京都の竹林再生 幼竹がメンマに

5月に2回にわたってご紹介した、京都の西、乙訓の竹林では、来年も良い筍が育つように日々作業が行われています。
筍をとる親竹を選び、それ以外の「幼竹」を切る仕事も、待ったなしです。「京の伝統野菜」である筍の伝統的栽培法を継承し、乙訓地域の特徴的な景観である美しい竹林を守るための輪が、今、大きく広がっています。長岡京市の石田ファームと、向日市にある再生中の竹林での様子をお伝えします。

厄介者の幼竹をおいしく加工する取組み


孟宗竹の筍の収穫が終わると、残った背の高いたけのこを切る作業は、成長して固い竹になる前「幼竹(ようちく)」のうちに切らないと処理が大変です。何しろ竹の成長は早くて、中には一日で1メートルも伸びることもあるくらいですので待ったなしの仕事です。そして、最近はこの幼竹を「純国産メンマ」に加工する取り組みが全国で広がっています。
石田ファームでは、この幼竹切りとメンマ作りが恒例となっていて、毎年顔なじみのみなさんが集まります。石田さんは「全国のラーメン屋さんに使ってもらえるメンマができるほどの幼竹。切っても切ってもまだある」と悲鳴をあげていました。

少し離れた竹林から軽トラックで運ばれてきた幼竹の皮をはがしていきます。主に2メートルくらいの大物を切ってきたので、皮もはがし甲斐があります。黙々と作業をします。ほとんど竹にしか見えないのですが、包丁を当てて、さくっと刃が入ったところから一定の長さに切り、湯がき、冷ましたところで塩漬けにし、重石を乗せて1か月ほどおくと、いい具合に水が上がり発酵します。

石田さんお手製のメンマ

今年はコロナウイルスによる自粛中でしたので、募集をすることはできませんでしたが、その代わりに希望者には「おうちでメンマ」セットを発送することにしました。塩漬けした幼竹を宅急便でその日に発送。作り方がよくわかるすてきなリーフレットもできていました。最初に伺ったときにごちそうになった「メンマ」も、塩漬け発酵したものを塩出しして味付けしたものだそうですが、とてもよくできていました。石田さんはメンマの商品化を試みていますが、小ロットで加工してもらえるところがなかなか見つからないと言われていました。乙訓の新しい名産にぴったりです。何とか商品化に漕ぎつけることができればと思います。


一方、向日市の竹林では2017年にたちあげたNPO法人「藪の傍(やぶのそば)」のみなさんが、竹林整備を通して、様々な活動をされています。5月も末の日、朝9時から、にぎやかに作業を進めていました。この竹林は斜面にあるので、切り倒した幼竹を、作業をする平坦な場所まで運ぶのも一苦労なのです。指令があるわけでもないのですが、みなさん自然と分担ができて和気あいあいと仕事を進めていました。湯がいた幼竹を計るのに、参加者の方がヘルスメーターを持って来て、幼竹を持って人が乗り、その体重を差し引くという方法が何とも楽しげです。この日は38㎏のメンマ用幼竹ができました。

お昼には、お味噌汁が振舞われました。具は油揚げとお豆腐に、幼竹の穂先。そしてお椀はその場で切ってくれた青竹です。今ある物を工夫し、活かして使うという、暮らし方の基本も教えてもらいました。

世代をつなぐ活動で、よみがえる竹林

小学生も率先して仕事をしてくれています

NPO法人藪の傍では、これまでに竹林整備を中心として、講演会、たけのこ堀り、たけのこお料理教室、竹かご編みなどを行ってきました。親子での参加も多く、顔なじみの家族も増えています。そして幅広い世代が参加していることが素晴らしい点です。
メンマ作り当日も様々な世代が交り合い、親戚が集まった大きな寄り合い的な雰囲気でした。包丁や火を使うこと、急な斜面の上り下りなど「危ない」と、心配されることが多いのではないかと思いますが、親子ともども伸び伸びと動いていました。
幼竹を担いで運んでくれた小学生の男の子は、竹皮のうぶ毛のチクチクで背中や腕が赤くなってしまったり、ずっと火焚き番をしてくれた男の子は、羽釜のふたを閉めたりずらしたり、火の加減を見ていてくれて、汗だくでした。おとなと一緒に作業をすることは、とても良い体験になるなと感じました。火の燃える匂い、目にしみる煙、竹の葉ずれの音、土の湿りなど、きっと心の奥にしまいこまれたと思います。

この竹林には、前回「暮らしの営みや 人とつながる建築の喜び」でご紹介した、京都建築専門学校の佐野先生と学生のみなさんがつくった玉ねぎ茶室のほかに、すべり台、ブランコ、シーソーなど竹尽くしの遊具もあります。茶室は子どもたちの、とても良い探検の場になっていました。この日も、佐野先生ご夫妻がみえてストーブの調子を見たり、パフォーマンスができるステージつくりのお話もされていました。これからどんなふうに進化していくのか楽しみです。
藪の傍では、6月28日、メンマ作りの先駆けとなった福岡県糸島市から「純国産メンマプロジェクト」の方のお話と「メンマ料理コンテスト」が企画されています。みなさん、どうぞ、ご参加ください。京都の竹林や環境について知り、考えるきっかけになれば幸いです。

 

NPO法人 藪の傍(やぶのそば)

暮らしの営みや 人とつながる建築の喜び

手入れの行き届いた竹林に、土壁塗りの趣きのある建物が見えます。前回の「京都の筍はふかふかの畑で育つ」で、お話を伺った石田ファームの石田昌司さんが依頼し、京都建築専門学校のみなさんが取り組んでいる「山の竹林の道具小屋」です。
これがなぜ小屋なのと感じる、伝統構法の建屋です。去年の冬からあたためていた構想は、完成に近づいています。五月の風薫る良い日和のなか、壁塗りの作業が進められていました。

伝統構法の得難い実体験


伝統構法の建屋は、石田さんが管理する「山の竹林」の中腹にあります。今の季節は、来年筍を採る親竹にする竹に印を付けて残し、他の丈の伸びた幼竹は固くならないうちにどんどん切らなくてはならないので、出荷が終わっても筍農家は息つく暇もありません。石田さんは、この仕事をしながら、道具小屋の進捗を見守り、時々自らも作業をしています。

建築を担当されているのは、京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の学生のみなさんです。民家や古材文化について造詣の深い石田さんは、京町家に関する集まりで佐野先生と出会い、そこから「建築と竹」の協同の取り組みが始まったそうです。この道具小屋は、今年卒業したみなさんが仮組みや足場つくりから、寒い冬や雨の中でも作業を続け、卒業ぎりぎりまで取り組んだ、思いが込められた建物です。その後を後輩が受け継いで続けられています。とかくスピード優先、早く結果を求める今、こうして一つ一つの工程をきちんと積み上げていくことはとても大切なことだと感じます。

