ついでの寄り道も 奥深い

京都は歩いて出会える楽しみの多いまちです。用事が早く終わり、次の予定までぽっかりあいた時間に寄り道をしてみました。
前から一度行ってみたいと思っていた博物館、久しぶりに訪ねた和菓子屋さん、ひっそりとたたずむ由緒ある神社。歩いて5分の間に出会える奥深く、そして親しみも感じる京都です。
夏休みのイベントや帰省などがかなわず、気持ちの晴れない夏を過ごした方も多かったことと思います。残暑は厳しいながらも、吹く風や雲の様子に秋の気配を感じる今日この頃、今回は「寄り道のすすめ」です。

烏丸の天神さん学問と丑と名水

地下鉄丸太町駅
右側に洋館大丸ヴィラの門が続いています。

出向いたのは烏丸丸太町。市営地下鉄烏丸駅の出入り口は時代を経たレンガが門構えのように積まれています。レンガ塀が続き、その中には鬱蒼とした木立と洋館が見えます。日本に多くの名建築を残したヴォーリズが設計した洋館、大丸ヴィラです。公開はされていませんが、向かい側の広大な京都御苑とも調和したすばらしい景観をなしています。
ほどなく、今年の干支、丑の大きな絵馬と鳥居があります。菅原道真公生誕の地「菅原院天満宮神社」です。地元では親しく「烏丸の天神さん」と呼ばれています。
道真公の先祖三代もお住まいになった場所という由緒ある神社です。
菅原院天満宮神社鳥居
天満院には、道真公がうぶ湯に使われた井戸が今も残り、千百余年前と変わらず清らかな水が湧き出ています。井戸の枠石も当時のままということです。井戸の水を汲みに来る人も多く、給水場が整備されています。水汲みに訪れた方に聞くと「この水で炊いた米は美味しいです。お茶やコーヒーもまるみのある味になります」ということでした。ひと口頂くと、やわらな「水の味」が感じられ、汗だくの身に涼を呼んでくれました。
菅原院天満宮神社 御産湯の井
さて、天神さんと言えば牛がお守りしていますが、その由来についても記されています。道真公は丑年生まれであること、左遷され大宰府へ向かう途中に襲われた時、松原から丑が飛び出して来て道真公を守ったこと、自分の亡骸は牛車が進むままに埋葬後を決めるよう遺言したと伝えられています。社務所で授与品の「貝合わせ」を頂きました。平安時代の雅な遊びの貝合わせは願い事がかなうという意味もあるそうです。大小三つの貝が美しい古布を使って丁寧に作られた心のこもったお守りです。菅原院天満神社は、古い由緒を誇りながらも親しみとやさしさを感じる「烏丸の天神さん」です。

石のふしぎがいっぱいの博物館

聖アグネス教会
菅原院天満宮神社と隣り合って平安女学院の礼拝堂でもある、重厚なレンガ造りの聖アグネス教会が建っています。本当に歩いて楽しい見応えのある界隈です。
次は前から一度行ってみたいと思っていた「石ふしぎ博物館 益富地学会館」へ行きました。閑静な住宅街にあるこじんまりした建物は、国内外にその存在を知られる、鉱物、化石、岩石研究の聖地です。正倉院の薬物や石製の御物の調査も担当された薬学博士の益富寿之先生により昭和48(1973)年に創設され、以来研究者や一般の鉱物や化石マニアが降りにふれ訪れる地学の殿堂として運営を続けられています。
石ふしぎ博物館 公益財団法人 益富地学会館
見学した日は夏休みの最終週でしたが、次々と家族連れの見学者が訪れていました。夏休み自由研究のお手伝いとして、集めた石の名前を調べ、標本にするための指導もされていました。
3階は大迫力の展示室です。大変な点数の種類も様々な標本が整然と展示され、訪れた日はベテランの鉱物鑑定士の方に、とてもていねいにわかりやすい説明をしていただきました。黒い石の中にきれいな形で残るアンモナイト、大きな水晶の山のきらめき、恐竜の爪等々。「石も人も元素から成り立っています。ここにある石は1万年、2万年前の石です。それが今、目の前にこういう形で残っているのは、いくつもの奇跡が重なっているのです。途方もない年月を経てきた石には心があります。石にも心があるのです」と伺いました。
理論的な理解はおぼつかなくても、その宇宙的な石のふしぎに引き込まれました。夏の終わりの「おとなの自由研究」のような体験でした。
黒水晶
1階には、鉱物見本や関連の書籍の他に「ルーペ、ハンマー」といった石のフィールドワークの必需品も販売しています。他の美術館や博物館のいわゆる「ミュージアムショップ」とはひと味ちがう「石のお店」です。
益富地学会館ではこれまで木津川や桂川で石の観察、採集を行いその成果を「木津川の石」「桂川の石」という冊子にまとめています。川や道端など身近なところに目を向けてみれば、いつもの散歩コースでおもしろい石が見つかるかもしれません。
去年今年と、コロナウィルス対策のため例年のような観察会などのイベントがあまり実施できなかったとそうですが、9月には和歌山県での海岸での石観察会、10月9日~11日は左京区のみやこめっせで大規模な「石のふしぎ大発見展」が行われます。益富博士の志を受け継ぎ、地学への関心や理解、その研究を続ける石ふしぎ博物館は「科学・学術の都」京都です。

多くの人が喜んだ州浜の復活

すはま屋外観
寄り道の最後は和菓子屋さんです。5年前に惜しまれつつ閉店した創業350年の老舗「植村義次」のお菓子、州浜が復活し、気軽に飲み物も一緒に楽しめるお店になりました。元の場所に以前と同じたたずまいのお店を見た時は、常連でもありませんが本当にうれしく思いました。
すはま屋の棹物
州浜は大豆の粉を水あめと砂糖、水で練り、州浜の形にした棹もののお菓子です。州浜は浜辺の入り組んだ所であり、それをかたどって意匠化され、おめでたい形として家紋や工芸品にあしらわれてきました。植村義次の州浜はお茶席でもよく使われていました。
同じ生地を指でちょっとひねったような、指先くらいの大きさにしたものが「春日乃豆」です。
お菓子のみならず、店舗も再びよみがえらせたのは、弱冠20代はじめの女性です。一人でお菓子をつくりお店も一人で切盛りしています。どんなパワフルな方かと思いますが、そんな大変さは微塵も感じさせない、もの静かでたおやかな雰囲気の方です。
外観や内部も「使えるものはできる限り生かしたいと思いました」という言葉通り「御州濱司」のすりガラスがはまった戸、天井の梁、お菓子の見本を入れる小さなガラスケースなど、どんなにか、これまでのお店とお菓子、そして植村さんを大切にしているかが伝わって来ます。
すはま屋すはま屋
小さな床の間にとても良い感じの軸が掛けてありました。渋い色あいは店主さんのお父様が集めていたインド更紗とのことでした。
「ああ、前のお店もいつもこの床の間に、感じよく季節の軸やお花があったな」と、懐かしく思い出しました。
テーブルの見事な一枚板は長い間、お家に眠っていたものだそうです。お店にこれまであったものと今回運び入れたものが相まって、新しいすばらしい空間をつくり出しています。

すはま屋の春日乃豆
春日乃豆

お客さんが「春日乃豆を一つお願いします。そうそう、押し物も始めはったとか。予約したら買えますか」と話しています。
「押し物」は十四代の植村さんが考案された、四角な落雁の生地に雨浜の材料で季節感あふれる模様を描き出した「これぞ京都の和菓子」と言えるすばらしいお菓子です。今は青ひょうたんの絵柄です。この押し物の復活にも多くの人が喜んでいます。
すはま屋さんは新聞、雑誌などメディアでも頻繁に紹介されていますが、喧噪のない、本当にゆっくりできるお店です。物音ひとつしない静けさなのですが、堅苦しくないお茶室と言ったらよいでしょうか、そんな空間です。
お菓子を一つ買いに来る、そういうお客さんを大切にまじめなものづくりをする生業と職人のまちが京都なのだと感じました。ちょっと寄り道は、京都の深さと慎しみ、そしてやさしさを改めて教えくれた新鮮なまち歩きでした。

 

石ふしぎ博物館 公益財団法人 益富地学会館
上京区出水通烏丸西入 中出水町394
開館時間 10:00~16:00
展示室公開日 土曜、日曜、祝日

 

すはま屋
中京区丸太町通烏丸西入常真横町193
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜、祝日

文化をつなぐ 東一口の旧家

お盆間近の猛暑の日、京都府南部久御山町の東一口(ひがしいもあらい)を訪ね「東一口のふる里を学ぶ会」(以下学ぶ会)のみなさんの、お精霊(おしょうらい)さんにお供えする「しんこ団子」作りにおじゃましました。会場は、壮大な長屋門を構えた国登録有形文化財「旧山田家住宅」です。威風堂々とした旧家を背景にして、なごやかにみんなで励むお団子作りは壮観です。現在は久御山町が管理し一般公開されています。
学ぶ会ではこれまで、この旧山田家住宅の清掃や、ここを拠点にして、地元に伝わる行事や食文化の継承を中心に、しっかり地に足のついた活動を続けてきました。
京のさんぽ道では、前回まで3回連続で町家の活用と継承についてご紹介してきましたが今回は番外編として、歴史的な文化財をふるさとの文化継承の実践の場とすることで、地元の人々が活用と保存の担い手となっている東一口の特集です。町家や地元の習わしをどう維持し、次世代へつなげていくかが課題となっているみなさんにとっても、再生継承への希望の糸口になればという思いでお届けします。

