京都の筍は ふかふかの畑で育つ

毎年待っている、淡い香りの白くやわらかい筍。京都では外せない季節の味わいです。春の初めの走りから、あたたかい雨を受けてぐんと成長する旬まで、時々の筍を楽しみます。
京都の西、乙訓(おとくに)地域は「京の伝統野菜」に指定された京筍の本場です。まだ地面から顔を出す前に、土の中から熟練の技で掘り起こします。「白子」と呼ばれるこの筍は、一年通しての手入れが欠かせない「畑」からしか収穫することはできません。
伝統の栽培方法を受け継ぎながら、多くの人に竹に親しんでもらう場としてのイベントの企画、竹パウダーなど新しい使いみちの開発、高齢化による放置竹林の整備など「日々是好竹」と忙しい毎日を送る筍農家三代目の石田ファーム 石田昌司さんに話をお聞きしました。

農薬・化学肥料一切なしの畑


筍は竹の若芽の総称です。成長が早いことから「十日」を意味する旬の字を当てたと言われています。出回る筍の多くは「孟宗竹」の筍で、江戸時代末期にはその栽培が急速に広まりました。乙訓地域の地質は、酸性の粘土質で水はけがよく、生育に適していることも好条件でした。明治35年、現在の京都市西京区、向日市、長岡京市、大山崎町の23か村にわたる筍組合が組織され、栽培方法が共有されていたことが記された文書が残っています。ずいぶん早くから地域の重要な農産物として育てていこうという先見の明があったのです。

石田ファームの石田昌司さん

こもれびがさし込む竹林は空気が違います。風にそよぐ竹の葉のさやさやという音や、すっかり上達したうぐいすのさえずりが絶え間なく聞こえてきます。取材に伺ったのは白子筍の最盛期で、石田さんは「うぐいすの声に耳を傾ける間もない」ほどの忙しさのなか、石田ファームだからこそのお話を聞かせていただきました。

白くやわらかな京都特有の筍は「京都式軟化栽培法」という伝統の栽培方法で育てます。春の収穫が終わると「お礼肥」を施し、筍を生む親竹の先を折って根と竹本体を守り、日当たりや風通しをよくします。その後6月には「さばえ」という細い竹の刈り取り、夏には肥料で養分を与えます。石田ファームでは有機肥料を使っています。秋は、古い親竹を伐採し、稲わらを敷きます。この稲わらは石田さんの田んぼで収穫されたお米のわらです。そして冬は、敷きわらの上に赤土粘土をを重ねる「土入れ」をすることで、ふかふかの布団のような畑になります。この土運びも重労働です。白子筍は短い間ですが、たけのこ畑の手入れは一年中の仕事です。

竹チップの堆肥とお手伝いにきてくれた美山町の岡さんファミリー

石田さんは農薬、化学肥料を一切使いません。竹林は有機認証を受けています。竹チップの堆肥は、奥のほうは、ほかほかしてあたたかく、かぶと虫の幼虫のベッドになっています。
竹林と隣り合う畑いっぱいに咲く白い花は、種を採るために植えられた「固定種」で、この地域のお正月を祝うお雑煮に使う、雑煮大根の花でした。固定種とは、先祖代々受け継がれ、農家が自ら種を採っています。昔ながらの味で個性がありますが、大量生産には向かず、病気にも強くありません。

有機栽培にしても固定種の種を守ることも手間はかかり、収量は少ないなど苦労されることが多いと思います。でも、これからは「作物は商品ではない」と消費者も認識する、双方向の関係がいっそう大切になってくると思いました。

お話が一段落したところで、石田さんのお父様、健司さんとご一緒になり、朝堀りの白子筍のごちそうにあずかりました。健司さんは今年の6月で94歳、3~4年前までは筍掘りもされていたと聞いて驚きました。「化学肥料を使わんと、ごま油の搾りかすをやって、土がええし、甘みがあってええ味や」と、土の大切さをしっかりした口調で話された姿は50年続くこの竹林を受け継ぎ、竹とともに過ごしてきた方のまぎれもない風格でした。
生まれて初めて、生の筍いただきました。石田さん曰く「りんごの食感と、とうもろこしの甘み」さくさく、しゃきっとして甘みと香りは果物のよう。初めて巡り合った滋味です。

