こんなのがほしかった 洋服生地の着物

たくさんの人が着物姿で、京都のまちのそぞろ歩きを楽しんでいます。うきうき、うれしそうです。「着物を着てみたい」と思う人は多く、観光地でのレンタル着物体験はちょうどよい機会になっていると思います。

「気軽に着られて普通にかわいい、手ごろな値段の着物があったらいいのに」こんな思いをかなえてくれたのが「ミミズクヤ」の、ありそうでなかった洋服生地の着物です。お店は祇園祭の「郭巨山(かっきょやま)」の鉾町内「膏薬辻子(こうやくのずし)」という、まことに京都らしい路地にあります。着物の新しい窓を開いた、ミミズクヤ店主、花山菜月さんに、おしゃれの選択肢の一つとして楽しむ着物のことや、京都の真ん中のご町内のことなど、たくさんのお話を伺いました。

「店を開きたい」夢をかなえる


四条烏丸の近く、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうな路地は、一瞬、よそ様の敷地内へ足を踏み入れるようで「お邪魔します」という気持ちで、一歩路地へ入ると、落ち着いたたたずまいを見せる家が並んでいます。その中の一軒は、窓越しにすてきな柄のうちわが見え、何やらおもしろそうな、心を引かれる雰囲気をまとっています。屋号は「ミミズクヤ」と、木製の小さな銘板がはめ込まれているだけです。

中へ入ると、畳の間と土間に、着物や帯に羽織、下駄、うちわ、帯留めや半襟、そして帽子やがま口バッグなどの小物まで、わくわく、どきどきするアイテムがいっぱいです。「今度こんなの着てみたい」「この組み合わせもいいかも」と、これまで持っていたおしゃれの枠が、自然と取り払われていきます。デザインや色あいがモダンでかわいいだけでなく、一点一点が商品としてきちんとしっかりしていて、しかも買う側にうれしい価格設定になっています。ミミズクヤというお店の骨格の確かさを感じます。

花山さんは、大学では心理学を専攻し、目の錯覚について勉強したそうです。「目に見えていることが正しいとは決まらない。ものの見方、とらえ方を大学で学びました」と語ります。そして、みんなから聞かれる「なんでミミズクヤなの」については、先輩に「チュンチュンさえずらないところがミミズクに似ている」と言われて、気に入っていたので決めたそうです。お話を聞いていて、心理学と物静かなミミズクもどこかイメージが重なるし、なるほど、これ以上の店名はないだろうと感じました。

花山さんは、学生時代から喫茶店や雑貨屋さんなど、様々なお店めぐりをして、店主も、やって来るお客さんも個性様々で、人と人が集まる楽しい空間が生まれていることに素晴らしさを感じていました。そして「いつか私も、いろいろな人が集まる店を開きたい」という思いが芽生えました。ものを作ることが好きだったこともあり、布地も素材の一つと、大学卒業後は布地の専門店へ就職しました。面接で「将来は店をやりたい」と宣言し、毎月きちんと貯金もしていたそうです。会社では、サンプルの製作やワークショップの担当、生地の仕入れまで、一連の経験を積むことができました。サンプルとして洋服生地の着物を作ったら大好評でした。「反物にはない自由な柄付けや配色。そして安く、洗濯も家でできる。気軽に着られて、洋服の小物を合わせたり、帯結びも工夫できる」自分自身もほしいと思う、着物や帯が生まれました。木綿のワンピースやシャツのように着心地がよく、身近で気軽だけれど、洋服とは違うかわいさ、おもしろさを楽しめるオリジナルです。
ミミズクヤの商品が、布地という素材を理解し、それぞれの布の特性を生かして作られているのもうなずけます。また、「商品をお客さんに売る」ということの本質も、この時に勉強されたのだと感じました。「良い会社でした」と花山さん。かくして2014年3月、満を持して「ミミズクヤ」を開店しました。

人のつながりから生まれ集う商品たち


ミミズクヤには、下駄やうちわ、着物姿のおしゃれ度が増す素敵な帽子や帯留めなど、着物まわりをアレンジする小物も充実しています。それはすべて人とのつながりで、生産者やデザイナーのみなさんと、良い出会いがありミミズクヤに集まっています。実際に産地へ赴いたり、顔を合わせて打ち合わせをするなかで、また新しい商品が生まれます。

たとえば、広幅の洋服生地で着物を作ると端切れが大量にできます。これを何とか活用したいと考えたのです。うちわは有名な産地である丸亀市、下駄はこれも伝統のある大分県日田市に発注しています。端切れをうちわの地張り、下駄の台張りや花緒にして、モダンで新鮮な、ミミズクヤらしいオリジナル商品が生まれました。食材を最後までおいしく使いきる、京都の「始末」につながっているようにも感じます。

また、花山さんは何十パターンもある生地に一つ一つ名前を付けています。そのネーミングがユーモアがあって、とても楽しいのです。紫の地色に白く細かい水玉は「ぶどうサワー」ピンクやオレンジの模様がよく見るとアイスクリームのコーンに見える生地は「アイス小紋」そして「目玉焼き」「手裏剣」「ドロップスドット」など、着物選びをいっそう楽しくしてくれます。これらのタグやポップもみんな花山さんの手書きです。

ボディにはアクセサリーのような感覚でバッグや帽子がセットアップされています。最近は同世代の若い人が、お母さんと一緒にお店に来ることもよくあるそうです。お母さん世代の人も、洋服生地のお手頃価格の着物なら、思い切って冒険もできます。ミミズクヤは、着物に抱く様々なイメージを良い意味でくつがえし、すそ野を広げています。

町内の一員としてルールを守る


久しぶりに降った雨に、路地の石畳がしっとりと濡れています。この路地は「膏薬辻子」という名前がついています。辻子とは大まかに、大通りから入り、折れ曲がって通り抜けができる路地とされているようです。膏薬とは、ずいぶん暮らし密着の名前がついたものですが、膏薬辻子のあるあたりは、天慶の乱で戦死した平将門の霊を鎮めるため、空也上人が道場を開き「空也供養」の地となりました。その「くうやくよう」が訛って「こうやく」となったと伝えられているそうです。

この町内はかつては、実際にお住まいのお家ばかりでしたが最近は店舗も増え、ホテルも建設されました。京都の町並みと住環境の保全が課題となるなかで、膏薬辻子の町内は、江戸時代に町内のルールを定めた「町式目」に習い「膏薬辻子式目」をつくり、大きく張り出されています。その式目には「新釜座町にお住まいの方や土地や家屋をお持ちの方、および店舗経営者や従業者は安心と心地よさのなかで住み続け、営業をし続けるために、先人達から受け継いだ静かさや美しい町並みに代表される風情ある良好な住環境を守ります」と書かれています。花山さん達、店舗として建物を借りて営業をしている人たちも、門掃きや清掃など町内美化を心がけています。お借りして営業のかたちで活用することで、町家も息をつなぐことができます。

京都の夏はまた各段の暑さですが、表に打ち水をすると裏の坪庭の方へ風が通り抜けるそうです。「本当に京都の町家は兼好法師が言う通り、夏を旨として建てられているんやなあと実感します。そのかわり冬は寒くて寒くて、アイロンがけの作業を多くして暖をとっています」と笑いました。そして「ここへ来るとみんな、ゆっくりのんびりされてます」と続けました。店主とお客さんの良い間合いが生まれる空間です。このお家も、ご家族でお住まいだった町家です。とても良いご縁があってお借りすることができたそうです。漆喰の壁やどっしりした柱や建具など、この空間と着物や帯が心地よく調和しています。
住む人だけでなく、訪れる人もまた、先人達が残してくれた京都の美しい町並みを大切にする心がけを忘れてはいけないのだと「膏薬辻子町式目」は諭しているようです。建都も、それぞれの町内のみなさんのその時々の課題を解決し、住みやすく美しい京都を継承するために、一層努力をしてまいります。

町家で学ぶ 普段の京都の家庭料理

草木の緑が勢いを増し、梅雨入りまでの間の、心地よい季節になりました。
商店街のお店には、目利きの主人が仕入れた野菜や魚が並び、気軽に今日のご飯ごしらえの相談に乗ってもらえます。
そんな頼りになる「京都三条会商店街」のすぐ近くの町家に、控えめな看板がかかっています。実家は三条会の鮮魚や乾物を扱う食料品店、この地で生まれ育った山上公実(やまがみひろみ)さんが主宰する「キッチンみのり」です。京都の家庭料理や保存食の教室、暮らしに役立つ講座が開かれ、食を通して人が出会い、つながる場となっています。

乾物や旬の素材を知るきっかけに

キッチンみのり主宰の山上公実さん

山上さんは、飲食店で調理の仕事に就いた後、2016年11月に、築90年の自宅で「キッチンみのり」を開きました。旬の地場野菜や魚、乾物を使った、体に良くて食べあきない、そして経済的な京都の家庭料理に、薬膳の知恵や、山上さん自身がおいしいと思った、他の国の味も取り入れた料理を提案しています。

乾物は栄養価も高く保存がきき、便利で優れた食材です。山上さんも子どもの頃からお母さんが作る、乾物を使ったおばんざいの味に親しんできました。しかし「もどし方がわからない」「どう使ったらいいかわからない」という人も多いことから「乾物クッキング」に力を入れています。干しいたけや昆布、豆などおなじみの乾物を、和風はもちろん、洋風、中華風にとバリエーションを持たせた使い方を提案し、「いろいろ応用できる」と喜ばれています。いずれもシンプルで、いちいちレシピを見ないでも、家ですぐ作れるように考えられています。
「味付けは食べる人の好みに合わせればいいし、繰り返し作っていくことで、その家の味になっていきますね。」と、山上さんは語ります。身近な素材を生かした、肩ひじの張らない健やかな家庭料理の教室です。

