家族で営む京都のほっこり ちから餅食堂

朝晩の冷え込みに秋が深まります。通りを歩いていたら、出汁のいい匂いが漂ってきて「あったかい、おうどん食べよか」とお店へ入ります。うどんの味とともにお店の人と交わすひと言、ふた言にほっこりする。そんな小さな幸せが気持ちを満たしてくれます。初代が住み込み奉公から独立して構えたお店を、家族で切盛りする地域密着のお店、伏見区の「ちから餅食堂」の、のれんをくぐりました。

住み込み奉公から築いた食堂


京都市内に点在する「力餅食堂」あるいは「ちから餅食堂」と名前に「餅」がついた食堂は、どこも地域の人が日常的に使うまちの食堂です。関西以外から就職や進学で京都へやって来た人、また通常の観光ルートを外したまち歩きをした人は、この力餅食堂を「おもしろいな」と思った人もいることでしょう。
今回、取材させていただいた伏見区深草の商店街にある「ちから餅食堂」は、店主の柿中清隆さんの父親、清次さんが昭和41年に独立開店しました。清次さんは、同じく伏見区の大手筋商店街の力餅で住み込み奉公を務めた後に、親方からのれん分けを許されました。
ちから餅食堂の店内
力餅についてひも解いてみると、明治22年(1889年)に池口力蔵さんという方が開いたお饅頭のお店が始まりでした。それがお饅頭などの甘味に麺類や丼物を加えた庶民的な食堂へ発展したのだそうです。特徴は、一定の年数、経験を積んで、良しと認めた人をのれん分けして独立させていったことです。そこがチューン展開やフランチャイズ店と違うところで、みんな独立した一国一城の主です。こうして力餅食堂は、京阪神に広がっていきました。のれん分けのお店はみんな、交差した杵を染め抜いたのれんをかけています。

ちから餅食堂の調理場
手前の大きな機械は餅つき機。奥には孝子さんの姿が見えます。

清次さんの修業時代は弟子が7人もいたそうで、つらいこともあったと思いますが、奥さんの孝子さんとともに、晴れて念願の開店の日を迎えた時は、言い表せないほどの喜びだったことでしょう。清隆さんは、会社勤めをしてから後継ぎとなって今年でちょうど20年たちました。「サラリーマンから、まったく違うこのお店に入って大変ではなかったですか」とたずねると「子どもの頃からずっと、父親の仕事を見て育ったので、違和感は全然ありませんでした。ケーキ屋になれと言われたら困ったでしょうが」と笑って答えました。お店は地域に根付いて55年。家族で力を合わせて守る「柿中のちから餅」の味と、ほっとできるひと時に、多くの人がやすらぎを感じています。

安定した、飽きないおいしさ

ちから餅食堂店頭は真由美さんの担当
店頭は真由美さんの担当

朝6時から仕事を始め、10時には店頭のショーケースに二種類のおはぎ、いなり寿司、お赤飯が並びます。この売り場の担当は清隆さんの姉の真由美さんです。
開店早々にみえるお客さんの「いなり5個に、お赤飯1パック」「私はおはぎ。きな粉2個に小豆3個。あ、お赤飯も」などという様々な注文の品を手早くパックに詰め、代金を受け取っておつりを渡しています。そのきびきびした仕事ぶりと「おはようございます」のあいさつが、朝の始まりを気持ちのよいものにしてくれます。お客さん同士が「いや、久しぶりやね」などと言葉を交わす光景は、なかなかいい感じです。

ちから餅食堂の店内
清隆さんの奥さんのみさきさん

10時を少しまわると、店内にもお客さんが入り始めました。中は清隆さんの奥さんのみさきさんと母親の孝子さんの持ち場です。常連らしいお客さんは「いつものお願いとだけ言いました。みさきさんが、厨房の清隆さんに注文を通し、いなり寿司1個を「どうぞ」と運んで来ました。「いつものだけで通じるのですね」と思わず声をかけると、笑って「つーかーの仲やから」と返ってきました。
お昼の時間は近所で仕事をする人たちがいっときにやって来ます。清隆さんは「特に今は密を避けないとならないので、だんどりが大事で、それが狂うと大変ことになります。お客さんも協力してくれます」と話しました。お客さんとお店の間合いがみごとです。
ちから餅食堂のあんかけうどん
うどん屋さんの中華そばが好きと言う人も多く、また餅うどんを毎回注文する人もいます。「中華そばにしたいけどお餅も食べたい」という人には、希望の数のお餅を入れてもらえます。
このお餅は餅搗き機で店内で搗いています。チャーシューも自家製、おはぎの小豆あんも炊いています。朝6時からの仕事です。ちから餅の味はどれも、あっさりした出しゃばらない味です。だから、いなり寿司を麺類や丼物と食べても、それぞれの味を邪魔せず食べ終えることができます。また「ひと口サイズ」が多いこの頃には珍しく、いなり寿司もおはぎもたっぷりおおらかな大きさですが、濃い味付けではないのでメインメニューと一緒でも完食できるのです。
ちから餅食堂のいなり寿司
いなり寿司のすし飯には黒ごまとにんじんがまぜ込まれていますが、そのにんじんの刻み方の細かさ、丁寧さに驚きました。こういうところにも、お店の実直な仕事と姿勢が垣間見えます。孝子さんと、みさきさんの「ゆっくりしていってくださいね」という言葉に本当に気持ちがこもっていて「また来よう」と思うのです。

みんなが今日も足を運ぶ商店街

ちから餅食堂のある深草商店街
ちから餅食堂は、深草商店街の通りにあり、近くの深草小学校の子どもたちの通学路でもあります。学校帰りの子どもたちが「あ、出汁の匂いや」と言って通っているそうです。深草小学校の「校区探検」の行事で、子どもたちが見学にやって来た時の感想のまとめが、お店に張ってありました。

深草小学校の子どもたちの地域探検レポート
深草小学校の子どもたちの地域探検レポート

「お餅は搗くもの」だということを初めて知った子は、餅搗き機のイラスト付きです。「人気NO.1中華そば」の文字も見えます。小学校の子どもたちが、地域のことを知ることはとても大切なことです。毎日の暮らしを支える地元の商店街の生き生きした姿や、プロの知識や仕事ぶりに、きっと発見や感じたこがあったと思います。
さまざまな業種がそろい、お客様が通う商店街の存在はこれからますます重要になってくると思います。コロナウイルスの影響で、商店街や学校のイベントも中止となり、さみしい状況が続きましたが、この商店街を必要とする地域のみなさんを支え支えられる、双方向の強さと気取りのない明るさのある商店街です。清隆さんは「深草商店街振興組合」の理事と動画プロジェクトのメンバーもつとめ、商店街の仕事にも一生懸命です。
ちから餅食堂のおはぎ
お店には、学生時代に来ていた、子どもの頃よく親に連れて来てもらったという人が、20年ぶり30年ぶりに現れます。そして異口同音に「この店あって良かった。前と一緒や」と言うそうです。家族で営む、みんながほっこりできるかけがえのないお店、ちから餅食堂は、これからも多くの人を、変わらぬ味とあたたかい心で迎えます。

 

ちから餅食堂
伏見区深草直違橋2丁目425-1
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜

深草商店街振興組合

京都西山のふもとに たたずむカフェ&バー

りっぱな門構え、広々とした敷地の中に、手入れの行き届いた庭に面して、家族で営むカフェがあります。つくばいに入れられた季節の花、また内装や建具にも細部にわたって心入れが感じられ「邸宅カフェ」と呼びたくなる趣です。

しかし、いかめしさはなく、心身が解きほぐされていく空間です。生まれ育った地域で、家族で紡いできた思いが、訪れる人の気持ちを優しくしてくれる大切な場所です。京都の西南、長岡京市の山裾にあるカフェ&バー「花平(かへい)」へお誘いします。