掘るにも道具にも職人の技


やわらかい筍を土の中から掘り出す道具は乙訓独特のもので「ホリ」言います。長さは1メートルほどで刀を思わせる静かな鋭さがあり、先端はU字型になっています。土の中に刺しこみ、手に伝わる感触で筍と地下茎がつながっているところを突いて切り離し、てこの原理で掘り起こします。まさに職人技です。
父親の健司さんによると、ホリの先は一日で摩耗してしまいますが、鍛冶屋に渡せば夜なべをして次の日の朝には、またしっかり使えるようにしてくれたそうです。「昔はそういう鍛冶屋が村に一軒はあった」という話は、当時の乙訓地域の筍栽培の隆盛ぶりがわかります。
ホリをつくる職人さんも少なくなってしまったそうですが、石田さんが使っているホリは、まだ40歳くらいの職人さんの作です。

筍を入れるかごや運搬用の箕(み)などを作る竹細工の職人さんも少なく、手に入れにくくなっているそうです。以前は当たり前にあったものが、手間がかかるということでなくなる寸前になっている竹細工を、なんとか残したいと考えています。脱プラスチックが世界中の大きな課題になっている今、竹に光が当たる時がめぐって来たと感じます。

さて、いよいよ筍掘りの見学です。美山町の岡さん家族も一緒に筍畑へ入りました。乙訓地方では昔から「お客さんを座敷にあげても、竹藪には入れるな」という言葉があるほど、竹林を大切にしてきました。
「三方にひび割れが目印なので、そこを踏まないように。そこそこ」と石田さんに教えてもらいながら、踏まないように、おっかなびっくり目印に近づきました。石田さんは慎重にホリを使いながら、最後のほうは体重をぐっとかけて掘り出しました。

ヒビの中心に筍の先がほんの少し見えています


一日に何十キロもこうして傷をつけずに掘り出す仕事は、力もいるし、神経も使う、考えながらしないとならない、大変な職人技です。石田さんが言われたように、たけのこ農家は60代は若手と言われる現状で、畑つくりも含め、一貫して学べる養成講座のようなシステムが必要になると思いました。そして、環境に負荷のかからない循環型のたけのこ栽培を志す人が増えればいいなあと、竹の夢が広がります。

物々交換に似た関係が力になる


今回は竹や筍のことだけでなく、古民家や紙飛行機つくりなど趣味についても楽しい話を伺いました。吹き抜けになった二階の天井には、高校生の時に作ったという大きな工作飛行機が見えます。楽しそうにそして熱心に話す様子は少年のようです。このお人柄で、石田さんが言うところの「物々交換に似た関係」の輪がどんどん広がっています。
美山の岡さんご夫婦は、美山での獣害で全滅した「ねこやなぎ復活プロジェクト」がご縁で、たけのこ畑の作業などの手助けをしてもらっているそうです。「こういう関係が困った時に助けてくれるんです」とほがらかに語ります。

中央のメンマに加え、美味しい筍料理を色々いただきました

毎年ゴールデンウィークの最終日には、大きくなった不要なたけのこを切り倒し、その幼竹を使ってメンマ作りをするイベントが開催されます。メンマ作りは、今全国に広がっている、不要な幼竹の活用方法で、地域おこしや景観保全にも一役かっています。

少し離れたところにある、山の竹林に「茶室」建築中です。京都建築専門学校の校長先生と学生さんの協力でだいぶできあがっています。荒壁にはちゃんと竹が組まれています。昔のようにもっと身近なところで竹を使えるようにという願いも伝統工法によって活かされています。
石田ファームは、これから孟宗竹から、破竹(淡竹、白竹とも書く)そして、真竹のたけのこへと移ります。その合間を縫っての田んぼや畑の仕事も待っています。6月いっぱいまで気の抜けない石田さんですが、また助けてくれる人たちがやって来るでしょう。
「物々交換に似た関係」は、売り買いの場にも当てはまる気がします。作ってくれた人とお金というものと交換するものに感謝する。消費や経済にも、これからはこういうあり方が広がる可能性を感じた一日でした。

