様々な人とつながり 伝統文化を後世へつなぐ

京都の紅葉が見頃を迎えています。哲学の道の桜や、京都市美術館の欅、堀川通の銀杏など街路樹も目を楽しませてくれます。また、秋は芸術、文化の季節。京都の伝統文化や作品、職人の仕事に多くの人がふれることのできる様々な催しが企画されています。京都に住んでいても、伝統文化とは縁がない、敷居が高いと思っている人も多いのではないでしょうか。
今回は陶芸の企画展示へ足を運びました。伝統を重んじながら革新し、継承されてきた「京焼・清水焼」の世界で、時代を担う30代、40代の人たちの活躍が注目されています。企画運営に携わった大学のプロジェクトの学生たちも含め、若い世代の動きに京都の底力とものづくりの可能性を感じます。

日本画家の理想郷の空間と京焼


大文字山の麓、哲学の道沿いにある「白沙村荘」は、日本画家橋本関雪が大正から昭和初期まで、半生をかけて完成させた邸宅です。10000㎡の敷地に、住まい、3つのアトリエ、茶室、持仏堂などが点在する関雪自ら設計した文人の理想郷であり、庭園7400㎡が国の名勝に指定されています。今回、京都非公開文化財特別公開とあわせて「創立60周年記念 京都伝統陶芸家協会展」が開かれ、一堂に会した京焼を代表する作家の作品を、間近で鑑賞することができました。

色づき始めた木々のあいだを縫って、足元に藪柑子の小さな赤い実を見つけたり、湿り気を帯びた苔の匂いを感じたり、自然を全身で感じながら最初の展示会場の関雪のアトリエだった大画室へ。ここはチャリティー展示即売の会場となっていました。事々しい照明はなく、池に面して大きく取ったガラス戸越しに光が差し込み、作品はそれぞれ自然な調和を見せていました。茶道を嗜んでいなくても、焼き物に造詣が深くなくても、このような出会いがあれば、やきものへの興味がわき、その楽しさや奥深さを感じるようになると思いました。

次の会場は、2014年9月にオープンした新美術館です。これは橋本関雪が晩年抱いていた「展示棟建設計画」をそのまま引き継いで建設されました。1階は100年ぶりに里帰りした関雪の作品、2階は、京都伝統陶芸家協会会員とその後継者で構成する「二凌会」会員の作品の展示です。日本の伝統工芸としての京焼をどのように復興、継承、創造していくかを追求して60年の協会です。高い技術、品位、伝統のなかに新しい息吹を感じる作品の静かな力がみなぎっていました。

テラスへ出ると大文字山が近くに見えます。今回の企画展を見て、京焼も白沙村荘も、先人が成し遂げた仕事、業績を受け継ぎ、現代に生かし、次代へとつなげていくことは同じ営みなのだと感じ、その大きさや重さを思いました。京焼が燦然と輝き、哲学の道沿いに自然と一体となった空間があることが、取りも直さず京都が京都であることの証の一つであると感じました。

京焼のまち五条坂、茶わん坂を訪ねて

今も残る登り窯の煙突

五条坂・茶わん坂ネットワーク主催の「京都やきものWeekわん椀ONE」は今年で第7回を数えます。各工房やギャラリーでの展示会、茶会、体験などが行われました。
五条坂・茶わん坂には京焼・清水焼に携わる陶器店、卸問屋、窯元がたくさんあり、歴史に名を残す陶芸家を排出してきました。やきものを通して地域の文化力を高め、広く国内外に知ってもらうことが街の活性化や繁栄につながると信じて地元の有志が集まり、起ち上げたのがこのネットワークの始まりだそうです。その活動のメインイベントが毎年11月に開催される京都やきものWeekわん椀ONEです。

