紙の手ざわり 貼箱作り体験

季節やお祝い事など、暮らしの場面に合わせた進物は、それぞれ用途に合わせた形、素材の「化粧箱」におさめて先方へ贈られます。美しい意匠の紙箱は、どこの家でも当然のように再利用されていました。子どもの頃、宝物をきれいな箱に入れていた思い出のある人も多いのではないでしょうか。
前回の「高田クリスタルミュージアム」に続く「学びの秋」企画は「貼箱作り体験」です。紙箱を通して、近代京都のものづくりの一端を知ることができる「京都かみはこ博物館 函咲堂」を2回にわたってご紹介します。

紙の手ざわりと、形になる達成感

京都かみはこ博物館 函咲堂の館長
案内された体験の会場には、各工程の機械がずらりと並び、元気に稼働していた様子を彷彿とさせます。指導をしてくださるのは、かみはこ博物館館長、山田芳弘さんとご家族のみなさんです。参加者それぞれの前に、展開図の形に切り抜いた貼箱の本体が、大小2種類置かれています。何種類か用意されたなかから箱に貼る紙を選びます。モダンな雰囲気を選ぶか、でも華やかな色目もいいと迷った末、やっと決めました。

京都かみはこ博物館 函咲堂の紙
会場には多くの紙が展示されています

次は、あらかじめ折り線が深く入れてある厚紙の四辺を折り上げます。四隅をテープで止めて、箱の身とふたができます。
今度は、選んだ紙に刷毛で糊を付けていくのですが、刷毛の扱いもぎこちなく、糊の付き方にむらができてしまいそうです。また、いざ貼ろうとすると、糊が乾いてしまっている部分があり、糊を付け直します。その日の気温などによって糊の乾き具合が違うそうで、こういった微妙なことがわかるのも体験だからこそです。
京都かみはこ博物館 函咲堂の張箱体験
ふたの表面に紙を貼る時、やさしく手でなでようにして、しわやでこぼこができないように気をつけます。無心に作業に没頭する工作の時間のようです。最初は失敗しないようにと、やや緊張気味でしたが、函咲堂のみなさんの、優しく細やかな教え方のおかげで、母娘で参加された方と一緒に、とても和やかな、いい雰囲気で時間が過ぎていきました。
京都かみはこ博物館 函咲堂の紙箱
そしてそれぞれの「私の箱」の完成です。形になったうれしさに、自然と顔がゆるんできます。折り線がしっかり付けてある型取りされた厚紙と、同じ大きさに裁断された紙、このキットがあれば、手先が器用ではないと思っている人も、また、経験や年齢も関係なく貼箱体験ができます。手作業の楽しさを久しぶりに実感しました。

舶来の機械が並ぶ工場のような臨場感

京都かみはこ博物館 函咲堂の山田館長
貼箱が完成した後に、函咲堂に保存・展示されている多くの種類の機械や道具、貴重な資料と、紙箱の歩みについて山田館長さんの解説で見学しました。
ひと口に紙箱と言っても、本体とふたに分かれている貼箱、型で抜いて折る、組み立てるものなど様々なものがあります。また、それぞれの箱の工程に専門の機械があることを知りました。裁断の機械も複数あり、体験で作った箱の厚紙の折り線をつける機械、ホッチキスのように金具を止める機械等々、本当に多くあります。
京都かみはこ博物館 函咲堂の機械
機械は、それぞれの工程を順番に理解できるように配置も工夫されています。紙箱の歴史や、どのようにして作られているのか知ってほしい、そして箱に入れて贈るという文化も伝えていきたいという思いが伝わってきました。
展示されている機械や資料は、明治時代に創業した京都の紙箱業界の雄であった「泰山堂」が所有していたものです。縁あって函咲堂が受け継ぎ、展示しています。展示室は2階にあり、1階に鉄骨を入れて補強し、重機で搬入したそうです。紙箱製造機がこれだけ一堂に展示されている所は他に例を見ないのではないでしょうか。

貴重な資料と歴史を受け継ぐ

京都かみはこ博物館 函咲堂の展示
展示品のなかには箱作りが手作業だった時代のものもあります。糊を入れていた大きな木桶、刷毛、紙を切る包丁など、これらの道具で作るのはさぞ手間ひまがかかったことだろうと想像できます。
しかも今よりもっと、日常的に行き交うものに箱が使われていたと思います。風呂敷を入れる浅い箱、反物用の深く長い箱、うちわや扇子用の箱。商いや暮らしのなかで受け継がれてきた習わしと結びついて、箱の需要も様々あったと思います。そしてそれぞれの時代の箱に携る人々が、時代の大きな波も含め、困難もあるなか、研鑽と研究、工夫を重ねて発展の歴史を刻んできました。
京都かみはこ博物館 函咲堂
おかあさんと小学生の娘さんも興味深そうに熱心に見学されていました。キットを使ってだれでも気軽に貼箱が作れるというだけに終わらず、ものづくりそのものについて知ることは大切なことだと感じました。多くの機械や道具が並ぶ様子は、箱作りの現場にいる臨場感があり、こうした環境で体験できることは貴重です。自分で作った箱が、いっそう思い入れのあるものになりました。
京都かみはこ博物館 函咲堂の紙
紙箱は上に貼る紙や印刷技術も不可決です。紙の材質、デザイン、印刷技術の向上といったことと深くかかわっています。その点にも大いに興味をそそられました。次回は、函咲堂を開設した思いや、これまで取り組んでこられたことなど、山田館長さんに伺います。

 

京都かみはこ博物館 函咲堂(はこさくどう)
京都市下京区西七条比輪田町1-3

美しく神秘な 石の世界を多くの人に

川原や行きかえりの道で見つけた石を持ち帰った思い出はありますか。身近にある石を面白いと思ったり、不思議に感じたり。そんな子どもの頃の心を持ち続け、とうとう個人で開設した「石の博物館」があります。日本各地で採集した岩石や鉱物は1万点に及び、日本に約1300種あると言われている鉱物のうち、800種の標本を所有する、すばらしい博物館です。自然が生み出す、不思議で美しい石と結晶の世界の話を、館長の高田雅介さんにお聞きしました。

創意と熱意あふれる展示と解説

高田クリスタルミュージアムの高田館長
マスクも結晶柄の高田館長

高田クリスタルミュージアム
高田館長は、石のほかにも昆虫や植物を採集して、いつも自然と親しむ子どもだったそうです。そして中学2年生の時に「益富地学会館」を創設し、地学研究に貢献した、益富寿之助氏を紹介され、益富さんも熱心にやって来る中学生をかわいがってくれました。毎週土曜日は益富先生の家へ行き、日曜日は鉱山へ採集に行くという日々を過ごしました。亀岡の大谷鉱山、岐阜県の伊吹山の鉱山、高校3年では、銅を採掘していた秋田県の尾去沢鉱山へ出かけるなど、フィールドワークを重ねました。親切に案内してもらい、採掘した場所から鉱石を持ち帰ることもできたそうです。当時(1968年頃)は、日本全国で1万、京都府内でも50近くの鉱山があり、鉱石がごろごろしたということです。この時期に各地の鉱山を巡り、採集した標本は今やとても貴重なものとなっています。
高田クリスタルミュージアム高田クリスタルミュージアム
また、このミュージアムで注目したいのは鉱物の結晶の模型です。高田館長は長らく、結晶の形態を研究し、結晶を立体の模型と、なかなか描ける人がいないという「結晶図」で、展示説明されていることです。たとえば水晶は美しい色や形状をしていますが、それはすべて理由があるいうこと。すべて化学式や数式など科学的な方法で表すことができるという説明に驚きました。立体模型はさながら、組木のクラフト作品のようであり、水晶図は、どうじたらこのように、立体を平面図に描き表せるのかと、おどろきの連続です。そして、その美しい結晶はすべて自然がつくり出しているということに、畏敬とも言える思いを抱きました。
高田クリスタルミュージアムの千葉石
高田館長が地道に続けてきた、この「結晶形態学」は、千葉県で採取された「千葉石」が八面体になっていることを突き止め、新種の鉱物であることを証明することに貢献しました。結晶の形はとても大事と語りました。しかし、今、結晶形態学は忘れ去られようとしていると聞き、それは大変な懸念だと思いました。地味な研究分野なのかもしれませんが、どうぞ引き継いでくれる人があらわれるよう願う気持になりました。

高田クリスタルミュージアム
自身が高校生の時訪れ撮影したものも含め、貴重な日本の鉱山コーナー

展示室には日本の鉱山の資料もたくさんあり、すでに閉山となってしまっている今、とても貴重な「産業遺産」と言えるのではないかと思いました。展示してある写真は高田館長自身が撮影したものが多くあり、岩石だけに興味や関心がいくのではなく、こうした日本の産業の歴史、そこに働く人の営みにも目を向けられていたことがすばらしいと感じました。しかも中学、高校の若い時分にです。それは石を狭い対象にとらえず、科学を志す人の精神性なのだと感じました。
日本は世界に誇る地下資源豊かな国であったことも知りました。質の良い金、銀、銅、鉄を産出し、明治時代に入って鉄道が敷かれた時もレールなど建設設備の資材は国産でまなかえたそうです。「日本は資源がない」のではなかったのです。明治時代に入り、産業構造が変わってからは、あっと言う間、80年でほとんど掘りつくしてしまったそうですが、わずかに残っているところも人件費等経費を考えると見合わないようです。明治、大正、昭和と日本の経済を発展させたのはこれらの地下資源のおかげです、と館長は力を込めました。とても深い学びがある展示室でした。

