八幡の松花堂から 椿事始め

椿は梅と並び、古くから愛されてきた花です。余寒のなかで凛として咲く姿は字のごとく、春の訪れも感じさせ、私たちの心に響きます。山に自生する椿の大木、お寺の参道の落ち椿の美しさなど、その光景が目に浮かんできます。
冬から春にかけてのお茶席には、椿が入れられ、侘助、白玉など、その名も深い趣があります。奥の深い花、椿の事始めは広大な敷地の中に椿園がある、八幡市の「松花堂」から出発します。

伝統建築と、竹の文化と技術の継承

茶室松隠
松花堂の茶室松隠

松花堂は、22,000㎡の広大な庭園です。石清水八幡宮の社僧であり、茶の湯、書、絵画をよくした江戸時代初期の代表的な文化人、松花堂昭乗の草庵「松花堂」や寺坊の一つ泉坊の書院が、明治政府の「神仏分離令」により、男山から取り払われた際に東車塚古墳にある現在の地へ移築し、整備されたものです。幾多の変遷をたどりながらも守られ、平成26年(2014年)には「松花堂及び書院庭園」が国の名勝に指定されています。

松花堂の竹
2018年の地震と台風被害により、草庵「松花堂」泉坊書院、東車塚古墳のある内園区域は、残念ながら修復作業中で見学ができませんでした。そこで、まぶしいほどの日差しのもと、ゆっくり庭園をめぐりました。
松花堂庭園には、梅や椿、もみじ、などが季節ごとに楽しませてくれますが、約40種類の竹や笹が植えられています。八幡と竹は、エジソンが電球のフィラメントに使ったように質の良いことで知られます。

松花堂の金明竹
金明竹
松花堂の亀甲竹
亀甲竹

「金明竹(きんめいちく)」という、節に緑と黄色が交互に入った竹や、節が亀のこうらのようにねじれた「亀甲竹」という竹など、珍しい竹が見られます。また、柵やしおり戸、鯉が泳ぐ池の竹組など、あちこちに伝統の職人技を見ることができます。

松花堂の池

松花堂の茶室梅隱
松花堂の茶室梅隱

利休の孫にあたる千宗旦好みの四畳半の茶室を再現したという「梅隠」の内部は、行灯の周囲だけがほの明るく、陰翳が広がる静けさが漂う空間でした。外の伸び伸びとした明るさとの対比がくっきり浮かび上がっていました。
つくばいに設えられた「水琴窟」の響きは、宇宙的とでも言うような感じがします。耳を澄ますという行為そのことが今の日常には、なかなかないことです。小鳥のさえずりと、水琴窟の響きが聞こえ、馬酔木の鈴なりの花房が、かすかな音をたてているようでした。

気品、可憐、華やか。百花百様の椿

松花堂の落ち椿
園内の300本を超えるという椿は、花の盛りを過ぎた種類もありましたが、青々とした苔と落ち椿の対比は、やはり風情のあるものでした。
椿は江戸時代に一代ブームが巻き起こり、公家や大名、市井の富裕な人々が競うように珍しい椿を育て、鑑賞したそうです。そして、絵画や書、図録、また工芸品、着物や装飾品など身の回りのものにも椿の意匠が用いられていきました。昭乗は、茶の湯もよくしたので、多くの茶人と同様、椿を愛でたことでしょう。松花堂の庭園に様々な椿が植えられているゆかりです。

松花堂の燭光
燭光という品種の椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂の椿、鹿児島
鹿児島という品種の椿

園内の椿を見ていくと、赤でも鮮やかな赤、少し黒味を帯びたような赤、紅色、薄紅色、白、絞りなど本当に微妙です。花の開き方や花芯も様々です。そしてやはり花の名前にもひかれます。「白楽天」「京雅(きょうみやび)」「燭光(しょっこう)」「細雪」「一子侘助」「常照皇寺早咲き籔椿」「霊鑑寺早咲き籔椿」など、ひとつひとつその花に込めた思いや由来を想像してみます。白地に赤い縞模様の華やかな椿は「鹿児島」という名前でした。来歴や命名の由来など興味は尽きません。

松花堂の椿、玉之浦
五島列島のから来た玉之浦

一度では、椿園のほんの一部しかわからないのですが、中に特に心に残った名前がありました。「玉之浦」です。そこで帰ってから調べてみると長崎県の五島列島で発見されたということがわかりました。美しい五島の海と玉之浦という名前はみごとに一致していました。

東高野街道再訪、長崎の五島の椿

東高野街道

松花堂は東高野街道の地点にあります。庭園を出てから街道を石清水八幡宮まで歩きました。一の鳥居前は変わらず「走井餅老舗」がお店を開けています。門前の茶屋の風景は健在です。二の鳥居近くの和菓子屋さん「みささ堂」さんへむかいました。こちらも夫婦お二人で変わりなく元気にお餅を作っています。

みささ堂の製菓道具

石清水八幡宮二の鳥居
毎日お餅を搗く石臼、重い杵、餅箱も現役です。餅箱には「昭和拾参年」「拾弐月吉日」と墨文字がうっすら見えます。「昔の道具は、長く使えるように作ってあるから、丈夫。今も現役」と笑っていました。「杵は最近重い杵が作られてないので、今あるのを大事に使わんとね。本来の道具はこうでないと」と続けました。全部がお店を続けるための大切な相棒です。二の鳥居の近くにも二種類の椿が咲いていました。

五島列島福江島
五島列島福江島の美しい浜

八幡へ行った次の日「玉之浦」を調べることにしました。
以前、五島列島の福江島出身の方から、地元の話を聞いた時、椿の話も出てきました。春になると籔椿が島にたくさん咲くこと、髪は椿油で手入れをしていることなど、にこにこと、ふるさとの福江が本当に好きなのだということが伝わってくる話ぶりでした。
福江島は、今は五島市となり、市役所の農林課には、なんと「椿・森林班」という部署があります。電話をすると、椿担当の職員さんがとても丁寧に話してくださいました。美しい椿「玉之浦」には、島のみなさんがその教訓を今も大切にしている物語がありました。後に玉之浦と命名された椿は、昭和22年、炭焼き職人さんによって山で偶然発見されたものでした。
「玉之浦」は五島市になる前の旧町名です。その玉之浦の町長さんを長く務められ方が引退後、山歩きを楽しむなかで、その椿の姿に強く心をひかれ、大切に育て、乞われて全国椿展に「玉之浦」と命名して出品したところ広く世に知られるようになりました。
五島列島の椿、玉之浦
赤い花びらに白いふちどりの、この椿は大変な人気となり、枝や根を切られるなど酷い行為により、母木は枯れてしまうという無念な結果になってしまいました。しかし、その子孫が根付き、地元のみなさんにより、種を絶やさず今も玉之浦で美しい花を咲かせているそうです。
また、玉之浦の二つの地区では、毎年1月23日に、その年の豊作を願う伝統行事「大綱引き」があり、その綱の真ん中には椿の枝がさしてあるそうです。ほかのお祝い行事にも椿を使うとお聞きし、とても雅で五島のみなさんの椿を愛す心にあふれていると感じました。
五島市の市木はやぶつばきです。椿が咲く景観をとても大切にされています。そして現在も10社ほどが椿油を製造所しているそうです。今もこのように自然の恵みを暮らしに役立てていることはすばらしいことです。五島は暖かいので今年も2月下旬には椿が咲き、とてもきれいだったそうです。「今は旅行ができませんが、コロナが収束したらぜひ島へお越しください。お待ちしています」と、うれしい言葉をいただきました。
電話口からも、五島の美しい風景とあたたかい人柄が伝わってきました。椿事始めの初回は、豊かな気持ちで満たされました。

 

松花堂庭園・美術館
八幡市八幡女郎花43-1
会館時間 9:00~17:00
休館日 月曜

京都のまちかどの おとうふ屋さん

「今日は湯どうふ」と、何回もお鍋を囲んだお家も多いことと思います。季節を問わず、年中お世話になっているおとうふ。良い水に恵まれている京都は昔から「京のよきものとうふ」と名をあげていました。
上京のまちに今も、おくどさんで薪を焚いておとうふを作り続けるお店があります。
「創業文政年間」と染め抜いたのれんが、京町家にしっくり調和する入山豆腐店です。ご主人の入山貴之さんに話をお聞きました。おとうふのこと、お客さんのやりとり、京都の歴史等々の話題が次々と繰り出し「もっと聞きたい」入山さんの味なお話を、ほんの一部ですが、おすそ分けいたします。