巨椋池と東一口の大庄屋山田家

東一口の旧山田家住宅
京都府南部の久御山町「東一口(ひがしいもあらい)」は、かつてあった湖のように大きな「巨椋池(おぐらいけ)」の南西に位置しています。巨椋池が干拓で埋め立てられるまでは、漁業で栄え「京都府南部 東一口のお正月のにらみ鮒」でご紹介したように、川魚を使った豊かな食文化が今も受け継がれています。
旧山田家住宅
山田家は、江戸時代には近郷13か村をまとめる大庄屋の家柄にあり、巨椋池の漁業を取り仕切る重要な役も務め、名字帯刀を許されていました。瓦葺きに漆喰の土蔵造りの長屋門と同様の造りの塀をめぐらせた堂々とした姿は、山田家の格式とともに東一口の歴史をも感じることができます。
北側には前川が流れ、桜並木が続き、お花見、葉桜、紅葉と四季それぞれに美しい風景を楽しむことができます。
旧山田家住宅の長屋門旧山田家住宅の展示室
また長屋門は、一般的には収納や働く人の部屋に使われていましたが、こちらの長屋門は来客の控えの間としても使用できるように床の間を設えたりっぱな造りで、文化的、建築史のうえからも貴重な建物です。現在は「展示室」が置かれ、干拓以前の巨椋池の様子や漁業について知ることができます。竹製の大きなざるなどの漁具、新たに収蔵された実際に漁に使っていた舟など、往時の東一口がしのばれます。
旧山田家住宅の内玄関
主屋の式台のある内玄関をはじめ、内部の欄間などの建具や襖絵、釘隠しに至るまで意匠を凝らした素晴らしい技が見られ、江戸時代の大庄屋の由緒と格式を伝えています。このように山田家は、古くから漁業のまとめ役を果たした地元からの信頼も厚い家であり、また代々守って来られた貴重な歴史的な建造物の邸宅がこの地域の象徴として現在もあるということは、本当に素晴らしいことです。そして今、地元のみなさんの学びと交流の拠点として新たな役割を果たし、新しい歴史を築いています。

季節ごとの行事を楽しく学ぶ

東一口のふる里を学ぶ会のしんこ団子づくり
お盆にお供えするしんこ団子作りの当日、旧山田家住宅には朝早くから作業台や大きな蒸し器が運び込まれ、8時にはお団子作りが始まりました。お盆の精進料理やお団子も家の味付けや流儀があり、それぞれに行われていますが、おさらいのような感じで、説明書を聞きながら作業が進みました。
東一口のふる里を学ぶ会のしんこ団子づくり
火にかけた米粉をダマにならないように、また焦がさないように混ぜていきますが「ふつふつしたら弱火にする」という、ふつふつの見きわめや火加減、火を止めるタイミングなどにコツがいりそうです。
その後、生地をこねますが、思いのほか力がいり、みなさん汗だくになっていました。こねあがった生地を小分けして丸め、細長く伸ばしてから両端をつまんで二回ひねり、決まりの形に仕上げます。これもなかなか難しそうでしたが、器用な会員さんの手ほどきで、きれいに形が揃っていきました。蒸し上がったら風をあてて冷まし、つやを出します。
用の済んだ蒸し器やボールを、男性チームがささっと洗い始め、日頃の活動ぶりが見てとれました。動きがとても自然なのです。つやつやのお団子の試食は、いっそう楽しそうな雰囲気で話もはずみました。

お精霊さんの迎え方、六地蔵めぐりや六道参りなど、東一口の習わしについて次々と豊富に話題が出てきます。にらみ鮒の取材でお世話になった鵜ノ口彦晴さんのお家も、お精霊さん迎えをきちんとされています。7日にお墓参りをし、ご飯、いとこ煮、きゅうりの酢の物、椎茸とぜんまい煮、漬物のお膳をあげ、13日の朝に果物などをお供えし飾りつけ、夕はかぼちゃ煮と始まり、その後14日15日16日まで、おはぎ、なすのおひたし、あらめとお揚げの炊いたん、そうめん、すいかなど朝昼夕と決まった献立のお供えをします。鵜ノ口家では、しんこ団子は16日の朝10時頃にお供えするそうです。

「お精霊さんの献立を書いた帳面がある」「お盆は家を空けられへん」という言葉には、大層なことをしているという雰囲気はなく、毎年お盆の行事を続けられている晴れやかな心を感じました。大切なことはこうして受け継がれています。「昔は新仏様のある家は船大工さんに頼んで舟を造ってもらって、その舟にお供えを乗せて宇治川に流していた」「六道参り」や「六地蔵参り」など聞けば聞くほど興味深い話ばかりです。また「昭和28年の洪水の時は家が浸かった」と聞き、山田家が洪水対策として、石積みをして道路より高くしているという説明も現実に必要性があったのだと実感することができました。
おみやげにいただいたしんこ団子の包みは、まだほのかにあたたかく、その日の集まりの余韻のように感じました。

多彩な活動を生む、会員の引出し


学ぶ会では毎年、お盆に欠かせない蓮を用意して「蓮の生け花教室」を開いて喜ばれています。コロナウイルス感染を避けるために、去年今年と学ぶ会の活動は大幅な縮小を余儀なくされ、恒例のこの蓮の生け花教室も中止せざるを得ませんでしたが、蓮の花の配布は今年も行いました。お盆に間に合うように、12日の早朝に会長の片岡清嗣さんが蓮を運んでくれました。
お供えを盛る大きな葉、お浄めの水に浮かべる小さな葉、巻いた葉に花は開いたものとつぼみが用意されました。会員さんが育てている蓮です。
かつて巨椋池は蓮の名所として知られ、多くの種類の花が咲き誇り、蓮見舟も繰り出しました。やがて干拓によって巨椋池が農地となり姿を消してしまいました。その蓮の種を大切に拾い出し、みごとに復活させたのが、会員さんのお父さんでした。その蓮が引き継がれ、学ぶ会のお盆の生け花教室に使われています。鵜ノ口さんの軽トラで蓮畑へ案内していただきました。

かつて豊かな漁場であった巨椋池跡には、農地が広がり、京野菜の重要な産地となっています。農道にサギが舞い降りて来て、なかなかどきません。鵜ノ口さんは「人間が近づくと逃げるが、軽トラだと逃げない。トラクターで畑を耕していると、ミミズや小さな虫が土のなかから出てくるので、鳥が行列を作って後をついてくる」と、毎日畑へ出ているからこその何とも微笑ましい、愉快な話を聞きました。東一口の地域と学ぶ会からは、どんどん興味深い話に出会うことができます。
鵜ノ口さんは「みんなそれぞれの引出しを持っているので、いろいろなことができます」と語ります。伝承の料理、コンサート、映画上映会など「引出し」の多彩さも学ぶ会の特徴です。地元の文化をより深く知り、普段の暮らしのつながりから、幅広い世代が活動に参加し地域を持続させる力となっている「東一口のふる里を学ぶ会」にこれからも注目していきたいと思います。

 

旧山田家住宅
京都府久御山町東一口35

京都と世界をむすぶ 京町家

京都の中心部、新町通り界隈は、今も和装関係の企業や伝統的な建築の家も見られる、京都らしいたたずまいを感じる界隈です。そのなかに、目立つ看板などはないものの、通りすがりに、美しい色調や明るく元気な色にあふれた店内が見えます。洋裁指導によって開発途上国の女性を支援する「NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村」です。
日本の素晴らしい技で染め、織りあげられた、天然素材の着物や帯を全国から寄贈してもらい、ラオスやヨルダン、ルワンダなどの国々の女性たちが仕立てた洋服やバッグ、小物を販売しています。繰り返し訪れる人の多いアンテナショップ三田村の魅力を、販売品と人、そして町家とともにご紹介します。

「甦」のロゴから受け取るメッセージ

NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村
アフリカを思わせる鮮やかな色合いと大胆な柄の洋服やバッグ、絹の風合いや着物の色柄を上手に生かしたワンピースやジャケット、ブラウスなど、専門家のデザインとしっかりした縫製の指導によって魅力的な製品が誕生しています。手に取ったり、試着してみたりと、お客さんも楽しそうです。
「よう似おうてますよ」「顔移りもよろしいね」お店で応対するのはボランティアスタッフのみなさんです。親しいご近所に来たような和やかな雰囲気に、はじめてのお客さんも「似合っているかどうか」など、気軽にアドバイスや意見を求めることができます。
ギテンゲ
個性的なアフリカのプリントは、数年前から注目され始めましたが、リ・ボーン京都では2013年からルワンダでのプロジェクトを開始し、製品として手掛けています。「ギテンゲ」と呼ばれるアフリカのプリントは京都のファッションを元気づけています。
また、着物の下に着る長襦袢は多くの場合、薄色で光沢のある生地で作られていますが、洋服にリメイクするのは難しい素材です。それが「絹のパジャマ」として完成していました。気温の高い期間が長くなっているこの頃「昼間は洗いざらしのTシャツを着ていても、夜は贅沢にシルク」とは、購入された方の笑い話です。

なんでも挟めるかわいいクリップ
なんでも挟めるかわいいクリップ

ねこ好きにはたまらないその名も秀逸なお細工物のねこ「はさんでニャンコ」や、ラオスからやって来た恐竜の集団など、楽しさも次々発見できます。
着物をほどき、洗い、素材として使えるようにするには大変な手間がかかりますが、ボランティアさんによって、創作意欲をかき立てる布として送られます。柿渋塗りの壁紙張りや、姿見のまわりの壁紙の破れを見えないようにする布おおいも、着物地ののれんもすべてボランティアさんのお手製と聞き、その底力に驚きました。

製品には「甦」のロゴがつけられています。愛着をもって着たもの、あるいは着なかったけれど親御さんが用意してくれた愛情がこもった着物など、たんすに眠っていた着物や帯は人を介して、新しいかたちによみがえります。作る人や買ってくれた人、縁あって出会えたこと。その喜びや大切さを「甦」のひと文字が伝えています。

お茶目で、はっきり物申す看板娘


アンテナショップの京町家は、もと「三田村金物店」を営み、ご家族の住まいでした。
ショップを取り仕切るのは昭和三年生まれの三田村るい子さんです。今年で満93歳になられました。お店に出てお客さんの質問に答えたり、時にはボランティアさんに「それ違う」と厳しいひと声をかけたりしっかり店内を切りまわしています。