乾物クッキング以外にも、魚のさばき方教室、みそや梅の仕込み、季節の養生ごはんなど、楽しく学べて暮らしに役立つ教室が開かれています。また、食材だけではなく、オリジナル鰹節削り器作りや、食器の簡易金継講座、木桶職人さん、森林組合の方の木の話など、食にまつわる道具や技術にまで及ぶ、興味深い魅力的な講座が開かれています。
講師は、農家さんや蔵主さん、山上さんが関心のあるワークショップなどへ参加してつながりができた人たちです。
「自分がいいなと思うものをみんなでシェアする感じ」で、広がっていきます。

ダイシン食料品店三代目の山上顕司さん

毎回大好評の魚のさばき方教室の講師は毎回大好評の魚のさばき方教室の講師は山上さんの弟さんで、実家のダイシン食料品店三代目の顕司さんです。親子で参加したいというたくさんの声に応え、包丁を使わず簡単にできる「いわしの手開き教室」が開かれました。
ダイシンから届いたトロ箱に入ったピチピチのいわしを前に、最初は遠巻きにしていた子どもたちも、すぐに手開きできるようになりました。開いたいわしはハンバーグや照り焼き、つみれ汁、骨は骨せんべいにしてみんなでいただきました。「めっちゃ楽しかった」この教室の後、「いわしを買って帰ってお父さんに教えた」「海釣りで釣れた鯵をさばいた」など、うれしい後日談が聞けました。
今、魚の原形を知らない子、魚嫌いの子が多いと言われていますが、それは「機会がないだけ」なのです。おいしくて体にいいものには体が反応します。

乾物も魚も、ちょっとしたきっかけがあれば、その良さやおいしさをわかってもらえます。キッチンみのりの教室やワークショップは、そのきっかけとなっています。そして、みんなで、わいわい楽しく学び、ご飯をいただくなかで「おいしい食べ物は、やっぱりきちんとと伝わっている」と確信することができています。

築90年の町家という場の支え


5月の気持ちよく晴れた日、乾物クッキング昆布の会が開かれました。出汁のみの使い方をしていることがほとんどの昆布を、そのまま使って食べる、昆布の活用をテーマにした教室です。始めに、昆布の栄養や産地と種類、それぞれの特徴と、使う主な種類の関東と関西の違いなど、これを聴講するだけでも「昆布=乾物って奥が深い、偉い食材なんや」と感心します。この日はデザートも含め、6品を作りました。昆布を余すことなく使い切り、栄養面なども考え、他の食材と組み合わせて活用できるという、発見がいっぱいの昆布編です。

4組2人ずつ組んでの調理は、初めて顔を合わせた人同士でも和やかにスムーズに進みました。2回、3回と参加されている人がほとんどで、毎回参加の方も。
リピーター率の高さも理解できます。
出来上がった昆布料理を囲んでの食事は、とてもおいしく楽しいひと時でした。この日は、台湾の料理研究家の方の参加もあり、ちょっとした国際交流もできました。

奥に長い台所で後片付けをしながら「天井の高さがすごい」「いい光が入ってくるね」「あんなに煮炊きしたのに匂いや空気が全然こもってないね」と町家の構造のすばらしさを実感されていました。ゆっくり静かな時間が流れ、坪庭の美しい緑に目をやり、障子や畳のある部屋でくつろがせていただきました。

山上さんから「次回取り上げる食材はあらめです。8の付く日に八の末広がりのめでたさから、良い芽が出るようにと食されてきた食材です。」という教室の紹介も、しっくりきます。

床の間の材や欄間の彫刻など、細部にも凝った造りがなされていますが、山上さんは、堅苦しい使い方はされていません。スパイスや仕込みものを入れたガラス瓶や壺も、いい感じに収まり雰囲気のある空間が生まれています。
現在、中へ入ることができる町家は、実際に住んでいない、見学のために開けている町家が多いと思います。山上さんは、料理教室に来て「普段住んでいる町家」も見てもらえたらと思っています。参加者のみなさんは、畳と障子に壁、すべてが木と紙と土で成り立っている建物に「落ち着くし、ほっとする」と口々に言われていました。「この町家という場に支えられています」と山上さん。食を通した生き方やつながりの場として、築90年の町家は新しい役割を得てがんばっています。

普通や普段を大切にする暮らし


山上さんの実家のダイシン食料品店の平日の午後3時。お客さんの波が一段落する時間ということですが、料理人さんが二人、三人とバイクや自転車でやって来て、三代目の顕司さんや料理人さん同士、話しながら品定めをしています。
この日は、週に4日、網野から直送の旬の魚が入る日に当たっていました。「ここはいい魚を置いているので、いつも来ます」と全幅の信頼を置いています。ご近所らしいお客さんも、もう晩ご飯の買い物に来始めました。
「かつおの刺身を1パックとっといて。後で来るし」「85歳やけど、10分くらいやし歩いて来てる」と、常連のお客さんたち。きりっと美しく、素人目にも「ぜったい旨い」とわかるお刺身や、料理人さんも買って行く素直においしいお惣菜も次々並んでいきます。

右端が一般的には甘鯛と呼ばれる「ぐじ」です。ぐじを店に置くのは京都の魚屋の矜持

顕司さんが、お店を継いだのは20年前のことです。番頭さんが定年を迎えることになり「今なら教えてやれる」ということで、サラリーマンを辞めてお店に入り、番頭さんについて中央市場へも行き、魚のプロとして必要なことを身につけました。
「小さい頃から見ていたし、食べることも好きやから、店へ入ったことは、そんなにたいそうに思わなかった」そうです。そして「うちは普通の魚屋なので、地域密着で、地元の人が普段にいるものが揃う店であればいいと思います。身の丈にあった商売を自信を持ってできることを大事にしています」と、考えは明快です。
一方、プロの料理人さんが目当てにやって来る丹後直送の魚は、家庭用では扱えない、おもしろいものを仕入れるのが、魚屋としての醍醐味です。高級魚の部類に入る“ぐじ”があったので「普段でも“ぐじ”があるのですか」と聞くと「京都の魚屋は“ぐじ”を置いています」と、きっぱり返ってきました。それが何とも恰好がいいのです。そして「仕入れは網野直送もありますし、全国から魚が集まる中央市場からも入れています。こだわりの京と、まちの魚屋として必要とされるものの仕入れのバランスですね」と続けました。

奥さんの麻衣子さんが自転車で「すぐそこなので」と、高齢の一人暮らしの方のお家に注文の品を届けに行きました。
山上さんも子どもの頃、お母さんについて近所へ配達に行った時「毎度おおきに、ダイシンです」と言うと「お使いか。えらいな」とほめてくれたそうです。その思い出を聞いた時、そこに、お母さんの味と同じように、山上さんの料理の原点を感じました。
「季節の養生ごはん」の「養生」という言葉に込められた思いも伝わってきます。「軸にするのは、家庭の料理をおいしく健康に」とぶれることがありません。「京都ブランド」という名前やイメージにおもねることなく、本当の京都の暮らしを支え、大切にする山上家のみなさんの仕事にすがすがしさを覚えます。
京都というまちの良さを生かしながら暮らしていくことに、目を向けていこうと気づかせてくれた取材でした。建都も、まちと人のつながりを大切にする中小企業として、さらに地域に貢献してまいります。

 
キッチンみのり
中京区姉大宮町東側102

ダイシン食料品店
京都三条会商店街内

西陣の京町家 古武邸の端午の節句

薫風、青嵐、青東風(あおこち)。若葉の薫りを運び、木々を通り抜ける風の名前です。日本では、風の名前にも豊かな自然が織り込まれています。
季節が初夏へと移る時、夏の始まりは端午の節句と重なります。子供の日とセットのようになっていますが、邪気を払い、男の子の健やかな成長を願う心が込められた行事です。
お雛様は家族の楽しい思い出のよすが」で、愛らしい木目込みのお雛様を見せていただいた古武さんの町家に、りっぱな五月人形が飾られました。鎧兜から調度品に至るまで、千二百年の都の伝統と職人技の粋と品格を、見事にあらわしています。

宮中から出て庶民のもとで育まれた行事


「端午」の端は、はし、始まりを意味し、毎月最初の午の日を指していましたが「午」が数字の「五」と読みが同じであったことから五月五日に定めたとされています。また中国では「偶数は縁起が悪い」とされ、奇数が重なり偶数になる日を特別な日として、その季節の植物や食べ物の生命力で災いを避けるために神様に供物を捧げました。これが日本に伝わり、平安時代に宮中や貴族の間で、さらに武家、そして庶民へと広がっていきました。
一月七日人日「七草の節句」、三月三日上巳「桃の節句」、そして五月五日が端午「菖蒲の節句」です。もう一つ、九月九日重陽「菊の節句」を合わせて五節句として、大切な行事とされてきました。節句は季節の区切りをさしています。

