菜の花の里 洛北松ヶ崎

野山に草木が芽ぐみ、京都も春萌える季節になりました。桜が終われば、次はつつじや牡丹と、花めぐりを楽しみにしている方も多いことでしょう。黄色の菜の花がいっぱいに咲く風景は、うららかな春そのものですが、のどかに花を眺める暇もなく早朝から、伝統の「花漬け」用の菜の花摘みに忙しい、洛北松ヶ崎を訪ねました。

水路を巡らせた妙法のふもとの地


松ヶ崎は、平安遷都の時の記録に残る、古くからの歴史を受け継ぐ地域です。遷都の際、皇室へ納めるお米を作る「百人衆」と呼ばれる人々が移り住んだことに由来するとされています。
宅地開発がさらに進んでいるように感じましたが、手入れされた畑が多く、菜種油を取るための菜の花や麦が作られていた豊かな農村の風景が残っています。

漆喰塗の民家、前川と呼ばれる家の前を流れる水路、背後の五山送り火「妙法」の山、東にそびえる比叡山。京都市内でありながら、市街地や近くの北山通とはまったく違う、特徴的な景観です。
この水路は、宝ヶ池から高野川にある堰から松ヶ崎へ流れ、長く農業用水として田畑をうるおしてきました。今はこの取水地がありますが、以前は地元の方がすべて管理していたそうです。現在も松ヶ崎水利組合があり、組合長さんや「水役」という役員の方を中心に、
農業用だけではなく、生活用水や防火用水としても大切な水路を地元でしっかり維持・管理されています。折りしも散り始めた桜の花びらを川面に浮かべて流れる様子に、しばらく足を止めました。
庭のあるお宅が多く、名残りの椿や木蓮、木瓜の花、きれいに剪定された庭木の緑と水の流れがすばらしい対を成しています。地元の方から「ずっと前はこの川でしじみが取れたんよ。さわがにが産卵するとこも見たし、本当にきれいな川やった」と聞き、驚きました。今も充分きれいに思いますが、以前はもっと毎日の暮らしに近い川だったのだと感じました。

横書き文字が右から始まる、旧字体の古い住所表示板が目に入りました。京都の人ならみんな知っていると言っても過言ではない、あの仁丹の看板です。かつては、東京、大阪、名古屋などにも設置されていたそうですが、戦争で多くが失われ、京都では残ったようです。しかし、町家が解体されるに従いその数はかなり少なくなっていると考えられます。お家の方に伺うと、8年ほど前、漆喰を塗り直し、瓦を葺き替え、内部も大きな改修を施した時、改修中は取り外しましたが、完成した時にまた取り付けてもらったとのことでした。古びたホーローの表示板が漆喰の建物とよく合っています。よくぞ、また戻してくださったという思いです。屋根の上に小さな屋根を乗せたような「煙出し」のある伝統的な造りに着目です。どのお家も手をかけ家を守っておられます。

松ヶ崎は歴史のある神社やお寺があり、地元の信仰厚く根付いています。松ヶ崎の氏神様である、新宮神社の鳥居の前で、バイクに乗った女性の方が止まって、手を合わせていました。毎朝通るので必ずこうしてお参りしています、とのことでした。氏神様として大切にされている様子がうかがえます。区民の誇りの木に指定されているもみの大木や古い絵馬もあり、静かな境内ですが見どころはいろいろあります。

次は、水路のことを話してくださった方から「由緒のあるお寺だからぜひ行って」と教えてもらった涌泉寺へ。松ヶ崎小学校の脇を上った所にあります。松ヶ崎小学校は、明治6年設立し、当時の妙泉寺と言ったお寺の境内の一部に校舎を置いたそうです。今も校舎の自然豊かな山に続き、満開の山桜にうぐいすの鳴き声が聞こえてきました。涌泉寺は、昔、天台宗の信者であった松ヶ崎の人々が、日蓮宗へと宗旨替えし、題目を唱えるのに合わせて踊ったという、一番古い盆踊りとされる「松ヶ崎題目踊り」の起源ともなったお寺です。
毎年八月十六日の送り火を終えてから、題目踊りが奉納されています。

五山の送り火「妙法」の起源は、日蓮宗の日像商人が題目の「南無妙法蓮華経」から妙の一字をとり、杖で山をたどり、村人が松明を燃やしたことに始まり、やがて東側には法の字を置き、妙法としたとされています。
低い山ですが、松ヶ崎の地域は「妙法」の山に抱かれているようです。両方の山は、それぞれの地元のみなさんが、下草刈りなど手入れをして、無事送り火の習わしが行えるように努めておられます。用水路のことをお聞きした方も「うちとこは、東の法の山の仕事をさせてもらってる」と言われていました。
こういう話が聞けたことにも、松ヶ崎という地域を強く感じました。