「花平」の名前に込められた思い

花平の外観

花平オーナーの妹の小百合さん
オーナーの妹の小百合さん

花平はオーナーの岡正樹さんと、妹さんの小百合さんの二人で切り盛りしています。50年前に建てられ、ここ20年ほど使われていなかった離れを活かしたいと考え、来た人にのんびり、気持ちのゆとりを感じてもらえるカフェを計画しました。小百合さんは、調理師免許があり、また正樹さんは、大学時代にバーでアルバイトをしていた経験から「昼間はカフェ、夜はバー」というスタイルに決まりました。

細い格子の建具、竹をイメージしてガラスに和紙を張ったバーカウンターの壁など、細部にわたって、明確なイメージがうかがえます。障子に工夫をした屏風式の間仕切りから、やわらかな光が差し込んでいます。木がふんだんに使ってあることも特徴です。岡さんは「木が多いと優しい気持になれるでしょう。僕自身がこういう雰囲気の所がいいなあ、こんな店にいたいなあと思う、そのイメージでつくりました」と語ります。
花平の床の間
この空間の要と感じられる床の間は、黒石を何枚も張り合わせてあり、典型的な和の様式でありながら、正樹さんの言うところの「和モダン」な雰囲気を漂わせています。「花平」の掛け軸は、いとこの方の、書道展金賞受賞作品を軸装されたものです。
岡家のご先祖は代々「平左衛門」を名乗り、名前には「平」が付けられていたそうです。父親の平一郎さんは、植木や造園の仕事をされていて、いけ花のお生花(おせいか)にも造詣が深く、人にも教えておられたそうです。
店名はそこから、お生花を能くされていた平一郎さんにちなみ「花」と、岡家ゆかりの「平」をつなげて花平としました。そして平一郎さんに「花を活けてもらおう」と、設えた床の間でしたが、残念ながら平一郎さんは亡くなられ、かないませんでした。花平にいて感じる穏やかな空気感は、このような家族の間に込められた情愛があって生まれているように感じました。開店から満一年を過ぎ、一度行くと「すてきな所があるよ」と、自慢したくなるお店になっています。

「チーム花平」が機能しています

花平の抹茶ゼリー花平のほうじ茶ゼリー
遠くからやって来る人も多い花平は、常連さんだけでなく、様々な人が交わることでさらに楽しくなる自由で開放的な雰囲気も魅力です。
カフェのメニューには、小百合さんが現在お茶どころ宇治に住んでいる利点から、お茶に関連するメニューが用意されています。老舗の茶問屋から入れている上質の抹茶を使用した「抹茶ゼリー」は、香りと、ふっくらした抹茶の風味が秀逸です。また新たに「ほうじ茶ゼリー」も登場し、こちらはまず、ほうじ茶の香ばしさが感じられ、すっきりした甘さが好印象です。秋の始まりを感じる季節によく合っていました。
花平のおばあちゃんのおはぎ
「これは必ず」と思っていたのが「おばあちゃんのおはぎ」です。おはぎ担当は現在89歳のお母様です。抹茶とほうじ茶のゼリーにも「おばあちゃんのあんこ」が使われています。粒の食感も楽しめて小豆の香りもよく、甘すぎず、さりとて素気ない「甘さ控えめ」でもなく、本当に年季の入った安定の美味しさです。小百合さんは思いの込もった口調で「おはぎにはどうしても、おばあちゃんの、と付けたかったのです。」と語りました。
運ばれてきたおはぎは、ほんのりと温かみが残っていました。おばあちゃんのおはぎは様々なことを伝えてくれます。小百合さんも我が家の味を大切にし、お母様を励ます気持ちもあわせて、メニューに取り入れたように感じました。


お住まいの母屋を、特別に見せていただきました。「文政三年 神足村大工なにがし」と書かれた棟札が見つかったという、寄棟造りの建物は、屋根にも非常に珍しい技法が用いられているそうです。
建物を支える堂々とした梁、毎日の煮炊きで煤けた鍾馗さんたち、職人技の力を感じる葭戸等々、今日まで継承されて来るには、さぞご苦労が多かったことと、その大変さを思いました。

花平のオーナー岡さん
オーナーの岡さん

岡さんと小百合さんは、「おはぎを作ったら近所へ配っていた」「お祭の時は親戚が大勢集まって、鶏のすき焼きをした。それも家で飼っていた鶏だった」など、子どもの頃の様子を、懐かしそうに話してくれました。幼い頃から見てきた習わしや家の習慣は、知らず知らずのうちに身に備わっていくのだと思います。
岡さんは、子どもの頃から「見てないようで見ていた」親の仕事、造園業を継ぎ、花平の庭木の剪定や庭の造作も自ら行い、頼まれて近所の庭の手入れもされています。植木職人とバーのマスターも、岡さんのなかでごく自然に同居できていることに感心します。バータイムには、静かにお酒を楽しみたい人が遠くからも訪れています。お客さんの好みや、時にはオリジナルでカクテルを作ってくれます。夜のしじまのなかの花平もとてもいい雰囲気です。
花平は、大きかった父親の平一郎さんの存在も含めて「チーム花平」で動いています。4月18日の開店1周年の記念日も、その後の営業も、コロナウイルスの影響で自粛せざるをえませんでしたが、再開し、ほっとくつろげる場がもどって来ました。

根本を大切に、さらに進化する花平

花平の外観
花平のある「奥海印寺(おくかいいんじ)」は、早くに集落が形成された歴史のある地域です。かつては山と竹藪に囲まれていましたが、宅地開発が進み環境が変貌した今も、旧村のたたずまいを感じることができます。
長岡京市は最高級の筍産地ですが、岡さんも筍を栽培し、地元の中学校で筍について講義をされています。京都縦貫道も開通し、環境がさらに変貌したなかで、地域の歴史や特産の農産物の大切さ、暮らしの営みを次世代へつないでいくことにも取り組んでおられます。
取材に伺った日は、残暑のなかにも秋の気配を感じられました。小百合さんは、庭のもみじの葉が、ついこの間までは緑色だったのに、気がついたら葉先が赤く色づき始めていたと、季節は確実に移ろっていることを教えてくれました。
縁側から入る午後の西日を、屏風のように仕立てた葭戸が和らげてくれました。秋から冬にかけて、縁側のひだまりが気持ちよさそうです。「根本を変えず、発想を変えて進化する」「自分が楽しいことをやる」この名言がかたちになっている花平の進化は、とどまることを知りません。

 

カフェ 花平(かへい)
長岡京市奥海印寺北垣外20
営業時間:カフェ10:30~17:00
◎休業日;日、月、火、水

西陣に開店 どら焼き&クラフト

北野天満宮にほど近い千本中立売(せんぼんなかだちうり)界隈は「せんなか」とも呼ばれ、西陣織の繁栄とともに歩んできた庶民的な繁華街です。観光地や四条、河原町近辺の繁華街とはひと違う、奥まった濃い京都が存在する地域です。
その千中に先月、素敵なカフェ&クラフトショップが開店しました。店内には紙と染を中心としたオリジナル商品が展示され、自社工房で作られるレアチーズケーキやどら焼きを、香り高いコーヒーと楽しめます。
スタイリッシュでありながら、どこか職人気質を感じるその店「天御八(てんみはち)」へ伺いました。