古武さん宅の兜と菖蒲をあしらった抹茶茶碗

五月五日は旧暦では今より約1か月後、梅雨入りの頃、田植えの季節となります。そこで端午の節句には、軒によもぎと菖蒲の葉を差し、その香りで邪気を退散させ、豊作を祈りました。やがて武士の世の中になり、「菖蒲」の読みは、武道や武勇を重んじる意味の「尚武」と同じことから、武家の中に広がり、江戸時代には今の端午節句の様式になったようです。
鯉のぼりも「登龍」という激流を勇ましく鯉がさかのぼったという中国の故事に由来します。「登竜門」はこれから生まれた言葉です。このように、武門の誉れ、立身出世、つまりは男の子の成長と家の継続繁栄を願う象徴として祝うようになりました。

さて、古武さんのお家の五月人形は41年前、ご長男の初節句に、有職人形の老舗で求められたものです。奥の座敷の床の間と床脇いっぱいに飾られた、古式ゆかしい五月人形は、長男の誕生を、若い両親、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなで喜び、健やかな成長を願う心が込められています。
「本当は段飾りなんやけど、大変やし」と言われましたが、飾って、また丁寧に仕舞うだけでも大変なことです。鎧兜も調度品も大切に保管され、どれも傷みがありません。平和をこよなく愛し、争い事と対極にある穏やかなお人柄の古武さんは「節句飾りは戦に関係するものがほとんど。その点がちょっと相いれないけれど、職人の技を伝える工芸品やと思って飾っている」そうですが、これだけのひと揃いを間近に、しかも町家という空間で拝見できることは、とても貴重なことです。

鎧兜をはじめ、柏餅やちまきの作りものや、それを載せる曲げ物なども含め、非常に多くの分業体制のなかで製作されていました。技術の高さだけではなく、きちんと有職故実にのっとった作り方がされているところにも、京都の歴史と文化があらわれています。例えば、ちまきの作りものは、五色の糸で巻いてあります。これは、現在のちまきの始まりとされる中国の故事に由来しています。そして何を揃え、どのように飾るかも専門店がすべて心得ていたということでした。
今は住宅事情からしても、これだけのものを保管しておく場所も、飾る場所もありません。買う人が少なくなれば当然仕事が減り、生活できないから分業体制が崩れる、そうすると今ではもう作れないものがたくさん出てきます。人形専門店も少なくなりました。残念なことですし、致し方ない面もありますが、今の暮らし方に合う節句飾りのなかで、技術や子どもの健やかな成長と穏やかな世の中を願う心が伝えていけたらと思います。
古武さんの節句飾りがみんなきれいな状態で残っていることに感心していると「男の子はやんちゃやから、遊びに使って壊したりすることが多かったみたいやけど、家の息子は怖い言うて近寄らへんかったんで」と笑いました。微笑ましい話に、息子さんもお父さん譲りの優しい穏やかな性格なのだなと思いました。

1分歩けば何かがある歴史の集積地


古武邸は西陣のただ中にあり、歴史の痕跡をあちこちで目にすることができ、古地図をたどって歩くことができます。古武邸の向かいは、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が幼少から江戸へ行くまでを過ごした家です。ご当主が代を継いで現在に至っています。桂昌院は幼名を玉さんと言い、女性として最高の出世を遂げたということで「玉の輿に乗る」という言葉が生まれました。

また、近くの元桃園小学校、現在の西陣中央小学校の付近一帯は、能楽を大成させた観阿弥・世阿弥父子が時の将軍足利義光から賜った領地でした。邸内には名水の湧き出る井戸があり、それに由来する伝統文様が「観世水」で、町名に観世の名を残しています。
番組小学校であった桃園小学校の校歌の一節に「錦あやおる西陣の」とあるように、西陣織に関係する仕事に携わる人々のまちの繁栄を誇ってきました。紋屋町の通りは今もそのたたずまいを残しています。また新しく入居する人もあり、町並みが大きく変わるなかで、暮らしと生業のあるまちとして持続しています。

古武さんは、訪れる人に「感動してもらうにはどうしたらよいか」を考えていると語ります。お正月準備や、桃の節句のお雛様や、端午の五月人形など季節の楽しみを暮らしのなかに取り入れ、町家という空間で見ることで、「木と紙と土でできている町家」を感じてもらえることができると思います。

5月は、産土神である今宮神社のお祭です。今宮神社は12の産子町内がありますが、その構成は昔からほぼ変わっていないそうです。お祭では12の産子町それぞれに意匠の異なる飾鉾(剣鉾)があり、神幸祭(おいでまつり)還幸祭(おかえりまつり)に参列します。古武さんの町内は蓮鉾です。
還幸祭には古武邸の前の大宮通を、松明の先導で、三基の御神輿を中心に飾鉾や神職など総勢800人の行列が通ります。夕闇が迫るなかの厳かであり、また、町衆の力も感じさせる還幸祭ということです。古武邸は「お玉さん神輿」の休憩所としてお祭に奉賛しています。
古武さんは「町家の価値の再発見とその発信」がますます重要になる、しかも急務であると考えています。京都が京都であるのは、このように目立たなくても、地道にそして手間暇、資金もかけながら、町家を守り、住まいとしている人達がいることが、とても重要です。どういうことで応援し、支援できるのか。建都も、住まいとまちづくりの地元企業として、いっそう、地域に役立つ力をつけてまいります。

菜の花の里 洛北松ヶ崎

野山に草木が芽ぐみ、京都も春萌える季節になりました。桜が終われば、次はつつじや牡丹と、花めぐりを楽しみにしている方も多いことでしょう。黄色の菜の花がいっぱいに咲く風景は、うららかな春そのものですが、のどかに花を眺める暇もなく早朝から、伝統の「花漬け」用の菜の花摘みに忙しい、洛北松ヶ崎を訪ねました。

水路を巡らせた妙法のふもとの地


松ヶ崎は、平安遷都の時の記録に残る、古くからの歴史を受け継ぐ地域です。遷都の際、皇室へ納めるお米を作る「百人衆」と呼ばれる人々が移り住んだことに由来するとされています。
宅地開発がさらに進んでいるように感じましたが、手入れされた畑が多く、菜種油を取るための菜の花や麦が作られていた豊かな農村の風景が残っています。

漆喰塗の民家、前川と呼ばれる家の前を流れる水路、背後の五山送り火「妙法」の山、東にそびえる比叡山。京都市内でありながら、市街地や近くの北山通とはまったく違う、特徴的な景観です。
この水路は、宝ヶ池から高野川にある堰から松ヶ崎へ流れ、長く農業用水として田畑をうるおしてきました。今はこの取水地がありますが、以前は地元の方がすべて管理していたそうです。現在も松ヶ崎水利組合があり、組合長さんや「水役」という役員の方を中心に、
農業用だけではなく、生活用水や防火用水としても大切な水路を地元でしっかり維持・管理されています。折りしも散り始めた桜の花びらを川面に浮かべて流れる様子に、しばらく足を止めました。
庭のあるお宅が多く、名残りの椿や木蓮、木瓜の花、きれいに剪定された庭木の緑と水の流れがすばらしい対を成しています。地元の方から「ずっと前はこの川でしじみが取れたんよ。さわがにが産卵するとこも見たし、本当にきれいな川やった」と聞き、驚きました。今も充分きれいに思いますが、以前はもっと毎日の暮らしに近い川だったのだと感じました。

横書き文字が右から始まる、旧字体の古い住所表示板が目に入りました。京都の人ならみんな知っていると言っても過言ではない、あの仁丹の看板です。かつては、東京、大阪、名古屋などにも設置されていたそうですが、戦争で多くが失われ、京都では残ったようです。しかし、町家が解体されるに従いその数はかなり少なくなっていると考えられます。お家の方に伺うと、8年ほど前、漆喰を塗り直し、瓦を葺き替え、内部も大きな改修を施した時、改修中は取り外しましたが、完成した時にまた取り付けてもらったとのことでした。古びたホーローの表示板が漆喰の建物とよく合っています。よくぞ、また戻してくださったという思いです。屋根の上に小さな屋根を乗せたような「煙出し」のある伝統的な造りに着目です。どのお家も手をかけ家を守っておられます。

松ヶ崎は歴史のある神社やお寺があり、地元の信仰厚く根付いています。松ヶ崎の氏神様である、新宮神社の鳥居の前で、バイクに乗った女性の方が止まって、手を合わせていました。毎朝通るので必ずこうしてお参りしています、とのことでした。氏神様として大切にされている様子がうかがえます。区民の誇りの木に指定されているもみの大木や古い絵馬もあり、静かな境内ですが見どころはいろいろあります。

次は、水路のことを話してくださった方から「由緒のあるお寺だからぜひ行って」と教えてもらった涌泉寺へ。松ヶ崎小学校の脇を上った所にあります。松ヶ崎小学校は、明治6年設立し、当時の妙泉寺と言ったお寺の境内の一部に校舎を置いたそうです。今も校舎の自然豊かな山に続き、満開の山桜にうぐいすの鳴き声が聞こえてきました。涌泉寺は、昔、天台宗の信者であった松ヶ崎の人々が、日蓮宗へと宗旨替えし、題目を唱えるのに合わせて踊ったという、一番古い盆踊りとされる「松ヶ崎題目踊り」の起源ともなったお寺です。
毎年八月十六日の送り火を終えてから、題目踊りが奉納されています。

五山の送り火「妙法」の起源は、日蓮宗の日像商人が題目の「南無妙法蓮華経」から妙の一字をとり、杖で山をたどり、村人が松明を燃やしたことに始まり、やがて東側には法の字を置き、妙法としたとされています。
低い山ですが、松ヶ崎の地域は「妙法」の山に抱かれているようです。両方の山は、それぞれの地元のみなさんが、下草刈りなど手入れをして、無事送り火の習わしが行えるように努めておられます。用水路のことをお聞きした方も「うちとこは、東の法の山の仕事をさせてもらってる」と言われていました。
こういう話が聞けたことにも、松ヶ崎という地域を強く感じました。

