ようこそ 京町家のおもちゃ映画博物館へ 

大正から昭和の初め、日本映画の黄金期に、映画館で上映された後に切り売りされた35ミリフィルムをおもちゃ映画と言います。そのフィルムは、一般家庭でブリキ製のおもちゃの映写機を使って楽しまれたことから、この名前が付けられました。
なぜフィルムが切り売りされたのか、日本の映画や、映画のまち京都はどのような歴史を刻んできたのか。時代の変遷とともに捨てられたり、かえりみられることなく劣化し、消えゆくフィルムには、無声映画の全盛期に携わった人々の息遣いや熱い思いが込められています。この貴重なフィルムを救いたいと「おもちゃ映画ミュージアム」を設立し、運営を担う、代表の太田米男さんと奥様で理事の文代さんにお話を伺いました。

切り売りでわずかに残った貴重な無声映画

おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん
おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん

おもちゃ映画ミュージアムが収集・復元したフィルムは約900本にのぼり、200点以上の映写機やカメラなども展示されています。太田さんの収集品に加え、このミュージアムの存在を知り寄贈されたものもあります。
取材に伺った日、太田さんは映写機をきれいに磨いて調整されていました。寄贈されたフィルムや映写機はすべてていねいにチェックして、可能な限り修復しています。復元できたフィルムはデジタル化して寄贈してくださった方へ送りていねいに感謝の気持ちを伝え、つながりを深めています。
映写機とフィルム
映画が音声付きのトーキーの時代になると、無声映画のフィルムは乳剤を洗い流して新品フィルムとして再利用されたり、廃棄されるなどオリジナル映画のほとんどが失われてしまいました。上映後に切り売りされた「おもちゃ映画」は、時間にすると20秒、30秒から1分、3分という短いものですが、今となっては、映画の歴史を伝える数少なくかけがえのない資料となっています。
時代劇を中心にアニメーションや実写のニュース映像もあり、当時の様子が映し出された歴史の証人です。太田さんは「家に古いフィルムや映写機、パンフレットなど映画に関係するものがあれば、劣化してしまう前にぜひご連絡ください」と呼びかけています。
また、京都市広報局が1956(昭和31)年から1994(平成6)年まで製作し、映画館で上映されていた「京都ニュース」の救出にも取り組んでいます。社会や暮らし、文化、今は失われた景観など、時代を映す貴重な映像資料です。製作から60年以上経過し、劣化が進んでいるなか、保存と活用に力を注いでいます。
おもちゃ映画ミュージアムの蓄音機
ミュージアムでは、手回し式の映写機でおもちゃ映画を見たり、手回しの蓄音機でSPレコードを聞くことができます。カタカタカタという映写機の音とモノクロの映像の世界に、ゆっくりと身を置いて過ごしてみてください。

無声映画の輝き「活弁」の世界の企画展


日本映画は無声映画時代「活動写真弁士」略して活弁と呼ばれた人々の語りが入った形式ができあがったことが大きな特徴です。これは日本独自のスタイルであり、文楽や落語、講談など「語りもの」の芸を楽しむ文化が下地としてあったからと聞き、腑に落ちました。名調子で映画を盛り立て、人々を熱狂させ、全国で大勢の活弁士が活躍しました。人気を博した活弁士は、当時のポスターやチラシに名前が大きく載っています。

活動写真弁士の世界展
活動写真弁士の世界展

おもちゃ映画ミュージアムでは今、「活動写真弁士の世界展 第2期黄金時代」が開かれています。現在では10人足らずとなった現役活弁士の一人、片岡一郎さんが所蔵する無声映画時代のポスターやチラシ、出版物など多数のすばらしいコレクションが展示されています。詳細なリストと解説資料も用意された渾身の企画展です。
大胆なレイアウトや個性的で迫力のある書体など、大正から昭和の初期という時代の勢いと、仕事を手がけた人々のエネルギーが伝わってきます。映画はもちろん、印刷やデザイン、モードなど様々な視点から楽しめるとても興味深い展示です。映画の黎明期から一番輝いていた時代、映画に心血を注いだ人々の様子が浮かび上がってきます。

映画への思いが人をつなぎ明日をつくる場所

おもちゃ映画ミュージアムの外観
代表の太田さんは京都生まれの京都育ち。家は撮影所のあった太秦にも近く、子どもの頃から映画はいつも身近にありました。映画とかかわる日々のなかで、「映画は財産」として大切に修復と保存・管理がなされているアメリカやヨーロッパに比べて、極端に少ない日本映画の保存状況に危機感を覚え、2003年から「玩具映画プロジェクト」を立ち上げ、その後、映画の復元と保存に関するワークショップを毎年開催し、その地道な積み重ねのうえに「おもちゃ映画ミュージアム」を設立しました。
当時の忠臣蔵のポスター
開館は2015年5月、映画が誕生して120年、また日本映画の草創紀に大活躍した尾上松之助の生誕140年という記念すべき年でした。この開館を祝うかのように、偶然にも尾上松之助の作品「忠臣蔵」のフィルムが寄贈されたのです。それは9.5ミリの特殊な規格でしたが、上映できる映写機があり、映してみると再編集された1時間ほどの、ほぼ完全なフィルムだったそうです。おもちゃ映画ミュージアムは、古い映写機やフィルムの安心の地であり貴重なフィルムが多くの人と出会う新たな場となります。
おもちゃ映画ミュージアムの映写機
戦前に日本で作られた映画で、残っている作品は5パーセントほどしかないそうです。「日本でも外国でも評価されているのは、現在フィルムが残っている映画だけです。出演が1000本を超える尾上松之助や日本映画の黄金期を築いた阪東妻三郎、大河内伝次郎なども、残っている作品はきわめて少なく知られることがありません。どこかに残っているかもしれないそれらの作品を発掘して、監督や俳優たちの名誉回復をしてあげたいですね。尾上松之助も派手な演技ばかり言われていますが、社会福祉団体に寄付するなど社会的貢献をしたことの顕彰もね」と語る太田さんの言葉には、映画にかかわるすべての人に対する敬意がにじみ、心に残りました。
おもちゃ映画ミュージアムの天井おもちゃ映画ミュージアムの中
おもちゃ映画ミュージアムの建物は、もと友禅の型染の工場だったそうで、高い天井にりっぱな梁が通り、間口は狭く奥に深い町家づくりです。ここには映画を通してつながった人たちの協力のかたちがあちこちに見られます。屋根に掲げられた一枚板の鮮やかな勘亭流の看板は、その道の専門の職人さん、内部の壁に張った板の色は、長年映画の美術を担当している方が「展示するものが映えるように」と、ちょっと汚してよい風合いにしてくれました。新しい柱も既存の部分と違和感のないように塗られています。すてきなのれんは、文代さんのお姉さんの作です。
太田さんご夫妻
太田さんは「映画の復元と保存に取り組むという思いがあれば、応援してくれる人は必ず出てくると、思っていますと語ります。実際に次に引き継ぐべき後進も育っているとのことです。昨年からコロナ対策のため、意欲的な企画を中止または延期にせざるを得ませんでしたが、歩みを止めることなく今できることを考えて取り組んでおられます。
太田さんご夫妻は今後さらに、おもちゃ映画ミュージアムが、映画関係の人や、映画が好きな人、みんなが集まって来て情報交換したり、励まし合い、様々なワークショップもできる「映画の基地」となればと考えています。以前にこの空間を生かして、前進座の俳優さんによる「松本清張作品の朗読劇」や歌舞伎の隈取のワークショップなど魅力ある企画も実施されてきました。より多くの人にミュージアムに足を運んでもらい、映画の発掘と復元、そしてこの京町家の空間ともども、明日へと継続されますよう願っています。