伝統的な味わいを大切にしながら、自由に

天御八の看板
「天御八(てんみはち)」という個性的な店名は、清水寺参道にある既存店「天」から一字取り御八は「おやつ」。しかしそのままおやつではおもしろみに欠けるので、読みは「みはち」としたそうです。店舗は、喫茶と雑貨の企画・デザインのメーカーである羅工房が、以前から工房としていた建物の一階をリノベーションし、自社で営業を始めました。
天御八の張子の猫
店内にディスプレイされた様々な紙の雑貨が、目を和ませ楽しい気分にしてくれます。とぼけた表情の張子や、手摺りの味わいのあるぽち袋や金封、何を入れようかと心が躍る小箱など、自社で企画・制作しています。
企画展として開催中の「かばんいろいろ展」では、シルクスクリーンや手描き、ステンシルなどの技法のおもしろいかばんに加え、インドシルクに手刺繍、刺し子などアジアの魅力ある手仕事も紹介しています。

中尾憲二さんとご家族
中尾憲二さんとご家族

羅工房の代表、中尾憲二さんは陶芸、飲食店、手漉きの紙雑貨、染めを手がけるなど、多方面にわたって仕事をされてきました。多くの作家さんと組んで暖簾の制作をするなど、プロデューサーとしても力を発揮しています。「桜」をテーマにした暖簾展は、会場を鹿児島から段々と桜前線のように北上する、日本の季節感と呼応したすばらしい企画も実施されました。
また、ものづくりについて共感し、刺激し合う間柄の石川県の呉服店と、昨年11月、のれんやタペストリー、パネルを一堂に展示した、圧巻の「百の絵展」も行なわれました。「作家」という定位置に納まらず、制作を続けながら、30年前にメーカーとして会社を起ち上げた中尾さんの行動力と決断は、天御八の開店にも発揮されています。
清水店は、コロナウイルスの逆風を受け、半年前には夢にも思わなかった状況ですが、そのなかで、伝統的な味わいや季節感を大切にしながら、和の文化を今の暮らしのなかに生かせるものづくりを追求しています。
そして「天御八」が「千中の、てんみはち」として親しまれるお店になるように、地元のみなさんの息抜きの場、他愛のない世間話ができる場となるようにと、汗を流す毎日です。

心強い、ご近所さんからの応援

天御八のある千本中立売
天御八のお店のある、千本通りの界隈は、古くは平安京の中心であり、豊臣秀吉の時代には聚楽第が造営された歴史ある土地柄です。
西陣織の織元や職人のまちとして栄え、チンチン電車が通り、飲食店や寄席、映画館などが建ち並んでいました。庶民的な親しみのある繁華街で多くの人が「千ぶら」を楽しみ、それはそれはにぎやかだったという話を聞くことは、以前はさほど珍しくなかったように思います。今は商店街の店舗も減り、人出も少なくなってはいますが地元の方が子どもの頃から行ってた店や、気取りのない雰囲気はまだまだ残っています。

天御八の外観
ガラス戸が素敵な天御八の外観

天御八の店舗の工事を始めた頃、近所のみなさんは「引っ越してしまうのやろか」と心配されたそうです。コーヒー屋さんとわかってからは、「がんばってや」「ここ何屋さんかわからんし、帰らはった人がいるし看板出したらどうや」などと、親身な助言もいただいたそうです。

天御八の内観
店内は木材を多く使ったシンプルなつくりの、今の雰囲気を感じるおしゃれな空間になっています。道路に面した扉の全面が波板ガラスで、外の風景が映像のように映ります。アンティークの風合いのランプシェード、ドアや壁にはめ込まれたステンドグラスなどは、中尾さんとご家族で、お店を回って探して来たそうです。コーヒーで一服し、ショップスペースを見て、一人でのんびり過ごすもよし、友達とおしゃべりを楽しむもよし。こんなお店が近所にあったらいいのになあと思う空間です。
お店へ来るのに、着替えて来られたお客さんもいたそうです。もちろん、気軽にげたばきで来られるお店がいいと思いますが、ちょっとおしゃれをしてお茶の時間を楽しむ。そういう喫茶店の使い方もすてきだなと思いました。お客さんの個性が交ざりあって、天御八というお店の個性も表れてくるのが楽しみでもあります。

スタイリッシュで職人気質の「家業」

天御八のどら焼き
お店におやつをイメージした名前をつけたことからもうかがえるように、厳選したコーヒーとともに「甘いもの」に力を入れています。飲食部門担当は、息子さんの凜さんです。清水店での経験を積み、今回は「どら焼き」に取り組みました。皮の微妙な焼き具合に苦労し、試行錯誤の末、出来上がったどら焼きはおやつを楽しむ天御八の看板です。中のあんにも工夫を加え、5種類が完成しました。うち一種類は季節のどら焼きで、この季節は粒あんに柑橘系の寒天との組み合わせが秀逸です。
天御八のキューバサンド
また、お客さんからの要望もあり、ランチタイムも楽しんもらえるよう「キューバサンド」の新メニューが登場します。チーズ、ハム、ローストポークにピクルスが定番ですが、凜さんはここに新味を出し、柴漬けとべったら漬け、白みそを使っています。マヨネーズには辛子に柚子胡椒を加え、これもまた風味があり、単なる添え物と言えない仕上がりで、すべてに手を抜くことがありません。和風味のおいしさも食べ応えも十分です。
取材でうかがった日は、スタッフの坂本圭さんがメニューの撮影中でした。ホームページやSNSの、美しく情感のある写真は坂本さんの撮影です。
来年の干支のカレンダー
ショップコーナーには、早くも来年の干支「丑」のカレンダーがありました。これは娘さんの清(さや)さんのデザインとお聞きしました。新鮮かつ日本の伝統色を思い出す色使いが印象的です。奥さんの幸恵さんも染めの仕事をされてきたそうで、商品についてもとても詳しく、ていねいに説明してくださいました。手摺りのぽち袋や金封、はがきも様々なデザインがあり、それを楽しむことができるのも、このお店の魅力です。
ぽち袋が並んだ天御八の店内
中尾さんは、お祝いの心を表す金封や、感謝やお礼の気持ちをさらりと渡すポチ袋など、この文化をぜひ、受け継いでほしいと語ります。SNSは、とても便利で伝達手段で、今では誰でも使うと言っても過言ではありませんし、なくては困ります。それは必要として使いながら、手紙やはがきにしたためた便りを送るということも、大事にしたいと思いました。家にいる時間が多くなった今、手仕事の味わいを感じるはがきや、ぽち袋の新しい使い方が生まれて来るように思います。
取り澄ました感じがなく、居心地が良い天御八に「家業」の良さと「京都の生業」の精神が脈打っていることを感じました。京都のなかでも「ディープ」な場所にあるスタイリッシュなお店のこれからが楽しみです。

 

天御八(てんみはち)
京都市上京区一条下ル西側中筋町19-84
営業時間 10:00~18:00
定休日 水曜日

京都青谷 広がる楽しい梅つながり 

今年3月に「東風吹かば梅香る 京都青谷の春」でご紹介した京都府南部城陽市の青谷地区では、稀少種の「城州白(じょうしゅうはく)」や「加賀白」「南高梅」など梅の収穫に追われる日々が続きました。
田中保夫さんが経営する梅工房では、年々注文が増えている青梅の発送、梅干しや梅シロップ作りなど、寝る間も惜しむほどの忙しさですが、城州白特有の甘い香りが漂う作業場は、あわただしくも明るい活気にあふれています。大切に育てた「掌中の珠」のような、青谷の梅を仲立ちにした新しい輪が広がっています。