松ヶ崎だけの味「花漬け」


太陽が昇ると同時に花が開く菜の花摘みは終盤に入りました。いつ頃から開くか、開き方の早い、遅いなどは天気次第。今年は20度を超える日が続いて一気に開き、その後また雨や気温の低い日があるなど天候に左右されたということでした。朝は晴れていたかと思うと北山から雲が来て、雨が降り出します。
春に三日の晴れなしとは、よく言ったものです。晴れても雨に煙っても、菜の花畑の背景に比叡山がそびえる様子はこの季節を最もよく表しているのではないかと思う、のびやかな風景です。雨の後、別の畑を通りがかると畑の見回り中の方が見えました。「菜の花のこと聞きたいんなら入って来いや」と言っていただき、また教えを乞うことになりました。

松ヶ崎の菜の花は菜種です。よく出回っていて私たちが辛子和えなどにする、なばなとは、まったく違う種類なのだそうです。菜種は茎が長く、花も大きいのが特長です。日が出るとどんどん花が開いていくので、背丈に近い菜の花の海のような畑で、摘み頃の花を見極めて、さっさと摘んでいきます。一段と大きな花を付けた一群がありました。それは種を採取するために特に選んで残してあるそうです。来年も良い菜の花を作るためには、良い種でなくてはなりません。これも経験や培ってきた松ヶ崎の農業の知識ゆえの目利きができるのです。

松ヶ崎では「花漬け」または「松ヶ崎漬け」と言われることが多いのですが、普通に売られている菜の花漬けとは、似て非なるものと言えます。菜の花は摘んだらすぐに洗ってから塩で下漬け。そしてぬかに漬けて発酵させます。色の鮮やかさはなくなりますが、それはそれで良い色になります。ぬかの旨みと発酵した酸味が相まって、本当に深い味わいです。わずかに鷹の爪の辛みがきいているのも味を引き締めています。ごはんはもちろん、お酒が進む味です。
以前は、それぞれの家で漬け込み、家によって塩やぬかの加減が違い「うちの味」があったそうです。「松ヶ崎にしかない、ほんの少しの間しかない菜の花漬け」です。摘みたての菜の花を「和え物でも、炊いても、炒めても旨いから」と言って、分けてくださいました。「農業はええよ。こうして毎日畑へ出て、土や苗が具合よういくように見てやるのは楽しいし、健康にええしな」そして「ここに畑があって良かったやろ。畑のある風景ええやろ」と続けました。
いただいた菜の花は、今日はイタリアンでいこうと、パスタにしていただきました。ほろ苦さと甘みもある最高に美味しい「松ヶ崎の春パスタ」でした。

畑や家を預かり、地元の習わしを伝える


平安遷都とともに始まった松ヶ崎の歴史は、4度も兵火に見舞われるという苦難を乗り越えてきた歴史でもありました。そこには、村全体が日蓮宗の教えを信頼し、宗旨替えした連帯感や信仰心、また用水路や神社の管理も地元で行ってきた自治の力があったからでしょう。それは今も受け継がれています。家を補修し丁寧に住み続け、畑で作物を育て、水路を管理し、伝統の行事を続けられています。
偶然、20年前に「松ヶ崎妙法保存会」の会長さんが、京都市文化観光資源保存協会の会報に載せられた文章を目にしました。それは、「21世紀を迎えんとする、12月31日に五山の送り火を」とする行政の要請に対して、お盆以外に送り火はできないとする意見も多いなか、五山の保存会で協議を重ね、大晦日の送り火を実行したことについての内容でした。

「山のふもとに住み、農業や林業の仕事をしながら神社やお寺を守って来た。お盆は先祖をもてなし、16日に迷わず帰っていただくため、家族がにぎやかに揃って明るく照らすのが送り火である。5つの山すべてが一致しなければやらないと決めての話し合いをした。戦争と環境破壊の20世紀を送り、平和と人権の明るい21世紀を迎える節目に、五山の送り火を世界へ発信しよう」と、五山が一致して行われたことが書かれていました。
こうして、現代にも起きて降りかかる難しい問題にも、地域に根付く、強い郷土愛や信仰心、団結する力を糧に新しい、良い解決の道をつくっている地元なのだと感じました。
今、松ヶ崎も住宅が増え、畑は依然に比べるとぐんと減るなか「花漬けの味もいつまであるか」と、危ぶむ声も聞かれますが、松ヶ崎の地はその困難な問題にも、果敢に取り組んでいかれると思います。
保存と開発は、なくならない課題です。歴史や伝統、自然と調和しながら、これからの時代にどのようなまちをつくっていくのか。建都も、家づくりの立場からこれからのまちづくりの課題にしっかりとかかわってまいります。

職人のまち 本能学区で営む印染

二条城の東側を流れる堀川通の桜も咲き始めました。
堀川を西端とする、本能学区は豊富な水を利用して早くから染物業が盛んになり、染めの仕事に必要な様々な業種の職人が集まり、戦前までは、京都の代表的な風景の一つ、染め上がった反物の余分な染料や糊を川の中で落とす作業が見られました。
このように、多くの家が染めにかかわる仕事に従事する、典型的な職住一体のまちでしたが、繊維・和装産業が減少していくなかで、加工場跡地にマンションが建ち、「下京第二番」の番組小学校であった本能小学校も124年の歴史を閉じるなど、様相は大きく変わりしました。
しかし、長い年月をかけて培われてきた技術と、分業によって支え合うつながりを生かし、職人のまちは、時代の風を読みながら、様々な要請に応えています。
印染(しるしぞめ)とは、のれん、旗、幕、幟(のぼり)半纏(はんてん)法被(はっぴ)、ふろしきや手ぬぐいなどに家紋や屋号など、しるしになるものを染めた染物を言います。
本能学区で、印染を続ける大入商店でお話を聞きました。

かたちは変わっても、印染の出番は多い


「大入商店」は1933年(昭和8年)、綿布の小売販売の「大入屋」を開業し、二代目の時代に、縫製加工、染色加工を始め、段々と多様な印染を手がけるようになっていきました。現在は四代目の平野秀幸さんが代表を務めています。
「法被や半纏は、かつては米屋、植木屋、酒屋などで働く人たちのための作業着であり、家紋や屋号の入った半纏を着ることは、その店の一員になる、ということを意味し、誇りを持って着用されていたのです」と、最初に話されました。暖簾にしても「暖簾を守る」という言葉があるように、屋号や家紋を背負い、掲げるということは深い意味を持っているのだと思いました。今は、このような本来の目的から、イベントや販売促進の時に使われることが多くなりましたが、揃いの法被を着た一体感や高揚感は、他では生まれてこないものだと思います。

大入商店では、一番数量の多い法被をはじめ、のれん、幕、幟、手ぬぐい、ふろしきと、印染の定番のほか、タオルやTシャツ、お客様から依頼された様々な印染を扱っています。ネットでの発信や販売はしていませんが、人のつながりの縁や口コミで直接会社へ見えるお客様が多いそうです。なぜかと言うと「作ってほしいものがあるけれど、どこへ行って聞いたらいいかわからない」「ネットを見ても、書いてある内容がよくわからないことが多い」からです。それは、個人のお客様でも企業の場合でも変わりません。お客様と直接話し、希望や疑問を一つ、一つ丁寧に聞き、たくさんあるサンプルや色見本、生地見本を見ながら、具体的に提案します。最優先することは予算なのか、こだわりの染めなのか、デザインなのか。それらを見極めることが求められます。商談として成立する場合も、しない場合もありますが「みなさん相談して良かったと、喜んで帰られるのを見て、良かったなと思います」と語る言葉に、平野さんの誠実な姿勢がうかがえます。こうしてこつこつと、信頼関係を築いていることが新たな仕事や息の長い取引につながっています。

自社の強みにつながる京都の分業体制


大入商店では、図案と型作り、暖簾や幟などの縫製を自社で行っていますが、様々な要求に応えられるのは、たくさんの専門業者さんとのつながりがあるからです。平野さんは「お客様との信頼関係はもちろんですが、外注さんとの信頼関係も大切です」と語ります。
ふろしき専門の縫製、染めも用途や商品の種類により、引き染、抜染(ばっせん)注染(ちゅうせん)など、それぞれ信頼できる外注先にお願いしています。手ぬぐいの染めに関しては、京都では作るところがなくなってしまい、50年くらいの長い付き合いのある堺の工場へお願いしています。

左茶色:注染手ぬぐい 右:プリントハンカチ

染め方としては、注染とプリントがあります。プリントは細かい柄や何色も使うデザインの染め方に適しています。一方注染は、生地をじゃばら折りにして重ね、上から染料を注ぎ込みます。表も裏も同じように染まることや、1枚1枚に手作業ならではの、あじわいのあることが特長です。この「あじわい」という微妙なものが難しいところで、検品して「これは、ちょっとお客さんには渡せへんな」と見れば、染屋さんへ率直に伝え、先方も納得して染め直すこともあるそうです。それは「一緒に、きちんとしたものづくりをしよう」という姿勢が共通しているからであり、平野さんが目利きであることを認めているからです。