55年かけて収集、標本4000点

高田クリスタルミュージアム分館
佐賀県から見学のためにお越しになった方
ハート形の日本式双晶のコレクション
ハート形の日本式双晶のコレクション

展示室前の道路を渡った元のご自宅が「鉱物と結晶の博物館」です。一階には分類され、きちんと並んだ石に説明が書かれたカードが置かれています。結晶には手のひらのように、対の結晶となっているものがあり「右手結晶」「左手結晶」と言います。これはなんと、自然界には右と左がちょうど同じ数の割合で存在しているのだそうです。本当に不思議なことです。神秘的な自然の営みです。
また「双晶」という2個以上の結晶が規則的につながったものもありました。この分館には新鉱物である「千葉石」が展示されています。また「だんご石」「やきもち石」など、なんとも愛嬌ある名前をつけてもらった石もあります。
4000点に及ぶ標本が、それぞれの形態や状態により、それに見合った容器に入れて収納されています。展示品以外に、これだけ多くの標本を整理管理することは、並大抵のことではないと思いますが、これができなくては石の収集は無理なのだなと思った次第でした。

UVライトで蛍光する鉱物
UVライトで蛍光する鉱物

「ちょっとこっちへ来て」と角のコーナーへ招き入れられました。と、暗いなかに美しい色の灯りが浮かび上がりました。何の変哲もない石に見えた鉱石に紫外線を当てるとこのように変化したのです。この原理は蛍光灯やブラウン管に応用されていると聞き、岩石や鉱石は様々なところで利用されていることを知りました。説明をしながら高田館長は「こんなにきれいなのはなかなかありません。これを見つけた時はうれしかったなあ」とその時のことを思い浮かべ、相好を崩しているようすをとても笑ましく感じました。分館は石の秘密の隠れ家的な感じもして、石好きな人は興奮するだろうと思いました。
この日は、九州からこのミュージアムをめざして来たという方と一緒になり、知識も豊富で石が取り持ってくれた縁でよい同道をさせていただきました。

クリスタルにあふれている

高田クリスタルミュージアムのカフェ高田クリスタルミュージアムのカフェ
敷地内には、奥様が担当するゆったり過ごせるカフェとミュージアムショップがあります。何万年、何百万年という時を重ねて私たちの前にいる石と同じ呼吸を感じる空間です。お手製のカレーやシチュー、ケーキを、ていねいにいれたコーヒーや紅茶と味わうことがきます。そしてここにも、石をいながらにして眺めることができ、仲間の作品も置いたグッズのスペースも楽しめます。チョーカーやTシャツ、エコバッグも結晶図がデザインされています。Tシャツの結晶イラストは館長自ら描いたものです。ステンドグラスも結晶です。これはご親戚の母娘さんの合作とお聞きしました。あいにくの雨の日でしたが、淡い光線を受けて、その美しさを見せてくれていました。
高田クリスタルミュージアムのカフェ
小学2年生くらいの子も常連さんと聞きました。「明日その子と、西山へ水晶を取りに行く約束しているんやけど、雨かなあ」というつぶやきが聞こえました。高田館長が生まれ育った大原野のクリスタルミュージアムがこれからも多くの人に大地の自然の大切さ、美しさを知らせる場として親しまれるよう、またコロナで中断されている講座も再開されることを願っています。

 

高田クリスタルミュージアム

京都市西京区大原野灰方町172-1
開館時間 10:00~16:00
開館日 金曜、土曜、日曜日
(分館「鉱物と結晶の博物館」は日曜のみ開館。事前予約が必要です)

暮らしのかたわらに 一閑張を

一閑張(いっかんばり)とは、和紙を張り重ねた上に柿渋や漆を塗って仕上げた生活道具です。軽くて丈夫、また補修して長く使えることから、日々の暮らしに重宝されてきました。形あるものは最後まで使い切って、ものの命をまっとうする大切さに気付かせてくれます。
「伝統を暮らしに生かす」とは、どういうことかについては「そんなに難しく、堅苦しく考えなくていいのですよ。それより楽しんで、そのなかで一閑張の良さを知ってもらえれば」と、語るのは、飛来一閑 泉王子家十四代尾上瑞宝さんです。もの心ついた2、3歳の頃には見よう見まねで、おもちゃを作るように、一閑張にふれていたという申し子のような方です。伝統工芸一閑張の本当の姿を多くの人に知ってもらい、日々の暮らしが少しでも豊かになるようにと熱い思いがあふれるお話を、生まれ育った自然豊かな右京区のアトリエでお聞きしました。

和紙と柿渋、漆。そして人

一閑張 飛来一閑 泉王子家
一閑張の歴史は古く、江戸時代初期に、戦乱の中国から日本へ渡った明の学者、飛来一閑によって伝えられました。乾漆工芸の技術の持ち主でもあったことから、日本の質の良い和紙を主な原料として、独自の技術を開拓したことが日本での一閑張の始まりです。
かごや菓子器、文箱、つづらなど様々な日常の用に使えるものが作られてきました。このように生活に密着したものでしたが、ある時、茶道千家三代家元の目にとまり、茶道具としての用も果たすことになり、ここで千家十職「飛来一閑 飛来(ひき)家」と、暮らしに根差した生活道具を作る「泉王子家」に分かれ、今日まで、それぞれの歴史を刻んでいます。
「泉王子」の名は「菊水紋」とともに、江戸前期の百十二代霊元天皇から賜り、現十五代まで続いています。これだけでもう、泉王子家を雲の上の存在に感じてしまいますが、十四代の尾上さんはいたって気さくな方で、垣根を一切感じさせない物腰で、一閑張についてていねいにお話されました。
泉王子家十四代尾上瑞宝さん

和紙だけで作られたフレーム
和紙だけで作られたフレーム

一閑張は「竹に和紙を張ったもの」と思いこんでいましたが、基本は和紙です。何枚も張り重ねてもとても軽く、その上強度もあります。柿渋や漆を塗ることで防水性や防虫効果も生まれます。実際にアトリエにある作品を手にとると驚くほどの軽さです。和紙を張り重ねただけでも、しっかりしています。現代は「軽量・防水・耐久性」などをうたう商品があふれていますが、一閑張の丈夫で軽く、水に強いということが、江戸の昔の人々にとって、どれほどありがたかったことかと、しみじみ感じました。
和紙は、張り重ねることはもちろん、竹や木、石、布などどんな素材にも使うことができます。その柔軟性は無限に新しいものを生んでいきます。それを可能にしているのが、素材を大切にして、持ち味や特性を生かせる技術、人の手です。日本の素材と物を大切にする作り手によって生まれ、それぞれの時代を経てきました。一閑張を手にした時に感じるあたたかみややさしさは、まさに人の手によるものです。このことが長く愛着をもって使うことにつながると感じました。

家訓は今も変わらず大切な指針

一閑張 飛来一閑 泉王子家
泉王子家の家訓と技術は、代々一子相伝、口伝(くでん)によって受け継がれてきました。家訓の最初に「四十になるまで己の作品を世に問うてはならぬ」とあります。これはまず諸国をめぐり多くの人と出会い、見聞を広めよ、人間としてどうあるべきかが作品にも問われるということにつながります。
そして、長い間各地をめぐり歩き、京都へもどった時は風貌も変わっていることもあったでしょう。確かに泉王子家の者であることを証明する手立てとして「家訓をそらで言える」ことが重要でした。尾上さんは二、三歳の頃にはすでに、門前の小僧習わぬ経を読むのたとえの通り、完全に覚えていたそうです。泉王子家には、研究者や技術を習得したい人など多くの人が出入りしていました。そのお客様へ家訓を披露する時は、いつも尾上さんの出番でした。みんなが感心してほめてくれるのがとてもうれしかったとなつかしそうに話してくれました。

泉王子家十四代尾上瑞宝さんのアトリエ
愛用の道具が並んだ尾上さんのアトリエ

家訓は口伝を固く守ってきましたが、現在は文字にして公開し、伝統的技法も教室を開いてだれでも体験できるようにしています。一閑張の素材の確保は、年々大変になっていますが、信頼できる職人さんから入手しています。和紙はしっかりした技術の職人さんの手漉き和紙を多く使い、糊は添加物の一切ない天然のでんぷん糊、骨格として竹や木を使う時も、天然のものです。そして、受け継がれた技法によって、が天然自然の素材を生かした作品ができあがります。それに対して、合成の接着剤や天然素材ではない紙を使うなど、素材も技法も一閑張とは言い難いものが「一閑張」として世間に出回るようになった背景があります。このことに危機感を持った尾上さんは、本来の一閑張を知ってもらうための活動を始めました。このお話を聞いて、時代の変化のなかで、一閑張を継承していくためにはその時々の決断が必要なのだと感じました。家訓には「血筋にこだわるべからず 技術をもって引き継ぐを主とすべし」という条項があります。これも「本来の姿、本当の一閑張」を継承していくという本筋を大切にするための決断と感じられました。そして血筋にこだわらないという柔軟な考えにも感心しました。尾上さんが始めた、だれでも気軽に一閑張を楽しめ、そのことにより、正しく伝えていくという活動は「家訓の実践」であると感じました。それが実を結び、今の時代に一閑張のすばらしさを広げています。