松ヶ崎だけの味「花漬け」


太陽が昇ると同時に花が開く菜の花摘みは終盤に入りました。いつ頃から開くか、開き方の早い、遅いなどは天気次第。今年は20度を超える日が続いて一気に開き、その後また雨や気温の低い日があるなど天候に左右されたということでした。朝は晴れていたかと思うと北山から雲が来て、雨が降り出します。
春に三日の晴れなしとは、よく言ったものです。晴れても雨に煙っても、菜の花畑の背景に比叡山がそびえる様子はこの季節を最もよく表しているのではないかと思う、のびやかな風景です。雨の後、別の畑を通りがかると畑の見回り中の方が見えました。「菜の花のこと聞きたいんなら入って来いや」と言っていただき、また教えを乞うことになりました。

松ヶ崎の菜の花は菜種です。よく出回っていて私たちが辛子和えなどにする、なばなとは、まったく違う種類なのだそうです。菜種は茎が長く、花も大きいのが特長です。日が出るとどんどん花が開いていくので、背丈に近い菜の花の海のような畑で、摘み頃の花を見極めて、さっさと摘んでいきます。一段と大きな花を付けた一群がありました。それは種を採取するために特に選んで残してあるそうです。来年も良い菜の花を作るためには、良い種でなくてはなりません。これも経験や培ってきた松ヶ崎の農業の知識ゆえの目利きができるのです。

松ヶ崎では「花漬け」または「松ヶ崎漬け」と言われることが多いのですが、普通に売られている菜の花漬けとは、似て非なるものと言えます。菜の花は摘んだらすぐに洗ってから塩で下漬け。そしてぬかに漬けて発酵させます。色の鮮やかさはなくなりますが、それはそれで良い色になります。ぬかの旨みと発酵した酸味が相まって、本当に深い味わいです。わずかに鷹の爪の辛みがきいているのも味を引き締めています。ごはんはもちろん、お酒が進む味です。
以前は、それぞれの家で漬け込み、家によって塩やぬかの加減が違い「うちの味」があったそうです。「松ヶ崎にしかない、ほんの少しの間しかない菜の花漬け」です。摘みたての菜の花を「和え物でも、炊いても、炒めても旨いから」と言って、分けてくださいました。「農業はええよ。こうして毎日畑へ出て、土や苗が具合よういくように見てやるのは楽しいし、健康にええしな」そして「ここに畑があって良かったやろ。畑のある風景ええやろ」と続けました。
いただいた菜の花は、今日はイタリアンでいこうと、パスタにしていただきました。ほろ苦さと甘みもある最高に美味しい「松ヶ崎の春パスタ」でした。

畑や家を預かり、地元の習わしを伝える


平安遷都とともに始まった松ヶ崎の歴史は、4度も兵火に見舞われるという苦難を乗り越えてきた歴史でもありました。そこには、村全体が日蓮宗の教えを信頼し、宗旨替えした連帯感や信仰心、また用水路や神社の管理も地元で行ってきた自治の力があったからでしょう。それは今も受け継がれています。家を補修し丁寧に住み続け、畑で作物を育て、水路を管理し、伝統の行事を続けられています。
偶然、20年前に「松ヶ崎妙法保存会」の会長さんが、京都市文化観光資源保存協会の会報に載せられた文章を目にしました。それは、「21世紀を迎えんとする、12月31日に五山の送り火を」とする行政の要請に対して、お盆以外に送り火はできないとする意見も多いなか、五山の保存会で協議を重ね、大晦日の送り火を実行したことについての内容でした。

「山のふもとに住み、農業や林業の仕事をしながら神社やお寺を守って来た。お盆は先祖をもてなし、16日に迷わず帰っていただくため、家族がにぎやかに揃って明るく照らすのが送り火である。5つの山すべてが一致しなければやらないと決めての話し合いをした。戦争と環境破壊の20世紀を送り、平和と人権の明るい21世紀を迎える節目に、五山の送り火を世界へ発信しよう」と、五山が一致して行われたことが書かれていました。
こうして、現代にも起きて降りかかる難しい問題にも、地域に根付く、強い郷土愛や信仰心、団結する力を糧に新しい、良い解決の道をつくっている地元なのだと感じました。
今、松ヶ崎も住宅が増え、畑は依然に比べるとぐんと減るなか「花漬けの味もいつまであるか」と、危ぶむ声も聞かれますが、松ヶ崎の地はその困難な問題にも、果敢に取り組んでいかれると思います。
保存と開発は、なくならない課題です。歴史や伝統、自然と調和しながら、これからの時代にどのようなまちをつくっていくのか。建都も、家づくりの立場からこれからのまちづくりの課題にしっかりとかかわってまいります。