お話をうかがった四代目の平野秀幸さん

平野さんは「うちは小さい会社やから、自社で全部することはできないし、すべて手染め、木綿と絹しか扱いませんという老舗ではありません。でも、たくさんの専門の外注さんのおかげで、お客様の要望に最も適した提案をし、あらゆる注文に応えることができます。すべてを自社でできないことが逆に強みになっています。これは長い間続いて来た京都の呉服業界の分業制の元があるからできることです。外注さんから仕事を依頼されることもありますし、お互いにバランスのよい、いい関係が大事です。」そして「自社でも製造にかかわっているので、実際の染めや縫製、生地のことがわかっていることも大きいと思います」と続けました。分業を優れたシステムとして生かしています。

これからの京都のものづくり

プリンターにも自社製の紋入りカバー

大入商店はネットを使った発信や販売はしていませんが、平野さんの父親で先代の雅左夫社長の決断により、平成3年と早い時期に工程にパソコンを取り入れています。そして、その路線の仕事の精度は確実に上がっています。数種類のインクジェットプリンターも導入し、職人の技を大切にすると同時に、より多くの要望に応えていくための先進技術の導入もはかっています。
大入商店の取り扱い品目の多さは驚くほどです。祇園祭の山の手ぬぐい、寺社に多い修復記念のふろしき、「インターハイ出場・・・」と大書され校舎に架けられた懸垂幕、だんじりの半纏、YOSAKOIのコスチュームなど多岐にわたっています。ものづくりの協働のかたちです。
平野さんが今懸念していることは、今後の外注さんの存在です。染物は染め上がってから色をきれいに定着させる「蒸し」と、余分な染料や糊を落とす「水洗(あらい)」という工程、さらに生地のしわを伸ばし、長さをきちんと整える「湯のし」という工程を経て初めて完成します。これらの仕事場は広いスペースが必要です。今、京都はインバウンドに湧き、空前のホテルやゲストハウスの建設ラッシュが続き、地価が高騰しています。大入商店では、蒸し・洗い、湯のしも決まった所へお願いしていますが、人手不足もからみ、懸念されています。

分業制で成り立っている仕事はその中のどれかが欠ければ続けることはできません。先人が積み上げてきたこのすばらしい循環が存続することは、京都のまちの在り様も示しています。平野さんは、こうした外的な要因も踏まえながら、会社のこれから先を描いています。
「値段以上のよさを実感してもらえるものを生み出す会社にすること」と語ります。「価格の点はがんばるけれど、ただ安いと言って喜んでもらうだけではない、大入商店でこそできる商品やサービスは何か。これをみんなに伝えイメージしてもらい一緒に考えていきたい」と、将来を見すえています。平野さんは「100年ではまだ新しいと言われる京都で、うちみたいな85年しかたっていないとこは新参者です」と笑いますが、印染大入商店の「次なる創業」になるのではないでしょうか。
建都も、京都のまちの現状と暮らしを見つめ、まちづくりの視点を持って、地域に貢献してまいります。

 

大入商店
京都市中京区堀川通蛸薬師上る壺屋町263
営業時間 9:00~18:00
日曜日 定休日

作り手と人の間を紡ぐ 西陣の元学生寮

昭和初期に建てられた2軒の町家が、昭和40年代に立命館大学の学生寮となりました。やがて最後の寮生が去ってから、しばらく空き家となっていましたが、西陣を中心とした町家の有効活用を支援する団体の協力を得て、ものづくりをする人達が入居する「藤森寮(ふじのもりりょう)」として生まれ変わりました。
2軒の寮の間にあった塀を取り払い、L字型に並ぶ北棟と南棟からなる、9つのアトリエや教室、お店になっています。四季の移ろいを感じる緑の多い中庭、タイルの流し、でこぼこのできた三和土、深い色あいとなった柱など、築90年の建物が刻んできた時を感じる空間となっています。訪れる人を拒まず、9人の創作活動の場である自由な「藤森寮の時間」が流れているようです。

淡々と無心に作業をする楽しさ


藤森寮のある紫野は、船岡山から大徳寺へかけての地域をさします。船岡山は、都の北にあたり、東西南北を守る霊獣のうち、北は玄武が司るとされ、平安時代から重要な基点となっていました。また、応仁の乱では、東に陣地を置いた細川勝元を、西に陣取った山名宗全が船岡山で迎え討った歴史ある地域です。

鞍馬口通には、大正12年に料理旅館として建てられた、登録有形文化財で現役の銭湯、船岡温泉をはじめ、古い建物がまだきちんと残っています。最近は町家に手を入れて営業しているお店や、ゲストハウスも増えましたが、藤森寮はそのさきがけです。今も低層の家が並び、昔からの西陣のまちの暮らしが色濃く感じられる地域で「町内の一員」の意識を持って、それぞれが創造活動を続けています。

南棟1階にある女性店主の「アートスペースCASAneかさね」で、日頃のあわただしさから解き放された、ゆったりした時を過ごし、かさねの名前の由来を伺いました。どんなに小さな端切れでも、紙や布、糸は捨てられないと語る店主。端切れの紙でも、もう少し大きな紙の上に張って重ねれば、新しいものとしてよみがえらせることができる。この「もう一度の紙たち」という思いを「重ねる」という言葉に込めています。作り手とその受け手をつなぐ空間です。
CASAneという名前については「重ねという漢字では少しそぐわないし、ひらがなもあまり伝わらないかな」と考えていた時「スペイン語で家のことをCASAて言うし、それにneを付けたら、かさねやし、ええの違うか」という大胆で新鮮な発想の提案をしてくださった方があり「小さな部屋なのでいいかな」と、すんなり決まったとのことでした。どんなネーミング誕生物語があったのかと思いきや、このおおらかさがいい感じです。

かさねには、店主の手から生まれる様々なサイズのメモ帳やそれ自体を贈り物にしたいレターセットやしおり、カードなどの「紙のもの」と、かぎ針編みのアクセサリーや小物とポジャギ、知り合いの作り手の陶器やガラス、クラフトがいい具合に折り合い、調和を見せてたたずみ、憩い、語りかけています。かさねの店内にいると不思議に、ものにも心や気分があるように感じられます。やわらかくやさしい白の器に添えられた野の花は、千利休が残した「花は野にあるように」を思い起こす姿です。
それぞれのコーナーに個性があり、何回も行ったり来たり、また、走り庭や中庭へ出たり入ったり。店主との間合いも心地よく、つい長居をしてしまいます。

店主の作るメモ帳の一番小さなものは小指の先ほどの極小サイズです。それでもちゃんと背があり、中紙がきちんと納まっています。
使われている紙は、チラシや会期の済んだ個展のはがき、カードや封筒を作った残りの紙等々。どんな紙が使われているかも、かさねのメモ帳の楽しみです。
外国の人は、たまご、肉とか日本語が書いてあるチラシを使ってあるものがお気に入りとか。豆メモ帳もポジャギの針目も、丹念なかぎ針編みも、くらくらしそうな細かい仕事ですが「淡々と無心に、紙を揃えたり切ったりの単純な作業は楽しいです」と語ります。きっと、ものを作る時の心持と藤森寮という空間がしっくり合っているのだと思います。さらに「作家や職人と呼ばれる人達は、見てもらう場や売る場が意外とないので、ここが、ものともの、人と人をつなぐ場所であればいいなと思っています」と続けました。

藤森寮に入ってから10年くらいたつそうですが、以前京都に住んでいてアメリカへ帰国した方が、「ここでカップを買いました」と、3年たってからまた来てくれたそうです。作り手もそれをコーディネートする人も、買った人も、自分の「好き」をはっきり持っていているのですね。しかもその場所が、前に訪れた時と同じように迎えてくれたら、どんなにうれしいでしょう。売る、買うということには、こんなにいいめぐり合いもあるのだと思いました。

藤森寮を生かす入居メンバー共通の思い


雨の日曜日にまた、かさねを訪ねました。鞍馬口通の入り口から入った時と、南側の中庭から入った時では、様子が違い、何となく楽しく迷う感じがしてそれも楽しいのです。春の雨に、中庭の木々の緑は生き生きとして、白い沈丁花は、晴れた日とは違う香り方をしていました。おちょこに植えた苔も、雨を含んで柔らかく、しっとりしています。欠けたおちょこは、こうして再び生かされ、縁のあった人の所へ行きます。

今、藤森寮に入居している9人は「作りたいものを作り、それを実際に見て、触れて、感じてほしい」という共通の思いを持って創作活動をしています。そして、西陣は、道具も自分で作ったり、使えるものは使い切るという京都の職人のやり方が根付いている所だと言います。
近所にはおじいちゃん、おばあちゃんという年齢の方が多いこの地域でお世話になっている、今の西陣があるのは、元から住んでいた人達が守って来てくれたおかげとという思いを、藤森寮のみんなが持っています。
おはようさんです、とあいさつを交わしながら、朝、家の前の道路を掃く「門掃き」は、京都の
ご近所付き合いの一つとも言えます。この門掃きも「朝、門掃きはちゃんとしようね」と、当たり前のようにされているそうです。
そして寮の修繕費を積み立てたり、簡単なことなら直してしまうなど、自分達でできることは自分達でやり、単なる間借り人ではなく、地域の一員として、この建物と向き合っています。