日々の暮らしを豊かに、人生を楽しく

出前講座の生徒さんのお手製

尾上さんは、小学生や大学生、一般市民向けの教室を各地で開いて、一閑張の普及に積極的に取り組んでいます。近くの小学校へは3年間、出前講座を行いました。作るものは自由。みんな夢中になって、休み時間や給食もそこそこに、作品作りに没頭していたそうです。「自分の部屋がないから作りたい、と本当に自分が入れる大きさの部屋を段ボールなどで作り、家へ持って帰って、その中で宿題をしている」「かばんを作っておかあさんにプレゼントした。おかあさんは毎日使ってくれている」「おもしろい椅子を作った」など、作ることの楽しさ、完成した喜びにあふれた声が寄せられました。
高校生や大学生も、わいわい楽しく作業をしていたそうで「本当にみんな、きらきら生き生きしています。きっかけや出会いさえあれば、だれもが手先を動かすおもしろさを知ることができます。これからも、特におもしろさを伝えていければと思います。そのなかで自分に自信を持てたり、新しいことを知る楽しさを感じられます」と、体験教室の様子を尾上さん自身も楽しそうに生き生きと伝えてくれました。
泉王子家十四代尾上瑞宝さん
東日本大震災が起きた時も福島へおもむき、仮設住宅へ入っている妊婦さんから「中のにおいが耐え難い」という声を聞き、調べると化学物質の資材が原因とわかったそうです。そこであらためて、自然素材を大切にした、ものづくりや暮らし方を思ったそうです。
環境とものづくりがつながっていること、こうした考えを身近にしたい、広げたいと福島へは8年間通い、一閑張のワークショップを続け作品展を開くまでになりました。一心に和紙を張り、形ができる達成感はきっと地元のみなさんの気持ちの支えになったのだと感じました。教室は今も続いているそうです。

一閑張 飛来一閑 泉王子家
尾上さんが修復した網目が見事な思い出のかご

アトリエには、修復した250年前の箱、茶箱など時代を経たものや「おじいちゃんが大切にしていたかごを直してほしい。手元に置くと、僕をかわいがってくれたおじいちゃんの思い出がよみがえる」と持ち込まれた品もあります。また尾上さんは材木屋さんで捨てられていた木の端材をもらって来て、和紙を張り、柿渋を塗って手近に置いて小物として使っています。もう職人さんはいないという和菓子の木型も最後の職人さんからいただいたそうです。尾上さんのところへは、こうして一閑張という枠を超え、またどんな素材とも親しくなじむ一閑張だからこそ、様々な物が集まって来ます。人間が生きる時間より、物の命は長いのだと知らされます。またそのすぐれた特性から驚くものにも使われています。
八代将軍吉宗公に献上された望遠鏡、また全国を測量し日本地図を作った伊能忠敬が使った望遠鏡にも、筒に一閑張が使われています。武士の陣笠も軽くて丈夫、雨も通さない一閑張でした。そして今、だれもが一閑張を体験することができ、身近なアイテムも作られています。
和菓子の木枠
尾上さんは銀行員やその他の職業を経験した後、四十歳を迎えてから十四代となりました。父親の先代は跡継ぎになれとは一度も口にしたことはなかったそうです。尾上さんが跡継ぎになる決心を伝えた時「なぜ継ぎたいと思ったのか」とたずねられ「多くの人とめぐり合い、人との出会いの大切さを知った」と答えたところ「良し」と、こたえられたそうです。先代は常に「人として大事なこと」を基本にして「たて割りで世の中は成り立っていない。横割りで物を見られるように」と言われていたそうです。
失敗から学ぶ。失敗したからこそ工夫する。一閑張は伝統技術を引き継ぎつつ、新しいものをプラスしています。「作り出せるものは無限大。知恵や工夫でもっと使いやすく、おもしろくなります。そしてそれは身近にある物を利用して、だれにもできること。これは人生も同じ」と語ります。生きていく上でマイナスなことに度々出会うけれど、マイナスをプラスに変えていく力をみんな持っていると力を込めました。アトリエの屋号「夢一人」は20年間拠点をおいた北区のお寺のご住職がつけてくれたそうです。「ひとり、ひとりに夢を」という思いと期待を込めて贈ってくださった屋号です。
四百年の伝統は、実は普通の暮らしのすぐそばにあり、工夫することで普段の暮らしに生かせます。「だれもがその知恵をもっている。一閑張を通して、毎日が少しでも豊かになるように。そして自由自在な和紙のように楽しい人生を」というメッセージを強く感じました。そしてその根源にある家訓は、今を生きる指針でもあることを感じた取材でした。

 

一閑張 飛来一閑 泉王子家(いっかんばり ひらいいっかん せんおうしけ)
アトリエ夢一人

お寺は今も 地域のよりどころ

お寺とは今の私たちにとってどんな存在でしょう。お盆やお彼岸にお経をあげていただくくらいのお付き合い、お寺によってはお庭やご本尊の拝観といったところでしょうか。
「縁がないなあ」という人がほとんどのこの頃、お寺の存在、果たす役割は大きいと感じます。少子高齢化とそれにともなう家族構成や、まちの成り立ちの大きな変化によって「つながり」を持つことが難しい現代に、西本願寺の門前町の面影が今もなお漂う界隈に、地域に開かれ、様々な催しで人と人がつながるお寺があります。法話会や落語、コンサート、学生主催のイベントなど、堅苦しいお寺の敷居をぐんと低くして、みんなが軽々と自由に楽しく集まる「一念寺」の住職、谷治暁雲さんのお話は、まさにお寺と人が育む門前町のまちづくり物語です。

古い歴史のある寺院の再生

一念寺
取材に伺ったのは、ご住職がお経をあげに行かれ、戻られたばかりのお忙しい時でした。「明日お願いします」とお願いされることも度々あると聞き、お参りを大切にされている方にとって、お寺はなくてはならない存在なのだと感じました。
一念寺は西本願寺の門前町にある浄土真宗本願寺派の寺院です。戦国時代(1528年)に創建されたという記録が残っています。明治初期に建てられた現在の建物の、落ち着いたたたずまいは門前町の品格も伝えています。
一念寺
門から本堂までの庭は、少し逸れたように配置された敷石の妙、自然な雰囲気の植えこみなど、茶室の路地のような趣を感じます。そして、すぐにご本尊の阿弥陀如来様と身近に対面することができる、みごとに考え抜かれた構造です。「こじんまりしたお寺」とよく言われるそうですが、その言葉の通り、厳めしさではなく、おだやかなやさしさを感じる空間です。
一念寺の谷治住職
谷治住職は「在家(ざいけ、出家せずに普通の生活をしながら仏教に帰依する)」の人で、大学の専門は社会福祉でしたが、卒業後、仏教の専門学校で研鑽を積み、ご縁があって一念寺を受け継がれました。プロテスタント系の幼稚園へ通い、小学生の頃は毎週教会へ通っていたそうですので、本当にご縁なのだなと感じます。「スカウトされたのです」と茶目っ気のある話しぶりも、場をなごませてくれます。本堂は阿弥陀様はじめ大きなろうそく、お花やなどが「これ以外ない完璧なバランス」で配置されています。当時の名もない職人たちの美意識や感性、それを実際にかたちにした技は本当にすばらしいと住職は語ります。

「一念寺へはじめて来て、前の住職と話した時も、今座っているこの場所でした。この位置から見た阿弥陀様や内陣が本当にすばらしく、導かれているように感じました」とその時のことは今も鮮明です。その導きともいえる出会いから2000年に一念寺を受け継ぎ、自身の人生もお寺も新しい歩みを始めました。

仏教と理系が融合した「DIY」のお寺


受け継いだ時の一念寺は、雨漏り、崩れかけた壁、草が伸び放題の庭など大変な状態だったそうです。本堂以外にも中庭や、渡り廊下の先には洗練された意匠の茶室もあり当初の持ち主の文化度の高さを感じます。
釈迦涅槃図、牡丹が描かれた襖絵や板戸など、何気なくその場にあるものも、美術品・書画骨董と言えるようなものです。おそらく江戸時代後期のものではないかと言われていました。こういった調度品や、木彫の牡丹と格子の欄間もみごとです。
一念寺の涅槃図一念寺の襖絵
日本の美にふれることができるのもお寺の魅力です。「本当は襖もきちんと修復したいのですが、そこまで手が回らなくて」と言っておられましたが、剥がれていた壁はまわりと色を合わせて塗り、雨漏りも自ら修繕し、電気関係や耐震対策も、法律にふれない範囲でみずからやっていると聞いて驚きました。
一念寺の欄間とスピーカー
木彫の牡丹に続く格子の欄間は現代のものですが、牡丹の古色に合わせて色を付けるなど、職人さんの巧みな技とともに美意識が生かされています。また、各部屋の鴨居にスピーカーを取り付け、催しをしている本堂の様子が聞こえるようにしています。楽屋にいてもスピーカーから舞台の進行がわかるのと同じです。そして話の合間に「メーカーはBOSE、ボーズです」とサービス精神満載なコメントもいただきました。

