椿は梅と並び、古くから愛されてきた花です。余寒のなかで凛として咲く姿は字のごとく、春の訪れも感じさせ、私たちの心に響きます。山に自生する椿の大木、お寺の参道の落ち椿の美しさなど、その光景が目に浮かんできます。
冬から春にかけてのお茶席には、椿が入れられ、侘助、白玉など、その名も深い趣があります。奥の深い花、椿の事始めは広大な敷地の中に椿園がある、八幡市の「松花堂」から出発します。
伝統建築と、竹の文化と技術の継承
松花堂は、22,000㎡の広大な庭園です。石清水八幡宮の社僧であり、茶の湯、書、絵画をよくした江戸時代初期の代表的な文化人、松花堂昭乗の草庵「松花堂」や寺坊の一つ泉坊の書院が、明治政府の「神仏分離令」により、男山から取り払われた際に東車塚古墳にある現在の地へ移築し、整備されたものです。幾多の変遷をたどりながらも守られ、平成26年(2014年)には「松花堂及び書院庭園」が国の名勝に指定されています。
2018年の地震と台風被害により、草庵「松花堂」泉坊書院、東車塚古墳のある内園区域は、残念ながら修復作業中で見学ができませんでした。そこで、まぶしいほどの日差しのもと、ゆっくり庭園をめぐりました。
松花堂庭園には、梅や椿、もみじ、などが季節ごとに楽しませてくれますが、約40種類の竹や笹が植えられています。八幡と竹は、エジソンが電球のフィラメントに使ったように質の良いことで知られます。
「金明竹(きんめいちく)」という、節に緑と黄色が交互に入った竹や、節が亀のこうらのようにねじれた「亀甲竹」という竹など、珍しい竹が見られます。また、柵やしおり戸、鯉が泳ぐ池の竹組など、あちこちに伝統の職人技を見ることができます。
利休の孫にあたる千宗旦好みの四畳半の茶室を再現したという「梅隠」の内部は、行灯の周囲だけがほの明るく、陰翳が広がる静けさが漂う空間でした。外の伸び伸びとした明るさとの対比がくっきり浮かび上がっていました。
つくばいに設えられた「水琴窟」の響きは、宇宙的とでも言うような感じがします。耳を澄ますという行為そのことが今の日常には、なかなかないことです。小鳥のさえずりと、水琴窟の響きが聞こえ、馬酔木の鈴なりの花房が、かすかな音をたてているようでした。
気品、可憐、華やか。百花百様の椿
園内の300本を超えるという椿は、花の盛りを過ぎた種類もありましたが、青々とした苔と落ち椿の対比は、やはり風情のあるものでした。
椿は江戸時代に一代ブームが巻き起こり、公家や大名、市井の富裕な人々が競うように珍しい椿を育て、鑑賞したそうです。そして、絵画や書、図録、また工芸品、着物や装飾品など身の回りのものにも椿の意匠が用いられていきました。昭乗は、茶の湯もよくしたので、多くの茶人と同様、椿を愛でたことでしょう。松花堂の庭園に様々な椿が植えられているゆかりです。
園内の椿を見ていくと、赤でも鮮やかな赤、少し黒味を帯びたような赤、紅色、薄紅色、白、絞りなど本当に微妙です。花の開き方や花芯も様々です。そしてやはり花の名前にもひかれます。「白楽天」「京雅(きょうみやび)」「燭光(しょっこう)」「細雪」「一子侘助」「常照皇寺早咲き籔椿」「霊鑑寺早咲き籔椿」など、ひとつひとつその花に込めた思いや由来を想像してみます。白地に赤い縞模様の華やかな椿は「鹿児島」という名前でした。来歴や命名の由来など興味は尽きません。
一度では、椿園のほんの一部しかわからないのですが、中に特に心に残った名前がありました。「玉之浦」です。そこで帰ってから調べてみると長崎県の五島列島で発見されたということがわかりました。美しい五島の海と玉之浦という名前はみごとに一致していました。
東高野街道再訪、長崎の五島の椿
松花堂は東高野街道の地点にあります。庭園を出てから街道を石清水八幡宮まで歩きました。一の鳥居前は変わらず「走井餅老舗」がお店を開けています。門前の茶屋の風景は健在です。二の鳥居近くの和菓子屋さん「みささ堂」さんへむかいました。こちらも夫婦お二人で変わりなく元気にお餅を作っています。
毎日お餅を搗く石臼、重い杵、餅箱も現役です。餅箱には「昭和拾参年」「拾弐月吉日」と墨文字がうっすら見えます。「昔の道具は、長く使えるように作ってあるから、丈夫。今も現役」と笑っていました。「杵は最近重い杵が作られてないので、今あるのを大事に使わんとね。本来の道具はこうでないと」と続けました。全部がお店を続けるための大切な相棒です。二の鳥居の近くにも二種類の椿が咲いていました。
八幡へ行った次の日「玉之浦」を調べることにしました。
以前、五島列島の福江島出身の方から、地元の話を聞いた時、椿の話も出てきました。春になると籔椿が島にたくさん咲くこと、髪は椿油で手入れをしていることなど、にこにこと、ふるさとの福江が本当に好きなのだということが伝わってくる話ぶりでした。
福江島は、今は五島市となり、市役所の農林課には、なんと「椿・森林班」という部署があります。電話をすると、椿担当の職員さんがとても丁寧に話してくださいました。美しい椿「玉之浦」には、島のみなさんがその教訓を今も大切にしている物語がありました。後に玉之浦と命名された椿は、昭和22年、炭焼き職人さんによって山で偶然発見されたものでした。
「玉之浦」は五島市になる前の旧町名です。その玉之浦の町長さんを長く務められ方が引退後、山歩きを楽しむなかで、その椿の姿に強く心をひかれ、大切に育て、乞われて全国椿展に「玉之浦」と命名して出品したところ広く世に知られるようになりました。
赤い花びらに白いふちどりの、この椿は大変な人気となり、枝や根を切られるなど酷い行為により、母木は枯れてしまうという無念な結果になってしまいました。しかし、その子孫が根付き、地元のみなさんにより、種を絶やさず今も玉之浦で美しい花を咲かせているそうです。
また、玉之浦の二つの地区では、毎年1月23日に、その年の豊作を願う伝統行事「大綱引き」があり、その綱の真ん中には椿の枝がさしてあるそうです。ほかのお祝い行事にも椿を使うとお聞きし、とても雅で五島のみなさんの椿を愛す心にあふれていると感じました。
五島市の市木はやぶつばきです。椿が咲く景観をとても大切にされています。そして現在も10社ほどが椿油を製造所しているそうです。今もこのように自然の恵みを暮らしに役立てていることはすばらしいことです。五島は暖かいので今年も2月下旬には椿が咲き、とてもきれいだったそうです。「今は旅行ができませんが、コロナが収束したらぜひ島へお越しください。お待ちしています」と、うれしい言葉をいただきました。
電話口からも、五島の美しい風景とあたたかい人柄が伝わってきました。椿事始めの初回は、豊かな気持ちで満たされました。
松花堂庭園・美術館
八幡市八幡女郎花43-1
会館時間 9:00~17:00
休館日 月曜