです。スズメバチの侵入を防ぐ網も張ってありました。「養蜂は野菜や果物のように手をかけなくてもほったらかしておいてもいいから」という話もされていましたが、どうしてどうして、よい蜜をとれるようにするには考えること、やっておかないといけないことが多くあると感じました。
また、あろうことか大家さんであるご住職の巣箱より、店子の京太の巣箱のほうが蜜がたくさん取れたそうです。来年はどうか両方の巣箱にたくさんの蜜が集まりますようにと祈る気持ちです。
京太のはちみつ 京大の巣箱
もう一つの巣箱は京大の近くにあります。通りから構内のイチョウやクスノキの木立が見え「大学のまち」の景観を形づくっています。付近に大学付属の農場や植物園もあるため、まちなかであっても自然度が高く、京太の二ホンミツバチたちにとっても良い環境です。スズメバチとガに攻撃され、ひと群れは壊滅してしまったそうですが、残った巣箱の中は異常なしでした。
ニホンミツバチ
今、二ホンミツバチに限らずミツバチの減少が各地で報告されています。原因の一つとして、ネオニコチノイド系の農薬の影響が指摘されています。二ホンミツバチは農薬にとても弱いので、京太でも巣箱の設置には細心の注意を払っています。作物にとって欠くことのできないミツバチなど小さな生き物との共生の大切さが今また問い直されています。

京太のはちみつを海外へ広げようという構想が考えられています。自然がくれた贈り物のはちみつとプロジェクトの取り組みは、世界中で受け入れられるものだと感じました。
女王バチは2~3年、働きバチは2~3か月しか生きられないという、命をかけてただ花の蜜を集めるだけの一生に哀切さとともに、尊さも感じました。それはミツバチのことを愉快に生き生き話す三人の、農業や自然との向き合い方や「恵みをいただく」という謙虚な気持を感じたからかもしれません。
今までにつながりのある、お世話になったみなさんも、これからの展開を楽しみにしていると思います。はちみつの採取は春までお休みですが、ぜひホームページやSNSをチェックしていただいて現在進行中の京太のはちみつの活動に注目してください。そして少しでも自然の営みを感じられる暮らし方について、考えてみたいと思います。

 

京太のはちみつ htpps//forjyapan.kyotahoney.com

京都と世界をむすぶ 京町家

京都の中心部、新町通り界隈は、今も和装関係の企業や伝統的な建築の家も見られる、京都らしいたたずまいを感じる界隈です。そのなかに、目立つ看板などはないものの、通りすがりに、美しい色調や明るく元気な色にあふれた店内が見えます。洋裁指導によって開発途上国の女性を支援する「NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村」です。
日本の素晴らしい技で染め、織りあげられた、天然素材の着物や帯を全国から寄贈してもらい、ラオスやヨルダン、ルワンダなどの国々の女性たちが仕立てた洋服やバッグ、小物を販売しています。繰り返し訪れる人の多いアンテナショップ三田村の魅力を、販売品と人、そして町家とともにご紹介します。

「甦」のロゴから受け取るメッセージ

NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村
アフリカを思わせる鮮やかな色合いと大胆な柄の洋服やバッグ、絹の風合いや着物の色柄を上手に生かしたワンピースやジャケット、ブラウスなど、専門家のデザインとしっかりした縫製の指導によって魅力的な製品が誕生しています。手に取ったり、試着してみたりと、お客さんも楽しそうです。
「よう似おうてますよ」「顔移りもよろしいね」お店で応対するのはボランティアスタッフのみなさんです。親しいご近所に来たような和やかな雰囲気に、はじめてのお客さんも「似合っているかどうか」など、気軽にアドバイスや意見を求めることができます。
ギテンゲ
個性的なアフリカのプリントは、数年前から注目され始めましたが、リ・ボーン京都では2013年からルワンダでのプロジェクトを開始し、製品として手掛けています。「ギテンゲ」と呼ばれるアフリカのプリントは京都のファッションを元気づけています。
また、着物の下に着る長襦袢は多くの場合、薄色で光沢のある生地で作られていますが、洋服にリメイクするのは難しい素材です。それが「絹のパジャマ」として完成していました。気温の高い期間が長くなっているこの頃「昼間は洗いざらしのTシャツを着ていても、夜は贅沢にシルク」とは、購入された方の笑い話です。