オンライン法要の様子
サイトでは過去のオンライン法要の様子も見られます

また以前通信関係の会社で仕事をしていた経験からネット環境を整え、ホームページで「ひとこと法話」「御門徒様 連絡用ページ」「趣味のページ」など情報発信しています。趣味のページは、浄土真宗の実践活動に関する「真宗学の部屋」、故障が出たタブレットを修復する「改造日記」とマニアックとも言える濃い内容です。「真宗学の部屋」は、宗教者の実践的な社会福祉活動について書かれ、現代社会にも共通する示唆に富んだ内容です。「改造日記」はその分野が好きな人にはとても興味深いのではないかと思います。
一念寺
お寺は会場としてだれでも気軽に低料金で使えるようになっています。住職は、催しは必ず撮影をして、次の時にはその画像を見て必要な状態に整えておいてあげるそうです。「出演者は、傷つけたらいけないとか準備にも、いろいろ気を使ってしまいますが、私ならここへ釘を打とうとかできますから」という心遣いです。「DIYの寺なんですよ」と笑って話されました。副住職を務める奥様の真澄さんと一緒に日々みなさんをお迎えし、奮闘しています。

門前町の地元の大切な拠点


以前、屋根にのぼって修理しているところを門徒さんが見かけて「住職さん、そんなとこのぼって危ないですよ」と驚いて声をかけてくれたそうです。ほのぼのとした間柄がうかがえます。一念寺を受け継いだ時、25匹いた猫の貰い手探しに奔走し、そんなつながりから「犬、猫との出会い」の譲渡会も行っていて、普段地元の人と話す機会がなかなかないマンションに住んでいる人も「ねこちゃん見に来たよ」と交流することができました。また、芸術文化や様々な分野にもお寺を活用されています。
一念寺は門徒さんを「メンバー」と呼んでいます。これはだれでも自由にお寺へ来て、人と会い、話をして楽しく過ごし、そこからまた人と人がつながっていくという思いからです。住職は「建物が持っている力、空間の持つ力」と表現します。
一念寺の谷治住職
若い人もここへ来ると悩みや思っていることを話せる、心が解き放たれる場に感じています。「空」という考え方はこだわりや、ねばならないという思いから解放されることと語ります。それは「自分はどう生きたいか」考え守るために大切なことです。お坊さんは、そういう人々の話を聞く役割を果たせると考えています。「仏教が培ってきた2500年の教えは今こそ生かすことができます」と続けました。お寺に人が集まることでお寺は若返り、今住んでいるまちにとって何が必要かをあきらかにして、みんなで共有することが大切です。お寺はそういった点で、ハブ的な役割を果たせる地域の拠点だと考えています。地域の課題を地域で解決していくことは、これからますます大切になります。
正面通
一念寺の隣の歴史ある番組小学校はホテルの建設が計画され、地域の運動会もできなくなっています。長引くコロナの影響でお祭りの中止も続いています。そのような状況のなかで社会の変化に対応しながら、京都の歴史に学び、その良さを生かしながら住む地域づくりに果たすお寺の役割はますます重要になると感じました。帰り道、本願寺にまっすぐつながる「正面通」界隈を歩くと、法衣や仏具、数珠を商う店や旅館があり、門前町の面影を残しています。暮らしと生業が今も成り立つまちであってほしいと願いました。

 

一念寺
京都市下京区東中筋通花屋町下ル柳町324

老舗の文具店 目印は真っ赤なトマト

学校の近所には必ずと言っていいほど文房具屋さんがありました。いい匂いのする消しゴム、かきかたえんぴつ、キャラクターのついた筆箱、おしゃれなシャープペンシル、ノート。そこにはたくさんのほしいものと、子どもたちとお店の人との他愛もない会話がありました。
そういうお店は今はめずらしくなってしまったなと思っていたら、ありました。店頭の真っ赤なトマトとイタリアンレストランのようなチョークアートの看板に引きつけられて行ってみると、ノート一冊、えんぴつ一本を、気兼ねなく買える「まちの文房具屋さん」です。中央卸売市場の近くで80年間お店を営む「マエダ文具店」の前田幸子さん、娘さんの小川知亜妃さんと夫の茂樹さんに話を伺いました。

夏休みの宿題解決の味方です

マエダ文房店
暦は立秋となり、早やお盆を迎えました。お墓参りやお供えのあれこれや、お盆の間の精進料理の決まりの献立を守っているお家もあることでしょう。夏休みも後半、そろそろ宿題や自由研究など、気になる頃でしょうか。
取材に伺った時も、小学生が小さな財布を握りしめてやって来ました。母親の幸子さんは「工作の材料や画用紙とかよく出ます。学校が始まる間際は、もう、ばたばたです」と笑いました。焦っても片付かず、親の手助けで何とか仕上げた思い出のある人もけっこう多いのではないでしょうか。そのあたりは昔も今も変わらないようです。
マエダ文房店
夏休みの宿題のかけ込みもありますが、たとえば便せんや封筒など「ここにあってよかった」と、ほっとしたお客さんに喜ばれています。「ノート一冊、鉛筆一本を買ってくれはる近所の方に来てもらって店が続いています」という言葉に「あってよかった」と思ってもらえる地域のお店としての筋を感じます。
以前は、子どもたちが登下校の途中に学用品を買うことも多く、朝は8時に開けていたそうです。今は集団登下校となりましたが「友だちと同じものを使いたい」「だいすきなキャラクターグッズがほしい」など、お目あてをさがしに来る子どもたちの、お楽しみワールドに変わりありません。

野菜の廃棄ロスを減らす野菜販売

マエダ文房店
手書きの看板や赤いトマトが印象的なマエダ文具店ですが、店内は創業80年の老舗のどっしりした構えに安心感があります。近くに中央卸売市場があり、そのなかの仲買さんとも古くからの取引が続いています。伝票、封筒、ハンコなど細々した事務用品を引きうけ、配達しています。

「赤いトマトを売っている文具店」として定着した野菜の販売は、知り合いの仲買さんから「サイズが揃わないなどで廃棄処分される野菜のなかには、食べる分には何のさしさわりのないものがたくさんあります。それを売ってほしい」と依頼されたことが始まりでした。
「文房具屋で野菜を売るのもなあ」という気持もあったそうですが、始めてみるとお客さんに喜ばれ、今では遠くからでも「箱買い」する人もやってくるそうです。今では、トマトと文具店は違和感なく「定番」となっています。トマト以外に、京野菜の万願寺唐辛子など扱う種類も増えてきました。
梅小路公園
近くには休日は多くの家族でにぎわう梅小路公園があり、帰り道に偶然、マエダ文房具店のトマトを見つけ、それが口コミで広がっているそうです。また、茂樹さんがこまめに発信するSNSを見て買いに来る人も多く、口コミとデジタルという両方の伝達手段で広がっているのは、理想的です。ことに口コミは、商品とお店の対応がよくなければ広がりません。
フードロス問題
この野菜販売から、いろいろなことが見えてきます。新しいチャンスを広げるきっかけになったのは、地元でもある中央卸売市場の仲買さんとの長い付き合いがあったこと、その販売が食品ロスを減らす、現代の社会に求められている課題解決につながることです。普段の売り買いが、本質的なことにつながっています。地域のみなさんから頼りにされるお店の大切さを改めて感じました。

新鮮な視点を生かした新たな展開

マエダ文房店
とても仲が良い前田さんファミリー

マエダ文具店の魅力は、伝票や帳簿など「伝統的」な事務用品や、子どもたちの学習帳、鉛筆など文具店としての基本がきちんと揃っていること、そして人気のキャラクターグッズや雑貨など、今求められているアイテムもセンス良くディスプレーされていて、双方のバランスがいいことです。
知亜紀さんは「かわいいな、置いたら店のなかも明るくなっていいだろうなと思う文具は、対象が中・高校生です。今はその中・高生が少なくなっているので、なかなか仕入れも難しくて」と語り、母親の幸子さんも「ボールペン一つとっても、どこそこのメーカーがいい、今度出た新しいのがほしいとか、ちゃんと指定されます。メーカーも競うようにして新商品を出しますしね。今はSNSなどで情報がすぐ伝わるので」と続けました。
マエダ文房店
そういった悩みはあっても、店内は「さすがに創業80年の文房具店と思わせる風格と、白木のをうまく配置したセンスのよいディスプレーに気持ちあがります。担当は茂樹さんです。きちんと計測して木の棚も自作し、全体のレイアウトもかえました。店内に飾られた絵も、名実ともにお店の看板となった、トマトのチョークアート、野菜売り場の干支看板も茂樹さんの作品です。「広くなった、きれいになった」とお客さんからも好評です。
マエダ文房店
またこれまでのように文具だけの品ぞろえでは大変なので、文房具店にもなじんで、喜んでもらえるものをと考え、駄菓子コーナーもできました。お店に入ってすぐのところにある、たくさんの駄菓子は子どものみならず、親御さんも、目がきらきらして「こんなん、どうや」と楽しんでいるそうです。親子のコミュニケーションにも一役かっています。
知亜紀さんは「私はこの家で育ったので、これはここに置くとか、どうしても今までと同じようにしか思いつかないのですが、夫はそういった先入観がないので、新しいことをやって、できあがったのを見て、なるほどなあと思いました」、幸子さんも「若い世代の人は考えることが全然違いますわ。野菜や駄菓子を売るようになるとは思っていませんでした」と、話してくれました。
ご本人の茂樹さんは、いたって自然体で、おだやかに「インバウンドの頃は。近所にゲストハウスが何軒もあって外国からの観光客が多かったので、おみやげにちょうどいい、京都や日本を感じられる手ごろな商品も置いていました。野菜や駄菓子、雑貨などが多少なりともそこをカバーしてくれています。トマトを置いたことで若い人も来てくれるようになりました」と話してくれました。
マエダ文房店
知亜紀さんが店を手伝い始めて8年、茂樹さんは4年たちました。文房具店としての基本はしっかり受け継ぎ「なんでトマトを」と言った時期から「真っ赤なトマトのある文房具屋さん」は、多くの人に親しまれ、知られるようになりました。
取材中にもトマトを買う人、おにいちゃんの誕生日プレゼントを選びに来たり、また「金封の白黒と黄白の水引はどう使い分けたらいいのですか」というお客さんなど、次々やって来ました。マエダ文具店は今年創業80年を迎えました。今、業種にかかわらず商品の値上げが続いています。このような厳しい環境も、80年間、地域で生業を継続してきた底力と新しい視点での変化を成功させた3人のチームワークで「地域の文房具店」としてともしびを灯し続けていくと実感しました。

