旧家に灯る 地域を照らすあかり

長岡京市の南部、昔の面影を残す旧西国街道沿いに、間口の広い重厚な構えの町屋が見えます。平成22年、国の登録有形文化財に指定された「中野家住宅」です。高速道路や駅前再開発などで、町並みは大きく変わりましたが、この界隈はまだ昔の街道の雰囲気を伝えています。
平成26年に長岡京市に寄贈されたこの建物がこの度、一般社団法人 暮らしランプが借り受け、障がいのある人が働き、多くの人とつながることができる「お酒とおばんざいのお店」として、新たな歩みを始めました。
「障がいのある人たちの職域を広げ、文化財の活用にもつながる」という確信と、地域の人たちにも、観光で訪れた人たちにも「家の食卓を囲む」ような、ほっとする思いを共有してほしいという願いをこめて、8月23日「なかの邸」が誕生しました。

歴史的景観を今に伝える中野家住宅


中野家住宅は、西国街道と丹波街道の分岐点「調子八角」の交差点から旧西国街道を5分ほど歩いた所にあります。庭と道の反対側に立っている楠は、樹齢100年を超える大樹です。かつて酒販業を営んでいたことにちなみ、軒先に大きな杉玉が吊り下げられています。
すぐ近所にお住まいの方が「前から一度入ってみたいと思っていたので」と、パンフレットを持ち帰ったり、女子高生が「ごはん食べられるとこになったんや」と話しながら歩いています。いつも前を通っている大きな家が、何か新しいことを始めるらしいと、関心を持って見ている様子がうかがえます。

江戸末期に建てられた主屋の中へ入ると、広い土間があり、玄関座敷や奥座敷の壁、天井、長押や欄間、床の間のつくり、建具など、当時の職人の技がみなぎっています。建築の専門家でなくても、その繊細さと力強さ、巧みさが感じ取れます。

昭和26年に建てられた茶室と主屋の増築部は、数寄屋大工の名工であった北村傳兵衛によるものです。傳兵衛は、大山崎の「聴竹居(ちょうちくきょ)」を設計した建築家、藤井厚二と交流があり、中野家住宅の茶室にも照明等に、聴竹居との共通点が見られます。傳兵衛による近代茶室で現存するものは少なく、貴重な茶室であるそうです。
中野家住宅の新しい営みの始まりは、これまで敷地・建物を守り継承し「今後、みなさんに親しまれる建物になれば」と、期待を込める中野家のご当主の思いに応え、中野家住宅の歴史を刻む一歩となりました。

なかの邸オープンまでの道のり


秋の日はつるべ落とし。暮れなずむ頃、中野家の家紋「違い鷹の羽」を染め抜いたのれんがかけられ、戸口にはあんどんが灯りました。昼間のスタッフがきれいに掃除を終え、準備も整った午後6時。なかの邸の開店です。風格ある建物は料亭のようで、一瞬、戸を開けるのをためらいますが、中へ入ると、アートなだるまが迎えてくれました。親しくしている岡山県の生活事業所から贈られた、開店祝いの地元の民芸品「早島だるま」です。

ふすまが取り払われ、夏のしつらいを残した座敷は広々として、違い棚に飾られた古いカメラや、心地よく流れるジャズも、伝統的な和室にしっくりなじんでいます。椅子席、庭を前にする席、床の間の前と、どこの席も、すばらしい空間を眺め、身を置けるように心配りされています。座卓の高さは、座って庭が一番よい具合に眺められ、なおかつ、食事がしやすい高さを割出し、特注されたとのことでした。

席に着くと、家紋が入ったペーパーマットとお箸と箸置きがセッティングされます。スタッフは調理担当、接客担当など、それぞれの得意なことを生かせることを大切にして決めているそうです。
「お酒とおばんざいの店」と名乗るように、日本酒は京都・滋賀をはじめ、各地の地酒など20種類以上が揃い、近くのサントリービール工場から届く生ビールとともに、辛党にはうれしい限りでしょう。お酒担当のスタッフは、生ビールの注ぎ方には自信があると答えてくれました。

しっかり丁寧にとったお出汁で作るおばんざいを中心に、ローストビーフや手づくり無添加ソーセージ、釜飯、宮津名産の干物、そして手づくりのプリンやシャーベットのデザートも揃い、どんな年齢のお客様にも安心して美味しく楽しめるラインナップになっています。取材の日は、札幌からのグループ、仲良く3世代で食事を楽しむご家族が和やかに食事を楽しんでいました。

暮らしランプでは、なかの邸立ち上げにあたり、2月からお昼はみんなの社食を作り、夜は調理や仕込みの練習、また金曜・土曜の夜のみ「おでかけなかの邸」としてお店を開店し、準備を重ねてきました。
そのなかで課題を解決し、難しい作業はなくし、作業工程をシンプルにして、メニューや仕事の内容を考えてきました。野菜の下ごしらえも手を抜かない、丁寧に出汁をとり、素材ごとに別々に火を通す、生ビールの樽の掃除など、毎日すべてを、自分たちの手で行っています。
支援スタッフの方に聞くと「メニューも、これを作ろう、これがいるというより、みんなができることから発想して、つながりのできた、それぞれの専門の方に相談しながら決めました。良い鰹節、良い調味料を使って、丁寧に作れば自然とおいしくできます」と語り「お酒は信頼する酒屋さんと、メニューに並ぶ料理を話し合いながら、すすめて頂いたものの中から選んでいます。それぞれの食材や調味料も、これまで築いてきた、つながりのある専門店さんの力を借りています」と続けました。
4月からは、なかの邸での準備に入り、みんなで作業室のワックスがけや、蔵の整理、庭の草引きなど、汗をびっしょりかきながら続けていた、その頃のことをよく思い出しますと、言っておられました。
その苦労がひとつずつ、ゆっくりと、しかし着実に実を結んでいます。飲み物やお料理が出てくるまで、ゆったりした気持で待てる、そんな心のゆとりや優しさを取り戻してくれる。中野邸はそういう所です。

もっと広げよう「なかの邸モデル」


マネージャーの小林明弘さんは「なかの邸は、みなさんに繰り返して来て頂ける価格設定にしています。これから、なかの邸のような事業をもっと展開していきたいと考えています。これでモデルができたわけですから、一から始めるより楽に進めていくことができると思います。昼間は働くことができない人には、夜に働く場を作り、力が発揮できるようにすること、そして、みんなの賃金をもっと高くすることを目指しています。そして、みなさんに第二の食卓、居間のように気軽に使っていただけたら」と語ります。「子どもの頃、ここへお酒を買いに来ていました」というお客様がいらっしゃって、お孫さんにもそのお話しをされていたそうです。
これから、なかの邸に集うたくさんの人々が、スタッフのみなさんも含めて楽しいひと時を共有し、その思い出につながる場所となりますよう、心から願っています。なかの邸は、何となく「明日はいい日になるかな」と思えるように、暮らしの少し先をほんのり明るくしてくれます。

 

なかの邸
長岡京市調子1丁目6-35・中野家住宅
営業時間 18:00~22:00
定休日 日曜日、月曜日

西陣の京町家 古武家のお精霊さん迎え

立秋を過ぎても猛暑日の続く京都ですが、それでも心なしか空が高くなり初秋の気配が感じられます。
お盆に、普段は離れて暮らしている家族が久しぶりに顔を合わせ、にぎやかなお家も多いことでしょう。それぞれの家庭の流儀のお盆行事を通して、ふるさとや家族を思う大切にしたい時になっています。
「西陣の京町家 古武邸の端午の節句」でご紹介した西陣の京町家 古武さんのお宅に伺い、ご家族も交えてお盆についてお話を聞きました。

八月に入ると始まるお盆の準備と行事


古武さんのお宅では、端午の節句飾りの片つけをすませると、室内を夏のしつらえに替えます。梅雨入り前の大仕事です。良い色艶になった網代や葭戸。すだれから庭の緑が透け、風が吹き抜けるような涼感を誘います。
玄関やつくばいに生けられた、むくげやすすきが野の風情を漂わせています。

普段は閉められている襖を開けて、お仏壇の扉を開きます。10年前に、それまで住んでいたお家からお移り頂いたということです。お仏壇の引越しは、お寺さんに来ていただいてお経をあげてお性根(おしょうね)を抜き、魂の入っていない容れ物として運び、新しい場所にきちんと収まるとお性根を入れ戻すそうです。こうしたところにも、何かにつけ、ご先祖様を大切にする日本の心がうかがえます。

古武さんがお参りにいく千本焔魔堂

古武家のお精霊さん(おしょうらいさん)をお迎えする行事は、まず五日から七日頃に、大徳寺の塔頭にあるお墓にお参りし、お経をあげていただきます。お墓参りがすむと近くの、大きな閻魔像を祀る千本えんま堂にお参りします。
戒名を描いてもらった卒塔婆を水に流し、迎え鐘をつくのが毎年の習わしとなっています。えんま堂は正式には引接寺(いんじょうじ)と言いますが、親しみを込めてみんな「えんま堂」と呼び、五月に行われる「大念仏狂言」でも知られています。八月七日から十五日までのお精霊迎え、十六日のお精霊送りには多くの人が訪れます。
何枚もの卒塔婆を流す参拝者とお寺の方の「ご先祖さんが、たくさんかえって来てくれはって、にぎやかなお盆になってよろしいね」というやりとりに、あたたかい地域密着のお寺の雰囲気があります。
迎え鐘をつかせていただいた時、今に感謝し、ご先祖様を精一杯おもてなしするという、お盆行事の心根に触れた思いがして、しみじみと胸が熱くなりました。お盆行事の簡略化は時代の流れですが、しかし、このような静かな心を取り戻してもくれるのもお盆の良いところです。
おかげさまで、今年もつつがなく準備完了。