なんでも挟めるかわいいクリップ
なんでも挟めるかわいいクリップ

ねこ好きにはたまらないその名も秀逸なお細工物のねこ「はさんでニャンコ」や、ラオスからやって来た恐竜の集団など、楽しさも次々発見できます。
着物をほどき、洗い、素材として使えるようにするには大変な手間がかかりますが、ボランティアさんによって、創作意欲をかき立てる布として送られます。柿渋塗りの壁紙張りや、姿見のまわりの壁紙の破れを見えないようにする布おおいも、着物地ののれんもすべてボランティアさんのお手製と聞き、その底力に驚きました。

製品には「甦」のロゴがつけられています。愛着をもって着たもの、あるいは着なかったけれど親御さんが用意してくれた愛情がこもった着物など、たんすに眠っていた着物や帯は人を介して、新しいかたちによみがえります。作る人や買ってくれた人、縁あって出会えたこと。その喜びや大切さを「甦」のひと文字が伝えています。

お茶目で、はっきり物申す看板娘


アンテナショップの京町家は、もと「三田村金物店」を営み、ご家族の住まいでした。
ショップを取り仕切るのは昭和三年生まれの三田村るい子さんです。今年で満93歳になられました。お店に出てお客さんの質問に答えたり、時にはボランティアさんに「それ違う」と厳しいひと声をかけたりしっかり店内を切りまわしています。

三田村さん
リ・ボーンの製品を着た三田村さん(左)と購入した着物を着てご来店のお客さん

「昭和3年生まれ」と聞いて、年齢としっかり加減にだれもが驚きますが「町内で一番古い」「もう年やし口だけ元気」などと言ってみんなを笑わせ、その場を明るくします。「おかあさんは間違いなく、ここの看板娘」とボランティアさんが合いの手を入れて、また大笑いしています。
金物店は、80歳になるまで続けました。長年「三田村金物店」を中京区で続けてきたこの経験が、今も力を発揮していると感じます。人の気持ちを逸らさない応対、鮮明な記憶力は感心するばかりです。

祇園祭の山鉾、八幡山
祇園祭の山鉾、八幡山

お店のある新町通りは、祇園祭の鉾と山がたち三条町は「八幡山」の地元です。取材に伺った日は後祭り期間にあたり、巡行は中止になったものの、お祭特有の華やぎがありました。町内の家々には、八幡山の向かい合った鳩を染め抜いた幔幕が掛けられ、伝統ある商家の並ぶ中京の町らしい風情がありました。
三田村さんのお家では毎年、宵山の日に親戚や知り合いを招待していたとのこと。おくどさんで蒸すお赤飯は「小豆が腹切りせんように気を使った。今でもお釜さんもせいろも残してある」そうです。時には知らない人も交じっていたけれど、同じようにご馳走したという、なんとも鷹揚な良い時代だったのだと思いました。
巡行は二階の窓の戸を外して観覧します。鉾に乗っている人と同じ高さになり、新町通りは鉾がやっと通れる道幅なので、それは迫力があります。
饅頭袱紗
店内にあったとても手のこんだ袱紗は「饅頭袱紗」と言って、お嫁さんがご近所への挨拶に使う紅白の薯蕷饅頭に掛けるものなのだそうです。今はそのような仕来りは京都といえども、されるお家は本当に少ないようですが、とても雅やかな習わしに思えます。
NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村の京町家

京町家特有の台所
京町家特有の台所

三田村家は、商家として建てられた典型的な京町家です。「店の間」はそのまま畳敷きで残し「座売り」的な感じになっています。上がり框に腰かけて話すのも「町家体験」のような雰囲気です。店の奥は流しやおくどさんが並ぶ走り庭があり、中庭、そして土蔵も残っています。
ここへ来ると実際に住み暮らしている三田村のおかあさんやボランティアさんに、京都の奥にある習わしや暮らしの文化など、いろいろなことを教えてもらえます。リ・ボーン京都アンテナショップ三田村は、アジアやアフリカから届く製品との出会いとともに、京都の暮らしの文化を伝えています。

