京都と世界をむすぶ 京町家

京都の中心部、新町通り界隈は、今も和装関係の企業や伝統的な建築の家も見られる、京都らしいたたずまいを感じる界隈です。そのなかに、目立つ看板などはないものの、通りすがりに、美しい色調や明るく元気な色にあふれた店内が見えます。洋裁指導によって開発途上国の女性を支援する「NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村」です。
日本の素晴らしい技で染め、織りあげられた、天然素材の着物や帯を全国から寄贈してもらい、ラオスやヨルダン、ルワンダなどの国々の女性たちが仕立てた洋服やバッグ、小物を販売しています。繰り返し訪れる人の多いアンテナショップ三田村の魅力を、販売品と人、そして町家とともにご紹介します。

「甦」のロゴから受け取るメッセージ

NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村
アフリカを思わせる鮮やかな色合いと大胆な柄の洋服やバッグ、絹の風合いや着物の色柄を上手に生かしたワンピースやジャケット、ブラウスなど、専門家のデザインとしっかりした縫製の指導によって魅力的な製品が誕生しています。手に取ったり、試着してみたりと、お客さんも楽しそうです。
「よう似おうてますよ」「顔移りもよろしいね」お店で応対するのはボランティアスタッフのみなさんです。親しいご近所に来たような和やかな雰囲気に、はじめてのお客さんも「似合っているかどうか」など、気軽にアドバイスや意見を求めることができます。
ギテンゲ
個性的なアフリカのプリントは、数年前から注目され始めましたが、リ・ボーン京都では2013年からルワンダでのプロジェクトを開始し、製品として手掛けています。「ギテンゲ」と呼ばれるアフリカのプリントは京都のファッションを元気づけています。
また、着物の下に着る長襦袢は多くの場合、薄色で光沢のある生地で作られていますが、洋服にリメイクするのは難しい素材です。それが「絹のパジャマ」として完成していました。気温の高い期間が長くなっているこの頃「昼間は洗いざらしのTシャツを着ていても、夜は贅沢にシルク」とは、購入された方の笑い話です。

なんでも挟めるかわいいクリップ
なんでも挟めるかわいいクリップ

ねこ好きにはたまらないその名も秀逸なお細工物のねこ「はさんでニャンコ」や、ラオスからやって来た恐竜の集団など、楽しさも次々発見できます。
着物をほどき、洗い、素材として使えるようにするには大変な手間がかかりますが、ボランティアさんによって、創作意欲をかき立てる布として送られます。柿渋塗りの壁紙張りや、姿見のまわりの壁紙の破れを見えないようにする布おおいも、着物地ののれんもすべてボランティアさんのお手製と聞き、その底力に驚きました。

製品には「甦」のロゴがつけられています。愛着をもって着たもの、あるいは着なかったけれど親御さんが用意してくれた愛情がこもった着物など、たんすに眠っていた着物や帯は人を介して、新しいかたちによみがえります。作る人や買ってくれた人、縁あって出会えたこと。その喜びや大切さを「甦」のひと文字が伝えています。

お茶目で、はっきり物申す看板娘


アンテナショップの京町家は、もと「三田村金物店」を営み、ご家族の住まいでした。
ショップを取り仕切るのは昭和三年生まれの三田村るい子さんです。今年で満93歳になられました。お店に出てお客さんの質問に答えたり、時にはボランティアさんに「それ違う」と厳しいひと声をかけたりしっかり店内を切りまわしています。

三田村さん
リ・ボーンの製品を着た三田村さん(左)と購入した着物を着てご来店のお客さん

「昭和3年生まれ」と聞いて、年齢としっかり加減にだれもが驚きますが「町内で一番古い」「もう年やし口だけ元気」などと言ってみんなを笑わせ、その場を明るくします。「おかあさんは間違いなく、ここの看板娘」とボランティアさんが合いの手を入れて、また大笑いしています。
金物店は、80歳になるまで続けました。長年「三田村金物店」を中京区で続けてきたこの経験が、今も力を発揮していると感じます。人の気持ちを逸らさない応対、鮮明な記憶力は感心するばかりです。

祇園祭の山鉾、八幡山
祇園祭の山鉾、八幡山

お店のある新町通りは、祇園祭の鉾と山がたち三条町は「八幡山」の地元です。取材に伺った日は後祭り期間にあたり、巡行は中止になったものの、お祭特有の華やぎがありました。町内の家々には、八幡山の向かい合った鳩を染め抜いた幔幕が掛けられ、伝統ある商家の並ぶ中京の町らしい風情がありました。
三田村さんのお家では毎年、宵山の日に親戚や知り合いを招待していたとのこと。おくどさんで蒸すお赤飯は「小豆が腹切りせんように気を使った。今でもお釜さんもせいろも残してある」そうです。時には知らない人も交じっていたけれど、同じようにご馳走したという、なんとも鷹揚な良い時代だったのだと思いました。
巡行は二階の窓の戸を外して観覧します。鉾に乗っている人と同じ高さになり、新町通りは鉾がやっと通れる道幅なので、それは迫力があります。
饅頭袱紗
店内にあったとても手のこんだ袱紗は「饅頭袱紗」と言って、お嫁さんがご近所への挨拶に使う紅白の薯蕷饅頭に掛けるものなのだそうです。今はそのような仕来りは京都といえども、されるお家は本当に少ないようですが、とても雅やかな習わしに思えます。
NPO法人リ・ボーン京都 アンテナショップ三田村の京町家

京町家特有の台所
京町家特有の台所

三田村家は、商家として建てられた典型的な京町家です。「店の間」はそのまま畳敷きで残し「座売り」的な感じになっています。上がり框に腰かけて話すのも「町家体験」のような雰囲気です。店の奥は流しやおくどさんが並ぶ走り庭があり、中庭、そして土蔵も残っています。
ここへ来ると実際に住み暮らしている三田村のおかあさんやボランティアさんに、京都の奥にある習わしや暮らしの文化など、いろいろなことを教えてもらえます。リ・ボーン京都アンテナショップ三田村は、アジアやアフリカから届く製品との出会いとともに、京都の暮らしの文化を伝えています。

かたちあるものを最後まで使い切る心を世界で共有


リ・ボーン京都では、寄贈された着物や帯から新しい商品を生み出すとともに「そのまま着て生かす」ことにも取り組んでいます。
寄贈された着物や帯のなかには、今では手に入れることは難しい、例えば非常に高価であったり、すでに技術が途絶えてしまったものもあります。着物を着たいという人も増えているように思います。染や織の知識が豊富なボランティアさんもいて、新たなきものを着る層の開拓にもつながりそうです。
リメイクうちわ
またリメイクに使った後のはぎれは工夫して様々な小物を作ります。ポーチや布玉のネックレス、マスク、今や定番として多くの人が楽しみにしている、うちわなどです。うちわは細い竹骨を地紙(布)に張り、柄を差し込んだ差し柄が特徴の「京うちわ」です。使われている布は絽に草花や水を描いた季節感あふれる図柄や、「裏に凝る」日本の美的センスやあそび心が楽しい個性ある羽織の裏地「羽裏」など、ここぞという見事な絵柄の取り方で張られいます。

「始末の京都」と言われますが、食材でも着るものでも、ものの命を最後まで使い切る、全うさせる暮らし方は、今こそ求められている考え方であり暮らし方です。それは世界で共有することができます。NPO法人リ・ボーン京都のアンテナショップ三田村へ、足を運んでいただき、途上国の女性への自立支援や着物文化の発信にふれていただきたいと思います。

 

リ・ボーン京都アンテナショップ三田村
京都市中京区新町通三条下る三条町329
営業時間 12:30~16:30
定休日 土曜日、日曜日、月曜日、祝日

集いの空間と暮らしが 共存する京町家

活用しながら継承する京町家のご紹介の2回目は、前回のカフェ オリジと同じく西陣の地域にある喫茶・ギャラリー「好文舍(こうぶんしゃ)」です。
親しくしている作家さん達の個展やワークショップ、生け花教室など、様々な企画で人が集い交流し、コーヒーを飲みながらくつろげる場を提供したいと、物件を探している時にめぐり合ったのが現在の京町家でした。
明治時代に建てられた建物、路地や中庭を含め、前の所有者の方がていねいに暮らし、使っていたことが感じられる空間です。住まいとなる部分をはじめ、必要な改修を施して2018年12月1日にオープンしました。「まずこの町家があり、建物がかもし出す空間に合ったことをやりたいと思いました。そして身の丈に合った、自分自身もほっとできる場にしたかったのです」と語る、オーナーの宇野貴佳さんにお話を伺いました。

