京都の冬の始まり

雨が多かった今年の秋。季節は足早に進み、朝晩はぐんと冷え込むようになりました。
火の神様に五穀豊穣と無事をお祈りする「お火焚き祭」が、あちこちの神社で行われ、冬の暮らしを始める合図とも言える「亥の子」に因んだ話題も聞かれます。風が強く、よく晴れた日、少し寄り道をして冬の始まりのまちを歩きました。

京の都の四方四隅を守る大将軍神社


東山三条近く、千鳥酢の銘柄で知られる村山造酢の古い蔵がある、ほのかにお酢の香りが漂う小道を行くと、古式ゆかしい神社が、観光の波から離れて、ひっそりと建っています。こじんまりした境内ですが、舞殿、本殿、絵馬殿、稲荷社などの社を祀る格式のある大将軍神社です。
由緒には、桓武天皇が平安京を造営した際、都を鎮め守るために、四方四隅にスサノオノミコトを祀り大将軍神社としたうちの、東を守護すると由緒書きにあります。特に東は、京の七口のひとつ、三条口の要の地にあたり、悪い霊の侵入を防ぐために最も重要とされたとあります。また、藤原道長の父、兼家の邸宅「東三条殿」もこのあたりにあり、応仁の乱で破壊されてしまいましたが「東三條社」として境内に祀られ、その名残りをとどめています。
大将軍神社の銀杏
樹齢八百年、30メートルもあるご神木の大銀杏は、毎年見事に色付きますが、ゆっくりした気持で歩いていないと見過ごしてしまいます。
久しぶりに訪れて驚いたのは、「区民の誇りの木」にも選定されている、榎の巨木が倒れてしまっていたことです。先日の台風21号の強風で倒壊したそうです。稲荷神社も壊れ、手水舎も傾き、付近は立ち入り禁止となっていました。今年はお火焚祭も行われなかったそうです。
いつも清浄な境内が保たれ、氏子のみなさんが大切にお守りされている神社です。大変なことですが、どうか早く復興されますようにとお参りしました。

東の大将軍神社の鵺伝説

浮世絵師・月岡芳年が描いた鵺(wikipediaより)

ここは、古くは「鵺の森」と呼ばれ、平家物語の「源頼政の鵺退治」の舞台にもなったと言われています。源頼政が、丑の刻に現われて天皇を苦しめる、怪しいものを「南無八幡大菩薩」と唱えながら矢で射落としてみると、頭は申、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていたと記されています。
今は、人気のエリアとして多くの人が行き交っていますが、平安時代には物の怪が夜な夜な現れる異界であったとは。
都の歴史は、虚も実もない交ぜに、様々な物語が生まれ、伝えられています。千二百年の出来事を見つめてきた大銀杏と、一緒に立っていると思うと不思議な気分になりました。

亥の子とお火焚きのお菓子

11月は、お火焚祭と亥の子の二つの、いずれも宮中から庶民の間に広まった行事が行われます。お火焚祭は、火を焚いて日常のけがれや罪を祓い、心身を浄めます。火の持つ霊力によって願いがかなうとされています。
「亥の子」は、亥の月である十月(新暦11月)の最初の亥の日のこと。その亥の刻(夜の9時から11時頃)に、お餅を食べると病気にならないとされ、無病息災を願いました。また、亥、猪は多産であることにあやかり、子孫繁栄を願う意味も込められました。また、亥の子の日に「炬燵開き」「炉開き」をする風習もあり、茶の湯の炉開きもこの頃です。年配の方から「子どもの頃、どんなに寒くても亥の子までは炬燵をいれてもらえなかった」と聞きました。


古くからの行事とお菓子との結びつきは深く、特に京都では今も習わしごとに決まったお菓子を頂く習慣が続いています。お火焚祭のお供えは、宝球の焼印を押したお火焚まんじゅう、柚子おこし、みかん。亥の日にちなんだ亥の子餅は、うりぼうをかたどり、表面に黒胡麻を付けた肉桂の香りが特徴のお餅です。
帰り道に立ち寄ったお菓子屋さんは老松堂。180年この地で、季節ごとのお菓子を作り続けています。毎年決まって、柚子おこしや亥の子餅を買いに来るお客さんも多いそうです。老松堂とお客さんとの関係は、今年も変わらず、決まりのお菓子を作れること、また、無事に過ごし、お菓子を買い来られたことを、お互いに喜び合う、つながりがあると感じます。私が行った時、白髪の紳士が栗入りのお赤飯を包んでもらっていました。控えめに、ていねいに暮らすなかに生まれる豊かさを教えてもらった気持になりました。