三田村さん
リ・ボーンの製品を着た三田村さん(左)と購入した着物を着てご来店のお客さん

「昭和3年生まれ」と聞いて、年齢としっかり加減にだれもが驚きますが「町内で一番古い」「もう年やし口だけ元気」などと言ってみんなを笑わせ、その場を明るくします。「おかあさんは間違いなく、ここの看板娘」とボランティアさんが合いの手を入れて、また大笑いしています。
金物店は、80歳になるまで続けました。長年「三田村金物店」を中京区で続けてきたこの経験が、今も力を発揮していると感じます。人の気持ちを逸らさない応対、鮮明な記憶力は感心するばかりです。

祇園祭の山鉾、八幡山
祇園祭の山鉾、八幡山

お店のある新町通りは、祇園祭の鉾と山がたち三条町は「八幡山」の地元です。取材に伺った日は後祭り期間にあたり、巡行は中止になったものの、お祭特有の華やぎがありました。町内の家々には、八幡山の向かい合った鳩を染め抜いた幔幕が掛けられ、伝統ある商家の並ぶ中京の町らしい風情がありました。
三田村さんのお家では毎年、宵山の日に親戚や知り合いを招待していたとのこと。おくどさんで蒸すお赤飯は「小豆が腹切りせんように気を使った。今でもお釜さんもせいろも残してある」そうです。時には知らない人も交じっていたけれど、同じようにご馳走したという、なんとも鷹揚な良い時代だったのだと思いました。
巡行は二階の窓の戸を外して観覧します。鉾に乗っている人と同じ高さになり、新町通りは鉾がやっと通れる道幅なので、それは迫力があります。
饅頭袱紗
店内にあったとても手のこんだ袱紗は「饅頭袱紗」と言って、お嫁さんがご近所への挨拶に使う紅白の薯蕷饅頭に掛けるものなのだそうです。今はそのような仕来りは京都といえども、されるお家は本当に少ないようですが、とても雅やかな習わしに思えます。
NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村の京町家

京町家特有の台所
京町家特有の台所

三田村家は、商家として建てられた典型的な京町家です。「店の間」はそのまま畳敷きで残し「座売り」的な感じになっています。上がり框に腰かけて話すのも「町家体験」のような雰囲気です。店の奥は流しやおくどさんが並ぶ走り庭があり、中庭、そして土蔵も残っています。
ここへ来ると実際に住み暮らしている三田村のおかあさんやボランティアさんに、京都の奥にある習わしや暮らしの文化など、いろいろなことを教えてもらえます。リ・ボーン京都アンテナショップ三田村は、アジアやアフリカから届く製品との出会いとともに、京都の暮らしの文化を伝えています。

かたちあるものを最後まで使い切る心を世界で共有


リ・ボーン京都では、寄贈された着物や帯から新しい商品を生み出すとともに「そのまま着て生かす」ことにも取り組んでいます。
寄贈された着物や帯のなかには、今では手に入れることは難しい、例えば非常に高価であったり、すでに技術が途絶えてしまったものもあります。着物を着たいという人も増えているように思います。染や織の知識が豊富なボランティアさんもいて、新たなきものを着る層の開拓にもつながりそうです。
リメイクうちわ
またリメイクに使った後のはぎれは工夫して様々な小物を作ります。ポーチや布玉のネックレス、マスク、今や定番として多くの人が楽しみにしている、うちわなどです。うちわは細い竹骨を地紙(布)に張り、柄を差し込んだ差し柄が特徴の「京うちわ」です。使われている布は絽に草花や水を描いた季節感あふれる図柄や、「裏に凝る」日本の美的センスやあそび心が楽しい個性ある羽織の裏地「羽裏」など、ここぞという見事な絵柄の取り方で張られいます。

「始末の京都」と言われますが、食材でも着るものでも、ものの命を最後まで使い切る、全うさせる暮らし方は、今こそ求められている考え方であり暮らし方です。それは世界で共有することができます。NPO法人リ・ボーン京都のアンテナショップ三田村へ、足を運んでいただき、途上国の女性への自立支援や着物文化の発信にふれていただきたいと思います。

 

リ・ボーン京都アンテナショップ三田村
京都市中京区新町通三条下る三条町329
営業時間 12:30~16:30
定休日 土曜日、日曜日、月曜日、祝日

京町家の実家を再生した カフェの誕生

西陣の地域は今も、低層の家が続くまち並みが残っています。手入れの行き届いた京町家に、あたたかい色の灯りと控えめな看板が出ています。木の塀をめぐらせた門を入り、小径をたどるように中へ進むと「こんにちは」と、近しい親戚の家に来たような心持ちになるカフェです。伝統的な木造建築の風格と緑が美しい庭など、京町家の風情を漂わせながらも、くつろぎを感じる空間になっています。
生活様式や家族構成、経済活動の変化のなかで、容易ではないと思われる京町家の維持はどのようにされているのか。所有者、補修や改装にかかわる工務店や建築家、ご近所も含めて様々な人が関係し合うなかで保たれているのだと思います。活用しながら維持されている京町家をご紹介してまいります。1回目は西陣の京町家「カフェ オリジ」です。

二人の思いを設計者、工務店と共有して生まれた空間

オリジ

cafe oriji カフェ オリジ のオーナー夫妻
カフェ オリジは江良周策さん、悦子さんご夫妻で営まれています。悦子さんの実家の町家を改装して今年の1月に開店しました。以前から二人であたためていたカフェの構想と、10年間空き家になっていた悦子さんの実家をどのように生かしたらいいかと取り組み、コロナの影響で1年遅れにはなりましたが、開店に漕ぎ着けたのでした。

cafe oriji カフェ オリジ
元の町家のまま残された見事な桐の欄間

土台の修復や床の板張りは工務店にお願いしましたがそれ以外の箇所、厨房の棚やカウンターの取り付けや壁塗りは自分たちでされたそうです。漆喰は調合して、白すぎず、また暗くないしっくりした色あいにし、庭からの自然光と調和した照明にも配慮されています。
どの席からも中庭が見え、またそれぞれの席が独立した個性を持ち、それが全体の雰囲気をより深く落ち着いたものにしています。廊下側の書斎のような席、壁に面した自分の世界にひたれそうな席、夜に静かに飲みたい感じの厨房前のカウンターなど、その日の気分によって決めるのも楽しそうです。
椅子も手工芸のあたたみと表情を感じるものです。みんな違う椅子で、買った時も場所もばらばらということですがけんかすることなく、同居しています。「いいなと思う、すきなものを集めると自然と似ているものが揃いました」と話されました。
オリジオリジのフィギュア
そして見事な欄間、なげし、床柱など主な部分はそのまま残され、古い本棚もしっくり収まっています。この家への愛着と開業への思い、その全体像を設計者や工務店の方と共有して生まれた空間です。押しつけがましさがなく、それでいて隅々まで二人の思いが行き届いたカフェは、訪れる人それぞれに心地よい時が流れています。
ふと見ると森鴎外や島崎藤村といった大作家全集を背にして、周策さんが製作した妖怪のフィギュアが何事か考えている風情です。あちこちにいる妖怪フィギュアを見つけることを密かな楽しみにしているお客さんもいるそうです。オリジの楽しさは奥が深いのです。

すきなものはおいしい。背伸びせずに決めたメニュー

オリジ コーヒー
オリジでは、お客さん側の「あったらうれしい」に応えてくれるメニューになっています。ちょっと何か食べたい時にぴったりのトーストやワッフル、お腹がすいたと思ったらナポリタンやサンドイッチというふうに。
一杯一杯ていねいにいれてくれる香り高いコーヒーや、季節やその日の気分によって選べるハーブティーなど飲み物も充実しています。
期待の甘いものは、2種類のパフェや、爽やかな酸味に香り、チーズのコクのバランスがすばらしい自家製レモンチーズケーキなどが揃っています。「今度来た時は、あれにしよう」と次回に楽しみを残す気持ちで今日の一品を選びます。
オリジ 苔玉パフェ
取材で伺った日は「苔玉パフェ」をいただきました。オリジの入り口で犬の散歩をされている方から「オリジさん、おいしいですよ。苔玉パフェは絶対食べてみて」というおすすめパフェでした。ひと口めから、抹茶の風味の良さに驚きました。この宇治抹茶と抹茶アイスとソフトクリーム、抹茶ゼリー、小豆あん等々なん層にもなった味わいが楽しめます。「苔玉」としたネーミングセンスと姿形も秀逸です。

オリジ ソフトクリーム
思いの詰まったソフトクリームの看板が鎮座しています

メニューはどうやって決めたのですか、という質問に「背伸びしないで私たちがすきなものをメニューに載せました。それが多分、お客様にもおいしいと感じていただけると思いますので」と答えてくれました。この姿勢が等身大の、素直においしいと感じられる味、心地よい雰囲気をつくり出しているのだと思います。
ソフトクリームのあるカフェはめずらしいですねと聞くと、悦子さんは「子どものころ、千本通にあったケーキ屋さんのソフトクリームを買ってもらうのが本当に楽しみだったので、これはぜひメニューに入れたいと思っていました。近所の公園に遊びに来て、その帰りに親子で寄ってくれる時、子どもさんがソフトクリームを喜んでくれます。それが思い出になればうれしいなと思います」と語ってくれました。
「ここでソフトクリームを食べるのが楽しみやったなあ」と、おとなになってまたオリジを訪れてくれる。そんな場面もきっと生まれることでしょう。

