歴史を刻んで400年 西国街道の旅籠

京都の東寺口から現在の向日市を通り、西宮から西国へ至る、古代から重要な道であった西国街道。この街道に面して、400年にわたって歴史の変遷を見つめてきた旅籠があります。
宿としての生業を終えてなお、所有者の方の厚意と、ボランティアや会場として利用するみなさんの熱意により、人を呼び、人がつながる場としての新しい使命を得ることができました。だれもが気軽に立ち寄って、お茶飲み話ができる場所として実を結ぶことができました。

その歴史的建造物「富永屋(とみながや)」で行われた2日間限定のカフェと「おくどさんで作るできたてお豆腐と炊き立てごはん」の企画に参加して来ました。

西国街道沿に発展した向日町の富永屋

緑あふれる向日神社の参道

向日町は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、物資や軍勢を送るために街道を拡張、整備した時に、京を発って、ひと休みした向日神社の門前に町をつくることを認めたのが始まりとされています。江戸時代には、乙訓の商業や文化の中心として大いに栄えました。西国大名の参勤交代、西山の寺社の僧侶や参詣する人々、物資の運搬などなど多くの人々が行き交い、旅籠をはじめとする商いをする家が建ち並び、賑わいを見せました。今も、常夜灯や道標、いにしえの街道の面影を残す家並みなどに、当時をしのぶことができます。

富永屋の貴人口

「富永屋」は、今から約400年前の元和2年(1616)には、向日神社の向かい側で、すでに旅籠を営んでいたという記録が残っています。
建物は、享保20年(1735年)の棟札が伝わり、280年前に建てられた当時の店構えをそのまま今に伝え、しかも同じ場所にあるという大変貴重な遺構です。
建物の南側にある貴人口は、富永屋に名のある方々が来られたという格式を誇る証です。
実際に、武士や位の高い僧侶、細川藩のお姫様、朝鮮通信使などの名前が古文書に載っています。建材に赤い塗料が残っていて、恐らく以前は鮮やかな弁柄が塗られていたのだろうと推察されています。お姫様のきらびやかな行列と鮮やかな弁柄の色を想像してみると、華やかな絵巻が繰り広げられるようです。
また、伊能忠敬は、文化11年の測量日記に「向日町より法華檀林及び向日大明神打ち上げ」宿泊場所を「富永屋甚左衛門」と書き記しています。先日も、伊能忠敬ファンの方が訪ねて来られたそうです。豊臣秀吉も休憩したであろうこと、また最後の江戸将軍一橋慶喜も、富永屋で休憩したことが古文書にあります。綺羅星のような歴史上の人物が、今私たちがいるこの富永屋にひと時、くつろいだのかと思うとどきどきしてきます。

建物の構造や内部の造りも、大変しっかりしています。室内の壁は青壁の部分が見られます。左官職人さんによると、かつて京都では、青い粘土が掘り出されていたということです。
欄間の彫刻も、建てられた280年前のものと思われ、匠の技が光っています。自然のままの曲がりのある太い梁や柱は、山で「この木」と見極めることのできる棟梁の仕事です。細部まで、職人の魂のこもった仕事ぶりが訪れる人にその、かけがえのない存在を訴えています。

また、江戸期のものだけでなく、建具のガラスや天井の電球や笠は大正時代のものだそうですが、とても味わいがあります。建物も、中の調度品も、旅館・料理屋であった暮らしぶりや息遣いが感じられるものばかりです。すべてが歴史を伝える宝物です。
威圧感や冷たさではなく、暖かく旅の人を迎えた旅籠のような、ほっと一息つける空間です。また、屋根裏から籠にいっぱい詰められた古文書や、100年から200年まえのものと思われる、御所うちわの下張りが大量に発見されるなど、次々と、歴史の宝が発見されています。

地域のよりどころとしての富永屋の再生


富永屋は、10年ほど前にいったん取り壊すことになりましたが、取り壊す前に一般公開され、初めて建物の中へ足を踏み入れた地元のみなさんが「こんな、りっぱな建物を何とかして残したい」と「とみじんの会」を結成されました。
「とみじん」は、江戸時代の当主、富永屋甚左衛門からのネーミングです。所有者の方の厚意のもと、ボランティアで様々な企画を行ってきました。

一番目を引く、おくどさんを使えるようにしようと、8年前に、日本の名工の職人さんの指導のもと「おくどさん修復講座」を開きました。みごと、おくどさんは現役復帰して、以来「おくどさんの炊き立てごはんを食べよう」を始め、体験企画に大活躍してきました。これまで10年間、古文書を読む会、講演会、煎茶の会、手づくり市、カフェなどに活用され、人が集まる地域のコミュニティーセンターの役割を果たしてきました。近隣小学校の校外学習の場、「西国街道雛めぐり」の会場、また、ツアーの見学先として、たくさんの人から「こんなすばらしい所があるなんて」という声が寄せられてきました。
このように、みんなが集まれる場所として認められた富永屋の建物ですが、劣化と昨年の地震と台風による被害で大規模な修繕が必要になっています。修復と維持には莫大な資金が必要です。個人での維持を断念され、取り壊しが知らされました。

「最後の」と付けた「かまどで作りたて豆腐と炊き立てごはん」の会は大盛況でした。たきぎの燃える匂い、パチパチと火のはぜる音、煙り。実際に使われるおくどさんを目の前にする経験は得難いものです。みんなで、わい言いながら頂くから、なお美味しい。
口々に「こんなすごい所がなくなるなんて本当にもったいないね」と言われていました。富永屋を会場に、3年前から、カフェとオリジナルのアクセサリー販売を定期的に開いている村上亜紀さんは「人が人を呼んで、知らない人同士でも、みんなのんびりゆっくりできるすばらしい空間です。人と人のつながりが薄れている今ですが、本当はみんなつながりを求めていると感じます。ここへ来てリフレッシュして、またやっていこうと、なってくれたらうれしいです。そんな井戸端会議的な場所になっていると思います。富永屋をなんとか残せる道はないのかと思います。由緒ある建物の畳の上、おとなも子どもも寝転がって、なんて他では考えられないです」と、語ります。

とみじんの事務局長を務める寺崎さんは、庭のひいらぎの木をさし芽にしたポットを作り、希望者に渡しました。親木も、これからも、また良い香りを漂わせてくれるようにと願って。
時代の急激な変化のなかで、様式や目的の違う歴史的建造物を、ことに個人で維持していくことは並大抵のことではないことは想像に難くありません。また、今は何とかできても次世代に重荷を預けることになるという気がかりもおありでしょう。「個人では限界」これに対して回りの私たちは何をすることができるのか。富永屋の解体はそのことも、問いかけています。

真ん中が富永屋のキャラクターのチリボウズ

富永屋には「チリボウズ」というキャラクターがいます。400年前から富永屋の屋根裏に住んでいますが、時々落っこちてしまうあわてんぼうです。このチリボウズが、これからも屋根裏に住み続け、樹齢数百年のやまももの木が、富永屋の目印として立ち続けることができますように。残された日々ですが、感謝を込めて、すばらしい富永屋について考えてみたいと思います。