 

おもちゃ映画ミュージアム
京都市中京区 壬生馬場町29-1
会館時間:10:30~17:00
休館日 月曜・火曜

京都のまちかどの おとうふ屋さん

「今日は湯どうふ」と、何回もお鍋を囲んだお家も多いことと思います。季節を問わず、年中お世話になっているおとうふ。良い水に恵まれている京都は昔から「京のよきものとうふ」と名をあげていました。
上京のまちに今も、おくどさんで薪を焚いておとうふを作り続けるお店があります。
「創業文政年間」と染め抜いたのれんが、京町家にしっくり調和する入山豆腐店です。ご主人の入山貴之さんに話をお聞きました。おとうふのこと、お客さんのやりとり、京都の歴史等々の話題が次々と繰り出し「もっと聞きたい」入山さんの味なお話を、ほんの一部ですが、おすそ分けいたします。

ものは人の手がつくっている

入山とうふ
入山とうふ店主の入山貴之さん

京都のまちなかには、名水の湧く井戸がいくつもあります。上京区の「滋野井(しげのい)」の名水は、元滋野中学校の校歌にも「滋野井の泉のほとり」と歌われ、地元の宝として大切にされてきました。入山豆腐店もこの地域にあり、井戸から地下水をくみ上げています。近辺にはおとうふ、生麩、醤油など良い水があってこその生業が営まれています。
入山とうふのおくどさん
入山さんのお店では、機械を使うのは大豆をすりつぶす作業だけです。このすりつぶした大豆を、おくどさんにかけた大釜のお湯に入れて炊いていきます。ガスにすれば手間はかかりませんが、カロリーが低いので時間を要します。その点、常に火加減に注意し、微妙な調整も必要ですが、薪は火力が強く短時間で炊きあがり、香りや風味を生かすことができます。
按配のよいところを見きわめて、炊いた大豆を袋で濾すと、豆乳ができます。この豆乳に、にがりをまぜて型に流し、余分な水を除いてから水槽の中で切って、おとうふの完成です。焼豆腐は串を打って炭火で焼き上げています。これは秋から4月いっぱいくらいまでの季節のものです。焼目こんがり、こうばしい味、よい香りは「入山さんのお焼き」だけのものです。
入山とうふの油揚げ
お揚げやひろうすもおくどさんで、きれいな油を使い、丁寧に揚げているので、油抜きする必要はありません。豆乳も機械でぎゅうぎゅうしぼり切ることがないので「お客さんから、ジューシーやと、よう言われる」しっとりしたおからになります。炒らずに、そのまま使っておいしくできます。豆乳も毎日買いに来るお客さんも多く、冬は豆乳鍋にするお家もあるとか。質の良い水と原料、誠実な手仕事で作られたものは、何にしてもその素のよさが生きています。
薪を割る入山さん
大豆を水に漬けるのは前の晩、朝4時からおとうふを作りお客さんに応対し、合間には薪を割りその他諸々、仕事がたくさんあります。年2回は近くの小学校の見学を受け入れています。「体を使って働く姿を見ることがないと思う。ものは人間の手がつくり出しているのだということを知ってもらえたら」という思いです。ものづくりは人の手がつくり出す。入山豆腐店はおいしさとともに、その大切さを教えてくれます。

鐘の音と「入山さーん」と呼ぶ声

姪ごさんの太田真莉子さん
姪ごさんの太田真莉子さん

2年前から、火曜、木曜、土曜の午後は近くの町内をリヤカーでまわる「まわり」を復活させました。担当は、2年前からお店を手伝っている姪ごさんの太田真莉子さんです。真莉子さんの後にくっついて、まわりに同行させてもらいました。リヤカーに真莉子さん手書きの「入山とうふ」の看板を付け、入山さんのお祖父さんの時代からのりっぱな鐘とともに出発です。

あいにくの冷たい雨でしたが、晴天続きで井戸が枯れかけていた入山豆腐店にとっては、恵みの雨です。よく響く鐘の音が家の中にも届いて「入山さーん」と声がかかります。「雨の日は本当に助かる。まわって来てくれはるし、ありがたいわぁ。入山さんとこのは、おいしいしね」そして「雨の日は大変でしょう。気ぃつけてね。いつもありがとう」という言葉に、信頼関係や感謝の気持ちがこもった、とてもあたたかいものを感じました。
まちなかでも、このあたりはお店がなく、高齢の方をはじめ多くの人が真莉子さんのまわりを頼りにしています。一言ふた言でも、そこで交わす会話に気持ちがなごむことでしょう。
2階からかごを降ろして買う思いがけない楽しい場面にも遭遇できました。

「今日はお客さんが多かったです。3人だけとかいう日もあります」と真莉子さん。まわりを始めたのは、どういうことからですかという問いには「必ず需要はあると思っていました。入山豆腐店がせっかくこれまでやってきたことを大切にしないともったいない。必要とされているところ、待っていてくれている方に応えたいと思って冬も夏も、お客さんが少ない日も、曜日も時間も変えることなくまわりをしています。」
みなさんも運が良ければ真莉子さんのまわりに巡り合えるかもしれません。鐘の音が聞こえてくるか、耳をすませてみてください。

江戸時代の作り方は、究極のエコだった

入山とうふの店頭
薪をたくなつかしい匂いと、煙突からうっすらと上がるけむり。入山さんがのれんを出し、店頭にはみずみずしいおとうふをはじめ、揚げたて、焼きたてが次々と並んでいきます。同時にお客さんがやって来ます。「ただ今開店しました」というふうではなく、何となくゆるく開店する感じも、ほんわかした雰囲気です。
入山さんのお父さんが跡を継いだ時は昭和30年代、世の中が大きく変化し始めた時でした。豆腐製造業も機械化が進み、多くのお店が機械化・量産化へ舵を切りました。スーパーマーケットができ、食品へも大量生産、価格競争の波が押し寄せた時代です。お父さんも機械の導入を考え、先代に相談したところ「とうふ屋が数に走って売り上げを上げたらあかん」と返され「これまで通り」を続けてきました。「結果、よかったかな」と入山さんは思っています。

おとうふは、外国の人に多いベジタリアンやヴィーガンの人たちも食べられます。「そういう点でも日本のとうふは世界の人に安心して食べてもらえる優れた食品で、食べ方もいろいろアレンジできる。しかも歴史や文化的な価値がある。シンプルという日本人の考え方はすごい」と可能性を感じています。

おくどさんで焚く薪は、大工さんから手に入れる端材を利用し、消し炭も火付け用に取っておき、灰は豆乳をこすふきんなどを洗う時に使います。「捨てるものは何もない究極のエコ」です。あるものを生かして使い切り、循環させる作り方には、今の時代に多くの人が感じ、見つめなおして大切にしようという暮らし方、ものづくりの本来の姿があります。
入山さんは人と話すことが大好き、本が好き、いろいろなことに興味があり、多くの人、外国のお客さんともコミュニケーションを楽しんでいます。入山さんは「それが、まち店の意味」と語ります。そこからお店の経営や考え方にも柔軟性が発揮されているように感じます。

商品名を書いた札や、イラスト入りのボードなどは、すべて真莉子さんの手になります。真莉子さんの「リヤカーを、赤とか明るい色にして、もっとかわいくしたい」という構想に、入山さんは「それもええなあ」と応じます。二人のやり取りや、かもしだす雰囲気が何かいい感じです。淡々と明るく仕事を進める二人の様子は、二百年ののれんも軽々と、とても身近に感じられます。おいしいおとうふ屋さんが近くある幸せ。ささやかな喜びの積み重ねが、京都のまちと暮らしをかたちつくっています。