地域密着の「おてらカフェ」の運営

宇野貴佳さんと星めぐりの器展開催中の陶芸家白川三枝さん
宇野貴佳さんと星めぐりの器展開催中の陶芸家白川三枝さん

宇野さんは東山区の「おてらカフェin金剛寺」の運営にも携わっています。以前から地域密着のお寺の存在に注目し「地域の人が気軽に集まれる場をつくりたい」という宇野さんの思いに共鳴されたご住職の協力を得てスタートして6年になります。地域のみなさんが月に一度、気軽に立ち寄り、コーヒーを飲みながら交流できる場として定着しています。
金剛寺のおてらカフェ
「コーヒーの淹れ方体験」清水焼、歌舞伎文字の勘亭流、日本庭園など、様々な分野で活躍する専門家による「遊びと学びのワークショップ」「住職の朝のお勤め体験」など、京都の文化に身近にふれ、昔から地元の人々のより所であったお寺に親しむ良い機会になっています。
申し込みは不要、ワンコイン500円、だれでも参加できます。毎月第3水曜日、朝7時から10時まで、清浄な空気の境内で、初めて会った人も顔見知りの人も、みんな和やかに過ごせる最高の朝の始まりです。

おてらカフェで知り合った勘亭流書家さんの「好文舍」名入りうちわ
おてらカフェで知り合った勘亭流書家さんの「好文舍」名入りうちわ

宇野さんはこのおてらカフェを運営するなかで、地域にだれもが気軽に足を運べる場の必要性を改めて感じ、また、ワークショップで作家のみなさんと知り合って「工芸を、もう少しみんなの手に渡したい」という思いを強くし、喫茶・ギャラリーの開業を具体的に描き始めました。そこで縁あって現在の建物に出会い「西陣におもしろく楽しい場を提供する」ことが実現しました。

「暮らし方を方向づける建物」を大切にしながらも無理のない改修

好文舎の中庭に面した部屋
「好文舍」という文人好みに感じる名前のいわれを聞くと「改装の時に中庭の植栽に梅の木を植えました。中国語で梅は好文と言うので好文舍にしました。ずっとあたためていた名前とかではなくて、植えた梅の木が先だったのです」と笑って軽やかに答えました。
建物は元、呉服関係の仕事や展示に使われていたそうですが、どことなく、はんなりした雰囲気が漂っています。玄関の間と庭に面した部屋を展示と喫茶に使われています。
好文舎の床の間好文舎の富士山の欄間
りっぱな違い棚やめずらしい富士山と雲の透かしのある欄間がはめられた奥の座敷は、通常より規模の大きな展示企画や、お客さんが立て込んできた時など、その時々で適宜に利用されています。
座敷は明治時代の建築で、ガラス戸の細かい組み方の桟やガラスもその当時か、入れ替えたとしてもずいぶん古いものですが、閉めきりにするのではなく、あくまでも「大事に使って維持する」ことを実際にされていることに「建物は、使って意味があり、それが大切にすること」と改めて感じました。
好文舎の濡れ縁
濡れ縁に使われている古い木材と竹の組み合わせが素晴らしく、これも見応えがあります。お世話になった大工さんは宮大工もされていて、数寄屋建築にも詳しく素晴らしい腕のある方とのこと。使われている木材と竹は、この家に仕舞われていたものを見つけて再利用したそうです。
元の所有者の方も、いずれ役に立つ時のためにと取っておき、何十年もたってから、それを生かす目利き、腕利きの職人さんが存在することに、京都の底力を感じました。
中庭に面した部屋のガラス戸は、古い建具を売る店で見つけたそうですが、この建物にもきちっとはまっています。しっかりした木の枠に、波打って見えるガラスがはめられたかなり古いものです。去年の京のさんぽ道「雨の季節の西陣の京町家 古武邸」で「京町家は一定の寸法で建てられているので、他所の家の建具でも再利用することができる」という当主の古武さんの話を再認識しました。
好文舎の縁側
宇野さんは、できる限り元の姿を残すように改修を進める考えでしたが、すべてを町家普請にすると「驚くほどの金額」で到底かなわなかったそうです。
それで、住まいのところは、予算が折り合い、家族が暮らしやすく使い勝手の良い改修を施し「新しい職住一体」の京町家になりました。この町家改修は、今後、持ち家をどうするか悩む方、町家に住みたいけれど資金が心配、暮らしにくいのではと思案されている方にも一つの生きた事例になるのではないかと感じました。
資金の面はもちろん重要ですが、それに加えて家族、設計や工務店のみなさんが「職住一体の京町家」への思いを共有することができたからこそと感じました。

地域の魅力を高め、ものづくりのまちの可能性を広げる

好文舎の入り口
白麻ののれんをくぐり、路地を入って玄関の戸を開けると沓脱石(くつぬぎいし)があり履物を脱ぐ。障子を開けて中へ入る。敷居を高く感じる人もいるでしょう。ややもすると固くなりそうですが、宇野さんは「場を提供して運営する側」に徹し、だれもがくつろげるように、ごく自然な配慮を欠かしません。
「若い人にしたら気が張ると思います。ですから、どこから来ましたかとか、よくここが分かりましたねとか、必ず声をかけるようにしています」そしてお客さんの様子を感じながら、常連さんとそこに居合わせたなじみのないお客さんを引き合わせて、気づまりな思いをしないように声をかけますが、その絶妙な頃合い、間合いに感心します。喫茶の間の床の間には、ご近所に住む常連さんで日本画家の方の、折々の季節の絵が掛けられています。

この絵を見て話しが弾むこともあり、ある時はその日本画家さんを居合わせた若い大学生のお客さんに紹介すると、長いこと、楽しく話しが続いたそうです。
奥のほうで聞こえる、ゴリゴリゴリという音は、注文ごとに、がっしりした業務用のミルでコーヒー豆を挽く音です。これも何やら楽しい要素になっています。
作品の展示場所や出窓、廊下の隅など、あちらこちらに季節の花がとても良い雰囲気で生けてあります。これは宇野さんのお母様が、身近に見つけた花を生けていらっしゃるそうです。また、メニューにある梅シロップはお母様と奥様のお手製です。
落ち着いた、ものづくりのまちであるこの地域は、近所を歩けばすてきなお店もたくさんあるので、連携して地域を盛り上げていきたいという思いで、宇野さんは楽しい仕掛けをしています。

宇野さんが炊く小豆あんが秀逸なあんトースト
宇野さんが炊く小豆あんが秀逸なあんトースト

近所の和菓子屋さんとケーキ屋さんのお菓子を買って好文舍へ来たお客さんは、注文した飲み物と一緒にここでいただくことができるのです。また「本日のお菓子」はこの和菓子屋さんの季節の生菓子が用意されています。先日ここで展示企画をされた清水焼の若い作家さんのお皿がお菓子としっくり合っています。庭の緑も相まって目でも美味しさを味わえます。
「これもローカルなつながりがあるからできることです」と宇野さんの言葉に、人とのつながりは新しい試みが生まれる可能性を秘めていると感じました。スマートフォンで「ここらへんのカフェ」を検索して来た若い人たちも、京町家でのゆっくりした過ごし方を楽しんでいると思います。
「ただいま」や「宿題終わったよ」の声が聞こえ家族の応援が感じられる好文舍は、京町家と暮らしと仕事、地域と人の、希望のある関係を示してくれています。

 

喫茶・ギャラリー 各種教室 好文舍
京都市上京区油小路通上長者町上る甲斐守町118
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜日

京町家の実家を再生した カフェの誕生

西陣の地域は今も、低層の家が続くまち並みが残っています。手入れの行き届いた京町家に、あたたかい色の灯りと控えめな看板が出ています。木の塀をめぐらせた門を入り、小径をたどるように中へ進むと「こんにちは」と、近しい親戚の家に来たような心持ちになるカフェです。伝統的な木造建築の風格と緑が美しい庭など、京町家の風情を漂わせながらも、くつろぎを感じる空間になっています。
生活様式や家族構成、経済活動の変化のなかで、容易ではないと思われる京町家の維持はどのようにされているのか。所有者、補修や改装にかかわる工務店や建築家、ご近所も含めて様々な人が関係し合うなかで保たれているのだと思います。活用しながら維持されている京町家をご紹介してまいります。1回目は西陣の京町家「カフェ オリジ」です。

二人の思いを設計者、工務店と共有して生まれた空間

オリジ

cafe oriji カフェ オリジ のオーナー夫妻
カフェ オリジは江良周策さん、悦子さんご夫妻で営まれています。悦子さんの実家の町家を改装して今年の1月に開店しました。以前から二人であたためていたカフェの構想と、10年間空き家になっていた悦子さんの実家をどのように生かしたらいいかと取り組み、コロナの影響で1年遅れにはなりましたが、開店に漕ぎ着けたのでした。

cafe oriji カフェ オリジ
元の町家のまま残された見事な桐の欄間

土台の修復や床の板張りは工務店にお願いしましたがそれ以外の箇所、厨房の棚やカウンターの取り付けや壁塗りは自分たちでされたそうです。漆喰は調合して、白すぎず、また暗くないしっくりした色あいにし、庭からの自然光と調和した照明にも配慮されています。
どの席からも中庭が見え、またそれぞれの席が独立した個性を持ち、それが全体の雰囲気をより深く落ち着いたものにしています。廊下側の書斎のような席、壁に面した自分の世界にひたれそうな席、夜に静かに飲みたい感じの厨房前のカウンターなど、その日の気分によって決めるのも楽しそうです。
椅子も手工芸のあたたみと表情を感じるものです。みんな違う椅子で、買った時も場所もばらばらということですがけんかすることなく、同居しています。「いいなと思う、すきなものを集めると自然と似ているものが揃いました」と話されました。
オリジオリジのフィギュア
そして見事な欄間、なげし、床柱など主な部分はそのまま残され、古い本棚もしっくり収まっています。この家への愛着と開業への思い、その全体像を設計者や工務店の方と共有して生まれた空間です。押しつけがましさがなく、それでいて隅々まで二人の思いが行き届いたカフェは、訪れる人それぞれに心地よい時が流れています。
ふと見ると森鴎外や島崎藤村といった大作家全集を背にして、周策さんが製作した妖怪のフィギュアが何事か考えている風情です。あちこちにいる妖怪フィギュアを見つけることを密かな楽しみにしているお客さんもいるそうです。オリジの楽しさは奥が深いのです。