機音が響いた笹屋町のご近所カフェに

笹屋町通 オリジ

京都景観賞京町家部門表彰状
笹屋町通は京都景観賞で表彰されたこともある京町家が残る通りです

オリジのある笹屋町通は、古くから西陣織に携わる多くの職人が住む、機音が響く地域でした。今も「西陣帯地」「金・銀糸、引き箔」などと書かれた看板を掲げるお家があります。
明治8年に疫病がまんえんした時、疫病退散を願い、帯地の切れ端や絹糸、また機織りに使う道具を使って大きな「糸人形」を造り、地蔵盆の頃に町家に飾りました。やがて夏の風物詩として定着し、子どもたちや地域のみなさんの思い出に残る行事となったそうです。一旦途絶えましたが、西陣の職人有志によって復活されています。このように笹屋町界隈は、歴史や伝統の技、生活文化を継承し町並みを守る努力が続けられています。
新しく建築された家も増えていますが、人々が暮らす町であることを大切にしていることが京都の景観も守ることにつながることがよくわかります。

オリジ
オリジはそんな町内にある憩いの場です。いつも買い物のついでに寄ってくれるお客さん、勉強をする学生さん、一人で、友達と一緒にと、それぞれの使い方をして、季節を感じる京町家でのひと時を楽しんでいます。周策さんと悦子さんは「ご近所の方に支えられています」と力を込めました。
始まる、起源や源泉、最初といった意味をもつorijinate orijin originalから発想して付けた「オリジ」の名前には、思いの深い地元西陣の「織」も込められています。「みんなが自由にほっとできる空間を提供したい」と始めたオリジは、訪れた人も自分の源泉や最初の一歩に立ち返ることができる場になっていると感じます。

オリジのフィギュア
町家ならではの外構にはオリジのトレードマーク、やかんのミニチュアが飾られています

取材を終え外へ出ると、お寺の鐘の音と一緒に、公園で遊ぶ子ども達の声が聞こえ、オリジでのひと時をいっそう楽しいものにしてくれました。

 

カフェ オリジ
京都市上京区笹屋町一丁目542-1
営業時間 11:00〜19:00(当面11:00〜18:00)
定休日 毎週火曜日、水曜日・不定休

まだ途中 たけのこ畑でかなえる夢

30度を超える気温のなか、坂道を上っていくと、やがて両側の竹林が強い日差しをさえぎり、空気が浄化されるようなさわやかさを感じます。任意団体「籔の傍(やぶのそば)」が、2018年から整備を続けてきた荒れた竹林は今、美しくよみがえり、みんなが集まる活動の場として、すばらしく進化しています。
昨年のメンマ作りの取材「京都の竹林再生 幼竹がメンマに」からちょうど一年がたちました。活動に参加するみなさんの顔ぶれもさらに多彩になっています。しばらく間があいて参加すると、活発で自在な活動の成果におどろきます。
「籔の傍流」とも言える「ゆるやかに、なごやかに、楽しい活動の魅力は、また新たな段階へと歩みを進めています。その中で課題にも遭遇していますが、それもみんなで共有し前向きにとらえ、解決の道を考えています。おっとりしながら逞しく、息長い活動の様子をお届けします。一人でも多くの方に、竹の魅力とその未知なる可能性に関心を持っていただけますように。

竹の径に続け。間伐した竹を活用「籔の径」

籔の径
籔の傍が取り組む籔の径。手前は深田垣、奥が寺戸垣と呼ばれる竹の垣根が設けられています。

「物集女(もずめ)竹林」と呼んでいる活動拠点は、その名の通り歴史街道である物集女街道から西へ入った山側にあります。竹林に沿った道はそのまま、両側に伝統的な竹垣が連なる1.8㎞に及ぶ「京都府景観資産」に指定されている「竹の径」に続きます。
そこで竹の径へ続けと、うっそうとした竹藪道に竹垣を作って整備する「籔の径」大計画にとりかかり、すでに第一期100メートルが完成しています。これは「京の竹林文化を守り育てる支援事業」として取り組まれました。

竹の職人さんも活動に協力しているそうです
活動に協力されている竹職人さん

物集女竹林の間伐竹を利用した、波打つ曲線が美しい「深田垣」に、組んだ竹と男結びの縄が景色をつくる門扉は「寺戸垣」です。これを優れた技を持つ熟練の竹職人さんと一緒に製作したのですから本当に見事です。「好きこそものの上手なれ」という諺が浮かんできました。竹の径につながるまでにあと500メートル。これからの取り組みです。
ふと見ると、おもしろい椅子があちこちにあります。時計がはめ込んであるもの、片開きの物入れがある椅子、からくり付きというものまで遊び心満載です。こういう椅子に腰かけていたら、きっと愉快な気持ちになれると思います。物物集女竹林には、おもしろいことがあちこちにころがっていて、それもメンバーの手仕事です。

時計が付いたユニークな竹の椅子
右端は時計が付いたユニークな竹の椅子

籔の傍が整備し、活動の場としている竹林は、下段のたけのこ畑、中段の活動竹林、奥は整備中の放置竹林となっていて、許可をいただいた休耕たけのこ畑も含めて2ヘクタールと、かなりの広さです。下のたけのこ畑と中段の活動竹林はきれいに整備されています。
梅雨の晴れ間、ハンモックでまどろむ姿に、こちらまで心地よく揺られている気分になりました。しばしのまどろみの後、二人は放置竹林の間伐に大活躍しました。一緒に作業をしていたご常連のご夫妻が「二人ががんばってくれたから、ものすごくはかどった。やっぱり若い人は違うなあ」と楽しそうに話してくれました。このような自然に生まれるチームワークに、籔の傍の活動が培ってきた精神があらわれています。

竹林にあらわれた、十八畳の大舞台


活動竹林の中央には、堂々とした野外舞台があります。昨年から京都建築専門学校の学生さんが、佐野校長先生の指導のもとで取り組んだ「十八畳の竹桟敷」です。「桟敷計画」を聞いた時は、ずいぶん大胆な計画に思えましたが、一生懸命作業をする学生さん達の仕事ぶりに、これからここでどんなことが始まっていくのだろうと、期待がふくらんでいきました。
使用している建築材は、間伐竹と京北町のひのきを使っています。竹と木材の使い道が開ける例として、多くの人に知ってもらえたらと思います。あの暑い夏の日、まだ土台を組んだ状態だった時から、今の姿を見て「唯一竹桟敷」という名を進呈したいと思う風格です。

竹桟敷の土台
佐野先生から今年の一年生が紹介され、早速、桟敷の畳の入れ替えや、ひのきの部分の調整をしていました。このように実際に伝統的な仕事を参加者が間近に見ることができる、とても良い機会です。一年生の岩垂さんに授業の様子を聞いた時「棟梁の仕事は本当にすごいんです。実際に見ないとわからないことがいっぱいで、僕らの何倍も早くてきれいな仕事をするんです」と、力を込めて話してくれました。職人の先達を敬う真っ直ぐな気持ちが伝わってきました。

京都建築専門学校の佐野校長先生(左)と 一年生の岩垂薫さん(右)
京都建築専門学校の佐野校長先生(左)と一年生の岩垂さん(右)

竹桟敷は現在、合気道教室のみなさんが練習や発表会で使われています。小鳥の声、竹のそよぐ音、さわやかな風、木漏れ日。その自然と呼吸を一にした練習は、なんとすばらしいことでしょう。桟敷ですから、そこに座って景色を眺めたり、のんびり憩うこともどうぞ、です。十八畳の竹桟敷は、その活用法とも相まって、やはり他にはない「唯一」のものです。
これまでも冒険小屋や玉ねぎ茶室をはじめ、シーソーやブランコなどの遊具も建築専門学校チームが手がけました。この協力が、竹林で過ごす時を、いっそう豊かなものにし、冒険心を育ててくれます。今年は竹ツリーハウスやアスレチック的な遊具の計画を検討しています。佐野先生の「既成概念は捨てること。おとなの考えで作り過ぎた遊具には、子どもはおもしろみを感じない」というミーティングでのお話は、広い意味を持っていると感じました。

課題や修正点を受け止め、願いをかなえる

セミナーで行われた料理コンテストに出されたメンマ入おからサラダ
セミナーの料理コンテストに出されたメンマ入おからサラダ

昨年の春からコロナ禍のもと、飲食をともなうプログラムや、集まりそのものも中止をせざるを得ないこともあり、台風や週末の雨にも泣かされることが度々ありましたが、大幅な計画の遅れもなく活動が続けられました。
たけのこ掘り、メンマ作り、竹バウムクーヘン、竹ぼうき作り、たけのこ畑のわら敷き、土入れなどの、遊びや実践の他にも、純国産メンマ作りの先進例や、竹の先駆的活用についてのセミナーとメンマ料理コンテスト、また今年度は竹の研究者を講師に「林野庁竹林整備プログラム」の連続講座などを行っています。

竹への情熱と探求心。講師の農学博士竹コンサルタント、ななふし主宰小林慧人さん

荒れた放置竹林の間伐や筍掘りも、順調に参加が多くなったことで、人的な力が充実し、どんどん伐って堀ってと、目覚ましい進捗状況になりました。それに対して、親竹にする竹をちゃんと残していかないと良い竹林、たけのこ畑にならないということや、作業の用語の間違いや、佐野先生からは「竹林景観としての活動の場であることが大切。開発しすぎてはだめです」という指摘もありました。「荒れた竹林をきれいにするために」という思いで一生懸命取り組んできたわけですから、この指摘はきついものであったと思いますが、「竹のことをもっと知ろう、もっと農家さんや竹のプロ、研究している先生に教えてもらいたい」と、とても前向きにとらえて共有されています。
この竹のようなしなやかさが、籔の傍の真骨頂だと思います。先日の集まりでは、子どもたちの遊びでの危険を回避しながら、このすばらしい環境の恩恵を受けるために必要なことが話し合われました。