ものは人の手がつくっている

入山とうふ
入山とうふ店主の入山貴之さん

京都のまちなかには、名水の湧く井戸がいくつもあります。上京区の「滋野井(しげのい)」の名水は、元滋野中学校の校歌にも「滋野井の泉のほとり」と歌われ、地元の宝として大切にされてきました。入山豆腐店もこの地域にあり、井戸から地下水をくみ上げています。近辺にはおとうふ、生麩、醤油など良い水があってこその生業が営まれています。
入山とうふのおくどさん
入山さんのお店では、機械を使うのは大豆をすりつぶす作業だけです。このすりつぶした大豆を、おくどさんにかけた大釜のお湯に入れて炊いていきます。ガスにすれば手間はかかりませんが、カロリーが低いので時間を要します。その点、常に火加減に注意し、微妙な調整も必要ですが、薪は火力が強く短時間で炊きあがり、香りや風味を生かすことができます。
按配のよいところを見きわめて、炊いた大豆を袋で濾すと、豆乳ができます。この豆乳に、にがりをまぜて型に流し、余分な水を除いてから水槽の中で切って、おとうふの完成です。焼豆腐は串を打って炭火で焼き上げています。これは秋から4月いっぱいくらいまでの季節のものです。焼目こんがり、こうばしい味、よい香りは「入山さんのお焼き」だけのものです。
入山とうふの油揚げ
お揚げやひろうすもおくどさんで、きれいな油を使い、丁寧に揚げているので、油抜きする必要はありません。豆乳も機械でぎゅうぎゅうしぼり切ることがないので「お客さんから、ジューシーやと、よう言われる」しっとりしたおからになります。炒らずに、そのまま使っておいしくできます。豆乳も毎日買いに来るお客さんも多く、冬は豆乳鍋にするお家もあるとか。質の良い水と原料、誠実な手仕事で作られたものは、何にしてもその素のよさが生きています。
薪を割る入山さん
大豆を水に漬けるのは前の晩、朝4時からおとうふを作りお客さんに応対し、合間には薪を割りその他諸々、仕事がたくさんあります。年2回は近くの小学校の見学を受け入れています。「体を使って働く姿を見ることがないと思う。ものは人間の手がつくり出しているのだということを知ってもらえたら」という思いです。ものづくりは人の手がつくり出す。入山豆腐店はおいしさとともに、その大切さを教えてくれます。

鐘の音と「入山さーん」と呼ぶ声

姪ごさんの太田真莉子さん
姪ごさんの太田真莉子さん

2年前から、火曜、木曜、土曜の午後は近くの町内をリヤカーでまわる「まわり」を復活させました。担当は、2年前からお店を手伝っている姪ごさんの太田真莉子さんです。真莉子さんの後にくっついて、まわりに同行させてもらいました。リヤカーに真莉子さん手書きの「入山とうふ」の看板を付け、入山さんのお祖父さんの時代からのりっぱな鐘とともに出発です。

あいにくの冷たい雨でしたが、晴天続きで井戸が枯れかけていた入山豆腐店にとっては、恵みの雨です。よく響く鐘の音が家の中にも届いて「入山さーん」と声がかかります。「雨の日は本当に助かる。まわって来てくれはるし、ありがたいわぁ。入山さんとこのは、おいしいしね」そして「雨の日は大変でしょう。気ぃつけてね。いつもありがとう」という言葉に、信頼関係や感謝の気持ちがこもった、とてもあたたかいものを感じました。
まちなかでも、このあたりはお店がなく、高齢の方をはじめ多くの人が真莉子さんのまわりを頼りにしています。一言ふた言でも、そこで交わす会話に気持ちがなごむことでしょう。
2階からかごを降ろして買う思いがけない楽しい場面にも遭遇できました。

「今日はお客さんが多かったです。3人だけとかいう日もあります」と真莉子さん。まわりを始めたのは、どういうことからですかという問いには「必ず需要はあると思っていました。入山豆腐店がせっかくこれまでやってきたことを大切にしないともったいない。必要とされているところ、待っていてくれている方に応えたいと思って冬も夏も、お客さんが少ない日も、曜日も時間も変えることなくまわりをしています。」
みなさんも運が良ければ真莉子さんのまわりに巡り合えるかもしれません。鐘の音が聞こえてくるか、耳をすませてみてください。

江戸時代の作り方は、究極のエコだった

入山とうふの店頭
薪をたくなつかしい匂いと、煙突からうっすらと上がるけむり。入山さんがのれんを出し、店頭にはみずみずしいおとうふをはじめ、揚げたて、焼きたてが次々と並んでいきます。同時にお客さんがやって来ます。「ただ今開店しました」というふうではなく、何となくゆるく開店する感じも、ほんわかした雰囲気です。
入山さんのお父さんが跡を継いだ時は昭和30年代、世の中が大きく変化し始めた時でした。豆腐製造業も機械化が進み、多くのお店が機械化・量産化へ舵を切りました。スーパーマーケットができ、食品へも大量生産、価格競争の波が押し寄せた時代です。お父さんも機械の導入を考え、先代に相談したところ「とうふ屋が数に走って売り上げを上げたらあかん」と返され「これまで通り」を続けてきました。「結果、よかったかな」と入山さんは思っています。

おとうふは、外国の人に多いベジタリアンやヴィーガンの人たちも食べられます。「そういう点でも日本のとうふは世界の人に安心して食べてもらえる優れた食品で、食べ方もいろいろアレンジできる。しかも歴史や文化的な価値がある。シンプルという日本人の考え方はすごい」と可能性を感じています。

おくどさんで焚く薪は、大工さんから手に入れる端材を利用し、消し炭も火付け用に取っておき、灰は豆乳をこすふきんなどを洗う時に使います。「捨てるものは何もない究極のエコ」です。あるものを生かして使い切り、循環させる作り方には、今の時代に多くの人が感じ、見つめなおして大切にしようという暮らし方、ものづくりの本来の姿があります。
入山さんは人と話すことが大好き、本が好き、いろいろなことに興味があり、多くの人、外国のお客さんともコミュニケーションを楽しんでいます。入山さんは「それが、まち店の意味」と語ります。そこからお店の経営や考え方にも柔軟性が発揮されているように感じます。

商品名を書いた札や、イラスト入りのボードなどは、すべて真莉子さんの手になります。真莉子さんの「リヤカーを、赤とか明るい色にして、もっとかわいくしたい」という構想に、入山さんは「それもええなあ」と応じます。二人のやり取りや、かもしだす雰囲気が何かいい感じです。淡々と明るく仕事を進める二人の様子は、二百年ののれんも軽々と、とても身近に感じられます。おいしいおとうふ屋さんが近くある幸せ。ささやかな喜びの積み重ねが、京都のまちと暮らしをかたちつくっています。

 

入山豆腐店
京都市上京区椹木町通油小路 東魚谷町347
営業時間 9:30頃~18:00頃

蔵を回り めぐり合った酒と人

寒中らしい、底冷えの京都です。
この厳しい寒さが、日本酒、みそ、醤油など、発酵食品のおいしさを生み出します。二条城近くの西本酒店に、今年もこの季節だけのお楽しみ、気鋭の蔵元から、寒造りの新酒が届きました。他ではなかなか手に入らないものがあり、角打ちもできるこのお店に、口コミで訪れる人が増えています。これぞ酒屋さんという風貌の西本酒店の三代目店主 西本正博さんと番頭さんの中村信彦さんに話をお聞きしました。

ビールはケース売りのみの決断

西本酒店の店内
今では珍しくなった店構えが目にとまり、はじめて西本酒店で話をお聞きしたのは2年前の秋でした。その時も日本酒の品揃えに驚きましたが、さらに充実しています。
以前は町内に1軒くらいはあった酒屋さんを、取り巻く環境は大きく変わりました。ディスカウントストアができ、コンビニやドラッグストアでもアルコールを買える時代に入ったことがあげられます。ビールを販売しても安売り価格を知っているお客様にしたら「高いなあ」ということになります。売っても喜ばれないとは「何してるこっちゃわからへん」と「ビールはケース売りのみ」の決断をし、以前から定評のあった日本酒特化へと方向を定め、力を注ぎました。
それまで顧客だった人たちが高齢になり、個人売りの販売量も減っていました。そこで個人にかわり、飲食店への販売主流に切り替え「ビールはケース売り」「日本酒へ特化」、つまり安売りはしない、もっと日本酒を追求し扱いを多くする、という決断は、西本酒店にとって新しい展開の道すじとなりました。