お盆の迎え方もお家によってそれぞれ違いもあり、朝昼晩と毎日かわる献立のお膳などは簡単にされていますが、大事な芯のところは踏襲されていると感じます。
古武家では、十三日から十五日の三日間をお盆として、十六日は大文字の送り火を拝んで、あちらに戻られるご先祖様をお送りしています。
白いご飯、お吸い物、煮物、白和え、お漬物のお膳はおがらの箸をつけて、三日間毎朝お供えし、蓮の葉と槙の葉を入れたお水も替えます。
お吸い物は湯葉と麩にみつば、炊き合わせはにんじん、椎茸、いんげん、高野豆腐、白和えはごぼう、きゅうり、椎茸など。昆布出汁に、具は彩りも美しく、寸法に切り揃えてきっちり盛り付けられています。このお膳に加えて、十三日はお迎えだんご、十四日は白むし(白いおこわ)とおはぎ、十五日は送りだんごをお供えします。他に、野菜や果物、蓮や菊の形をした落雁のお菓子や故人の好物だったものを蓮の葉の上に盛ります。

八月に入ると、お膳や盛り物に敷く打ち敷きなどお盆用品一式の点検や、買い物の算段と俄然忙しくなります。主の博司さんはお仏壇や什器をあらため、妻の純子さんはお膳の献立やお供えを調えます。純子さんの実家は仕出し屋さんをされていたということで、料理やきれいな盛りつけはお手もの。床の間の掛け軸や花器は、息子さんの邦敏さん担当です。
「蓮の葉が小さいなあ」「手に入らへん年もあったなあ」「昔は精進揚げも山ほど作って、にぎやかで楽しみやったけど」などと話しながら、今年もいつもと同じようにお盆の準備ができたことにほっとしている様子でした。

すばらしい金蘭の打敷きや用具一式は、博司さんのお母さんが毎年使われていたもので、納めてあるダンボール箱には、お母さんの手で「お盆用品、お供え用お盆」などと書かれています。毎年出す度に、ご両親が健在で親戚一同が集まったにぎやかなお盆や、お子さんが小さかった頃のことなど懐かしく思い出すそうです。「夜店で買ったカメを、お盆に神泉苑の池に放したのは、子ども心に供養のつもりやったんかな」「盛り物は鴨川まで運んで流してた」と、今では思いもよらない話が繰り出してきます。なんとものんびりした良き時代の京都です。

お寺も商店街も気心知れた付き合いが続きます


床の間に「夢」の墨跡が掛けられました。「夢」の書は仏事に掛けることになっていると、書画にも詳しい邦敏さんに教えていただきました。
「お昼時に申し訳ありません」とお寺の住職さんが見え、棚経をあげられました。朗々とした声と独特の調子のお経を聞くうちに自然と「有り難い」心持ちになってくるから不思議です。
読経が終わると少し世間話をして、また次の檀家さんへと向かわれました。先々代からのお付き合いだそうです。その関係があって、お昼にかかる時間でしたが、失礼ながらと訪問されたのでしょう。古武さんも、そんな気心の知れたお付き合いを嬉しく思っているようでした。

お盆に欠かせない蓮の花や葉、槙、盛り物などは、コーナーを設けてスーパーにも並び、ずいぶんと便利になったと聞きます。特売商品の目玉だけではなく、地域の慣わしに沿った商品を扱うことは良いことだと思います。
一方、地域密着の商店街もその特長を生かして、日々の暮らしを支えています。千本えんま堂の近所の上千本会も、そんな商店街です。果物、生花、食料品、和菓子など専門店が並んでいる点も魅力です。

普段使いの季節のお菓子を作る京都でいうところの、「おまんやさん」の店頭には、生菓子協同組合が作ったお盆のお供え一覧が張り出してありました。おまんじゅうに使うという餡を丸める無駄のない流れるような職人さんの手作業は、いつ見ても感心します。このお店で、お迎えだんごや送りだんごを、蓮やほうずきは並びにある花屋さんで、定番の野菜やほうずきなど上手にパック詰めされた盛り物や果物は、その先の青果店でと、お盆に必要なものはここで揃いそうです。気のおけない商店街が身近にあり、わが家で家族がお盆を迎えられ住み続けられる、そんなまちが京都の典型であるように、建都も京都に根付く企業として、さらに力をつくしてまいります。
お盆に託して、今年は大きな災害がありませんようにと祈ります。

 

千本えんま堂 引接寺
京都市上京区千本通蘆山寺通上ル閻魔前町34

山城青谷地域 希少な梅で新しい風を

近畿地方は土用に入ってから4日目に、やっと梅雨明けとなりました。この季節の仕事と言えば、6月に漬け込んだ梅の天日干があります。西に木津川が流れる京都府南部、城陽市の青谷(あおだに)地域は、府内一の梅の生産地であり、他ではほとんど生産されていない、香りに気品があり、大粒で肉厚の希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」が特産です。

建都が施工監理をさせていただいた「茶山sweets Halle!地元に愛され1周年」の記事でもご紹介しました「城州白けーき」でご縁ができた青谷梅工房代表の田中昭夫さんにお話を伺いました。

地域活動のつながりから生まれた青谷梅工房


青谷は城陽市の一番南に位置しています。青谷での梅の栽培の歴史は古く、江戸時代には、染物の媒染剤となる烏梅(うばい)をとるために、現在よりはるかに広い梅畑があったそうですから、花咲く時期は、それは見事だったことでしょう。
明治になって、外国から化学染料が輸入されると烏梅の出番はなくなっていきましたが、それにかわって、観梅の地として注目されるようになりました。
明治30年頃、保勝会が結成され、青谷のすばらしさを世に広めました。そして、優れた品種の城州白があったことで、梅の郷青谷は生産地として揺るぎないものとなりました。

青谷梅工房代表の田中昭夫さん

小学校の教師だった田中さんと青谷との出会いは「城陽生き物調査隊」の活動でした。
地元の方の厚意で梅林の中にある土地を貸していただき、子どもたちと一緒に自然観察の活動ができる「くぬぎ村」をつくりました。そのなかで、青谷の自然と、城州白という梅のすばらしさを知ったのです。城州白と青谷地域の盛り上げの一助になればと、梅まつりの期間にあわせて、くぬぎ村梅まつりを開催するなど早くから地域とのつながりをつくってきました。
生き物調査隊の事務所をさがしていたところ、元建具屋さんだった現在の建物を紹介していただくこともでき、梅まつり期間の土日限定でオープンし、また、梅びしおなど加工品の開発、梅林の整備・栽培も引き受けて活動を続けました。しかし、梅林の仕事はとても手がかかり「教師を続けるか、梅を取るか」を決断する時が来ました。そして2011年、元建具屋さんの建物を拠点として「梅工房」をたちあげ、梅干しや加工品の製造販売の事業を本格的に開始しました。
田中さんは「青谷の自然と城州白を守ろうと決意した人とか、よく言われますが、最初から梅のことを考えていたわけではないのです。なりゆきです」と笑い「それでも、こうして振り返ると、ずっと梅とかかわって来たんやなあと思います」と続けました。

建物の元持ち主に感謝を表して当時の道具を展示しています

梅工房は、地域のみなさんが気軽に立ち寄ることができる、コミュニケーションの場として歌声サロンやお茶、映画会など様々に活用されています。教師時代も含めて、たくさんの人とのつながりが生まれ、その信頼関係が大きな力になっています。
田中さんは「みんなと一緒に何かすることが好きなんですね。それと、信頼関係は、やっていることに夢があるかどうか。自分自身が夢を感じるか、です。夢があるからこの事務所の修繕も、くぬぎ村の整備も、大変なことでしたが、みんなで楽しくどんどんできました」と語りました。それぞれの夢が自分自身を成長させ、人や地域を元気にします。

茶山sweets Halle、一乗寺ブリュワリーとの出会い

楕円に近い形が特徴の城州白

梅酒ブームの後押しもあり、地元酒造会社の城州白の梅酒は広く知られるようになりました。しかしその後の不況や梅酒ブームが一段落したことなどの影響で、城州白も需要が減少してしまいました。田中さんは、せっかく農家のみなさんが手をかけて育てた城州白が収穫されず、地に落ちているのは見るに忍びないと、買い支えようと頑張りましたが、すべて買い取るには梅工房だけでは資金が足りません。
買ってもらえない状況が起きれば、農家は栽培をあきらめたり、後継者になろうと考えている若い人も意欲がそがれてしまいます。そこで「青谷に梅で元気を取りもどしたい」をテーマにクラウドファンディングに取り組み、目標額60万円を超える資金が集まりました。青谷が誇る城州白の良さをまず青梅で知ってもらい、外への出口をつくろうと「いつも頭の中は梅のことでいっぱい」の田中さんです。

そんななかで茶山Halleとの出会いがありました。蜜漬けした城州白が丸ごと入った焼き菓子は、爽やかな酸味と果物のようなやわらかな甘味が生地と良く調和して、とてもよくできています。
梅工房では、お手製のポスターを張って店内はもちろん、梅まつりの時も販売しました。「青谷の名産が入っていて話題にできるし、ちょっとした手みやげにちょうどいい」と、好評だったそうです。