 

マエダ文具店
京都市下京区七条壬生川西入夷馬場町35
営業時間 月曜~金曜9:00~19:00/土曜10:00~18:00
定休日 日曜、祝日

自然の恵みぎっしり 正直なパン

大徳寺の近く、新大宮商店街の一画にあるパン屋さんは、釣り竿のかわりに麦の穂をかついだ、えびすさんの看板が目印です。
レーズン酵母を自家培養し、国産小麦と沖縄の塩、湧き出る清水のような水だけで、ゆっくりゆっくり時間をかけて作るパンは、独特の香りと噛みしめるほどに感じる豊かな味わいにおどろきます。大切に「育てる」ようにして作るパンを「パンたち」と慈しむように語る、今年で開店満20年の「えびすやのパン」藤原雄三さん、嘉代子さんの、仲睦まじいお二人に話をお聞きしました。

サラリーマン時代からあたためていた夢

えびすやのパン
藤原さんは、サラリーマンだった時、定年後の第二の人生をどのように生きていくかを模索していたと言います。環境汚染やアレルギーの子どもが増えるなど、様々な問題が起きていました。そして「これからはスピードや大量生産を競うのではなく、もっとゆっくり時間をかけて安全安心の食生活を大切にし、自然の恵みをいただくことに感謝する時代に、きっとなる」と感じたそうです。
だれもが安心して食べられる安全な食品が大切だと考え、無農薬の農業をやろうと思い立ちました。ところが嘉代子さんに相談すると、賛成してもらえませんでした。なぜか「虫が苦手やから、ちょっとなあ」ということで農業は断念し、では何かと考えた時にひらめいたのがパン作りでした。
えびすやのパン
それからは独自に研究を重ね、あちこち材料をさがし、多くの素材を試し研究しました。そのなかで出会ったのが現在も使い続けている「北海道産小麦はるゆたか」「天然のおいしさの回帰水」「ミネラル豊富な沖縄の粟国(あぐに)の塩」です。そして培養するレーズン酵母は4日ほどかけて発酵させ、液をしぼり、小麦粉をまぜて約一日おいて天然酵母となります。

えびすやのパンは、このように小麦粉、水、塩、レーズンの4つの材料だけで作られています。「レーズン酵母、小麦粉、水、塩はそのままでは食べられないが、それぞれの特徴を引き出して、人がちょっと手助けをしてやればパンに生まれ変わる。素材も人もお互いに生きている。ゆっくりした時間とはこういうことだったのか」と、10年くらいした時、パンを作りながら、ふと気がついたと語ります。
「それは一生懸命作ってきたからこそ、そこに到達できました」と続けました。雄三さんのパン作りは、生き方や人生に対する考えそのものです。

「長く続けて」とお客さんからの声援

えびすやのパン
えびすやのパンがある新大宮商店街は、大徳寺の近くにある南北に長い商店街です。西陣織の伝統産業に携る職人さんの日々の暮らしを支えてきた商店街として、今も多くのお客さんが来やすく、世間話をする光景をよく見かけます。
えびすやも、おなじみのお客さんが多く「がんばって長く続けてや」と声援が送られています。あかちゃんのいる若いおかあさんからも「安心して離乳食にできる」と喜ばれています。
えびすやのパン
雄三さんは「パンたち」を作る時、いい子や、いい子や。おおきに、ありがとう」と声をかけていると言います。条件を整えてやれば、ちゃんとふくれてくれる、いい子たちなのです。「たまに手順や発酵の時間を間違えても、ちゃんとふくれてくれる。そういう時は、こっちのミスをカバーして、ふくれてくれて辛抱強い子やなあ。おおきに、おおきに」と、自然に感謝の気持ちがわいてくると続けました。
安全安心の素材との共同作業です。「発酵のスピードなど、その日その時によって違う。同じことはない。いつも違って難しいから、ものづくりはおもしろい」と、本当に楽しそうな表情です。
えびすやのパン
雄三さんは、今年の1、2月に入院しお店を休みました。退院後の静養中もいろいろと思案をめぐらせ、研究しました。これまでは仕込んだ次の日の朝に必ず焼かないとならないと思ってやってきましたが「一日冷蔵庫でねかせたらどうなるか」とテストをし、その結果「ちゃんと焼けた。うちのパンはすごい。ありがとう」という結果を得ることができました。
冷蔵で休んでもらう一日ができたことにより、体がとても楽になったそうです。「作っていける期間が伸びたかなあ」と、お客さんとの「長く続けて」という約束も果たせるでしょう。
えびすやのパンのレーズン食パン
今、原材料費が高騰しています。ことに酵母にもレーズンパンにも使っているカルフォルニア産のレーズンはすさまじい高騰が続いているそうです。仕入れ分が終わった時、どうするか。大変な難題が突き付けられています。雄三さんは、サイズを小さくしたりレーズンの量を減らすことはしたくないと、その点ははっきりしています。価格の変更は止むを得ないけれど、高くなった値段でお客さんはどうかなど、いろいろと考えています。
今、あらゆる食材の値上げや内容量を減らすなどが始まっています。こういう時こそ、作り手、売り手、そして私たち消費者が協同して乗り越える時だと思います。えびすやのパンもきっと、雄三さん嘉代子さん二人と、お客さんの歩み寄りで解決していけると感じています。
えびすやのパン
余った生地で作るかわいいパンをいただきました。わずか4センチ足らずの極小サイズながら、ちゃんと「あんぱん」です。食玩ではないのです。「ちびちゃん」と呼ばれて子どもたちにも人気です。ここにも、材料は無駄せず、あそび心を感じるパン職人としての雄三さんの気質が垣間見られます。

パンは夫婦二人からのメッセージ

えびすやのパンえびすやのパンのショップカード
えびすやのお店は、以前5年ほどパン作りを手伝っていた方が描いた、気分が明るくなる花の絵が飾られ、カウンターのショップカードや小物もかわいらしくディスプレーされています。嘉代子さんのやさしい雰囲気を思わせます。窓際にパンが並び、小さなカウンターの向こう側は、さえぎるものはなく、そのまま厨房になっています。オープンキッチンではあるのですが、こんなにオープンな店舗兼厨房は他に例を見ないのではと思うほどです。
えびすやのパン
最初からオープンキッチンにしたと思っていたかをたずねると、きっぱり「最初からです。小麦粉の袋、生地をこねる様子、大きなオーブン、すべてを見て知ってほしいと思っていたので。見られて困ることも、困るところも一つもありません」と堂々とした答えがかえってきました。
利益や効率を優先したら、自分が思っていることとは違ってしまう。開店した時からのこの覚悟と言うか、信念があったからこそ、4つの素材だけのパンを世に出すことができたのだと思いました。「やっていることは利益や効率最優先とは、真逆のことやから」と優しい口調できっぱり語りました。雄三さんの手の指は太くがっしりしていて、長年生地をこねてきたことにより、力の入る方向へ曲がっています。この手が20年間、えびすやのパンを作ってきたことを何より雄弁に物語っています。
「えびすやのパン」藤原雄三さん、嘉代子さん
今、お二人は「第三の人生のステージ」をどうするか相談しているのだそうです。できるだけ長くの声に応えてがんばるけれど、いつかは第2ステージも終幕になる。それはさみしい、悲しいことではなく、次の新たなスタートになるのです。
雄三さんは「安心して食べられるパンで、みんなに喜んでもらえて、第2の人生の選択はまちがっていなかった」と何回か口にされ「パンは夫婦二人のメッセージやなあ」と続けたのです。その確かな実感を持って、第3の人生を話し合っているのだと感じました。「えびすや」の名前は嘉代子さんの旧姓「胡(えびす)」からとったとのこと。このお店へ来た人がえびす顔になり、パンを食べてまたえびす顔になる、そんなイメージがわいてきます。
お二人の写真を撮らせてくださいとお願いした時、けがをして歩行が少し不自由になった嘉代子さんに何度も「ゆっくり来たらええから、ゆっくり」と声をかけていました。その姿は夫婦であり、まさにえびすやのパンの同志でした。奇をてらわず、おもねず、正直に焼くパンが、これからも多くの人の心も体もやさしく健やかにしてくれることを願ってやみません。

 