 

入山豆腐店
京都市上京区椹木町通油小路 東魚谷町347
営業時間 9:30頃~18:00頃

京都西山、竹の春 竹林の農小屋完成

京のさんぽ道「暮らしの営みや人とつながる建築の喜び」でご紹介しました山の竹林の農小屋が、竹林を管理する石田昌司さんの見守りと理解、京都建築専門学校の佐野春仁校長先生と学生さんたちの、献身的な作業のすえに完成しました。構想から2年近く、寒風に吹かれ、雨に打たれ、蚊の襲撃に耐え、ついに迎えたこの日をお祝いする集まりは、限られた人数となりましたが、とても心あたたまるものでした。

秋のしつらいのお披露目茶席


板戸が閉められた小屋の中は午後の光が弱まり、しんとして「陰翳礼讃」の世界に招かれたようです。前日まで作業が続けられていたとは思えない静けさです。藁がすき込まれた壁と掛花入れの秋明菊(しゅうめいぎく)が、一層ひなびた秋の風情を漂わせています。もう一つの白釉の花入れには秋明菊と秋海棠(しゅうかいどう)が入っていました。このお茶花は佐野先生の心遣いです。

密を避けるために一席を少人数にしてあり、ゆっくりと一服をいただくことができました。一緒の席になった初めて会う方とも、自然に会話ができる、こういった間合いを心地よく感じます。久しぶりにお茶の席に座ってみて、和やかさと一種の引き締まった空気が共存する空間は、やはり良いものでした。
この時のお点前は、建築専門学校2年生の浅原海斗さん、前回の京のさんぽ道に、土練りや壁塗りに奮闘する姿を取材させていただいた松井風太さんの同級生です。浅原さんのお家は左官業を営んでいると聞き、職人さんの技術を子どもの頃から日情的に目にして、体のなかに刻み込まれているのだろうなと思いました。若い世代は頼もしい、という感を強く持ちました。

出窓には、柿の照り葉の上に、いが栗が乗せられていました。これは石田さんの畑の栗で、自らしつらえました。お菓子も秋の装いの栗きんとんです。参加者の方の、お手製と聞きました。しつらいからお菓子まで、すべてに心がこもっていました。準備はさぞ大変だったと思いますが、大変なだけでなく、楽しみながら準備してくださった様子がうかがえた、心地の良い披露目のお茶会でした。こういうお茶会なら「堅苦しいからいや」と敬遠している人も「お茶って、案外いいね」と感じるのではないかと思います。
季節は「竹の春」。筍に栄養を使い、葉を落とす時期を「竹の秋」、養分を蓄えて青々と葉を繁らせた今を、竹の春と呼びます。いずれも季語となっています。
そんな俳句の世界にも通じた、豊かな季節感を感じられたのは「農小屋のお茶席」だからこそと感じました。

五感の楽しみを贈ってくれた友情の輪


竹の皮のお弁当箱に、きれいに詰められた秋の彩りのご馳走は、お茶のお菓子を担当してくださった管理栄養士さんの薬膳のお弁当です。美味しくて体に良いものが何種類も入っています。いちじくは石田さんの畑のものでした。
タイの弦楽器サロータイの笛「クルイ」
そして、お茶をいただいた小屋の板の間が、小さなコンサートのステージになりました。民族音楽の研究のため、タイから日本に来られている演奏家の方の音楽の贈り物です。
ココナツの胴に板を張った「サロー」という弦楽器と「クルイ」という笛を演奏していただきました。サローは見た目には簡素ですが、とても深く、様々な表情のある音色でした。クルイもやわらかく素朴で郷愁を感じる音を奏でていました。演奏者のお人柄もあるのか、やさしさが伝わってきて、涙ぐみそうになりました。
竹の葉ずれや風の音も、演奏に合わせているかのようでした。国や言葉、それぞれの立場等々を超えて、心を通わせ、思いを共有できるすばらしさ、尊さが胸に刻まれたひと時でした。

農小屋の未来図をみんなで描く


当日は、お隣の大山崎町のふるさとガイドや、えごま油を復活させる会で活躍されている方や、長年竹に関する活動に参加されているみなさん、竹林の前の持ち主の方、竹林の向い側にお住まいの方も参加され、お祝いして頂きました。農小屋が、小さくても地域につながるきっかけをつくり、その輪が広がっていくように願っています。

農小屋には、筍掘りの道具などを仕舞います。また、竹林の作業は筍掘り以外にも幼竹伐りや、秋に藁敷き、冬に土入れなど、大勢でする仕事があり、そういう時にも活躍します。できる作業に参加して、多くの人がたけのこ栽培や竹林をきれいに整備し、保つことの大変さを知ることにつながればと思います。
また「伝統構法」で建てられたこの農小屋は、その見どころや日本の建築の初歩から教えてもらうことがたくさんあります。そして、青竹の雨樋や、それを受ける800kgの雨水タンクを埋めこむための地盤強化、足場がそのまま見えないように間伐した青竹を置くなど、自然に沿った構法や工夫にも着目です。石田さんと佐野校長先生、学生さんのチーム力があったからこそ、この日を迎えられたと感じます。

山の竹林の農小屋は、今年の卒業生と2年生のみなさんの、2年間の学校での学びの証です。松井さんと浅原さんが「壁の色や窓枠のべんがら色の赤が、どんな風に変化していくのか見たい。経年変化が楽しみ」と話していました。竹林の季節を感じながら、新しい集いの場となりますように、期待をこめてこれからもみなさんの取り組みを、しっかりお伝えしてまいります。

 

京都建築専門学校

京都の三味線職人と 職住一体の路地

京都のなかでも最も華やかな祇園界隈。顔見世興行決定の話題に湧く南座の近辺は、和装小物やぞうり、べっ甲、和楽器店などの専門店があり、三味線の爪弾きが聞こえてきそうな情緒を感じます。
「歌舞音曲」と言いますが、今まで縁のなかった邦楽のことを知る機会がありました。三味線職人であり、弾き手としても活躍するその人、野中智史さんの工房で話をお聞きしました。

棹や胴、皮張り、分業の三味線製作

野中智史さんの作られた三味線
三味線は多くの場合、分業制がとられていて、主に「棹」「同」「皮張り」に分かれて仕事をしています。
野中さんは棹作りです。工房には作業中の棹とともに、材料の木や様々な道具で埋まっていますが、整然とした感じがします。使う場所や作業の内容により、ノミだけでも何種類も使い分け、のこぎりや木づちまであります。

取材に伺った時は棹の修理中で、手元に置いた砥石でノミを研ぎながら、丹念に仕事をされていました。このような道具も、熟練の職人技で鍛えられたものですが、柄が継ぎ足されているなど、使いやすいようにカスタマイズされています。
何年も使い込まれたノミは、新しいものと比べると、先が、ずいぶんすり減っていました。まさに自分の手先となっています。三味線は通常三つ折りの仕様で作られますが、昔は「八折り」作らせて、職人さんの技を披露させた酔狂な人もいたのでそうです。

野中さんは、現在の工房の近く、祇園界隈で生まれ幼少を過ごしました。三味線や常磐津など邦楽を教える人も身近にいて、4歳から、けい古を始めたそうです。高校卒業後、伝統産業の専門学校に入学し、20歳の時に卒業制作の三味線を完成させたのが最初ということです。20歳の時、師匠のもとへ弟子入りを志願し、3回めにやっと承知してくれた時にかけられた言葉は「ただし、給料は払えない」でした。アルバイトをしながら師匠のもとに通い、やっと三味線で暮らしていけるようになったのは27~28歳の時だったそうです。
そして今日、京都に二人しかいない、棹作り職人の一人となって伝統の三味線作りを担っています。