かたちあるものを最後まで使い切る心を世界で共有


リ・ボーン京都では、寄贈された着物や帯から新しい商品を生み出すとともに「そのまま着て生かす」ことにも取り組んでいます。
寄贈された着物や帯のなかには、今では手に入れることは難しい、例えば非常に高価であったり、すでに技術が途絶えてしまったものもあります。着物を着たいという人も増えているように思います。染や織の知識が豊富なボランティアさんもいて、新たなきものを着る層の開拓にもつながりそうです。
リメイクうちわ
またリメイクに使った後のはぎれは工夫して様々な小物を作ります。ポーチや布玉のネックレス、マスク、今や定番として多くの人が楽しみにしている、うちわなどです。うちわは細い竹骨を地紙(布)に張り、柄を差し込んだ差し柄が特徴の「京うちわ」です。使われている布は絽に草花や水を描いた季節感あふれる図柄や、「裏に凝る」日本の美的センスやあそび心が楽しい個性ある羽織の裏地「羽裏」など、ここぞという見事な絵柄の取り方で張られいます。

「始末の京都」と言われますが、食材でも着るものでも、ものの命を最後まで使い切る、全うさせる暮らし方は、今こそ求められている考え方であり暮らし方です。それは世界で共有することができます。NPO法人リ・ボーン京都のアンテナショップ三田村へ、足を運んでいただき、途上国の女性への自立支援や着物文化の発信にふれていただきたいと思います。

 

リ・ボーン京都アンテナショップ三田村
京都市中京区新町通三条下る三条町329
営業時間 12:30~16:30
定休日 土曜日、日曜日、月曜日、祝日

ようこそ 京町家のおもちゃ映画博物館へ 

大正から昭和の初め、日本映画の黄金期に、映画館で上映された後に切り売りされた35ミリフィルムをおもちゃ映画と言います。そのフィルムは、一般家庭でブリキ製のおもちゃの映写機を使って楽しまれたことから、この名前が付けられました。
なぜフィルムが切り売りされたのか、日本の映画や、映画のまち京都はどのような歴史を刻んできたのか。時代の変遷とともに捨てられたり、かえりみられることなく劣化し、消えゆくフィルムには、無声映画の全盛期に携わった人々の息遣いや熱い思いが込められています。この貴重なフィルムを救いたいと「おもちゃ映画ミュージアム」を設立し、運営を担う、代表の太田米男さんと奥様で理事の文代さんにお話を伺いました。

切り売りでわずかに残った貴重な無声映画

おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん
おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん

おもちゃ映画ミュージアムが収集・復元したフィルムは約900本にのぼり、200点以上の映写機やカメラなども展示されています。太田さんの収集品に加え、このミュージアムの存在を知り寄贈されたものもあります。
取材に伺った日、太田さんは映写機をきれいに磨いて調整されていました。寄贈されたフィルムや映写機はすべてていねいにチェックして、可能な限り修復しています。復元できたフィルムはデジタル化して寄贈してくださった方へ送りていねいに感謝の気持ちを伝え、つながりを深めています。
映写機とフィルム
映画が音声付きのトーキーの時代になると、無声映画のフィルムは乳剤を洗い流して新品フィルムとして再利用されたり、廃棄されるなどオリジナル映画のほとんどが失われてしまいました。上映後に切り売りされた「おもちゃ映画」は、時間にすると20秒、30秒から1分、3分という短いものですが、今となっては、映画の歴史を伝える数少なくかけがえのない資料となっています。
時代劇を中心にアニメーションや実写のニュース映像もあり、当時の様子が映し出された歴史の証人です。太田さんは「家に古いフィルムや映写機、パンフレットなど映画に関係するものがあれば、劣化してしまう前にぜひご連絡ください」と呼びかけています。
また、京都市広報局が1956(昭和31)年から1994(平成6)年まで製作し、映画館で上映されていた「京都ニュース」の救出にも取り組んでいます。社会や暮らし、文化、今は失われた景観など、時代を映す貴重な映像資料です。製作から60年以上経過し、劣化が進んでいるなか、保存と活用に力を注いでいます。
おもちゃ映画ミュージアムの蓄音機
ミュージアムでは、手回し式の映写機でおもちゃ映画を見たり、手回しの蓄音機でSPレコードを聞くことができます。カタカタカタという映写機の音とモノクロの映像の世界に、ゆっくりと身を置いて過ごしてみてください。