えびすやのパン
京都市北区紫野門前町45
営業時間 9:00~
定休日 日曜、月曜、木曜

祇園に佇む 現代アートギャラリー

観光に訪れた人々でにぎわう四条通や八坂神社あたりから一歩入れば、暮らしが感じられる界隈となります。そんな静かな通りの一画に、ガラス張りの白い建物のギャラリーがあります。
企画展の会期中は通りからも、展示の様子がうかがえます。現代的な建物でありながら、気取ったふうもなく、明るく開放的な雰囲気が感じられます。
祇園祭の鉾建てにわく日、「現代アートうちわ展」を開催中の「ギャラリー白川」のドアを開けました。オーナー池田眞知子さんのお話と執筆された著書から、画廊という発表の場、その役割についてはじめて知ったこと、感じたことを綴ります。

今年で39年を迎えるギャラリー

ギャラリー白川
自宅から見える白い建物の空き店舗を眺めていて「お茶を飲める、可愛い画廊」が目に浮かんだことが、ギャラリー白川の始まりでした。絵の好きな人や作家さんが訪れ、徐々に企画した展覧会を開けるようになりましたが、やがて「世界のアートを自由に紹介したい」という思いがつのり、家族の理解と協力を得て単身パリとニューヨークへ飛び立ちました。

オーナー池田眞知子さんの著作「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」
オーナー池田眞知子さんの著作「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」

1980年代の躍動感あふれるアメリカンアートの魅力は目にまぶしいほどだったと著書のなかで語っています。何度か訪れるうちに、多くの美術関係者ともつながりができ、京都で紹介できるようになったそうです。ジョン・ケージ、サム・フランシス、フランク・ステラ等々、現代の美術界を華やかに彩る海外の作家たちの展示会を実施したのでした。

当時の日本はバブル景気にわき、絵画もどんどん動いた時代でした。百貨店での企画も多く、また地方に美術館が次々と建設され、「絵具が乾く間がない」というほど、作家も次々と制作を続けたそうです。
現代アートがまだ日本に根付いていない頃から、アメリカで絵画の新しい潮流を目のあたりにしてきた池田さんは、美術館へ作品をおさめたり、展覧会の企画など数多くかかわっていました。

やがてバブル経済の終わりが来て、美術館には作品を買い上げる予算がなく、百貨店でも動きが止まりました。日本全体が不景気の影におおわれた1999年、今後を見据えて、現在の祇園の地に移転しました。それは「ここで何ができるか」という自分自身への問いかけでした。
画廊経営という未知の世界へ飛び込んだ最初とは違い、多くの人との出会いや経験のなかで得た「企画する喜び」を礎に、新たな取り組みを始めたのでした。

17回続く「現代アートうちわ展」

ゆかたとうちわ
アメリカをはじめ海外の現代アートを日本に紹介した草分け的な存在の池田さんは、再び日本の作家へ目を向けるようになりました。
うちわが日本へ伝わったのは6~7世紀とされていますが、はじめは祭祀や貴族のあいだでのみ使われていました。現在の「風を送って涼む」竹骨に紙を張った形となるのは室町時代とされています。江戸時代へ入ると、庶民の間に広まり、浮世絵や人気役者の姿、美人画などが描かれ、床の間へ飾ったり、おしゃれとして持ったり、うちわの文化は見事に花開きました。
ギャラリー白川のうちわ展
池田さんは「この時代の日本人の豊かな感性とすばらしい職人技を、今の作家さんにも知ってほしい」と、現代アートうちわ展を企画しました。今年でもう17回を迎え、27人の作品が展示されています。日本画、漆、油彩、版画、現代美術、水墨画、織り、フレスコ画、グラフィックデザインなど様々な技法、分野の作家さんのうちわが展示されています。
その展示がすばらしく、美術とは縁遠い人も十分楽しめる空間になっています。フランス、カナダ、アメリカ、マカオと海外からの参加もあり、結びつきの広さと確かさを感じます。
ギャラリー白川のうちわ展ギャラリー白川のうちわ展
思い切り飛んでいる作品が日本画の作家さんとか、鮮やかにひまわりを描いたうちわはフレスコ画など、新鮮な驚きが続きます。
「普段は四角なキャンバスと向き合ったいるので、うちわのように丸いなかに描くの難しい」そうです。夏の風物として、普通の制作とは違って楽しんで描いているのかと思ったのですが、そんなものではなく苦労し、一心につくり上げるものでした。
「夏だからこの時期はうちわ、という意図でやっているのではありません。江戸時代に発展した、身近にある道具をアートにして楽しむことを掘り下げていってほしいと思うからです」と話されました。
もちろん、夏の季節感としてうちわを楽しむことはすてきなことです。そのことを十分含んだうえで、池田さんの現代アートうちわ展には、美術・作家・画廊というもに対する、季節の楽しみだけではない、もっと強い意思が伝わってきました。

39年のその先へ、できること

ギャラリー白川
バブル後の激変に備えて新たなスタートをきり、歩んでいましたが、コロナ禍という世界中が巻き込まれている思いもかけない事態が続いています。ギャラリーへ足を運ぶ人もぐんと減ったそうです。そのようななかで池田さんはデジタルでの発信を充実させています。
ユーチューブでの配信は、作家の制作風景と作品が映し出され、娘さんが弾くピアノが想像をふくらませ、ひとつの映像作品として見ごたえがあります。
ギャラリー白川のYoutubeチャンネル
池田さんが「35年をこえて 偶然を必然に ジョン・ケージからはじまる」を著してから4年たちました。池田さんは、コロナになってから人の行動パターンや暮らし方が変わったと実感しています。
外で過ごすことが少なくなり、みんな家でゆっくりする方向になっています。そのようななかで、アートというものをどうやって広げていくのか。池田さんは、いつも「これまでと同じことではなく、ここでできることは何か」をいつも考えています。
ギャラリー白川のうちわ展
今回のような、ギャラリーとアートとの偶然の出会いを必然にする努力を続けています。「偶然を必然に」とはジョン・ケージの言葉なのだそうですが、これは今、アートの世界に限らずどんなところ、職業にも通じることだと思います。「アートや作家さんとの出会う機会を工夫し、支える人をもっと増やすこと」が必要です。
作品を求める人がいて作品が売れて、画廊も継続できる環境やシステム的なことが必要なのだと思います。アートの世界へのとびらはオープンになっています。まずは一歩入って作品と出会うことで観る楽しさ、豊かさを感じてみたいと思います。
ギャラリー白川では、現代アートうちわ展の後にも、企画展が続きます。ぜひホームページ等でチェックしてみてださい。

 

ギャラリー白川
京都市東山区祇園下河原上弁天町430-1
営業時間 12:00~18:00
第17回現代アートうちわ展 7月24日まで開催

漢方が教えてくれる 健やかな暮らし

漢方薬、生薬、薬草。聞いたことはあるし、歯みがきや入浴剤、化粧品など身のまわりのものにも「生薬配合」などと記されている商品は多くあるけれど、よく知らないという人は多いことと思います。また、知らないけれど「体に良さそう」と思っている人も多いでしょう。
「お医者さんへ行くほどでもないけれど、何となく体の不調を感じる」また「体質を改善したい」そんな時に気軽に相談できる漢方薬専門の薬屋さんがあります。
うかがい知れないほど奥が深いと思われる漢方薬のお店に少しどきどきしますが、笑顔のていねいな受け答えが、気持ちをやわらげてくれます。やり取りするなかですすめてくれたのは、取り入れやすい薬草茶でした。漢方や薬草のやさしい案内人「いなり薬院」の福田佳子さんにお話しを伺いました。

会話を大切に、その人に合った提案

いなり薬院
いなり薬院は福田さんのお祖父さんが、昭和5年に開業されました。三重県の農家の生まれで京都で丁稚奉公をされ、その後、漢方の専門の勉強をして、独立を果たしました。以来90年、この地で漢方薬専門店の生業を続けています。
いなり薬院
漢方薬専門店と聞くと、いかめしい雰囲気のお店を想像しますが、いなり薬院はそのイメージを軽々と払拭してくれます。こじんまりとした明るい店内は親しみを感じるやさしい雰囲気です。あちらこちらにいる張子の虎は、薬種問屋が集まる大阪道修町(どしょうまち)の神農さんとも親しみを込めて呼ばれる「少彦名神社」で毎年11月に行われる神農祭の縁起物なのだそうです。
神農さんの虎
最初に、漢方薬、生薬、薬草とは何かを少しお話いただきました。
「薬草」は文字通り薬用に使う植物そのものを指します。「生薬」は、薬用植物のほか、動物、鉱物など天然由来の、薬用として使うものの総称です。「漢方薬」は、生薬を複数配合して確立された医薬品を指します。薬草と生薬は医薬品と非医薬品が混在していますが、漢方薬は医薬品になります。
最近はインターネットで調べて最初から、買う商品を決めて来るお客さんもあるそうですが、福田さんはできるだけ会話をするように心がけています。
「今はインターネットもドラッグストアもあって買い物の仕方が変わりました。お店とお客さんがひと言も会話せずに買い物がすみます。今の時代は、そのほうが気楽でいいのかもしれません。では、いなり薬院でできること、足を運んで来てくださるお客さんに対して、どんなことなのだろうと考えてきました。
それは、できるだけお客さんと話すこと。話せば何が必要かわかります。一人、一人のお客さんに合ったオリジナルの薬草茶を提案することもできます。お客さんと話すことはとても大事です」と続けました。