すきなものはおいしい。背伸びせずに決めたメニュー

オリジ コーヒー
オリジでは、お客さん側の「あったらうれしい」に応えてくれるメニューになっています。ちょっと何か食べたい時にぴったりのトーストやワッフル、お腹がすいたと思ったらナポリタンやサンドイッチというふうに。
一杯一杯ていねいにいれてくれる香り高いコーヒーや、季節やその日の気分によって選べるハーブティーなど飲み物も充実しています。
期待の甘いものは、2種類のパフェや、爽やかな酸味に香り、チーズのコクのバランスがすばらしい自家製レモンチーズケーキなどが揃っています。「今度来た時は、あれにしよう」と次回に楽しみを残す気持ちで今日の一品を選びます。
オリジ 苔玉パフェ
取材で伺った日は「苔玉パフェ」をいただきました。オリジの入り口で犬の散歩をされている方から「オリジさん、おいしいですよ。苔玉パフェは絶対食べてみて」というおすすめパフェでした。ひと口めから、抹茶の風味の良さに驚きました。この宇治抹茶と抹茶アイスとソフトクリーム、抹茶ゼリー、小豆あん等々なん層にもなった味わいが楽しめます。「苔玉」としたネーミングセンスと姿形も秀逸です。

オリジ ソフトクリーム
思いの詰まったソフトクリームの看板が鎮座しています

メニューはどうやって決めたのですか、という質問に「背伸びしないで私たちがすきなものをメニューに載せました。それが多分、お客様にもおいしいと感じていただけると思いますので」と答えてくれました。この姿勢が等身大の、素直においしいと感じられる味、心地よい雰囲気をつくり出しているのだと思います。
ソフトクリームのあるカフェはめずらしいですねと聞くと、悦子さんは「子どものころ、千本通にあったケーキ屋さんのソフトクリームを買ってもらうのが本当に楽しみだったので、これはぜひメニューに入れたいと思っていました。近所の公園に遊びに来て、その帰りに親子で寄ってくれる時、子どもさんがソフトクリームを喜んでくれます。それが思い出になればうれしいなと思います」と語ってくれました。
「ここでソフトクリームを食べるのが楽しみやったなあ」と、おとなになってまたオリジを訪れてくれる。そんな場面もきっと生まれることでしょう。

機音が響いた笹屋町のご近所カフェに

笹屋町通 オリジ

京都景観賞京町家部門表彰状
笹屋町通は京都景観賞で表彰されたこともある京町家が残る通りです

オリジのある笹屋町通は、古くから西陣織に携わる多くの職人が住む、機音が響く地域でした。今も「西陣帯地」「金・銀糸、引き箔」などと書かれた看板を掲げるお家があります。
明治8年に疫病がまんえんした時、疫病退散を願い、帯地の切れ端や絹糸、また機織りに使う道具を使って大きな「糸人形」を造り、地蔵盆の頃に町家に飾りました。やがて夏の風物詩として定着し、子どもたちや地域のみなさんの思い出に残る行事となったそうです。一旦途絶えましたが、西陣の職人有志によって復活されています。このように笹屋町界隈は、歴史や伝統の技、生活文化を継承し町並みを守る努力が続けられています。
新しく建築された家も増えていますが、人々が暮らす町であることを大切にしていることが京都の景観も守ることにつながることがよくわかります。

オリジ
オリジはそんな町内にある憩いの場です。いつも買い物のついでに寄ってくれるお客さん、勉強をする学生さん、一人で、友達と一緒にと、それぞれの使い方をして、季節を感じる京町家でのひと時を楽しんでいます。周策さんと悦子さんは「ご近所の方に支えられています」と力を込めました。
始まる、起源や源泉、最初といった意味をもつorijinate orijin originalから発想して付けた「オリジ」の名前には、思いの深い地元西陣の「織」も込められています。「みんなが自由にほっとできる空間を提供したい」と始めたオリジは、訪れた人も自分の源泉や最初の一歩に立ち返ることができる場になっていると感じます。

オリジのフィギュア
町家ならではの外構にはオリジのトレードマーク、やかんのミニチュアが飾られています

取材を終え外へ出ると、お寺の鐘の音と一緒に、公園で遊ぶ子ども達の声が聞こえ、オリジでのひと時をいっそう楽しいものにしてくれました。

 

カフェ オリジ
京都市上京区笹屋町一丁目542-1
営業時間 11:00〜19:00(当面11:00〜18:00)
定休日 毎週火曜日、水曜日・不定休

文化芸術の発信の場 元老舗米穀店の京町家

京都御所南の界隈も、近年は刻々と様子を変えていますがまだ、低層の家並みが続く静かなまちなかの趣をとどめています。
烏丸通の夷川を西へ入ると、すぐに目に入るどっしりとした店構えの町家があります。「米 丹定」と屋号を大書した看板の残る、もと老舗米穀店の建物です。所有者の方の、この建物への深い思いと、その心に共感する多くの人々の協力のもと、雑貨店とギャラリーを併設した、芸術文化の発信基地として新しい役割を持って歩みを続けています。
ギャラリー567外観
2005年に、雑貨店コロナ堂と2階にギャラリー567をオープンした本田晃三さん、佳子さんに、作家さんの個展でお忙しいなか話をお聞きしました。
取材のなかで、この町家を紹介し、改修を全面的に応援されたのは、この京のさんぽ道でもご紹介しました「暮らしの営みや人とつながる建築の喜び」京都建築専門学校の佐野春仁校長先生であったこと、たけのこ農家の石田昌司さん「京都のたけのこはふかふかの畑で育つ」とも親交があることがわかり、驚くと同時にご縁を感じました。
運営する中で発見したこと、多くの人との幸せな出会いなど、たくさんのことをお話いただきました。

活動の積み重ねの延長線上にあった出会い

ギャラリー567内観
夷川通りに面して、広く取ったガラス戸越しに心惹かれるディスプレイの京町家に、道を行く人は歩みをゆるめます。店内には、カナダのガラス作家のランプ、パリ在住の日本人作家のアクセサリー、ポストカード、書籍、その他帽子やバッグの小物に洋服、手ぬぐいなど、すべてがお二人の信念と感性にかなったものが、おのずと調和して美しく心地よい雰囲気がつくりだされています。
また、ふきんや味噌といった、ごくごく身近な毎日使うものも、環境に負荷を与えない、安心して口にすることができる、そういった実直なものづくりから生まれています。ものを見極める基準は、これまでかかわってきた活動とも関係していると感じます。

ギャラリー567の本田晃三さん、佳子さんご夫妻
本田晃三さん、佳子さんご夫妻

お二人は、教会や個人住宅など数々の優れた建築を世に残したヴォーリズの設計による、左京区の昭和初期の洋館「駒井家住宅」の保存と活用の活動をされていましたが、京都建築専門学校の佐野春仁先生も「駒井家住宅」の活動にかかわっておられました。本田さんご夫妻はその後、佐野先生が取り組んでいた、五条坂の登り窯の保存と活用にも参加し、そこでカフェ&ギャラリーの運営もされてきました。
そのつながりから佐野先生が、本田さんご夫妻の次の活動拠点として、現在の夷川の京町家を紹介されたのでした。京都の歴史的景観や文化を大切にし、志を同じくする人たちとともに、その素晴らしさを発信してきたお二人の新たな拠点として本当に望ましい出会いとなりました。
この建物は、文化5年(1808)から、丹定(たんさだ)の屋号で米穀店を営んでいた竹内家の所有で、昭和2年の建築です。京都の御所近辺は、幕末の蛤御門の変、いわゆるどんどん焼けで焼失してしまったため、多くが明治以降に建てられています。
烏丸夷川の記念碑的な丹定の京町家は、こうして本田さん夫妻を中心に、建築家、大工さん、学生さんと、これまでにない多彩な人々の共同作業によって、今も夷川通の重鎮のごとく風格のある姿を見せ、人と人をつなぐ場となっています。