竹の合間から中のお茶会の様子がうかがえる堀川茶寮

建築専門学校では毎年学園祭に、学校近くの堀川の河川敷に「堀川茶室」を建て、数寄屋建築のお茶室の雰囲気を市民のみなさんに気軽に楽しんでもらう「お茶会」を開いています。先生の指導を受けながら、学生のプロジェクトがすべてを取り組んでいます。屋根に葺く稲わらは、京北町で自分たちではさにかけて乾燥させたものを、学校OBの専門の職人に習って葺き、荒壁の下地には石田さんの真竹が使われています。
にじり口や茶道口もちゃんとあるこの堀川茶室は、2009年から出展している学園祭恒例の企画で、秋の堀川の風物詩と言っても過言ではありません。お茶部、お花部による道具立てやお軸、お花などもすばらしく、若々しいお点前も雰囲気を和ませてくれます。

また、向日市の放置竹林対策に取り組むNPO法人の活動に協力して、竹林の中に「竹のお茶室」もつくりました。その形状から「玉ねぎ茶室」と名付けられ、お披露目茶席にはお子さん連れでの参加もあり、みなさん自然を満喫しながらの一服という、とても新鮮な体験を楽しんでいました。
学生主催のお茶席に寄せていただいていつも感じるのは、伝統の技術とともに、その背景や骨子となる日本の文化や自然への、しっかりした視点が養われていることです。そこから建築に対する深い思いが醸成されていくのだと思います。お茶室は、本当に豊かな学校生活を送っているからこそ可能な、かかわったみんなにとって、忘れることのない共同作品なのだと感じました。

人とつながり新たな価値を生み出す

青竹で作られた雨樋が付いています

さて、卒業生から引き継いだ道具小屋です。伺った当日は佐野先生と2年生の松井風太さんが、壁塗りに奮闘中でした。松井さんは、社会人として仕事に就いて後、建築専門学校に入学しました。「これまでの仕事とはまったく違う建築の分野を、年下の同級生と一緒に勉強するのは楽しいですよ。それと職人さんの仕事は本当にすごいですね」と、今の学校生活の充実ぶりが言葉の端々にあらわれています。

京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の松井さん

道具小屋の壁は、割った真竹を縦横に縄で編んだ下地に荒壁を塗り、その上に壁土を塗り重ねています。実際は難しいでしょうが、見ているぶんには同じ調子でスムーズに塗っているように思えます。しかし、壁一面を仕上げるには、体幹をしっかりさせて壁に向かうこと、また鏝の使い方などいくつものポイントがあるようでした。時々、佐野先生が進み具合を見てアドバイスされ、松井さんが真剣な面持ちで聞いています。集中しながらも伸び伸び作業する様子が伝わってきました。

途中で土練りの作業がありました。去年の夏に稲わらをまぜ込み発酵させた土に、もみ殻もまぜ、さらに古い土を入れて発酵を促したそうです。土はここの山の土です。佐野先生は運搬車を動かすのもお手のもの、追加する土を運んで来ました。筍栽培に使われる赤土粘土は壁土にも具合が良く、竹も自前の真竹という身近に調達できています。
佐野先生は「壁塗りは無心になるからいい。すっきり塗るのは難しいけれど、素人の農家さんが荒土で塗った風情かな」と楽しそうに話され、その気持ちが鏝の動きに表れているようでした。

柱と桁などの仕口を固定するため木材、込栓

この道具小屋は、見どころが多くあります。木材は、杉丸太の皮剥きをして、「はつり」という日本独自の方法で、ちょうなという斧のような道具で表面を削り、今回は最後に電気かんなをかけて仕上げています。防腐塗料は石田さん推薦の塗料で、なかなか優れものとのことでした。
柱や梁などは、込栓(こみせん)や鼻栓、くさびなど木の部材で止めています。またこのような技術以外にも、縦に通した竹の雨樋からホースを通して、雨水を貯水タンクに貯めるなど循環を考えた工夫を取り入れています。

佐野先生は「かつての家づくりのどの場面においても、関わっている人たちの間に共感が息づいています。様々な多くの知識とともに、根底にある建築する喜びを知ってもらいたい」と、学生へのメッセージを送っています。
石田さんと佐野先生と学生たち、かかわった多くの人が喜びをともにする「道具小屋」の完成が待たれます。壁や柱も年月を経て、いい味わいになっていきます。それも大きな楽しみです。建築専門学校で学んだ日々が、学生のみなさんにとってこれからの礎になり、それぞれのところで生かされるよう願っています。
建都も優れた伝統技術を継承する工務店さんや多くの職人さんとともに、今後いっそう京都の建築とまちづくりに寄与してまいります。

 

京都建築専門学校
京都市上京区下立売通堀川東入ル東橋詰町
174

京都の筍は ふかふかの畑で育つ

毎年待っている、淡い香りの白くやわらかい筍。京都では外せない季節の味わいです。春の初めの走りから、あたたかい雨を受けてぐんと成長する旬まで、時々の筍を楽しみます。
京都の西、乙訓(おとくに)地域は「京の伝統野菜」に指定された京筍の本場です。まだ地面から顔を出す前に、土の中から熟練の技で掘り起こします。「白子」と呼ばれるこの筍は、一年通しての手入れが欠かせない「畑」からしか収穫することはできません。
伝統の栽培方法を受け継ぎながら、多くの人に竹に親しんでもらう場としてのイベントの企画、竹パウダーなど新しい使いみちの開発、高齢化による放置竹林の整備など「日々是好竹」と忙しい毎日を送る筍農家三代目の石田ファーム 石田昌司さんに話をお聞きしました。

農薬・化学肥料一切なしの畑


筍は竹の若芽の総称です。成長が早いことから「十日」を意味する旬の字を当てたと言われています。出回る筍の多くは「孟宗竹」の筍で、江戸時代末期にはその栽培が急速に広まりました。乙訓地域の地質は、酸性の粘土質で水はけがよく、生育に適していることも好条件でした。明治35年、現在の京都市西京区、向日市、長岡京市、大山崎町の23か村にわたる筍組合が組織され、栽培方法が共有されていたことが記された文書が残っています。ずいぶん早くから地域の重要な農産物として育てていこうという先見の明があったのです。

石田ファームの石田昌司さん

こもれびがさし込む竹林は空気が違います。風にそよぐ竹の葉のさやさやという音や、すっかり上達したうぐいすのさえずりが絶え間なく聞こえてきます。取材に伺ったのは白子筍の最盛期で、石田さんは「うぐいすの声に耳を傾ける間もない」ほどの忙しさのなか、石田ファームだからこそのお話を聞かせていただきました。

