暮らしの営みや 人とつながる建築の喜び

手入れの行き届いた竹林に、土壁塗りの趣きのある建物が見えます。前回の「京都の筍はふかふかの畑で育つ」で、お話を伺った石田ファームの石田昌司さんが依頼し、京都建築専門学校のみなさんが取り組んでいる「山の竹林の道具小屋」です。
これがなぜ小屋なのと感じる、伝統構法の建屋です。去年の冬からあたためていた構想は、完成に近づいています。五月の風薫る良い日和のなか、壁塗りの作業が進められていました。

伝統構法の得難い実体験


伝統構法の建屋は、石田さんが管理する「山の竹林」の中腹にあります。今の季節は、来年筍を採る親竹にする竹に印を付けて残し、他の丈の伸びた幼竹は固くならないうちにどんどん切らなくてはならないので、出荷が終わっても筍農家は息つく暇もありません。石田さんは、この仕事をしながら、道具小屋の進捗を見守り、時々自らも作業をしています。

建築を担当されているのは、京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の学生のみなさんです。民家や古材文化について造詣の深い石田さんは、京町家に関する集まりで佐野先生と出会い、そこから「建築と竹」の協同の取り組みが始まったそうです。この道具小屋は、今年卒業したみなさんが仮組みや足場つくりから、寒い冬や雨の中でも作業を続け、卒業ぎりぎりまで取り組んだ、思いが込められた建物です。その後を後輩が受け継いで続けられています。とかくスピード優先、早く結果を求める今、こうして一つ一つの工程をきちんと積み上げていくことはとても大切なことだと感じます。

竹の合間から中のお茶会の様子がうかがえる堀川茶寮

建築専門学校では毎年学園祭に、学校近くの堀川の河川敷に「堀川茶室」を建て、数寄屋建築のお茶室の雰囲気を市民のみなさんに気軽に楽しんでもらう「お茶会」を開いています。先生の指導を受けながら、学生のプロジェクトがすべてを取り組んでいます。屋根に葺く稲わらは、京北町で自分たちではさにかけて乾燥させたものを、学校OBの専門の職人に習って葺き、荒壁の下地には石田さんの真竹が使われています。
にじり口や茶道口もちゃんとあるこの堀川茶室は、2009年から出展している学園祭恒例の企画で、秋の堀川の風物詩と言っても過言ではありません。お茶部、お花部による道具立てやお軸、お花などもすばらしく、若々しいお点前も雰囲気を和ませてくれます。

また、向日市の放置竹林対策に取り組むNPO法人の活動に協力して、竹林の中に「竹のお茶室」もつくりました。その形状から「玉ねぎ茶室」と名付けられ、お披露目茶席にはお子さん連れでの参加もあり、みなさん自然を満喫しながらの一服という、とても新鮮な体験を楽しんでいました。
学生主催のお茶席に寄せていただいていつも感じるのは、伝統の技術とともに、その背景や骨子となる日本の文化や自然への、しっかりした視点が養われていることです。そこから建築に対する深い思いが醸成されていくのだと思います。お茶室は、本当に豊かな学校生活を送っているからこそ可能な、かかわったみんなにとって、忘れることのない共同作品なのだと感じました。

人とつながり新たな価値を生み出す

青竹で作られた雨樋が付いています

さて、卒業生から引き継いだ道具小屋です。伺った当日は佐野先生と2年生の松井風太さんが、壁塗りに奮闘中でした。松井さんは、社会人として仕事に就いて後、建築専門学校に入学しました。「これまでの仕事とはまったく違う建築の分野を、年下の同級生と一緒に勉強するのは楽しいですよ。それと職人さんの仕事は本当にすごいですね」と、今の学校生活の充実ぶりが言葉の端々にあらわれています。