もとの姿にもどすための改修

ギャラリー567の天井
現在、みせの間にあたる所が雑貨のコロナ堂、そして中庭、通り庭も作品の展示空間として活用され、二階のギャラリーは作品展やコンサート、講演会、落語会など「多様性」のある使い方がされています。
佐野先生の指導で改修に入ることになった時、設計図などはなく「元のかたちにもどすことを考えましょう。米穀店であった痕跡を大切に」が答えでした。こうして御所の御用達でもあった大店、丹定の「もとの姿」へ近づけるプロジェクトが始まったのでした。
ギャラリー567改装時の写真

15年前の改修作業の写真パネルがきちんと残されています。大変な作業にもかかわらず、先生も学生さんも和気あいあい、楽しそうです。この改修には、所有者の身内の方も参加されたそうで、町家改修の貴重な記録であり、丹定の歴史にとっても大切な記念です。

元米穀店の「鎧戸」の鉄枠
元米穀店の「鎧戸」の鉄枠

使われている木材は柿渋やべんがらが塗られ、時を重ねて段々と味わいを増します。「おくどさん」と同じ構法で造られた階段が、ほのぼのとしたあたたかさをかもし出し、側面はおもしろい展示コーナーになっています。入り口の頑丈な鉄の枠は「鎧戸」の痕跡です。相当重かったはずで、毎日上げ下ろしするのは重労働だったことでしょう。

ギャラリー567の北山丸太
お店の奥の壁ぎわに配された北山丸太が目にとまりました。これも米屋さんの痕跡です。以前ここには厚い板があり、そこに打ち付けるようにして、うず高く米俵を積んでいったのでそうです。二階は床板もそのまま使われていて「ここは、丁稚さんが寝ていたところです」と説明を聞くと、幼い年齢で親元を離れ、家が恋しい夜も多かっただろうと、しんみりした気持ちになりました。
「できるだけもとの姿にもどし、米穀店であった痕跡」は、訪れた私たちにいろいろなことを語りかけてくれます。

芸術家が羽ばたき、地域に根差した文化の拠点として

山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
昨年からコロナウィルスのため、多くの企画を断念せざるを得ませんでしたが、今年に入りコンサートや作品展が開催されています。取材時は、新進気鋭の若い女性作家の個展を鑑賞することができました。
サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」
ひとつはラオスの留学生、サイサニット・ウサバディさんの織物作品の個展「暁」です。ウサバディさんは、5年前に日本へ来て、京都の大学で4年間テキスタイルを学び、3月に卒業したばかりです。実家は織物業を営み、ウサバディさん自身も6歳から織物を始めたという技術と経験の持ち主です。
帰国する直前に開いた初の個展でしたが、日本へ来てからの充実した日々が伝わってくる美しく力強い作品に励まされる思いでした。大学の友達・先輩、先生、アルバイト先の先輩、ラオス料理レストランの方など多彩なみなさんがかけつけ「ウサちゃん」の初個展をお祝いしていました。
山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
もうひとつは、京都市立銅駝美術工芸高校を卒業し、大学から富山へ行き、現在も富山で制作を続ける彫刻家、山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」です。京都では初の個展、里帰り個展です。
乾漆という伝統技法を使った作品で、漆という素材の表現の幅広さが新鮮でした。また個展の名前もそうですが、それぞれの作品名も創造性豊かで、響きや文字のかたちまで考えられているようで、作品と相まって、見ている側の感覚もかき立てられました。ウサバディさんも山田さんも、このギャラリーの空間がすばらしい、ここで展示できてよかったと喜んでいました。
山田千晶さんの個展「瞳をとじて ひらく扉」
木と土を使い、人の手によって伝統構法で構築された空間は、時がゆっくり流れ、時間や天候により光も微妙に変化し、豊かでおだやかな雰囲気のなかで、作品を鑑賞することができます。
本田さん夫妻が願う新たな交流の場として、コロナ堂とアートステージ567は、しっかりと根を下ろしています。暮らしと生業の痕跡の残る町家は、これからさらに、多くの人の「私の京都」になることでしょう。

 

コロナ堂&アートステージ567
京都市中京区夷川通烏丸西入巴町92
営業時間 11:00~19:00
定休日 月曜日

八幡の松花堂から 椿事始め

椿は梅と並び、古くから愛されてきた花です。余寒のなかで凛として咲く姿は字のごとく、春の訪れも感じさせ、私たちの心に響きます。山に自生する椿の大木、お寺の参道の落ち椿の美しさなど、その光景が目に浮かんできます。
冬から春にかけてのお茶席には、椿が入れられ、侘助、白玉など、その名も深い趣があります。奥の深い花、椿の事始めは広大な敷地の中に椿園がある、八幡市の「松花堂」から出発します。

伝統建築と、竹の文化と技術の継承

茶室松隠
松花堂の茶室松隠

松花堂は、22,000㎡の広大な庭園です。石清水八幡宮の社僧であり、茶の湯、書、絵画をよくした江戸時代初期の代表的な文化人、松花堂昭乗の草庵「松花堂」や寺坊の一つ泉坊の書院が、明治政府の「神仏分離令」により、男山から取り払われた際に東車塚古墳にある現在の地へ移築し、整備されたものです。幾多の変遷をたどりながらも守られ、平成26年(2014年)には「松花堂及び書院庭園」が国の名勝に指定されています。

松花堂の竹
2018年の地震と台風被害により、草庵「松花堂」泉坊書院、東車塚古墳のある内園区域は、残念ながら修復作業中で見学ができませんでした。そこで、まぶしいほどの日差しのもと、ゆっくり庭園をめぐりました。
松花堂庭園には、梅や椿、もみじ、などが季節ごとに楽しませてくれますが、約40種類の竹や笹が植えられています。八幡と竹は、エジソンが電球のフィラメントに使ったように質の良いことで知られます。

松花堂の金明竹
金明竹
松花堂の亀甲竹
亀甲竹

「金明竹(きんめいちく)」という、節に緑と黄色が交互に入った竹や、節が亀のこうらのようにねじれた「亀甲竹」という竹など、珍しい竹が見られます。また、柵やしおり戸、鯉が泳ぐ池の竹組など、あちこちに伝統の職人技を見ることができます。

松花堂の池

松花堂の茶室梅隱
松花堂の茶室梅隱

利休の孫にあたる千宗旦好みの四畳半の茶室を再現したという「梅隠」の内部は、行灯の周囲だけがほの明るく、陰翳が広がる静けさが漂う空間でした。外の伸び伸びとした明るさとの対比がくっきり浮かび上がっていました。
つくばいに設えられた「水琴窟」の響きは、宇宙的とでも言うような感じがします。耳を澄ますという行為そのことが今の日常には、なかなかないことです。小鳥のさえずりと、水琴窟の響きが聞こえ、馬酔木の鈴なりの花房が、かすかな音をたてているようでした。

気品、可憐、華やか。百花百様の椿

松花堂の落ち椿
園内の300本を超えるという椿は、花の盛りを過ぎた種類もありましたが、青々とした苔と落ち椿の対比は、やはり風情のあるものでした。
椿は江戸時代に一代ブームが巻き起こり、公家や大名、市井の富裕な人々が競うように珍しい椿を育て、鑑賞したそうです。そして、絵画や書、図録、また工芸品、着物や装飾品など身の回りのものにも椿の意匠が用いられていきました。昭乗は、茶の湯もよくしたので、多くの茶人と同様、椿を愛でたことでしょう。松花堂の庭園に様々な椿が植えられているゆかりです。

松花堂の燭光
燭光という品種の椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂の椿、鹿児島
鹿児島という品種の椿

園内の椿を見ていくと、赤でも鮮やかな赤、少し黒味を帯びたような赤、紅色、薄紅色、白、絞りなど本当に微妙です。花の開き方や花芯も様々です。そしてやはり花の名前にもひかれます。「白楽天」「京雅(きょうみやび)」「燭光(しょっこう)」「細雪」「一子侘助」「常照皇寺早咲き籔椿」「霊鑑寺早咲き籔椿」など、ひとつひとつその花に込めた思いや由来を想像してみます。白地に赤い縞模様の華やかな椿は「鹿児島」という名前でした。来歴や命名の由来など興味は尽きません。

松花堂の椿、玉之浦
五島列島のから来た玉之浦

一度では、椿園のほんの一部しかわからないのですが、中に特に心に残った名前がありました。「玉之浦」です。そこで帰ってから調べてみると長崎県の五島列島で発見されたということがわかりました。美しい五島の海と玉之浦という名前はみごとに一致していました。

東高野街道再訪、長崎の五島の椿

東高野街道

松花堂は東高野街道の地点にあります。庭園を出てから街道を石清水八幡宮まで歩きました。一の鳥居前は変わらず「走井餅老舗」がお店を開けています。門前の茶屋の風景は健在です。二の鳥居近くの和菓子屋さん「みささ堂」さんへむかいました。こちらも夫婦お二人で変わりなく元気にお餅を作っています。