また、竹林は境界線がはっきりせず、土が崩れたりすることで境界線も変わってしまったり、区分が非常に見分けにくい、ともすればよその竹林(たけのこ畑)へ入り込んでしまう可能性があるという問題も出てきました。それには、メンバーの方が丁寧に歩いて確認をして今の状態をSNSで報告するなど、しっかり地に足のついた地道な活動がされています。
建築専門学校、竹工芸・竹材会社、各分野の研究者、職人さんと、専門家のみなさんの献身的な協力を得られていることも支えになっています。乙訓地域の歴史や文化的景観、生業や暮らしの営みの視点を持ちながら、総合的な竹林管理を共有していこうとしています。
籔の傍の活動が種をまき、その芽が伸びていることは確かです。知ることを大切にした、のどかで明るく、たのしい活動が「持続可能」な地域、竹林と竹の活路を開いていくと思います。それは集まった人たちの、最後の晴れ晴れとした顔が物語っています。藪の傍や石田ファームの取材ではいつも「さわやかな風、小鳥の声・・・・」と書いてきましたが、そのたけのこ畑や乙訓一帯の景観が、誰によって、どのようにして保たれているのかということを今回、特に強く感じました。これからも、この籔の傍のかたわらにいて、活動を注目していきたいと思います。

 

任意団体 籔の傍(やぶのそば)

つばめが里帰りする 和菓子屋さん

今年は初夏の心地よい風を感じる間もなく、観測史上一番早い梅雨入りとなりました。素早く飛び交うつばめの姿は、季節の知らせとともに「今年もやって来た」という、うれしい気持にしてくれます。
幸せを運んで来るという言い伝えのあるつばめが、毎年巣をかける和菓子屋さんがあります。そこには、せっせと手づくりする、おだんごやお餅など、おなじみの気取りのないお菓子が並んでいます。つばめの一家を見守る、心やさしいご夫婦ふたりのお店をご紹介します。

つばめの季節の店先に並ぶもの

乙訓庵寿々屋の店頭
地元の人に親しまれている和菓子屋さん、寿々屋は静かな住宅街にあります。周囲には田んぼの向こうに、山の稜線まで見渡すことができる風景が広がっています。
寿々屋の軒先で、巣から身を乗り出して、親鳥から餌をもらうつばめのひなの様子は、心なごむ風物詩となっています。ひなの成長の様子をお客さんも楽しみにしています。寿々屋のおとうさんは「田んぼが耕され始めると、巣を作り始める。よう、わかってる」と、目を細めます。

乙訓の田園風景
周囲はのどかな田園風景が広がっています

寿々屋では3つの巣で子育てが行われています
寿々屋では3つの巣で子育てが行われています

つばめの巣の完成度にはつくづく感心します。口ばしだけで泥や枯草を運んで作り上げるのですから、つばめ夫婦の絆の強さもうかがえます。巣作りの材料やひなのえさの調達にも、この近辺はうってつけなのでしょう。そして何よりも、寿々屋のご夫婦の毎年あたたかい見守りがあるからこそです。
お菓子にもその人柄があらわれています。茶だんご、いちご大福、柏餅、ういろうなど普段に楽しむお菓子は、どれも美味しそうで決めかねてしまいます。こういった作ったその日に売り切る「朝生(あさなま)」の安定した味や香ばしい自家製かき餅など根強い人気で、常連のお客さんも多くあります。「水無月」「桂鮎」など季節のお菓子も和菓子屋さんの楽しみです。

乙訓庵寿々屋の赤飯
おまんじゅう屋さんお赤飯は小豆がいっぱいです

乙訓庵寿々屋の店頭で売られている野菜
またお店の前には、近所の農家さんから届く野菜も置かれています。この旬の朝取り無農薬野菜は、おかあさんが考えた「新鮮な野菜は喜ばれるし、買ったついでに店へ入ってもらえたら」と、少しでも多くの来店を促す販売促進策です。食べ方やゆがき方などのやり取りから話が弾みます。和菓子の入り口は多様性があっていいと気づかされます。
お客さんから、おとうさん、おかあさんと親しく呼ばれる二人のお店には、いつ行ってもほっとするあたたかい雰囲気が流れています。

和菓子修行の後の独立とドーナツ販売

乙訓庵寿々屋
おとうさんは、地元岡山の中学校を卒業後、15歳で大阪の和菓子店へ住み込みで就職されました。昭和41年(1966)26歳の時に大阪池田市で独立、開店し、その後、縁があって長岡京市の別の場所で営業されていました。店舗を置いていた商業施設には、他にも和菓子店があり、同様の商品は認められないと言われてしまったそうです。そこで信頼する方の勧めもあり「ドーナツとお団子」の店としてスタートしました。
ずいぶん思いきった転換であり、せっかく和菓子の修業をしたのによく決断されたと思いますが、おとうさんには「きっといける」という確信があったと言います。それは新聞で「アメリカにはドーナツ専門店があると知り「アメリカではやったものは、だいたい10年後に日本ではやるようになる」という読みがあったからです。スーパーマーケットもその例です。
ドーナツ
ドーナツの生地は、パンと同じようにイースト菌を使って発酵させる手間ひまをかけるなど、和菓子職人として鍛えた技術と感覚を生かした商品が誕生しました。また、子どもでもおやつに買える金額に設定し、評判を呼び人気商品になりました。ミスタードーナツの1号店が箕面にできる1年前だったそうですから、まさに先見の明です。
その後、現在の地へ移転してから15年がたち、すっかり地元でおなじみになりました。乙訓庵と京都の西の名を冠したところにも「ここでやっていく」という気概を感じます。
以前からの常連のお客さんも新しいお店へ引き続き足を運んでくれたことも、とてもうれしいこことでした。ドーナツはもう販売していませんが復活を望む声も多くあったそうです。
今やまぼろしとなったドーナツですが一度食べてみたいと思います。

地域おこしの一環の新商品と和菓子のこれから

乙訓庵寿々屋

青梅という朝生を作る寿々屋さん
ひとつひとつ全て手仕事で作られる青梅

店内に入ると、いい匂いが漂っています。おだんごには、こんがりした焼き色がつき、とろっとした醤油たれがたっぷりかかっています。
かき餅も一枚一枚並べて焼き、その後に醤油とみりんを合わせたたれを塗って、乾燥させます。どれも手間をいとわず作られています。このような普段使いのお菓子とともに、おとうさんが作る生菓子も秀逸です。取材にうかがった時は「青梅」の製作中でした。
年季の入った技術と季節を映す感性が、お菓子を味わう喜びを与えてくれます。姿形、色あい、素材、菓名が調和して和菓子独自の世界観をつくりだしています。
お茶席にもよく使われていますが、昨年からのコロナ感染予防のため、お茶事やお茶席のある催しがすべて中止になり、出番がぐっと少なくなってしまい本当に残念です。一日も早く収束の兆しが見えるよう祈るばかりです。

乙訓庵寿々屋の鴻臚の郷
たけのこの蜜煮があしらわれて鴻臚の郷(こうろのさと)
乙訓庵寿々屋の竹の子最中
名産品をかたどった竹の子最中

寿々屋には京都の伝統野菜にも指定されている地元の特産品、たけのこを使ったお菓子や長岡京の歴史にちなんだお菓子があります。「鴻臚の郷(こうろのさと)」は、寿々屋のある柴の里地域に、1200年余り前の長岡京の迎賓館であった「鴻臚館」があったという伝承を地域おこしにつなげようと考案されたお菓子です。
当時の自治会の役員の方と親しくていて声をかけられたそうです。試作をくり返し、試食をしてもらうことを重ねて完成したお菓子は、中に黄身あんを包み、上に地元産のたけのこの蜜煮をあしらっています。
たけのこの食感に黄身あんとバターの風味が調和して、緑茶でもコーヒーや紅茶にもよく合います。お菓子の個包装の「鴻臚の郷」という菓名は、懇意にしている茶道の先生の揮毫によるものです。伝承の地元の歴史が埋もれることのないように継承され、そのかたわらに「鴻臚の郷」があるように願っています。
乙訓庵寿々屋のお客さん茶団子などの乙訓庵寿々屋の和菓子
小さな女の子が父親と一緒に入って来て「茶だんごありますか」とかわいい注文をしました。おかあさんが「今日は茶だんごあるよ。この前は売り切れててごめんね」と答えるほほえましいやり取りがありました。
おばあちゃんのおみやげと家でみんなで食る分にと、お赤飯や桜餅を一緒に求めていました。あんこやお餅、お団子が大すきなのだそうです。和菓子の美味しさは、きっかけさえあれば子どももきっと「おいしい」と感じるでしょう。そのおいしさへの入り口に寿々屋がなっていると感じます。
乙訓庵寿々屋の店内
おとうさんが「15歳で住み込みをしたお店の御寮さんから、独立しなさいよ。あきんど、商いと言うやろ。つらいこともあるけど我慢しなさい。商いは飽きずに、細く長く、牛のよだれのように続けることやといつも聞かされていた。今でもそのことを思い出す」と話してくれた時、おかあさんと二人でこれまでお店を続けてきた源を感じました。
二人とも、じっとしていることのできない性分で、お店の仕事の手がすいた時や開店前に畑仕事をし、おとうさんは釣りが趣味で、時には日本海まで出かけるそうです。釣果はいろいろということですが、80歳をいくつか過ぎたという年齢を感じさせない元気さです。これからも末永く、多くの人に寿々屋のお菓子を味わってほしいと思います。
ツバメ
二人にやさしく見守ってもらった5羽のつばめのひなは無事に巣立ち、2回目の巣もりっぱに完成しています。今年も里帰りしたつばめは、安心して寿々屋であとしばらく子育てをします。

 

乙訓庵 寿々屋
長岡京市柴の里1-22
営業時間 10:00~18:00
定休日  火曜日

京のさんぽ道 100回を迎えて 

京のさんぽ道は、2017年5月のスタートから、100回を迎えました。
自然と文化、歴史が重なり合う京都を、日々の暮らしを通して発信していきたいと始めたブログでした。回を重ねるほど「普段の京都」の奥深さを感じます。これまで取材にご協力いただきましたみなさま、ブログをご覧くださっているみなさまに心から感謝申し上げます。
今回は、建都の井上誠二代表が「建築・不動産の会社がなぜ、こうした発信をしているのか」について、このブログを始めたきっかけや京都へ寄せる思いを語ります。京都とのなれそめや人柄、また建都という企業の一端をお伝えできればと思います。
 