京都建築専門学校の校長、佐野春仁先生と教え子の松井さん

道具小屋の壁は、割った真竹を縦横に縄で編んだ下地に荒壁を塗り、その上に壁土を塗り重ねています。実際は難しいでしょうが、見ているぶんには同じ調子でスムーズに塗っているように思えます。しかし、壁一面を仕上げるには、体幹をしっかりさせて壁に向かうこと、また鏝の使い方などいくつものポイントがあるようでした。時々、佐野先生が進み具合を見てアドバイスされ、松井さんが真剣な面持ちで聞いています。集中しながらも伸び伸び作業する様子が伝わってきました。

途中で土練りの作業がありました。去年の夏に稲わらをまぜ込み発酵させた土に、もみ殻もまぜ、さらに古い土を入れて発酵を促したそうです。土はここの山の土です。佐野先生は運搬車を動かすのもお手のもの、追加する土を運んで来ました。筍栽培に使われる赤土粘土は壁土にも具合が良く、竹も自前の真竹という身近に調達できています。
佐野先生は「壁塗りは無心になるからいい。すっきり塗るのは難しいけれど、素人の農家さんが荒土で塗った風情かな」と楽しそうに話され、その気持ちが鏝の動きに表れているようでした。

柱と桁などの仕口を固定するため木材、込栓

この道具小屋は、見どころが多くあります。木材は、杉丸太の皮剥きをして、「はつり」という日本独自の方法で、ちょうなという斧のような道具で表面を削り、今回は最後に電気かんなをかけて仕上げています。防腐塗料は石田さん推薦の塗料で、なかなか優れものとのことでした。
柱や梁などは、込栓(こみせん)や鼻栓、くさびなど木の部材で止めています。またこのような技術以外にも、縦に通した竹の雨樋からホースを通して、雨水を貯水タンクに貯めるなど循環を考えた工夫を取り入れています。

佐野先生は「かつての家づくりのどの場面においても、関わっている人たちの間に共感が息づいています。様々な多くの知識とともに、根底にある建築する喜びを知ってもらいたい」と、学生へのメッセージを送っています。
石田さんと佐野先生と学生たち、かかわった多くの人が喜びをともにする「道具小屋」の完成が待たれます。壁や柱も年月を経て、いい味わいになっていきます。それも大きな楽しみです。建築専門学校で学んだ日々が、学生のみなさんにとってこれからの礎になり、それぞれのところで生かされるよう願っています。
建都も優れた伝統技術を継承する工務店さんや多くの職人さんとともに、今後いっそう京都の建築とまちづくりに寄与してまいります。

 

京都建築専門学校
京都市上京区下立売通堀川東入ル東橋詰町
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山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

霧の亀岡 300年の歴史を刻む武家屋敷

前回に引き続き「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」一行を乗せたバスは、京と丹波の境となる老ノ坂峠を越え亀岡市へ。
亀岡市は、注目の明智光秀の築いた亀山城の城下町として栄え、森と水に恵まれ自然も豊かです。寒の内にしては穏やかな日和のもと、市内中心部から車で5分も走ると、まわりの風景が変わります。ほどなく、古い土塀と深い藪木立に囲まれた、堂々とした門構えの建物の前に到着しました。江戸幕府の旗本、津田藩の代官を務めていた「日置(へき)家」の屋敷です。

築300年の建物を可能な限り当時のままにし、多くの人が歴史的な建物に触れることができるようにと開店した「へき亭」です。地元亀岡の野菜や地鶏を使用した美味しいお料理とともに、おかみさんの日置道代さんのお話と、大切に継承されてきた建物や貴重な調度品の見学など、得難いひと時を過ごさせていただきました。

広大な敷地と周囲の景観も含めての歴史


日置家は代々、亀山城を正面に見るこの地で代官を務めてきました。敷地600坪という邸内には、自然の姿を感じる庭や、武道の鍛錬場、江戸時代に建てられた築300年の母屋、門の前の、平安時代から人々が京へ上った古道と道沿いの藪など、すべてが「代官屋敷日置家」の歴史を物語り、現代の私たちに伝えてくれています。