地域内の連携で、一粒たりとも無駄にせず


去年は梅が不作で、梅工房でも思うような量を確保することができませんでした。そして今年も、実の付きがあまりよくなく、近所の農家さんでも同じことを言われていました。
花が咲くのが早く、受粉がうまくできなかったのではないか、ミツバチそのものが少ないのではないかなどの原因が考えられています。
青谷が梅の産地であること、城州白が大粒で香りが良いことなどが知られるようになり、梅工房でも青梅での注文が年々増えています。実際、店舗へ買いに来られた方の第一声はみんな「わあ、いい香り」そして「城州白は香りが良くて、ふっくらした最高の梅干しができます」と、その魅力を語っていました。
収穫した城州白
しかし、今年の収穫量も少ないとみて止む無く一旦、青梅の注文受付を中止したところ、コロナウイルスの影響もあり、大口の製菓材料など、行き先をなくした梅が大量に生まれ、引き取りを依頼されました。田中さんは「農家さんが土作りや草刈り、剪定など一年通して手をかけ、やっと収穫できた大切な梅を一粒も無駄にしたくない。うちも、ほしいと言ってくれるお客さんを断らなくてすんでありがたい」と力を込めました。
今回のような「梅余り」が、今後も起きる可能性はあります。個別の問題ではなく、地域課題としてとらえ、みんなで解決の方法を探ることが、安心して梅作りができる環境と、特産の梅を守ることにつながると思います。そうした積み重ねのなかで、担い手も生まれてくるのではないでしょうか。

新しく頼もしい力が変化を起こす

城州白の選別城州白の選別
一つ一つていねいに手もぎした梅は、すぐに次の作業へと移ります。選果場で大きさ別に分けられ、その後工房でもう一度、人の目によってチェックし、秀・優など等級も仕分けしていきます。注文に沿って、梅の品種、サイズ、等級で選び出し計量、梱包となります。直接引き取りに来るお客様には、すぐに間違いなく渡せるように万全の準備がされています。同時に梅工房の梅干し作りも進めていきます。梅は畑から収穫されてきた後「こんなにたくさんの手作業があって、やっと人の手に渡るのだ」と感じました。

普段は別の仕事をされている4人の女性の、きびきびと立ち働く姿や、お客さんが入って来た時、作業中でも「こんにちは」「いっらしゃいませ」という、きりっとしたあいさつも、工房内に気持ちの良い雰囲気をつくっています。黙々と、きちんと丁寧な仕事をしている若い男性スタッフも一緒に息の合った仕事ぶりでした。
自分達で段取りや仕事量を考えてながら作業を進めていく、仕事のとらえ方や姿勢は、業種に関係なく、基本は同じということを改めて感じました。梅工房から離れた幹線道路沿いの梅畑に看板を立てて、梅を売ろうという提案もされています。今年は残念ながら実施できませんでしたが、来年に向けて実現したい企画です。
そして、みなさんの梅の扱いが手馴れてきて、何と言うか、梅への思いも深まっているように感じられました。こういうかたちの、青谷の梅の支え手が増えていけば、すばらしいと思います。梅農家とともに、梅の関連の雇用も生まれる循環は可能だと思います。

梅から生まれる「塩梅」のいいつながり

城州白の収穫

青谷の城州白を使い、京都の老舗製菓会社が開発した青梅金平糖

梅工房の梅を使った商品開発をされている、製菓業や飲食店運営・サポート等の事業を行う会社の方が参加して、収穫体験が行われました。どこで、だれが、どんな畑でどのようにして育てているのか、農作物の源流と素顔を知るという、とても大切なことを実践されています。このような企業が増えてほしいと願います。

インターネットで検索していて、たまたま知って大津から来たという小さなお子さん連れの30代前半と見えるご夫婦は、5㎏の城州白をお買い上げ。「毎日のお弁当に使う分くらいは自家製で」と毎年梅干しを漬けていると聞き、暮らしの知恵や技術はちゃんと受け継がれているのだなあと、感心すると同時にうれしく思いました。

青谷梅工房のインスタグラム
梅プロジェクトのみなさんが運用している青谷梅工房のinstagram

若い世代では、龍谷大学深尾ゼミ「梅プロジェクト」のみなさんが去年から活動を始め、自分達の視点で青谷地域と梅の魅力を発信しています。炎天下での梅の収穫も体験しました。なかなか大学での直接会っての授業やゼミ活動ができないなかで、地域と産業の関係、暮らしの在り様などについて考え、梅レシピをアップするなど、一生懸命青谷の梅を盛り立てています。こういった様々なかたちでの、地道なかかわりが今後も継続し、また新しく生まれていくことが、地域と産業・生業を応援することにつながると思います。
地域に根付く生業は、地域とそこに住む人の幸せにつながります。青谷はおしゃれな店や大型店はないけれど、地元に暮らす幸せ、仕事や働くことの意味を教えてくれます。青谷はそういうところです。
梅工房特製の、梅シロップは間もなく、今年漬けた梅干しは10月に店頭に並ぶ予定です。どうぞ、お楽しみに。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5JR山城駅徒歩5分
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜・祝日

 

龍谷大学深尾ゼミ 梅プロジェクト

京都の竹林再生 幼竹がメンマに

5月に2回にわたってご紹介した、京都の西、乙訓の竹林では、来年も良い筍が育つように日々作業が行われています。
筍をとる親竹を選び、それ以外の「幼竹」を切る仕事も、待ったなしです。「京の伝統野菜」である筍の伝統的栽培法を継承し、乙訓地域の特徴的な景観である美しい竹林を守るための輪が、今、大きく広がっています。長岡京市の石田ファームと、向日市にある再生中の竹林での活動の様子をお伝えします。

厄介者の幼竹をおいしく加工する取組み


孟宗竹の筍の収穫が終わると、残った背の高いたけのこを切る作業は、成長して固い竹になる前「幼竹(ようちく)」のうちに切らないと処理が大変です。何しろ竹の成長は早くて、中には一日で1メートルも伸びることもあるくらいですので待ったなしの仕事です。そして、最近はこの幼竹を「純国産メンマ」に加工する取り組みが全国で広がっています。
石田ファームでは、この幼竹切りとメンマ作りが恒例となっていて、毎年顔なじみのみなさんが集まります。石田さんは「全国のラーメン屋さんに使ってもらえるメンマができるほどの幼竹。切っても切ってもまだある」と悲鳴をあげていました。

少し離れた竹林から軽トラックで運ばれてきた幼竹の皮をはがしていきます。主に2メートルくらいの大物を切ってきたので、皮もはがし甲斐があります。黙々と作業をします。ほとんど竹にしか見えないのですが、包丁を当てて、さくっと刃が入ったところから一定の長さに切り、湯がき、冷ましたところで塩漬けにし、重石を乗せて1か月ほどおくと、いい具合に水が上がり発酵します。

石田さんお手製のメンマ

今年はコロナウイルスによる自粛中でしたので、募集をすることはできませんでしたが、その代わりに希望者には「おうちでメンマ」セットを発送することにしました。塩漬けした幼竹を宅急便でその日に発送。作り方がよくわかるすてきなリーフレットもできていました。最初に伺ったときにごちそうになった「メンマ」も、塩漬け発酵したものを塩出しして味付けしたものだそうですが、とてもよくできていました。石田さんはメンマの商品化を試みていますが、小ロットで加工してもらえるところがなかなか見つからないと言われていました。乙訓の新しい名産にぴったりです。何とか商品化に漕ぎつけることができればと思います。


一方、向日市の竹林では2017年にたちあげた任意団体「籔の傍(やぶのそば)」のみなさんが、竹林整備を通して、様々な活動をされています。5月も末の日、朝9時から、にぎやかに作業を進めていました。この竹林は斜面にあるので、切り倒した幼竹を、作業をする平坦な場所まで運ぶのも一苦労なのです。指令があるわけでもないのですが、みなさん自然と分担ができて和気あいあいと仕事を進めていました。湯がいた幼竹を計るのに、参加者の方がヘルスメーターを持って来て、幼竹を持って人が乗り、その体重を差し引くという方法が何とも楽しげです。この日は38㎏のメンマ用幼竹ができました。