白くやわらかな京都特有の筍は「京都式軟化栽培法」という伝統の栽培方法で育てます。春の収穫が終わると「お礼肥」を施し、筍を生む親竹の先を折って根と竹本体を守り、日当たりや風通しをよくします。その後6月には「さばえ」という細い竹の刈り取り、夏には肥料で養分を与えます。石田ファームでは有機肥料を使っています。秋は、古い親竹を伐採し、稲わらを敷きます。この稲わらは石田さんの田んぼで収穫されたお米のわらです。そして冬は、敷きわらの上に赤土粘土をを重ねる「土入れ」をすることで、ふかふかの布団のような畑になります。この土運びも重労働です。白子筍は短い間ですが、たけのこ畑の手入れは一年中の仕事です。

竹チップの堆肥とお手伝いにきてくれた美山町の岡さんファミリー

石田さんは農薬、化学肥料を一切使いません。竹林は有機認証を受けています。竹チップの堆肥は、奥のほうは、ほかほかしてあたたかく、かぶと虫の幼虫のベッドになっています。
竹林と隣り合う畑いっぱいに咲く白い花は、種を採るために植えられた「固定種」で、この地域のお正月を祝うお雑煮に使う、雑煮大根の花でした。固定種とは、先祖代々受け継がれ、農家が自ら種を採っています。昔ながらの味で個性がありますが、大量生産には向かず、病気にも強くありません。

有機栽培にしても固定種の種を守ることも手間はかかり、収量は少ないなど苦労されることが多いと思います。でも、これからは「作物は商品ではない」と消費者も認識する、双方向の関係がいっそう大切になってくると思いました。

お話が一段落したところで、石田さんのお父様、健司さんとご一緒になり、朝堀りの白子筍のごちそうにあずかりました。健司さんは今年の6月で94歳、3~4年前までは筍掘りもされていたと聞いて驚きました。「化学肥料を使わんと、ごま油の搾りかすをやって、土がええし、甘みがあってええ味や」と、土の大切さをしっかりした口調で話された姿は50年続くこの竹林を受け継ぎ、竹とともに過ごしてきた方のまぎれもない風格でした。
生まれて初めて、生の筍いただきました。石田さん曰く「りんごの食感と、とうもろこしの甘み」さくさく、しゃきっとして甘みと香りは果物のよう。初めて巡り合った滋味です。

掘るにも道具にも職人の技


やわらかい筍を土の中から掘り出す道具は乙訓独特のもので「ホリ」言います。長さは1メートルほどで刀を思わせる静かな鋭さがあり、先端はU字型になっています。土の中に刺しこみ、手に伝わる感触で筍と地下茎がつながっているところを突いて切り離し、てこの原理で掘り起こします。まさに職人技です。
父親の健司さんによると、ホリの先は一日で摩耗してしまいますが、鍛冶屋に渡せば夜なべをして次の日の朝には、またしっかり使えるようにしてくれたそうです。「昔はそういう鍛冶屋が村に一軒はあった」という話は、当時の乙訓地域の筍栽培の隆盛ぶりがわかります。
ホリをつくる職人さんも少なくなってしまったそうですが、石田さんが使っているホリは、まだ40歳くらいの職人さんの作です。

筍を入れるかごや運搬用の箕(み)などを作る竹細工の職人さんも少なく、手に入れにくくなっているそうです。以前は当たり前にあったものが、手間がかかるということでなくなる寸前になっている竹細工を、なんとか残したいと考えています。脱プラスチックが世界中の大きな課題になっている今、竹に光が当たる時がめぐって来たと感じます。

さて、いよいよ筍掘りの見学です。美山町の岡さん家族も一緒に筍畑へ入りました。乙訓地方では昔から「お客さんを座敷にあげても、竹藪には入れるな」という言葉があるほど、竹林を大切にしてきました。
「三方にひび割れが目印なので、そこを踏まないように。そこそこ」と石田さんに教えてもらいながら、踏まないように、おっかなびっくり目印に近づきました。石田さんは慎重にホリを使いながら、最後のほうは体重をぐっとかけて掘り出しました。

ヒビの中心に筍の先がほんの少し見えています


一日に何十キロもこうして傷をつけずに掘り出す仕事は、力もいるし、神経も使う、考えながらしないとならない、大変な職人技です。石田さんが言われたように、たけのこ農家は60代は若手と言われる現状で、畑つくりも含め、一貫して学べる養成講座のようなシステムが必要になると思いました。そして、環境に負荷のかからない循環型のたけのこ栽培を志す人が増えればいいなあと、竹の夢が広がります。

物々交換に似た関係が力になる


今回は竹や筍のことだけでなく、古民家や紙飛行機つくりなど趣味についても楽しい話を伺いました。吹き抜けになった二階の天井には、高校生の時に作ったという大きな工作飛行機が見えます。楽しそうにそして熱心に話す様子は少年のようです。このお人柄で、石田さんが言うところの「物々交換に似た関係」の輪がどんどん広がっています。
美山の岡さんご夫婦は、美山での獣害で全滅した「ねこやなぎ復活プロジェクト」がご縁で、たけのこ畑の作業などの手助けをしてもらっているそうです。「こういう関係が困った時に助けてくれるんです」とほがらかに語ります。

中央のメンマに加え、美味しい筍料理を色々いただきました

毎年ゴールデンウィークの最終日には、大きくなった不要なたけのこを切り倒し、その幼竹を使ってメンマ作りをするイベントが開催されます。メンマ作りは、今全国に広がっている、不要な幼竹の活用方法で、地域おこしや景観保全にも一役かっています。

少し離れたところにある、山の竹林に「茶室」建築中です。京都建築専門学校の校長先生と学生さんの協力でだいぶできあがっています。荒壁にはちゃんと竹が組まれています。昔のようにもっと身近なところで竹を使えるようにという願いも伝統工法によって活かされています。
石田ファームは、これから孟宗竹から、破竹(淡竹、白竹とも書く)そして、真竹のたけのこへと移ります。その合間を縫っての田んぼや畑の仕事も待っています。6月いっぱいまで気の抜けない石田さんですが、また助けてくれる人たちがやって来るでしょう。
「物々交換に似た関係」は、売り買いの場にも当てはまる気がします。作ってくれた人とお金というものと交換するものに感謝する。消費や経済にも、これからはこういうあり方が広がる可能性を感じた一日でした。

 

石田ファーム
長岡京市井ノ内西ノ口19番1

経糸横糸が織りなす 真田紐の可能性

掛け軸や茶道具を入れた桐箱に結ばれている紐と言えば「ああ、あの紐」と思い浮かぶでしょうか。経糸と横糸を使って機で織る織り紐であることが、真田紐と他の紐との一番の違いと言えます。
一番幅の狭いものは一分(約6mm)。この幅に決められた柄を織り込んでいきます。世界で一番小さな織物と言われるこの紐は、戦国時代には、甲冑や物資の輸送など軍事用に使われ、さらに茶道や各寺院の道具の箱など、その用途はさらに広がっていきました。450年続く「真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)」十五代目、和田伊三男さんが語る、強く美しい真田紐のめくるめく世界へ引き込まれます。

