日中は真夏日の気温に閉口しても、朝夕はいく分過ごしやすくなりました。時折りのさらっとした風や高い空に、季節は秋の入り口にあることを感じます。日常を離れて、ちょっとどこかへ行ってみたい気分にもなります。
山科の旧東海道沿いに突如、時代を感じる空間があらわれます。六角のお堂やりっぱな手水舎、古い道標など、東海道を行き来する人々や牛馬の休憩場所ともなっていた境内は、往時の面影を今に伝えています。
六地蔵めぐり第六番札所
以前、車で通りかかって目にとまった一画は臨済宗南禅寺派のお寺「徳林庵」です。いかめしい塀などは一切なく、旧東海道沿いに開かれ、おおらかな雰囲気が漂っています。徳林庵は八百五十年の歴史のある「六地蔵めぐり」の第六番札所です。
六地蔵めぐりとは、平安時代の公卿であった「小野篁(おののたかむら)」が病にかかりあの世へ行きかけたところで、地獄で苦しむ人々を救う地蔵菩薩と出会い「地獄の苦しさと私のことを広く伝えてほしい」と命じられました。そこで一本の桜の木から六体のお地蔵さまを彫りました。やがてそのお地蔵さまを、疫病や悪鬼から都を守るために、主要な街道の6か所の出入り口に祀ったのが始まりと言い伝えられています。伏見六地蔵、上鳥羽、桂、常盤、鞍馬口、そして徳林庵の山科地蔵の六体です。六地蔵の地名はここに由来しています。
境内のお堂に、六地蔵めぐりでいただく「お幡(はた)」について詳しく説明された額が掲げられていました。六地蔵めぐりで集めたお幡を玄関の軒下へ吊るしておくと、お地蔵さまに守られている印となって、よいことが集まり、わざわいを遠ざけてくれるそうです。
以前この京のさんぽ道で久御山町へ伺った時「少し前まで、朝暗いうちに家を出て六地蔵めぐりをしていた」とお聞きしました。六地蔵めぐりは毎年8月22日、23日の2日間と決まっています。京都のあちこちの町内で地蔵盆が行われる日です。山科地蔵を祀る徳林庵とその周辺も、露店を楽しみにする子どもたちや無病息災を願ってお参りする人々で、たいへんなにぎわいとなるそうです。通りがかった人が「子どもの頃、本当に楽しみやった」と懐かしそうに話してくれました。お堂に祀られたお地蔵さまは毎年の六地蔵めぐりの折にご」開帳されるそうです。訪れた日は、ひっそりしていましたが、一人、二人とお参りする姿が見られました。徳林庵の開放的でだれでも受け入れてくれる雰囲気は、お地蔵さまを大切に祀る素朴な信仰から生まれているように感じました。
旧東海道は通学班の集合場所
徳林庵の境内にはお堂のほかに、飛脚や牛馬の休憩地であったことを示すりっぱな井戸があります。「文政四年・・・」「京都 大阪 名古屋 金澤 奥州 上州 宰領中」など筆太にくっきり刻まれています。宰領とは飛脚問屋の取り仕切る役目なのだそうです。
また「通」は途中で人を替えずに最後の目的地まで通す「通し飛脚」を意味しています。現在も輸送関係の企業名には「通」がよく使われていますが、飛脚からきていたということを知り興味深く思いました。
京の三条まであと一息、ここで喉をうるおしもうひと踏ん張りと、元気を取り戻したことでしょう。牛や馬のいななき、人々が交わす声も聞こえてきそうで、当時の活気がうかがえます。
おもしろい形の石があります。これは「車石」と言って、重い荷物を積んだ牛馬車が、ぬかるみにはまらず、スムーズに進めるように両側に石を敷き詰めてあったそうです。
菩提を弔う仁明天皇第四之宮人康親王(しのみやさねやすしんのう)の供養塔や六体地蔵も静かにたたずんでいます。奉納された扁額には「山城国宇治郡四ノ宮村 六ツの辻四ツのちまたの地蔵そん 道ひきたまへみだの浄土江」と刻まれています。素朴な信仰の心が深く印象に残りました。
境内と隣り合った小道は十禅寺への参道となっています。山に抱かれた静かなお寺です。
歴史の片鱗、証と言えるものがごく普通に存在していることに驚きます。山科は高速道路の建設で住宅開発が進み、このような里や街道の風情とは結び付かなかったのですが、今回訪れてみて、歴史の懐の深さを実感しました。また、山科地蔵が校区の子どもたちの登校時の集合場所になっていると聞き、ますます山科の歴史は普段の生活のなかにあると感じました。旧東海道は21世紀のいま、刻んできた歴史を子どもたちと共有しています。
中臣遺跡、山科本願寺等々、山科の魅力は、簡単には堀つくせないほど豊かです。
徳林庵(とくりんあん)
京都市山科区四ノ宮泉水町23