野中智史さんが作った三味線の部品
三味線には、固くて緻密な木材である黒檀、かりん、紅木(こうき)が使われていますが、木目も美しい紅木が最高なのだそうです。実際にかりんと紅木の棹用の木材を持たせてもらいましたが、その固さと重さに驚きました。三味線の作り手がほとんどいなくなったと同じように、木材も枯渇してきて、あっても良い材が少ないということでした。危機には違いありませんが「良い音が出るなら、他の木でもいいのです」という野中さんの言葉に、悲観ばかりするのではない、こんな柔軟な思考がとても新鮮でした。かたわらのブリキの中には、木端がたくさん入っています。「捨てられなくて置いているのですが、修理の時に良い具合に使えて役に立ちます」ということでした。日々三味線に向かう、職人さんの言葉だと感じました。

いくつものけい古事のなかで唯一続いた三味線


野中さんは、先述したように幼い時から、芸事に親しんできました。謡、仕舞、踊り、常磐津のけい古もつけてもらったそうです。そして三味線だけは、途中で途切れることなく習い続けました。三味線の魅力を「フォルムも音色もすべてが美しい」と語る言葉に、好きを超えて、三味線と二人三脚のようにして、この楽器を究めていく姿を、垣間見た気がしました。
野中さんは、古くからの知り合いの依頼で、「ジャンルは色々、散財節」を、お座敷の宴席で弾いています。散財節とは「芸妓さん、舞妓さんを呼んで散財する」ことからきているとのこと。そういった粋なあそびをするお人が、まだいるいうことなのですね。最初に野中さんと会った時は、宴席での仕事が終わったところでした。銀鼠色の単衣に黒の絽の羽織を重ね、惚れ惚れする姿でした。
野中さんは「小唄くらいなら、だれでも気軽に始められます。初心者でも教えてくれるお師匠さんもおられますので、ぜひ、邦楽の世界をのぞいてほしい」と、思っています。また、芸術系の大学や、長唄三味線の方のワークショップ、お寺の檀家さんの集いなどで、講演mされています。縁遠い世界と食わず嫌いにならずに、一歩奥の京都へ、踏み出してみても楽しそうです。

「職住一体」京都の再生、あじき路地


野中さんは、若手の作家たちの、住まい兼工房が並ぶ路地の住人で、住人歴11年になります。空き家だった町家のある路地を再生して、若手作家が巣立ち、近所も含めて界隈の活気を生んだ例として、これまで様々なメディアで紹介され「京都景観賞」も受賞しています。西に五花街のひとつ宮川町、東に奈良の大和へ続く大和大路の間にある、この大黒町通は、町内が機能している地域です。

あじき路地を訪ねる時、目印になる「大黒湯」の高い煙突も、風景としてなじみ、路地にある現代アートのような手押しポンプもしっくりとけこんでいます。今回の取材を通して、ものづくり、職住一体、路地と町家といった、長年培ってきた京都の本来の姿は、まだまだ健在であることを認識できました。あじき路地には次々と魅力的な工房やショップができています。
東山区はことに変貌が激しかったここ数年ですが、暮らしのまちは脈々と生きています。

 

あじき路地
京都市東山区大黒町松原下ル2丁目山城町284
*工房もありますが居住もされていますので、訪問の際はご配慮ください。

京都西山のふもとに たたずむカフェ&バー

りっぱな門構え、広々とした敷地の中に、手入れの行き届いた庭に面して、家族で営むカフェがあります。つくばいに入れられた季節の花、また内装や建具にも細部にわたって心入れが感じられ「邸宅カフェ」と呼びたくなる趣です。

しかし、いかめしさはなく、心身が解きほぐされていく空間です。生まれ育った地域で、家族で紡いできた思いが、訪れる人の気持ちを優しくしてくれる大切な場所です。京都の西南、長岡京市の山裾にあるカフェ&バー「花平(かへい)」へお誘いします。

「花平」の名前に込められた思い

花平の外観

花平オーナーの妹の小百合さん
オーナーの妹の小百合さん

花平はオーナーの岡正樹さんと、妹さんの小百合さんの二人で切り盛りしています。50年前に建てられ、ここ20年ほど使われていなかった離れを活かしたいと考え、来た人にのんびり、気持ちのゆとりを感じてもらえるカフェを計画しました。小百合さんは、調理師免許があり、また正樹さんは、大学時代にバーでアルバイトをしていた経験から「昼間はカフェ、夜はバー」というスタイルに決まりました。

細い格子の建具、竹をイメージしてガラスに和紙を張ったバーカウンターの壁など、細部にわたって、明確なイメージがうかがえます。障子に工夫をした屏風式の間仕切りから、やわらかな光が差し込んでいます。木がふんだんに使ってあることも特徴です。岡さんは「木が多いと優しい気持になれるでしょう。僕自身がこういう雰囲気の所がいいなあ、こんな店にいたいなあと思う、そのイメージでつくりました」と語ります。
花平の床の間
この空間の要と感じられる床の間は、黒石を何枚も張り合わせてあり、典型的な和の様式でありながら、正樹さんの言うところの「和モダン」な雰囲気を漂わせています。「花平」の掛け軸は、いとこの方の、書道展金賞受賞作品を軸装されたものです。
岡家のご先祖は代々「平左衛門」を名乗り、名前には「平」が付けられていたそうです。父親の平一郎さんは、植木や造園の仕事をされていて、いけ花のお生花(おせいか)にも造詣が深く、人にも教えておられたそうです。
店名はそこから、お生花を能くされていた平一郎さんにちなみ「花」と、岡家ゆかりの「平」をつなげて花平としました。そして平一郎さんに「花を活けてもらおう」と、設えた床の間でしたが、残念ながら平一郎さんは亡くなられ、かないませんでした。花平にいて感じる穏やかな空気感は、このような家族の間に込められた情愛があって生まれているように感じました。開店から満一年を過ぎ、一度行くと「すてきな所があるよ」と、自慢したくなるお店になっています。

「チーム花平」が機能しています

花平の抹茶ゼリー花平のほうじ茶ゼリー
遠くからやって来る人も多い花平は、常連さんだけでなく、様々な人が交わることでさらに楽しくなる自由で開放的な雰囲気も魅力です。
カフェのメニューには、小百合さんが現在お茶どころ宇治に住んでいる利点から、お茶に関連するメニューが用意されています。老舗の茶問屋から入れている上質の抹茶を使用した「抹茶ゼリー」は、香りと、ふっくらした抹茶の風味が秀逸です。また新たに「ほうじ茶ゼリー」も登場し、こちらはまず、ほうじ茶の香ばしさが感じられ、すっきりした甘さが好印象です。秋の始まりを感じる季節によく合っていました。
花平のおばあちゃんのおはぎ
「これは必ず」と思っていたのが「おばあちゃんのおはぎ」です。おはぎ担当は現在89歳のお母様です。抹茶とほうじ茶のゼリーにも「おばあちゃんのあんこ」が使われています。粒の食感も楽しめて小豆の香りもよく、甘すぎず、さりとて素気ない「甘さ控えめ」でもなく、本当に年季の入った安定の美味しさです。小百合さんは思いの込もった口調で「おはぎにはどうしても、おばあちゃんの、と付けたかったのです。」と語りました。
運ばれてきたおはぎは、ほんのりと温かみが残っていました。おばあちゃんのおはぎは様々なことを伝えてくれます。小百合さんも我が家の味を大切にし、お母様を励ます気持ちもあわせて、メニューに取り入れたように感じました。