酒造りに一心に励む蔵元を訪ねて

西本酒店の城巽菊
西本酒店の創業は明治35年。二条城の東南の巽(たつみ)の方向にあたることから「城巽(じょうそん)」とあらわし今も地域は城巽学区と呼ばれています。この名にちなみ初代は自家醸造の日本酒「城巽菊」をつくりました。優雅で気品のあるお酒だったそうですが、戦争で製造中止を余儀なくされました。西本さんは何とか再び世に出したいと願い、滋賀県の蔵元との出会いから、平成14年に復活させました。
西本酒店にはたくさんの蔵のお酒がありますが、ことに滋賀県の蔵の品揃えが充実しています。西本さんのお話によると、滋賀県は「琵琶湖の水、よい米、腕のよい杜氏の三拍子が揃い、蔵同士が切磋琢磨して競ってきた」から、今も多くの蔵元が一生懸命研究して、伝統と新しい試みの両方にがんばっているのだそうです。

西本酒店の三代目店主 西本正博さん
西本酒店の三代目店主 西本正博さん

番頭の中村さんはアルバイトだった学生時代からずっと西本酒店で仕事を続けて今に至り、西本さんも頼もしい片腕として全幅の信頼を置いています。
中村さんは滋賀県を中心に、自分の足で蔵元を訪ね「これは」と感じるお酒を見つけて来ます。「造っている人の話を直接聞けますし、こういう人たちが造っているのだなとわかります。酒造りもやっぱり人です」と、話してくれました。そして滋賀のいいお酒をもっと置いていきたいと、静かながら、しっかりした口調で続けました。
その意気込みが伝わって「特約店」となり、一般のお店には卸していないお酒も入れることができています。そして自分たちでも「ええお酒やなあと思ったものがお客さんにも喜ばれたら、こっちもうれしいし返り注文(再注文)もできる。蔵元も喜んでくれる」という、本当に三方良しの商いが生きています。

蔵元の社長さんも訪ねてみえたそうで、良いお酒を造るつながりに、販売店も一緒に加わるということはすばらしいことだと思いました。店頭には、待つ人多しの蔵元直送の酒かすが並んでいます。複数の銘柄の酒かすを置いているのも、いかにも「日本酒に特化」のお店です。

日本酒好きは増えている確かな実感


日本酒の生産量は平均的には落ちています。しかし西本さんは、一般的に言われる「日本酒離れ」とは違う見方をしています。それは「若い人や女性が増えたこと、仕掛けられたブームや流行りという情報ではなく、自分に合う気に入ったお酒を見つけるために、みんな、しっかり質問するという点です。後ろの酒米や麹などの表示も確認します。
質問も、より深くなっていて「こっちもしっかり勉強していかんと、お客さんのほうが詳しくなってしまう」ほどの研究熱心な人ばかりだそうです。そして「燗酒好き」も若い人に多いそうです。

角打ちスペースにはお燗セットもあります

若い世代、女性の来店が多いのは、その思いにかなう品揃えやお店の対応が得られるからです。「あそには、なかなかおもしろい酒がある」という口コミによって、わざわざ足を運ぶ人もめずらしくありません。西本さんは「消費税が上がって売り上げが下がっていたところにコロナ。でも、不特定多数の個人のお客さんに助けられている。よかったなあと思う」と笑顔で語ります。「今の若い人は自分の好みで買う。そこがこれまでとの一番の違い。日本酒に特化することは時間がかかるけれど、思い切ってやってよかった。時代は変わっている」と続けました。
ディスプレイも担当し自ら考案した「MY SAKEを見つけよう」のキャッチコピーが光っています。
西本商店の店内
「造る人と買う人の仲立ちには、なってるかなと思って、生きがいを持ってやっている。一生勉強」と語る言葉も力強いです。
これまでとは行動パターンが変わった今、ゆっくりと「自分が好きなこと、もの」をさがし、向き合う時間に使うこともできます。番頭の中村さんは、こまめに面白くSNSでの発信を続けています。ぜひ、ご覧になってください。ゆっくりとかもしだされる日本酒の魅力を感じながら、燗酒など静かに傾けてみてはいかがでしょう。

 

西本酒店
京都市中京区姉小路西洞院西 宮木町480
営業時間 10:00~19:00
定休日 日曜、祝日

清々しい青竹に感じる 新年を迎える喜び

門松や神社のしめ縄の青竹の色が新年にふさわしく、気持ちも改まります。成長が早く、地下でしっかり根を張る生命力の強い竹は、古くから縁起のよいものとされてきました。少し前までは暮らしのごく身近にあった竹について、京都の西、乙訓で茶道や華道、料理の道具をはじめインテリア、内装や建築資材など幅広く製造する「竹屋の六代目」東洋竹工代表 大塚正洋さんに話をお聞きし、新しい年を迎えることの大切さを思いました。

仕事や暮らしになじみ、根付いた日本の竹

東洋竹工
東洋竹工では門松や、初釜に使う青竹の蓋置や花入れ、料理に使う容器や箸、お正月飾りなど、新年用のあれこれの納品が終わり、目くるめく忙しさから、少しほっとした雰囲気が漂っています。その時々の新しい工夫やデザインを加えながら、新年に青竹を使う意味、改まった清々しさが伝える習わしを大切にしています。

現在、日本では孟宗竹、真竹、淡竹の3種類で竹全体の90%を占めています。孟宗竹はざる、かご、箸、また作物の支柱や稲はざ、鰹の一本釣りや海の中に沈めて魚を囲う生けすなど竹は、農業や漁業、建築資材など広範囲に使われてきました。日本古来種の真竹は編みやすく材質に優れているため、様々な竹工芸品が作られ、細く割りやすい淡竹は、茶筅に加工されています。また、竹製品はそれぞれの用途に合わせて、より丈夫で使いやすく工夫が続けられ、進化してきました。たとえばお茶の加工工程では、静電気の起きない竹の道具は非常に適していて、茶葉をふるう「通し」という作業に使う目の細かい竹の“ふるい”は、重要な品評会に出品するお茶の出来栄えにも影響するほどです。

東洋竹工の展示室
たくさんの竹製品が展示さてれている東洋竹工の展示室

縄文時代の遺跡から、漆を施したざるや、土に残った網目が発掘されているほど、竹は日本の風土に結びついて利用されてきました。竹の起源については、筍を収穫する孟宗竹は中国江南省あたりから鹿児島へ伝わったという説が有だと思うと、大塚さん。しかし「そのルートなら沖縄を通るはずだけれど、沖縄には孟宗竹はない」そうで、渡来したルート解明にも興味がわきます。またインドネシアやタイにも、日本の「かぐや姫」の物語に似た「竹から生まれ月へかえる」類の伝説があるそうです。東南アジアには竹の産地も多く、竹を加工する技術も伝承されているということで、大塚さんは「アジアは同じ民族だったのではないかと思う」と続けました。竹から広がる壮大なロマンの一端です。

竹林再生のボランティア活動の支え手

竹林整備
竹林の整備をされる大塚正洋さん(中)と健介さん(右)

産業構造や暮らし方の変化のなかで、竹を優れた資材として使う場面はめっきり減りました。また、京都の伝統野菜に指定されている「京たけのこ」の栽培も、後継者難もあり減少し、荒れた竹林の再生と保全は大きな課題となっています。
この京のさんぽ道「京都の竹林再生 幼竹がメンマに」でご紹介した任意団体で、竹林の環境整備と活用に取り組む「籔の傍」の活動に大塚さんも参加しています。地道な、そして創造的で楽しく、幅広い年代が参加する活動です。東洋竹工製造部長の高木稔さん、息子さんの健介さんも指導にあたるなど、竹の専門家としてのバックアップを続けています。向日市が整備した「竹の径」沿いに進められている伝統的構法による竹垣つくりにも、みんなで取り組んでいます。
今後は、このように景観保全や伝統の職人の技の継承に市民がかかわり、にない手となる流れが歓迎され、広がるのではないと感じます。
竹自動車
「竹は日本、日本の京都」を世界に知らしめたのは、エジソンがフィラメントの素材に八幡の真竹を使ったことです。大塚さんは大学や竹の研究者と一緒に、竹皮から繊維をとる開発に取り組んだり「竹自転車」や「竹自動車」の共同開発にも参画しました。
「世界に知られた京都の竹も、ぼうっとしていたら忘れられてしまう。100年以上前に積み上げてくれた遺産を食いつぶすことのないように」と、今も変わらず「竹の可能性」をいつも考えています。それは勿論簡単なことではないはずですが、「竹のことは一日話しても足らん」と笑う大塚さんの探求心が留まることはありません。