梅を使ったクラフトビール城州白エール

一乗寺ブリュワリーにお願いし、一年かけて完成したクラフトビール「城州白エール」も快調です。華やかな柑橘の香りと、すっきりした飲みくちながら深い味が特長のビールです。今のところ生ビールのみで生産量も少ないので、置いてあるお店は限られます。せっかく城州白のビールができたのに、地元で飲めないなんてと、毎月第3土曜日夕方5時から10時まで開く「梅酒バー 梅月夜」での提供を始めました。

毎月1度の梅酒バーの料理作りとメニューを担当

店内に低くジャズが流れ、夕闇が徐々に濃くなります。和紙の灯りや、木のぬくもりを感じるテーブルや椅子。いい雰囲気のおとなのくつろぎの時間です。
予約されたグループが楽しそうに杯を重ねています。看板商品の梅や、仲間が作る無農薬の野菜の持ち味を生かしたおつまみも絶品で、食べる楽しさもしっかり味わえます。厨房を取り仕切るお二人の本当に楽しそうに立ち働く姿が印象的でした。

本当に美味しい梅干作りを柱に据え、もっと地域の人がつながる場に


去年、今年と梅は不作が続きました。天候はどうすることもできませんが、基本的には城州白の可能性を広げ、安定して栽培してもらえるようにすることです。
そのためには、一生懸命なものづくりをする作り手同士、また異業種の分野を結び付けることも重要な仕事です。そのなかで、ぶれずに本当に美味しい梅干しづくりにしっかり腰を据えることを一番大事にしています。

梅工房の梅畑も年々広がっています。猛暑の日、朝から草刈をしていたみなさんが戻ってきました。ものすごい汗です。草を刈り、馬糞と木くずをまぜ合わせた肥料を施す仕事です。馬糞は乗馬体験をしている馬場から運んでもらいます。大変な量の廃棄物になるところを循環させ、質の良い肥料にします。良い城州白を作るための仕事に終点はないようです。
田中さんは本当に美味しい梅干づくりと同時に、梅工房の事業や活動に、もっと地域の参加が必要だと思っています。まだまだ地域みんなのものになっていないと感じ、どうしたらみんなのものになるのか考えをめぐらしています。
青谷の梅や、梅林の続く自然をみんなでつくり、地元の自慢、誇りにしていきたいという夢です。地域のコミュニティーセンターでの特産品講座や小学校で、講師として青谷の先人の努力や文化の香りのする地域であること、梅の健康効果などについて話をして、地元の人に愛着を持ってもらうように努めています。

田中さんが梅干作りについて話す時「紫蘇を入れたとたん、さあっと色が変わって、それはそれはきれいな色になるんですよ」と、本当にうれしそうです。
梅工房を始めた頃、梅びしおや梅ジャムを売り歩き、高齢世帯多い地域へ野菜を売りに行ったり紹介されて百貨店の売り場に立った日のこと。いずれも全然売れなかったこと。
でも梅は、きちんと手入れをしたらそれに応えるように収量が増えたこと。夢の中には、こんな経験も詰まっています。
いつも忙しいけれど、一年中で今が一番落ち着いてものが考えられる時だそうです。これからの梅工房がとても楽しみです。
建都も、それぞれの地域のみなさんがつながり、地域の素晴らしさを実感し新しい魅力を付け加えていくことができますように、まちづくり、いえづくりの場でお役に立てるよういっそう研鑽を積んでまいります。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5 JR山城青谷駅徒歩5分
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

祇園祭の始まりです ここにもお祭の醍醐味

田の字型と言われる京都のまちの中心部に、優美で絢爛豪華な祇園祭の山や鉾が建ち並び、梅雨明け前の京都は一気に華やいできました。
各山鉾は七月一日から順次吉符入りし、三十一日の厄神社夏越祭(なごしさい)まで、一か月にわたり様々な神事がとり行われます。
そこに込められた意味や心を少しずつ知ることにより、千年を超え、今もなお多くの人によって支えられ続いている祇園祭の、これまでとは違う姿が見えて来ます。

「縄がらみ」の伝統技法を支える職人と縄


前祭は10日から、後祭は18日から山や鉾が建てられていきます。山鉾の大きな特徴として「釘を1本も使わずに組み立てられている」ことがあげられます。実際に見るとそのすごさがわかります。作事方と呼ばれる職人さんたちによって、がっしりした角材で土台のやぐらが組み立てられます。重さは懸想品や、囃子方音頭取りなど人も含めて、大きな鉾になると約11~12トン、高さは約25メートルにもなるそうです。

これだけ大きく高いものを、縄とくさびだけで持ち応えさせているのです。縄とくさびだからこそ、運行中の揺れやきしみを吸収し、破損から守れるそうです。伝統技法の「縄がらみ」は、それぞれの山や鉾、また部分によって巻き方が違い、緊密で潔い美しさです。
富裕な町衆が力をつけていくなかで、その財力や文化度を示すように、山鉾もどんどん豪華に大きくなり、職人集団はどうしたらそれを組み立て、動かすことができるか知恵をしぼったのでしょう。

そして質の良いわら縄こそ、鉾建ての命綱と言っても過言ではないでしょう。函谷鉾に、今年も福知山市の田尻製縄場から納品されました。代表の太さん、奥さんの民子さん、太さんの母親の久枝さんの家族三人で縄づくりを続けています。
母親の久枝さんは今年卒寿、90歳を迎えられたそうです。ご主人と一緒に製縄所を始められて60年。しっかり身にしみ込んだ縄づくりの腕は今も衰えていないということです。民子さんは久枝さんについて「誇りを持って縄づくりをしています。一緒に暮らしていて、こういう人生もいいなあと、私のほうが励まされています」と。
また「縄は表に出るものではない、縁の下の力持ちですが、伝統のお祭に今年も無事に縄を納めることができて、ありがたいなあと感謝しています。稲わらを手に入れるのが年々大変になっているけれど、家族三人でできるだけ長くやっていきたい」と続けました。
祇園祭には、様々な部所で喜びと感謝の念を持ってたくさんの人が係わっています。

祇園祭の主役である御神輿の神事


前祭の鉾立てが始まった10日は、御神輿を鴨川の水で清める神輿洗いが行われました。
それに先立って、八坂神社からお出ましいただく御神輿をお迎えする「お迎え提灯」が行なわれました。お囃子に続き、鷺舞や赤い毛のかつらをかぶった赤熊(しゃぐま)小町踊り、祇園音頭踊りの可愛く華やかな列が続きます。暮れなずむ頃、四条通から四条大橋、祇園を行く行列は絵巻物さながらの美しさです。平日にもかかわらず沿道は人で埋めつくされ、以前は知らない人が多かったのにと、隔世の感ありです。

大松明が御神輿の先導としんがりをつとめ、「ほいっと、ほいっと」の掛け声が大音声となり、いよいよ御神輿のお出ましです。中御座、東御座、西御座の三基のうち、神輿洗式には、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る中御座が渡御されます。四条大橋の中ほどで、神職が榊に浸した鴨川から汲み上げたご神水を御神輿に振って清めます。このしずくを浴びるといいということで、見物の人たちが押し寄せます。お清めがすむと提灯行列の人々が楼門の前に並ぶ八坂神社へと戻っていきます。
四条通には、消し炭のようになった大松明のかけらを、縁起がいいということで持ち帰る人を見かけました。見ず知らずの方から「これ小さいけれど持って帰りなさい」といただきました。こんなこともお祭の醍醐味です。
山鉾の巡行が祇園祭の最高峰と思われていることが多いのですが、巡行はあくまで、神様が移られた御神輿が渡御される時の先導役なのです。ですから、17日の夜、御神輿が四条の御旅所へ行かれる神幸祭と24日に八坂神社へおもどりになる還幸祭が重要な神事とになります。
とは言え、昔の人たちも華麗な山や鉾を見て、楽しんでいたようですから、難しく考えることはないのかもしれませんが、御神輿に乗せた神様を御旅所という、人間が住んでいる世界へお連れして、都に流行った悪霊や厄神を退散させることを祈ったお祭であることは覚えておきたいと思います。

遊び心いっぱいの提灯も盛り上げる、193年ぶりの巡行参加


お迎え提灯とはだいぶ趣を異にする、おもしろい提灯が目に入りました。にわとり、ぞうり、たこ、饅頭食い人形、コーヒーカップ等々。聞くと、江戸時代には祇園の旦那衆が遊び心で、家業を表す提灯を作って楽しんだのだそうです。楽しくお祭の盛り上げに一役買えたらということで3年前に始められたそうです。28日の後祭の神輿洗式の時には練り歩きをされると聞きましたので、今から楽しみです。

今年は、鷹山が193年ぶりに、後祭に唐櫃による参加が発表され、話題となっています。
鷹山の隣りの町内にお住まいだった歴史研究科の廣田長三郎さんが95歳の時に著した「鷹山の歩み」には、幾多の試練を乗り越え、その都度、前よりよいものにして復活させてきた鷹山の歴史を解いておられます。
鷹山は「祇園社記 応仁の乱前分」に記載が見えるほど古い歴史のある山です。鷹匠、犬飼、樽負の三体のご神体をお祀りして居祭を続けられてきました。山の復興を2026年としていましたが、保存会のみなさんの勢いある活動で2022年の復活と、4年早い目標を設定されています。後祭は夜店もなく、屏風祭を見がてら、しっとりした情緒を楽しむことができます。
今年は自然災害や厄災のないことを祈ります。