お住まいの母屋を、特別に見せていただきました。「文政三年 神足村大工なにがし」と書かれた棟札が見つかったという、寄棟造りの建物は、屋根にも非常に珍しい技法が用いられているそうです。
建物を支える堂々とした梁、毎日の煮炊きで煤けた鍾馗さんたち、職人技の力を感じる葭戸等々、今日まで継承されて来るには、さぞご苦労が多かったことと、その大変さを思いました。

花平のオーナー岡さん
オーナーの岡さん

岡さんと小百合さんは、「おはぎを作ったら近所へ配っていた」「お祭の時は親戚が大勢集まって、鶏のすき焼きをした。それも家で飼っていた鶏だった」など、子どもの頃の様子を、懐かしそうに話してくれました。幼い頃から見てきた習わしや家の習慣は、知らず知らずのうちに身に備わっていくのだと思います。
岡さんは、子どもの頃から「見てないようで見ていた」親の仕事、造園業を継ぎ、花平の庭木の剪定や庭の造作も自ら行い、頼まれて近所の庭の手入れもされています。植木職人とバーのマスターも、岡さんのなかでごく自然に同居できていることに感心します。バータイムには、静かにお酒を楽しみたい人が遠くからも訪れています。お客さんの好みや、時にはオリジナルでカクテルを作ってくれます。夜のしじまのなかの花平もとてもいい雰囲気です。
花平は、大きかった父親の平一郎さんの存在も含めて「チーム花平」で動いています。4月18日の開店1周年の記念日も、その後の営業も、コロナウイルスの影響で自粛せざるをえませんでしたが、再開し、ほっとくつろげる場がもどって来ました。

根本を大切に、さらに進化する花平

花平の外観
花平のある「奥海印寺(おくかいいんじ)」は、早くに集落が形成された歴史のある地域です。かつては山と竹藪に囲まれていましたが、宅地開発が進み環境が変貌した今も、旧村のたたずまいを感じることができます。
長岡京市は最高級の筍産地ですが、岡さんも筍を栽培し、地元の中学校で筍について講義をされています。京都縦貫道も開通し、環境がさらに変貌したなかで、地域の歴史や特産の農産物の大切さ、暮らしの営みを次世代へつないでいくことにも取り組んでおられます。
取材に伺った日は、残暑のなかにも秋の気配を感じられました。小百合さんは、庭のもみじの葉が、ついこの間までは緑色だったのに、気がついたら葉先が赤く色づき始めていたと、季節は確実に移ろっていることを教えてくれました。
縁側から入る午後の西日を、屏風のように仕立てた葭戸が和らげてくれました。秋から冬にかけて、縁側のひだまりが気持ちよさそうです。「根本を変えず、発想を変えて進化する」「自分が楽しいことをやる」この名言がかたちになっている花平の進化は、とどまることを知りません。

 

カフェ 花平(かへい)
長岡京市奥海印寺北垣外20
営業時間:カフェ10:30~17:00
◎休業日;日、月、火、水

西陣に開店 どら焼き&クラフト

北野天満宮にほど近い千本中立売(せんぼんなかだちうり)界隈は「せんなか」とも呼ばれ、西陣織の繁栄とともに歩んできた庶民的な繁華街です。観光地や四条、河原町近辺の繁華街とはひと違う、奥まった濃い京都が存在する地域です。
その千中に先月、素敵なカフェ&クラフトショップが開店しました。店内には紙と染を中心としたオリジナル商品が展示され、自社工房で作られるレアチーズケーキやどら焼きを、香り高いコーヒーと楽しめます。
スタイリッシュでありながら、どこか職人気質を感じるその店「天御八(てんみはち)」へ伺いました。

伝統的な味わいを大切にしながら、自由に

天御八の看板
「天御八(てんみはち)」という個性的な店名は、清水寺参道にある既存店「天」から一字取り御八は「おやつ」。しかしそのままおやつではおもしろみに欠けるので、読みは「みはち」としたそうです。店舗は、喫茶と雑貨の企画・デザインのメーカーである羅工房が、以前から工房としていた建物の一階をリノベーションし、自社で営業を始めました。
天御八の張子の猫
店内にディスプレイされた様々な紙の雑貨が、目を和ませ楽しい気分にしてくれます。とぼけた表情の張子や、手摺りの味わいのあるぽち袋や金封、何を入れようかと心が躍る小箱など、自社で企画・制作しています。
企画展として開催中の「かばんいろいろ展」では、シルクスクリーンや手描き、ステンシルなどの技法のおもしろいかばんに加え、インドシルクに手刺繍、刺し子などアジアの魅力ある手仕事も紹介しています。

中尾憲二さんとご家族
中尾憲二さんとご家族

羅工房の代表、中尾憲二さんは陶芸、飲食店、手漉きの紙雑貨、染めを手がけるなど、多方面にわたって仕事をされてきました。多くの作家さんと組んで暖簾の制作をするなど、プロデューサーとしても力を発揮しています。「桜」をテーマにした暖簾展は、会場を鹿児島から段々と桜前線のように北上する、日本の季節感と呼応したすばらしい企画も実施されました。
また、ものづくりについて共感し、刺激し合う間柄の石川県の呉服店と、昨年11月、のれんやタペストリー、パネルを一堂に展示した、圧巻の「百の絵展」も行なわれました。「作家」という定位置に納まらず、制作を続けながら、30年前にメーカーとして会社を起ち上げた中尾さんの行動力と決断は、天御八の開店にも発揮されています。
清水店は、コロナウイルスの逆風を受け、半年前には夢にも思わなかった状況ですが、そのなかで、伝統的な味わいや季節感を大切にしながら、和の文化を今の暮らしのなかに生かせるものづくりを追求しています。
そして「天御八」が「千中の、てんみはち」として親しまれるお店になるように、地元のみなさんの息抜きの場、他愛のない世間話ができる場となるようにと、汗を流す毎日です。

心強い、ご近所さんからの応援

天御八のある千本中立売
天御八のお店のある、千本通りの界隈は、古くは平安京の中心であり、豊臣秀吉の時代には聚楽第が造営された歴史ある土地柄です。
西陣織の織元や職人のまちとして栄え、チンチン電車が通り、飲食店や寄席、映画館などが建ち並んでいました。庶民的な親しみのある繁華街で多くの人が「千ぶら」を楽しみ、それはそれはにぎやかだったという話を聞くことは、以前はさほど珍しくなかったように思います。今は商店街の店舗も減り、人出も少なくなってはいますが地元の方が子どもの頃から行ってた店や、気取りのない雰囲気はまだまだ残っています。

天御八の外観
ガラス戸が素敵な天御八の外観

天御八の店舗の工事を始めた頃、近所のみなさんは「引っ越してしまうのやろか」と心配されたそうです。コーヒー屋さんとわかってからは、「がんばってや」「ここ何屋さんかわからんし、帰らはった人がいるし看板出したらどうや」などと、親身な助言もいただいたそうです。