いなり薬院の薬草茶
オリジナルの薬草茶は煎じて飲みます。

そして漢方薬専門店としてのいなり薬院は「医薬品」と「民間薬」の二本柱を立てていると話されました。民間系とは、古くから庶民のあいだで、暮らしの知恵として伝えられてきた民間療法の範疇のものです。
「庭や野原にある葉っぱなど身近にある植物を使って、お茶や入浴剤、薬としてきたものです。このようなおばあちゃんやおじいちゃんから教えられたことは、もう少し今の暮らしに取り入れられたらと思っています」と話されました。怪我をした時、熱冷まし、打ち身、お腹が痛い時など家にあるもので何とかしてきたのです。この知恵を引き継いでいけたらと思いました。
いなり薬院の福田さん
福田さんがもう一つ大切にしていることは「無理をしないで続けること」です。薬草はお茶や入浴剤にすると毎日の暮らしのなかに取り入れやすいのです。代表的な薬草茶は、効能が多くあることから「十薬」という名も持つドクダミです。デトックス作用もあります。葉っぱの量や煮出し方も「これなら簡単、続けられそう」と思うアドバイスの仕方です。
またドクダミ以外も、薬草の入浴剤は、体をあたため、香りはアロマ効果があり、お肌もつるつるになるなど、若い世代の人たちにも十分発信できる効果があります。核家族の家庭が多くなり、世代間で伝える機会が格段に少なくなっています。福田さんがしている仕事はその伝え役にもなっています。
無理をしないでじんわり、徐々に体に作用していく漢方の考えは、何でも即効性を求めてきたなかで「一歩引いてスローに」という流れも生まれてきた今、暮らしに取り入れることが多くあると感じました。

ご縁があって今があります

いなり薬院
いなり薬院はお祖父さんが初代、その後継者となったのは福田さんのお母さんでした。お父さんはサラリーマンで、別の仕事をされていました。本格的に漢方薬の勉強を始め、店を継ぐことを決心されたのは、子どもたちが高校生になって手が離れた40~50代の頃だったそうです。
家事一切を引き受けながら60代近くなってから化学や薬に関する法律などを勉強し、試験にみごと合格し、取り扱いの免許を取得され、お店をずっと取り仕切ってこられました。取材中、麦茶とハト麦茶、決明子(けつめいし)をブレンドした、とてもおいしいお茶を出してくださいました。
いなり薬院の薬草茶
お歳は91歳と聞いて本当に驚きました。福田さんは「家のこともしながら勉強して免許を取って、店を続けてきたのは大変だったと思いますが、それは母の生きがい、やりがいになったのだと思います。親のことを褒めるようですが本当にすごいと思います。今でもしっかりしています」と語りました。
「私も薬学とは全く関係のない方面へ進み、仕事も違う仕事をしていました。それが母と同じように、薬学を勉強してこうして店を継いでいるのも縁のものやなあと思います」と感慨をこめて話してくれました。
いなり薬院
お店の前に、健康そのものといった野菜が並んでいます。これは福田さんご夫妻が丹波の畑で育てている無農薬、有機栽培の路地ものの野菜です。この畑もいろいろなご縁がつながって借りることができたのだそうです。
夫の陽一さんは生薬の専門家で、ここで生薬も育てています。「家で食べるぶん」のつもりで作っていたのですが、30年近く野菜作りを続けるうち、路地ものなので、できる時はどっさりできご近所へ配ってまわったそうです。それでも余ってしまうくらいで、ご近所の方から「店の前に置いたらどうや」とすすめられて3年前くらいから置くようになったそうです。
まだあかちゃんだった子どもさんを畑へ連れて行った時、ハイハイをしながら土を食べてしまったこともあったと、なつかしそうに笑って話してくれました。自然と折り合い、植物や作物の呼吸を感じながらの農業との縁も、お店を続けるうえで大きなよりどころとなっていると感じました。

できる範囲で、できることを

いなり薬院の参鶏湯
「参鶏湯セット」はお客さんの声から生まれた商品です。参鶏湯(サムゲタン)は、鶏肉に朝鮮人参、干しナツメやにんにく、生姜などが入った、人気の薬膳メニューですが、材料を揃えるのは大変です。「漢方薬屋なら材料を揃えやすいでしょう」という声にこたえて、完成させた商品です。鶏肉と一緒に煮込めばご家庭で簡単にサムゲタンとなります。
「薬膳の考え方で身近な食材を使えばいいのです。夏は体のほてりをとる野菜、冬は体をあたためる根菜類というように。たとえば、冬瓜は夏の野菜ですが、冬まで貯蔵できるので冬瓜と言います。冬は体をあたためる葛の根から作ったくず粉のあんかけは、理にかなっているのです」と、生活に取り入れやすいアドバイスをしています。
いなり薬院
「バスに乗っていて」「通りがかりに」と、何となく見かけことで来店するお客さんもいるそうです。前に見かけたお店がそのままあるということは、とても重要なことだと思います。伏見稲荷の氏子が多い町内のいなり薬院。年期の入った薬だんすや薬研(やげん)が展示された「くすりのまちかど博物館」のようなウインドーも、まちの風景の一部になっています。「できる範囲で、できることをする」こうした確かな商いこそ、京都のまちを支えているのだと感じました。

 

漢方専門 いなり薬院
京都市下京区七条通壬生川西入
営業時間 9:00~19:00
定休日 日曜、祝日

「下京サマーフェスタ ひんやり商店街2022」開催
8月1日~9月3日の期間中、ご来店の方に「自家製ブレンドはと麦茶」をお出しします。

西国街道に アートと暮らしの新しい風

多くの人が行き交った歴史の道、西国街道に新しい風が吹いています。長い間空き家だった建物が縁あって、多くの作家さんが参加して改装し、自由な表現と人がつながるギャラリーに生まれ変わりました。アートとていねいな暮らしの提案を共有する空間です。
wind fall(ウインドフォール)という名前には「風の贈り物が届くように、思いがけない幸運が訪れますように」という願いがこめられています。訪れる人々に「日々是好日」と感じられる、心が解き放されるひと時を贈ってくれます。
地域にとけ込み、5月に満1年を迎えたウインドフォールに2年目からはどんな風の贈り物が届くのか。最初の企画展で楽しい風を受けて来けながら3人の織姫さんにそれぞれの作品と「さをり織り」の魅力について話をお聞きしました。

「3人の織姫による45展」とは

wind fall
天井から吊るされた虹のかけ橋は、今回の企画展に参加した作家三人の合作です。

三人三様の個性が発揮された作品に、光と風が自在に通りぬけ、気持ちが軽やかにやさしくなります。「45展」とは「よんじゅうごてん」と読み、100点じゃなくてもいいし、50点でなくてもいい。力をぬいて自分らしくやっていけばいいという思い、見に来てくれる人たちへのメッセージです。

wind fall
来場者と談笑する菊本さん(左)

「それと私たち3人とも45歳なのです」と笑いながら話してくれたのは菊本凡子(なみこ)さんです。若いという年齢ではないけれど高齢ではない、微妙な年齢だけれど、まだまだ体力も気力もある45歳の年に「50歳までの5年間を元気に意欲的に取り組んで、50歳からの人生をまた新しく始めていこう」と企画したと続けました。
広島県で活動する本木ナツコさんに展示会を提案した1年前、ちょうどウインドフォールがオープンし、会場はここと決めて準備を始めました。そこへ築山泰美さんに加わってもらい「強い個性と個性の二人に、やさしくさわやかな風が通った」展示会になりました。
会場の中央に高くかけられた作品は、織りで表現した3人それぞれの虹のかけ橋です。天井の高いこの建物の特徴が生きています。
wind fall
その虹のもとにたたずんでいるのは乙女の夢「ガーデンパーティにまとうドレス」です。3着のドレスも本当によく個性が表れています。難しい技術の苦労のあとを感じさせない、感性がきらめくドレス、強い個性の唯一無二の自分自身を伸び伸び表現したどれす、清楚で可憐、気品あるドレス。ぜひ、自然の風を受けてパーティや結婚式に着てほしいと思いました。

さをり織りの世界観と可能性

wind fall
45展は「さをり織り」の魅力を広く知ってもらう機会にもなっています。普段、ポーチやバッグ、マフラーなど小物や雑貨で、さをり織りを目にした人は多いと思いますが、今回の企画は「使える」ことに加えて「アート」としての出会いをしてもらう、よい機会になっていると感じました。
「さをり織り」は50年ほど前に「技術の決まり事にとらわれず、自己表現として自由に織る」織物として始められました。「キズをデザイン」としてとらえ、年齢や経験、手先の器用さなどを超えて多くの人が楽しめることがこれまでの織物の世界にはなかった大きなことでした。

wind fall
こんな大胆な作品も

菊本さんは、ある時、展示を見た人から「さをり織りは人生模様」と表現された記憶が鮮烈に残っていると語ります。「織り出したら元へもどれない。前へ進むのみ。でも、その時は思ってもみなかったキズが、できあがってみたら「これ、けっこういけてる」と思う。このようにポジティブとらえると、少し重かった気分も軽くなり、さをり織が持っている力と言えます。
「これまでとは違う作品を作らなくては」とか「がんばって織らなくては」という苦しい気持の時は思うように織り進めることができないと聞きました。そういった気持ちにとらわれず、楽しく織っている時はあっという間に一日がたち、作品できあがっていることもよくあるそうです。
wind fall
まさに「自由に楽しく」こそ、さをり織りであり、アートとしての魅力なのだと実感しました。高い天井を生かした立体的な展示は「布」という平面の作品の新たな魅力を発見することができます。作品が、開け放したドアや窓から入って来る風の通り道になって、その時々でいろいろな表情を見せてくれます。作品と自然が呼応するギャラリーです。