歴史を刻んで400年 西国街道の旅籠

京都の東寺口から現在の向日市を通り、西宮から西国へ至る、古代から重要な道であった西国街道。この街道に面して、400年にわたって歴史の変遷を見つめてきた旅籠があります。
宿としての生業を終えてなお、所有者の方の厚意と、ボランティアや会場として利用するみなさんの熱意により、人を呼び、人がつながる場としての新しい使命を得ることができました。だれもが気軽に立ち寄って、お茶飲み話ができる場所として実を結ぶことができました。

その歴史的建造物「富永屋(とみながや)」で行われた2日間限定のカフェと「おくどさんで作るできたてお豆腐と炊き立てごはん」の企画に参加して来ました。

西国街道沿に発展した向日町の富永屋

緑あふれる向日神社の参道

向日町は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、物資や軍勢を送るために街道を拡張、整備した時に、京を発って、ひと休みした向日神社の門前に町をつくることを認めたのが始まりとされています。江戸時代には、乙訓の商業や文化の中心として大いに栄えました。西国大名の参勤交代、西山の寺社の僧侶や参詣する人々、物資の運搬などなど多くの人々が行き交い、旅籠をはじめとする商いをする家が建ち並び、賑わいを見せました。今も、常夜灯や道標、いにしえの街道の面影を残す家並みなどに、当時をしのぶことができます。

富永屋の貴人口

「富永屋」は、今から約400年前の元和2年(1616)には、向日神社の向かい側で、すでに旅籠を営んでいたという記録が残っています。
建物は、享保20年(1735年)の棟札が伝わり、280年前に建てられた当時の店構えをそのまま今に伝え、しかも同じ場所にあるという大変貴重な遺構です。
建物の南側にある貴人口は、富永屋に名のある方々が来られたという格式を誇る証です。
実際に、武士や位の高い僧侶、細川藩のお姫様、朝鮮通信使などの名前が古文書に載っています。建材に赤い塗料が残っていて、恐らく以前は鮮やかな弁柄が塗られていたのだろうと推察されています。お姫様のきらびやかな行列と鮮やかな弁柄の色を想像してみると、華やかな絵巻が繰り広げられるようです。
また、伊能忠敬は、文化11年の測量日記に「向日町より法華檀林及び向日大明神打ち上げ」宿泊場所を「富永屋甚左衛門」と書き記しています。先日も、伊能忠敬ファンの方が訪ねて来られたそうです。豊臣秀吉も休憩したであろうこと、また最後の江戸将軍一橋慶喜も、富永屋で休憩したことが古文書にあります。綺羅星のような歴史上の人物が、今私たちがいるこの富永屋にひと時、くつろいだのかと思うとどきどきしてきます。

建物の構造や内部の造りも、大変しっかりしています。室内の壁は青壁の部分が見られます。左官職人さんによると、かつて京都では、青い粘土が掘り出されていたということです。
欄間の彫刻も、建てられた280年前のものと思われ、匠の技が光っています。自然のままの曲がりのある太い梁や柱は、山で「この木」と見極めることのできる棟梁の仕事です。細部まで、職人の魂のこもった仕事ぶりが訪れる人にその、かけがえのない存在を訴えています。

また、江戸期のものだけでなく、建具のガラスや天井の電球や笠は大正時代のものだそうですが、とても味わいがあります。建物も、中の調度品も、旅館・料理屋であった暮らしぶりや息遣いが感じられるものばかりです。すべてが歴史を伝える宝物です。
威圧感や冷たさではなく、暖かく旅の人を迎えた旅籠のような、ほっと一息つける空間です。また、屋根裏から籠にいっぱい詰められた古文書や、100年から200年まえのものと思われる、御所うちわの下張りが大量に発見されるなど、次々と、歴史の宝が発見されています。

地域のよりどころとしての富永屋の再生


富永屋は、10年ほど前にいったん取り壊すことになりましたが、取り壊す前に一般公開され、初めて建物の中へ足を踏み入れた地元のみなさんが「こんな、りっぱな建物を何とかして残したい」と「とみじんの会」を結成されました。
「とみじん」は、江戸時代の当主、富永屋甚左衛門からのネーミングです。所有者の方の厚意のもと、ボランティアで様々な企画を行ってきました。

一番目を引く、おくどさんを使えるようにしようと、8年前に、日本の名工の職人さんの指導のもと「おくどさん修復講座」を開きました。みごと、おくどさんは現役復帰して、以来「おくどさんの炊き立てごはんを食べよう」を始め、体験企画に大活躍してきました。これまで10年間、古文書を読む会、講演会、煎茶の会、手づくり市、カフェなどに活用され、人が集まる地域のコミュニティーセンターの役割を果たしてきました。近隣小学校の校外学習の場、「西国街道雛めぐり」の会場、また、ツアーの見学先として、たくさんの人から「こんなすばらしい所があるなんて」という声が寄せられてきました。
このように、みんなが集まれる場所として認められた富永屋の建物ですが、劣化と昨年の地震と台風による被害で大規模な修繕が必要になっています。修復と維持には莫大な資金が必要です。個人での維持を断念され、取り壊しが知らされました。

「最後の」と付けた「かまどで作りたて豆腐と炊き立てごはん」の会は大盛況でした。たきぎの燃える匂い、パチパチと火のはぜる音、煙り。実際に使われるおくどさんを目の前にする経験は得難いものです。みんなで、わい言いながら頂くから、なお美味しい。
口々に「こんなすごい所がなくなるなんて本当にもったいないね」と言われていました。富永屋を会場に、3年前から、カフェとオリジナルのアクセサリー販売を定期的に開いている村上亜紀さんは「人が人を呼んで、知らない人同士でも、みんなのんびりゆっくりできるすばらしい空間です。人と人のつながりが薄れている今ですが、本当はみんなつながりを求めていると感じます。ここへ来てリフレッシュして、またやっていこうと、なってくれたらうれしいです。そんな井戸端会議的な場所になっていると思います。富永屋をなんとか残せる道はないのかと思います。由緒ある建物の畳の上、おとなも子どもも寝転がって、なんて他では考えられないです」と、語ります。

とみじんの事務局長を務める寺崎さんは、庭のひいらぎの木をさし芽にしたポットを作り、希望者に渡しました。親木も、これからも、また良い香りを漂わせてくれるようにと願って。
時代の急激な変化のなかで、様式や目的の違う歴史的建造物を、ことに個人で維持していくことは並大抵のことではないことは想像に難くありません。また、今は何とかできても次世代に重荷を預けることになるという気がかりもおありでしょう。「個人では限界」これに対して回りの私たちは何をすることができるのか。富永屋の解体はそのことも、問いかけています。

真ん中が富永屋のキャラクターのチリボウズ

富永屋には「チリボウズ」というキャラクターがいます。400年前から富永屋の屋根裏に住んでいますが、時々落っこちてしまうあわてんぼうです。このチリボウズが、これからも屋根裏に住み続け、樹齢数百年のやまももの木が、富永屋の目印として立ち続けることができますように。残された日々ですが、感謝を込めて、すばらしい富永屋について考えてみたいと思います。

農家さんの手塩にかけた 旬野菜

早くも6月も半ばとなり、初夏の太陽を浴びて、田んぼでも畑でも、作物がぐんぐん育っています。多くの種類の露地ものの夏野菜が出回る時期になりました。
新鮮な旬の京都産の野菜を当たり前のように手に入れることができたのは、身近に八百屋さんがあったことに加え、農家さんが直接売りに来てくれる「振り売り」という京都独自の販売スタイルや直売所の存在が大きいと思います。
「昔大八車やリヤカー、今は車」で振り売りは続いていますし、直売所もたくさんあります。安心して買うことができるうえ、野菜の知識やおいしい食べ方、農家の仕事について知ることができます。

地下鉄北大路駅を含むエリアにある北大路商店街は、喫茶店、フルーツパーラー、玩具、履物、和菓子、理髪店など今はまれな多様性を保った商店街です。商店街の東側は鴨川に続き京都の自然を身近に感じ、近くの大谷大学の学生さんが行き交う若々しく明るい雰囲気があります。アーケードの中ほどにつばめの巣がありました。見事なつばめ返しで餌を運ぶ親鳥と、力いっぱいさえずるひなの姿に心が和みます。毎年やって来るつばめたちの子育てと巣立ちを見守る、商店街のみなさんのやさしさが伝わってきます。

北大路通の北側に「時待ち本舗」と力強く彫り込まれた木の看板が掲げられています。時待ちという言葉に込められた思いが感じられます。この直売所は、鷹峯で代々農業を営む樋口農園さんが運営されています。樋口さんを含め6軒の農家さんの野菜や加工品が店頭に並んでいます。

朝10時過ぎ、軽トラで、収穫されたばかりの本当に生き生きとした、水分をたっぷり含んだ野菜が運ばれて来ます。5時、6時には畑へ出られるそうです。トマトの真っ赤な色は追熟させたものとはあきらかに違います。花落ちのきゅうりもありました。トマトやきゅうりは、おいしい塩を付けて丸かじりしたくなります。なすの、ピンと張ったぴかぴかの皮と、とげが痛いヘタは、だれにもわかる新鮮さの証。じゃが芋は、手をかけてつくる畑の土が、実を守るようにうっすら付いています。上賀茂から届いた小松菜は、たっぷり葉が厚く柔らかそうです。はちきれそうに元気な野菜を目の前にしただけで、エネルギーをもらっている気がします。
11時の開店早々からお客さんの姿が見えます。一番は、若いさわやかな感じの男性、和食のお店の料理人さんでした。「若いし、とても研究熱心で将来有望な人」とは、時待ち本舗のスタッフの方の言葉です。他にもプロの方がお店で使う野菜を調達しにやって来るそうです。ここに集まる野菜は、料理人魂を揺さぶる野菜です。