語り手:井上誠二 建都住宅販売株式会社代表取締役
聞き手:京のさんぽ道編集部

すべての始まりは修学旅行で訪れた京都から


高校の修学旅行で訪れた京都の魅力は、その後の生き方を決定付けたほど、群馬県からやって来た私の心に大きな影響を与えました。
高校は明治に創立された「質実剛健 気宇雄大」を校訓に掲げる男子校で、まわりは県下から集まった精鋭、猛者が揃っていました。そういった校風や環境もあり、私も独立心は旺盛でした。大学は迷わず、京都を選びました。
大学へ通いながら、夜はアルバイトながらもバーのチーフの仕事をして、月々の生活費や学費は自分でまかないました。200人のお客様のボトルを覚えて、来店した時にさっと出すと「おっ、よう覚えてたな」ということになり、段々親しく言葉を交わせるようになります。その頃のお客様は、豊かな経験と見識に裏打ちされた魅力にあふれる方が多く、将来独立を志していた私は、ここで人間として鍛えられました。今思い返してみても、我ながら本当に営業向きの性格だと感じますし、営業マンとしての片鱗を垣間見るような気がします。

京都への思いと同じように、音楽への情熱も持ち続けています。

授業とアルバイトで相当忙しかったはずですが、生来楽天的で楽しいことが好きな私は、趣味の世界も広げていきました。下宿の先輩にジャズのおもしろさを教えられ、また邦楽部に入って都山流の尺八を始めるなど、目いっぱい京都での学生生活を楽しむ明け暮れでした。当時関西はフォークソング全盛期でしたし、学生バンドがビートルズの曲をコピーしたり、伝説のライブハウスや喫茶店も数多くありました。
歴史や伝統という重厚な要素の一方で、新しいものを取り入れ洗練された文化へと育んでいく風土、「大学・学生のまち」の学術的、開放的な雰囲気もあわせ持つ京都の魅力を強く感じ「京都で起業しよう」という気持ちはいよいよ強くなりました。

あこがれの京で「都」を「建てる」起業の際には資金のいらない「建築・不動産業」と決めていましたが、一部上場企業にも1か月だけ席を置きました。
中学生の時に母親を亡くしていたので、父親を安心させたい気持もあり、いったん就職したのです。狭き門を通った大企業ですから、父親は喜んでくれましたが、私自身は「ここでずっと働いても、やりたいことはできないな」と感じました。それで父親には「自分で会社をつくって、社長になるから」と話したら納得してくれました。
そこで地元の建売会社と不動産仲介会社を経験し、その後創業の準備を始めました。最初の建売の会社で同時入社した守山 穰現専務との出会いが創業への大きな力となりました。
その当時は学生の就職志望先とし「一番最後が不動産業界」でしたし、不真面目な人やトラブルも多く「人生で一番高い買い物なのにこんなことでいいのか」「この業界を何とかしないといけない」と真剣に考えました。酒を酌み交わしながら悩みや夢を語り合い、ともに建都のたち上げの日を迎えることができました。左京区の私の自宅の一室を事務所にして、不動産会社で働いた時から7年後の昭和59年(1984)4月、ついに創業の日を迎えたのです。

上京区の本社に、支店は創業の地である左京区をはじめ7店舗になりました

社名はいろいろ考ました。「京都不動産」ではイメージが合わないし「井上不動産」と個人名では、21世紀にも継続し、社員が楽しく働ける企業に合わないと感じ、大きく「都」を「建てる」という社名にしました。多くのお客様に、それぞれの「みやこ」を建て、地域にこれからの「都」を建設していこうという熱い思いと希望を込めて「建都」としました。しばらくして「建都1200年」という官民あげた記念企画がありましたが、私たちが先達であり登録商標もしました。
1年めから黒字経営を続け、2年目から支店を展開していきました。事業は着実に伸びて、社員も増えましたが、もちろん順調なことばかりではありませんでした。バブル経済の崩壊、リーマンショック後の激動期、東日本大震災などを乗り越えてきました。そして今、世界的なコロナ感染拡大の試練の時、どのようにしてお客様や地域のために役に立てるかが問われています。

京都の町に溶け込む家づくり、京都まちなかこだわり住宅の受賞作

私たちは、たとえばバブルの絶頂期にも、決して「転売」はしない、一般のお客様のみの仲介という方針を貫いてきました。それには、社員みんなが「お客様のみやこ」を理解し、生き生き働ける企業つくりが不可欠です。
また、早くから町家のリフォームや京都産の木材を使った家づくり、それにかかわる伝統建築の職人さんや工務店とのネットワークも大切にしてきました。そのなかで「京都まちなかこだわり住宅コンペ」での受賞、社会福祉法人様が運営する工房を備えた洋菓子店、木造の教会、町家を改装した書店など、京都の町並みにとけこみ、歴史的景観の構成要素にふさわしい建築を手がける機会をいただいてまいりました。
冬の寒さや段差を解消して、住み慣れた家での暮らしを実現できるように、町家のリフォームは超高齢化時代を迎えて喫緊の課題となっています。ピンチを乗り越えるには人の力、社員の存在があってこそです。困難な時も「人がいる」ことが回復を早めます。

野菜づくりも私の趣味の一つです

私はそろそろ第一線からは身を引いて、畑を耕し本を読み、好きな尺八やギターの演奏を楽しむ「仙人」のように暮らそうと思っていて、その草庵のような家には「遊耕庵」とい名前まで決めていたのですが、この状況では仙人になるのはまだ先のことのようです。「天職」の不動産の営業として、あとしばらく社員と一緒に会社を支えます。

建都の理念と並走する「京のさんぽ道」


以前は「KENTO NEWS」という広報紙を発行し、お客様や取引先に送付していました。内容は、「相続について」「空き家問題」「リノベーション」など、その時々の不動産にかかわる関心事の特集と、建都の不動産に関する案内、京都のまち企画を掲載していました。
B4サイズのタブロイド判でこれはこれで好評だったのですが年2回の発行でした。旬の情報をお届けするには間隔が開き過ぎるという点がありました。
そこで提案のあった、公式サイトのブログで、月2回の発信に切り替えました。最初は1年やってみて様子をみようという感じでしたが、100回を迎え、内心少し驚いています。続けたら続くもんやなあと思っています。

「建築・不動産会社がなぜ、不動産情報ではないテーマのブログを開設しているのか」と不思議に思われることも多いと思いますが、「美しい自然や歴史・文化と共存するまちづくりは重要なテーマである」という建都の経営方針に沿うものだからです。このテーマを営業とは違うポジションから、自由にすくいとって発信するのが、京のさんぽ道です。
思いがけず、これまで取材させていただいたみなさんから「人が暮らす京都に視点を置いている」「細やかで丁寧な記事にしてくれた」などの声を寄せていただき大変うれしく思っています。
これからも住まいを通して、京都の町並みや生業、暮らしの文化の継承する企業として地域に貢献してまいりたいと決意を新たにしています。これからも「建都が見つけた京都」京のさんぽ道に、ぜひお立ち寄りください。

世代をつなぎ 宇治茶作りひと筋

五月一日は、立春から数えて八十八日め「八十八夜」茶摘みの季節です。茶畑には、やわらかな新芽が育ち、茶農家は寝る間も惜しむほどの忙しい日々が続いています。
急須やお茶の葉と縁がないお家はめずらしくなく、またコロナの影響でお茶会やけい古、お茶席のある催事がほとんど中止されるという、かつてない逆風のなかでも、日本のお茶の文化、栽培や製茶の技術の継承のため、家族と社員が一丸となって日々励んでいる茶農家があります。
お茶の発展の歴史を誇る宇治で、十六代にわたってお茶作りひと筋に生業を守る、宇治茶製造卸販売「丸利吉田銘茶園」を訪ね、忙しいさ中、専務の吉田勝治さん、実店舗とオンラインショップを担当する息子さんの昌弘さんに、お茶に寄せる思い、宇治茶の可能性について語っていただきました。

玉露発祥の地、歴史の面影がやどる小倉地区

吉田銘茶園の茶畑
吉田銘茶園では、今年は例年より早く4月25日から茶摘みが始まりました。「八十八夜の別れ霜」と言われる遅霜がないように、お茶の摘み手さんが集まるように、摘んだお茶の加工が滞りなく進むように等々、細やかな気配りが欠かせません。
本社製造所と主な茶園のある小倉地区は玉露発祥の地とされ、旧大和街道沿いには、茶問屋の伝統的な建物が並び、古くからの茶どころの面影を今も色濃く残しています。
巨椋氏の氏神様であり旧小倉村の産土神の巨椋神社と、その境内には子どもの守り神の子安神社があります。ウオーキング途中の人が、鳥居の前で足を止め、ごく自然な感じで拝礼された姿にも、地元で親しまれている神社であることがうかがえます。

本ず覆下栽培
本ず覆下栽培

宇治のお茶栽培の大きな特徴は、茶園に覆いをして日光をさえぎる「覆下栽培(おおいしたさいばい)」にあります。玉露や抹茶になる碾茶(てんちゃ)は、日光をさえぎることにより、甘みと旨みが多く、香りと豊かな風味のお茶となります。吉田銘茶園では、茶園の上をよしずとわらでおおう伝統的な「本ず覆下栽培(ほんずおおいしたさいばい)」を継承しています。
琵琶湖産のよしは、自園の竹林や田んぼの竹やわら使います。よしずを編み、丸太と竹でやぐらを組んで、やぐらの上にわらをふき、周囲を囲うこも編みなども、すべて社内で行っています。
よしずの上のわらは、茶摘みの時期には畑に敷かれ、土の養分になります。


お茶摘みさんが摘んだお茶は、発酵しないうちにすぐに蒸す作業に入り、もみながら乾燥します。宇治茶栽培には、このようにお茶にかかわる技術が総合的に発揮されて守られてきました。
本社製茶場前の本ず覆下茶園は「日本遺産」に認定されています。茶畑の広がる景観は、宇治を特徴づける、かけがえのない景観であり、それは茶農家とそこに働く人々によって保たれています。