みささ堂の製菓道具

石清水八幡宮二の鳥居
毎日お餅を搗く石臼、重い杵、餅箱も現役です。餅箱には「昭和拾参年」「拾弐月吉日」と墨文字がうっすら見えます。「昔の道具は、長く使えるように作ってあるから、丈夫。今も現役」と笑っていました。「杵は最近重い杵が作られてないので、今あるのを大事に使わんとね。本来の道具はこうでないと」と続けました。全部がお店を続けるための大切な相棒です。二の鳥居の近くにも二種類の椿が咲いていました。

五島列島福江島
五島列島福江島の美しい浜

八幡へ行った次の日「玉之浦」を調べることにしました。
以前、五島列島の福江島出身の方から、地元の話を聞いた時、椿の話も出てきました。春になると籔椿が島にたくさん咲くこと、髪は椿油で手入れをしていることなど、にこにこと、ふるさとの福江が本当に好きなのだということが伝わってくる話ぶりでした。
福江島は、今は五島市となり、市役所の農林課には、なんと「椿・森林班」という部署があります。電話をすると、椿担当の職員さんがとても丁寧に話してくださいました。美しい椿「玉之浦」には、島のみなさんがその教訓を今も大切にしている物語がありました。後に玉之浦と命名された椿は、昭和22年、炭焼き職人さんによって山で偶然発見されたものでした。
「玉之浦」は五島市になる前の旧町名です。その玉之浦の町長さんを長く務められ方が引退後、山歩きを楽しむなかで、その椿の姿に強く心をひかれ、大切に育て、乞われて全国椿展に「玉之浦」と命名して出品したところ広く世に知られるようになりました。
五島列島の椿、玉之浦
赤い花びらに白いふちどりの、この椿は大変な人気となり、枝や根を切られるなど酷い行為により、母木は枯れてしまうという無念な結果になってしまいました。しかし、その子孫が根付き、地元のみなさんにより、種を絶やさず今も玉之浦で美しい花を咲かせているそうです。
また、玉之浦の二つの地区では、毎年1月23日に、その年の豊作を願う伝統行事「大綱引き」があり、その綱の真ん中には椿の枝がさしてあるそうです。ほかのお祝い行事にも椿を使うとお聞きし、とても雅で五島のみなさんの椿を愛す心にあふれていると感じました。
五島市の市木はやぶつばきです。椿が咲く景観をとても大切にされています。そして現在も10社ほどが椿油を製造所しているそうです。今もこのように自然の恵みを暮らしに役立てていることはすばらしいことです。五島は暖かいので今年も2月下旬には椿が咲き、とてもきれいだったそうです。「今は旅行ができませんが、コロナが収束したらぜひ島へお越しください。お待ちしています」と、うれしい言葉をいただきました。
電話口からも、五島の美しい風景とあたたかい人柄が伝わってきました。椿事始めの初回は、豊かな気持ちで満たされました。

 

松花堂庭園・美術館
八幡市八幡女郎花43-1
会館時間 9:00~17:00
休館日 月曜

ようこそ 京町家のおもちゃ映画博物館へ 

大正から昭和の初め、日本映画の黄金期に、映画館で上映された後に切り売りされた35ミリフィルムをおもちゃ映画と言います。そのフィルムは、一般家庭でブリキ製のおもちゃの映写機を使って楽しまれたことから、この名前が付けられました。
なぜフィルムが切り売りされたのか、日本の映画や、映画のまち京都はどのような歴史を刻んできたのか。時代の変遷とともに捨てられたり、かえりみられることなく劣化し、消えゆくフィルムには、無声映画の全盛期に携わった人々の息遣いや熱い思いが込められています。この貴重なフィルムを救いたいと「おもちゃ映画ミュージアム」を設立し、運営を担う、代表の太田米男さんと奥様で理事の文代さんにお話を伺いました。

切り売りでわずかに残った貴重な無声映画

おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん
おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん

おもちゃ映画ミュージアムが収集・復元したフィルムは約900本にのぼり、200点以上の映写機やカメラなども展示されています。太田さんの収集品に加え、このミュージアムの存在を知り寄贈されたものもあります。
取材に伺った日、太田さんは映写機をきれいに磨いて調整されていました。寄贈されたフィルムや映写機はすべてていねいにチェックして、可能な限り修復しています。復元できたフィルムはデジタル化して寄贈してくださった方へ送りていねいに感謝の気持ちを伝え、つながりを深めています。
映写機とフィルム
映画が音声付きのトーキーの時代になると、無声映画のフィルムは乳剤を洗い流して新品フィルムとして再利用されたり、廃棄されるなどオリジナル映画のほとんどが失われてしまいました。上映後に切り売りされた「おもちゃ映画」は、時間にすると20秒、30秒から1分、3分という短いものですが、今となっては、映画の歴史を伝える数少なくかけがえのない資料となっています。
時代劇を中心にアニメーションや実写のニュース映像もあり、当時の様子が映し出された歴史の証人です。太田さんは「家に古いフィルムや映写機、パンフレットなど映画に関係するものがあれば、劣化してしまう前にぜひご連絡ください」と呼びかけています。
また、京都市広報局が1956(昭和31)年から1994(平成6)年まで製作し、映画館で上映されていた「京都ニュース」の救出にも取り組んでいます。社会や暮らし、文化、今は失われた景観など、時代を映す貴重な映像資料です。製作から60年以上経過し、劣化が進んでいるなか、保存と活用に力を注いでいます。
おもちゃ映画ミュージアムの蓄音機
ミュージアムでは、手回し式の映写機でおもちゃ映画を見たり、手回しの蓄音機でSPレコードを聞くことができます。カタカタカタという映写機の音とモノクロの映像の世界に、ゆっくりと身を置いて過ごしてみてください。

無声映画の輝き「活弁」の世界の企画展


日本映画は無声映画時代「活動写真弁士」略して活弁と呼ばれた人々の語りが入った形式ができあがったことが大きな特徴です。これは日本独自のスタイルであり、文楽や落語、講談など「語りもの」の芸を楽しむ文化が下地としてあったからと聞き、腑に落ちました。名調子で映画を盛り立て、人々を熱狂させ、全国で大勢の活弁士が活躍しました。人気を博した活弁士は、当時のポスターやチラシに名前が大きく載っています。

活動写真弁士の世界展
活動写真弁士の世界展

おもちゃ映画ミュージアムでは今、「活動写真弁士の世界展 第2期黄金時代」が開かれています。現在では10人足らずとなった現役活弁士の一人、片岡一郎さんが所蔵する無声映画時代のポスターやチラシ、出版物など多数のすばらしいコレクションが展示されています。詳細なリストと解説資料も用意された渾身の企画展です。
大胆なレイアウトや個性的で迫力のある書体など、大正から昭和の初期という時代の勢いと、仕事を手がけた人々のエネルギーが伝わってきます。映画はもちろん、印刷やデザイン、モードなど様々な視点から楽しめるとても興味深い展示です。映画の黎明期から一番輝いていた時代、映画に心血を注いだ人々の様子が浮かび上がってきます。

映画への思いが人をつなぎ明日をつくる場所

おもちゃ映画ミュージアムの外観
代表の太田さんは京都生まれの京都育ち。家は撮影所のあった太秦にも近く、子どもの頃から映画はいつも身近にありました。映画とかかわる日々のなかで、「映画は財産」として大切に修復と保存・管理がなされているアメリカやヨーロッパに比べて、極端に少ない日本映画の保存状況に危機感を覚え、2003年から「玩具映画プロジェクト」を立ち上げ、その後、映画の復元と保存に関するワークショップを毎年開催し、その地道な積み重ねのうえに「おもちゃ映画ミュージアム」を設立しました。
当時の忠臣蔵のポスター
開館は2015年5月、映画が誕生して120年、また日本映画の草創紀に大活躍した尾上松之助の生誕140年という記念すべき年でした。この開館を祝うかのように、偶然にも尾上松之助の作品「忠臣蔵」のフィルムが寄贈されたのです。それは9.5ミリの特殊な規格でしたが、上映できる映写機があり、映してみると再編集された1時間ほどの、ほぼ完全なフィルムだったそうです。おもちゃ映画ミュージアムは、古い映写機やフィルムの安心の地であり貴重なフィルムが多くの人と出会う新たな場となります。
おもちゃ映画ミュージアムの映写機
戦前に日本で作られた映画で、残っている作品は5パーセントほどしかないそうです。「日本でも外国でも評価されているのは、現在フィルムが残っている映画だけです。出演が1000本を超える尾上松之助や日本映画の黄金期を築いた阪東妻三郎、大河内伝次郎なども、残っている作品はきわめて少なく知られることがありません。どこかに残っているかもしれないそれらの作品を発掘して、監督や俳優たちの名誉回復をしてあげたいですね。尾上松之助も派手な演技ばかり言われていますが、社会福祉団体に寄付するなど社会的貢献をしたことの顕彰もね」と語る太田さんの言葉には、映画にかかわるすべての人に対する敬意がにじみ、心に残りました。
おもちゃ映画ミュージアムの天井おもちゃ映画ミュージアムの中
おもちゃ映画ミュージアムの建物は、もと友禅の型染の工場だったそうで、高い天井にりっぱな梁が通り、間口は狭く奥に深い町家づくりです。ここには映画を通してつながった人たちの協力のかたちがあちこちに見られます。屋根に掲げられた一枚板の鮮やかな勘亭流の看板は、その道の専門の職人さん、内部の壁に張った板の色は、長年映画の美術を担当している方が「展示するものが映えるように」と、ちょっと汚してよい風合いにしてくれました。新しい柱も既存の部分と違和感のないように塗られています。すてきなのれんは、文代さんのお姉さんの作です。
太田さんご夫妻
太田さんは「映画の復元と保存に取り組むという思いがあれば、応援してくれる人は必ず出てくると、思っていますと語ります。実際に次に引き継ぐべき後進も育っているとのことです。昨年からコロナ対策のため、意欲的な企画を中止または延期にせざるを得ませんでしたが、歩みを止めることなく今できることを考えて取り組んでおられます。
太田さんご夫妻は今後さらに、おもちゃ映画ミュージアムが、映画関係の人や、映画が好きな人、みんなが集まって来て情報交換したり、励まし合い、様々なワークショップもできる「映画の基地」となればと考えています。以前にこの空間を生かして、前進座の俳優さんによる「松本清張作品の朗読劇」や歌舞伎の隈取のワークショップなど魅力ある企画も実施されてきました。より多くの人にミュージアムに足を運んでもらい、映画の発掘と復元、そしてこの京町家の空間ともども、明日へと継続されますよう願っています。