農家さんからお客さんへ、京野菜の知恵をリレー


お客さんはご常連さんが多いようで、お店の方とも気安く話しをされています。ご近所付き合いの延長のような心安い雰囲気です。
「今日は漬物ないの」「淡竹ありますか。他ではなかなか売ってないし、ここならあるかと思ったんやけど、ちょっと遅かったみたいやなあ」などと、親しくいろいろなやりとりをされています。「なすは、炊いたり焼きなす以外どんなふうにして食べてはります?」「油を引いて焼いてかつお節とお醤油に生姜が、やっぱりおいしいなあ」「目先を変えるなら、焼いたなすの上に山芋のとろろをかけて、わさびを乗せるのもおいしいよ」と、料理談義も弾んでいました。
自転車や徒歩で来られる距離という方が多く、一様に「ここのお野菜はおいしいし、安心やろ。このお店があって、ほんま助かってるわ」と言われていました。また、同じ野菜でも農家さんによって微妙な味の違いがあり、それぞれにお客さんの好みがあるのだそうです。たとえば、トマト。酸味と甘みのバランスの良いもの、すっきりした甘さのもの、濃く深い甘味のものと、個性があるそうです。

販売を担当されているみなさんも全員、野菜作りに携わった経験のある方だと聞きました。的確で親身な受け答えが、いっそうお客さんの「野菜思い」の気持ちを高めていくのではないでしょうか。本当においしい野菜をいただいて、自然に味覚が研ぎ澄まされ、そのことが京都の家庭の味、いわゆるおばんざいの、ぞれぞれの家庭の味を作っていくのだと思います。そのことに、この時待ち店舗のような直売所が、京野菜の特徴や調理法、習わしなどを多くの人にリレーするとても良い拠点になっています。

今こそ、あって良かった振り売りや直売所


上賀茂の森田さんは、野菜と一緒に小松菜の漬物も運んで来ました。冬には絶品のすぐきも作られるそうで、待っている人も多いそうです。
今年は天候が不順だったため、野菜を育てるのは大変だったそうです。去年は台風21号をはじめ、猛烈な暑さが続くなど厳しい気象条件でした。今年は豪雨や台風が来ませんようにと願うばかりです。
森田さんは、人とかぶらないものを持って来るように心がけているそうです。「いろいろあったほうが、買いに来ても楽しいやろ」と笑って話しました。その大変さもあると思いますが、森田さんはその苦労を楽しんでいるようにもお見受けしました。

スマフォ大好きな上賀茂の生産者、森田さん

スマートフォンには、加茂なすを持って満面の笑みの森田さんや、きゅうりのお吸い物など画像がたくさん保存されています。写真も大好きなのだそうで、いつも畑の土や作物と話している森田さんでなければ撮れない楽しい画像が満載でした。

直売所を運営する鷹峯の樋口農園の息子さん

運営者である樋口農園の樋口さんも、野菜を積んでやって来ました。たくさんの農園で、子どもたちの農業体験を受け入れていますが、樋口農園でも小学生や中学生の体験学習を受け入れています。稲刈りを始め、作物の収穫はみんな喜んでやっているけれど、先日の真夏日のなかでの水やり体験は「農業って、こんなにしんどいとは思わなかった」という正直な感想をもらしていたそうです。収穫の喜びや楽しさと同時に、つらい作業も含めての農業なのだということを実感したのではないでしょうか。
おとなでも、京都の野菜や農業について知らないことがたくさんあります。いくつになっても新しいことを知ることができる学び舎のような所が、直売所であり振り売りではないでしょうか。
樋口さんは「このキャベツでも虫が食べた穴があったり、たまには中に虫が入っていることもあります。でも、それを、こんなんあかんと言うのではなく、虫が食べてるんなら安心やな、大丈夫やなと思ってもらえるようになりました。今、お客さんの意識はそこまで来ています」と語ります。

見学に来た小学生のみなさんが書いてくれたレシピ集

生活様式や食生活の変化、少子化が進むなかで、コミュニケーションの場ともなるこの方式はむしろ、これからの時代に大きな役割を発揮する販売方式だと思います。京都の農家さんは、名のある料亭やレストラン、有名シェフが太鼓判を押して、通う農園がいくつもあります。そのなかで、そういう取引もあるし、振り売りや直売所も大切に楽しくやっていきますよ、というスタンスを感じます。振り売りや直売所について、また今後も取材を続けていきたいと思います。
農家さんの仕事に感謝しておいしくいただくことで、私たちの暮らしに大切なことが見えてきます。建都は、家族や地域、京都の景観や文化につながる住まいづくりと、地域のコミュニティーについて、京都の地元密着企業としての役割を果たしてまいります。

 

京野菜時待ち食(時待ち本舗)
京都市北区小山北上総町41
営業時間 11:00~18:00
定休日 日曜日

こんなのがほしかった 洋服生地の着物

たくさんの人が着物姿で、京都のまちのそぞろ歩きを楽しんでいます。うきうき、うれしそうです。「着物を着てみたい」と思う人は多く、観光地でのレンタル着物体験はちょうどよい機会になっていると思います。

「気軽に着られて普通にかわいい、手ごろな値段の着物があったらいいのに」こんな思いをかなえてくれたのが「ミミズクヤ」の、ありそうでなかった洋服生地の着物です。お店は祇園祭の「郭巨山(かっきょやま)」の鉾町内「膏薬辻子(こうやくのずし)」という、まことに京都らしい路地にあります。着物の新しい窓を開いた、ミミズクヤ店主、花山菜月さんに、おしゃれの選択肢の一つとして楽しむ着物のことや、京都の真ん中のご町内のことなど、たくさんのお話を伺いました。

「店を開きたい」夢をかなえる


四条烏丸の近く、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうな路地は、一瞬、よそ様の敷地内へ足を踏み入れるようで「お邪魔します」という気持ちで、一歩路地へ入ると、落ち着いたたたずまいを見せる家が並んでいます。その中の一軒は、窓越しにすてきな柄のうちわが見え、何やらおもしろそうな、心を引かれる雰囲気をまとっています。屋号は「ミミズクヤ」と、木製の小さな銘板がはめ込まれているだけです。

中へ入ると、畳の間と土間に、着物や帯に羽織、下駄、うちわ、帯留めや半襟、そして帽子やがま口バッグなどの小物まで、わくわく、どきどきするアイテムがいっぱいです。「今度こんなの着てみたい」「この組み合わせもいいかも」と、これまで持っていたおしゃれの枠が、自然と取り払われていきます。デザインや色あいがモダンでかわいいだけでなく、一点一点が商品としてきちんとしっかりしていて、しかも買う側にうれしい価格設定になっています。ミミズクヤというお店の骨格の確かさを感じます。

花山さんは、大学では心理学を専攻し、目の錯覚について勉強したそうです。「目に見えていることが正しいとは決まらない。ものの見方、とらえ方を大学で学びました」と語ります。そして、みんなから聞かれる「なんでミミズクヤなの」については、先輩に「チュンチュンさえずらないところがミミズクに似ている」と言われて、気に入っていたので決めたそうです。お話を聞いていて、心理学と物静かなミミズクもどこかイメージが重なるし、なるほど、これ以上の店名はないだろうと感じました。

花山さんは、学生時代から喫茶店や雑貨屋さんなど、様々なお店めぐりをして、店主も、やって来るお客さんも個性様々で、人と人が集まる楽しい空間が生まれていることに素晴らしさを感じていました。そして「いつか私も、いろいろな人が集まる店を開きたい」という思いが芽生えました。ものを作ることが好きだったこともあり、布地も素材の一つと、大学卒業後は布地の専門店へ就職しました。面接で「将来は店をやりたい」と宣言し、毎月きちんと貯金もしていたそうです。会社では、サンプルの製作やワークショップの担当、生地の仕入れまで、一連の経験を積むことができました。サンプルとして洋服生地の着物を作ったら大好評でした。「反物にはない自由な柄付けや配色。そして安く、洗濯も家でできる。気軽に着られて、洋服の小物を合わせたり、帯結びも工夫できる」自分自身もほしいと思う、着物や帯が生まれました。木綿のワンピースやシャツのように着心地がよく、身近で気軽だけれど、洋服とは違うかわいさ、おもしろさを楽しめるオリジナルです。
ミミズクヤの商品が、布地という素材を理解し、それぞれの布の特性を生かして作られているのもうなずけます。また、「商品をお客さんに売る」ということの本質も、この時に勉強されたのだと感じました。「良い会社でした」と花山さん。かくして2014年3月、満を持して「ミミズクヤ」を開店しました。

人のつながりから生まれ集う商品たち


ミミズクヤには、下駄やうちわ、着物姿のおしゃれ度が増す素敵な帽子や帯留めなど、着物まわりをアレンジする小物も充実しています。それはすべて人とのつながりで、生産者やデザイナーのみなさんと、良い出会いがありミミズクヤに集まっています。実際に産地へ赴いたり、顔を合わせて打ち合わせをするなかで、また新しい商品が生まれます。

たとえば、広幅の洋服生地で着物を作ると端切れが大量にできます。これを何とか活用したいと考えたのです。うちわは有名な産地である丸亀市、下駄はこれも伝統のある大分県日田市に発注しています。端切れをうちわの地張り、下駄の台張りや花緒にして、モダンで新鮮な、ミミズクヤらしいオリジナル商品が生まれました。食材を最後までおいしく使いきる、京都の「始末」につながっているようにも感じます。