 

石田ファーム
長岡京市井ノ内西ノ口19番1

青谷で40年 信用第一の和菓子店

訪ねた先は、前回の「東風吹かば梅香る京都青谷の春」で、少しご紹介しました和菓子店です。自店であんを炊き、その誠実で間違いのない味は、地元のみなさんからの信頼も厚く、お祝い事や季節の習わしなど、暮らしの折々を彩るお菓子として喜ばれています。
また、青谷特産の大粒で香り高く、果肉の味わいに特徴のある希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」を使ったお菓子を開発し、青谷地域盛り上げの一翼を担っています。こういうお店が近所にあったらうれしいと思う和菓子店「梅匠庵 若松」のお店で話をお聞きしました。

普段のお菓子に使う自家製のあん


ローカル線ののどかな気分に満ちるJR山城青谷駅の改札口を出ると、目の前が梅匠庵若松です。建物を見ただけで「きっと美味しいに違いない」と感じさせるたたずまいです。
店主の久保川守さんは、修行時代を含めると、55年の経験を積んだ職人中の職人です。独立して、はじめは宇治で開店し、その後青谷に店を構えて40年になります。移転する時「青谷の少ない人口で商売をするのは難しいよ」と言われたそうですが「地域のみなさんに可愛がってもらえて、あてにしてもらえる店に」と、一心にお菓子作りに励んだ積み重ねの年月です。「気がついたら40年たっていたというのが実感です」と静かに語ります。

中に城州白がまるごと入った梅大福

久保川さんの「和菓子はあんが命」という言葉にも、重みと力があります。和菓子にもいろいろな種類がありますが、生菓子にもお茶事やお客様用の上生菓子と、朝に作りその日のうちに売り切る「朝生菓子」略して「朝なま」と呼ばれる庶民的なものがあります。おなじみの大福やお団子、さくら餅や柏餅などがそれにあたります。
今、和菓子店で、自家製のあんを炊いている店は少ないのではないかと思います。若松の魅力、良さは、このような気軽な朝なまのお菓子にも、自家製あんを使っていることです。ここが美味しさをぐんと格上げしていると感じます。
お客様から「あんたのとこ安いなあ」と言われるそうですが、久保川さんは「毎日食べてもらう、おやつのお菓子やから。みんなに可愛がってもらって、続けていくことが一番大切」と、ためらうことはありません。質実ともに地域に根差したお店なのです。

頼もしい跡継ぎの存在が励みに


以前は町なかによく見かけた、若松のような和菓子屋さんが、めっきり少なくなった気がします。久保川さんは「この稼業も跡取りの問題が大きい。その点うちは本当にありがたい」と語ります。和菓子の道へ入って10年目という、跡継ぎの武田圭祐さんにも話をお聞きしました。
武田さんは、久保川さんの娘さんと同じ製菓学校で学び、洋菓子店に勤務した後に、結婚を機に若松へ入りました。洋菓子で使う小麦粉とバターやクリームなどの素材に対して、和菓子は油性のものをほとんど使いません。何もないところから作るのは和菓子も洋菓子も同じですが、慣れるまでは戸惑いながらの毎日だったそうです。そして「父の仕事を見ていて、和菓子は確かに職人の勘というものがあると感じます」と続けました。

久保川さんは「あんを炊いた時、時間は計るけれどそれだけではない。その日の気温や湿度、豆によっても違いがあるので、それを見極めて炊くのが難しい。しゃもじであんをすくってみて、今日はどうや。もういいか、もう少し炊くかと、ぎりぎりのせめぎ合いで、100点と思ったことは一度もない」と語りました。

武田さんの語った「和菓子職人の勘」は、毎日一緒に仕事をするなかで、心から感じたことであり、深い敬意が込められています。また久保川さんも、何度も跡継ぎの大切さを言葉にし、「これからは若い人の時代やから、どんどん前に出てきてもらう」と、武田さんを頼もしく思っている様子が言葉の端々に、にじみ出ていました。二人の和菓子に対する姿勢や、気持ちの通い合いが若松のお菓子のぶれない美味しさを作っています。