無声映画の輝き「活弁」の世界の企画展


日本映画は無声映画時代「活動写真弁士」略して活弁と呼ばれた人々の語りが入った形式ができあがったことが大きな特徴です。これは日本独自のスタイルであり、文楽や落語、講談など「語りもの」の芸を楽しむ文化が下地としてあったからと聞き、腑に落ちました。名調子で映画を盛り立て、人々を熱狂させ、全国で大勢の活弁士が活躍しました。人気を博した活弁士は、当時のポスターやチラシに名前が大きく載っています。

活動写真弁士の世界展
活動写真弁士の世界展

おもちゃ映画ミュージアムでは今、「活動写真弁士の世界展 第2期黄金時代」が開かれています。現在では10人足らずとなった現役活弁士の一人、片岡一郎さんが所蔵する無声映画時代のポスターやチラシ、出版物など多数のすばらしいコレクションが展示されています。詳細なリストと解説資料も用意された渾身の企画展です。
大胆なレイアウトや個性的で迫力のある書体など、大正から昭和の初期という時代の勢いと、仕事を手がけた人々のエネルギーが伝わってきます。映画はもちろん、印刷やデザイン、モードなど様々な視点から楽しめるとても興味深い展示です。映画の黎明期から一番輝いていた時代、映画に心血を注いだ人々の様子が浮かび上がってきます。

映画への思いが人をつなぎ明日をつくる場所

おもちゃ映画ミュージアムの外観
代表の太田さんは京都生まれの京都育ち。家は撮影所のあった太秦にも近く、子どもの頃から映画はいつも身近にありました。映画とかかわる日々のなかで、「映画は財産」として大切に修復と保存・管理がなされているアメリカやヨーロッパに比べて、極端に少ない日本映画の保存状況に危機感を覚え、2003年から「玩具映画プロジェクト」を立ち上げ、その後、映画の復元と保存に関するワークショップを毎年開催し、その地道な積み重ねのうえに「おもちゃ映画ミュージアム」を設立しました。
当時の忠臣蔵のポスター
開館は2015年5月、映画が誕生して120年、また日本映画の草創紀に大活躍した尾上松之助の生誕140年という記念すべき年でした。この開館を祝うかのように、偶然にも尾上松之助の作品「忠臣蔵」のフィルムが寄贈されたのです。それは9.5ミリの特殊な規格でしたが、上映できる映写機があり、映してみると再編集された1時間ほどの、ほぼ完全なフィルムだったそうです。おもちゃ映画ミュージアムは、古い映写機やフィルムの安心の地であり貴重なフィルムが多くの人と出会う新たな場となります。
おもちゃ映画ミュージアムの映写機
戦前に日本で作られた映画で、残っている作品は5パーセントほどしかないそうです。「日本でも外国でも評価されているのは、現在フィルムが残っている映画だけです。出演が1000本を超える尾上松之助や日本映画の黄金期を築いた阪東妻三郎、大河内伝次郎なども、残っている作品はきわめて少なく知られることがありません。どこかに残っているかもしれないそれらの作品を発掘して、監督や俳優たちの名誉回復をしてあげたいですね。尾上松之助も派手な演技ばかり言われていますが、社会福祉団体に寄付するなど社会的貢献をしたことの顕彰もね」と語る太田さんの言葉には、映画にかかわるすべての人に対する敬意がにじみ、心に残りました。
おもちゃ映画ミュージアムの天井おもちゃ映画ミュージアムの中
おもちゃ映画ミュージアムの建物は、もと友禅の型染の工場だったそうで、高い天井にりっぱな梁が通り、間口は狭く奥に深い町家づくりです。ここには映画を通してつながった人たちの協力のかたちがあちこちに見られます。屋根に掲げられた一枚板の鮮やかな勘亭流の看板は、その道の専門の職人さん、内部の壁に張った板の色は、長年映画の美術を担当している方が「展示するものが映えるように」と、ちょっと汚してよい風合いにしてくれました。新しい柱も既存の部分と違和感のないように塗られています。すてきなのれんは、文代さんのお姉さんの作です。
太田さんご夫妻
太田さんは「映画の復元と保存に取り組むという思いがあれば、応援してくれる人は必ず出てくると、思っていますと語ります。実際に次に引き継ぐべき後進も育っているとのことです。昨年からコロナ対策のため、意欲的な企画を中止または延期にせざるを得ませんでしたが、歩みを止めることなく今できることを考えて取り組んでおられます。
太田さんご夫妻は今後さらに、おもちゃ映画ミュージアムが、映画関係の人や、映画が好きな人、みんなが集まって来て情報交換したり、励まし合い、様々なワークショップもできる「映画の基地」となればと考えています。以前にこの空間を生かして、前進座の俳優さんによる「松本清張作品の朗読劇」や歌舞伎の隈取のワークショップなど魅力ある企画も実施されてきました。より多くの人にミュージアムに足を運んでもらい、映画の発掘と復元、そしてこの京町家の空間ともども、明日へと継続されますよう願っています。