武士、忍者、茶人。真田紐と交わる人々

紐の源流、サナール紐

真田紐の源流を探ると、ネパールの「サナール」という仏教とともに伝来した織り紐にたどり着きます。真田紐は、戦国時代の初め、そのサナールを参考にして近江や京などで織り始められたと考えられています。
和田さんのご先祖は近江守護の佐々木六角家の家老職に就いていましたが、領地振興の一つとして真田紐を織り、領民に指導もされていたそうです。ちなみに「江南」の江は近江のことで、近江の南部の所領であったことに由来しています。

真田紐は、通常の倍以上の本数の糸を使って圧縮して織ることにより、伸びずにとても丈夫に織りあがります。「元々は庶民が荷物紐として使っていたのを見て、武士も活用し始めたのでしょう」と和田さんは語ります。
大河ドラマで一躍注目された真田氏の名が付いたのは、真田昌幸・信繁父子が、関ケ原の合戦の後、紀州の九度山に幽閉された時、恐らく紐を織っていて、行商人が、西軍の中で唯一勝利し、功績のあった真田氏の名を出して「あの真田の紐」と宣伝文句のように使って売り歩いたことから、真田紐の名が一般に広がったと推察されています。
また、この頃の豪族は、山賊の一族と山岳密教の修験道者を組織化して庇護し、諜報活動や天候の予想や鉱脈の発見などに役立てました。これが忍びの者、忍者となったそうです。しかし、庇護されているとしても生活の糧がなければ、また山賊にもどってしまうので、農閑期の仕事の一つとして真田紐も製作していたそうです。伊賀、甲賀、柳生、根来など、真田紐あるところ忍びの者ありだったようです。
真田紐は刀を受け止めることができるほど強靭で、まさに戦いの実践の場において、強さを発揮したのです。また、武将たちはそれぞれ家紋のように独自の織り模様の真田紐を使い、どこの誰の所持品であるかを知る手立てとしましました。

また戦国時代は毒を盛られる危険もありましたから、結び方も複雑にして決め事とし、結び方が変わっていれば、誰かがほどいたとわかるようにしました。この習わしにヒントを得たのが、豊臣秀吉の茶の湯師範を務めていた千利休です。利休の発案により、茶道具の桐箱にも、所有者がわかる独自の色柄の真田紐を使うようになりました。
今も、各流儀の家元、寺社や作家独自の「約束紐」「習慣紐」として伝えられています。この紐は他の人や流派には使えないものであり、道具が偽物でないことの証明にもなるのです。和田さん流でいくと「紐の柄はID,結び方はパスワード」です。道具に箱、紐まで含めて「しつらえ」が決まっています。真田紐の世界はとてつもなく広く、深いのです。

製作とともに伝える仕事の大切さ


江南は京の五条の大橋に近い、町家が並ぶ通りにあります。最近のホテルやゲストハウスの建築ラッシュで急激に変化していますが、問屋町という通り名にふさわしい、暮らしのあるまちのたたずまいをとどめています。
江南は真田紐のすべての工程とお店を、和田さんと奥様の智美さんの二人でされています。通りからも、きれいな色合いの商品がよく見えます。店内は甲冑や刀、古色が付いた風格のある木の鑑札、各家元のきまりの箱、木綿と絹の大きな巻きの真田紐に何種類ものオリジナル商品で彩られています。さながら真田紐博物館です。

真田紐をつくるところが次々姿を消し、戦国時代の製法を踏襲する木綿の糸を草木染めし、整経から手織りまで一貫して織っているのは江南ただ一軒になりました。木綿草木染の棚に、智美さんの、2019年度日本民囈館展―新作工藝公募展―に入選した2点の真田紐がありました。深くあたたかみのある色、しっかりした打ち込みの木綿の紐は、ものにも美しいたたずまいがあるのだと感じました。
そして、なんと、この入選作品を商品として、好きな長さで切り売りしてくれるのです。思わず、本当にいいのですかと聞いてしまいましたが、智美さんは「用の美ですから、役立ててもらうのが一番なので」という短い答えに、すべての思いが表れていると感じました。

和田さんは、時によって刀や桐箱を使って実にわかりやすく説明してくれます。取材当日も茶碗を納める箱について聞きに来られたお客さんに「納める先の流儀はわかっていますか?」など重要な点を確認しながら話をしていました。実際に裏千家、表千家、遠州流の箱を手に取って、作りの違うところなどを、わかりやすく説明します。お店へ来られた方にも「箱を注文する時は、きちんと伝えてくださいね。箱や紐のことでわからない時はいつでも聞いてください」と丁寧にアドバイスしていました。江南は桐箱などを作る指物師としても仕事をされていたので、箱についても知り尽くしているのです。
また、茶室についても詳しく、その見識には驚くばかりです。和田さんは、真田紐を使う場面のある映画やテレビ番組の、時代考証や技術指導をしていますが、明治以降の洋風化の流れ、戦争、そしてさらに急激な生活習慣の変化によって、これまで守られてきた伝統が途絶えそうになっていることに危機感を持っています。
真田紐の技術のみならず、歴史や約束事もきちんと伝えていかなければ、「本物の証し」としての真田紐の役割が果たせなくなってしまいます。膨大な資料の整理や講演会などで伝えることもこれからの大切な仕事になります。

真田紐と何かが一緒になる楽しさ


真田紐をわらじのようにかけたおもしろいスニーカーがあります。これは、京都造形芸術大学が運営するホールラブキョートの若いメンバーと江南が共同開発した「SANAD BANDOSHOES」(サナダバンドシューズ)です。とても履きやすいそうで、試してみたいと思いました。
京コマのストラップは、江南も参加している、ごく少数の職人によって受け継がれている伝統工芸の分野の会「京都市伝統工芸連絡懇話会」の会員、京こま雀休との共同開発商品です。(雀休は以前「職人の心を映す京こまの魅力」で紹介させていただきました。)江南の真田紐を使った竹工芸のバッグが評判を呼んだこともありました。

和田さんは、鼻緒スニーカーの隣にある、明治から昭和の時代まで長野県で使われていた「下駄スケート」を手にして説明してくれました。明治時代にスケートが日本に伝わりましたが、スケート靴など作れなかったので、普通の下駄に、鍬や鍬を作っていた鍛冶屋さんがブレード部分を作り、真田紐で足を固定した傑作です。なかったら工夫して作る。昔の人はとてもクリエーティブだったのですねと、楽しそうに続けました。

和田さんは脱プラスチックの取り組みの提案として、エコバッグバンドを考案しました。買い物した後重くなったバッグをバンドに止めれば、リュックサックのように背負うことができるという優れものです。
「世界で一番小さな織物」真田紐は、伝統の本道がしっかりあるからこそ、楽しんで新しいことができます。450年の伝統は重いけれど、新たなものを生み出す源泉です。

 

