空白から復興へ 祇園祭の力強さ

七月一日の切符入にから、神事や行事が滞りなく行われ、前祭りの鉾立の終わった山鉾町に祇園囃子が流れ、猛暑の京都は、祇園祭を中心にまわっていています。出版物やインターネットにも「京都観光」の祇園祭をより楽しむための記事が満載されています。

厄災をもたらす怨霊退散を祈る「御霊鎮」の祇園祭も、本来は御神輿が主体です

そんななかで、2014年に前祭、後祭の本来のかたちに復活したことをきっかけに、宵山、巡行以外の行事にも目を向け、これまでと違う楽しみ方を知る人も増えてきているように思います。それぞれの山や鉾の来歴、華やかさの裏にある、思いがけない歴史上のつながりや、ご神体に託して先人が伝えたかったこと、継承を巡る様々な出来事など、もう一歩奥を知ると「見る側」としての意識が変わります。未だに新しい発見が次々とある、祇園祭の厚みと深さは計り知れません。祭の精神を垣間見る祇園祭です。

八幡と蟷螂山、外郎家を結ぶ縁

前祭の宵山を前にした13日、八幡市観光協会と、やわた観光ガイド協会の主催による、「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という、祇園祭にふさわしく、興味深い企画があり、参加させていただきました。三者を結ぶ縁について、わかりやすくまとめられたパンフレットが役立ちました。その内容もお借りしながら、三者のつながりを記してみます。

祇園祭の蟷螂山は、御所車の上にかまきりを乗せた、唯一、からくりのある山です。車に踏み潰されそうになったかまきりが、怒って斧に似た足を振り上げて立ち向かってきた。その様子も見た王が「これが人間なら、さぞ勇敢な武将になったことだろう」と語ったという、中国の故事「蟷螂の斧」にちなんでいます。
どんなに強い相手にも、自分を顧みず立ち向かう蟷螂の姿に、南北朝時代に南朝方の武将として勇敢に戦った、四條隆資(しじょうたかすけ)卿を重ね合わせています。
隆資の死後25年目(1376年)に、陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそき)が、法要を営み、四條家の御所車に蟷螂の作り物を乗せて巡行したのが、蟷螂山の始まりとされています。隆資も外郎一族も現在の蟷螂町に住んでいたよしみと、朝廷に仕える優れた医術者、薬業者であった外郎家が、町衆の病を治すなど、民衆のために力を尽くしたことを初めて知り、とても感銘を受けました。
南北朝の戦いでは、南朝は石清水八幡宮を行宮(あんぐう)としましたが、足利軍率いる北朝に敗れ、隆資も壮烈な最期を遂げました。この「八幡合戦」(正平の役)から、666年の今年6月に、石清水八幡宮おいて、地元のみなさんによる実行委員会と蟷螂山保存会により、慰霊祭が営まれたそうです。忘れ去られていた、供養塔である正平塚も発見され整備されました。八幡のみなさんの日頃の地道な活動と地元愛が、自分たちが住んでいるまちの、身近なところに眠っていた、悠久の歴史を掘り起こしたのだと思います。

猛暑日の予報通り、どんどん気温が上がるなか、ケーブルカーに乗って、さらなるつながりを知るために八幡宮へ。眼下に広がる眺望はすばらしい、搭乗時間3分間の空中の旅です。全国中で、一番谷が深いケーブルカーなのだそうです。車内のアーム型のポールは、一風変わった形をしているのですが、これはエジソンが電球を発明した時に八幡の竹を使ったという所縁から、フィラメントをかたどっているそうで、こんなところも楽しめます。

山上の清浄な空気のなか、壮麗な社殿が見えてきます。昇殿へ参拝し、権禰宜さんのお話を伺いました。話す時間がまさかの30分では、とても話しきれないと仰って、参加者を笑わせながら、楽しく簡潔に八幡宮の創建やご神体と歴史、美術工芸的な見どころを説明くださいました。
蟷螂山との係わりは、瑞垣に見られます。三代将軍家光が寄進した瑞垣には、かまきりと橘が彫刻されています。不老長寿の効用があるとされる橘は、かまきりが好むとされているそうです。八幡宮の神紋は橘、蟷螂山の御所車にも橘の金具が付いています。また、かまきりは「蟷」の字を当てますが、これは虫偏に当る文字を組み合わせていて、武将に好まれた意匠だそうです。
信長が寄進した黄金の雨どいや左甚五郎作と伝わる目貫の猿の話、そのほかにも本当に聞いてみたい内容は尽きず、次回を期待したいと思いました。