バスを降りた時、土塀と古びた道に魅かれたのはやはり、長い年月を経て来た存在が放つ力だったのだと感じました。この土塀や古道、趣のある入り口も含め、度々撮影に使われるそうですが、そのまま江戸時代となるロケーションですから、最高のロケ地でしょう。

玄関には、当主が二条城へ登城する際に使われた駕篭が置かれ、座敷には江戸時代末期に活躍し、円山応挙と並び称され、幕末画壇の「平安四名家」と評された、岸連山の襖絵や衝立が大切に保存されています。それは奥深く仕舞われているのではなく、今も襖や衝立としての役目で使われ、私たちも目の前にすることができます。中には、りっぱなゴブラン織りで仕立てた屏風もあります。これは道代さんが「300年の建物に合う調度品を」と探し求められたそうです。狩を楽しむヨーロッパの貴族の様子が見事に織り出されたゴブラン織りは、障子や床の間、掛け軸、甲冑など日本の家屋や骨董とも調和しています。

また日置家は、弓道の流派の一つ「日置流」の祖と伝えられ、岸連山の描いた鶴の襖の上方に弓がかけられていました。観音扉を開くとお仏壇があり、見せていただいた過去帳には「文化六年」「寛政十一年」と言った年号が書かれていました。ご先祖様も篤くお守りされています。玄関の様式にも代官屋敷の格式が見て取れるなど、数寄屋建築とは異なる見どころが随所にあり、限られた時間ではとても見きれませんでした。違う季節にぜひ訪ねたいと思いました。

集い、味わう場となった代官屋敷


おかみの道代さんは、代々の当主が現在まで大切に守ってきた歴史ある建物を「実際に見て、広く知ってもらいたい」との思いで、1994年(平成6年)「へき亭」を誕生させました。地元で収穫される、折々の季節の野菜や地鶏などを使って、ていねいに作られた一品一品は、素直においしいと感じます。「家庭料理をこの空間で味わい、ゆっくりしたひと時を過ごしてほしい」という、道代さんやスタッフのみなさんの心入れが隅々までゆき渡った、本当に心がほっとする時間でした。
明治維新後、多くの城郭や武家屋敷、寺院など伝統的な建造物が姿を消していきました。そのような中でこの日置家を、増築をしながら古い建物を補修し、当時の姿を保ち、
次世代へと受け継がれてきた道のりは、並大抵ではなかったことは容易に察せられます。広く知ってもらえるように大きく舵を切り、へき亭をつくったことも、決断のいることであったでしょう。これまで代々のご当主をはじめ日置家のみなさんが、使命感や覚悟を持って守ってきたこの空間を、これからは私たち一般市民も「かけがえのない預かりもの」として、保存継承にかかわっていく時代なのだと改めて感じました。もっと言えば「かかわることができる」時代なのです。

新しい役目を持った日置家の「へき亭」は、当主以外は家族さえも許されなかった客間に誰もが入ることができ、美術館級の襖絵や調度品も惜しげもなく、本来そこにあったかたちで置かれています。しかし威圧感ではなく「ちょっとおじゃまします」といった気分で拝見ができます。このように感じることができるのも、へき亭が「建物は人が住み、暮らしていたところ」としての根がしっかりあるからではないかと思います。身分の高い武家の屋敷であっても、暮らしの営みが感じられるところが、へき亭の大きな魅力なのだと感じました。

藪を通り抜け、木々に耳を澄ます


道代さんに見送られて、へき亭を後にし、京都府森林組合連合会アドバイザー前田清二さんの説明を受けながら古道を歩きました。古道に沿って深い藪があり、見上げるほどの樫の大木もあります。木をよく知った人なら、幹を叩いてみれば、中にうろ(空洞)があるかどうかわかるとのこと。うろがあれば直接、木の音が響くそうです。また棕櫚の木を何本も見かけましたが、梵鐘を突くしゅもくの先に棕櫚の皮を巻くと、良い音が出るそうです。お寺の庭で時々棕櫚の木を見かけるのは、そのためと説明されました。森を歩くと思わぬことを知ることができます。