「六次産業」のさきがけ、十五代の先進性

吉田銘茶園の茶箱
吉田銘茶園では茶問屋への卸しのほか、生産から仕上げまで行い、法人化した販売部門で小売りまで行っています。当時、茶農家がこのような業態をとることは非常にめずらしく、画期的なことでした。
この道を開いたのは、勝治さんの父、十五代の利喜三でした。生産から加工・販売も行う「6次産業化」のさきがけと言えます。「作った者が価格を決められる」を重要視し、それが喜びともなり、茶農家を存続させるかぎともなると考えたのです。
そして40年前、小倉駅前に完成したショッピングセンターのテナントとして開店しました。卸先の茶問屋とはお互いに話し合って数量と価格を決める「相対取り引き」ができていて信頼関係が築かれ、それも大切にしながら新たな道を切り開いたのです。しかし、勝治さんが大学3年生の、開店して1年もたたない時、十五代が急逝されるという、思いもよらない哀しみに見舞われました。
吉田銘茶園の店舗

丸利吉田銘茶園専務の吉田勝治さんと息子さんの昌弘さん
丸利吉田銘茶園専務の吉田勝治さんと息子さんの昌弘さん

利一さんは栽培と加工、勝治さんは販売部門を担当してこの困難を乗り越え「生産者が価値を決める」業態を継続することができました。
そして2017年11月に店舗を移転オープンしました。現在、勝治さんの息子さんの昌弘さんが担当しています。
奥にかかったのれんと茶釜が「お茶の店」の雰囲気を作り出しています。昌弘さんが丁寧にいれてくれる煎茶や、薄茶を気軽に味わうことができます。勝治さんと二人で宇治市役所の新採用の職員研修でお茶についての指南、海外との取引に発展したSNSでの発信など、宇治のお茶を広げるため利喜三さんの志を継いで、奮闘されています。

お茶の魅力を、次世代や海外へもつなげる

吉田銘茶園のだんご茶
吉田銘茶園のだんご茶

駅前店の店内には、手もみの最高級のお茶をはじめ、様々な種類のお茶、そして新茶が並んでいます。テーブルの上には、一番茶を摘んだお茶のひと枝がさり気なく生けてあります。
玉露を作る過程でできる数量もまったくわからない、知る人ぞ知る「偶然のたまもの」「だんご茶」もあります。もちろん玉露として飲むことはできますが「このまま食べる」ことをすすめています。噛むと濃い旨みと香り、清々しさが広がり、まさに甘露の味わいです。わざわざ遠くから買いに見えるという話もうなづけます。
吉田銘茶園のかご
店内にディスプレーされた、碾茶を挽いて抹茶にする石臼、茶箱、竹製のふるいなどお茶の製造に関係する道具もお茶について話しをする良いきっかけとなっています。
工芸品並みの細かい編み目の大きなかごは、仕上げる前の葉と茎がきれいにわかれ、お茶にも手にも優しい、すばらしい道具なのだそうですが、もう作る所はなく、自分たちで繕いながら大切に使っているそうです。

勝治さんと昌弘さんは「お茶を急須で飲む文化を絶やさないために」と、近くの小学校や保育園で「お茶の体験教室」のボランティアを引き受けています。今年行った保育園は昌弘さんの卒園した園で、当時の園長先生が現在も務めておられ、SNSを見て申し込まれたそうです。
抹茶を飲んで「苦い」と驚いて泣き出す子もいたそうですが、楽しく飲む子が多かったそうです。「やはり日本人のDNAなんでしょうね」と昌弘さん。小学生から「今までお茶は、ウーロン茶と麦茶しか知らなかったけれど、こういうお茶があることをはじめて知りました」という感想文をうれしそうに見せてくれたことを思い出しました。

吉田銘茶園インスタグラムより

昌弘さんが英語で発信したインスタグラムで、海外のショップや個人と直接取引が増えているということで、インバウンドとは異なる海外とのつながりが確実に広がっています。ティーショップの経営者が、取り引きを開始する時に来店され、とてもお茶に興味を持たれたそうです。
吉田銘茶園の茶畑
吉田銘茶園では他の茶農家の茶畑の栽培管理を依頼されることもあるそうです。
市街地の茶畑が年々少なくなる様子を何とか食い止めたいと思う昌弘さんは「いとこも一緒に頑張っているので、これ以上茶畑を減らさないようにやっていきます」と、はっきりとした答えが返ってきました。
栂ノ尾高山寺に、800年前に明恵上人が植えたのが始まりとされる日本最古の茶園があります。この茶園を十四代の時代から吉田銘茶園が管理を任され、毎月手入れをされています。日本のお茶の歴史は、このようにして守られ後世に伝えられています。
お茶はコロナウイルスを迅速、効果的に不活化するという研究発表も報道されています。科学的な効果もありますが、何より、新茶の香りで季節を感じるという、ゆとりの時を多くの人に過ごしてもらいたいと思います。

 

丸利吉田銘茶園 駅前店
宇治市小倉老ノ木45-2
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜日

竹と筍 京都石田ファームから発信

この京のさんぽ道で、昨年は筍の収穫、メンマ作り、山の竹林の農小屋建築と、度々取材させていただいた石田昌司さんの石田ファームを訪ねました。
季節は竹の秋。美しい竹林の竹は、一年の仕事を終えて黄色に色付いた葉を落とします。今年は暖かい日が続いたので筍の成長も早く、収穫はすでに終盤を迎えています。朝早くから掘って、計量、箱詰め、出荷というあわただしい合間を縫い、メンマ作りや「高圧処理」した筍の試食と検討などが活発に行われました。
竹やたけのこに関心のある人たちが寄り合い、活動を続けていくうちに、知れば知るほど、通えば通うほど、竹と筍の不思議さ、おもしろさに引かれ、興味は尽きません。

おとなの日帰り林間学校のような一日

石田ファームの竹林
4月の良く晴れた日曜日、石田ファームの今年最初のメンマ作りと「高圧処理」した筍の試食会の会場は、整備された筍畑に囲まれた石田ファームの作業場です。
作業に入る前に、まかないのお昼ご飯のお相伴にあずかりました。玄米ご飯に筍入りカレー、筍と春キャベツの炒め物を頂きました。石田ファームの食材、付け合わせのらっきょうは参加された元学校の先生の自家製という、本当のご馳走でした。「滋養」がからだにしみこむ感じに、張り切ってメンマ作り開始です。
石田ファームのメンマ作り
良い筍がとれる「親竹」を残し、それ以外の伸びたたけのこは伐って、日が差し、風が通るようにします。「幼竹(ようちく)」と呼んでいる、その「竹未満」のものを、捨てるのではなく活用方法を模索するなかで考えられたのがメンマです。今、このメンマ作りは全国的にも広がりを見せ、商品化を実現した所もあります。
石田ファームのメンマ作り
皮をはぎ、寸法を考えて切る、大きな寸胴にお湯を沸かす釜焚きと、自然と分担ができて作業が進みます。薪割り担当の方のあっぱれな腕前に、みんながどよめきました。
石田ファームのメンマ作り
包丁がさくっと入ったところからが使える部分、塩分30%等々、手順を追ううちに「ああ、もう一年たったのだなあ」と、筍や竹つながりで、多くのみなさんと出会ったことがよみがえってきました。そして、関心のある人が可能な範囲で参加し、それぞれの意志で自由に続けられている、この自立した活動がすばらしいと思いました。実際に竹林に囲まれた中で、みんなで和やかに無心に作業をすると、とても楽しく、やはり人と人が一緒に共同で何かをすることは大切なことと改めて感じました。
石田ファームのメンマ作り

石田ファームのメンマ作り
ゆで上がった幼竹は、熱いうちに塩をして重石を乗せて樽に仕込み、発酵させます。出来上がりを期待して、待つことも楽しみになります。メンマとして食べられるようにするにはさらに、発酵の後、塩出しをして味付けという、けっこうな手間ひまがかかったものになります。

石田ファームは「竹とたけのこラボ」

石田ファームのメンマ作り
幼竹を湯がいている時間を利用して「高圧処理筍試食会」も行われました。石田さんが食品会社に依頼して、高圧で生の筍を処理するという実験を行い、その結果の検証と試食という興味津々の企画でした。形状はどうなったか、えぐみはどうか、筍本来の香りや甘みのある味わいは残っているかなど、みんなで試食し、意見を交わしました。
高圧処理筍の試食会
当日は、アスリートフードマイスターや管理栄養士という「食」関係の常連さん、自他ともに認める竹好き、竹ひと筋の研究者という専門家も参加していました。試食しているうちに、「えぐみが口の中に残ってるなあ。すっきりさせたい」と、「利きたけのこ」を中断してお茶の時間となりました。お持たせのふきのとうのクッキーと、ハト麦やおからパウダー、ブルーべリーなどを使ったグラノーラの最高のおやつを頂き、コーヒーでひと休みしました。

石田ファームの親竹
来年良い筍がとれる「親竹」

石田ファームでは、ホームページや通販サイトは開設していませんが、筍の高い品質は口コミで広がり、関東方面からも注文があります。しかし石田さんは、高値で売れる筍を育てるだけではなく、余ったけれど同じように、しっかり手入れされた、ふかふかの畑で育ったたけのこを何とかして生かしたいと奮闘を続けています。
それも同じことを続けるだけでなく、今回の高圧処理のように新しい方法も果敢に試みています。そのため、多くの人がおもしろくて楽しい活動と感じて集まって来るのだと思います。
メンマ
幼竹でメンマを作るのは、とても手間とコストがかかってしまいますが、今の完全手作業から他の良い方法に移行できれば、安く、安心で美味しい「純国産 京都のメンマ」ができます。そう思うと夢が広がります。そして、その夢は現実のものに、きっとできると感じます。
石田ファームはこれからも、ラボのように幅広い人が集まって実験をくり返し、竹とたけのこの未来図が描かれていくことと思います。