 

おもちゃ映画ミュージアム
京都市中京区 壬生馬場町29-1
会館時間 10:30~17:00
休館日 月曜・火曜

清々しい青竹に感じる 新年を迎える喜び

門松や神社のしめ縄の青竹の色が新年にふさわしく、気持ちも改まります。成長が早く、地下でしっかり根を張る生命力の強い竹は、古くから縁起のよいものとされてきました。少し前までは暮らしのごく身近にあった竹について、京都の西、乙訓で茶道や華道、料理の道具をはじめインテリア、内装や建築資材など幅広く製造する「竹屋の六代目」東洋竹工代表 大塚正洋さんに話をお聞きし、新しい年を迎えることの大切さを思いました。

仕事や暮らしになじみ、根付いた日本の竹

東洋竹工
東洋竹工では門松や、初釜に使う青竹の蓋置や花入れ、料理に使う容器や箸、お正月飾りなど、新年用のあれこれの納品が終わり、目くるめく忙しさから、少しほっとした雰囲気が漂っています。その時々の新しい工夫やデザインを加えながら、新年に青竹を使う意味、改まった清々しさが伝える習わしを大切にしています。

現在、日本では孟宗竹、真竹、淡竹の3種類で竹全体の90%を占めています。孟宗竹はざる、かご、箸、また作物の支柱や稲はざ、鰹の一本釣りや海の中に沈めて魚を囲う生けすなど竹は、農業や漁業、建築資材など広範囲に使われてきました。日本古来種の真竹は編みやすく材質に優れているため、様々な竹工芸品が作られ、細く割りやすい淡竹は、茶筅に加工されています。また、竹製品はそれぞれの用途に合わせて、より丈夫で使いやすく工夫が続けられ、進化してきました。たとえばお茶の加工工程では、静電気の起きない竹の道具は非常に適していて、茶葉をふるう「通し」という作業に使う目の細かい竹の“ふるい”は、重要な品評会に出品するお茶の出来栄えにも影響するほどです。