藤森寮の界隈は、お豆腐屋さん、酒屋さん、魚屋さん、お風呂屋さんなど暮らしに密着したお店が、今もしっかり地域のみなさんの日々の暮らしを支えています。子ども達の遊ぶ姿、けんかしたり、誘い合ったりする声も聞こえてきます。西陣織の機音は少し寂しくなりましたが「普通の京都」が息づくまちです。
歴史あるものと新しい感覚、若い人が交錯し、地域の力を強くしています。京都のものづくりは、こういうところで生まれるのだと感じました。建都は「住まい」の分野で地域を支える役割を担い、これからのまちづくりをご一緒に考えてまいります。

 

藤森寮
京都市北区紫野東藤ノ森町11-1
営業時間、定休日はショップにより違います

お雛様は家族の楽しい 思い出のよすが

北野の天神さんの梅花祭も終わり、うららかな陽気の京都。三月三日の桃の節句は昔、紙で作った人形を子どもの身代わりとして、疫や災いを水に流した、流し雛が始まりだったそうです。やがて、女の子の健やかな成長を祈ってお雛様を飾る風習に。
子どもの頃、野原で摘んで来たよもぎで、草餅を作ってもらった方も多いのではないでしょうか。思い出とともに大切に仕舞われてきたお雛様が、今年もそれぞれのお家で飾られているでしょうか。

リビングで明け暮れを見守るお内裏様


哲学の道に沿って植えられた、日本画家橋本関雪ゆかりの桜の芽はまだ固いけれど、去年と同様に、今年も開花は早いそうです。近所に住む知人宅で、雅やかで気品のある、見事なお内裏様を見せてもらいました。ひな人形は、頭氏、織物氏、小道具師、手足師、髪付師、着付師の、6工程の分業で、それぞれ専門の職人さんによって製作されているそうです。最後の工程を着付師が担当し、全体の総仕上げをして完成させます。
6つの分業と言っても、藁で胴を作るところから数えると、とてもたくさんの細かい作業があり、本当に細心の注意と集中力のいる仕事だと思います。

こちらの男雛をよく見ると、装束が、以前有職故実について話を聞いた通りでした。儀式の折りの天皇にしか許されない「黄櫨染(こうろぜん)」と言う色の装束でした。他には許されない色ということで「禁色(きんじき)」と呼ばれています。頭の後ろに立っている黒く長いものは「えい」というもので、まっすぐに立っているのは、これも天皇のみなのだそうです。手には笏(しゃく)を持っています。

女雛は、十二単ですね。一糸乱れぬおすべらかしの髪の艶やかさ、袖口や衿元の重ねの美しさ。かんざし、檜扇などの小物も、サイズがミニチュアなだけで、完全に精巧に作られ、しかも有職故実にのっとっています。紗の生地がぴんと張られ、桜が描かれたぼんぼりは、灯りがともったらさぞ春の宵にふさわしいだろうと思わせます。

お雛様は、いつも家族のみなさんが一緒に過ごすリビングルームに飾ってありました。ドアに張ってあった、小学生の娘さんお手製の紙のお雛様が可愛らしく、とてもよくできていて微笑ましく思いました。

他の部屋に掛けられていた軸は、橋本関雪の立雛の色紙でした。20代の初め、日本画家として踏み出したばかり頃の作品だそうです。代表作の「玄猿」や中国に題材をとった大作をたくさん残している関雪のイメージとは違い、初々しく清新な感じがして親しみを感じました。
表具は、腕のいい職人さんの仕事でしょう。使われている裂地自体も好みも本当にいいです。床の間のない家も多いですから、軸を掛けることもなくなっていきますが、季節や折々の節目に、軸を掛けて楽しむことは、すばらしい文化です。床の間でなくても、工夫すれば茶掛けや色紙なら大きさも手頃なので何とか掛けられないものかと思っています。

 


西陣の京町家 古武邸のお正月迎え」でお正月のお飾りの話をお聞きした、西陣の古武さんのお宅へまた伺いました。
古武さんのお雛様は、とても愛らしい木目込み人形です。妹さんのものだそうです。「戦後間なしの昭和31年頃、普通に百貨店で買うた小さいもんやから、たいしたことないお雛さんで」と言われましたが、細部に至るまで、本当にきちんとした仕事がされていて、これも職人さんの技ありと、感心しました。
古武さんは「その頃はまだまだ、歳のいった腕のいい職人が大勢おったからねえ。どんなものにも職人の仕事が必要やったから、それで暮らしが成り立っていたんやね」と話されました。

奥の離れの床には「桃花千歳の春」の書に立雛が描かれていました。関雪の立雛の軸は表具も風格がある仕上げになっていましたが、こちらは現代的に明るい色調の表装です。
平安時代に薄紅色が大流行し「今どきの流行り」という意味で「今様色」と言ったそうですが、まさに今様のはんなりした、雛にふさわしい色あいでした。

雛尽くしのしつらえがされているなかに、珍しい貝雛がありました。ご近所のご高齢の女性の方から贈られたものだそうです。これも、丁寧な細かい手仕事がされています。古武さんのお話によると、「ここら辺の人はみんな手先が器用なんや。西陣関係の仕事を長いことしてた人も多いし」ということでした。
経済や暮らしぶりが急激に変化するなかで「必要ではない」とか「もっと便利なものがある」などという理由から、それまで身の回りにあったものがなくなったり、あるいは姿を変えていき、職人さんの仕事がなくなっていったことは確かです。以前と同じようにはできないけれど、良いもの、継承していかなければならないものもあると思います。今の暮らし方を、ほんの少し見直すことで何か違うことができるようになるのではないかという気がします。

古武さんの町家と上京のまちをベースとする活動はさらに新しい展開を見せています。3月23日、24日の2日間、西陣織会館を会場に「手仕事の技、魅力満載!洛中マルシェ」の企画にかかわっています。手仕事を今に生かし、使ってもらえるものを生み出していこうという意欲的な取り組みも、こうして進んでいます。
今回見せていただいた、妹さんのお雛様を毎年飾っているのは「そのお雛さんを買いに家族でそろって百貨店へ行った。家族揃って百貨店へ行くなんて後にも先にも、その時だけだってね。その時の思い出があるから」という話が心に残りました。その大切な思い出を支えているのが、職人さんの技なのだと思います。ものづくりの力は、そう簡単に消えないぞ、という声を聞いた気がしました。

茶山sweetsHalle 地元に愛され1周年

「茶山をお菓子で元気にしたい」と、みんなの夢を乗せて船出した、小さな洋菓子店「茶山sweets Halle(ちゃやまスイーツはれ)」が開店1周年を迎えました。
建都と長く良いお付き合いのある社会福祉法人 修光学園さんの就労支援施設「ワークセンターHalle!(はれ)」が運営しています。修光学園さんは、洋菓子作りに20年以上前から取り組んで来た実績があり、Halleも京都府内産の上質な素材を使ったおいしいお菓子屋さんとして、徐々に知られるようになり、顔なじみの地元のお客様も増えました。生産者の方との出会いから新商品も生まれ、洋菓子店として着実にレベルアップしています。

この、京のさんぽ道「京都府内産木材を活用した洋菓子店」でご紹介してから1年。働く利用者さんの意欲も高まるなか、満を持し、みんなで迎えた喜びの開店1周年の茶山sweets Halleを取材させていただきました。

志のある生産者さんとの出会い


茶山sweets Halleのお菓子のおいしさは、上質な素材とていねいな手作業から生まれます。商品開発を担当する深田さんは、良い素材を求めて足しげく商談会に出かけるなど、多くの生産者さんや原材料会社の担当者と会って来ました。
開店当初からの看板商品であるバウムクーヘン、ロールケーキ、プリン、マドレーヌなどに使っている米粉、たまご、蜂蜜、塩は、京都府内で誠実にものづくりをしている生産者さんのものです。独特の食感、くせのない甘味、お菓子の味を引き締めるほんのりした塩味など、その素材なくしては作れない味わいであり、茶山sweets Halleの個性となっています。

京都素材シリーズの「抹茶ふぃなんしぇ」と「城州白(じょうしゅうはく)けーき」も、そうした出会いから生まれました。フィナンシェに使う抹茶は、宇治田原町で約550年にわたり、代々受け継がれた土地でお茶づくりを続ける、小山製茶場さんの「茶農喜佐衛門(さのうきざえもん)」ブランドの抹茶です。伝統製法のお茶の豊かな風味が生きるお菓子ができました。
風薫る五月には季節限定のバウムクーヘン「茶月(さつき)」が並びます。新茶の季節感を運んでくれるバウムクーヘンです。
もうひとつの焼き菓子に使っている「城州白」は、幻の梅とも言われ、梅の郷として知られる城陽市で生産されている、香り高い大粒の梅です。梅園の保全と、城陽特産の城州白の活用に取り組む「青谷梅工房」さんと出会い、開発に1年半かけて今の商品が完成しました。
最初、梅のチョコレートっておもしろそうとひらめき、梅干しチョコを作りました。しかし、チョコレートはとてもデリケートで作り方が難しく、みんなが係わることができません。そこで、培ってきた技術もあり、みんなで係われる焼き菓子にしたとのことでした。
梅干しチョコは、商品化すればきっと話題を呼び、メディアにも取り上げられたことでしょう。しかし、みんなが大好きなお菓子作りに係われることを大切にする選択をしました。その思いが、茶山sweets Halleの神髄であり、お菓子にもあらわれています。
深田さんは「実際に生産者さんの所へ行って、思いを聞くと、こちらも同じ気持ちになって、僕たちもいいお菓子を作ろうと思うのです」と語ります。志を持って仕事に携わり、地域を大切にする人と人がつながって、ものづくりの新しい道を開いています。