お昼には、お味噌汁が振舞われました。具は油揚げとお豆腐に、幼竹の穂先。そしてお椀はその場で切ってくれた青竹です。今ある物を工夫し、活かして使うという、暮らし方の基本も教えてもらいました。

世代をつなぐ活動で、よみがえる竹林

小学生も率先して仕事をしてくれています

任意団体「籔の傍」では、これまでに竹林整備を中心として、講演会、たけのこ堀り、たけのこお料理教室、竹かご編みなどを行ってきました。親子での参加も多く、顔なじみの家族も増えています。そして幅広い世代が参加していることが素晴らしい点です。
メンマ作り当日も様々な世代が交り合い、親戚が集まった大きな寄り合い的な雰囲気でした。包丁や火を使うこと、急な斜面の上り下りなど「危ない」と、心配されることが多いのではないかと思いますが、親子ともども伸び伸びと動いていました。
幼竹を担いで運んでくれた小学生の男の子は、竹皮のうぶ毛のチクチクで背中や腕が赤くなってしまったり、ずっと火焚き番をしてくれた男の子は、羽釜のふたを閉めたりずらしたり、火の加減を見ていてくれて、汗だくでした。おとなと一緒に作業をすることは、とても良い体験になるなと感じました。火の燃える匂い、目にしみる煙、竹の葉ずれの音、土の湿りなど、きっと心の奥にしまいこまれたと思います。

この竹林には、前回「暮らしの営みや 人とつながる建築の喜び」でご紹介した、京都建築専門学校の佐野先生と学生のみなさんがつくった玉ねぎ茶室のほかに、すべり台、ブランコ、シーソーなど竹尽くしの遊具もあります。茶室は子どもたちの、とても良い探検の場になっていました。この日も、佐野先生ご夫妻がみえてストーブの調子を見たり、パフォーマンスができるステージつくりのお話もされていました。これからどんなふうに進化していくのか楽しみです。
「籔の傍」では、6月28日、メンマ作りの先駆けとなった福岡県糸島市から「純国産メンマプロジェクト」の方のお話と「メンマ料理コンテスト」が企画されています。みなさん、どうぞ、ご参加ください。京都の竹林や環境について知り、考えるきっかけになれば幸いです。

 

 

石田ファーム
長岡京市井ノ内西ノ口19番1

 

任意団体 籔の傍(やぶのそば)

京都の筍は ふかふかの畑で育つ

毎年待っている、淡い香りの白くやわらかい筍。京都では外せない季節の味わいです。春の初めの走りから、あたたかい雨を受けてぐんと成長する旬まで、時々の筍を楽しみます。
京都の西、乙訓(おとくに)地域は「京の伝統野菜」に指定された京筍の本場です。まだ地面から顔を出す前に、土の中から熟練の技で掘り起こします。「白子」と呼ばれるこの筍は、一年通しての手入れが欠かせない「畑」からしか収穫することはできません。
伝統の栽培方法を受け継ぎながら、多くの人に竹に親しんでもらう場としてのイベントの企画、竹パウダーなど新しい使いみちの開発、高齢化による放置竹林の整備など「日々是好竹」と忙しい毎日を送る筍農家三代目の石田ファーム 石田昌司さんに話をお聞きしました。

農薬・化学肥料一切なしの畑


筍は竹の若芽の総称です。成長が早いことから「十日」を意味する旬の字を当てたと言われています。出回る筍の多くは「孟宗竹」の筍で、江戸時代末期にはその栽培が急速に広まりました。乙訓地域の地質は、酸性の粘土質で水はけがよく、生育に適していることも好条件でした。明治35年、現在の京都市西京区、向日市、長岡京市、大山崎町の23か村にわたる筍組合が組織され、栽培方法が共有されていたことが記された文書が残っています。ずいぶん早くから地域の重要な農産物として育てていこうという先見の明があったのです。

石田ファームの石田昌司さん

こもれびがさし込む竹林は空気が違います。風にそよぐ竹の葉のさやさやという音や、すっかり上達したうぐいすのさえずりが絶え間なく聞こえてきます。取材に伺ったのは白子筍の最盛期で、石田さんは「うぐいすの声に耳を傾ける間もない」ほどの忙しさのなか、石田ファームだからこそのお話を聞かせていただきました。

白くやわらかな京都特有の筍は「京都式軟化栽培法」という伝統の栽培方法で育てます。春の収穫が終わると「お礼肥」を施し、筍を生む親竹の先を折って根と竹本体を守り、日当たりや風通しをよくします。その後6月には「さばえ」という細い竹の刈り取り、夏には肥料で養分を与えます。石田ファームでは有機肥料を使っています。秋は、古い親竹を伐採し、稲わらを敷きます。この稲わらは石田さんの田んぼで収穫されたお米のわらです。そして冬は、敷きわらの上に赤土粘土をを重ねる「土入れ」をすることで、ふかふかの布団のような畑になります。この土運びも重労働です。白子筍は短い間ですが、たけのこ畑の手入れは一年中の仕事です。

竹チップの堆肥とお手伝いにきてくれた美山町の岡さんファミリー

石田さんは農薬、化学肥料を一切使いません。竹林は有機認証を受けています。竹チップの堆肥は、奥のほうは、ほかほかしてあたたかく、かぶと虫の幼虫のベッドになっています。
竹林と隣り合う畑いっぱいに咲く白い花は、種を採るために植えられた「固定種」で、この地域のお正月を祝うお雑煮に使う、雑煮大根の花でした。固定種とは、先祖代々受け継がれ、農家が自ら種を採っています。昔ながらの味で個性がありますが、大量生産には向かず、病気にも強くありません。

有機栽培にしても固定種の種を守ることも手間はかかり、収量は少ないなど苦労されることが多いと思います。でも、これからは「作物は商品ではない」と消費者も認識する、双方向の関係がいっそう大切になってくると思いました。

お話が一段落したところで、石田さんのお父様、健司さんとご一緒になり、朝堀りの白子筍のごちそうにあずかりました。健司さんは今年の6月で94歳、3~4年前までは筍掘りもされていたと聞いて驚きました。「化学肥料を使わんと、ごま油の搾りかすをやって、土がええし、甘みがあってええ味や」と、土の大切さをしっかりした口調で話された姿は50年続くこの竹林を受け継ぎ、竹とともに過ごしてきた方のまぎれもない風格でした。
生まれて初めて、生の筍いただきました。石田さん曰く「りんごの食感と、とうもろこしの甘み」さくさく、しゃきっとして甘みと香りは果物のよう。初めて巡り合った滋味です。

掘るにも道具にも職人の技


やわらかい筍を土の中から掘り出す道具は乙訓独特のもので「ホリ」言います。長さは1メートルほどで刀を思わせる静かな鋭さがあり、先端はU字型になっています。土の中に刺しこみ、手に伝わる感触で筍と地下茎がつながっているところを突いて切り離し、てこの原理で掘り起こします。まさに職人技です。
父親の健司さんによると、ホリの先は一日で摩耗してしまいますが、鍛冶屋に渡せば夜なべをして次の日の朝には、またしっかり使えるようにしてくれたそうです。「昔はそういう鍛冶屋が村に一軒はあった」という話は、当時の乙訓地域の筍栽培の隆盛ぶりがわかります。
ホリをつくる職人さんも少なくなってしまったそうですが、石田さんが使っているホリは、まだ40歳くらいの職人さんの作です。

筍を入れるかごや運搬用の箕(み)などを作る竹細工の職人さんも少なく、手に入れにくくなっているそうです。以前は当たり前にあったものが、手間がかかるということでなくなる寸前になっている竹細工を、なんとか残したいと考えています。脱プラスチックが世界中の大きな課題になっている今、竹に光が当たる時がめぐって来たと感じます。