東洋竹工の展示室
たくさんの竹製品が展示さてれている東洋竹工の展示室

縄文時代の遺跡から、漆を施したざるや、土に残った網目が発掘されているほど、竹は日本の風土に結びついて利用されてきました。竹の起源については、筍を収穫する孟宗竹は中国江南省あたりから鹿児島へ伝わったという説が有だと思うと、大塚さん。しかし「そのルートなら沖縄を通るはずだけれど、沖縄には孟宗竹はない」そうで、渡来したルート解明にも興味がわきます。またインドネシアやタイにも、日本の「かぐや姫」の物語に似た「竹から生まれ月へかえる」類の伝説があるそうです。東南アジアには竹の産地も多く、竹を加工する技術も伝承されているということで、大塚さんは「アジアは同じ民族だったのではないかと思う」と続けました。竹から広がる壮大なロマンの一端です。

竹林再生のボランティア活動の支え手

竹林整備
竹林の整備をされる大塚正洋さん(中)と健介さん(右)

産業構造や暮らし方の変化のなかで、竹を優れた資材として使う場面はめっきり減りました。また、京都の伝統野菜に指定されている「京たけのこ」の栽培も、後継者難もあり減少し、荒れた竹林の再生と保全は大きな課題となっています。
この京のさんぽ道「京都の竹林再生 幼竹がメンマに」でご紹介した任意団体で、竹林の環境整備と活用に取り組む「籔の傍」の活動に大塚さんも参加しています。地道な、そして創造的で楽しく、幅広い年代が参加する活動です。東洋竹工製造部長の高木稔さん、息子さんの健介さんも指導にあたるなど、竹の専門家としてのバックアップを続けています。向日市が整備した「竹の径」沿いに進められている伝統的構法による竹垣つくりにも、みんなで取り組んでいます。
今後は、このように景観保全や伝統の職人の技の継承に市民がかかわり、にない手となる流れが歓迎され、広がるのではないと感じます。
竹自動車
「竹は日本、日本の京都」を世界に知らしめたのは、エジソンがフィラメントの素材に八幡の真竹を使ったことです。大塚さんは大学や竹の研究者と一緒に、竹皮から繊維をとる開発に取り組んだり「竹自転車」や「竹自動車」の共同開発にも参画しました。
「世界に知られた京都の竹も、ぼうっとしていたら忘れられてしまう。100年以上前に積み上げてくれた遺産を食いつぶすことのないように」と、今も変わらず「竹の可能性」をいつも考えています。それは勿論簡単なことではないはずですが、「竹のことは一日話しても足らん」と笑う大塚さんの探求心が留まることはありません。

「もっと、おもしろく」をこれからも

羽田空港国際線ターミナル
竹のイルミネーションは国際線ターミナルに飾られ、海外の方をお出迎え

東洋竹工では、伝統の技術や乙訓産の竹の、素材としての質の良さにこだわりつつ、常に新しい出会いへのアンテナを張っています。東京の六本木ヒルズや羽田空港ターミナルのイルミネーション事業の仕事も手掛けました。

京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品
京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品

立体的にカットされた竹の花入れ
立体的にカットされた竹の花入れ

その時に照明デザイナーと知り合い、竹という素材の可能性やおもしろさを生かした製品が生まれました。竹を繊細に編み込んだ照明器具、竹を「三次元」にカットして竹の繊維の立体的な表情と曲線が美しい花入れ、竹の切り口を生かしたインテリアなど、竹の持ち味をこれまでにない形で生かした製品の数々です。

一人用の竹せいろ竹の盛り籠
太い孟宗竹の節に穴を開けた青竹の筒を見せてくれました。それは一人用の「せいろ」でした。大塚さんいわく「青竹の容器や箸を、1か月たっても青い色をそのまま保てるのは、板場の力」。個性的な盛り籠も料理人さんから注文されたもので「竹のことや食材のことを本当に知っている、力のある料理人が料理を盛って使いこなせる」という言葉はとても説得力がありました。
大塚さんは「竹の需要は今が一番縮こまっている時。20年たって竹の仕事があるか。次にどうするかを考えないといけない。」と語り「そういう意味では息子も、しんどい時に後継ぎになって苦労が多いと思う」と、息子さんを思いやる言葉も聞かれました。しかし、すぐに「竹という素材は応用がきく。素材から完成まで、一貫してできるのは竹」と続けました。