家族で担う「和菓子で地域に貢献」


若松には常時40種類近くのお菓子が並びます。そのほとんどが自家製造です。
イラスト入りの商品ポップは、武田さんの奥さんが作っています。梅まつりの期間中は、建物の外側に商品のパネルを張り出すなど、若松の和菓子をより多くの人に知ってもらうための工夫を惜しみません。

祝儀不祝儀、季節の贈答用、ちょっとした手みやげにと、以前は暮らしのなかにお菓子をお使いものにする習慣がありました。しかし今は、核家族化も進み、生活習慣の変化も伴い、以前に比べるとその需要は格段に少なくなりましたが、先日はお孫さんのお誕生の内祝いにとお赤飯の注文がありました。もちろん、お赤飯も若松製です。渡す日時からの逆算で、小豆を水につけるところから始まります。
店内には、お赤飯や上用まんじゅうの箱の見本や、季節の行事と人生の節目のお祝いの一覧が張ってあります。おめでたい事をお祝いする心をあらわす贈答の習慣をよみがえらせて、人と人のつながりをもう一度結び直せたら、どんなに良いことかと思いました。

和菓子作り教室は地元の新聞にも取り上げられました

久保川さんは、城陽市観光協会「梅の郷青谷づくり特産品部会」の主催の地域の方を対象にした和菓子作り教室での講師を務め、武田さんは、城陽高校の授業の一環として、和菓子作りを教えました。体験した高校生が「すごく美味しい」と言ってくれたと嬉しそうでした。和菓子を知らない若い世代に食べてほしい、和菓子で季節を感じてほしいという願いは、地道な取り組みのなかで必ずかなえられると思いました。

城州白を使った大福、マドレーヌ、どら焼き、ようかんなどは、青谷の地元の手みやげとして好評です。そして贈られた先の方が「美味しかったから、買いに来ました」と来てくれる時は本当にうれしいと、菓子屋冥利に尽きる物語もたくさんありそうです。
創業以来の看板商品「茶人好み」は、白あんに抹茶を練りこんだ桃山仕立てのお菓子です。城陽はお茶も有数な産地で、京都府の「お茶の京都」の広報にもこの茶人好みが紹介されました。
「信用が第一。いつも安定した美味しさでなくてはだめ。毎日緊張してお菓子を作っている」という、久保川さんの言葉に、裏切ることのない誠実な仕事への姿勢がどんなに大切なことかを教えてもらいました。和菓子のおいしさは人をつなげ、青谷の地域の幸せにつながるに違いないと感じた一日でした。
まもなく、店頭に柏餅が並ぶ風薫る季節がやって来ます。

 

梅匠庵 若松
京都府城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日 月曜日

東風吹かば梅香る 京都青谷の春

冬とは思えない暖かい日が続き、寒風のなか、他の花に先がけて咲く梅も、今年は特に早い開花となりました。古くから梅の名所として知られていた、京都府南部の城陽市青谷地域の約1万本の梅が咲き誇っています。
昨年「山城青谷地域 希少な梅で新しい風を」でご紹介しました、青谷梅工房代表の田中昭夫さんは、毎年開催される「青谷梅林梅まつり」を盛り上げようと、いつも楽しい企画を考えています。今年はさらに「青谷梅林の魅力を梅工房がバージョンアップ」と、画期的な内容となっている様子です。春うららの一日、青谷を訪れました。

アートのある梅林へ、はじめの一歩


梅工房の梅林店を目指して歩いて行くと、木の高さほどに、円錐形に張られたロープが見えてきます。「陽」と名付けられたこの作品は、剪定された梅の枝で、淡い紅梅色に染められています。江戸時代、染の媒染に使う烏梅をつくるために広大な梅畑があったという、青谷の歴史を掘り起こして生まれた作品です。近くにテーブルと椅子が置かれ、ゆっくりした時を楽しんでいる人の姿が見られます。小道をはさんだ向かい側には4作品が展示されています。それぞれ時とともに変化する日の光を受けて、印象も変わります。

