西陣の京町家 古武邸の端午の節句

薫風、青嵐、青東風(あおこち)。若葉の薫りを運び、木々を通り抜ける風の名前です。日本では、風の名前にも豊かな自然が織り込まれています。
季節が初夏へと移る時、夏の始まりは端午の節句と重なります。子供の日とセットのようになっていますが、邪気を払い、男の子の健やかな成長を願う心が込められた行事です。
お雛様は家族の楽しい思い出のよすが」で、愛らしい木目込みのお雛様を見せていただいた古武さんの町家に、りっぱな五月人形が飾られました。鎧兜から調度品に至るまで、千二百年の都の伝統と職人技の粋と品格を、見事にあらわしています。

宮中から出て庶民のもとで育まれた行事


「端午」の端は、はし、始まりを意味し、毎月最初の午の日を指していましたが「午」が数字の「五」と読みが同じであったことから五月五日に定めたとされています。また中国では「偶数は縁起が悪い」とされ、奇数が重なり偶数になる日を特別な日として、その季節の植物や食べ物の生命力で災いを避けるために神様に供物を捧げました。これが日本に伝わり、平安時代に宮中や貴族の間で、さらに武家、そして庶民へと広がっていきました。
一月七日人日「七草の節句」、三月三日上巳「桃の節句」、そして五月五日が端午「菖蒲の節句」です。もう一つ、九月九日重陽「菊の節句」を合わせて五節句として、大切な行事とされてきました。節句は季節の区切りをさしています。

古武さん宅の兜と菖蒲をあしらった抹茶茶碗

五月五日は旧暦では今より約1か月後、梅雨入りの頃、田植えの季節となります。そこで端午の節句には、軒によもぎと菖蒲の葉を差し、その香りで邪気を退散させ、豊作を祈りました。やがて武士の世の中になり、「菖蒲」の読みは、武道や武勇を重んじる意味の「尚武」と同じことから、武家の中に広がり、江戸時代には今の端午節句の様式になったようです。
鯉のぼりも「登龍」という激流を勇ましく鯉がさかのぼったという中国の故事に由来します。「登竜門」はこれから生まれた言葉です。このように、武門の誉れ、立身出世、つまりは男の子の成長と家の継続繁栄を願う象徴として祝うようになりました。

さて、古武さんのお家の五月人形は41年前、ご長男の初節句に、有職人形の老舗で求められたものです。奥の座敷の床の間と床脇いっぱいに飾られた、古式ゆかしい五月人形は、長男の誕生を、若い両親、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなで喜び、健やかな成長を願う心が込められています。
「本当は段飾りなんやけど、大変やし」と言われましたが、飾って、また丁寧に仕舞うだけでも大変なことです。鎧兜も調度品も大切に保管され、どれも傷みがありません。平和をこよなく愛し、争い事と対極にある穏やかなお人柄の古武さんは「節句飾りは戦に関係するものがほとんど。その点がちょっと相いれないけれど、職人の技を伝える工芸品やと思って飾っている」そうですが、これだけのひと揃いを間近に、しかも町家という空間で拝見できることは、とても貴重なことです。

鎧兜をはじめ、柏餅やちまきの作りものや、それを載せる曲げ物なども含め、非常に多くの分業体制のなかで製作されていました。技術の高さだけではなく、きちんと有職故実にのっとった作り方がされているところにも、京都の歴史と文化があらわれています。例えば、ちまきの作りものは、五色の糸で巻いてあります。これは、現在のちまきの始まりとされる中国の故事に由来しています。そして何を揃え、どのように飾るかも専門店がすべて心得ていたということでした。
今は住宅事情からしても、これだけのものを保管しておく場所も、飾る場所もありません。買う人が少なくなれば当然仕事が減り、生活できないから分業体制が崩れる、そうすると今ではもう作れないものがたくさん出てきます。人形専門店も少なくなりました。残念なことですし、致し方ない面もありますが、今の暮らし方に合う節句飾りのなかで、技術や子どもの健やかな成長と穏やかな世の中を願う心が伝えていけたらと思います。
古武さんの節句飾りがみんなきれいな状態で残っていることに感心していると「男の子はやんちゃやから、遊びに使って壊したりすることが多かったみたいやけど、家の息子は怖い言うて近寄らへんかったんで」と笑いました。微笑ましい話に、息子さんもお父さん譲りの優しい穏やかな性格なのだなと思いました。

1分歩けば何かがある歴史の集積地


古武邸は西陣のただ中にあり、歴史の痕跡をあちこちで目にすることができ、古地図をたどって歩くことができます。古武邸の向かいは、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が幼少から江戸へ行くまでを過ごした家です。ご当主が代を継いで現在に至っています。桂昌院は幼名を玉さんと言い、女性として最高の出世を遂げたということで「玉の輿に乗る」という言葉が生まれました。

また、近くの元桃園小学校、現在の西陣中央小学校の付近一帯は、能楽を大成させた観阿弥・世阿弥父子が時の将軍足利義光から賜った領地でした。邸内には名水の湧き出る井戸があり、それに由来する伝統文様が「観世水」で、町名に観世の名を残しています。
番組小学校であった桃園小学校の校歌の一節に「錦あやおる西陣の」とあるように、西陣織に関係する仕事に携わる人々のまちの繁栄を誇ってきました。紋屋町の通りは今もそのたたずまいを残しています。また新しく入居する人もあり、町並みが大きく変わるなかで、暮らしと生業のあるまちとして持続しています。

古武さんは、訪れる人に「感動してもらうにはどうしたらよいか」を考えていると語ります。お正月準備や、桃の節句のお雛様や、端午の五月人形など季節の楽しみを暮らしのなかに取り入れ、町家という空間で見ることで、「木と紙と土でできている町家」を感じてもらえることができると思います。

5月は、産土神である今宮神社のお祭です。今宮神社は12の産子町内がありますが、その構成は昔からほぼ変わっていないそうです。お祭では12の産子町それぞれに意匠の異なる飾鉾(剣鉾)があり、神幸祭(おいでまつり)還幸祭(おかえりまつり)に参列します。古武さんの町内は蓮鉾です。
還幸祭には古武邸の前の大宮通を、松明の先導で、三基の御神輿を中心に飾鉾や神職など総勢800人の行列が通ります。夕闇が迫るなかの厳かであり、また、町衆の力も感じさせる還幸祭ということです。古武邸は「お玉さん神輿」の休憩所としてお祭に奉賛しています。
古武さんは「町家の価値の再発見とその発信」がますます重要になる、しかも急務であると考えています。京都が京都であるのは、このように目立たなくても、地道にそして手間暇、資金もかけながら、町家を守り、住まいとしている人達がいることが、とても重要です。どういうことで応援し、支援できるのか。建都も、住まいとまちづくりの地元企業として、いっそう、地域に役立つ力をつけてまいります。