のどかな野道を行くと、草が萌え始めていたり、畑の梅のつぼみがふくらみかけていたり、先々で春を見つけます。亀岡は、晩秋から早春にかけて、度々「丹波霧」と呼ばれる深い霧が立ち込めます。この霧は、乾燥する時期に森や畑に水分を与え、木や作物に恵みをもたらせてくれると聞きました。この美しい季節の風物詩の霧を、亀岡の特色としてアピールされています。1月には「かめおか霧の芸術祭」が行われました。

次に訪れたのはへき亭の近くにある、その名も「KIRI CAFE」(キリカフェ)です。古民家をリノベーションして、霧の芸術祭の拠点としてオープンした交流スペースです。芸術系大学の学生さんの陶器の作品や、近隣の農家さんが収穫した生き生きと元気の良い野菜が並んでいました。ストーブの上のお鍋から湯気が立ち、それも気持ちをあたためてくれます。2020年内の限定でオープンされたそうですが、ぜひ継続してほしい居心地のよい空間でした。

へき亭もKIRI CAFÉも、単に歴史のある武家屋敷、おしゃれなカフェという所ではなく「この土地と家を受け継ぎ生かして、多くの人にその良さや力を知ってほしい。それが新たな人と人のつながりになる」という熱い思いが、すばらしい場をつくっていると感じました。建物や森は、人がきちんと手をかけることで、人よりずっと長い命をつなぎます。そのことを考えることができたことはとても良い体験となりました。

京の茶室文化 数寄屋建築を支える木の文化

京都の特徴的な文化の一つ、茶室・数寄屋建築は、林業、木材の製材・加工、大工など、多様な職人の技や知恵によって支えられてきました。
実際に現地を訪れ、木の文化の源流を学ぶツアーが「林業女子会@京都」主催、「京都発 火と木のある暮らしの提案」でご紹介しました「京都ペレット町家ヒノコ」共催により2日間にわたって開催されました。
講師は職人さんや、建築、木材の専門家という特別企画の、数寄屋建築と庭園、銘木加工、製材所見学コースに参加しました。その様子を3回続けてお届けします。

その1、日本文化の精神を感じる建築と庭


京都御所の西側の静かな住宅街に、古風な門が見えます。門から路地を入り、さらにもう一つ門をくぐると、数寄屋建築の建物と手入の行き届いた広い庭があります。ここが日本文化と歴史を伝える場としてよみがえった「有斐斎弘道館」(ゆうひさいこうどうかん)です。
江戸時代中期の京都を代表する儒者、皆川淇園(みながわきえん)が創立した学問所跡に建てられています。このあたりは「どんどん焼け」とも言われた、京の町を焼き尽くす幕末の大火に見舞われましたが、明治時代から昭和にかけて増改築された建物が現在の弘道館です。約550坪の庭に、二つの茶室と広間のある建物は、お茶事をはじめ日本の伝統文化を学ぶ場となっています。

今回のツアーでは、京都建築専門学校副校長、建築史家の桐浴邦夫さんから、数寄屋建築や茶室の見方や歴史について説明していただきました。
室町時代、東山山麓の慈照寺(銀閣寺)のように、風光明媚な自然のなかで行われていた茶の湯は、次第に市中の富裕層の間に広がっていきました。
当時の人々は、自然に乏しい町なかでも、建物の土の壁や木から、自然を感じることができるよう工夫し、それを理解する感性を備えていました。そしてこの「侘数寄」(わびすき)の風趣は、小堀遠州に代表される、自由で明るく洗練された「きれい寂」(さび)という美意識へとつながっていきました。

弘道館の茶室は、この侘数寄ときれい寂の両方を兼ね備えていて見どころが多く、何回も訪れるなかで今まで気がつかなったところが発見できる楽しみがあるとお話しされました。また「日本の庭は、より自然に近づけるかたちで人工的に造ります。自然の要素と人工的なものをどう組み合わせるか。いろいろな技術を駆使しながらも、それを露骨に見せないことが、外国の庭園と大きく違う点です」と説明されました。こうして茶室や庭の見方の概略を聞いたうえで見学するのと、ただなんとなく見ていたのでは大きな違いがありました。