田中さんは、のどかな里山をゆっくり散策できる青谷の魅力をさらに進化させ、もっと多くの人に足を運んでもらうにはどうしたらいいかと考えていました。そこでひらめいたのが、現代アートが展示される瀬戸内の島々のような「アートのある梅林」です。田中さんがモデルとした瀬戸内国際芸術祭は、香川県をあげて取り組んでいる超大型の芸術祭で規模の違いはありますが、テーマに掲げている「海の復権」は「城州白で地域を元気に」という梅工房の思いと、根本は共通しています。そこで協力してくれる人を、つてを頼りに探しました。普段から多くの人とかかわりを持っている田中さんの強みで、知り合いを通じて、京都造形芸術大学の卒業生と在学生の協力者が見つかったのです。

3年前から梅まつりの期間中、梅林にも店を出していますが、そこがアートを展示する会場です。腰の高さまで茂った草を刈り、竹林を切り開いた場所では竹の根っこや頑固な切り株を掘り越しました。この重労働は、造形大のみなさんも一緒にやってくれました。作品の設置も含め、寒い中での作業は大変だったことと思いますが、より思いのこもった展示会場になったのではないでしょうか。作品が点在する梅林は、周囲の自然と調和した青谷の新たな景観をつくり出しています。
作品展示は3月20日(金)まで。

四季折々、歩けば感じる青谷よいとこ


さえぎるもののない空とのどかな田園風景が広がり、気持ちが解き放されていくように感じます。田んぼで何かをついばんでいる、はとに似たつがいの鳥がいました。長いくちばしと足が鮮やかな黄色をしています。「けり」です。その鳴き声から、この名がついたそうです。きっと環境が良くて、子育てしやすいのでしょう。

梅工房を通り過ぎてすぐ、旧道の趣きのある道を進むと、お茶のいい香りが漂ってきました。慶応三年の創業以来「決して天狗になってはならぬ」という家訓を守り、「天狗の宇治茶」を商標にする、伝統の宇治茶一筋の茶問屋「碧翆園」です。碾茶で名をはせるお茶の名産地城陽の茶業を支えています。碧翆園の加工場と古い民家が並ぶ一画は、とても雰囲気があります。

梅林をたどる道々は、満開の菜の花と、咲き方や色が微妙に違う梅の花を楽しむことができます。うぐいすが盛んに鳴いています。姿は見えませんがすぐ近くのようです。完璧と思う鳴き声と、あきらかに練習中の鳴き声が交互に聞こえ、すれ違う人と思わず笑いあって会釈しました。
梅林の規模や絢爛な雰囲気ではなく、田中さんも言われているように、まわりの山々や民家と一体となった里山としての景観が青谷の魅力なのだと実感しました。

城陽酒造の杉玉
青谷特産の城州白

梅の郷めぐりの終わりは、JR青谷駅すぐにある、創業明治28年の「城陽酒造」と和菓子店の「梅匠庵若松屋」へ。若松屋では、大粒で香高い青谷特産の希少な梅、城州白を使ったどら焼きや大福など、地域根ざしたお菓子を作っています。気取らずにおいしい親しみのあるお菓子が並びます。以前はそれぞれの町に一軒はあった和菓子屋さんらしい和菓子屋さん。貴重なお店です。線路を渡ると、新酒ののぼりがはためく城陽酒造が見えます。他府県ナンバーの車も次々と入って来ます。こちらの「梅サイダー」は梅工房でも定番品として置いています。また、城州白の梅酒は「梅酒バー」でもほとんどの人が注文する、ご当地自慢の梅酒です。豊かな自然、旧村の面影を残す民家。そして梅とお茶。その特産品を生かしたお酒やお菓子のお店。季節の移ろいとともに、また違った発見があることでしょう。ゆっくり歩いてみれば楽しさは尽きない、そんな思いを抱きました。

青谷地域と梅工房の明日の夢


田中さんは「まず、地元の人が行ってみたいなあと思ってもらえる梅まつりにすることが今の課題です」と語っていました。梅まつりを短期間のイベントで終わらせるのでなく、地元の人がかかわることで、日常的な結びつきをつくり、青谷を盛り上げることができないかとも考えています。そこで今年の梅まつりでは、梅工房の梅林店で「体験イベント」を企画してもらいたいと呼びかけました。去年の秋から取り組んだ結果、6つの体験ブースが決まりました。お箏、かじや、梅の枝の鉛筆づくり、染め物、ウクレレ、ヨガと本当に個性ある体験ブースが企画されました。また飲食ブースの9品の中には、龍谷大学のゼミ生によるおにぎりもありました。大変残念なことに、これらの企画は今日の状況にかんがみ中止となりましたが、この経験とつながりは必ず今後に生きると感じています。