おかげさまで一周年のサンクスフェア

バウム・ブリュレの表面はキャラメリゼでパリパリの食感に


1月24日からの3日間、感謝をこめてサンクスフェアが開催されました。初日に新発売された「バウム・ブリュレ」は、バウムクーヘンに自家製カスタードクリームがたっぷり詰まっています。注文を聞いてからバーナーでグラニュー糖を焦がす、キャラメリゼを施します。このひと手間が、お菓子をいっそうおいしくします。
3日間限定販売された「チーズinバウム」は、2度焼のバウムクーヘンにコクのあるチーズを合わせています。1日3回の焼き上がり時間をお知らせして、焼きたてを味わっていただく感謝企画です。

この商品は2つとも、バウムクーヘン専用オーブンを設置した工房と販売が一体となった店舗であることを、最大限に生かしています。
ガラス張りの開放的な工房は、清潔な作業場と利用者さんの働く姿が見え、利用者さんも、自分達が作ったお菓子を選んで手に取るお客様の様子がわかります。そのことで仕事への意欲とプロ魂がいっそう高まります。
また、同センターの紙器加工チームの利用者さんも、お昼休みや帰りがけに二人、三人と顔を見せてくれます。なかにはスイーツ男子もいて、品定めをしてから「チーズinバウム」をお買い上げ。「家へ帰ってから食べる」と、仲間が作ったお菓子を一つ、大切に持ち帰る姿が心に残りました。
そして、チラシ配りや日頃の営業努力が実を結び、おなじみになるお客様も増えています。「ずっと気になっていたお店で、初めて来ましたが、とてもいい感じです」「近所なので前から来ています。1周年のチラシのお菓子がおいしそうだったので」という声も聞きました。「いつもありがとうございますと、本当に心から言えるのがうれしいです」という販売担当のスタッフさんの、すがすがしく、まっすぐな情熱もファンを増やす大きな力です。

お店の前は大好きな電車とHalleのお菓子を見られるお気に入りのさんぽ道
ひえいの時刻表も張ってあります

お店は叡電の茶山駅のすぐ近く、お店の前を電車が走り過ぎます。去年3月にデビューした注目の新型車両「ひえい」も間近に見ることができます。座ってゆっくり眺めていただけるようにと、お店の前に木のベンチを置きました。好きなお菓子をベンチでひとつまみ。また時には、通りがかりにひと休み。こうしてまた、人の輪が広がっていきますように。

お菓子で地域を元気にするみんなのより所


「こういうお店が地元にあってうれしい」と思っていただける洋菓子店を目指して、1年間みんなでがんばって来ました。そして今、普段のおやつをはじめ、お誕生日にもHalleのケーキを使っていただけるようになりました。家族や地域のみなさんのコミュニケーションの仲立ちができているとしたら、とてもうれしいことです。
センター長の藤田さんは、「2~3年かけて、知名度を浸透できるかなと思っています。急がず、じっくりです」と語ります。障害のあるなしに関わらず、ともに市民の一人として、地域で暮らし、茶山sweets Halleはそのより所となり、役割を果たしていくことでしょう。
建都は19年前に、障がいのある方のグループホームの内装をさせていただいてからのご縁で、茶山sweets Halleのオープンの工事では、設計監理を担当させていただきました。無垢の木材を生かした、明るく働きやすい店舗を、とのご希望をかたちにするために、工務店、株式会社小寺工業さんには、誠実なお仕事でご尽力いただきました。Halleの建物が、これからも利用者さんが生き生きと喜びをもって働き、地域のだれもが集えるかけがえのない場となることを心から願っています。
叡山電鉄茶山駅のすぐ近く、青い屋根と白い外壁の小さな洋菓子店へ、ぜひお越しください。木のぬくもりを感じる店内は、活気と幸せなお菓子の香りに満ちています。

 

茶山 sweets Halle
京都市左京区田中北春菜町14-1
営業時間 [火~金]10:30~18:00 [土・祝]10:30~17:00
定休日 日曜日、月曜日、第1・3・5土曜日

底冷えの京都 みその仕込み

「節分の頃になると、やっぱり、よう冷えるなあ」があいさつ代わり。暖かいのが何よりのこの時期に、繁忙期を迎えるのが醸造の仕事です。みそや醤油、酒は、低温でゆっくり発酵することで、味わい深い旨みのあるものとなります。
寒気のなか、みその材料のかなめである麹作りに精を出す大忙しの加藤商店の4代目、加藤昌嗣さんが取材に応じてくださいました。

手作業中心の実直なみそづくり

100年を超える木樽6個が現役で活躍

加藤商店は、初代が醤油屋から木樽をもらって独立してから100年。多くの蔵が機械化を進めるなか、手作業の多い、ゆっくり一年かけて熟成させる、昔ながらの実直なみそづくりを続けています。
寒の頃は、材料のお米や大豆の新物が出回り、空気中の雑菌が少ないことから寒仕込みが行われます。みそは、どんな麹をどんな割合で使うかで、それぞれの味わいや個性が生まれます。いろいろな菌が混じることで、奥行きのあるいい味になります。工場を案内していただいた時「この中で、いろんな菌が生きています。蔵ごとに住んでいる菌は違います」と聞き、思わず蔵を見渡しました。

ありがとうございますと書かれた木の麹蓋

麹づくりは、蒸したお米に麹菌を付け、一晩置くと熱を持つので冷まします。加藤商店では、木の麹蓋に一枚一枚広げます。発酵して熱を持つと固まるので、手でほぐし上下を入れ替える「手入れ」を7~8時間ごとにくり返し、上側だけでなく、内部にも麹菌が付くようにしなければなりません。
たとえば昼間仕込んだ麹を夕方5時か6時頃手入れし、夜の11時頃また手入れします。その都度の「微妙な温度管理もめちゃ難しく」「麹は、ほんま厄介」なのだそうですが「寒いと麹自身ががんばって中に水分をため込み、明らかにいい麹ができます」と言葉に力がこもります。
この時期の加藤さんの1週間は、日曜に洗米、月、火、水曜日に仕込み、木、金、土曜にまたその工程をくり返しです。麹づくりを優先し、この状態が3月頃まで続くとのこと。そして、大豆と塩を合わせ、ゆっくり1年寝かせて、みその仕上げとなります。加藤さんがつくる麹は、この1年の熟成期間に合う麹なのです。
木蓋の上でただ今発酵中の麹の部屋は、湯気が立ちこめ、ほんのり甘い香りが漂っています。真夏の作業はどれほど大変でしょう。部屋の外はしんしんと冷えがのぼってきます。京都の底冷えと誠実な人の手から、真実良い麹が生まれます。

「まず地域が大事」の心を受け継ぐ


加藤さんが大学在学中の20歳の時、父親の芳信さんが病で倒れたことから休学し、必死にみそづくりに取り組み、後継ぎとなりました。最初は、遠方の取引先への配達時間に遅れ、戸も開けてもらえなかったという厳しさも経験しながら、芳信さんの教えや周囲の支えもあり、生業として継続することができ、大学もみごと卒業されました。並大抵のがんばりではなかったと推察されますが、現在の加藤さんは、そんな苦労の痕のようなものは感じさせない明るさで、みそづくりについて、熱心に語ってくれます。楽しくみそづくりをしている感じが伝わってきました。

加藤さんは6年前から、母校である二条城北小学校で、食育授業の一環として「みそづくり体験」の指導をしています。5年生の時に仕込み、1年間熟成させます。夏休みには涼しい場所に移すなど、こまめに管理して6年生の時に、実際にとてもおいしい、それぞれの手前みそが完成します。手間と1年という時をかけて生まれる、発酵の力を実際に体験する、すばらしい授業に貢献しています。今では、子ども達も楽しみにしているそうです。

父親の芳信さんは面倒見が良く、町内の役も進んで引き受けてこられました。地域のみなさんからの信頼も厚く、またご自身も「うちには、米もみそもある。何か災害が起きても、近所の人たちに炊出しができる」と常々話されているそうです。地域を大事にしてこその生業、という思いはしっかり受け継がれています。

加藤商店とみそづくりの明るい展望

出荷される麹

麹への関心が確実に高まり、定着していることを、加藤商店のみんなが実感しています。芳信さんの時代から、みそづくりをする宇治の婦人会に20年近く麹を卸しています。紹介、紹介で、加藤商店の麹の需要がどんどん広がっているそうです。1年に1度、待っていてくださる個人のお客様も多く、麹でつながる縁はますます広く、長くなっていく様子です。
お米は長年、新潟産のこしひかりを使っていましたが、今年は大量にコンビニに流れたため手に入らず、はじめて富山産のこしひかりに替えたところ、結果は吉と出ました。ダマになりにくく、とても扱いやすいそうです。
このような、その時々の変化や課題を柔軟に受け止め、安定的な収益の確保を進めながら、やりたいこと、加藤商店のこれからの構想を描いています。今は製造で手一杯で、配達はごく一部しかできてないけれど、もっと外へ出て人と会うこと。会えば新しい取引先を紹介してくれたり、お客様が感じていることを直接知ることができるからです。
明るく、話好きの加藤さんはお客様に好かれているそうです。さも、ありなんです。
今後の方向性についても「地域が一番」ときっぱり答えました。「地域で使ってもらえるものを、普通の値段で」ということをとても大切にしています。一番大事な麹づくりを、機械で行うところが多いなか、木蓋の板麹でつくっている芯を変えず「ここの麹がほしい、ここのみそがいい」という価値を保ち続けることです。取引先に、名だたる料亭もありますし、つくり手として高級路線をもっと究めることも考えています。そして「どれだけファンが作れるかです」と続けました。

