地元や氏子で守る 豊かな水の恵み

川の流れがやわらかな日差しにきらきらと輝いています。光の春の訪れです。まちなかを歩くと、京都は豊かな水の都であることをあらためて感じます。川や運河があり、名水の湧く井戸があります。伝統の生業や物資の運搬にと役割を果たして来た流れや湧き出る水は、今も枯れることはありません。身近にある水の恵みをたどりました。

歴史ある番組小学校の地域の「銅駝水」

二条大橋から見た鴨川
二条大橋のたもとから見る風景はまさに「山紫水明」。まちの中心部を流れる鴨川と、ゆるやかな山並みを見渡す眺めは、やはり京都の象徴です。そこから少し北へ行き、静かな通りへ入ると「銅駝会館の銘板のある建物の前に「防火用」のプレートと蛇口があります。これがおいしい水の名が高く、毎日多くの人が汲みに来る「銅駝水(どうだすい)」です。
銅駝水
この地域は明治2年(1896)に開校した「上京第三十一番組小学校」の歴史ある校区です。銅駝小学校、銅駝中学校、そして京都市立銅駝美術工芸高等高校(美工)となった今も、教育熱心で自治の意識の高い「銅駝学区」が継承されています。そして銅駝水も、銅駝自治連合会で維持・管理し、水質検査も受けています。
銅駝水
利用者からの募金の使いみちを美工の生徒が描いた楽しいイラストで紹介するなど、学校と地域とのつながりを感じます。水を汲みに来た方に聞くと「この水でいれたコーヒーは最高です」という答えが返ってきました。汲み終えると「いつもありがたく汲ませてもらってますので、わずかですけどね」と協力金を入れて帰って行きました。
一年中24時間、だれでも自由に汲めるおいしい水。それは「自分たちのまちは、そこに住む人も参加して一緒に考え、守っていく」という地元のみなさんの努力のたまものです。150年余の歴史を刻む番組小学校の自治の伝統が脈々と受け継がれています。
京都市立銅駝美術工芸高等学校
銅駝会館に隣り合う京都市立銅駝美術工芸高等学校、通称美工は、日本で最初の画学校として明治13年(1880)に創立されました。校舎は昭和14年(1939)に7年かけて完成したコンクリート造りアールデコ様式のモダンな建物です。千年の都、京都は近代建築もしっくり調和するまちです。これからも美工と銅駝水が、地域のつながりの象徴として存続することを願っています。

疫病退散、怨霊を祀る神社の伝承の水

下御霊神社の鳥居
墨、お茶、骨董などの和文化の老舗と、明治創業の洋菓子店や画廊、ハンドメイドの雑貨店など和と洋、新旧が一体となった寺町通は、さんぽ気分でゆっくり歩いてこそ感じられる魅力があります。
朱塗りの鳥居を構えさらに正門、拝殿、本殿へと続く土塀をめぐらせた神社は、平安時代初期の神泉苑での御霊会を起源とする下御霊神社です。冤罪によって亡くなった菅原道真公をはじめとする七人の貴人の怨霊をなぐさめ、疫病厄災を退散させる「御所の産土神」として天皇、貴族、町衆に敬われてきました。
下御霊神社の手水舎下御霊神社の手水舎
正門を入ると手水舎があり、清らかな水がたたえられています。この水は、江戸時代の明和七年に京の市中が旱魃に見舞われた際、下御霊神社の神主さんが夢のお告げによって境内を掘ったところ清冽な水が湧き出て、人々に飲ませることができたと伝えられています。井戸の跡は残りませんでしたが、この当時と同じ水脈の地下水が「御霊水」名付けられ、今も多くの人がその恩恵にあずかっています。手水舎は手入れが行き届き、柄杓を置く青竹がいっそう清浄な雰囲気を漂わせています。

平成の始めに御霊水として復活してから毎日、汲みに来ているという方と出会いました。「名水と言われる他の所のお水も汲んで来たことがありましたけど、主人が、ここのお水でいれたコーヒーが一番や、よそのやと味が変わる言うて」と、少し微笑んで話してくれました。そして「それで毎日汲ませていただいて、主人にお供えしています」と続けました。
下御霊神社の梅下御霊神社
境内は八重咲の紅梅が咲き誇っています。社殿は宮廷神殿を伝えるものとして貴重であり、大門の梁の龍や、玄武と朱雀に乗った仙人の彫刻など、見どころもたくさんあります。これだけの建造物を、修復を重ねながら維持保存していくのは並大抵のことではないと思います。御霊水を汲みに来るみなさんも含め、ぜひ多くの人に身の回りの歴史に関心を持ってもらい、協力してもらえたらと思いを強くしました。

水と親しく暮らす京都の水の文化

高瀬川一之船入
高瀬川沿いの桜のつぼみの先が、そろそろふくらみ始める頃になりました。川べりにぼんぼりが灯る桜の時期の風情、また力強い若葉が影をつくる頃の散策も楽しいものです。
物資を積んだたくさんの高瀬舟が行き交った川は、今の時期立ち止まる人もなく静かに流れています。観光用に飾られたものではない、もとの京都の姿を感じられます。
以前、高瀬川を開いた角倉了以の子孫の方が「了以が考えていたことは、高瀬川から淀川を下り、外国へ出たかったのではないか」と語られていたことが今も記憶に残っています。先人の抱いた、苦労にも勝る夢があったことは、今を生きる私たちにも大切なことを教えてくれている気がします。

食文化、染織、農業など水とかかわる仕事は多くあります。水が磨き、育んできた文化とも言えます。身近に川が流れ、おとうふやお酒、お醤油が地元で作ら京野菜が育てられる、この京都の水の文化を大切にしていきたいと切に感じました。

 

下御霊神社
京都市中京区寺町丸太町下る下御霊前町634