真田紐師 江南(さなだひもし えなみ)
京都市東山区問屋町通り五条下ル上人町430
営業時間 10:00~17:00
定休日 水曜日

青谷で40年 信用第一の和菓子店

訪ねた先は、前回の「東風吹かば梅香る京都青谷の春」で、少しご紹介しました和菓子店です。自店であんを炊き、その誠実で間違いのない味は、地元のみなさんからの信頼も厚く、お祝い事や季節の習わしなど、暮らしの折々を彩るお菓子として喜ばれています。
また、青谷特産の大粒で香り高く、果肉の味わいに特徴のある希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」を使ったお菓子を開発し、青谷地域盛り上げの一翼を担っています。こういうお店が近所にあったらうれしいと思う和菓子店「梅匠庵 若松」のお店で話をお聞きしました。

普段のお菓子に使う自家製のあん


ローカル線ののどかな気分に満ちるJR山城青谷駅の改札口を出ると、目の前が梅匠庵若松です。建物を見ただけで「きっと美味しいに違いない」と感じさせるたたずまいです。
店主の久保川守さんは、修行時代を含めると、55年の経験を積んだ職人中の職人です。独立して、はじめは宇治で開店し、その後青谷に店を構えて40年になります。移転する時「青谷の少ない人口で商売をするのは難しいよ」と言われたそうですが「地域のみなさんに可愛がってもらえて、あてにしてもらえる店に」と、一心にお菓子作りに励んだ積み重ねの年月です。「気がついたら40年たっていたというのが実感です」と静かに語ります。

中に城州白がまるごと入った梅大福

久保川さんの「和菓子はあんが命」という言葉にも、重みと力があります。和菓子にもいろいろな種類がありますが、生菓子にもお茶事やお客様用の上生菓子と、朝に作りその日のうちに売り切る「朝生菓子」略して「朝なま」と呼ばれる庶民的なものがあります。おなじみの大福やお団子、さくら餅や柏餅などがそれにあたります。
今、和菓子店で、自家製のあんを炊いている店は少ないのではないかと思います。若松の魅力、良さは、このような気軽な朝なまのお菓子にも、自家製あんを使っていることです。ここが美味しさをぐんと格上げしていると感じます。
お客様から「あんたのとこ安いなあ」と言われるそうですが、久保川さんは「毎日食べてもらう、おやつのお菓子やから。みんなに可愛がってもらって、続けていくことが一番大切」と、ためらうことはありません。質実ともに地域に根差したお店なのです。

頼もしい跡継ぎの存在が励みに


以前は町なかによく見かけた、若松のような和菓子屋さんが、めっきり少なくなった気がします。久保川さんは「この稼業も跡取りの問題が大きい。その点うちは本当にありがたい」と語ります。和菓子の道へ入って10年目という、跡継ぎの武田圭祐さんにも話をお聞きしました。
武田さんは、久保川さんの娘さんと同じ製菓学校で学び、洋菓子店に勤務した後に、結婚を機に若松へ入りました。洋菓子で使う小麦粉とバターやクリームなどの素材に対して、和菓子は油性のものをほとんど使いません。何もないところから作るのは和菓子も洋菓子も同じですが、慣れるまでは戸惑いながらの毎日だったそうです。そして「父の仕事を見ていて、和菓子は確かに職人の勘というものがあると感じます」と続けました。

久保川さんは「あんを炊いた時、時間は計るけれどそれだけではない。その日の気温や湿度、豆によっても違いがあるので、それを見極めて炊くのが難しい。しゃもじであんをすくってみて、今日はどうや。もういいか、もう少し炊くかと、ぎりぎりのせめぎ合いで、100点と思ったことは一度もない」と語りました。

武田さんの語った「和菓子職人の勘」は、毎日一緒に仕事をするなかで、心から感じたことであり、深い敬意が込められています。また久保川さんも、何度も跡継ぎの大切さを言葉にし、「これからは若い人の時代やから、どんどん前に出てきてもらう」と、武田さんを頼もしく思っている様子が言葉の端々に、にじみ出ていました。二人の和菓子に対する姿勢や、気持ちの通い合いが若松のお菓子のぶれない美味しさを作っています。

家族で担う「和菓子で地域に貢献」


若松には常時40種類近くのお菓子が並びます。そのほとんどが自家製造です。
イラスト入りの商品ポップは、武田さんの奥さんが作っています。梅まつりの期間中は、建物の外側に商品のパネルを張り出すなど、若松の和菓子をより多くの人に知ってもらうための工夫を惜しみません。

祝儀不祝儀、季節の贈答用、ちょっとした手みやげにと、以前は暮らしのなかにお菓子をお使いものにする習慣がありました。しかし今は、核家族化も進み、生活習慣の変化も伴い、以前に比べるとその需要は格段に少なくなりましたが、先日はお孫さんのお誕生の内祝いにとお赤飯の注文がありました。もちろん、お赤飯も若松製です。渡す日時からの逆算で、小豆を水につけるところから始まります。
店内には、お赤飯や上用まんじゅうの箱の見本や、季節の行事と人生の節目のお祝いの一覧が張ってあります。おめでたい事をお祝いする心をあらわす贈答の習慣をよみがえらせて、人と人のつながりをもう一度結び直せたら、どんなに良いことかと思いました。

和菓子作り教室は地元の新聞にも取り上げられました

久保川さんは、城陽市観光協会「梅の郷青谷づくり特産品部会」の主催の地域の方を対象にした和菓子作り教室での講師を務め、武田さんは、城陽高校の授業の一環として、和菓子作りを教えました。体験した高校生が「すごく美味しい」と言ってくれたと嬉しそうでした。和菓子を知らない若い世代に食べてほしい、和菓子で季節を感じてほしいという願いは、地道な取り組みのなかで必ずかなえられると思いました。

城州白を使った大福、マドレーヌ、どら焼き、ようかんなどは、青谷の地元の手みやげとして好評です。そして贈られた先の方が「美味しかったから、買いに来ました」と来てくれる時は本当にうれしいと、菓子屋冥利に尽きる物語もたくさんありそうです。
創業以来の看板商品「茶人好み」は、白あんに抹茶を練りこんだ桃山仕立てのお菓子です。城陽はお茶も有数な産地で、京都府の「お茶の京都」の広報にもこの茶人好みが紹介されました。
「信用が第一。いつも安定した美味しさでなくてはだめ。毎日緊張してお菓子を作っている」という、久保川さんの言葉に、裏切ることのない誠実な仕事への姿勢がどんなに大切なことかを教えてもらいました。和菓子のおいしさは人をつなげ、青谷の地域の幸せにつながるに違いないと感じた一日でした。
まもなく、店頭に柏餅が並ぶ風薫る季節がやって来ます。

 