受け継がれる技術と、地域に根ざした暮らし

石田ファームの竹林
竹林の間のこみちは、うぐいすのさえずりと竹の葉が風に揺れる音だけが聞こえる別世界です。数年前から石田ファームで仕事をされている、兵藤暁人さんが、筍掘りに励んでいました。
石田ファームの兵藤暁人さん

石田ファームの石田昌司さんと兵藤暁人さん
その日も気温は20度を超えていて、兵藤さんは汗をかきながらの作業です。地面のひび割れを見つけて、地下茎の張り方も見極めながら慎重に「ホリ」を差し込んでいます。兵藤さんは、次々移動して、手早く掘りあげていきます。午前中にすべて掘らないと出荷が間に合わないし、次の日には大きくなり過ぎる筍もあります。
離れた筍畑へ行っていた石田さんがもどり、兵藤さんにアドバイスや確認をしています。
たけのこの計量
計量すると兵藤さん一人で60kgもありました。そして何といっても、兵藤さんのこれまでの最高、1.5kgの大物を掘りあげたのです。大物を手にした兵藤さんはうれしさの広がる、とても良い表情をしていました。
石田ファームの親竹
竹の棒を差し込んであるのは来年、筍を取る「親竹」の候補です。筍だけを見て選ぶのでなく、良い筍ができるかどうか、地下茎をしっかり見て決めるのだと教えてもらいました。竹は一本、一本単独に生えているように思いがちですが、地下茎が横へ伸びた所から地面の上へ出てきます。ですから、良い筍を取る親竹を選ぶには、地下茎を見る目利きとなることが大切です。
ふかふかの畑と、すっと伸びた竹を見ていると、いつも気持ちが軽くなります。美しいと感じる竹林も田畑も里山も、それは必ず人の手が入っているからこそ、ということを改めて感じました。
石田ファームのお地蔵様
帰り道、大きな樫の木の根元に祀られた、古い三体の石の仏様にお参りしました。石田さんの父親の健司さんが長年お世話をされている、石田家のご先祖様なのだそうです。ひっそりと、優し気なたたずまいに引かれます。
すがれの菜の花が咲く畑には、6月にはお正月用の「雑煮大根」の種まきをされるそうです。
農作業には、季節の物差しが生きています。その地に根付いた季節や暮らしの尺度から、多くを学ぶことができます。
石田ファームの今年のメンマ作りは、まだ続きます。

 

石田ファーム
長岡京市井ノ内西ノ口19―1

文化芸術の発信の場 元老舗米穀店の京町家

京都御所南の界隈も、近年は刻々と様子を変えていますがまだ、低層の家並みが続く静かなまちなかの趣をとどめています。
烏丸通の夷川を西へ入ると、すぐに目に入るどっしりとした店構えの町家があります。「米 丹定」と屋号を大書した看板の残る、もと老舗米穀店の建物です。所有者の方の、この建物への深い思いと、その心に共感する多くの人々の協力のもと、雑貨店とギャラリーを併設した、芸術文化の発信基地として新しい役割を持って歩みを続けています。
ギャラリー567外観
2005年に、雑貨店コロナ堂と2階にギャラリー567をオープンした本田晃三さん、佳子さんに、作家さんの個展でお忙しいなか話をお聞きしました。
取材のなかで、この町家を紹介し、改修を全面的に応援されたのは、この京のさんぽ道でもご紹介しました「暮らしの営みや人とつながる建築の喜び」京都建築専門学校の佐野春仁校長先生であったこと、たけのこ農家の石田昌司さん「京都のたけのこはふかふかの畑で育つ」とも親交があることがわかり、驚くと同時にご縁を感じました。
運営する中で発見したこと、多くの人との幸せな出会いなど、たくさんのことをお話いただきました。

活動の積み重ねの延長線上にあった出会い

ギャラリー567内観
夷川通りに面して、広く取ったガラス戸越しに心惹かれるディスプレイの京町家に、道を行く人は歩みをゆるめます。店内には、カナダのガラス作家のランプ、パリ在住の日本人作家のアクセサリー、ポストカード、書籍、その他帽子やバッグの小物に洋服、手ぬぐいなど、すべてがお二人の信念と感性にかなったものが、おのずと調和して美しく心地よい雰囲気がつくりだされています。
また、ふきんや味噌といった、ごくごく身近な毎日使うものも、環境に負荷を与えない、安心して口にすることができる、そういった実直なものづくりから生まれています。ものを見極める基準は、これまでかかわってきた活動とも関係していると感じます。

ギャラリー567の本田晃三さん、佳子さんご夫妻
本田晃三さん、佳子さんご夫妻

お二人は、教会や個人住宅など数々の優れた建築を世に残したヴォーリズの設計による、左京区の昭和初期の洋館「駒井家住宅」の保存と活用の活動をされていましたが、京都建築専門学校の佐野春仁先生も「駒井家住宅」の活動にかかわっておられました。本田さんご夫妻はその後、佐野先生が取り組んでいた、五条坂の登り窯の保存と活用にも参加し、そこでカフェ&ギャラリーの運営もされてきました。
そのつながりから佐野先生が、本田さんご夫妻の次の活動拠点として、現在の夷川の京町家を紹介されたのでした。京都の歴史的景観や文化を大切にし、志を同じくする人たちとともに、その素晴らしさを発信してきたお二人の新たな拠点として本当に望ましい出会いとなりました。
この建物は、文化5年(1808)から、丹定(たんさだ)の屋号で米穀店を営んでいた竹内家の所有で、昭和2年の建築です。京都の御所近辺は、幕末の蛤御門の変、いわゆるどんどん焼けで焼失してしまったため、多くが明治以降に建てられています。
烏丸夷川の記念碑的な丹定の京町家は、こうして本田さん夫妻を中心に、建築家、大工さん、学生さんと、これまでにない多彩な人々の共同作業によって、今も夷川通の重鎮のごとく風格のある姿を見せ、人と人をつなぐ場となっています。

もとの姿にもどすための改修

ギャラリー567の天井
現在、みせの間にあたる所が雑貨のコロナ堂、そして中庭、通り庭も作品の展示空間として活用され、二階のギャラリーは作品展やコンサート、講演会、落語会など「多様性」のある使い方がされています。
佐野先生の指導で改修に入ることになった時、設計図などはなく「元のかたちにもどすことを考えましょう。米穀店であった痕跡を大切に」が答えでした。こうして御所の御用達でもあった大店、丹定の「もとの姿」へ近づけるプロジェクトが始まったのでした。
ギャラリー567改装時の写真

15年前の改修作業の写真パネルがきちんと残されています。大変な作業にもかかわらず、先生も学生さんも和気あいあい、楽しそうです。この改修には、所有者の身内の方も参加されたそうで、町家改修の貴重な記録であり、丹定の歴史にとっても大切な記念です。

元米穀店の「鎧戸」の鉄枠
元米穀店の「鎧戸」の鉄枠

使われている木材は柿渋やべんがらが塗られ、時を重ねて段々と味わいを増します。「おくどさん」と同じ構法で造られた階段が、ほのぼのとしたあたたかさをかもし出し、側面はおもしろい展示コーナーになっています。入り口の頑丈な鉄の枠は「鎧戸」の痕跡です。相当重かったはずで、毎日上げ下ろしするのは重労働だったことでしょう。

ギャラリー567の北山丸太
お店の奥の壁ぎわに配された北山丸太が目にとまりました。これも米屋さんの痕跡です。以前ここには厚い板があり、そこに打ち付けるようにして、うず高く米俵を積んでいったのでそうです。二階は床板もそのまま使われていて「ここは、丁稚さんが寝ていたところです」と説明を聞くと、幼い年齢で親元を離れ、家が恋しい夜も多かっただろうと、しんみりした気持ちになりました。
「できるだけもとの姿にもどし、米穀店であった痕跡」は、訪れた私たちにいろいろなことを語りかけてくれます。

芸術家が羽ばたき、地域に根差した文化の拠点として

山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
昨年からコロナウィルスのため、多くの企画を断念せざるを得ませんでしたが、今年に入りコンサートや作品展が開催されています。取材時は、新進気鋭の若い女性作家の個展を鑑賞することができました。
サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」
ひとつはラオスの留学生、サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」です。ウサバディさんは、5年前に日本へ来て、京都の大学で4年間テキスタイルを学び、3月に卒業したばかりです。実家は織物業を営み、ウサバディさん自身も6歳から織物を始めたという技術と経験の持ち主です。
帰国する直前に開いた初の個展でしたが、日本へ来てからの充実した日々が伝わってくる美しく力強い作品に励まされる思いでした。大学の友達・先輩、先生、アルバイト先の先輩、ラオス料理レストランの方など多彩なみなさんがかけつけ「ウサちゃん」の初個展をお祝いしていました。
山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
もうひとつは、京都市立銅駝美術工芸高校を卒業し、大学から富山へ行き、現在も富山で制作を続ける彫刻家、山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」です。京都では初の個展、里帰り個展です。
乾漆という伝統技法を使った作品で、漆という素材の表現の幅広さが新鮮でした。また個展の名前もそうですが、それぞれの作品名も創造性豊かで、響きや文字のかたちまで考えられているようで、作品と相まって、見ている側の感覚もかき立てられました。ウサバディさんも山田さんも、このギャラリーの空間がすばらしい、ここで展示できてよかったと喜んでいました。
山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
木と土を使い、人の手によって伝統構法で構築された空間は、時がゆっくり流れ、時間や天候により光も微妙に変化し、豊かでおだやかな雰囲気のなかで、作品を鑑賞することができます。
本田さん夫妻が願う新たな交流の場として、コロナ堂とアートステージ567は、しっかりと根を下ろしています。暮らしと生業の痕跡の残る町家は、これからさらに、多くの人の「私の京都」になることでしょう。

 

コロナ堂&アートステージ567
京都市中京区夷川通烏丸西入巴町92
営業時間 11:00~19:00
定休日 月曜日