子どもの頃、家がみそ屋だと言うのが恥ずかしかったそうですが、今は「みそをつくる仕事」と言うと子供たちから「ええなあ」と言われると笑いました。加藤商店のおみその袋の表に「手づくりほっこり愛情一椀」裏には「自然の恵みにありがとう」と書いてあります。麹やおみそ、そして、生産者のみなさん、お客様への感謝と、良いものをつくっていこうという心がまえが表れています。

職住一体の生業が続くまち


加藤商店は西陣の一画にあります。近所には、明治年代の看板を掲げる印章のお店、組紐屋さん、有職料理の老舗が続く、落ち着いた通りです。町内の人が気軽に言葉をかけあう、暮らしを感じるあたたかい雰囲気もあります。加藤さんのお宅は、外観は町並みに溶けこむ典型的な町家です。向かい側が工場になっています。取材で伺った時、母親の延子さんがたくさんの伝票整理のお仕事中、居間へ通していただきました。住みやすくリフォームされたそうです。お仏壇があり、フローリングの床には可愛いおもちゃが置いてありました。表格子を通して、寒の内にはめずらしく、あたたかい光が差し込んでいます。加藤さんがそうであったように、お子さんたちも、まわりの仕事をするおとなの姿を見て成長されることでしょう。

毎日振り売りで近所を回るお豆腐屋さん。こちらもお味噌汁には欠かせません

主役を張るものではないけれど、人生に欠かせないと言っても過言ではないおみそ汁。
今回の取材を通して、おいしいおみそ汁が食卓にのぼる、普通の暮らしを続けられることが、どんなに大切なことなのかを改めて感じることができました。住み慣れたまちと家で、生業と暮らしの文化が継承できるよう、建都は様々な時代の変化や課題を解決するためいっそう努力してまいります。

 

加藤商店
上京区猪熊通出水上ル蛭子町400
営業時間 月~金曜日 8:00~18:00 土曜日 8:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

進取の気風に富む ギャラリー&カフェ

京都の町は、碁盤の目の通りに生業と深く関係する、低層の町家が並ぶ町並みに特徴があります。一方、大正から昭和初期にかけて建てられた特徴のある個人の住宅は、西洋建築を取り入れながら、京町家の様式を所々に受け継ぎ、みごとに京都らしい文化性と美しさを備えています。
進取の精神と自由な気風がみなぎる、北白川の梅棹忠夫邸をギャラリー&カフェ ロンドクレアントとして再生した、次男のマヤオさんに話を伺いました。

京都大学関係者が北白川の新住民

ドアと格子状の外壁が特徴のロンドクレアントの外観
すぐ近くには国の登録有形文化財となった駒井邸もあります

左京区北白川はかつて、京都市中から離れた田畑が広がり、古くから花の栽培が盛んな里でした。農家の女性が手甲脚絆姿で花を売り歩き「白川女」と呼ばれました。その北白川が住宅地になったのは、大正時代から昭和の初めにかけてでした。近くに京都大学があり、その関係者が多く住み、学生の下宿もできています。

現在の中庭にて梅棹マヤオさんと奥様の美衣さん

梅棹家が北白川の家に住み始めたのは昭和24年。家はその時点ですでに修繕が必要な個所がありましたが、梅棹氏は自ら大具道具を揃えて手を入れ、学者仲間を驚かせたそうです。
家は真ん中の枯山水の庭を囲んで、回廊を巡らせたとても独創的な造りになっています。中庭の飛石や手水鉢は、すべて西陣の生家から運んで来たもので、梅棹氏は、この石の上を歩きながら考えをまとめていたそうです。この庭を一緒に造った、京都大学造園学教室の吉村元男氏は「枯山水もかつては、庭の中に入って石組みを鑑賞していた。その意味では、枯山水を元の姿で楽しんだ『庭の改革者』です」と語ったそうです。

日本における文化人類学のパイオニア、梅棹忠夫氏

梅棹氏は、国立民族学博物館の初代館長に就任し、19年間の長い間館長を務めた民族学の大家であると同時に、探検家としても知られています。自宅には毎日のように、後輩の学者や学生、ジャーナリスト、作家といった多彩な人々が集まり、いつしか「梅棹サロン」と呼ばれるようになりました。型にはまらず、上下関係のない自由な談論風発の場となり、多くの研究者が育っていきました。
その発展形として「京都大学人類学研究会」が誕生し、会場が近衛通にあったことから「近衛ロンド」と呼ばれました。ロンドとはエスペラント語で「集まり、小集団」を意味します。梅棹氏はエスぺランチストでした。
エスペラント語は、19世紀末に、ロシア領ポーランドのユダヤ人、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語です。彼の生きた時代も、世界の各地で戦争が絶えることがなく、国境を超えた共通のことばで話し合い、理解し合うことが不可欠だと考えたのでした。マヤオさんもエスペラント語の精神に魅かれ続けたきたと言います。
マヤオさんは小さな頃から絵を描くことが好きで、高校の陶芸科からカナダの芸術大学を卒業しました。「外国へ行ってみたいと思うようになったのも、子どもの頃、家に集まるいろいろな人の話を聞いたり、なかに留学生もいて、そんな環境があったからだと思います」と語ります。「カナダへの留学や芸術大学へ進むことも反対されことはなく、自由に自分自身がやりたいことをやっていくように導いてくれたのかなと思います」と続けました。北白川の家は、梅棹サロンに集った人々やマヤオさんの源流です。

美山での35年間と北白川の家


マヤオさんは昭和56年、作陶と住まいとなる家を探している時に、築120年の大きなかやぶきの農家と出会いました。その家は、雪の量や日当たりなどの立地条件はどうでも良いと思えてくる圧倒的な存在感があり、あらがえない魅力を放っていました。
美山の大自然のなかで二人の息子さんを育て、美山の季節料理「ゆるり」を経営しました。若手の腕のいいかやぶき職人との出会いや、夏祭り、30回に及ぶコンサートの開催はなど、美山でも様々な楽しいことをつくりあげてきました。

古民家レストラン・厨房ゆるり

現在、ゆるりはマヤオさんの息子さんご夫婦が経営されています。息子さんは、子どもの頃同じように美山で遊びまわり、現在は猟師と料理人になっている二人の友人と、増えすぎたシカとイノシシを美味しく食べて、荒れてしまった里山を取りもどそうと、有限責任事業組合「一網打尽」を立ち上げました。捕獲、解体、精肉、販売までを行い、新鮮でおいしいジビエを提供しています。誰もやっていないことでも、やりたければやってみるという梅棹家の精神が、息子さんにも受け継がれています。


マヤオさんは、北白川の家を約2年かけて改修し、2015年8月にギャラリー&カフェ「ロンドクレアント」をオープンしました。名前はエスぺラント語からの造語です。ロンドは先述したように集まり、サークル。クレアントは創造者、つくり手、クリエーターといった意味です。

美山から持ってきた石臼が置かれた中庭と回廊

音楽、工芸、写真、小さな報告会など様々な人が集まり、交歓し発信していく。そんな空間となってほしいというマヤオさんの願いがこめられています。築80年以上経っている建物は、耐震化、断熱化をしっかり行うこと、回廊や中庭など基本は残すことにしました。マヤオさんの友人とその息子さん、忠夫氏とともに家つくりにかかわった工務店の次代をはじめ、デザイナー、設計者造形作家などたくさんの人が参画しました。この改修自体がまさに、梅棹サロンだったと言えます。
格子が建物の前面を覆い、シンプルで北白川の景観になじみ大きな看板を立てなくても「ちょっとのぞいてみたい」と思わせる雰囲気をかもしだしています。伝統的な京町家とモダニズムの住宅のそれぞれの良さをあわせもった新たな空間が生まれました。

人と人がつながり、育てていく


マヤオさんは、「若い人が外に向かってアートを発信しなくなっている」と感じていました。ギャラリーはもっと自由でいい。質の高い音楽を楽しみ、知らない人同士でも音楽談義ができる。通りがかりの人や近所の人が、ふらりと寄って、お茶を飲んだり本を読んだり。ごろんとして、ゆっくり過ごしてもいい。そんな空間にしたいと考えて、ロンドクレアントをオープンしました。より早く、より刺激の強いものへと向かっていくこの頃。もっとゆっくり、季節の移り変わりも感じられるような、ゆとりが必要だとも感じています。
写真展、ギャラリートーク、多彩な作品展、おとななジャズ、オーストラリアの先住民の木管楽器など民族楽器の音色やリズムが魅力的なデュオ、堅苦しいイメージを払拭したクラシックのトリオ、また未就学児も聞ける歌のコンサートなど「ジャンルは問わず質は高く」のスタンスで、すでにたくさんの企画展やコンサートが開かれ、終了後は、マヤオさんと奥様の美衣さん手づくりのおいしいお料理とワインやビールを楽しみながら、出演者を囲んで、とてもフレンドリーな雰囲気のパーティもあります。

マヤオさんは今「点が面になって来た」と実感しています。ここへ足を運んでくれた人たちが、さらにこの輪を広げてくれることでしょう。
家も住む人と一緒に歳を重ねていきます。家族やそこを訪れる人たちが良い関係を結べる家であるように、建都は今後も住まいのあり方を追求してまいります。

 

rondokreanto
京都市左京区北白川伊織町40
営業時間 11:00~19:00
定休日 月曜日