梅匠庵 若松
京都府城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日 月曜日

東風吹かば梅香る 京都青谷の春

冬とは思えない暖かい日が続き、寒風のなか、他の花に先がけて咲く梅も、今年は特に早い開花となりました。古くから梅の名所として知られていた、京都府南部の城陽市青谷地域の約1万本の梅が咲き誇っています。
昨年「山城青谷地域 希少な梅で新しい風を」でご紹介しました、青谷梅工房代表の田中昭夫さんは、毎年開催される「青谷梅林梅まつり」を盛り上げようと、いつも楽しい企画を考えています。今年はさらに「青谷梅林の魅力を梅工房がバージョンアップ」と、画期的な内容となっている様子です。春うららの一日、青谷を訪れました。

アートのある梅林へ、はじめの一歩


梅工房の梅林店を目指して歩いて行くと、木の高さほどに、円錐形に張られたロープが見えてきます。「陽」と名付けられたこの作品は、剪定された梅の枝で、淡い紅梅色に染められています。江戸時代、染の媒染に使う烏梅をつくるために広大な梅畑があったという、青谷の歴史を掘り起こして生まれた作品です。近くにテーブルと椅子が置かれ、ゆっくりした時を楽しんでいる人の姿が見られます。小道をはさんだ向かい側には4作品が展示されています。それぞれ時とともに変化する日の光を受けて、印象も変わります。

田中さんは、のどかな里山をゆっくり散策できる青谷の魅力をさらに進化させ、もっと多くの人に足を運んでもらうにはどうしたらいいかと考えていました。そこでひらめいたのが、現代アートが展示される瀬戸内の島々のような「アートのある梅林」です。田中さんがモデルとした瀬戸内国際芸術祭は、香川県をあげて取り組んでいる超大型の芸術祭で規模の違いはありますが、テーマに掲げている「海の復権」は「城州白で地域を元気に」という梅工房の思いと、根本は共通しています。そこで協力してくれる人を、つてを頼りに探しました。普段から多くの人とかかわりを持っている田中さんの強みで、知り合いを通じて、京都造形芸術大学の卒業生と在学生の協力者が見つかったのです。

3年前から梅まつりの期間中、梅林にも店を出していますが、そこがアートを展示する会場です。腰の高さまで茂った草を刈り、竹林を切り開いた場所では竹の根っこや頑固な切り株を掘り越しました。この重労働は、造形大のみなさんも一緒にやってくれました。作品の設置も含め、寒い中での作業は大変だったことと思いますが、より思いのこもった展示会場になったのではないでしょうか。作品が点在する梅林は、周囲の自然と調和した青谷の新たな景観をつくり出しています。
作品展示は3月20日(金)まで。

四季折々、歩けば感じる青谷よいとこ


さえぎるもののない空とのどかな田園風景が広がり、気持ちが解き放されていくように感じます。田んぼで何かをついばんでいる、はとに似たつがいの鳥がいました。長いくちばしと足が鮮やかな黄色をしています。「けり」です。その鳴き声から、この名がついたそうです。きっと環境が良くて、子育てしやすいのでしょう。

梅工房を通り過ぎてすぐ、旧道の趣きのある道を進むと、お茶のいい香りが漂ってきました。慶応三年の創業以来「決して天狗になってはならぬ」という家訓を守り、「天狗の宇治茶」を商標にする、伝統の宇治茶一筋の茶問屋「碧翆園」です。碾茶で名をはせるお茶の名産地城陽の茶業を支えています。碧翆園の加工場と古い民家が並ぶ一画は、とても雰囲気があります。

梅林をたどる道々は、満開の菜の花と、咲き方や色が微妙に違う梅の花を楽しむことができます。うぐいすが盛んに鳴いています。姿は見えませんがすぐ近くのようです。完璧と思う鳴き声と、あきらかに練習中の鳴き声が交互に聞こえ、すれ違う人と思わず笑いあって会釈しました。
梅林の規模や絢爛な雰囲気ではなく、田中さんも言われているように、まわりの山々や民家と一体となった里山としての景観が青谷の魅力なのだと実感しました。

城陽酒造の杉玉
青谷特産の城州白

梅の郷めぐりの終わりは、JR青谷駅すぐにある、創業明治28年の「城陽酒造」と和菓子店の「梅匠庵若松屋」へ。若松屋では、大粒で香高い青谷特産の希少な梅、城州白を使ったどら焼きや大福など、地域根ざしたお菓子を作っています。気取らずにおいしい親しみのあるお菓子が並びます。以前はそれぞれの町に一軒はあった和菓子屋さんらしい和菓子屋さん。貴重なお店です。線路を渡ると、新酒ののぼりがはためく城陽酒造が見えます。他府県ナンバーの車も次々と入って来ます。こちらの「梅サイダー」は梅工房でも定番品として置いています。また、城州白の梅酒は「梅酒バー」でもほとんどの人が注文する、ご当地自慢の梅酒です。豊かな自然、旧村の面影を残す民家。そして梅とお茶。その特産品を生かしたお酒やお菓子のお店。季節の移ろいとともに、また違った発見があることでしょう。ゆっくり歩いてみれば楽しさは尽きない、そんな思いを抱きました。

青谷地域と梅工房の明日の夢


田中さんは「まず、地元の人が行ってみたいなあと思ってもらえる梅まつりにすることが今の課題です」と語っていました。梅まつりを短期間のイベントで終わらせるのでなく、地元の人がかかわることで、日常的な結びつきをつくり、青谷を盛り上げることができないかとも考えています。そこで今年の梅まつりでは、梅工房の梅林店で「体験イベント」を企画してもらいたいと呼びかけました。去年の秋から取り組んだ結果、6つの体験ブースが決まりました。お箏、かじや、梅の枝の鉛筆づくり、染め物、ウクレレ、ヨガと本当に個性ある体験ブースが企画されました。また飲食ブースの9品の中には、龍谷大学のゼミ生によるおにぎりもありました。大変残念なことに、これらの企画は今日の状況にかんがみ中止となりましたが、この経験とつながりは必ず今後に生きると感じています。

田中さんは、このような体験や季節のイベントをつくりながらも、やはり本業の梅事業に向ける時間をもっと生み出したいと強く思っています。城州白を中心とする質の良い梅の安定的な生産と、梅を使った商品開発です。違う業種、違う世界の人たちの出会いから「青谷の梅を使って、こんなふうにすばらしいものができるのだ」という喜びは、大きな支えになっています。
城州白のブランデーをつくられた、千葉県の房総半島にある「mitosaya薬草園蒸留所(みとさややくそうえん蒸留所」代表、江口宏志さんとの出会いは、田中さん自身にとっても、また城州白という梅にとっても新しく切り開かれた可能性でした。江口さんから送られた城州白のブランデーのボトルのラベルに「FROM AODANI UMEKOBO」と梅工房の名前まで書かれていた感激は生涯忘れることはないと語ります。江口さんは「自然からの小さな発見を形にする」という目標に基づく、志あるものづくりをされています。
田中さんは、昨年の京のさんぽ道の取材のなかで「やっていることに夢があるかどうか。みんなで取り組むことでも、自分自身が夢を感じているか、です」と語っています。これからも梅と深く向き合い、楽しく地域とかかわり盛り上げていく。その夢の実現にむけて、今日も一日梅に思いをめぐらせ、梅園へ出かけます。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

