西陣の京町家 古武邸の夏のしつらえ

京都は、春秋の華やかなすばらしい季節と引き換えに、夏冬の酷暑、厳冬があり、その暑さ、寒さの時期こそ一番京都らしいなどと、まことしやかな話を聞いたことがありますが、三方を山に囲まれた盆地の蒸し暑さを、どう乗り切って来たのか。知恵と感性で、涼しさを呼びこむ工夫が随所にみられる、夏仕度の京町家へおじゃましました。

人生後半を変えた一軒の町家


古武博史さんと、その町家との出会いは今から30年前、1998年のことでした。地場産業の弱まりは、西陣も例外ではなく、職住一体の家屋である町家は不要となり、壊して新しい住宅を建てる動きが活発になっていました。加えて、バブル期の地価高騰の嵐に見舞われ、たくさんの町家が消えていきました。不動産業を営む友人から「集合住宅にするために、もうすぐ壊されてしまう町家がある。もったいないが」と聞き、案内してもらったのが、運命のような現在の古武邸との出会いでした。

巧みに配置された店庭の敷石
今は出入りには使われていない店玄関
店の間の天井。人を迎える正式な部屋の天井はこの格子天井
貴重な明石緞通の敷物が敷かれた座敷玄関
表座敷
奥座敷から見える中庭

門を入ると店庭から店玄関、店の間、さらに座敷玄関と、表座敷に奥座敷、庭。渡り廊下の向こうには、離れになっていて「うなぎの寝床」を実感できます。二階には、特別のお客様を迎えるための、材に凝り、技術の粋を生かした、文化の高さが伺えるりっぱな座敷があります。調べてみると、室町時代にほぼ確立された町家の原型を再現した、大正時代の建物であることがわかりました。
家主さんの思い、大工、左官、建具、造園等々の職人さん達。この家を建てるにあたってどれだけ多くの人が係わったか。「呉服店だったこの家にたくさんの人が集い、西陣の歴史と日々の暮らしに生きる文化を学べたら」そう考えた古武さんは、仕事を早期退職して町家を買い取り、文化的催し活動施設「西陣の町家・古武」の主人となる道を選びました。つながりの輪を広げ、地域をもっと深く掘り下げ、みんなで楽しいことに取り組み、気が付けばすでに30年。
コンサートや狂言、謡曲、落語などの伝統芸能。茶道、着付けなど体験型企画、写真や生け花、陶芸などの作品展と、とても紹介しきれないほど多彩な内容の催しが行われています。

桂離宮と同じ市松の襖の離れ

毎年恒例の新年企画、小学生対象の「茶の湯とかるた会」は、すぐに定員となる人気企画です。修学旅行生や大学のゼミ、行政機関、企業の研究機関の研修や見学の講師、案内役も古武さんが務めます。外国からの視察は44か国を超えたそうです。国に関係なく、来る人は関心を持っている人達なので、見学に来た人から教えてもらうことも多くあるそうです。
気候風土を考慮した職住一体の京町家は、新しい使命を受けて、堂々と西陣の歴史と文化を伝えています。西陣の民間親善交流サロンです。

五感が働くと感じる涼しさ

「建具を入れ替えるのは、主人の仕事です」と、古武さん。それは力仕事だからということだけでなく、すだれや網代、葭戸など、入れ替えの時に、どこか傷んでいるところはないか、補修が必要かを点検する必要があるからです。また、家具を動かすついでに、在庫の商品も確認できるからだそうです。
古武邸の葭戸は、他所のお家のものを再利用しています。町家というものは大量生産品と言えるものであり、規格が決まっているので使いまわしがきくそう。よくできています。

網代を敷いた座敷

畳の上に敷かれた網代は、すべすべしてひんやりした感触です。また葭戸やすだれの、向こうが透けて見える効果も、涼しさを感じさせます。時間とともに変化する庭の光や木々の影、時々すっと通り抜ける風も気持ちを静めてくれるようです。

萩の枝の戸

四君子の透かし彫りの欄間
二階座敷の廊下。端から端まで継ぎ目がないこのような木の使い方は今では見られなくなりました

欄間の透かし彫り、二階の座敷の戸に使われている細い華奢な材は、萩なのだそうです。多分今ではもう作れないだろうということでした。
この萩の戸だけではなく、京町家の維持に必要な職人さんがどんどんいなくなっていて、今は「延命」させているに過ぎない。とても継承とは言えないと、古武さんは冷静に見ています。古武邸の修繕をお願いしている職人さんは、90歳になられたそうです。町家を支えている文化的な構造の産業が機能してこそ、と、古武さんは語ります。地場産業の衰退が町家の減少を生み、残った町家の維持も困難にしています。
では、どうするか。町家のオーナーが、その価値を自覚し、どう発信するかが重要だと語ります。それでこそ、訪れた人たちが広げていける、まずオーナー自身が楽しんでいるかどうか、と続けました。古武さん自身は、毎日が楽しいそうです。

地域の人が、地域を語ることの大切さ


古武邸のある地域は、平安時代は天皇や貴族の離宮が並び、源氏物語の舞台にもなっています。応仁の乱では西の本陣が置かれ、やがて西陣織の技術とともに、経済的に発展し、それに伴って職住一体の住居も、茶の湯や能楽などの文化的要素を取り入れていきました。
古武邸の向い側は、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が子供時代を過ごしたとされるお家があり、今も縁につながる方がお住まいです。余談ですが、桂昌院は幼名を「玉」といい、「玉の輿に乗る」の諺の由来となったという説もあります。
昔の町割りが今も残り、江戸時代の古地図を持って歩くことができる、1200年の歴史が凝縮している地域です。しかし、今回久しぶりに訪れてみて、町家がほとんど姿を消していることに驚きました。

古武さんも「3軒続いて町家はない。西陣織は70の工程があり分業です。ですから、だれもがなんらかの仕事につけたのです。そして、産業がまわっている時は、普通に仕事をして普通に暮らしていれば、文化は伝わったのです。産業の衰退は仕事も文化も歴史も、学ばなければ知ることがない、伝わらなくなっているのです。」と語りました。
しかし、古武さんは、悲観的ではなく、「歴史の掘り起こしをして、暮らしに根付いた価値の発信が大事です。未来に生かすための歴史です。歴史は未来学の視点で語ることです。これからはアナログとITの共存の時代です。どうすればいいか。そのヒントが町家にあると思います」
古武さんも起ち上げメンバーの、上京区役所が地域やNPOなどと協働して開催している「上京探訪 語り部と歩く1200年」という息の長いシリーズがあります。上京区を12のコースに分けて、歴史を辿ります。「応仁の乱 東陣の地を歩く」「二大プロデューサー 義満と秀吉」など、知ってるようで知らなかった上京区の魅力満載です。語り部は地元のみなさんが担当します。
「地域のことは地域の人が語るのが一番です。町家 古武は、みんなの自己実現の場。そのなかで西陣の将来展望が見えてくると思います。町家の文化的構造を支える産業は、昔とおなじようにはなりません。その現状を見据えて、課題を整理して、どうしていくのか。未来社会を真剣に考える時に来ています。」そして「私は、衣食住遊と言ってるんです。遊びの中で、いろいろなものをつくり出していくんですよ」と、続けました。
町家のリフォームやリノベーションをさせていただいている建都も、町家の継承とまちの在り様について、今後も取り組んでまいります。