平安の麗人と蓮と仏像 法金剛院

京都には、四季折々の花や、草木の芽吹き色づきを楽しめるお寺が多くあります。関西花の寺第十三番霊場、京都市の西方にある法金剛院(ほうこんごういん)は、桜、花菖蒲、さつき、あじさい、蓮、萩、30種ある椿など花暦を楽しむことができます。

創建は830年に遡る名刹。一時は衰退してしまった後、復興させたのは、平安時代きっての麗人、待賢門院です。
壮麗な伽藍を配した法金剛院を建立し、上皇、天皇もしばしば行幸されました。西行をはじめとする歌人や貴族が集う、超一流の華やかな文化サロンであったようです。
鳥羽天皇の中宮、待賢門院が、極楽浄土を求めて造らせた「池泉廻遊式浄土庭園」には今まさに、極楽に咲いているとされる蓮の花が、最後の見頃を迎えています。
酷暑の今年ですが、朝に法金剛院へ参拝してみてはいかがでしょう。池の廻りを歩いて蓮を愛で、ご本尊の阿弥陀如来や地蔵菩薩とまみえると、すがすがしい気持になれます。素の自分に返ることができる空間です。

平安時代の人々を、近しく感じる


壮大な堂宇や庭園も、度重なる天災や戦災で土に埋もれてしましましたが、昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、日本最古の人工の滝である「青女の滝」の石組みが、そのまま埋まっていることが確認され、2年後に、滝の石組みの復元、池や周囲の植栽の整備が行われ、平安時代の庭園がよみがえりました。
青女の滝は、国の特別名勝に指定されています。この作庭を命じた、待賢門院の才気と権勢は、目を見張るものがあります。

待賢門院像(法金剛院蔵)wikipediaより
西行像(MOA美術館蔵)wikipediaより

才気と美貌に恵まれた待賢門院は多くの人に慕われ、17歳年下の西行も恋心を抱く一人だったようです。
西行といえばまず「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」の歌が浮かんできます。無常を感じ、すべてを捨てて出家した人と思っていましたが、こういう人間模様をみると、平安時代に生きた人たちも、今とさして変わりない気もしてきました。
ご本尊の阿弥陀如来、珍しい僧形の文殊菩薩、地蔵菩薩、十一面観音を近くで拝観することができます。阿弥陀如来は、藤原時代を代表する「丈六」(じょうろく)という、高さです。これは、仏様は身長が、1丈6尺(約4.85cm)とされていることによります。その背の高さ、大きさでも威圧感はなく、包み込まれるような「安堵する」という気持になりました。僧形文殊菩薩と地蔵菩薩も平安時代のもので、いずれも一木彫です。千年を超えて、今を生きる私たちに語りかけてくれます。

身近でもあり、あまり知らない蓮のこと


法金剛院はまたの名を「蓮の寺」と言われています。広い池を埋め尽くすように、また周囲には鉢植えの蓮の花が咲いています。
今年は暑さのせいか、例年より開花が早かったそうです。茎が折れたり、花びらが散ったりと、台風12号の狼藉のあとが見られましたが「泥中の蓮」の言葉通り、清らかな美しさはほかの花にはないものでした。拝観した如来像と間の前に咲く蓮が自然と重なりました。
境内の蓮は約90品種にものぼると伺いました。その中には古代蓮とも呼ばれる、大賀ハスもありました。その存在を初めて知ったときは、2000年も前の種から芽が出て、きれいな花が咲くなんてと、古代のロマンを感じたものでした。


蓮の花の命は短くて、3~4日くらいで散ってしまい、その後はハチの巣みたいな「花托」だけになり、3週間くらいで穴に入っている実が熟し「果托」と名が変わるそうです。子どもの頃、近所に蓮池のあるお家があって、お使いに行くと、お駄賃に果托ごと実をいただき、薄皮を剥いて食べました。どんな味だったのか。とうもろこしみたいなのと言われればそうだったような気もします。また食べてみたいものです。

鑑賞用と、食用のれんこんにする蓮は品種が違うそうですが「先が見通せるように」と、お正月のおせちには欠かせないし、「一蓮托生」という言葉もあり、チャーハンやラーメンを食べる時に使う略称レンゲ、「散り蓮華」は、散った蓮のはなびらというそのままの名前を付けているし、身近なところで蓮に関係している言葉やモノがあります。
ちなみに、蓮の花托は蜂の巣に似ているので、蓮はまたの名をはちすとも言い、はちすから蓮になったとも聞きました。小学生の夏休みの自由研究並みですが、こんなことに頭を使ったり調べたりするのもおもしろいと思いました。

法金剛院のある双ヶ岡東麓、花園の地

wikipediaより

法金剛院のある所は、京都市の西方の双ヶ岡(ならびがおか)という三つ並んだ丘の東側です。古くから天皇が猟をして遊んだり、位の高い貴族の山荘があった場所です。四季の草花が咲く、のどかな里であったことから「花園」という地名になったとされています。
また、吉田兼好も双ヶ岡の麓で徒然草を執筆しました。法金剛院の前身である、時の右大臣、清原夏野が平安時代の初めに建てた山荘は、没後に「双丘寺」(ならびがおかでら)というお寺になりました。このように双ヶ岡は、それぞれの時代の歴史と関わってきました。そして、1941年(昭和16年)に、国の名勝に指定されています。80年近くも前に、その価値が認められていたということです。
しかし、1964年(昭和39年)に、所有者が売却を決定し、買収予定者がホテルの建設を発表したところ、地元から反対の声があがり、市民団体や学術団体などによって、政府・国会への声明を発表しました。
結局は買収予定者が資金調達ができず、ホテル建設は免れましたが、このことは、1966年に古都保存法を制定の契機となりました。開発と保存の問題は依然として全国的な課題となっていると思います。

千年はおろか、30年、50年前の景観や自然を継承することも困難な場合が多くあります。少子高齢化、人口減少社会の到来で、これまで以上に、年齢を重ねても健康で文化的な暮らし、生活の質を保っていくことに力を注がなければなりません。
法律に照らしながら、そこに住む一人一人の合意を大切にした、まちづくりをどのように進めたらよいか。住んでいる人の誇りとなり、憩いにもなる、京都の歴史的景観や文化を次世代へとつないでいくために、建都もさらに努めてまいります。

 

法金剛院
京都市右京区扇野町49
拝観時間 9:00~16:00(ハスの花期は7:00から)
拝観料  500円