建物と文化・アートでまちの循環を

wind fall
3人の作り手さんが語るさをり織の人模様もとても興味深いものがありました。
「作品をふり返ってみると、ここを織っている時は、こんな気持ちだったのだなあと、いとおしく思う」「仕事が忙しかったこともあり、しばらく遠去かっていた時もあったけれど、再開して改めて、さをり織の魅力を感じて続けたいと思った」と、それぞれの思いを話してくれました。

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菊本さんの教え子のユリちゃん

期間中は織り機が2台置いてあり、ワークショップ的に織り体験をしてもらっています。
菊本さんが指導されているユリちゃんもおかあさんと一緒に来て、本当に楽しそうに、巧みに筬を動かして織っていました。身に付けているすてきな巻きスカートは自分で織って仕立てまでされたとのこと。とてもよく似合っています。
wind fall
またギャラリーの外観は室外機まで「作品展示」のようです。スマートフォンで撮影する人もちらほら見かけます。西国街道の景観つくりにも一役かっています。カウンターと奥にもカフェスペースがあり「ていねいな暮らし」の提案である飲み物や、食事をゆっくり楽しむことができます。
wind fall
菊本さんは「この展示会へ遠くは広島、宝塚、大阪、地元の方と思いがけず多くのみなさんに来ていただています。わざわざ足を運んでいただいたことに、普段忘れがちですが、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と語ります。
この「京のさんぽ道」ではこれまで、西国街道の、元旅籠であった富永屋、中小路家、長岡京市の中野邸とご紹介してきました。今回ギャラリーという地元の人と作家を結ぶよりどころが誕生したのはすばらしいことだと思います。建物が人によって新しい役割を得たのて、文化やアートがまちの循環をになっていくのだと思います。多くの人の気持ちの居場所になりますようにと願っています。

 

Wind fall GALLERY ウインドフォール ギャラリー
京都府向日市寺戸町東ノ段9-14
次回企画:6月17日~28日「夏のアートなTシャツ展」

築94年の町家 お茶を商い百余年

京都府内のお茶どころでは、茶摘みが終わり、今は加工製造や茶畑の手入れと引き続き忙しい日々が続いていす。「新茶入荷」のぼりや鮮やかな墨文字の張り紙に、もうそんな季節になったと気づかされます。

上京区に、つつましく端正なたたずまいのお店があります。創業から100年を優に超えてお茶を商うでお店です。建物も茶壷や棚も引き継ぎ、母娘で「清水昇栄堂」を守っています。
代表の清水和枝さん、娘さんの内藤幸子さんのお話は、静かで優しい語り口のなかに、京都のまちなかで商いを続け、家を守ってきた家族だからこその内容で、引き込まれずにはいられませんでした。

93歳、現役で店を切り盛り

清水昇栄堂
清水昇栄堂は創業時は別の地に店舗があり、94年前に現在の町家が建てられ、移転されたそうです。「父方のおばが生まれた年に建てられたそうなので、この家とおばは今年94歳の同い年です」一世紀近い築年数の伝統的な京町家も、こんなふうに語られると、重々しさより、家も家族のようなほほえましさを感じます。
清水昇栄堂
店内へ入ると急須、湯飲み、お茶缶、抹茶茶碗、茶せん等々、お茶に必要なものがすべて揃っています。なつかしさを感じる急須もありました。おばあさんがいるお家にはたいてい「萬古焼(ばんこやき)」の急須がありました。うわぐすりをかけてない、少し紫をおびた薄茶色あるいは薄墨色のような地肌をしています。三重県で生産され、丈夫なことと土に含まれている成分によって渋みが抑えられるのが特徴ということです。また鮮やかな朱色の急須は「常滑焼」です。
愛知県の常滑で作られていて、こちらも、うわぐすりをかけない焼き方で、陶土にお茶の雑味などが吸収されて、まろやかでおいしいお茶が飲めるのだそうです。

急須のそそぎ口にビニール製の保護キャップがかぶせてありますが、これは「持って帰らはる時や送る時に欠けないようにするためのものなので、使う時ははずします」と言われました。使う時に欠けないように保護のために付けてあると思っている人も多いようです。次々とお聞きするうちに、母親の清水昇栄堂代表の和枝さんも話に加わってくださいました。

清水昇栄堂代表の清水和枝さん
清水昇栄堂代表の清水和枝さん

「私は93歳。21歳でこの家へ嫁いで、その時からやから、もう72年もお茶を売ってます」と話す笑顔がすてきです。「お茶は日本全国たくさん産地があるけれど、うちは宇治茶だけを扱かってます。お茶も急須もみんな長く取引きしているところばかりです」と、ぶれることなくお店を続けてきた人の重みを感じる言葉です。ご主人は「お茶は斜陽産業やから」と言って、幸子さんに跡を継いでほしいとは言わなかったそうです。しかし早くに亡くなられ、和枝さん一人でがんばっていましたが、幸子さんもやがて通いで手伝うようになったということです。平坦なことばかりではない年月も過ごされてきました。幸子さんも「母は本当にしっかりしています。私が近所へ買い物に行っている間は一人で店を見てくれています」と感心の面持ちで話すのが、母娘の細やかな気持ちの通い合いが感じられて、こちらもあたたかい気持ちになりました。
二人がかもしだすやさしい、おだやかな雰囲気がお客さんにも伝わっているのだと感じました。

昔の道具博物館のようです

清水昇栄堂

清水昇栄堂
「茶 清水」の文字が見えます

仕事に使う道具の類はさておき、よくきれいに残してあったと感心する歴史の証しもあります。見せていただいたのは、出町枡形と下鴨までの範囲の120軒のお店が一同に並んだ昔のチラシです。「明治廿七年十月改正」と記されているので初版はもっと前ということになります。昇栄堂にはチラシとして配布された和紙に印刷されたものが額に入れられ保存状態もよく残されています。
非常に興味深かったのは「支度、走り、棒、かもじ」などというお店があることです。棒は担ぐための棒、支度は特別な衣装に着付け、走りは文字のごとくひとっ走りものを運ぶ仕事ではと、お二人は推測していました。
昭和の終わり頃に復刻印刷されたものも見せていただきました。昇栄堂と黒々と書かれた名前があります。今も残っているのは3軒だけです。前述したようなお店は暮らしそのものが大きく変化し、当然消えゆくところもあるわけですが、昇栄堂がそのなかで建物だけではなく、家業も息をつないでいることは、本当にすごいことと改めて感じました。

清水昇栄堂
箕を手にした内藤幸子さん。後ろには年季の入った茶壷や茶箱が見えます。

お店の造りはもうめずらしくなった「座売り」の形式です。そしてまた重ねてすごいのは、大きな茶壷や茶箱、棚や引き出しもすべて今も使われていることです。和枝さんは「お茶は熱と湿気に弱いので、茶壷の中にさらに容器がある二重式になっていて、気温を25度以下に保つために前は「室(むろ)」へ入れました。生鮮食料品と同じです」と話されました。
またふるいや和紙を張った箕は、お茶の葉にまじった細かい粉を落とす時に使うそうです。おもりをつけて量るはかりも狂いはないそうです。少なくなったとは言え「お茶は急須でいれる」お客さんとも、長いお付き合いがあります。きちんとした仕事で細く、長く、という京都の商いの原点をみた思いがしました。

元気にやれるうちはがんばります

今も残る史跡、大原口道標
江戸時代、寺町今出川は大原口とよばれ今も道標が残っています。

お店のある寺町今出川付近は、昔は大原へ続く「大原道」の交通の要衝でもあり大いににぎわった地域でした。今も出町枡形商店街と鯖街道の縁をつなぐ企画など、地域あげてがんばっている魅力のある商店街です。
この京のさんぽ道でご紹介しました「いのしし肉の改進亭」も昇栄堂のすぐ近くです。すでに商売はたたんでいますが「傘」の看板が今も残る商家「貸布団」の看板、営業を続けられている理髪店など暮らしを支えてきた街道筋の商店の面影を残しています。

元傘屋さんの町家
元傘屋さんの町家

清水さん母娘は「もう、次の世代に継がせるのは無理ですね。お茶を飲む人も本当に少なくなりましたし。私たちにしても暮らし方はいろいろ変わりましたから、これまでと同じようにはいきません」と明るく仕舞う時の来ることを心に置いています。はたから見て「もったいない。なんとか続けられないのかな」「だれか受け継いでくれる人が出てこないかな」などと簡単に口に出せないことだと思いました。
でも、いつも飲んでいるお茶を指定して訪れるお客さんも何人もいて「ここがあってよかった」と喜ばれています。続けてほしいと思う人がいることは励ましになっています。
清水昇栄堂
建物や景観と生業は京都の重要な課題であると思います。当事者でなくても、それを何らかの形で享受してきた私たち一般市民はどう考え、何かできることがあるのか。これからも考えていきたいと思います。
惜しくもなくなる生業や建物があっても、それまでつないできた仕事や家族の様子を、この京のさんぽ道という、小さなブログの領域であっても大切に描き続けていこうと思いました。

 

清水昇栄堂
京都市上京区寺町今出川上る表町37
定休日 日曜、祝日