 

おもちゃ映画ミュージアム
京都市中京区 壬生馬場町29-1
会館時間 10:30~17:00
休館日 月曜・火曜

京都のまちかどの おとうふ屋さん

「今日は湯どうふ」と、何回もお鍋を囲んだお家も多いことと思います。季節を問わず、年中お世話になっているおとうふ。良い水に恵まれている京都は昔から「京のよきものとうふ」と名をあげていました。
上京のまちに今も、おくどさんで薪を焚いておとうふを作り続けるお店があります。
「創業文政年間」と染め抜いたのれんが、京町家にしっくり調和する入山豆腐店です。ご主人の入山貴之さんに話をお聞きました。おとうふのこと、お客さんのやりとり、京都の歴史等々の話題が次々と繰り出し「もっと聞きたい」入山さんの味なお話を、ほんの一部ですが、おすそ分けいたします。

ものは人の手がつくっている

入山とうふ
入山とうふ店主の入山貴之さん

京都のまちなかには、名水の湧く井戸がいくつもあります。上京区の「滋野井(しげのい)」の名水は、元滋野中学校の校歌にも「滋野井の泉のほとり」と歌われ、地元の宝として大切にされてきました。入山豆腐店もこの地域にあり、井戸から地下水をくみ上げています。近辺にはおとうふ、生麩、醤油など良い水があってこその生業が営まれています。
入山とうふのおくどさん
入山さんのお店では、機械を使うのは大豆をすりつぶす作業だけです。このすりつぶした大豆を、おくどさんにかけた大釜のお湯に入れて炊いていきます。ガスにすれば手間はかかりませんが、カロリーが低いので時間を要します。その点、常に火加減に注意し、微妙な調整も必要ですが、薪は火力が強く短時間で炊きあがり、香りや風味を生かすことができます。
按配のよいところを見きわめて、炊いた大豆を袋で濾すと、豆乳ができます。この豆乳に、にがりをまぜて型に流し、余分な水を除いてから水槽の中で切って、おとうふの完成です。焼豆腐は串を打って炭火で焼き上げています。これは秋から4月いっぱいくらいまでの季節のものです。焼目こんがり、こうばしい味、よい香りは「入山さんのお焼き」だけのものです。
入山とうふの油揚げ
お揚げやひろうすもおくどさんで、きれいな油を使い、丁寧に揚げているので、油抜きする必要はありません。豆乳も機械でぎゅうぎゅうしぼり切ることがないので「お客さんから、ジューシーやと、よう言われる」しっとりしたおからになります。炒らずに、そのまま使っておいしくできます。豆乳も毎日買いに来るお客さんも多く、冬は豆乳鍋にするお家もあるとか。質の良い水と原料、誠実な手仕事で作られたものは、何にしてもその素のよさが生きています。
薪を割る入山さん
大豆を水に漬けるのは前の晩、朝4時からおとうふを作りお客さんに応対し、合間には薪を割りその他諸々、仕事がたくさんあります。年2回は近くの小学校の見学を受け入れています。「体を使って働く姿を見ることがないと思う。ものは人間の手がつくり出しているのだということを知ってもらえたら」という思いです。ものづくりは人の手がつくり出す。入山豆腐店はおいしさとともに、その大切さを教えてくれます。

鐘の音と「入山さーん」と呼ぶ声

姪ごさんの太田真莉子さん
姪ごさんの太田真莉子さん

2年前から、火曜、木曜、土曜の午後は近くの町内をリヤカーでまわる「まわり」を復活させました。担当は、2年前からお店を手伝っている姪ごさんの太田真莉子さんです。真莉子さんの後にくっついて、まわりに同行させてもらいました。リヤカーに真莉子さん手書きの「入山とうふ」の看板を付け、入山さんのお祖父さんの時代からのりっぱな鐘とともに出発です。

あいにくの冷たい雨でしたが、晴天続きで井戸が枯れかけていた入山豆腐店にとっては、恵みの雨です。よく響く鐘の音が家の中にも届いて「入山さーん」と声がかかります。「雨の日は本当に助かる。まわって来てくれはるし、ありがたいわぁ。入山さんとこのは、おいしいしね」そして「雨の日は大変でしょう。気ぃつけてね。いつもありがとう」という言葉に、信頼関係や感謝の気持ちがこもった、とてもあたたかいものを感じました。
まちなかでも、このあたりはお店がなく、高齢の方をはじめ多くの人が真莉子さんのまわりを頼りにしています。一言ふた言でも、そこで交わす会話に気持ちがなごむことでしょう。
2階からかごを降ろして買う思いがけない楽しい場面にも遭遇できました。

「今日はお客さんが多かったです。3人だけとかいう日もあります」と真莉子さん。まわりを始めたのは、どういうことからですかという問いには「必ず需要はあると思っていました。入山豆腐店がせっかくこれまでやってきたことを大切にしないともったいない。必要とされているところ、待っていてくれている方に応えたいと思って冬も夏も、お客さんが少ない日も、曜日も時間も変えることなくまわりをしています。」
みなさんも運が良ければ真莉子さんのまわりに巡り合えるかもしれません。鐘の音が聞こえてくるか、耳をすませてみてください。

江戸時代の作り方は、究極のエコだった

入山とうふの店頭
薪をたくなつかしい匂いと、煙突からうっすらと上がるけむり。入山さんがのれんを出し、店頭にはみずみずしいおとうふをはじめ、揚げたて、焼きたてが次々と並んでいきます。同時にお客さんがやって来ます。「ただ今開店しました」というふうではなく、何となくゆるく開店する感じも、ほんわかした雰囲気です。
入山さんのお父さんが跡を継いだ時は昭和30年代、世の中が大きく変化し始めた時でした。豆腐製造業も機械化が進み、多くのお店が機械化・量産化へ舵を切りました。スーパーマーケットができ、食品へも大量生産、価格競争の波が押し寄せた時代です。お父さんも機械の導入を考え、先代に相談したところ「とうふ屋が数に走って売り上げを上げたらあかん」と返され「これまで通り」を続けてきました。「結果、よかったかな」と入山さんは思っています。

おとうふは、外国の人に多いベジタリアンやヴィーガンの人たちも食べられます。「そういう点でも日本のとうふは世界の人に安心して食べてもらえる優れた食品で、食べ方もいろいろアレンジできる。しかも歴史や文化的な価値がある。シンプルという日本人の考え方はすごい」と可能性を感じています。

おくどさんで焚く薪は、大工さんから手に入れる端材を利用し、消し炭も火付け用に取っておき、灰は豆乳をこすふきんなどを洗う時に使います。「捨てるものは何もない究極のエコ」です。あるものを生かして使い切り、循環させる作り方には、今の時代に多くの人が感じ、見つめなおして大切にしようという暮らし方、ものづくりの本来の姿があります。
入山さんは人と話すことが大好き、本が好き、いろいろなことに興味があり、多くの人、外国のお客さんともコミュニケーションを楽しんでいます。入山さんは「それが、まち店の意味」と語ります。そこからお店の経営や考え方にも柔軟性が発揮されているように感じます。

商品名を書いた札や、イラスト入りのボードなどは、すべて真莉子さんの手になります。真莉子さんの「リヤカーを、赤とか明るい色にして、もっとかわいくしたい」という構想に、入山さんは「それもええなあ」と応じます。二人のやり取りや、かもしだす雰囲気が何かいい感じです。淡々と明るく仕事を進める二人の様子は、二百年ののれんも軽々と、とても身近に感じられます。おいしいおとうふ屋さんが近くある幸せ。ささやかな喜びの積み重ねが、京都のまちと暮らしをかたちつくっています。

 