また、花山さんは何十パターンもある生地に一つ一つ名前を付けています。そのネーミングがユーモアがあって、とても楽しいのです。紫の地色に白く細かい水玉は「ぶどうサワー」ピンクやオレンジの模様がよく見るとアイスクリームのコーンに見える生地は「アイス小紋」そして「目玉焼き」「手裏剣」「ドロップスドット」など、着物選びをいっそう楽しくしてくれます。これらのタグやポップもみんな花山さんの手書きです。

ボディにはアクセサリーのような感覚でバッグや帽子がセットアップされています。最近は同世代の若い人が、お母さんと一緒にお店に来ることもよくあるそうです。お母さん世代の人も、洋服生地のお手頃価格の着物なら、思い切って冒険もできます。ミミズクヤは、着物に抱く様々なイメージを良い意味でくつがえし、すそ野を広げています。

町内の一員としてルールを守る


久しぶりに降った雨に、路地の石畳がしっとりと濡れています。この路地は「膏薬辻子」という名前がついています。辻子とは大まかに、大通りから入り、折れ曲がって通り抜けができる路地とされているようです。膏薬とは、ずいぶん暮らし密着の名前がついたものですが、膏薬辻子のあるあたりは、天慶の乱で戦死した平将門の霊を鎮めるため、空也上人が道場を開き「空也供養」の地となりました。その「くうやくよう」が訛って「こうやく」となったと伝えられているそうです。

この町内はかつては、実際にお住まいのお家ばかりでしたが最近は店舗も増え、ホテルも建設されました。京都の町並みと住環境の保全が課題となるなかで、膏薬辻子の町内は、江戸時代に町内のルールを定めた「町式目」に習い「膏薬辻子式目」をつくり、大きく張り出されています。その式目には「新釜座町にお住まいの方や土地や家屋をお持ちの方、および店舗経営者や従業者は安心と心地よさのなかで住み続け、営業をし続けるために、先人達から受け継いだ静かさや美しい町並みに代表される風情ある良好な住環境を守ります」と書かれています。花山さん達、店舗として建物を借りて営業をしている人たちも、門掃きや清掃など町内美化を心がけています。お借りして営業のかたちで活用することで、町家も息をつなぐことができます。

京都の夏はまた各段の暑さですが、表に打ち水をすると裏の坪庭の方へ風が通り抜けるそうです。「本当に京都の町家は兼好法師が言う通り、夏を旨として建てられているんやなあと実感します。そのかわり冬は寒くて寒くて、アイロンがけの作業を多くして暖をとっています」と笑いました。そして「ここへ来るとみんな、ゆっくりのんびりされてます」と続けました。店主とお客さんの良い間合いが生まれる空間です。このお家も、ご家族でお住まいだった町家です。とても良いご縁があってお借りすることができたそうです。漆喰の壁やどっしりした柱や建具など、この空間と着物や帯が心地よく調和しています。
住む人だけでなく、訪れる人もまた、先人達が残してくれた京都の美しい町並みを大切にする心がけを忘れてはいけないのだと「膏薬辻子町式目」は諭しているようです。建都も、それぞれの町内のみなさんのその時々の課題を解決し、住みやすく美しい京都を継承するために、一層努力をしてまいります。

町家で学ぶ 普段の京都の家庭料理

草木の緑が勢いを増し、梅雨入りまでの間の、心地よい季節になりました。
商店街のお店には、目利きの主人が仕入れた野菜や魚が並び、気軽に今日のご飯ごしらえの相談に乗ってもらえます。
そんな頼りになる「京都三条会商店街」のすぐ近くの町家に、控えめな看板がかかっています。実家は三条会の鮮魚や乾物を扱う食料品店、この地で生まれ育った山上公実(やまがみひろみ)さんが主宰する「キッチンみのり」です。京都の家庭料理や保存食の教室、暮らしに役立つ講座が開かれ、食を通して人が出会い、つながる場となっています。

乾物や旬の素材を知るきっかけに

キッチンみのり主宰の山上公実さん

山上さんは、飲食店で調理の仕事に就いた後、2016年11月に、築90年の自宅で「キッチンみのり」を開きました。旬の地場野菜や魚、乾物を使った、体に良くて食べあきない、そして経済的な京都の家庭料理に、薬膳の知恵や、山上さん自身がおいしいと思った、他の国の味も取り入れた料理を提案しています。

乾物は栄養価も高く保存がきき、便利で優れた食材です。山上さんも子どもの頃からお母さんが作る、乾物を使ったおばんざいの味に親しんできました。しかし「もどし方がわからない」「どう使ったらいいかわからない」という人も多いことから「乾物クッキング」に力を入れています。干しいたけや昆布、豆などおなじみの乾物を、和風はもちろん、洋風、中華風にとバリエーションを持たせた使い方を提案し、「いろいろ応用できる」と喜ばれています。いずれもシンプルで、いちいちレシピを見ないでも、家ですぐ作れるように考えられています。
「味付けは食べる人の好みに合わせればいいし、繰り返し作っていくことで、その家の味になっていきますね。」と、山上さんは語ります。身近な素材を生かした、肩ひじの張らない健やかな家庭料理の教室です。

乾物クッキング以外にも、魚のさばき方教室、みそや梅の仕込み、季節の養生ごはんなど、楽しく学べて暮らしに役立つ教室が開かれています。また、食材だけではなく、オリジナル鰹節削り器作りや、食器の簡易金継講座、木桶職人さん、森林組合の方の木の話など、食にまつわる道具や技術にまで及ぶ、興味深い魅力的な講座が開かれています。
講師は、農家さんや蔵主さん、山上さんが関心のあるワークショップなどへ参加してつながりができた人たちです。
「自分がいいなと思うものをみんなでシェアする感じ」で、広がっていきます。

ダイシン食料品店三代目の山上顕司さん

毎回大好評の魚のさばき方教室の講師は毎回大好評の魚のさばき方教室の講師は山上さんの弟さんで、実家のダイシン食料品店三代目の顕司さんです。親子で参加したいというたくさんの声に応え、包丁を使わず簡単にできる「いわしの手開き教室」が開かれました。
ダイシンから届いたトロ箱に入ったピチピチのいわしを前に、最初は遠巻きにしていた子どもたちも、すぐに手開きできるようになりました。開いたいわしはハンバーグや照り焼き、つみれ汁、骨は骨せんべいにしてみんなでいただきました。「めっちゃ楽しかった」この教室の後、「いわしを買って帰ってお父さんに教えた」「海釣りで釣れた鯵をさばいた」など、うれしい後日談が聞けました。
今、魚の原形を知らない子、魚嫌いの子が多いと言われていますが、それは「機会がないだけ」なのです。おいしくて体にいいものには体が反応します。

乾物も魚も、ちょっとしたきっかけがあれば、その良さやおいしさをわかってもらえます。キッチンみのりの教室やワークショップは、そのきっかけとなっています。そして、みんなで、わいわい楽しく学び、ご飯をいただくなかで「おいしい食べ物は、やっぱりきちんとと伝わっている」と確信することができています。

築90年の町家という場の支え


5月の気持ちよく晴れた日、乾物クッキング昆布の会が開かれました。出汁のみの使い方をしていることがほとんどの昆布を、そのまま使って食べる、昆布の活用をテーマにした教室です。始めに、昆布の栄養や産地と種類、それぞれの特徴と、使う主な種類の関東と関西の違いなど、これを聴講するだけでも「昆布=乾物って奥が深い、偉い食材なんや」と感心します。この日はデザートも含め、6品を作りました。昆布を余すことなく使い切り、栄養面なども考え、他の食材と組み合わせて活用できるという、発見がいっぱいの昆布編です。

4組2人ずつ組んでの調理は、初めて顔を合わせた人同士でも和やかにスムーズに進みました。2回、3回と参加されている人がほとんどで、毎回参加の方も。
リピーター率の高さも理解できます。
出来上がった昆布料理を囲んでの食事は、とてもおいしく楽しいひと時でした。この日は、台湾の料理研究家の方の参加もあり、ちょっとした国際交流もできました。

奥に長い台所で後片付けをしながら「天井の高さがすごい」「いい光が入ってくるね」「あんなに煮炊きしたのに匂いや空気が全然こもってないね」と町家の構造のすばらしさを実感されていました。ゆっくり静かな時間が流れ、坪庭の美しい緑に目をやり、障子や畳のある部屋でくつろがせていただきました。

山上さんから「次回取り上げる食材はあらめです。8の付く日に八の末広がりのめでたさから、良い芽が出るようにと食されてきた食材です。」という教室の紹介も、しっくりきます。

床の間の材や欄間の彫刻など、細部にも凝った造りがなされていますが、山上さんは、堅苦しい使い方はされていません。スパイスや仕込みものを入れたガラス瓶や壺も、いい感じに収まり雰囲気のある空間が生まれています。
現在、中へ入ることができる町家は、実際に住んでいない、見学のために開けている町家が多いと思います。山上さんは、料理教室に来て「普段住んでいる町家」も見てもらえたらと思っています。参加者のみなさんは、畳と障子に壁、すべてが木と紙と土で成り立っている建物に「落ち着くし、ほっとする」と口々に言われていました。「この町家という場に支えられています」と山上さん。食を通した生き方やつながりの場として、築90年の町家は新しい役割を得てがんばっています。