お正月用の花入れ
お正月用の花入れ

竹の用途が少なくなった今、竹と言う素材と用途がピタッと合うものはなかなか難しいそうですが、そのなかでふすまや障子の敷居の溝にはめ込んですべりをよくする建築材「竹すべり」は今も製造販売が続くロングセラー商品です。
東洋竹工の会社案内に書かれたキャッチコピーは「もっと、おもしろく」です。まん丸い竹は存在せず、節もそれぞれ違い同じものはありません。自然の素材を形にする難しさであり、そのおもしろさを引き出すことに作り手としての楽しさがあると言えます。伝統・現代・自然素材という要素を組み合わせる苦労から次の「おもしろい」が生まれると感じました。すっぱりと潔い青竹のたたずまいが、いっそう清々しく感じられる年の始めです。

 

東洋竹工株式会社
向日市寺戸町久々相13-2
営業時間 8:30~17:00
定休日 土・日曜、祝日

京印章の 1000年先をつくる

社内の書類、様々な手続きなど、はんこが必要な場面は多くあります。高校卒業の記念品として「はんこをもらった」という人も多いと思います。自分の印鑑を持つことは、おとなになった気持ちを促します。
行政手続きでの押印廃止案が発表され、メディアでも頻繁に取り上げられていますが、そのような騒がしさとは別に、印章(はんこ)は、長い歴史のなかで培われてきた技術と、崇高な文化を持っています。数センチの限られた面積のはんこに込められた作り手の思いと、その可能性について、府庁前のはんこやさん、河政印房の河合良彦さん、祥子さんに話をお聞きしました。

日本のはんこの源「京印章」

河政印房
府庁前に、大きく「はんこ」と書いた看板と「年賀状印刷」「お急ぎの実印、銀行印、認印すぐ彫ります」の張り紙も見えます。
はんこの代表的な文字は「篆書体」ですが、秦の始皇帝が決めたとされる「小篆」という書体、その後の漢の時代に「印篆」という印章に適した書体が生まれ、これが「京印章」の代表的な書体となったそうです。
金の落款
良彦さんは、このような歴史や印章全般についても、よく勉強されている「学究肌」の職人さんです。このように成り立ちの一端を聞いただけでも、はんこの奥深さを感じます。
「京印章」は、地域ブランドとして国から認定を受けています。平安時代からの伝統と技術を受け継いだ職人が京都でつくる印章を京印章と規定しています。

珍しい竹の根のはんこ
珍しい竹の根のはんこ

店内に様々な書体の「寿」の印を押した色紙が展示してありました。これは、良彦さんと祥子さんが所属する京都印章技能士会の取り組みで、100種類の寿を彫るというものです。色紙には妥協のない技術と、強く静かな心持ちがみなぎっています。来年には100種類に届く予定とのことで、京印章に新たな歴史が刻まれます。

尊重し合い刺激し合って、高みをめざす


河政印房は、良彦さんが三代目です。大学卒業後、地元の会社に就職しましたが、お父様が体調を崩されたことからサラリーマンとお店の二足のわらじの生活になりました。そして、残念なことにお父様が亡くなられ、決断の時は早く来てしまいました。その頃のはんこやさんは、注文を受けてそれを職人さんに発注する形態でしたので、良彦さんも、職人としての仕事を教えられたわけではなかったのです。しかし、せっかくここまで家族で守ってきた店を閉めるのはもったいないと、会社を退職して店を継ぎました。そして、外注して売るだけでは、はんこは、いつか消えてしまう、自分でもはんこを彫れるようになろうと決心して、職人さんに教えを乞う道を選びました。奥様の祥子さんは、結婚するまで歌劇のステージという、まったく違う世界で活躍されていましたが、職人の道を良彦さんと一緒に歩み始めたのでした。

苦労のあとを微塵も感じさせない、明るいお二人ですが、話し尽くせないほど様々なことがあったことと思います。祥子さんは時々「私たち本気やなあ。よし、本気や」と、お互いに確かめ、自分自身でも確認してきたと語ります。「大変苦労をされたと思いますが」という問いに「楽しかったのです。今も楽しいです。限られた面に、私なりの表現ができた時は本当にうれしいですし、もっと、もっと上手になろうと、いつも思います」と続けました。