田中さんは、このような体験や季節のイベントをつくりながらも、やはり本業の梅事業に向ける時間をもっと生み出したいと強く思っています。城州白を中心とする質の良い梅の安定的な生産と、梅を使った商品開発です。違う業種、違う世界の人たちの出会いから「青谷の梅を使って、こんなふうにすばらしいものができるのだ」という喜びは、大きな支えになっています。
城州白のブランデーをつくられた、千葉県の房総半島にある「mitosaya薬草園蒸留所(みとさややくそうえん蒸留所」代表、江口宏志さんとの出会いは、田中さん自身にとっても、また城州白という梅にとっても新しく切り開かれた可能性でした。江口さんから送られた城州白のブランデーのボトルのラベルに「FROM AODANI UMEKOBO」と梅工房の名前まで書かれていた感激は生涯忘れることはないと語ります。江口さんは「自然からの小さな発見を形にする」という目標に基づく、志あるものづくりをされています。
田中さんは、昨年の京のさんぽ道の取材のなかで「やっていることに夢があるかどうか。みんなで取り組むことでも、自分自身が夢を感じているか、です」と語っています。これからも梅と深く向き合い、楽しく地域とかかわり盛り上げていく。その夢の実現にむけて、今日も一日梅に思いをめぐらせ、梅園へ出かけます。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

 

城陽酒造
城陽市奈島久保野34-1
営業時間 平日 8:30~17:30
土曜日9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

 

梅匠庵 若松屋
城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日  月曜日

京都府南部 東一口のお正月のにらみ鮒

京都のお正月は、おせち料理と一緒に「にらみ鯛」と呼ばれる塩焼きの尾頭付きの鯛が並びます。今はそのとおりにするお家は少ないと思いますが「よう、おにらみやす」と、三が日は箸を付けない仕来りです。
お祝事には鯛ですが、にらみ鯛ならぬ「にらみ鮒」でお正月を祝う地域があります。京都府南部、久御山町(くみやまちょう)の「東一口(ひがしいもあらい)」地域は、近くにかつて湖のように大きな「巨椋池(おぐらいけ)」が広がり、様々な淡水魚に恵まれ、漁業が盛んであったことから、豊かな川魚の食文化が今も受け継がれています。代々東一口に住み続ける鵜ノ口家17代目、鵜ノ口彦晴さんに、にらみふな鮒を中心にするお正月や川魚の話を伺いました。

巨椋池とともにある東一口の歴史

江戸時代の巨椋池(wikipediaより)

「一口」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡、平家物語まどに「芋洗」「いもあらひ」と記され、古くから交通や軍事の重要な位置を占めていました。
三方を巨椋池に囲まれ、入口は一方だけ、つまり一つの口であったため「芋洗」を「いもあらい」としたする説や、豊臣秀吉が宴を催し、流した短冊を鯉が一口に飲み込んだからなことはという言い伝えも入り乱れ、諸説あるものの、今もって定かなことはわかっていません。芋洗という地名になったいきさつも含め、興味が尽きません。

一口地域は、東一口と西一口に分かれていますが、巨椋池の西側堤防上にある東一口は漁業を主としながら農業も営み、西一口は農業を専らとしてきました。伏見区、宇治市、久御山町に広がる巨椋池は、度々の氾濫で人々を苦しめましたが、一方で川魚の豊かな漁場として恵みももたらしました。
鮒、鯉、うなぎ、なまず、どじょう、すっぽんなど多種類の魚があがり、東一口は特別な漁業権を認められていました。その大元締めであり大庄屋であった山田家の住宅が「国登録有形文化財」の指定を受け、一般に公開されています。
巨椋池は干拓によって消滅しましたが、通称前川と呼ばれる巨椋池排水幹線と古川の二つの流れの間にあり、民家が軒を並べる東一口の集落は、巨椋池とともにあった歴史や暮らしに思いを巡らすことができます。