さて、いよいよ筍掘りの見学です。美山町の岡さん家族も一緒に筍畑へ入りました。乙訓地方では昔から「お客さんを座敷にあげても、竹藪には入れるな」という言葉があるほど、竹林を大切にしてきました。
「三方にひび割れが目印なので、そこを踏まないように。そこそこ」と石田さんに教えてもらいながら、踏まないように、おっかなびっくり目印に近づきました。石田さんは慎重にホリを使いながら、最後のほうは体重をぐっとかけて掘り出しました。

ヒビの中心に筍の先がほんの少し見えています


一日に何十キロもこうして傷をつけずに掘り出す仕事は、力もいるし、神経も使う、考えながらしないとならない、大変な職人技です。石田さんが言われたように、たけのこ農家は60代は若手と言われる現状で、畑つくりも含め、一貫して学べる養成講座のようなシステムが必要になると思いました。そして、環境に負荷のかからない循環型のたけのこ栽培を志す人が増えればいいなあと、竹の夢が広がります。

物々交換に似た関係が力になる


今回は竹や筍のことだけでなく、古民家や紙飛行機つくりなど趣味についても楽しい話を伺いました。吹き抜けになった二階の天井には、高校生の時に作ったという大きな工作飛行機が見えます。楽しそうにそして熱心に話す様子は少年のようです。このお人柄で、石田さんが言うところの「物々交換に似た関係」の輪がどんどん広がっています。
美山の岡さんご夫婦は、美山での獣害で全滅した「ねこやなぎ復活プロジェクト」がご縁で、たけのこ畑の作業などの手助けをしてもらっているそうです。「こういう関係が困った時に助けてくれるんです」とほがらかに語ります。

中央のメンマに加え、美味しい筍料理を色々いただきました

毎年ゴールデンウィークの最終日には、大きくなった不要なたけのこを切り倒し、その幼竹を使ってメンマ作りをするイベントが開催されます。メンマ作りは、今全国に広がっている、不要な幼竹の活用方法で、地域おこしや景観保全にも一役かっています。

少し離れたところにある、山の竹林に「茶室」建築中です。京都建築専門学校の校長先生と学生さんの協力でだいぶできあがっています。荒壁にはちゃんと竹が組まれています。昔のようにもっと身近なところで竹を使えるようにという願いも伝統工法によって活かされています。
石田ファームは、これから孟宗竹から、破竹(淡竹、白竹とも書く)そして、真竹のたけのこへと移ります。その合間を縫っての田んぼや畑の仕事も待っています。6月いっぱいまで気の抜けない石田さんですが、また助けてくれる人たちがやって来るでしょう。
「物々交換に似た関係」は、売り買いの場にも当てはまる気がします。作ってくれた人とお金というものと交換するものに感謝する。消費や経済にも、これからはこういうあり方が広がる可能性を感じた一日でした。

 

石田ファーム
長岡京市井ノ内西ノ口19番1

青谷で40年 信用第一の和菓子店

訪ねた先は、前回の「東風吹かば梅香る京都青谷の春」で、少しご紹介しました和菓子店です。自店であんを炊き、その誠実で間違いのない味は、地元のみなさんからの信頼も厚く、お祝い事や季節の習わしなど、暮らしの折々を彩るお菓子として喜ばれています。
また、青谷特産の大粒で香り高く、果肉の味わいに特徴のある希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」を使ったお菓子を開発し、青谷地域盛り上げの一翼を担っています。こういうお店が近所にあったらうれしいと思う和菓子店「梅匠庵 若松」のお店で話をお聞きしました。

普段のお菓子に使う自家製のあん


ローカル線ののどかな気分に満ちるJR山城青谷駅の改札口を出ると、目の前が梅匠庵若松です。建物を見ただけで「きっと美味しいに違いない」と感じさせるたたずまいです。
店主の久保川守さんは、修行時代を含めると、55年の経験を積んだ職人中の職人です。独立して、はじめは宇治で開店し、その後青谷に店を構えて40年になります。移転する時「青谷の少ない人口で商売をするのは難しいよ」と言われたそうですが「地域のみなさんに可愛がってもらえて、あてにしてもらえる店に」と、一心にお菓子作りに励んだ積み重ねの年月です。「気がついたら40年たっていたというのが実感です」と静かに語ります。

中に城州白がまるごと入った梅大福

久保川さんの「和菓子はあんが命」という言葉にも、重みと力があります。和菓子にもいろいろな種類がありますが、生菓子にもお茶事やお客様用の上生菓子と、朝に作りその日のうちに売り切る「朝生菓子」略して「朝なま」と呼ばれる庶民的なものがあります。おなじみの大福やお団子、さくら餅や柏餅などがそれにあたります。
今、和菓子店で、自家製のあんを炊いている店は少ないのではないかと思います。若松の魅力、良さは、このような気軽な朝なまのお菓子にも、自家製あんを使っていることです。ここが美味しさをぐんと格上げしていると感じます。
お客様から「あんたのとこ安いなあ」と言われるそうですが、久保川さんは「毎日食べてもらう、おやつのお菓子やから。みんなに可愛がってもらって、続けていくことが一番大切」と、ためらうことはありません。質実ともに地域に根差したお店なのです。

頼もしい跡継ぎの存在が励みに


以前は町なかによく見かけた、若松のような和菓子屋さんが、めっきり少なくなった気がします。久保川さんは「この稼業も跡取りの問題が大きい。その点うちは本当にありがたい」と語ります。和菓子の道へ入って10年目という、跡継ぎの武田圭祐さんにも話をお聞きしました。
武田さんは、久保川さんの娘さんと同じ製菓学校で学び、洋菓子店に勤務した後に、結婚を機に若松へ入りました。洋菓子で使う小麦粉とバターやクリームなどの素材に対して、和菓子は油性のものをほとんど使いません。何もないところから作るのは和菓子も洋菓子も同じですが、慣れるまでは戸惑いながらの毎日だったそうです。そして「父の仕事を見ていて、和菓子は確かに職人の勘というものがあると感じます」と続けました。

久保川さんは「あんを炊いた時、時間は計るけれどそれだけではない。その日の気温や湿度、豆によっても違いがあるので、それを見極めて炊くのが難しい。しゃもじであんをすくってみて、今日はどうや。もういいか、もう少し炊くかと、ぎりぎりのせめぎ合いで、100点と思ったことは一度もない」と語りました。

武田さんの語った「和菓子職人の勘」は、毎日一緒に仕事をするなかで、心から感じたことであり、深い敬意が込められています。また久保川さんも、何度も跡継ぎの大切さを言葉にし、「これからは若い人の時代やから、どんどん前に出てきてもらう」と、武田さんを頼もしく思っている様子が言葉の端々に、にじみ出ていました。二人の和菓子に対する姿勢や、気持ちの通い合いが若松のお菓子のぶれない美味しさを作っています。

家族で担う「和菓子で地域に貢献」


若松には常時40種類近くのお菓子が並びます。そのほとんどが自家製造です。
イラスト入りの商品ポップは、武田さんの奥さんが作っています。梅まつりの期間中は、建物の外側に商品のパネルを張り出すなど、若松の和菓子をより多くの人に知ってもらうための工夫を惜しみません。

祝儀不祝儀、季節の贈答用、ちょっとした手みやげにと、以前は暮らしのなかにお菓子をお使いものにする習慣がありました。しかし今は、核家族化も進み、生活習慣の変化も伴い、以前に比べるとその需要は格段に少なくなりましたが、先日はお孫さんのお誕生の内祝いにとお赤飯の注文がありました。もちろん、お赤飯も若松製です。渡す日時からの逆算で、小豆を水につけるところから始まります。
店内には、お赤飯や上用まんじゅうの箱の見本や、季節の行事と人生の節目のお祝いの一覧が張ってあります。おめでたい事をお祝いする心をあらわす贈答の習慣をよみがえらせて、人と人のつながりをもう一度結び直せたら、どんなに良いことかと思いました。