天御八の内観
店内は木材を多く使ったシンプルなつくりの、今の雰囲気を感じるおしゃれな空間になっています。道路に面した扉の全面が波板ガラスで、外の風景が映像のように映ります。アンティークの風合いのランプシェード、ドアや壁にはめ込まれたステンドグラスなどは、中尾さんとご家族で、お店を回って探して来たそうです。コーヒーで一服し、ショップスペースを見て、一人でのんびり過ごすもよし、友達とおしゃべりを楽しむもよし。こんなお店が近所にあったらいいのになあと思う空間です。
お店へ来るのに、着替えて来られたお客さんもいたそうです。もちろん、気軽にげたばきで来られるお店がいいと思いますが、ちょっとおしゃれをしてお茶の時間を楽しむ。そういう喫茶店の使い方もすてきだなと思いました。お客さんの個性が交ざりあって、天御八というお店の個性も表れてくるのが楽しみでもあります。

スタイリッシュで職人気質の「家業」

天御八のどら焼き
お店におやつをイメージした名前をつけたことからもうかがえるように、厳選したコーヒーとともに「甘いもの」に力を入れています。飲食部門担当は、息子さんの凜さんです。清水店での経験を積み、今回は「どら焼き」に取り組みました。皮の微妙な焼き具合に苦労し、試行錯誤の末、出来上がったどら焼きはおやつを楽しむ天御八の看板です。中のあんにも工夫を加え、5種類が完成しました。うち一種類は季節のどら焼きで、この季節は粒あんに柑橘系の寒天との組み合わせが秀逸です。
天御八のキューバサンド
また、お客さんからの要望もあり、ランチタイムも楽しんもらえるよう「キューバサンド」の新メニューが登場します。チーズ、ハム、ローストポークにピクルスが定番ですが、凜さんはここに新味を出し、柴漬けとべったら漬け、白みそを使っています。マヨネーズには辛子に柚子胡椒を加え、これもまた風味があり、単なる添え物と言えない仕上がりで、すべてに手を抜くことがありません。和風味のおいしさも食べ応えも十分です。
取材でうかがった日は、スタッフの坂本圭さんがメニューの撮影中でした。ホームページやSNSの、美しく情感のある写真は坂本さんの撮影です。
来年の干支のカレンダー
ショップコーナーには、早くも来年の干支「丑」のカレンダーがありました。これは娘さんの清(さや)さんのデザインとお聞きしました。新鮮かつ日本の伝統色を思い出す色使いが印象的です。奥さんの幸恵さんも染めの仕事をされてきたそうで、商品についてもとても詳しく、ていねいに説明してくださいました。手摺りのぽち袋や金封、はがきも様々なデザインがあり、それを楽しむことができるのも、このお店の魅力です。
ぽち袋が並んだ天御八の店内
中尾さんは、お祝いの心を表す金封や、感謝やお礼の気持ちをさらりと渡すポチ袋など、この文化をぜひ、受け継いでほしいと語ります。SNSは、とても便利で伝達手段で、今では誰でも使うと言っても過言ではありませんし、なくては困ります。それは必要として使いながら、手紙やはがきにしたためた便りを送るということも、大事にしたいと思いました。家にいる時間が多くなった今、手仕事の味わいを感じるはがきや、ぽち袋の新しい使い方が生まれて来るように思います。
取り澄ました感じがなく、居心地が良い天御八に「家業」の良さと「京都の生業」の精神が脈打っていることを感じました。京都のなかでも「ディープ」な場所にあるスタイリッシュなお店のこれからが楽しみです。

 

天御八(てんみはち)
京都市上京区一条下ル西側中筋町19-84
営業時間 10:00~18:00
定休日 水曜日

雨の季節の西陣の京町家 古武邸

日本には、季節や時間などにより細やかに表現された、400を超える雨の名前があると言われています。西陣の京町家、古武邸の庭の木々や敷石もしっとりと雨に濡れ、この季節ならではの趣をかもし出しています。
暴れ梅雨が早く収まることを祈りつつ、古武博史さんに話をお聞きしました。

面倒でも代えがたい、季節を知る楽しさ

古武邸表座敷の葭戸
伏見の旧家が建て替えでもらった葭戸が使われた表座敷

久しぶりに訪れた古武邸は、使い込まれ、飴色の艶を放つ葭戸や網代など、今年もきちんと夏のしつらいがされていました。昨年、お盆の行事を取材させていただいた折りには(西陣の京町家 古武家のお精霊さん迎え)お供え物があげられていたお仏壇は扉が閉じられ、床の間には「幸有瑞世雨」という、この季節にふさわしい軸が掛けられています。
幸有瑞世雨の掛け軸祇園祭の鉾とちまきを描いた色紙

訶梨勒(かりろく)
蝉の訶梨勒(かりろく)
西陣らしい繭の訶梨勒
西陣らしい繭の訶梨勒

鉾とちまきを描いた色紙や古武さんのお知り合いの方が作った和紙のミニチュア鉾、「訶梨勒(かりろく)」という、平安時代から魔除けとされた柱飾りなど、何となく華やいだ雰囲気も漂っています。この日飾られていた訶梨勒は、蝉と西陣にちなむ繭でした。

二階の座敷のほの暗いなかに浮かび上がる、萩の枝の戸や「四君子」の欄間の、陰影をたたえた美しさは、京町家が育んできた文化と美意識を端的にあらわしていると感じます。
欄間の端のモダンな雰囲気の意匠は、桂離宮の月を抽象化したデザインにならったものだそうです。古武さんはそのことを、見学に来た人から教えてもらったそうで「建築や庭園の研究者、大工や庭師の職人さん、いろいろな人が来るので、この歳になっても教えてもらうことがたくさんある」のだそうです。
奥座敷の廊下の、建てられた当初の建具そのままの戸が、長雨の湿りや、家にも歪みが出てきていることから、片方うまく開け閉めできなくなってしまったと笑って話されました。

古武邸の中庭

庭に敷かれた丸い白石は、汚れたり苔が付いたりするので、時々洗っているそうです。このほんの一例が示すように、町家を維持していくには、この上なく面倒なことがたくさんありますが、古武さんは「できることはするが、無理なことは無理」とさらりと言いながら、町家への情熱は衰えることを知らず、その手間暇には代えがたい、四季折々の発見を楽しんでいます。

店玄関に置かれたがっしりした、たんすは職人だった古武さんのおじい様がつくられたと聞き、つくった人が逝ってもなお生き続ける、職人の力が満ちた、迫るような存在感でした。

庶民の暮らしが回る「文化経済力」

上杉本洛中洛外図屏風の複製
離れは床のしつらいとともに、国宝に指定されている「上杉本洛中洛外図屏風」の四分の一の大きさの複製が置かれています。古武さんはこの複製屏風を使い、応仁の乱後の京都について語る企画を長年続けています。織田信長から上杉謙信へ送られたと伝えられ、老若男女、身分や職業を問わず約2500人もの人や都の四季が、生き生きと描かれています。夏は祇園祭の鉾、対極の冬の場面には雪の金閣寺が見えます。
上杉本洛中洛外図屏風の説明をする古武さん
当時の暮らしや生業がわかるこの屏風絵を古武さんは「その時代の縮図」と表現します。そして「450年前に描かれた図で、今の町並みを説明できるのがこの西陣を中心とする地域なのです」と続けました。そして、町家を維持するにも、資材の調達には林業、農業、園芸、それをかたちづくる専門の職人の存在が欠かせないと繰り返し強調しました。そこがうまくまわっていれば暮らしが成り立つ、庶民の暮らしが成り立つから、西陣をはじめとする伝統産業も継承できる仕組みがあったという、循環型経済です。1200年の地層のように、京都にはその蓄積があること、それをどう生かしていくかを、みんなで考える時が今と語りました。
古武邸の柴垣
古武邸の庭や建物を管理してくれてきた職人さんは90代になっているそうです。庭の柴垣も手を施さないとならない状態なのですが、材料も職人さんもいないという現実です。古武さんはその厳しい現実に直面していることと併せて、町家の文化と空間を多くに人に伝えたいと、新しいつながりに希望を見出しています。