入山豆腐店
京都市上京区椹木町通油小路 東魚谷町347
営業時間 9:30頃~18:00頃

京都西山、竹の春 竹林の農小屋完成

京のさんぽ道「暮らしの営みや人とつながる建築の喜び」でご紹介しました山の竹林の農小屋が、竹林を管理する石田昌司さんの見守りと理解、京都建築専門学校の佐野春仁校長先生と学生さんたちの、献身的な作業のすえに完成しました。構想から2年近く、寒風に吹かれ、雨に打たれ、蚊の襲撃に耐え、ついに迎えたこの日をお祝いする集まりは、限られた人数となりましたが、とても心あたたまるものでした。

秋のしつらいのお披露目茶席


板戸が閉められた小屋の中は午後の光が弱まり、しんとして「陰翳礼讃」の世界に招かれたようです。前日まで作業が続けられていたとは思えない静けさです。藁がすき込まれた壁と掛花入れの秋明菊(しゅうめいぎく)が、一層ひなびた秋の風情を漂わせています。もう一つの白釉の花入れには秋明菊と秋海棠(しゅうかいどう)が入っていました。このお茶花は佐野先生の心遣いです。

密を避けるために一席を少人数にしてあり、ゆっくりと一服をいただくことができました。一緒の席になった初めて会う方とも、自然に会話ができる、こういった間合いを心地よく感じます。久しぶりにお茶の席に座ってみて、和やかさと一種の引き締まった空気が共存する空間は、やはり良いものでした。
この時のお点前は、建築専門学校2年生の浅原海斗さん、前回の京のさんぽ道に、土練りや壁塗りに奮闘する姿を取材させていただいた松井風太さんの同級生です。浅原さんのお家は左官業を営んでいると聞き、職人さんの技術を子どもの頃から日情的に目にして、体のなかに刻み込まれているのだろうなと思いました。若い世代は頼もしい、という感を強く持ちました。

出窓には、柿の照り葉の上に、いが栗が乗せられていました。これは石田さんの畑の栗で、自らしつらえました。お菓子も秋の装いの栗きんとんです。参加者の方の、お手製と聞きました。しつらいからお菓子まで、すべてに心がこもっていました。準備はさぞ大変だったと思いますが、大変なだけでなく、楽しみながら準備してくださった様子がうかがえた、心地の良い披露目のお茶会でした。こういうお茶会なら「堅苦しいからいや」と敬遠している人も「お茶って、案外いいね」と感じるのではないかと思います。
季節は「竹の春」。筍に栄養を使い、葉を落とす時期を「竹の秋」、養分を蓄えて青々と葉を繁らせた今を、竹の春と呼びます。いずれも季語となっています。
そんな俳句の世界にも通じた、豊かな季節感を感じられたのは「農小屋のお茶席」だからこそと感じました。

五感の楽しみを贈ってくれた友情の輪


竹の皮のお弁当箱に、きれいに詰められた秋の彩りのご馳走は、お茶のお菓子を担当してくださった管理栄養士さんの薬膳のお弁当です。美味しくて体に良いものが何種類も入っています。いちじくは石田さんの畑のものでした。
タイの弦楽器サロータイの笛「クルイ」
そして、お茶をいただいた小屋の板の間が、小さなコンサートのステージになりました。民族音楽の研究のため、タイから日本に来られている演奏家の方の音楽の贈り物です。
ココナツの胴に板を張った「サロー」という弦楽器と「クルイ」という笛を演奏していただきました。サローは見た目には簡素ですが、とても深く、様々な表情のある音色でした。クルイもやわらかく素朴で郷愁を感じる音を奏でていました。演奏者のお人柄もあるのか、やさしさが伝わってきて、涙ぐみそうになりました。
竹の葉ずれや風の音も、演奏に合わせているかのようでした。国や言葉、それぞれの立場等々を超えて、心を通わせ、思いを共有できるすばらしさ、尊さが胸に刻まれたひと時でした。

農小屋の未来図をみんなで描く


当日は、お隣の大山崎町のふるさとガイドや、えごま油を復活させる会で活躍されている方や、長年竹に関する活動に参加されているみなさん、竹林の前の持ち主の方、竹林の向い側にお住まいの方も参加され、お祝いして頂きました。農小屋が、小さくても地域につながるきっかけをつくり、その輪が広がっていくように願っています。

農小屋には、筍掘りの道具などを仕舞います。また、竹林の作業は筍掘り以外にも幼竹伐りや、秋に藁敷き、冬に土入れなど、大勢でする仕事があり、そういう時にも活躍します。できる作業に参加して、多くの人がたけのこ栽培や竹林をきれいに整備し、保つことの大変さを知ることにつながればと思います。
また「伝統構法」で建てられたこの農小屋は、その見どころや日本の建築の初歩から教えてもらうことがたくさんあります。そして、青竹の雨樋や、それを受ける800kgの雨水タンクを埋めこむための地盤強化、足場がそのまま見えないように間伐した青竹を置くなど、自然に沿った構法や工夫にも着目です。石田さんと佐野校長先生、学生さんのチーム力があったからこそ、この日を迎えられたと感じます。

山の竹林の農小屋は、今年の卒業生と2年生のみなさんの、2年間の学校での学びの証です。松井さんと浅原さんが「壁の色や窓枠のべんがら色の赤が、どんな風に変化していくのか見たい。経年変化が楽しみ」と話していました。竹林の季節を感じながら、新しい集いの場となりますように、期待をこめてこれからもみなさんの取り組みを、しっかりお伝えしてまいります。

 

京都建築専門学校

京都の三味線職人と 職住一体の路地

京都のなかでも最も華やかな祇園界隈。顔見世興行決定の話題に湧く南座の近辺は、和装小物やぞうり、べっ甲、和楽器店などの専門店があり、三味線の爪弾きが聞こえてきそうな情緒を感じます。
「歌舞音曲」と言いますが、今まで縁のなかった邦楽のことを知る機会がありました。三味線職人であり、弾き手としても活躍するその人、野中智史さんの工房で話をお聞きしました。

棹や胴、皮張り、分業の三味線製作

野中智史さんの作られた三味線
三味線は多くの場合、分業制がとられていて、主に「棹」「同」「皮張り」に分かれて仕事をしています。
野中さんは棹作りです。工房には作業中の棹とともに、材料の木や様々な道具で埋まっていますが、整然とした感じがします。使う場所や作業の内容により、ノミだけでも何種類も使い分け、のこぎりや木づちまであります。

取材に伺った時は棹の修理中で、手元に置いた砥石でノミを研ぎながら、丹念に仕事をされていました。このような道具も、熟練の職人技で鍛えられたものですが、柄が継ぎ足されているなど、使いやすいようにカスタマイズされています。
何年も使い込まれたノミは、新しいものと比べると、先が、ずいぶんすり減っていました。まさに自分の手先となっています。三味線は通常三つ折りの仕様で作られますが、昔は「八折り」作らせて、職人さんの技を披露させた酔狂な人もいたのでそうです。

野中さんは、現在の工房の近く、祇園界隈で生まれ幼少を過ごしました。三味線や常磐津など邦楽を教える人も身近にいて、4歳から、けい古を始めたそうです。高校卒業後、伝統産業の専門学校に入学し、20歳の時に卒業制作の三味線を完成させたのが最初ということです。20歳の時、師匠のもとへ弟子入りを志願し、3回めにやっと承知してくれた時にかけられた言葉は「ただし、給料は払えない」でした。アルバイトをしながら師匠のもとに通い、やっと三味線で暮らしていけるようになったのは27~28歳の時だったそうです。
そして今日、京都に二人しかいない、棹作り職人の一人となって伝統の三味線作りを担っています。

野中智史さんが作った三味線の部品
三味線には、固くて緻密な木材である黒檀、かりん、紅木(こうき)が使われていますが、木目も美しい紅木が最高なのだそうです。実際にかりんと紅木の棹用の木材を持たせてもらいましたが、その固さと重さに驚きました。三味線の作り手がほとんどいなくなったと同じように、木材も枯渇してきて、あっても良い材が少ないということでした。危機には違いありませんが「良い音が出るなら、他の木でもいいのです」という野中さんの言葉に、悲観ばかりするのではない、こんな柔軟な思考がとても新鮮でした。かたわらのブリキの中には、木端がたくさん入っています。「捨てられなくて置いているのですが、修理の時に良い具合に使えて役に立ちます」ということでした。日々三味線に向かう、職人さんの言葉だと感じました。