はんこを彫るには、最初にお客様の好みや使用目的などに沿って、書体を決め、文字を入れるバランスなどデザインを考えます。次にそれを左右逆にした鏡文字にして、印材の面に筆で書いていきます。次は荒彫り、仕上げ、微調整という工程となります。手彫りの仕事は、見ているこちらも思わず息を詰めるほど、集中しての仕事です。その極小のスペースに広がる文字の深い世界に圧倒されました。彫りの技術以外にデザイン、書、印材など幅広い専門的な力が求められる仕事です。かたわらには、何本もの印刀が並んでいます。中には仕事を辞められた大先輩の職人さんから譲ってもらったものもあるそうで、とても大切にして手入れを怠りません。
はんこを掘る道具京もの認定工芸士の証
お二人はともに、国認定の一級印章彫刻技能士、京都府の京もの認定工芸士の資格があります。また、今年の10月には、大阪府技能競技大会に二人で出場し、祥子さんは並みいるベテラン職人さんのなかで、みごと2位に入りました。この結果を、お子さん達や先輩の職人さん達も喜んでくれたそうです。
「職人夫婦」と自ら語るお二人ですが、話しの端々から、お互いに尊重し合い、刺激し合って、京印章の高みを追求していることが伝わってきました。「彼女がワークショップで実技指導をすると、みんな本当に楽しそうで、雰囲気がすごくいいのです。デザインも繊細で感性にあふれていて」と良彦さんが、語ると「それは前段で、主人がはんこの知識をいろいろ楽しく話すので、みんな興味を持ってやってくれるからです」と、祥子さんが受けます。この間というか呼吸が絶妙です。ものづくりの道を歩む同士として、またお互いの仕事の環境をつくる家族として、そのひたむきな姿勢が、まわりも勇気づけているのだと感じました。

自在に広がる、異業種のものづくりの輪


10月の末、京の台所、錦小路の店舗の一画で「錦市場で伝統工芸 @丹後テーブル」というミニ展示会とワークショップが開かれました。飾金具、金箔、漆工芸、そして印章の4業種です。たくさんの人に楽しんでもらい、手応えがあったそうで、次はこういうものもいいね、などと話しをしたそうで、今後に期待がふくらみます。
このように、異業種の志を同じくする人たちとの出会いは大きなみのりをもたらしてくれます。京のさんぽ道でご紹介した「京都におもしろい印刷会社あります」の修美社さんの企画にも参加され、文字とはんこの世界を広げています。

新製品のシーリングスタンプ
新製品の封蝋(シーリングスタンプ)

「脱はんこ」が注目され、テレビや新聞の取材が相次いだそうですが、河政印房では、もっと以前から、はんこの新しい方向性を考えていました。実印、銀行印など今まだ必要とされるはんこはもちろんのこと、遊印、花や和柄をモチーフにしたかわいいはんこ、落款、さらに封蝋(シーリングスタンプ)など、新しい企画商品が生まれています。はがきや手紙、スケッチなどに押した、朱肉のワンポイントの色は、若い世代にも、きっとすてきに映ることでしょう。生活を豊かにし、楽しむことに、はんこを使う人が増える可能性を感じます。
「パソコンが普及すれば、なくなっていくものも当然あるでしょう。だから時代にも、技術にもしっかり向き合っていきます」と明快です。作り手の個性があらわれる、はんこ。「注文した人とはんこと職人は、一期一会。そういう気持ちで彫っています。京印章の歴史は千年ですが、次の千年を今の私たちがつくっていくのだと思っています」
取材中も、注文したはんこを受け取るお客様が続けてあり、電話での問い合わせも次々かかってきました。身近にある、まちのはんこやさんを、みんなが頼りにしています。

 

河政印房
京都市中京区丸太町釜座東入 梅屋町175-1 井川ビル1階
営業時間 月曜~金曜 10:00~20:00 土曜13:00~17:00
定休日 日曜、祝日