「もっと、おもしろく」をこれからも

羽田空港国際線ターミナル
竹のイルミネーションは国際線ターミナルに飾られ、海外の方をお出迎え

東洋竹工では、伝統の技術や乙訓産の竹の、素材としての質の良さにこだわりつつ、常に新しい出会いへのアンテナを張っています。東京の六本木ヒルズや羽田空港ターミナルのイルミネーション事業の仕事も手掛けました。

京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品
京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品

立体的にカットされた竹の花入れ
立体的にカットされた竹の花入れ

その時に照明デザイナーと知り合い、竹という素材の可能性やおもしろさを生かした製品が生まれました。竹を繊細に編み込んだ照明器具、竹を「三次元」にカットして竹の繊維の立体的な表情と曲線が美しい花入れ、竹の切り口を生かしたインテリアなど、竹の持ち味をこれまでにない形で生かした製品の数々です。

一人用の竹せいろ竹の盛り籠
太い孟宗竹の節に穴を開けた青竹の筒を見せてくれました。それは一人用の「せいろ」でした。大塚さんいわく「青竹の容器や箸を、1か月たっても青い色をそのまま保てるのは、板場の力」。個性的な盛り籠も料理人さんから注文されたもので「竹のことや食材のことを本当に知っている、力のある料理人が料理を盛って使いこなせる」という言葉はとても説得力がありました。
大塚さんは「竹の需要は今が一番縮こまっている時。20年たって竹の仕事があるか。次にどうするかを考えないといけない。」と語り「そういう意味では息子も、しんどい時に後継ぎになって苦労が多いと思う」と、息子さんを思いやる言葉も聞かれました。しかし、すぐに「竹という素材は応用がきく。素材から完成まで、一貫してできるのは竹」と続けました。

お正月用の花入れ
お正月用の花入れ

竹の用途が少なくなった今、竹と言う素材と用途がピタッと合うものはなかなか難しいそうですが、そのなかでふすまや障子の敷居の溝にはめ込んですべりをよくする建築材「竹すべり」は今も製造販売が続くロングセラー商品です。
東洋竹工の会社案内に書かれたキャッチコピーは「もっと、おもしろく」です。まん丸い竹は存在せず、節もそれぞれ違い同じものはありません。自然の素材を形にする難しさであり、そのおもしろさを引き出すことに作り手としての楽しさがあると言えます。伝統・現代・自然素材という要素を組み合わせる苦労から次の「おもしろい」が生まれると感じました。すっぱりと潔い青竹のたたずまいが、いっそう清々しく感じられる年の始めです。

 

東洋竹工株式会社
向日市寺戸町久々相13-2
営業時間 8:30~17:00
定休日 土・日曜、祝日

桂川のほとり 独創的野菜づくり

暑さが尾を引いた今年の秋でしたが、この野菜の端境期も終わり、冬野菜が本格的に収穫の季節を迎えています。京の伝統野菜は聖護院かぶや一年を通して出回る九条ねぎも今からが旬です。
京のさんぽ道でもこれまで2回ご紹介しました石割農園(「京野菜とともに海外にも挑戦」「京野菜農家がつくるレモン」 )でも、日の暮れまで作業が進められています。「オーダーメードの京野菜つくり」というベンチャー型農業を創業し、フランスで京野菜を作ったり、次々と新しいことを手がけるその人、石割農園代表の石割照久さんに、今どんなことを始めているのか、これからの農業についてなど、忙しい仕事の合間に話を伺いました。

昔の人の勘や経験を数値化する研究

初霜
京都では12月7日に初霜が降りました。京都地方気象台の観測データでは、平年に比べると19日も遅く、昨年からみても6日遅くなっています。朝晩は冷え込んでも、昼間はぽかぽかする小春日和の日が続きましたから、さもありなんでしょう。そしてその後、一気に冬型の天候となり、みんな「今年は暖かいと思っていたのに急に寒くなった」と言っていますが、石割さんは「今年は12月半ばから寒くなると思う」と、前から言っていたそうです。なぜ、そう思ったのかと聞くと「うるう年の年は暑さが長く続くなど季節がずれ込む。旧暦で見るとわかりやすい」という答えでした。そして「もずが鳴くと台風の直撃はないという、昔からの言い伝えがあるけれど、今年は本当にその通りでした」と続けました。
石割農園から望む桂川
石割さんの畑は桂川のほとりに広がり、対岸の西山の峰々と愛宕山を望みます。京都ではこの火伏せの神様を「愛宕さん」と、親しみを込めて呼んでいます。そして「愛宕さんに雲が参ると雨になる」という言い伝えは、日々の暮らしや農業の大切な情報として生かしてきました。気候風土とよく言われますが「空気、水、気流、それに鳥や獣の生息や習性もすべて含めての気候風土」と石割さんは考えています。
1980年代始めから西山の麓にニュータウンの建設が始まった結果、気流が変わったと語ります。そして「昔の人の教えをちゃんと聞いておかないとだめ。それは、人の話を聞く耳を持つということ」と力を込めました。身近な山や雲の様子から気象の知らせを受け取って来た先人たち。そしてその言い伝えは、今も当てはまり、私たちと自然とのかかわり方を教えてくれています。そして今、大学と共同して「昔の人の勘や経験を数値化し、科学的に証明する」という、とても興味深い研究を始めているそうです。
勘や経験という感覚的なことを今は数字で追えるという進化と、数値という厳密なものに置き換えてなお、深い意味を持つ勘や経験のすばらしさを感じます。

いかに、食べてもらう側に立つか

野菜の説明をしてくれる石割りさ
石割さんは安全な野菜作りに取り組んで来ましたが、そのきっかけはアトピーの子どもたちと、そのおかあさんたちとの出会いでした。アトピーに苦しむ子どもたちを何とかしたいという思いで「農薬を使わない野菜作り」の研究を始めました。石割さんの野菜を食べてもらい、その結果や感想をアンケートで返してもらうという協力関係をつくり、少しずつ自ら安全な野菜作りを確立していきました。農産物の規格や品質の基準のJASが広まるずっと以前のことだそうです。石割さんの子どもさんが「学食の野菜は洗剤の匂いがする。なんで家の野菜は違うんかなあ」と言い、親戚のお子さんは「これ、おっちゃんとこの野菜やなあ」と言っているそうです。
石割農園の里芋
普段食べているもので、こんなに味覚が育つということに驚きました。「自分が食べられないものは作らない。いかに食べてもらう側に立つか。あるから出荷するのではない」その「農家意識」が、農家と消費者側の私たちの友好的な関係を築いていくと実感しました。

おもしろい野菜とお正月を祝う野菜

石割農園の農具小屋
立派な作りの石割農園の農具小屋

石割農園は、江戸時代から続く農家で、京都の伝統野菜やブランド野菜の多くを作っていますが、その時々に料理人やレストランのシェフの求めによって洋野菜もいろいろ作っています。取材の日に畑で見せてもらったのは、ごく小ぶりな白菜やアンディーブ、中国野菜です。
土の匂いのする今とれたての野菜の味の濃さに驚きながらの「畑の学校」のようなひと時は、短い時間ながら最高の学びになりました。中国野菜は形がおもしろく、何種類か試作しているそうですが、何年後かは出せるようになるとのことでした。今から期待したいと思います