普通や普段を大切にする暮らし


山上さんの実家のダイシン食料品店の平日の午後3時。お客さんの波が一段落する時間ということですが、料理人さんが二人、三人とバイクや自転車でやって来て、三代目の顕司さんや料理人さん同士、話しながら品定めをしています。
この日は、週に4日、網野から直送の旬の魚が入る日に当たっていました。「ここはいい魚を置いているので、いつも来ます」と全幅の信頼を置いています。ご近所らしいお客さんも、もう晩ご飯の買い物に来始めました。
「かつおの刺身を1パックとっといて。後で来るし」「85歳やけど、10分くらいやし歩いて来てる」と、常連のお客さんたち。きりっと美しく、素人目にも「ぜったい旨い」とわかるお刺身や、料理人さんも買って行く素直においしいお惣菜も次々並んでいきます。

右端が一般的には甘鯛と呼ばれる「ぐじ」です。ぐじを店に置くのは京都の魚屋の矜持

顕司さんが、お店を継いだのは20年前のことです。番頭さんが定年を迎えることになり「今なら教えてやれる」ということで、サラリーマンを辞めてお店に入り、番頭さんについて中央市場へも行き、魚のプロとして必要なことを身につけました。
「小さい頃から見ていたし、食べることも好きやから、店へ入ったことは、そんなにたいそうに思わなかった」そうです。そして「うちは普通の魚屋なので、地域密着で、地元の人が普段にいるものが揃う店であればいいと思います。身の丈にあった商売を自信を持ってできることを大事にしています」と、考えは明快です。
一方、プロの料理人さんが目当てにやって来る丹後直送の魚は、家庭用では扱えない、おもしろいものを仕入れるのが、魚屋としての醍醐味です。高級魚の部類に入る“ぐじ”があったので「普段でも“ぐじ”があるのですか」と聞くと「京都の魚屋は“ぐじ”を置いています」と、きっぱり返ってきました。それが何とも恰好がいいのです。そして「仕入れは網野直送もありますし、全国から魚が集まる中央市場からも入れています。こだわりの京と、まちの魚屋として必要とされるものの仕入れのバランスですね」と続けました。

奥さんの麻衣子さんが自転車で「すぐそこなので」と、高齢の一人暮らしの方のお家に注文の品を届けに行きました。
山上さんも子どもの頃、お母さんについて近所へ配達に行った時「毎度おおきに、ダイシンです」と言うと「お使いか。えらいな」とほめてくれたそうです。その思い出を聞いた時、そこに、お母さんの味と同じように、山上さんの料理の原点を感じました。
「季節の養生ごはん」の「養生」という言葉に込められた思いも伝わってきます。「軸にするのは、家庭の料理をおいしく健康に」とぶれることがありません。「京都ブランド」という名前やイメージにおもねることなく、本当の京都の暮らしを支え、大切にする山上家のみなさんの仕事にすがすがしさを覚えます。
京都というまちの良さを生かしながら暮らしていくことに、目を向けていこうと気づかせてくれた取材でした。建都も、まちと人のつながりを大切にする中小企業として、さらに地域に貢献してまいります。

 
キッチンみのり
中京区姉大宮町東側102

ダイシン食料品店
京都三条会商店街内

西陣の京町家 古武邸の端午の節句

薫風、青嵐、青東風(あおこち)。若葉の薫りを運び、木々を通り抜ける風の名前です。日本では、風の名前にも豊かな自然が織り込まれています。
季節が初夏へと移る時、夏の始まりは端午の節句と重なります。子供の日とセットのようになっていますが、邪気を払い、男の子の健やかな成長を願う心が込められた行事です。
お雛様は家族の楽しい思い出のよすが」で、愛らしい木目込みのお雛様を見せていただいた古武さんの町家に、りっぱな五月人形が飾られました。鎧兜から調度品に至るまで、千二百年の都の伝統と職人技の粋と品格を、見事にあらわしています。

宮中から出て庶民のもとで育まれた行事


「端午」の端は、はし、始まりを意味し、毎月最初の午の日を指していましたが「午」が数字の「五」と読みが同じであったことから五月五日に定めたとされています。また中国では「偶数は縁起が悪い」とされ、奇数が重なり偶数になる日を特別な日として、その季節の植物や食べ物の生命力で災いを避けるために神様に供物を捧げました。これが日本に伝わり、平安時代に宮中や貴族の間で、さらに武家、そして庶民へと広がっていきました。
一月七日人日「七草の節句」、三月三日上巳「桃の節句」、そして五月五日が端午「菖蒲の節句」です。もう一つ、九月九日重陽「菊の節句」を合わせて五節句として、大切な行事とされてきました。節句は季節の区切りをさしています。

古武さん宅の兜と菖蒲をあしらった抹茶茶碗

五月五日は旧暦では今より約1か月後、梅雨入りの頃、田植えの季節となります。そこで端午の節句には、軒によもぎと菖蒲の葉を差し、その香りで邪気を退散させ、豊作を祈りました。やがて武士の世の中になり、「菖蒲」の読みは、武道や武勇を重んじる意味の「尚武」と同じことから、武家の中に広がり、江戸時代には今の端午節句の様式になったようです。
鯉のぼりも「登龍」という激流を勇ましく鯉がさかのぼったという中国の故事に由来します。「登竜門」はこれから生まれた言葉です。このように、武門の誉れ、立身出世、つまりは男の子の成長と家の継続繁栄を願う象徴として祝うようになりました。

さて、古武さんのお家の五月人形は41年前、ご長男の初節句に、有職人形の老舗で求められたものです。奥の座敷の床の間と床脇いっぱいに飾られた、古式ゆかしい五月人形は、長男の誕生を、若い両親、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなで喜び、健やかな成長を願う心が込められています。
「本当は段飾りなんやけど、大変やし」と言われましたが、飾って、また丁寧に仕舞うだけでも大変なことです。鎧兜も調度品も大切に保管され、どれも傷みがありません。平和をこよなく愛し、争い事と対極にある穏やかなお人柄の古武さんは「節句飾りは戦に関係するものがほとんど。その点がちょっと相いれないけれど、職人の技を伝える工芸品やと思って飾っている」そうですが、これだけのひと揃いを間近に、しかも町家という空間で拝見できることは、とても貴重なことです。

鎧兜をはじめ、柏餅やちまきの作りものや、それを載せる曲げ物なども含め、非常に多くの分業体制のなかで製作されていました。技術の高さだけではなく、きちんと有職故実にのっとった作り方がされているところにも、京都の歴史と文化があらわれています。例えば、ちまきの作りものは、五色の糸で巻いてあります。これは、現在のちまきの始まりとされる中国の故事に由来しています。そして何を揃え、どのように飾るかも専門店がすべて心得ていたということでした。
今は住宅事情からしても、これだけのものを保管しておく場所も、飾る場所もありません。買う人が少なくなれば当然仕事が減り、生活できないから分業体制が崩れる、そうすると今ではもう作れないものがたくさん出てきます。人形専門店も少なくなりました。残念なことですし、致し方ない面もありますが、今の暮らし方に合う節句飾りのなかで、技術や子どもの健やかな成長と穏やかな世の中を願う心が伝えていけたらと思います。
古武さんの節句飾りがみんなきれいな状態で残っていることに感心していると「男の子はやんちゃやから、遊びに使って壊したりすることが多かったみたいやけど、家の息子は怖い言うて近寄らへんかったんで」と笑いました。微笑ましい話に、息子さんもお父さん譲りの優しい穏やかな性格なのだなと思いました。

1分歩けば何かがある歴史の集積地


古武邸は西陣のただ中にあり、歴史の痕跡をあちこちで目にすることができ、古地図をたどって歩くことができます。古武邸の向かいは、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が幼少から江戸へ行くまでを過ごした家です。ご当主が代を継いで現在に至っています。桂昌院は幼名を玉さんと言い、女性として最高の出世を遂げたということで「玉の輿に乗る」という言葉が生まれました。

また、近くの元桃園小学校、現在の西陣中央小学校の付近一帯は、能楽を大成させた観阿弥・世阿弥父子が時の将軍足利義光から賜った領地でした。邸内には名水の湧き出る井戸があり、それに由来する伝統文様が「観世水」で、町名に観世の名を残しています。
番組小学校であった桃園小学校の校歌の一節に「錦あやおる西陣の」とあるように、西陣織に関係する仕事に携わる人々のまちの繁栄を誇ってきました。紋屋町の通りは今もそのたたずまいを残しています。また新しく入居する人もあり、町並みが大きく変わるなかで、暮らしと生業のあるまちとして持続しています。

古武さんは、訪れる人に「感動してもらうにはどうしたらよいか」を考えていると語ります。お正月準備や、桃の節句のお雛様や、端午の五月人形など季節の楽しみを暮らしのなかに取り入れ、町家という空間で見ることで、「木と紙と土でできている町家」を感じてもらえることができると思います。

5月は、産土神である今宮神社のお祭です。今宮神社は12の産子町内がありますが、その構成は昔からほぼ変わっていないそうです。お祭では12の産子町それぞれに意匠の異なる飾鉾(剣鉾)があり、神幸祭(おいでまつり)還幸祭(おかえりまつり)に参列します。古武さんの町内は蓮鉾です。
還幸祭には古武邸の前の大宮通を、松明の先導で、三基の御神輿を中心に飾鉾や神職など総勢800人の行列が通ります。夕闇が迫るなかの厳かであり、また、町衆の力も感じさせる還幸祭ということです。古武邸は「お玉さん神輿」の休憩所としてお祭に奉賛しています。
古武さんは「町家の価値の再発見とその発信」がますます重要になる、しかも急務であると考えています。京都が京都であるのは、このように目立たなくても、地道にそして手間暇、資金もかけながら、町家を守り、住まいとしている人達がいることが、とても重要です。どういうことで応援し、支援できるのか。建都も、住まいとまちづくりの地元企業として、いっそう、地域に役立つ力をつけてまいります。