古武邸を拠点とした明るい変化

古武邸
古武邸のご近所には、古くからの西陣の織元があります。和装産業も厳しさを増すなか、織屋さんも減少していますが、この状況を自ら切り開いていこうという動きも生まれています。西陣織の織元さんから、帯の展示会の会場に使わせてほしいと相談を受け、実現されました。古武さんは30年やってきて初めてのことと、驚きと喜びを隠せない様子でした。

また、座敷を会場に、謡曲を朗読形態で謡い、表現する「謡講(うたいこう)」が催されることになりました。これは、昔から京都で盛んにおこなわれ、楽しまれていたそうです。題して「謡講・声で描く能の世界 京の町家で うたいを楽しむ」です。元禄時代から続く、京観世の芸統を受け継ぐ一門のみなさんが出演されます。古武邸のすぐ近くには、観世家ゆかりの観世稲荷社と名水として知られる観世井があり、18年ぶりに行われるという謡講に本当にふさわしい会場であり、すばらしい出会いです。

古武さんは「経済や暮らし方が大きく変化し、高齢化が進むなかで、町家をこのまま残すことは難しい。では、どうするか。どうしていけば、この地域に住み、暮らしていけるのか。みんなで50年先、100年先のビジョンを考え、意見を交わす時です。未来はまず、今生きている私たちが考えんと、と思っています」と力強く語りました。
古いもの、歴史的建造物や文化を継承するためには、多くの人が係われる新しく楽しいことも必要です。みなさんもぜひ、古武邸で雨の匂いや濡れて美しい色を見せる庭石、ほの暗さの中に浮かぶ葭戸や欄間など、京町家の魅力を感じてください。建都も、町家の補修、継承など、住み続けられる住環境を守るために一層力を尽くしてまいります。

暮らしの営みや 人とつながる建築の喜び

手入れの行き届いた竹林に、土壁塗りの趣きのある建物が見えます。前回の「京都の筍はふかふかの畑で育つ」で、お話を伺った石田ファームの石田昌司さんが依頼し、京都建築専門学校のみなさんが取り組んでいる「山の竹林の道具小屋」です。
これがなぜ小屋なのと感じる、伝統構法の建屋です。去年の冬からあたためていた構想は、完成に近づいています。五月の風薫る良い日和のなか、壁塗りの作業が進められていました。

伝統構法の得難い実体験


伝統構法の建屋は、石田さんが管理する「山の竹林」の中腹にあります。今の季節は、来年筍を採る親竹にする竹に印を付けて残し、他の丈の伸びた幼竹は固くならないうちにどんどん切らなくてはならないので、出荷が終わっても筍農家は息つく暇もありません。石田さんは、この仕事をしながら、道具小屋の進捗を見守り、時々自らも作業をしています。

建築を担当されているのは、京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の学生のみなさんです。民家や古材文化について造詣の深い石田さんは、京町家に関する集まりで佐野先生と出会い、そこから「建築と竹」の協同の取り組みが始まったそうです。この道具小屋は、今年卒業したみなさんが仮組みや足場つくりから、寒い冬や雨の中でも作業を続け、卒業ぎりぎりまで取り組んだ、思いが込められた建物です。その後を後輩が受け継いで続けられています。とかくスピード優先、早く結果を求める今、こうして一つ一つの工程をきちんと積み上げていくことはとても大切なことだと感じます。

竹の合間から中のお茶会の様子がうかがえる堀川茶寮

建築専門学校では毎年学園祭に、学校近くの堀川の河川敷に「堀川茶室」を建て、数寄屋建築のお茶室の雰囲気を市民のみなさんに気軽に楽しんでもらう「お茶会」を開いています。先生の指導を受けながら、学生のプロジェクトがすべてを取り組んでいます。屋根に葺く稲わらは、京北町で自分たちではさにかけて乾燥させたものを、学校OBの専門の職人に習って葺き、荒壁の下地には石田さんの真竹が使われています。
にじり口や茶道口もちゃんとあるこの堀川茶室は、2009年から出展している学園祭恒例の企画で、秋の堀川の風物詩と言っても過言ではありません。お茶部、お花部による道具立てやお軸、お花などもすばらしく、若々しいお点前も雰囲気を和ませてくれます。

また、向日市の放置竹林対策に取り組むNPO法人の活動に協力して、竹林の中に「竹のお茶室」もつくりました。その形状から「玉ねぎ茶室」と名付けられ、お披露目茶席にはお子さん連れでの参加もあり、みなさん自然を満喫しながらの一服という、とても新鮮な体験を楽しんでいました。
学生主催のお茶席に寄せていただいていつも感じるのは、伝統の技術とともに、その背景や骨子となる日本の文化や自然への、しっかりした視点が養われていることです。そこから建築に対する深い思いが醸成されていくのだと思います。お茶室は、本当に豊かな学校生活を送っているからこそ可能な、かかわったみんなにとって、忘れることのない共同作品なのだと感じました。

人とつながり新たな価値を生み出す

青竹で作られた雨樋が付いています

さて、卒業生から引き継いだ道具小屋です。伺った当日は佐野先生と2年生の松井風太さんが、壁塗りに奮闘中でした。松井さんは、社会人として仕事に就いて後、建築専門学校に入学しました。「これまでの仕事とはまったく違う建築の分野を、年下の同級生と一緒に勉強するのは楽しいですよ。それと職人さんの仕事は本当にすごいですね」と、今の学校生活の充実ぶりが言葉の端々にあらわれています。

京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の松井さん

道具小屋の壁は、割った真竹を縦横に縄で編んだ下地に荒壁を塗り、その上に壁土を塗り重ねています。実際は難しいでしょうが、見ているぶんには同じ調子でスムーズに塗っているように思えます。しかし、壁一面を仕上げるには、体幹をしっかりさせて壁に向かうこと、また鏝の使い方などいくつものポイントがあるようでした。時々、佐野先生が進み具合を見てアドバイスされ、松井さんが真剣な面持ちで聞いています。集中しながらも伸び伸び作業する様子が伝わってきました。

途中で土練りの作業がありました。去年の夏に稲わらをまぜ込み発酵させた土に、もみ殻もまぜ、さらに古い土を入れて発酵を促したそうです。土はここの山の土です。佐野先生は運搬車を動かすのもお手のもの、追加する土を運んで来ました。筍栽培に使われる赤土粘土は壁土にも具合が良く、竹も自前の真竹という身近に調達できています。
佐野先生は「壁塗りは無心になるからいい。すっきり塗るのは難しいけれど、素人の農家さんが荒土で塗った風情かな」と楽しそうに話され、その気持ちが鏝の動きに表れているようでした。

柱と桁などの仕口を固定するため木材、込栓

この道具小屋は、見どころが多くあります。木材は、杉丸太の皮剥きをして、「はつり」という日本独自の方法で、ちょうなという斧のような道具で表面を削り、今回は最後に電気かんなをかけて仕上げています。防腐塗料は石田さん推薦の塗料で、なかなか優れものとのことでした。
柱や梁などは、込栓(こみせん)や鼻栓、くさびなど木の部材で止めています。またこのような技術以外にも、縦に通した竹の雨樋からホースを通して、雨水を貯水タンクに貯めるなど循環を考えた工夫を取り入れています。