現存する藤平窯の登り窯としつらえられた生け花

今年も実に多彩な企画がありました。裏面がスタンプラリーになっているマップを手に界隈をめぐり「登り窯ツアー」に参加すべく「藤平(ふじひら)窯」に行きました。
五条坂・茶わん坂界隈には現在、京都市が管理する藤平窯と河井寛次郎記念館に保存されているものを含め6基ほどが残っているそうです。藤平窯は明治42年(1909)に造られた長さ19mの大きな登り窯です。藤平窯のイベントは、京都造形芸術大学の「京焼・清水焼目利きプロジェクト」の学生のみなさんの企画・運営です。先輩たちが10年かけて地域に入り込んで取り組んだ「手仕事職人のまち東山プロジェクト」がひと区切りついたため、その後を受けてプロジェクトの内容を練り直し、京焼・清水焼に特化して新たにスタートさせました。

好きな作家さんの器を選んで抹茶と和菓子を

調査のために職人さんや販売店、窯元をピックアップし、取材依頼をすることから始まり、当日用のパネル製作やガイドの原稿作り、カフェメニュー等々、すべて11名のプロジェクトメンバーで担当したと聞いて、なかなかやるなあと感心しました。

京焼と清水焼の違いは何か。古くは粟田口焼、八坂焼など京都の各地でやきものが作られ、清水参道付近で作られたものを清水焼と言い、これらをまとめて「京焼」と呼ばれました。ところが、清水以外の所ではだんだん生産されなくなったため「清水焼」は残ったということです。現在は、五条・清水界隈、山科、宇治あたりまで含んで「京焼・清水焼」としています。
また、京都はやきものに使う土が産出しなかったため、他の土地から取り寄せた様々な土や釉薬を使ったので、磁器あり土ものあり、絵付けや形状も職人の創造性や技により、個性豊かなやきものが生まれたそうです。さらに、都であったため貴族や寺院の求めに応じて作ったことも関係しています。「京焼・清水焼」とひと口に言っても、本当に多種多様なものがあり、ここが他の産地との大きな違いです。こういうことをプロジェクトのスタッフから聞いて、なるほどと納得し、京都に住んでいても、知らないことがまだまだあると実感しました。

窯場は、素焼きの茶わんや絵付けまでした花瓶、筆や釉薬、松の割木など作陶していた時そのままの状態が残っています。登り窯の火の勢い、色、灼熱のなかでの作業など、当時の職人さんの息使いまで伝わってくるようでした。
窯いっぱいにして本焼きをするため、近所の工場のものも一緒に焼いて共同して仕事をしていたこと、本焼きに入る前はお酒をお供えして無事を祈った。それだけ窯場は神聖な場所だったことなど、取材でしっかり聞き出し、それを参加者にきちんと伝えていました。これからの京焼・清水焼について一生懸命考えている、ひたむきな姿に好感を持ちました。

細川未生流の流派のみなさんにより、登り窯の中やろくろ作業場などに、花が活けられていました。「登り窯のかたわらに」のテーマそのままに、登り窯の新しい舞台となっていました。
受付スタッフから、若い人も来てくれたし、近所の人たちがたくさん来てくれてうれしかった聞き、とても良い交流ができたなのだなと思いました。五条坂・茶わん坂界隈から、伝統を今の暮らしのなかで楽しみ、心を豊かにする動きが確実に起きていると知った登り窯ツアーでした。

個人・家族、地域で守ってきた文化資産

五条にある京焼を扱うお店はモダンな佇まいで年齢、国籍問わず訪れる人が増えています

五条坂・茶わん坂の登り窯や、窯元、卸問屋などの建物、銀閣寺道の橋本関雪記念館白沙村荘。長い年月住み続け、生業の場として使われ、京都の文化を伝える大切な宝です。
時代の変遷のなかで、経済環境や暮らし方が大きく変わるなかで継承されてきたのは、並大抵なことではなかったことでしょう。「保存と開発」は簡単に答えが出せるものではありませんが、そのなかで、五条坂・茶わん坂ネットワークや造形大の目利きプロジェクトのように地道な取り組みが行われています。
今京都市内では至る所でホテルや民泊施設の建設ラッシュです。そこに暮らす人たちの権利と良好な住環境を保障し、次世代へ何を継承し、守っていくのか大事な時期を迎えていると思います。「京都が好きな建都」は、これからも京都の歴史的文化的景観を大切にしながら、住んで暮らせる京都のまちづくりに貢献してまいります。