菜の花の里 洛北松ヶ崎

野山に草木が芽ぐみ、京都も春萌える季節になりました。桜が終われば、次はつつじや牡丹と、花めぐりを楽しみにしている方も多いことでしょう。黄色の菜の花がいっぱいに咲く風景は、うららかな春そのものですが、のどかに花を眺める暇もなく早朝から、伝統の「花漬け」用の菜の花摘みに忙しい、洛北松ヶ崎を訪ねました。

水路を巡らせた妙法のふもとの地


松ヶ崎は、平安遷都の時の記録に残る、古くからの歴史を受け継ぐ地域です。遷都の際、皇室へ納めるお米を作る「百人衆」と呼ばれる人々が移り住んだことに由来するとされています。
宅地開発がさらに進んでいるように感じましたが、手入れされた畑が多く、菜種油を取るための菜の花や麦が作られていた豊かな農村の風景が残っています。

漆喰塗の民家、前川と呼ばれる家の前を流れる水路、背後の五山送り火「妙法」の山、東にそびえる比叡山。京都市内でありながら、市街地や近くの北山通とはまったく違う、特徴的な景観です。
この水路は、宝ヶ池から高野川にある堰から松ヶ崎へ流れ、長く農業用水として田畑をうるおしてきました。今はこの取水地がありますが、以前は地元の方がすべて管理していたそうです。現在も松ヶ崎水利組合があり、組合長さんや「水役」という役員の方を中心に、
農業用だけではなく、生活用水や防火用水としても大切な水路を地元でしっかり維持・管理されています。折りしも散り始めた桜の花びらを川面に浮かべて流れる様子に、しばらく足を止めました。
庭のあるお宅が多く、名残りの椿や木蓮、木瓜の花、きれいに剪定された庭木の緑と水の流れがすばらしい対を成しています。地元の方から「ずっと前はこの川でしじみが取れたんよ。さわがにが産卵するとこも見たし、本当にきれいな川やった」と聞き、驚きました。今も充分きれいに思いますが、以前はもっと毎日の暮らしに近い川だったのだと感じました。

横書き文字が右から始まる、旧字体の古い住所表示板が目に入りました。京都の人ならみんな知っていると言っても過言ではない、あの仁丹の看板です。かつては、東京、大阪、名古屋などにも設置されていたそうですが、戦争で多くが失われ、京都では残ったようです。しかし、町家が解体されるに従いその数はかなり少なくなっていると考えられます。お家の方に伺うと、8年ほど前、漆喰を塗り直し、瓦を葺き替え、内部も大きな改修を施した時、改修中は取り外しましたが、完成した時にまた取り付けてもらったとのことでした。古びたホーローの表示板が漆喰の建物とよく合っています。よくぞ、また戻してくださったという思いです。屋根の上に小さな屋根を乗せたような「煙出し」のある伝統的な造りに着目です。どのお家も手をかけ家を守っておられます。

松ヶ崎は歴史のある神社やお寺があり、地元の信仰厚く根付いています。松ヶ崎の氏神様である、新宮神社の鳥居の前で、バイクに乗った女性の方が止まって、手を合わせていました。毎朝通るので必ずこうしてお参りしています、とのことでした。氏神様として大切にされている様子がうかがえます。区民の誇りの木に指定されているもみの大木や古い絵馬もあり、静かな境内ですが見どころはいろいろあります。

次は、水路のことを話してくださった方から「由緒のあるお寺だからぜひ行って」と教えてもらった涌泉寺へ。松ヶ崎小学校の脇を上った所にあります。松ヶ崎小学校は、明治6年設立し、当時の妙泉寺と言ったお寺の境内の一部に校舎を置いたそうです。今も校舎の自然豊かな山に続き、満開の山桜にうぐいすの鳴き声が聞こえてきました。涌泉寺は、昔、天台宗の信者であった松ヶ崎の人々が、日蓮宗へと宗旨替えし、題目を唱えるのに合わせて踊ったという、一番古い盆踊りとされる「松ヶ崎題目踊り」の起源ともなったお寺です。
毎年八月十六日の送り火を終えてから、題目踊りが奉納されています。

五山の送り火「妙法」の起源は、日蓮宗の日像商人が題目の「南無妙法蓮華経」から妙の一字をとり、杖で山をたどり、村人が松明を燃やしたことに始まり、やがて東側には法の字を置き、妙法としたとされています。
低い山ですが、松ヶ崎の地域は「妙法」の山に抱かれているようです。両方の山は、それぞれの地元のみなさんが、下草刈りなど手入れをして、無事送り火の習わしが行えるように努めておられます。用水路のことをお聞きした方も「うちとこは、東の法の山の仕事をさせてもらってる」と言われていました。
こういう話が聞けたことにも、松ヶ崎という地域を強く感じました。

松ヶ崎だけの味「花漬け」


太陽が昇ると同時に花が開く菜の花摘みは終盤に入りました。いつ頃から開くか、開き方の早い、遅いなどは天気次第。今年は20度を超える日が続いて一気に開き、その後また雨や気温の低い日があるなど天候に左右されたということでした。朝は晴れていたかと思うと北山から雲が来て、雨が降り出します。
春に三日の晴れなしとは、よく言ったものです。晴れても雨に煙っても、菜の花畑の背景に比叡山がそびえる様子はこの季節を最もよく表しているのではないかと思う、のびやかな風景です。雨の後、別の畑を通りがかると畑の見回り中の方が見えました。「菜の花のこと聞きたいんなら入って来いや」と言っていただき、また教えを乞うことになりました。

松ヶ崎の菜の花は菜種です。よく出回っていて私たちが辛子和えなどにする、なばなとは、まったく違う種類なのだそうです。菜種は茎が長く、花も大きいのが特長です。日が出るとどんどん花が開いていくので、背丈に近い菜の花の海のような畑で、摘み頃の花を見極めて、さっさと摘んでいきます。一段と大きな花を付けた一群がありました。それは種を採取するために特に選んで残してあるそうです。来年も良い菜の花を作るためには、良い種でなくてはなりません。これも経験や培ってきた松ヶ崎の農業の知識ゆえの目利きができるのです。

松ヶ崎では「花漬け」または「松ヶ崎漬け」と言われることが多いのですが、普通に売られている菜の花漬けとは、似て非なるものと言えます。菜の花は摘んだらすぐに洗ってから塩で下漬け。そしてぬかに漬けて発酵させます。色の鮮やかさはなくなりますが、それはそれで良い色になります。ぬかの旨みと発酵した酸味が相まって、本当に深い味わいです。わずかに鷹の爪の辛みがきいているのも味を引き締めています。ごはんはもちろん、お酒が進む味です。
以前は、それぞれの家で漬け込み、家によって塩やぬかの加減が違い「うちの味」があったそうです。「松ヶ崎にしかない、ほんの少しの間しかない菜の花漬け」です。摘みたての菜の花を「和え物でも、炊いても、炒めても旨いから」と言って、分けてくださいました。「農業はええよ。こうして毎日畑へ出て、土や苗が具合よういくように見てやるのは楽しいし、健康にええしな」そして「ここに畑があって良かったやろ。畑のある風景ええやろ」と続けました。
いただいた菜の花は、今日はイタリアンでいこうと、パスタにしていただきました。ほろ苦さと甘みもある最高に美味しい「松ヶ崎の春パスタ」でした。

畑や家を預かり、地元の習わしを伝える


平安遷都とともに始まった松ヶ崎の歴史は、4度も兵火に見舞われるという苦難を乗り越えてきた歴史でもありました。そこには、村全体が日蓮宗の教えを信頼し、宗旨替えした連帯感や信仰心、また用水路や神社の管理も地元で行ってきた自治の力があったからでしょう。それは今も受け継がれています。家を補修し丁寧に住み続け、畑で作物を育て、水路を管理し、伝統の行事を続けられています。
偶然、20年前に「松ヶ崎妙法保存会」の会長さんが、京都市文化観光資源保存協会の会報に載せられた文章を目にしました。それは、「21世紀を迎えんとする、12月31日に五山の送り火を」とする行政の要請に対して、お盆以外に送り火はできないとする意見も多いなか、五山の保存会で協議を重ね、大晦日の送り火を実行したことについての内容でした。

「山のふもとに住み、農業や林業の仕事をしながら神社やお寺を守って来た。お盆は先祖をもてなし、16日に迷わず帰っていただくため、家族がにぎやかに揃って明るく照らすのが送り火である。5つの山すべてが一致しなければやらないと決めての話し合いをした。戦争と環境破壊の20世紀を送り、平和と人権の明るい21世紀を迎える節目に、五山の送り火を世界へ発信しよう」と、五山が一致して行われたことが書かれていました。
こうして、現代にも起きて降りかかる難しい問題にも、地域に根付く、強い郷土愛や信仰心、団結する力を糧に新しい、良い解決の道をつくっている地元なのだと感じました。
今、松ヶ崎も住宅が増え、畑は依然に比べるとぐんと減るなか「花漬けの味もいつまであるか」と、危ぶむ声も聞かれますが、松ヶ崎の地はその困難な問題にも、果敢に取り組んでいかれると思います。
保存と開発は、なくならない課題です。歴史や伝統、自然と調和しながら、これからの時代にどのようなまちをつくっていくのか。建都も、家づくりの立場からこれからのまちづくりの課題にしっかりとかかわってまいります。