 

城陽酒造
城陽市奈島久保野34-1
営業時間 平日 8:30~17:30
土曜日9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

 

梅匠庵 若松屋
城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日  月曜日

山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

霧の亀岡 300年の歴史を刻む武家屋敷

前回に引き続き「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」一行を乗せたバスは、京と丹波の境となる老ノ坂峠を越え亀岡市へ。
亀岡市は、注目の明智光秀の築いた亀山城の城下町として栄え、森と水に恵まれ自然も豊かです。寒の内にしては穏やかな日和のもと、市内中心部から車で5分も走ると、まわりの風景が変わります。ほどなく、古い土塀と深い藪木立に囲まれた、堂々とした門構えの建物の前に到着しました。江戸幕府の旗本、津田藩の代官を務めていた「日置(へき)家」の屋敷です。

築300年の建物を可能な限り当時のままにし、多くの人が歴史的な建物に触れることができるようにと開店した「へき亭」です。地元亀岡の野菜や地鶏を使用した美味しいお料理とともに、おかみさんの日置道代さんのお話と、大切に継承されてきた建物や貴重な調度品の見学など、得難いひと時を過ごさせていただきました。

広大な敷地と周囲の景観も含めての歴史


日置家は代々、亀山城を正面に見るこの地で代官を務めてきました。敷地600坪という邸内には、自然の姿を感じる庭や、武道の鍛錬場、江戸時代に建てられた築300年の母屋、門の前の、平安時代から人々が京へ上った古道と道沿いの藪など、すべてが「代官屋敷日置家」の歴史を物語り、現代の私たちに伝えてくれています。

バスを降りた時、土塀と古びた道に魅かれたのはやはり、長い年月を経て来た存在が放つ力だったのだと感じました。この土塀や古道、趣のある入り口も含め、度々撮影に使われるそうですが、そのまま江戸時代となるロケーションですから、最高のロケ地でしょう。

玄関には、当主が二条城へ登城する際に使われた駕篭が置かれ、座敷には江戸時代末期に活躍し、円山応挙と並び称され、幕末画壇の「平安四名家」と評された、岸連山の襖絵や衝立が大切に保存されています。それは奥深く仕舞われているのではなく、今も襖や衝立としての役目で使われ、私たちも目の前にすることができます。中には、りっぱなゴブラン織りで仕立てた屏風もあります。これは道代さんが「300年の建物に合う調度品を」と探し求められたそうです。狩を楽しむヨーロッパの貴族の様子が見事に織り出されたゴブラン織りは、障子や床の間、掛け軸、甲冑など日本の家屋や骨董とも調和しています。

また日置家は、弓道の流派の一つ「日置流」の祖と伝えられ、岸連山の描いた鶴の襖の上方に弓がかけられていました。観音扉を開くとお仏壇があり、見せていただいた過去帳には「文化六年」「寛政十一年」と言った年号が書かれていました。ご先祖様も篤くお守りされています。玄関の様式にも代官屋敷の格式が見て取れるなど、数寄屋建築とは異なる見どころが随所にあり、限られた時間ではとても見きれませんでした。違う季節にぜひ訪ねたいと思いました。

集い、味わう場となった代官屋敷


おかみの道代さんは、代々の当主が現在まで大切に守ってきた歴史ある建物を「実際に見て、広く知ってもらいたい」との思いで、1994年(平成6年)「へき亭」を誕生させました。地元で収穫される、折々の季節の野菜や地鶏などを使って、ていねいに作られた一品一品は、素直においしいと感じます。「家庭料理をこの空間で味わい、ゆっくりしたひと時を過ごしてほしい」という、道代さんやスタッフのみなさんの心入れが隅々までゆき渡った、本当に心がほっとする時間でした。
明治維新後、多くの城郭や武家屋敷、寺院など伝統的な建造物が姿を消していきました。そのような中でこの日置家を、増築をしながら古い建物を補修し、当時の姿を保ち、
次世代へと受け継がれてきた道のりは、並大抵ではなかったことは容易に察せられます。広く知ってもらえるように大きく舵を切り、へき亭をつくったことも、決断のいることであったでしょう。これまで代々のご当主をはじめ日置家のみなさんが、使命感や覚悟を持って守ってきたこの空間を、これからは私たち一般市民も「かけがえのない預かりもの」として、保存継承にかかわっていく時代なのだと改めて感じました。もっと言えば「かかわることができる」時代なのです。

新しい役目を持った日置家の「へき亭」は、当主以外は家族さえも許されなかった客間に誰もが入ることができ、美術館級の襖絵や調度品も惜しげもなく、本来そこにあったかたちで置かれています。しかし威圧感ではなく「ちょっとおじゃまします」といった気分で拝見ができます。このように感じることができるのも、へき亭が「建物は人が住み、暮らしていたところ」としての根がしっかりあるからではないかと思います。身分の高い武家の屋敷であっても、暮らしの営みが感じられるところが、へき亭の大きな魅力なのだと感じました。

藪を通り抜け、木々に耳を澄ます


道代さんに見送られて、へき亭を後にし、京都府森林組合連合会アドバイザー前田清二さんの説明を受けながら古道を歩きました。古道に沿って深い藪があり、見上げるほどの樫の大木もあります。木をよく知った人なら、幹を叩いてみれば、中にうろ(空洞)があるかどうかわかるとのこと。うろがあれば直接、木の音が響くそうです。また棕櫚の木を何本も見かけましたが、梵鐘を突くしゅもくの先に棕櫚の皮を巻くと、良い音が出るそうです。お寺の庭で時々棕櫚の木を見かけるのは、そのためと説明されました。森を歩くと思わぬことを知ることができます。

のどかな野道を行くと、草が萌え始めていたり、畑の梅のつぼみがふくらみかけていたり、先々で春を見つけます。亀岡は、晩秋から早春にかけて、度々「丹波霧」と呼ばれる深い霧が立ち込めます。この霧は、乾燥する時期に森や畑に水分を与え、木や作物に恵みをもたらせてくれると聞きました。この美しい季節の風物詩の霧を、亀岡の特色としてアピールされています。1月には「かめおか霧の芸術祭」が行われました。

次に訪れたのはへき亭の近くにある、その名も「KIRI CAFE」(キリカフェ)です。古民家をリノベーションして、霧の芸術祭の拠点としてオープンした交流スペースです。芸術系大学の学生さんの陶器の作品や、近隣の農家さんが収穫した生き生きと元気の良い野菜が並んでいました。ストーブの上のお鍋から湯気が立ち、それも気持ちをあたためてくれます。2020年内の限定でオープンされたそうですが、ぜひ継続してほしい居心地のよい空間でした。