石割さんは、こうした新しい試みと同時に、世界中で持続可能な農業に取り組み、世界的な農業認証である「グローバルGAP(グローバルギャップ)」にも取り組んでいます。自然を相手にし、これからどんな農業をしていったらいいのか。コロナの影響で野菜の値段は半値になっているなか「京都の土に合った種を探し、使うこと」の重要性を説きました。売ることも大変だけれど、まず種を選ぶのが大変なのだそうです。同時に京野菜はその持ち味をなくして、一般的な味のものにしてはいけない、それぞれの風土が生んだ味を尊重することの重要性も強調しました。
白味噌のお雑煮
信子さんに石割家のお雑煮やお正月の決まりのお料理を聞きました。お雑煮はもちろん、白みそにかしら芋。たたきごぼう、お煮しめの野菜はすべて別々に炊くそうです。とても手間のいることです。新年のお祝いの膳に並ぶ野菜は全部、家の畑でとれたものとは何と豊かなお祝いでしょう。だれもが、自然に感謝し、家族が健康で新年を迎えることができる喜びを感じることができるよう心から願っています。

笑顔のお返し 京都寺町の駄菓子屋さん

だれもが目をきらきらさせて、どれにしようかと夢中になる駄菓子屋さん。いつまでもあってほしい大切なものの一つです。京都一番の繁華街、四条通り寺町南界隈の様子は大きく変貌しましたが、そのなかに幅広い年代の人が、吸い込まれていく駄菓子屋さんがあります。
初めてやって来た人も、子どもの頃によく来ていた人も、それぞれの思い出がよみがえり、懐かしさを感じる「船はしや」です。辻清之さん、扶公子さん夫婦で切り盛りしています。だれに対してもていねいで優しい応対に、ふっと顔がほころんで来ます。みんなを楽しく幸せな気持ちにしてくれる、とっておきの場所です。

グラフィックデザイナーの夢を乗せた店内

船はしやの店頭
いったいどのくらいあるのか想像もつかない量のお菓子やおもちゃ、人気キャラクターのお面がぎっしり、圧巻の店内です。入ると同時に迷ったり興奮したりの探検が始まります。「全部でどのくらいあるのですか」と、よく聞かれるそうですが、ついその言葉が口をついて出てしまいます。以前、おもちゃとお菓子で1,000種類くらい、お面は約300 種類と聞いたたことがありますが、今もその時と変わらない、わくわくする店内です。
船はしやのざる絵船はしやのざる絵
選んだ商品を入れるざるには「ざる絵」と呼んでいるイラストが描かれた紙が敷いてあります。イラストも、そこに添えられた言葉も清之さんの作です。お祭など季節の風物や職人尽くしなど、京都の情緒や伝統行事が楽しく描かれています。清之さんは若い頃、グラフィックの仕事を希望し、大手印刷会社に就職が決まっていましたが、卒業と同時に店を継ぎました。そこから50年。商品POPをはじめ、清之さんの夢がかたちになって店内にあふれています。

ざる絵の話をする辻清之さんと扶公子さん
ざる絵の話をする辻清之さんと扶公子さん

コミュニテイー冊子に4コマ漫画を連載し、講師をつとめる地域の絵手紙教室は、もうすぐ展覧会が始まります。お店だけではなく地元でも絵の技術を生かして活動していることを、扶公子さんが話してくれました。こういう場面も自然と息が合っていて、二人がかもし出す雰囲気も、お店の魅力です。遠くに住んでいるお孫さんにお誕生日のお祝いメッセージをLINEしたと、そのイラストを見せてくれた時は二人とも、幸せな「じっちゃん、ばっちゃん」の顔になりました。

流行りの鬼滅イラスト入りお孫さんへのメッセージ
流行りの鬼滅イラスト入りお孫さんへのメッセージ

代々のアイドルねこたちも、イラスト化され広告塔になってきました。ダンちゃん、オムちゃん、そして今も健在のジュンちゃんです。辻さんの子どもさんはみんな本好きだったことから、近所の本屋さんにちなんだ名前をつけたそうです。こんな楽しい話や発見がたくさんある船はしやです。

駄菓子の仕事から見えてくる社会の様子


船はしやは、五色豆の老舗として知られる寺町二条の船はしや総本店から分家して、清之さんのお父さんが昭和2年(1937)に豆菓子の製造卸とお菓子の小売り店として開業しました。清之さんも「煎り豆マイスター」として表彰されています。
寺町通綾小路下るにある船はし屋
電気街としてにぎわいを見せた寺町通りは、平成に入ってから電気店の減少が始まり、相次いで撤退していきました。また寺町通りの名前が示すように、仏具店、線香、すだれ・御簾などの専門店が並んでいましたが、ホテルと宿泊客のための飲食店が増えるなどまちの風景もさらに変わりました。
船はしやの店内
そして今また、コロナウイルスにより急激な変化が起きています。いつもよく話す明るい子が、最近はしゃべらなくなっているなど、お店にやって来る子どもたちもその影響を受けていると感じています。学区の運動会やお祭など行事が次々と中止になり、友だちとも自由に遊べないなど、おとなも子どもも、これまでとは違う毎日が続いていることを気にかけています。
仕入れする商品も国内生産は減少を続け、海外生産が増えているそうです。後継者の問題や利益が薄いこと、嗜好の変化、インバウンドの需要に合わせて生産していた商品の生産停止など、継続を困難にする要因があげられます。

いまだ衰える兆しのない鬼滅の刃シリーズは、入荷してもすぐに品切れになり、人気は衰えそうにありませんが、昔ながらのロングセラーのきなこ飴、きなこ棒、もち類、いか、するめ類なども店頭に並んでいます。また季節の決まりのお菓子「柚子おこし」や昔懐かしいはったい粉や豆菓子、あられなど京都で長年親しまれているお菓子もあります。
国内の製造所の多くが、家内工業の小さな規模だそうです。商品の袋に記載された製造所の住所を見ると、家族や少ない従業員さんで、がんばってお菓子を作っている様子が目に浮かぶようです。そして、ほっとできる場所になっている駄菓子屋さんのある幸せを感じます。

ふたりだからできる仕事を元気に続ける

船はしやの店頭
いくつもの段ボール箱で納品された、おびただしい数の商品の検品、値付けがタブレットを使って始まりました。そしてあるべき場所へ次々と並べられていきます。入り口から奥、周囲の壁、そして天井まで目いっぱいの商品なのに、ささっと配置していく、その記憶力、またお客さんの会計は、20個、30個の点数であっても暗算という、体と頭脳の元気さに脱帽です。

遊びながら学べると人気の知育菓子
遊びながら学べると人気の知育菓子

最近の特徴的な売れ筋は「知育菓子」ということです。家族でおもしろく遊べるひと時を、金額も手頃な知育菓子がつくってくれているようです。また在宅ワークの広がりからか、おとなのお客さんが買っていくことも多いそうです。夢中になれる時間はだれにも必要なのだと感じました。お店でアルバイトをしていた人が30年ぶりに遠くから来てくれたり、子どもの頃いつも来ていた人がおとなになってたずねてくれるなど、うれしい再会もあります。観光客や関西圏のお客さんの姿も多く見られます。
「子どもの頃、100円玉を握って必死に選んでた」「こんなに大きい袋にいっぱいで1000円。ものすごいお得感」など口々に話しながらお店を後にしていました。一個税込み20円、30円などばら売りを多くして、子どもの普段のお小遣いで買えるようにしています。

清之さんは大学で、駄菓子屋と子どもとのかかわりついて講義もされました。駄菓子の歴史から人間関係論、流通や国際経済等々、多岐にわたる内容です。「駄菓子屋を知らない」という若い人も多くなっている一方で、SNSで知ってやって来る人も少なくありません。地域で子どもたちを見守り続けて50年。去年金婚式を迎えました。「二人とも健康だから、これまでやってこれた。一人ではできない仕事」と、口を揃えました。
まちの様子は大きく変わっても、船はしやは変わらぬたたずまいと笑顔でみんなを迎えてくれます。京都の庶民の文化と楽しさここにあり、です。クリスマスやお正月、子どもたちの明るい笑顔と元気なおしゃべりが聞こえますように。

 

船はしや
京都市下京区 寺町通綾小路下る中之町570
営業時間 平日 13:30頃〜18:00頃 土・日・祝 12:00頃〜18:00頃
定休日 木曜日

京都の三味線職人と 職住一体の路地

京都のなかでも最も華やかな祇園界隈。顔見世興行決定の話題に湧く南座の近辺は、和装小物やぞうり、べっ甲、和楽器店などの専門店があり、三味線の爪弾きが聞こえてきそうな情緒を感じます。
「歌舞音曲」と言いますが、今まで縁のなかった邦楽のことを知る機会がありました。三味線職人であり、弾き手としても活躍するその人、野中智史さんの工房で話をお聞きしました。