より自然に近づける卓抜した技術


六畳の茶室「有斐斎」は、床の間の内壁の墨蹟窓、高い天井などに特徴があります。これまでと同じ茶室にすることに異を唱える人があらわれ、お客様をもてなすという意味合いで、点前座を狭く、お客様の場所を広くとっています。

また、床の上部に竹材が使われていますが、よく見ると漆が施されています。高い所でもあり、最初は気がつきませんでした。すぐには見えない所にも技と工夫を凝らし、木の選び方や削り方なども、荒々しくする人、優しくする人など職人さんの気性や感性が伺えるそうです。

一方の茶室「汲古庵」(きゅうこあん)は、「表千家八代 卒啄斎(そったくさい)好み七畳」の茶室の写しです。卒啄斎は、自由に遊び心を取り入れる風潮にあったお茶に厳しさを求め、もう一度侘び数寄の世界へもどり、自然を感じようと取り組んだ人です。
特殊な加工や材を使っているわけではなく、土壁と丸太で素朴さを表現し、より心で自然を感じるつくり方になっています。「茶室は極限の広さの空間でお茶を点て、喫する場であり、狭いほど客と亭主の緊張感が生まれる。」とのお話に、先人のお茶人たちの心を推しはかる気持ちになりました。茶室は亭主と招かれた側が織りなす、一期一会の物語なのだと感じました。

歴史と文化を五感で感じる場


現在の有斐斎弘道館は、以前にも和の文化サロンとして活用されていましたが、2009年に建物と庭を取り壊し、マンション計画が持ち上がりました。すでに御所近くの町家も次々と姿を消す中で、庭や路地、茶室と、日本の文化が凝縮されたこの場は、なくなれば二度と取り返すことはできないと立ち上がった、研究者や企業人などの有志による奮闘と尽力で、保存が成し遂げられました。それが現在の弘道館の礎となり、2013年には公益財団法人化され、有志のみなさんによる活動が続けられています。

当日は、フランスからのお客様を迎えてのお茶会の準備で、財団理事の太田達さんはじめ、みなさんお忙しくされていましたが、とても丁寧におもてなしいただきました。お茶会のテーマは平安時代から11世紀までの桜ということで、それにちなんだすばらしい室礼でした。吊釜が掛けられ、炉縁は花筏、生垣は望月ので、これは「花の下にて春死なむ この如月の望月の頃」と詠んだ西行の歌にちなむなど、太田さんのお話に「もっと和歌や文学、歴史の素養があったら、どんなにこの場を楽しめたことか」と、つくづく思いました。

お菓子は今年の歌会始の御題「望」にちなむ「令聞令望」を頂きました。お茶は銘々、違茶碗を出していただきました。
太田さんは京菓子調進所のご当主です。「昔は政治家や経済人でもスケッチを持って来て、こういう菓子を作ってほしいと言ったものですが」と言われました。桐浴さんの「利休は、工務店の親父みたいなもんだったし、戦前は茶人が茶室を設計する例が多かったのです」という話も興味深く聞きました。

弘道館は、2019年7月7日に再興10周年を迎え、様々な企画が行われています。畳に座った視線で眺める庭、障子越しに差す光、湿りを帯びた苔の匂い。そして茶室という静謐な空間。
自然を大切する日本の美意識や伝統文化、職人の技を未来に伝えるために、弘道館という空間のすべてが必要なのだと得心しました。維持管理には、資金はもちろん、庭の手入れなど多くの人出が必要です。ぜひ多くの人が、その担い手になっていただけるよう願っています。手始めにご自分の好きな講座や企画に参加してみてください。

 

公益財団法人 有斐斎 弘道館
京都市上京区上長者町通新町東入ル元土御門町524-1