和菓子作り教室は地元の新聞にも取り上げられました

久保川さんは、城陽市観光協会「梅の郷青谷づくり特産品部会」の主催の地域の方を対象にした和菓子作り教室での講師を務め、武田さんは、城陽高校の授業の一環として、和菓子作りを教えました。体験した高校生が「すごく美味しい」と言ってくれたと嬉しそうでした。和菓子を知らない若い世代に食べてほしい、和菓子で季節を感じてほしいという願いは、地道な取り組みのなかで必ずかなえられると思いました。

城州白を使った大福、マドレーヌ、どら焼き、ようかんなどは、青谷の地元の手みやげとして好評です。そして贈られた先の方が「美味しかったから、買いに来ました」と来てくれる時は本当にうれしいと、菓子屋冥利に尽きる物語もたくさんありそうです。
創業以来の看板商品「茶人好み」は、白あんに抹茶を練りこんだ桃山仕立てのお菓子です。城陽はお茶も有数な産地で、京都府の「お茶の京都」の広報にもこの茶人好みが紹介されました。
「信用が第一。いつも安定した美味しさでなくてはだめ。毎日緊張してお菓子を作っている」という、久保川さんの言葉に、裏切ることのない誠実な仕事への姿勢がどんなに大切なことかを教えてもらいました。和菓子のおいしさは人をつなげ、青谷の地域の幸せにつながるに違いないと感じた一日でした。
まもなく、店頭に柏餅が並ぶ風薫る季節がやって来ます。

 

梅匠庵 若松
京都府城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日 月曜日

東風吹かば梅香る 京都青谷の春

冬とは思えない暖かい日が続き、寒風のなか、他の花に先がけて咲く梅も、今年は特に早い開花となりました。古くから梅の名所として知られていた、京都府南部の城陽市青谷地域の約1万本の梅が咲き誇っています。
昨年「山城青谷地域 希少な梅で新しい風を」でご紹介しました、青谷梅工房代表の田中昭夫さんは、毎年開催される「青谷梅林梅まつり」を盛り上げようと、いつも楽しい企画を考えています。今年はさらに「青谷梅林の魅力を梅工房がバージョンアップ」と、画期的な内容となっている様子です。春うららの一日、青谷を訪れました。

アートのある梅林へ、はじめの一歩


梅工房の梅林店を目指して歩いて行くと、木の高さほどに、円錐形に張られたロープが見えてきます。「陽」と名付けられたこの作品は、剪定された梅の枝で、淡い紅梅色に染められています。江戸時代、染の媒染に使う烏梅をつくるために広大な梅畑があったという、青谷の歴史を掘り起こして生まれた作品です。近くにテーブルと椅子が置かれ、ゆっくりした時を楽しんでいる人の姿が見られます。小道をはさんだ向かい側には4作品が展示されています。それぞれ時とともに変化する日の光を受けて、印象も変わります。

田中さんは、のどかな里山をゆっくり散策できる青谷の魅力をさらに進化させ、もっと多くの人に足を運んでもらうにはどうしたらいいかと考えていました。そこでひらめいたのが、現代アートが展示される瀬戸内の島々のような「アートのある梅林」です。田中さんがモデルとした瀬戸内国際芸術祭は、香川県をあげて取り組んでいる超大型の芸術祭で規模の違いはありますが、テーマに掲げている「海の復権」は「城州白で地域を元気に」という梅工房の思いと、根本は共通しています。そこで協力してくれる人を、つてを頼りに探しました。普段から多くの人とかかわりを持っている田中さんの強みで、知り合いを通じて、京都造形芸術大学の卒業生と在学生の協力者が見つかったのです。

3年前から梅まつりの期間中、梅林にも店を出していますが、そこがアートを展示する会場です。腰の高さまで茂った草を刈り、竹林を切り開いた場所では竹の根っこや頑固な切り株を掘り越しました。この重労働は、造形大のみなさんも一緒にやってくれました。作品の設置も含め、寒い中での作業は大変だったことと思いますが、より思いのこもった展示会場になったのではないでしょうか。作品が点在する梅林は、周囲の自然と調和した青谷の新たな景観をつくり出しています。
作品展示は3月20日(金)まで。

四季折々、歩けば感じる青谷よいとこ


さえぎるもののない空とのどかな田園風景が広がり、気持ちが解き放されていくように感じます。田んぼで何かをついばんでいる、はとに似たつがいの鳥がいました。長いくちばしと足が鮮やかな黄色をしています。「けり」です。その鳴き声から、この名がついたそうです。きっと環境が良くて、子育てしやすいのでしょう。

梅工房を通り過ぎてすぐ、旧道の趣きのある道を進むと、お茶のいい香りが漂ってきました。慶応三年の創業以来「決して天狗になってはならぬ」という家訓を守り、「天狗の宇治茶」を商標にする、伝統の宇治茶一筋の茶問屋「碧翆園」です。碾茶で名をはせるお茶の名産地城陽の茶業を支えています。碧翆園の加工場と古い民家が並ぶ一画は、とても雰囲気があります。

梅林をたどる道々は、満開の菜の花と、咲き方や色が微妙に違う梅の花を楽しむことができます。うぐいすが盛んに鳴いています。姿は見えませんがすぐ近くのようです。完璧と思う鳴き声と、あきらかに練習中の鳴き声が交互に聞こえ、すれ違う人と思わず笑いあって会釈しました。
梅林の規模や絢爛な雰囲気ではなく、田中さんも言われているように、まわりの山々や民家と一体となった里山としての景観が青谷の魅力なのだと実感しました。

城陽酒造の杉玉
青谷特産の城州白

梅の郷めぐりの終わりは、JR青谷駅すぐにある、創業明治28年の「城陽酒造」と和菓子店の「梅匠庵若松屋」へ。若松屋では、大粒で香高い青谷特産の希少な梅、城州白を使ったどら焼きや大福など、地域根ざしたお菓子を作っています。気取らずにおいしい親しみのあるお菓子が並びます。以前はそれぞれの町に一軒はあった和菓子屋さんらしい和菓子屋さん。貴重なお店です。線路を渡ると、新酒ののぼりがはためく城陽酒造が見えます。他府県ナンバーの車も次々と入って来ます。こちらの「梅サイダー」は梅工房でも定番品として置いています。また、城州白の梅酒は「梅酒バー」でもほとんどの人が注文する、ご当地自慢の梅酒です。豊かな自然、旧村の面影を残す民家。そして梅とお茶。その特産品を生かしたお酒やお菓子のお店。季節の移ろいとともに、また違った発見があることでしょう。ゆっくり歩いてみれば楽しさは尽きない、そんな思いを抱きました。

青谷地域と梅工房の明日の夢


田中さんは「まず、地元の人が行ってみたいなあと思ってもらえる梅まつりにすることが今の課題です」と語っていました。梅まつりを短期間のイベントで終わらせるのでなく、地元の人がかかわることで、日常的な結びつきをつくり、青谷を盛り上げることができないかとも考えています。そこで今年の梅まつりでは、梅工房の梅林店で「体験イベント」を企画してもらいたいと呼びかけました。去年の秋から取り組んだ結果、6つの体験ブースが決まりました。お箏、かじや、梅の枝の鉛筆づくり、染め物、ウクレレ、ヨガと本当に個性ある体験ブースが企画されました。また飲食ブースの9品の中には、龍谷大学のゼミ生によるおにぎりもありました。大変残念なことに、これらの企画は今日の状況にかんがみ中止となりましたが、この経験とつながりは必ず今後に生きると感じています。