へき亭もKIRI CAFÉも、単に歴史のある武家屋敷、おしゃれなカフェという所ではなく「この土地と家を受け継ぎ生かして、多くの人にその良さや力を知ってほしい。それが新たな人と人のつながりになる」という熱い思いが、すばらしい場をつくっていると感じました。建物や森は、人がきちんと手をかけることで、人よりずっと長い命をつなぎます。そのことを考えることができたことはとても良い体験となりました。

京の茶室文化 数寄屋建築を支える木の文化

京都の特徴的な文化の一つ、茶室・数寄屋建築は、林業、木材の製材・加工、大工など、多様な職人の技や知恵によって支えられてきました。
実際に現地を訪れ、木の文化の源流を学ぶツアーが「林業女子会@京都」主催、「京都発 火と木のある暮らしの提案」でご紹介しました「京都ペレット町家ヒノコ」共催により2日間にわたって開催されました。
講師は職人さんや、建築、木材の専門家という特別企画の、数寄屋建築と庭園、銘木加工、製材所見学コースに参加しました。その様子を3回続けてお届けします。

その1、日本文化の精神を感じる建築と庭


京都御所の西側の静かな住宅街に、古風な門が見えます。門から路地を入り、さらにもう一つ門をくぐると、数寄屋建築の建物と手入の行き届いた広い庭があります。ここが日本文化と歴史を伝える場としてよみがえった「有斐斎弘道館」(ゆうひさいこうどうかん)です。
江戸時代中期の京都を代表する儒者、皆川淇園(みながわきえん)が創立した学問所跡に建てられています。このあたりは「どんどん焼け」とも言われた、京の町を焼き尽くす幕末の大火に見舞われましたが、明治時代から昭和にかけて増改築された建物が現在の弘道館です。約550坪の庭に、二つの茶室と広間のある建物は、お茶事をはじめ日本の伝統文化を学ぶ場となっています。

今回のツアーでは、京都建築専門学校副校長、建築史家の桐浴邦夫さんから、数寄屋建築や茶室の見方や歴史について説明していただきました。
室町時代、東山山麓の慈照寺(銀閣寺)のように、風光明媚な自然のなかで行われていた茶の湯は、次第に市中の富裕層の間に広がっていきました。
当時の人々は、自然に乏しい町なかでも、建物の土の壁や木から、自然を感じることができるよう工夫し、それを理解する感性を備えていました。そしてこの「侘数寄」(わびすき)の風趣は、小堀遠州に代表される、自由で明るく洗練された「きれい寂」(さび)という美意識へとつながっていきました。

弘道館の茶室は、この侘数寄ときれい寂の両方を兼ね備えていて見どころが多く、何回も訪れるなかで今まで気がつかなったところが発見できる楽しみがあるとお話しされました。また「日本の庭は、より自然に近づけるかたちで人工的に造ります。自然の要素と人工的なものをどう組み合わせるか。いろいろな技術を駆使しながらも、それを露骨に見せないことが、外国の庭園と大きく違う点です」と説明されました。こうして茶室や庭の見方の概略を聞いたうえで見学するのと、ただなんとなく見ていたのでは大きな違いがありました。

より自然に近づける卓抜した技術


六畳の茶室「有斐斎」は、床の間の内壁の墨蹟窓、高い天井などに特徴があります。これまでと同じ茶室にすることに異を唱える人があらわれ、お客様をもてなすという意味合いで、点前座を狭く、お客様の場所を広くとっています。

また、床の上部に竹材が使われていますが、よく見ると漆が施されています。高い所でもあり、最初は気がつきませんでした。すぐには見えない所にも技と工夫を凝らし、木の選び方や削り方なども、荒々しくする人、優しくする人など職人さんの気性や感性が伺えるそうです。

一方の茶室「汲古庵」(きゅうこあん)は、「表千家八代 卒啄斎(そったくさい)好み七畳」の茶室の写しです。卒啄斎は、自由に遊び心を取り入れる風潮にあったお茶に厳しさを求め、もう一度侘び数寄の世界へもどり、自然を感じようと取り組んだ人です。
特殊な加工や材を使っているわけではなく、土壁と丸太で素朴さを表現し、より心で自然を感じるつくり方になっています。「茶室は極限の広さの空間でお茶を点て、喫する場であり、狭いほど客と亭主の緊張感が生まれる。」とのお話に、先人のお茶人たちの心を推しはかる気持ちになりました。茶室は亭主と招かれた側が織りなす、一期一会の物語なのだと感じました。

歴史と文化を五感で感じる場


現在の有斐斎弘道館は、以前にも和の文化サロンとして活用されていましたが、2009年に建物と庭を取り壊し、マンション計画が持ち上がりました。すでに御所近くの町家も次々と姿を消す中で、庭や路地、茶室と、日本の文化が凝縮されたこの場は、なくなれば二度と取り返すことはできないと立ち上がった、研究者や企業人などの有志による奮闘と尽力で、保存が成し遂げられました。それが現在の弘道館の礎となり、2013年には公益財団法人化され、有志のみなさんによる活動が続けられています。

当日は、フランスからのお客様を迎えてのお茶会の準備で、財団理事の太田達さんはじめ、みなさんお忙しくされていましたが、とても丁寧におもてなしいただきました。お茶会のテーマは平安時代から11世紀までの桜ということで、それにちなんだすばらしい室礼でした。吊釜が掛けられ、炉縁は花筏、生垣は望月ので、これは「花の下にて春死なむ この如月の望月の頃」と詠んだ西行の歌にちなむなど、太田さんのお話に「もっと和歌や文学、歴史の素養があったら、どんなにこの場を楽しめたことか」と、つくづく思いました。

お菓子は今年の歌会始の御題「望」にちなむ「令聞令望」を頂きました。お茶は銘々、違茶碗を出していただきました。
太田さんは京菓子調進所のご当主です。「昔は政治家や経済人でもスケッチを持って来て、こういう菓子を作ってほしいと言ったものですが」と言われました。桐浴さんの「利休は、工務店の親父みたいなもんだったし、戦前は茶人が茶室を設計する例が多かったのです」という話も興味深く聞きました。

弘道館は、2019年7月7日に再興10周年を迎え、様々な企画が行われています。畳に座った視線で眺める庭、障子越しに差す光、湿りを帯びた苔の匂い。そして茶室という静謐な空間。
自然を大切する日本の美意識や伝統文化、職人の技を未来に伝えるために、弘道館という空間のすべてが必要なのだと得心しました。維持管理には、資金はもちろん、庭の手入れなど多くの人出が必要です。ぜひ多くの人が、その担い手になっていただけるよう願っています。手始めにご自分の好きな講座や企画に参加してみてください。

 

公益財団法人 有斐斎 弘道館
京都市上京区上長者町通新町東入ル元土御門町524-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日