蟷螂山と外郎家に共通する精神


西洞院四条を上がった所に蟷螂山保存会、蟷螂山があります。一昨年に移転する前、すぐご近所に建都本社を置き、蟷螂山に協賛させていただいたご縁があります。今年の巡行は、山一番を引き当て、活気のなか準備に忙しいところ、役員さんからお話を伺いました。
この地に住まいした四條隆資と外郎家の所縁の蟷螂山ですが、江戸末期から資金不足などを理由に度々不参加となっていたそうで、ついに明治25年(1872年)から休み山となっていました。そして、117年の長い時を経て、昭和56年(1981年)再興されました。その間、売却されてしまった会所のあった土地をはじめとする資産の散逸や、実際に住んでいる住民が激減するなどの困難のなか、マンションの1階に保存会を置き、マンション住民にも運営に参加してもらうことにするなど、大きな決断と改革をされ、復興されました。

懸想品は、人間国宝の羽田登喜男作の友禅染です。染の懸想品は蟷螂山のみです。織に比べて立体感は少ないことから、一枚ものに染めるのではなく、複数の染めた生地を綴じ合わせるなど工夫を凝らしています。
かまきりのからくりに人気が集まり、かまきりがご神体と思われていますが、ご神体は「祇園三社」と揮ごうされた、鎌倉時代の掛け軸です、と説明されました。

会所に飾ってあるかまきりは、復興前の古いもので、これは一人で操作できるのだそうです。現役のかまきりは、4~5人で操作し、複雑でしなやかな動きを得意とするところです。それを可能にしているのは、人形師の技に加え、操りにくじらのひげを使用しているからです。しかし、ワシントン条約により、捕鯨が禁止されてから入手が非常に困難になり、またとても高価になっているということでした。それでも、手に入るあいだはくじらのひげを使うそうです。
役員の方は、外郎家と蟷螂山について「反権力」の精神が共通すると話されました。外郎家は、朝廷に使える医術家であり薬業も営んでいた、言わば上層部の人たちでしたが、「土地の民衆のために薬を調合し、病を癒し、命を守りました。これは、反権力の行動です。兵力がまるで違う戦いに、それでも果敢に挑んだ隆資をモデルにした蟷螂山は反権力の山です」と続けました。
外郎家はやがて、京都では途絶え、北条早雲の招きにより小田原に移った外郎家が、今も代々伝わる薬と名物の外郎を商っています。2005年、社史編纂を通して、祇園祭の蟷螂山と外郎家のつながりを知ったご当主が、わざわざ訪ねて来られ、そこから交流が復活したという、これも本当に、歴史に残る大きな出来事です。2011年からは、ご当主も巡行に参加されているそうです。
祇園祭という、町衆の力を結集しなければ成しえない大きな祭事は、それぞれの時代に生きた人々の心が、途切れた糸をまた結びつけてくれているように思います。

伝統行事や文化の継承とは


今回、この「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という企画に参加して、その時代の出来事、歴史を伝えていくのは簡単なことではないと感じました。でも、地元のコミュニティーを大切にし、協力することを可能にするのが祭礼なのだと思います。案内してくださった、やわた観光ガイドの方が「住んでいる人が減っているから、昔の村単位に一社あるお宮は、祭礼の時だけ人が集まる。でも、それがあるからまだしもコミュニティーが生きているのです」と話していました。
この度の地震や豪雨は、甚大な被害をもたらしました。疫病や豪雨などの厄災の退散を願って始まった祇園祭は、その後も自然災害や戦火によって中断、不参加を余儀なくされましたが、志ある人々が力を合わせて復興させた歴史と現代が重なります。普通の暮らしを大切に、そしてだれかのためになることを誠実に続けていくこと。伝統行事や技術の継承は、そういったことが、きっと礎になると感じました。その思いで、山鉾へお参りしたいと思います。