田中さんは、このような体験や季節のイベントをつくりながらも、やはり本業の梅事業に向ける時間をもっと生み出したいと強く思っています。城州白を中心とする質の良い梅の安定的な生産と、梅を使った商品開発です。違う業種、違う世界の人たちの出会いから「青谷の梅を使って、こんなふうにすばらしいものができるのだ」という喜びは、大きな支えになっています。
城州白のブランデーをつくられた、千葉県の房総半島にある「mitosaya薬草園蒸留所(みとさややくそうえん蒸留所」代表、江口宏志さんとの出会いは、田中さん自身にとっても、また城州白という梅にとっても新しく切り開かれた可能性でした。江口さんから送られた城州白のブランデーのボトルのラベルに「FROM AODANI UMEKOBO」と梅工房の名前まで書かれていた感激は生涯忘れることはないと語ります。江口さんは「自然からの小さな発見を形にする」という目標に基づく、志あるものづくりをされています。
田中さんは、昨年の京のさんぽ道の取材のなかで「やっていることに夢があるかどうか。みんなで取り組むことでも、自分自身が夢を感じているか、です」と語っています。これからも梅と深く向き合い、楽しく地域とかかわり盛り上げていく。その夢の実現にむけて、今日も一日梅に思いをめぐらせ、梅園へ出かけます。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

 

城陽酒造
城陽市奈島久保野34-1
営業時間 平日 8:30~17:30
土曜日9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

 

梅匠庵 若松屋
城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日  月曜日

京都府南部 東一口のお正月のにらみ鮒

京都のお正月は、おせち料理と一緒に「にらみ鯛」と呼ばれる塩焼きの尾頭付きの鯛が並びます。今はそのとおりにするお家は少ないと思いますが「よう、おにらみやす」と、三が日は箸を付けない仕来りです。
お祝事には鯛ですが、にらみ鯛ならぬ「にらみ鮒」でお正月を祝う地域があります。京都府南部、久御山町(くみやまちょう)の「東一口(ひがしいもあらい)」地域は、近くにかつて湖のように大きな「巨椋池(おぐらいけ)」が広がり、様々な淡水魚に恵まれ、漁業が盛んであったことから、豊かな川魚の食文化が今も受け継がれています。代々東一口に住み続ける鵜ノ口家17代目、鵜ノ口彦晴さんに、にらみふな鮒を中心にするお正月や川魚の話を伺いました。

巨椋池とともにある東一口の歴史

江戸時代の巨椋池(wikipediaより)

「一口」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡、平家物語まどに「芋洗」「いもあらひ」と記され、古くから交通や軍事の重要な位置を占めていました。
三方を巨椋池に囲まれ、入口は一方だけ、つまり一つの口であったため「芋洗」を「いもあらい」としたする説や、豊臣秀吉が宴を催し、流した短冊を鯉が一口に飲み込んだからなことはという言い伝えも入り乱れ、諸説あるものの、今もって定かなことはわかっていません。芋洗という地名になったいきさつも含め、興味が尽きません。

一口地域は、東一口と西一口に分かれていますが、巨椋池の西側堤防上にある東一口は漁業を主としながら農業も営み、西一口は農業を専らとしてきました。伏見区、宇治市、久御山町に広がる巨椋池は、度々の氾濫で人々を苦しめましたが、一方で川魚の豊かな漁場として恵みももたらしました。
鮒、鯉、うなぎ、なまず、どじょう、すっぽんなど多種類の魚があがり、東一口は特別な漁業権を認められていました。その大元締めであり大庄屋であった山田家の住宅が「国登録有形文化財」の指定を受け、一般に公開されています。
巨椋池は干拓によって消滅しましたが、通称前川と呼ばれる巨椋池排水幹線と古川の二つの流れの間にあり、民家が軒を並べる東一口の集落は、巨椋池とともにあった歴史や暮らしに思いを巡らすことができます。

にらみ鮒は、ことこと三時間


ぴんぴん跳ねる大きな鮒は、1週間ほど水槽で泳がせて泥を吐かせます。そうすることで、気になるにおいや、あくがなくなります。
鵜ノ口さんが、鮮やかな包丁さばきで鮒をおろしていきます。最初にうろこを引きますが、銀鱗という表現がぴったりの美しいものでした。内蔵を取る時「苦玉(にがだま)」と呼ばれる胆のうを傷つけると1匹全体が苦くなりどうしようもなくなるので、慎重に取り出します。味がしみこみやすいように、おなかと背に飾り包丁を入れます。

大鍋に竹で組んだざるのようなものを敷き、その上にきれいにさばき終えた鮒を並べます。この竹を敷くことで、焦げ付きにくくなります。使わない時は折りたたんで収納しておけるすぐれ物です。ひたひたにお酒を入れて火にかけます。煮えてきたところで丁寧にアクをすくうのですが、水槽で泳がせた鮒からは、ほとんどアクが出ませんでした。砂糖と醤油を入れたらことこと、焦がさないようにゆっくり炊きます。だんだん良い匂いが漂ってきます。

お正月は、きれいに炊き上がった尾頭付きの大きな鮒を、銘々に一尾ずつお膳につけてお祝いします。運良く「子」が入った鮒がついたら大当たり。「鯛より旨い。子どもも喜んで食べる」そうです。鵜ノ口さんは「炊きたても旨いけれど、一日おいた鮒も旨い」と言います。そして「残った頭に番茶を注ぐと、これがまた旨い」のだそうです。
もろこの天ぷら、もろこの甘露煮が入った海苔巻きや押し寿司、型押しだんご、久御山町の特産品の淀大根の炊いたものなど、手間を惜しまず、丁寧につくられたそれぞれの家の味は、毎年のお正月、そして毎日食べても食べ飽きない美味しさがあります。

食材を余すところなく使い、それぞれの部分の味を楽しむ。これは現代においては、高度で豊かなことだと感じます。それを、声高く宣伝することもなく、普通に同じことができる暮らしが東一口には続いています。鵜ノ口さんは「古川で泳いだり釣って来た魚を料理する祖母、母親の姿することを見て育ちました。私は川魚で育って来ました」と笑って話しました。漁具や農機具などを収納する建物は、りっぱな梁が通り、天井に川魚の煮炊きに使うざるなどがかかっています。川魚漁は閉じても、その知恵や味わいは今も暮らしのなかで引き継がれています。

東一のふる里を学び、楽しみながら継承する


鵜ノ口さんのお宅の前は古川です。川の付近の草刈りや掃除など、地元の人や子どもたちの通り道を少しでも美しく、楽しくしたいという思いからです。美しい白の椿は毎年、初釜に使ってもらったり、水槽の魚を子どもたちが興味深々に見に来たり、小さなあたたかい交流が芽生えています。
平成22年に山田家が文化財に登録されたことをきっかけに、この歴史的な建物の活用と、自分たちが住んでいるふる里、東一口についてもっと学び、みんなで知ろうと「東一口のふる里を学ぶ会」が平成24年に結成されました。現在27名の会員が年間通して様々な活動にかかわっています。会長を務める片岡清嗣さんも17代目です。「農業と違って川は、ここまでがうちのもの、という区切りがありません。端から端までみんなで共有しています。そういうことが根底にあって、洪水が起きた時も力を合わせてきたから、この東一口は昔も今も、住んでいる家がほとんど残っているのだと思います」と話されました。

在りし日の巨椋池(wikipediaより)

巨椋池と川魚漁。その深い結びつきが生んだ住民の結束と、文化や知恵はこういうところが源泉にあるだと深く感じました。
それぞれのお家の、それぞれのかたちのお正月。新年を迎え、京都の町並み、暮らしと文化が継承されますよう、そしてすこやかな年となりますようお祈りし、建都もいっそう京都の企業としての役割を果たしてまいります。