にらみ鮒は、ことこと三時間


ぴんぴん跳ねる大きな鮒は、1週間ほど水槽で泳がせて泥を吐かせます。そうすることで、気になるにおいや、あくがなくなります。
鵜ノ口さんが、鮮やかな包丁さばきで鮒をおろしていきます。最初にうろこを引きますが、銀鱗という表現がぴったりの美しいものでした。内蔵を取る時「苦玉(にがだま)」と呼ばれる胆のうを傷つけると1匹全体が苦くなりどうしようもなくなるので、慎重に取り出します。味がしみこみやすいように、おなかと背に飾り包丁を入れます。

大鍋に竹で組んだざるのようなものを敷き、その上にきれいにさばき終えた鮒を並べます。この竹を敷くことで、焦げ付きにくくなります。使わない時は折りたたんで収納しておけるすぐれ物です。ひたひたにお酒を入れて火にかけます。煮えてきたところで丁寧にアクをすくうのですが、水槽で泳がせた鮒からは、ほとんどアクが出ませんでした。砂糖と醤油を入れたらことこと、焦がさないようにゆっくり炊きます。だんだん良い匂いが漂ってきます。

お正月は、きれいに炊き上がった尾頭付きの大きな鮒を、銘々に一尾ずつお膳につけてお祝いします。運良く「子」が入った鮒がついたら大当たり。「鯛より旨い。子どもも喜んで食べる」そうです。鵜ノ口さんは「炊きたても旨いけれど、一日おいた鮒も旨い」と言います。そして「残った頭に番茶を注ぐと、これがまた旨い」のだそうです。
もろこの天ぷら、もろこの甘露煮が入った海苔巻きや押し寿司、型押しだんご、久御山町の特産品の淀大根の炊いたものなど、手間を惜しまず、丁寧につくられたそれぞれの家の味は、毎年のお正月、そして毎日食べても食べ飽きない美味しさがあります。

食材を余すところなく使い、それぞれの部分の味を楽しむ。これは現代においては、高度で豊かなことだと感じます。それを、声高く宣伝することもなく、普通に同じことができる暮らしが東一口には続いています。鵜ノ口さんは「古川で泳いだり釣って来た魚を料理する祖母、母親の姿することを見て育ちました。私は川魚で育って来ました」と笑って話しました。漁具や農機具などを収納する建物は、りっぱな梁が通り、天井に川魚の煮炊きに使うざるなどがかかっています。川魚漁は閉じても、その知恵や味わいは今も暮らしのなかで引き継がれています。

東一のふる里を学び、楽しみながら継承する


鵜ノ口さんのお宅の前は古川です。川の付近の草刈りや掃除など、地元の人や子どもたちの通り道を少しでも美しく、楽しくしたいという思いからです。美しい白の椿は毎年、初釜に使ってもらったり、水槽の魚を子どもたちが興味深々に見に来たり、小さなあたたかい交流が芽生えています。
平成22年に山田家が文化財に登録されたことをきっかけに、この歴史的な建物の活用と、自分たちが住んでいるふる里、東一口についてもっと学び、みんなで知ろうと「東一口のふる里を学ぶ会」が平成24年に結成されました。現在27名の会員が年間通して様々な活動にかかわっています。会長を務める片岡清嗣さんも17代目です。「農業と違って川は、ここまでがうちのもの、という区切りがありません。端から端までみんなで共有しています。そういうことが根底にあって、洪水が起きた時も力を合わせてきたから、この東一口は昔も今も、住んでいる家がほとんど残っているのだと思います」と話されました。

在りし日の巨椋池(wikipediaより)

巨椋池と川魚漁。その深い結びつきが生んだ住民の結束と、文化や知恵はこういうところが源泉にあるだと深く感じました。
それぞれのお家の、それぞれのかたちのお正月。新年を迎え、京都の町並み、暮らしと文化が継承されますよう、そしてすこやかな年となりますようお祈りし、建都もいっそう京都の企業としての役割を果たしてまいります。