棹や胴、皮張り、分業の三味線製作

野中智史さんの作られた三味線
三味線は多くの場合、分業制がとられていて、主に「棹」「同」「皮張り」に分かれて仕事をしています。
野中さんは棹作りです。工房には作業中の棹とともに、材料の木や様々な道具で埋まっていますが、整然とした感じがします。使う場所や作業の内容により、ノミだけでも何種類も使い分け、のこぎりや木づちまであります。

取材に伺った時は棹の修理中で、手元に置いた砥石でノミを研ぎながら、丹念に仕事をされていました。このような道具も、熟練の職人技で鍛えられたものですが、柄が継ぎ足されているなど、使いやすいようにカスタマイズされています。
何年も使い込まれたノミは、新しいものと比べると、先が、ずいぶんすり減っていました。まさに自分の手先となっています。三味線は通常三つ折りの仕様で作られますが、昔は「八折り」作らせて、職人さんの技を披露させた酔狂な人もいたのでそうです。

野中さんは、現在の工房の近く、祇園界隈で生まれ幼少を過ごしました。三味線や常磐津など邦楽を教える人も身近にいて、4歳から、けい古を始めたそうです。高校卒業後、伝統産業の専門学校に入学し、20歳の時に卒業制作の三味線を完成させたのが最初ということです。20歳の時、師匠のもとへ弟子入りを志願し、3回めにやっと承知してくれた時にかけられた言葉は「ただし、給料は払えない」でした。アルバイトをしながら師匠のもとに通い、やっと三味線で暮らしていけるようになったのは27~28歳の時だったそうです。
そして今日、京都に二人しかいない、棹作り職人の一人となって伝統の三味線作りを担っています。

野中智史さんが作った三味線の部品
三味線には、固くて緻密な木材である黒檀、かりん、紅木(こうき)が使われていますが、木目も美しい紅木が最高なのだそうです。実際にかりんと紅木の棹用の木材を持たせてもらいましたが、その固さと重さに驚きました。三味線の作り手がほとんどいなくなったと同じように、木材も枯渇してきて、あっても良い材が少ないということでした。危機には違いありませんが「良い音が出るなら、他の木でもいいのです」という野中さんの言葉に、悲観ばかりするのではない、こんな柔軟な思考がとても新鮮でした。かたわらのブリキの中には、木端がたくさん入っています。「捨てられなくて置いているのですが、修理の時に良い具合に使えて役に立ちます」ということでした。日々三味線に向かう、職人さんの言葉だと感じました。

いくつものけい古事のなかで唯一続いた三味線


野中さんは、先述したように幼い時から、芸事に親しんできました。謡、仕舞、踊り、常磐津のけい古もつけてもらったそうです。そして三味線だけは、途中で途切れることなく習い続けました。三味線の魅力を「フォルムも音色もすべてが美しい」と語る言葉に、好きを超えて、三味線と二人三脚のようにして、この楽器を究めていく姿を、垣間見た気がしました。
野中さんは、古くからの知り合いの依頼で、「ジャンルは色々、散財節」を、お座敷の宴席で弾いています。散財節とは「芸妓さん、舞妓さんを呼んで散財する」ことからきているとのこと。そういった粋なあそびをするお人が、まだいるいうことなのですね。最初に野中さんと会った時は、宴席での仕事が終わったところでした。銀鼠色の単衣に黒の絽の羽織を重ね、惚れ惚れする姿でした。
野中さんは「小唄くらいなら、だれでも気軽に始められます。初心者でも教えてくれるお師匠さんもおられますので、ぜひ、邦楽の世界をのぞいてほしい」と、思っています。また、芸術系の大学や、長唄三味線の方のワークショップ、お寺の檀家さんの集いなどで、講演mされています。縁遠い世界と食わず嫌いにならずに、一歩奥の京都へ、踏み出してみても楽しそうです。

「職住一体」京都の再生、あじき路地


野中さんは、若手の作家たちの、住まい兼工房が並ぶ路地の住人で、住人歴11年になります。空き家だった町家のある路地を再生して、若手作家が巣立ち、近所も含めて界隈の活気を生んだ例として、これまで様々なメディアで紹介され「京都景観賞」も受賞しています。西に五花街のひとつ宮川町、東に奈良の大和へ続く大和大路の間にある、この大黒町通は、町内が機能している地域です。

あじき路地を訪ねる時、目印になる「大黒湯」の高い煙突も、風景としてなじみ、路地にある現代アートのような手押しポンプもしっくりとけこんでいます。今回の取材を通して、ものづくり、職住一体、路地と町家といった、長年培ってきた京都の本来の姿は、まだまだ健在であることを認識できました。あじき路地には次々と魅力的な工房やショップができています。
東山区はことに変貌が激しかったここ数年ですが、暮らしのまちは脈々と生きています。

 

あじき路地
京都市東山区大黒町松原下ル2丁目山城町284
*工房もありますが居住もされていますので、訪問の際はご配慮ください。

だれもが笑顔になる 京都の猫本サロン

あどけない子猫、目やにのついたとぼけた表情の猫、不敵な面構えのボス風等々、たくさんの猫が迎えてくれます。思わず顔がゆるみます。棚一面に収められた2000冊以上もの本の中にいる猫たちです。ここは猫と人、人と人のよい関係を紡ぐ猫本専門の古本屋さんです。猫と本と旅をこよなく愛すオーナーと、店長を務める妹さんの櫻井映さんの、猫への愛情に満ちた店内には、今日もゆるく和やかな空気が流れています。地元の人が普段使いする商店街の猫本サロンを、久しぶりに訪ねました。

自由で気楽なサロンは開店3周年

猫本サロン サクラヤ
この京のさんぽ道でも「毎日通いたい京都三条会商店街」でご紹介した「猫本サロン 京都三条サクラヤ」は、文芸書、世界の名作、写真集、文庫、雑誌など、2年前よりさらに増殖し、よくも集めたり、天井近くまでぎっしり埋まっています。猫の本て、こんなにあるのかと思います。「どうぞ、手に取って見くださいね」と声をかけてもらい、夏目漱石、内田百閒、ヘミングウエイという文豪から岩合光昭など、洋の東西を問わず猫と深い結びつきのある作家や写真家、イラストレーターの本や作品集をゆっくり見ることができます。ミュージシャンにも猫好きが多いことを知り、ほのぼのとした気持ちになりました。なかには、現在、なかなか手に入らないものもあり、インターネットでの問い合わせや注文にも対応しています。
陶器の猫たち

立命館大学猫の会RitsCatのグッズ
立命館大学猫の会RitsCatのグッズ

本と同じように旅が好きなオーナーが、本に出てくる国や場所を訪ねた時に求めた、陶器の猫たちも、トルコ、ロシア、ウズベキスタンなど国際色豊かに並んでいます。作家さん持ち込みのポストカードや可愛い猫柄のマスクも あります。また、大学生がキャンパスで世話をしている猫の保護資金を得るための、猫の写真のポストカードやシールを置いたコーナーが、良く目立つ棚にあります。猫のしあわせのために頑張る、オーナーの大学の後輩たちへのエールです。ついつい長居をしてしまう人が多いのもうなずける空間です。「みんなが自由に気軽に集まり、楽しくいられるサロンに」という思いは、しっかりと3年の実りをみせています。猫本専門の古本屋さんは他にないそうですが、サクラヤの本はどれもきれいで、状態の良いものばかりです。仕入れたすべての本をアルコールで拭いて埃を落とし、透明のカバーをきちんとかけています。なかには新刊本と思いこんでいて、支払いの時に定価と違うので「え、これ古本なのですか」と驚く人もいるそうです。こういった本を大切にする心入れの一つ、一つも居心地の良い空間をつくっているのだと感じます。

小さな生き物への愛情は筋金入り

猫本サロン サクラヤの店内
映さんは、ご両親とお兄さん二人に弟さんの6人家族で育ち、お父さん以外は全員猫好きです。映さんがもの心ついた時にはすでに、家には猫が数匹と犬に小鳥がいたそうで、まさに小さな生き物たちと家族同様に育ちました。お母さんは「つい目が合ってしまったから」と捨て猫を度々連れ帰っていたそうです。家にいた猫や犬のエピソードは語り尽くせないほどです。