いくつものけい古事のなかで唯一続いた三味線


野中さんは、先述したように幼い時から、芸事に親しんできました。謡、仕舞、踊り、常磐津のけい古もつけてもらったそうです。そして三味線だけは、途中で途切れることなく習い続けました。三味線の魅力を「フォルムも音色もすべてが美しい」と語る言葉に、好きを超えて、三味線と二人三脚のようにして、この楽器を究めていく姿を、垣間見た気がしました。
野中さんは、古くからの知り合いの依頼で、「ジャンルは色々、散財節」を、お座敷の宴席で弾いています。散財節とは「芸妓さん、舞妓さんを呼んで散財する」ことからきているとのこと。そういった粋なあそびをするお人が、まだいるいうことなのですね。最初に野中さんと会った時は、宴席での仕事が終わったところでした。銀鼠色の単衣に黒の絽の羽織を重ね、惚れ惚れする姿でした。
野中さんは「小唄くらいなら、だれでも気軽に始められます。初心者でも教えてくれるお師匠さんもおられますので、ぜひ、邦楽の世界をのぞいてほしい」と、思っています。また、芸術系の大学や、長唄三味線の方のワークショップ、お寺の檀家さんの集いなどで、講演mされています。縁遠い世界と食わず嫌いにならずに、一歩奥の京都へ、踏み出してみても楽しそうです。

「職住一体」京都の再生、あじき路地


野中さんは、若手の作家たちの、住まい兼工房が並ぶ路地の住人で、住人歴11年になります。空き家だった町家のある路地を再生して、若手作家が巣立ち、近所も含めて界隈の活気を生んだ例として、これまで様々なメディアで紹介され「京都景観賞」も受賞しています。西に五花街のひとつ宮川町、東に奈良の大和へ続く大和大路の間にある、この大黒町通は、町内が機能している地域です。

あじき路地を訪ねる時、目印になる「大黒湯」の高い煙突も、風景としてなじみ、路地にある現代アートのような手押しポンプもしっくりとけこんでいます。今回の取材を通して、ものづくり、職住一体、路地と町家といった、長年培ってきた京都の本来の姿は、まだまだ健在であることを認識できました。あじき路地には次々と魅力的な工房やショップができています。
東山区はことに変貌が激しかったここ数年ですが、暮らしのまちは脈々と生きています。

 

あじき路地
京都市東山区大黒町松原下ル2丁目山城町284
*工房もありますが居住もされていますので、訪問の際はご配慮ください。

京都西山のふもとに たたずむカフェ&バー

りっぱな門構え、広々とした敷地の中に、手入れの行き届いた庭に面して、家族で営むカフェがあります。つくばいに入れられた季節の花、また内装や建具にも細部にわたって心入れが感じられ「邸宅カフェ」と呼びたくなる趣です。

しかし、いかめしさはなく、心身が解きほぐされていく空間です。生まれ育った地域で、家族で紡いできた思いが、訪れる人の気持ちを優しくしてくれる大切な場所です。京都の西南、長岡京市の山裾にあるカフェ&バー「花平(かへい)」へお誘いします。

「花平」の名前に込められた思い

花平の外観

花平オーナーの妹の小百合さん
オーナーの妹の小百合さん

花平はオーナーの岡正樹さんと、妹さんの小百合さんの二人で切り盛りしています。50年前に建てられ、ここ20年ほど使われていなかった離れを活かしたいと考え、来た人にのんびり、気持ちのゆとりを感じてもらえるカフェを計画しました。小百合さんは、調理師免許があり、また正樹さんは、大学時代にバーでアルバイトをしていた経験から「昼間はカフェ、夜はバー」というスタイルに決まりました。

細い格子の建具、竹をイメージしてガラスに和紙を張ったバーカウンターの壁など、細部にわたって、明確なイメージがうかがえます。障子に工夫をした屏風式の間仕切りから、やわらかな光が差し込んでいます。木がふんだんに使ってあることも特徴です。岡さんは「木が多いと優しい気持になれるでしょう。僕自身がこういう雰囲気の所がいいなあ、こんな店にいたいなあと思う、そのイメージでつくりました」と語ります。
花平の床の間
この空間の要と感じられる床の間は、黒石を何枚も張り合わせてあり、典型的な和の様式でありながら、正樹さんの言うところの「和モダン」な雰囲気を漂わせています。「花平」の掛け軸は、いとこの方の、書道展金賞受賞作品を軸装されたものです。
岡家のご先祖は代々「平左衛門」を名乗り、名前には「平」が付けられていたそうです。父親の平一郎さんは、植木や造園の仕事をされていて、いけ花のお生花(おせいか)にも造詣が深く、人にも教えておられたそうです。
店名はそこから、お生花を能くされていた平一郎さんにちなみ「花」と、岡家ゆかりの「平」をつなげて花平としました。そして平一郎さんに「花を活けてもらおう」と、設えた床の間でしたが、残念ながら平一郎さんは亡くなられ、かないませんでした。花平にいて感じる穏やかな空気感は、このような家族の間に込められた情愛があって生まれているように感じました。開店から満一年を過ぎ、一度行くと「すてきな所があるよ」と、自慢したくなるお店になっています。

「チーム花平」が機能しています

花平の抹茶ゼリー花平のほうじ茶ゼリー
遠くからやって来る人も多い花平は、常連さんだけでなく、様々な人が交わることでさらに楽しくなる自由で開放的な雰囲気も魅力です。
カフェのメニューには、小百合さんが現在お茶どころ宇治に住んでいる利点から、お茶に関連するメニューが用意されています。老舗の茶問屋から入れている上質の抹茶を使用した「抹茶ゼリー」は、香りと、ふっくらした抹茶の風味が秀逸です。また新たに「ほうじ茶ゼリー」も登場し、こちらはまず、ほうじ茶の香ばしさが感じられ、すっきりした甘さが好印象です。秋の始まりを感じる季節によく合っていました。
花平のおばあちゃんのおはぎ
「これは必ず」と思っていたのが「おばあちゃんのおはぎ」です。おはぎ担当は現在89歳のお母様です。抹茶とほうじ茶のゼリーにも「おばあちゃんのあんこ」が使われています。粒の食感も楽しめて小豆の香りもよく、甘すぎず、さりとて素気ない「甘さ控えめ」でもなく、本当に年季の入った安定の美味しさです。小百合さんは思いの込もった口調で「おはぎにはどうしても、おばあちゃんの、と付けたかったのです。」と語りました。
運ばれてきたおはぎは、ほんのりと温かみが残っていました。おばあちゃんのおはぎは様々なことを伝えてくれます。小百合さんも我が家の味を大切にし、お母様を励ます気持ちもあわせて、メニューに取り入れたように感じました。


お住まいの母屋を、特別に見せていただきました。「文政三年 神足村大工なにがし」と書かれた棟札が見つかったという、寄棟造りの建物は、屋根にも非常に珍しい技法が用いられているそうです。
建物を支える堂々とした梁、毎日の煮炊きで煤けた鍾馗さんたち、職人技の力を感じる葭戸等々、今日まで継承されて来るには、さぞご苦労が多かったことと、その大変さを思いました。

花平のオーナー岡さん
オーナーの岡さん

岡さんと小百合さんは、「おはぎを作ったら近所へ配っていた」「お祭の時は親戚が大勢集まって、鶏のすき焼きをした。それも家で飼っていた鶏だった」など、子どもの頃の様子を、懐かしそうに話してくれました。幼い頃から見てきた習わしや家の習慣は、知らず知らずのうちに身に備わっていくのだと思います。
岡さんは、子どもの頃から「見てないようで見ていた」親の仕事、造園業を継ぎ、花平の庭木の剪定や庭の造作も自ら行い、頼まれて近所の庭の手入れもされています。植木職人とバーのマスターも、岡さんのなかでごく自然に同居できていることに感心します。バータイムには、静かにお酒を楽しみたい人が遠くからも訪れています。お客さんの好みや、時にはオリジナルでカクテルを作ってくれます。夜のしじまのなかの花平もとてもいい雰囲気です。
花平は、大きかった父親の平一郎さんの存在も含めて「チーム花平」で動いています。4月18日の開店1周年の記念日も、その後の営業も、コロナウイルスの影響で自粛せざるをえませんでしたが、再開し、ほっとくつろげる場がもどって来ました。

根本を大切に、さらに進化する花平

花平の外観
花平のある「奥海印寺(おくかいいんじ)」は、早くに集落が形成された歴史のある地域です。かつては山と竹藪に囲まれていましたが、宅地開発が進み環境が変貌した今も、旧村のたたずまいを感じることができます。
長岡京市は最高級の筍産地ですが、岡さんも筍を栽培し、地元の中学校で筍について講義をされています。京都縦貫道も開通し、環境がさらに変貌したなかで、地域の歴史や特産の農産物の大切さ、暮らしの営みを次世代へつないでいくことにも取り組んでおられます。
取材に伺った日は、残暑のなかにも秋の気配を感じられました。小百合さんは、庭のもみじの葉が、ついこの間までは緑色だったのに、気がついたら葉先が赤く色づき始めていたと、季節は確実に移ろっていることを教えてくれました。
縁側から入る午後の西日を、屏風のように仕立てた葭戸が和らげてくれました。秋から冬にかけて、縁側のひだまりが気持ちよさそうです。「根本を変えず、発想を変えて進化する」「自分が楽しいことをやる」この名言がかたちになっている花平の進化は、とどまることを知りません。

 

カフェ 花平(かへい)
長岡京市奥海印寺北垣外20
営業時間:カフェ10:30~17:00
◎休業日;日、月、火、水