佐野先生は「かつての家づくりのどの場面においても、関わっている人たちの間に共感が息づいています。様々な多くの知識とともに、根底にある建築する喜びを知ってもらいたい」と、学生へのメッセージを送っています。
石田さんと佐野先生と学生たち、かかわった多くの人が喜びをともにする「道具小屋」の完成が待たれます。壁や柱も年月を経て、いい味わいになっていきます。それも大きな楽しみです。建築専門学校で学んだ日々が、学生のみなさんにとってこれからの礎になり、それぞれのところで生かされるよう願っています。
建都も優れた伝統技術を継承する工務店さんや多くの職人さんとともに、今後いっそう京都の建築とまちづくりに寄与してまいります。

 

京都建築専門学校
京都市上京区下立売通堀川東入ル東橋詰町
174

山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

霧の亀岡 300年の歴史を刻む武家屋敷

前回に引き続き「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」一行を乗せたバスは、京と丹波の境となる老ノ坂峠を越え亀岡市へ。
亀岡市は、注目の明智光秀の築いた亀山城の城下町として栄え、森と水に恵まれ自然も豊かです。寒の内にしては穏やかな日和のもと、市内中心部から車で5分も走ると、まわりの風景が変わります。ほどなく、古い土塀と深い藪木立に囲まれた、堂々とした門構えの建物の前に到着しました。江戸幕府の旗本、津田藩の代官を務めていた「日置(へき)家」の屋敷です。

築300年の建物を可能な限り当時のままにし、多くの人が歴史的な建物に触れることができるようにと開店した「へき亭」です。地元亀岡の野菜や地鶏を使用した美味しいお料理とともに、おかみさんの日置道代さんのお話と、大切に継承されてきた建物や貴重な調度品の見学など、得難いひと時を過ごさせていただきました。

広大な敷地と周囲の景観も含めての歴史


日置家は代々、亀山城を正面に見るこの地で代官を務めてきました。敷地600坪という邸内には、自然の姿を感じる庭や、武道の鍛錬場、江戸時代に建てられた築300年の母屋、門の前の、平安時代から人々が京へ上った古道と道沿いの藪など、すべてが「代官屋敷日置家」の歴史を物語り、現代の私たちに伝えてくれています。

バスを降りた時、土塀と古びた道に魅かれたのはやはり、長い年月を経て来た存在が放つ力だったのだと感じました。この土塀や古道、趣のある入り口も含め、度々撮影に使われるそうですが、そのまま江戸時代となるロケーションですから、最高のロケ地でしょう。

玄関には、当主が二条城へ登城する際に使われた駕篭が置かれ、座敷には江戸時代末期に活躍し、円山応挙と並び称され、幕末画壇の「平安四名家」と評された、岸連山の襖絵や衝立が大切に保存されています。それは奥深く仕舞われているのではなく、今も襖や衝立としての役目で使われ、私たちも目の前にすることができます。中には、りっぱなゴブラン織りで仕立てた屏風もあります。これは道代さんが「300年の建物に合う調度品を」と探し求められたそうです。狩を楽しむヨーロッパの貴族の様子が見事に織り出されたゴブラン織りは、障子や床の間、掛け軸、甲冑など日本の家屋や骨董とも調和しています。

また日置家は、弓道の流派の一つ「日置流」の祖と伝えられ、岸連山の描いた鶴の襖の上方に弓がかけられていました。観音扉を開くとお仏壇があり、見せていただいた過去帳には「文化六年」「寛政十一年」と言った年号が書かれていました。ご先祖様も篤くお守りされています。玄関の様式にも代官屋敷の格式が見て取れるなど、数寄屋建築とは異なる見どころが随所にあり、限られた時間ではとても見きれませんでした。違う季節にぜひ訪ねたいと思いました。

集い、味わう場となった代官屋敷


おかみの道代さんは、代々の当主が現在まで大切に守ってきた歴史ある建物を「実際に見て、広く知ってもらいたい」との思いで、1994年(平成6年)「へき亭」を誕生させました。地元で収穫される、折々の季節の野菜や地鶏などを使って、ていねいに作られた一品一品は、素直においしいと感じます。「家庭料理をこの空間で味わい、ゆっくりしたひと時を過ごしてほしい」という、道代さんやスタッフのみなさんの心入れが隅々までゆき渡った、本当に心がほっとする時間でした。
明治維新後、多くの城郭や武家屋敷、寺院など伝統的な建造物が姿を消していきました。そのような中でこの日置家を、増築をしながら古い建物を補修し、当時の姿を保ち、
次世代へと受け継がれてきた道のりは、並大抵ではなかったことは容易に察せられます。広く知ってもらえるように大きく舵を切り、へき亭をつくったことも、決断のいることであったでしょう。これまで代々のご当主をはじめ日置家のみなさんが、使命感や覚悟を持って守ってきたこの空間を、これからは私たち一般市民も「かけがえのない預かりもの」として、保存継承にかかわっていく時代なのだと改めて感じました。もっと言えば「かかわることができる」時代なのです。

新しい役目を持った日置家の「へき亭」は、当主以外は家族さえも許されなかった客間に誰もが入ることができ、美術館級の襖絵や調度品も惜しげもなく、本来そこにあったかたちで置かれています。しかし威圧感ではなく「ちょっとおじゃまします」といった気分で拝見ができます。このように感じることができるのも、へき亭が「建物は人が住み、暮らしていたところ」としての根がしっかりあるからではないかと思います。身分の高い武家の屋敷であっても、暮らしの営みが感じられるところが、へき亭の大きな魅力なのだと感じました。

藪を通り抜け、木々に耳を澄ます


道代さんに見送られて、へき亭を後にし、京都府森林組合連合会アドバイザー前田清二さんの説明を受けながら古道を歩きました。古道に沿って深い藪があり、見上げるほどの樫の大木もあります。木をよく知った人なら、幹を叩いてみれば、中にうろ(空洞)があるかどうかわかるとのこと。うろがあれば直接、木の音が響くそうです。また棕櫚の木を何本も見かけましたが、梵鐘を突くしゅもくの先に棕櫚の皮を巻くと、良い音が出るそうです。お寺の庭で時々棕櫚の木を見かけるのは、そのためと説明されました。森を歩くと思わぬことを知ることができます。

のどかな野道を行くと、草が萌え始めていたり、畑の梅のつぼみがふくらみかけていたり、先々で春を見つけます。亀岡は、晩秋から早春にかけて、度々「丹波霧」と呼ばれる深い霧が立ち込めます。この霧は、乾燥する時期に森や畑に水分を与え、木や作物に恵みをもたらせてくれると聞きました。この美しい季節の風物詩の霧を、亀岡の特色としてアピールされています。1月には「かめおか霧の芸術祭」が行われました。

次に訪れたのはへき亭の近くにある、その名も「KIRI CAFE」(キリカフェ)です。古民家をリノベーションして、霧の芸術祭の拠点としてオープンした交流スペースです。芸術系大学の学生さんの陶器の作品や、近隣の農家さんが収穫した生き生きと元気の良い野菜が並んでいました。ストーブの上のお鍋から湯気が立ち、それも気持ちをあたためてくれます。2020年内の限定でオープンされたそうですが、ぜひ継続してほしい居心地のよい空間でした。

へき亭もKIRI CAFÉも、単に歴史のある武家屋敷、おしゃれなカフェという所ではなく「この土地と家を受け継ぎ生かして、多くの人にその良さや力を知ってほしい。それが新たな人と人のつながりになる」という熱い思いが、すばらしい場をつくっていると感じました。建物や森は、人がきちんと手をかけることで、人よりずっと長い命をつなぎます。そのことを考えることができたことはとても良い体験となりました。