「子ねこが生まれる時にはお母さん猫が呼びに来ました。お腹をさすってあげたり、全部生まれるまでずっと一緒についていました。小学校の頃からお産婆さん役をしていたのです」と、微笑んで話をされた時には驚きました。逆児で難産だった時は、お母さんとふたりで必死に子ねこを取り上げたそうです。強い兄弟猫に押しやられて、なかなかお乳を飲めない弱い子ねこは、弟さんも自分のふところに入れて温め、授乳や排泄もさせてりっぱに育てたというのですから、櫻井家のみなさんの、猫との向き合い方は筋金入りです。
猫嫌いだったというお父さんですが、最後に白い子ねこ生まれた時に「白猫は神さんのお使いやから、よそにはやらん」と猫好きに鞍替えされ、その猫は20歳という長寿を全うしたそうです。
櫻井家には犬もいましたが、白猫が亡くなった後にやって来た黒トラねこと、とても仲が良く、黒トラが亡くなった時は、一週間くらい、その姿を探し回っていたという話や、お母さんが亡くなった時、そのわんちゃんは、ずっと側にいて4日間ごはんを食べなかったという話を聞いて、胸がいっぱいになりました。みんな本当に家族なのです。
サクラヤのあたたかい空気感は、猫本がたくさんあるからだけではなく、猫や犬と一緒に暮らし、気持ちを通わせた家族として最後まで見届けたことから生まれていると感じました。

猫が人の輪を広げてくれる、ゆるい場所

猫本サロン サクラヤの店内
映さんは「私は書店の仕事の経験がないし、本について知らないことが多いけれど、お客さんに教えてもらって、いろいろなことを知ることができました」と語ります。「こういう本はありませんか」と聞かれると「どこかにあるかなとお客さんと一緒に探したり」と笑います。このゆるく、それでいて親身な接客もサクラヤの魅力です。猫好きのためのマニアックな店というより、だれもが気軽に立ち寄って楽しく過ごせる場所です。
保護猫活動をしている人やボランティアで読み聞かせをしている人もやって来ます。「年齢がいって本を読むのはしんどいけれど、絵本は楽しくていい」と、時々顔を見せる人、常連の小学生のお母さんが一緒にやって来て「楽しい本屋さんですね」と安心したように言ってくれるなど、様々な人がやって来て、お客さん同士が親しくなることもしばしばとのことです。「外国の人でも猫好きな人は入って来た瞬間にわかります。言葉は話せなくても気持ちは通じますから、飼っている猫の写真をスマホで見せてくれて、一緒に笑ったり。人との出会いが本当に楽しいです」と映さんは語ります。
サクラヤの猫の絵本
将来、本のあるカフェを開きたいのでと、2、3か月ごとに猫の写真集を揃えている人もいると聞きました。そんな夢も育つ猫本サロン。学生時代、旅先から「櫻井金太様」と、猫の名前で絵葉書を送ってきたというオーナーのロマンと夢は続きます。映さんは「母が生きていたらきっとこの店を喜んでくれたと思います」と感慨を込めて続けました。オーナーの仕入れる本は、ますます増え、並べきれない本がまだたくさんあるそうです。
昨今は人通りが減り、少しさみしい日々ですが、多くの人が猫本探しや猫談義で盛り上がることができますように、一日も早くコロナウイルスと猛暑の影響が収束することを心から願っています。

 

猫本サロン 京都三条サクラヤ
京都市中京区 壬生馬場町5-1(京都三条会商店街)
営業時間:11:00~17、18:00頃
定休日:月曜日

京都のお花屋さんは 町家とフランスの粋

京都のまちなかの細い通りに、様々な緑にあふれ、個性的でありながら自然な感じの花屋さんがあります。よい風合いに錆びたプレートにペンキで記された「noix」とは、フランス語で木の実、くるみのことです。店主が学び、今の仕事の礎となった、フランスアルザス地方の風土のすばらしさへの敬意と思いが込められ、かけがえのない体験につながる名前です。
ノアはお豆腐屋さんの向かいにあります
京都の町並みにしっくりなじみながら、外国の町角のような雰囲気も漂わせるノアの魅力と、京都の生業のしなやかな強さを、花屋四代目、丸山沙記さんの言葉を借りてお伝えします。

花屋の実家を自らリノベーション

ノアの店頭
上長者町(かみちょうじゃまち)猪熊東入る(いのくまひがしいる)。歴史のある、いかめしい名の町内にノアはあります。丸山さんが生まれ育った実家を店舗兼住まいにしている、まさに職住一体の花屋さんです。
高校の園芸コースへ進み、専門的に学んだことを生かし、鉢植えや草花について、お客様に適切なアドバイスができます。店内にも外にも大胆に緑が配され、高い天井や窓の取り方など、ここが町家であるとは思えないモダンかつ古き良き時代の趣きもある空間となっています。
シックな水色の壁がおしゃれな店内
3年前、烏丸にあった店舗を移転し戻って来た時に、思い切ったリノベーションをしました。構造的な大きなところは、工務店さんにお願いしましたが、もともとインテリアが好きだったこともあり「できることは自分でやろう」と壁や天井のペンキ塗りや表の花壇は、自ら手掛けました。花壇つくりに孤軍奮闘していたところ、工務店の職人さんが見かねたのか「やったるわ」と、助けてくれたそうです。
ノアの店主、丸山さん
丸山さんは、華奢でやさしい雰囲気のなかに、強い思いやパワーを秘めた方とお見受けしました。それがお店の空間やディスプレイに表れ、訪れる人を「また来てみたいな。次はどんなものがあるのかな」という気持ちを抱かせるのだと思います。
お客様の好みもその時々で変わり、今はグリーン多めの草花系や、ドライフラワーにできるものを相談されることが多いそうです。花束やアレンジなど「自然ぽく」というのは一番難しいとという言葉も理解できる気がしました。また、花は実際の季節を先取りして店頭に並びます。「来る季節を待つ」という、日本人の感性である季節の楽しみ方について「季節ものはテンションが上がりますね」と語りました。
アジサイやバラなど色とりどりの花
花の種類の多さや微妙な色合い、それぞれの花に合った水揚げの仕方など、日本は栽培農家のみなさんがとても頑張っていてくれると、敬意を持って話されました。
また花屋も同業者同士、仲が良く、1店舗ではロットが多くて無理な花は、ほしい店で分け合うなど、協力し合っているそうです。以前は「競争相手」とみなしていた間柄だったそうですが、若い世代の人たちが参入することで、今は良い方向に変化し、発展しているのだと感じました。

フランス アルザス地方で培われたデザイン


丸山さんは、フランスのアルザス地方の花屋さんで働き学んだ経験があります。クリスマスツリー発祥の地と言われるストラスブールに近い村で、秋から冬の数か月を過ごしたのです。パリよりドイツやスイスのほうが近いという、日本人は一人もいない村で「日本人がいる」と、噂になったくらい日本とは遠い地です。よくぞその地へ一人で行ったと、その行動力に感嘆します。
クリスマスイブまでの約4週間を「アドベント」と言い、家々にはリースやオーナメントを飾り、ろうそくを灯し、この時だけのお菓子を食べたりして楽しく過ごすのだそうです。一年のうちで一番にぎやかで楽しい時のようです。この期間の花屋さんの店内は、それぞれドライフラワーや木の枝や実を使った手づくりのリースや吊り提げ型のスワッグや様々な飾りでいっぱいになるのだそうです。
息が白い寒いアルザスの冬、色とりどりのリースやオーナメント、ろうそくの灯はどんなに美しいでしょう。この時はまだ日本では、スワッグはもちろん、リースも一般的には知られていませんでした。丸山さんは伝統的なクリスマスリースやオーナメントの作り方など多くを学んだのでした。

「言葉のこともあるし、よく一人で行れましたね」という問いには「フランス語は1年くらい勉強しましたが、片言で話しているうちに段々お互いのことを知って通じるようになるのです」また「なだらかな丘が続いて、そこに羊の群れがいたり、かわいい家の集落があって、また丘があってという風景で、移動する時でもいつでも飽きるということはなかったですね」と語りました。
そしてノアの店名については「部屋を借りていた家に大きなくるみの木があったのです」と、目を輝かせて教えてくれました。独立してつくったお店の名前に本当にふさわしく、源なのだと感じました。

朝8時開店。お仏花もギフトも配達もあり

ノアの店頭
ノアは、定休日の木曜と月曜、金曜を除いては毎朝8時に開店します。朝早く開けるのは、ご近所のおなじみのお客様がお供え用の花を買いにみえるからです。こんなに早いのは大変と思いますが、丸山さんは「家と店が一緒なので、朝ごはん食べててもお客さんがあれば、すぐ出ていけますから、特別にどうと言うことはないのです」と、実にあっさりと答えが返り「住まいと店が一緒というのは便利です。私が配達や仕入れでいない時は、アレンジなどは無理ですが、それ以外のことなら家族が対応できますし、夜の配達にも行けます」と続けました。
ご近所の方がくれた古いミシンをディスプレイにご近所の方がくれた古い金庫をディスプレイに
ノアのインテリアは、全体に経年変化の味わい、あたたかみのようなものが感じらます。実際に古いラジオ、ミシン、頑丈な金庫などがディスプレイされて、いい雰囲気をつくっています。ラジオはおじいさんが使っていたもの、ミシンと金庫はご近所の方からの頂き物です。高齢のご近所の方が金庫を見て「こういうふうに使こうてるの」と感心されたそうです。その情景を思い浮かべると微笑ましくなります。
アンティーク風の空き缶を使った植木鉢
アンティーク風の植木缶は、「家族にも手伝ってもらいました」という、ペンキを塗りコラージュを施したオリジナルです。好きな缶を選んで好きな植物を植えて楽しむ人も多いそうです。また「一輪挿しに飾りたいので、1本だけでもいいですか」という方も増えているそうです。このような楽しみ方や、フランスのように、手みやげやちょっとしたプレゼントに気軽に花を贈ることが多くなればと思います。
丸山さんがインスタグラムにあげたアレンジメントなどを見て「こういう感じに」という注文も入るそうです。

花や緑のある暮らし、花で知る季節感、お仏花など暮らしの習わしとともにある花。ノアは、それを満たし、何でも相談できるうれしい、まちの花屋さんです。

 

Noixノア
京都市上京区上長者町通猪熊東入る杉本町462
営業時間 月・金 11:00~19:00
     火・水・土 8:00~19:00
     日・祝 8:00~17:00
定休日 木曜日

雨の季節の西陣の京町家 古武邸

日本には、季節や時間などにより細やかに表現された、400を超える雨の名前があると言われています。西陣の京町家、古武邸の庭の木々や敷石もしっとりと雨に濡れ、この季節ならではの趣をかもし出しています。
暴れ梅雨が早く収まることを祈りつつ、古武博史さんに話をお聞きしました。

面倒でも代えがたい、季節を知る楽しさ

古武邸表座敷の葭戸
伏見の旧家が建て替えでもらった葭戸が使われた表座敷

久しぶりに訪れた古武邸は、使い込まれ、飴色の艶を放つ葭戸や網代など、今年もきちんと夏のしつらいがされていました。昨年、お盆の行事を取材させていただいた折りには(西陣の京町家 古武家のお精霊さん迎え)お供え物があげられていたお仏壇は扉が閉じられ、床の間には「幸有瑞世雨」という、この季節にふさわしい軸が掛けられています。
幸有瑞世雨の掛け軸祇園祭の鉾とちまきを描いた色紙

訶梨勒(かりろく)
蝉の訶梨勒(かりろく)
西陣らしい繭の訶梨勒
西陣らしい繭の訶梨勒

鉾とちまきを描いた色紙や古武さんのお知り合いの方が作った和紙のミニチュア鉾、「訶梨勒(かりろく)」という、平安時代から魔除けとされた柱飾りなど、何となく華やいだ雰囲気も漂っています。この日飾られていた訶梨勒は、蝉と西陣にちなむ繭でした。

二階の座敷のほの暗いなかに浮かび上がる、萩の枝の戸や「四君子」の欄間の、陰影をたたえた美しさは、京町家が育んできた文化と美意識を端的にあらわしていると感じます。
欄間の端のモダンな雰囲気の意匠は、桂離宮の月を抽象化したデザインにならったものだそうです。古武さんはそのことを、見学に来た人から教えてもらったそうで「建築や庭園の研究者、大工や庭師の職人さん、いろいろな人が来るので、この歳になっても教えてもらうことがたくさんある」のだそうです。
奥座敷の廊下の、建てられた当初の建具そのままの戸が、長雨の湿りや、家にも歪みが出てきていることから、片方うまく開け閉めできなくなってしまったと笑って話されました。

古武邸の中庭

庭に敷かれた丸い白石は、汚れたり苔が付いたりするので、時々洗っているそうです。このほんの一例が示すように、町家を維持していくには、この上なく面倒なことがたくさんありますが、古武さんは「できることはするが、無理なことは無理」とさらりと言いながら、町家への情熱は衰えることを知らず、その手間暇には代えがたい、四季折々の発見を楽しんでいます。

店玄関に置かれたがっしりした、たんすは職人だった古武さんのおじい様がつくられたと聞き、つくった人が逝ってもなお生き続ける、職人の力が満ちた、迫るような存在感でした。

庶民の暮らしが回る「文化経済力」

上杉本洛中洛外図屏風の複製
離れは床のしつらいとともに、国宝に指定されている「上杉本洛中洛外図屏風」の四分の一の大きさの複製が置かれています。古武さんはこの複製屏風を使い、応仁の乱後の京都について語る企画を長年続けています。織田信長から上杉謙信へ送られたと伝えられ、老若男女、身分や職業を問わず約2500人もの人や都の四季が、生き生きと描かれています。夏は祇園祭の鉾、対極の冬の場面には雪の金閣寺が見えます。
上杉本洛中洛外図屏風の説明をする古武さん
当時の暮らしや生業がわかるこの屏風絵を古武さんは「その時代の縮図」と表現します。そして「450年前に描かれた図で、今の町並みを説明できるのがこの西陣を中心とする地域なのです」と続けました。そして、町家を維持するにも、資材の調達には林業、農業、園芸、それをかたちづくる専門の職人の存在が欠かせないと繰り返し強調しました。そこがうまくまわっていれば暮らしが成り立つ、庶民の暮らしが成り立つから、西陣をはじめとする伝統産業も継承できる仕組みがあったという、循環型経済です。1200年の地層のように、京都にはその蓄積があること、それをどう生かしていくかを、みんなで考える時が今と語りました。
古武邸の柴垣
古武邸の庭や建物を管理してくれてきた職人さんは90代になっているそうです。庭の柴垣も手を施さないとならない状態なのですが、材料も職人さんもいないという現実です。古武さんはその厳しい現実に直面していることと併せて、町家の文化と空間を多くに人に伝えたいと、新しいつながりに希望を見出しています。

古武邸を拠点とした明るい変化

古武邸
古武邸のご近所には、古くからの西陣の織元があります。和装産業も厳しさを増すなか、織屋さんも減少していますが、この状況を自ら切り開いていこうという動きも生まれています。西陣織の織元さんから、帯の展示会の会場に使わせてほしいと相談を受け、実現されました。古武さんは30年やってきて初めてのことと、驚きと喜びを隠せない様子でした。

また、座敷を会場に、謡曲を朗読形態で謡い、表現する「謡講(うたいこう)」が催されることになりました。これは、昔から京都で盛んにおこなわれ、楽しまれていたそうです。題して「謡講・声で描く能の世界 京の町家で うたいを楽しむ」です。元禄時代から続く、京観世の芸統を受け継ぐ一門のみなさんが出演されます。古武邸のすぐ近くには、観世家ゆかりの観世稲荷社と名水として知られる観世井があり、18年ぶりに行われるという謡講に本当にふさわしい会場であり、すばらしい出会いです。

古武さんは「経済や暮らし方が大きく変化し、高齢化が進むなかで、町家をこのまま残すことは難しい。では、どうするか。どうしていけば、この地域に住み、暮らしていけるのか。みんなで50年先、100年先のビジョンを考え、意見を交わす時です。未来はまず、今生きている私たちが考えんと、と思っています」と力強く語りました。
古いもの、歴史的建造物や文化を継承するためには、多くの人が係われる新しく楽しいことも必要です。みなさんもぜひ、古武邸で雨の匂いや濡れて美しい色を見せる庭石、ほの暗さの中に浮かぶ葭戸や欄間など、京町家の魅力を感じてください。建都も、町家の補修、継承など、住み続けられる住環境を守るために一層力を尽くしてまいります。