地元や氏子で守る 豊かな水の恵み

川の流れがやわらかな日差しにきらきらと輝いています。光の春の訪れです。まちなかを歩くと、京都は豊かな水の都であることをあらためて感じます。川や運河があり、名水の湧く井戸があります。伝統の生業や物資の運搬にと役割を果たして来た流れや湧き出る水は、今も枯れることはありません。身近にある水の恵みをたどりました。

歴史ある番組小学校の地域の「銅駝水」

二条大橋から見た鴨川
二条大橋のたもとから見る風景はまさに「山紫水明」。まちの中心部を流れる鴨川と、ゆるやかな山並みを見渡す眺めは、やはり京都の象徴です。そこから少し北へ行き、静かな通りへ入ると「銅駝会館の銘板のある建物の前に「防火用」のプレートと蛇口があります。これがおいしい水の名が高く、毎日多くの人が汲みに来る「銅駝水(どうだすい)」です。
銅駝水
この地域は明治2年(1896)に開校した「上京第三十一番組小学校」の歴史ある校区です。銅駝小学校、銅駝中学校、そして京都市立銅駝美術工芸高等高校(美工)となった今も、教育熱心で自治の意識の高い「銅駝学区」が継承されています。そして銅駝水も、銅駝自治連合会で維持・管理し、水質検査も受けています。
銅駝水
利用者からの募金の使いみちを美工の生徒が描いた楽しいイラストで紹介するなど、学校と地域とのつながりを感じます。水を汲みに来た方に聞くと「この水でいれたコーヒーは最高です」という答えが返ってきました。汲み終えると「いつもありがたく汲ませてもらってますので、わずかですけどね」と協力金を入れて帰って行きました。
一年中24時間、だれでも自由に汲めるおいしい水。それは「自分たちのまちは、そこに住む人も参加して一緒に考え、守っていく」という地元のみなさんの努力のたまものです。150年余の歴史を刻む番組小学校の自治の伝統が脈々と受け継がれています。
京都市立銅駝美術工芸高等学校
銅駝会館に隣り合う京都市立銅駝美術工芸高等学校、通称美工は、日本で最初の画学校として明治13年(1880)に創立されました。校舎は昭和14年(1939)に7年かけて完成したコンクリート造りアールデコ様式のモダンな建物です。千年の都、京都は近代建築もしっくり調和するまちです。これからも美工と銅駝水が、地域のつながりの象徴として存続することを願っています。

疫病退散、怨霊を祀る神社の伝承の水

下御霊神社の鳥居
墨、お茶、骨董などの和文化の老舗と、明治創業の洋菓子店や画廊、ハンドメイドの雑貨店など和と洋、新旧が一体となった寺町通は、さんぽ気分でゆっくり歩いてこそ感じられる魅力があります。
朱塗りの鳥居を構えさらに正門、拝殿、本殿へと続く土塀をめぐらせた神社は、平安時代初期の神泉苑での御霊会を起源とする下御霊神社です。冤罪によって亡くなった菅原道真公をはじめとする七人の貴人の怨霊をなぐさめ、疫病厄災を退散させる「御所の産土神」として天皇、貴族、町衆に敬われてきました。
下御霊神社の手水舎下御霊神社の手水舎
正門を入ると手水舎があり、清らかな水がたたえられています。この水は、江戸時代の明和七年に京の市中が旱魃に見舞われた際、下御霊神社の神主さんが夢のお告げによって境内を掘ったところ清冽な水が湧き出て、人々に飲ませることができたと伝えられています。井戸の跡は残りませんでしたが、この当時と同じ水脈の地下水が「御霊水」名付けられ、今も多くの人がその恩恵にあずかっています。手水舎は手入れが行き届き、柄杓を置く青竹がいっそう清浄な雰囲気を漂わせています。

平成の始めに御霊水として復活してから毎日、汲みに来ているという方と出会いました。「名水と言われる他の所のお水も汲んで来たことがありましたけど、主人が、ここのお水でいれたコーヒーが一番や、よそのやと味が変わる言うて」と、少し微笑んで話してくれました。そして「それで毎日汲ませていただいて、主人にお供えしています」と続けました。
下御霊神社の梅下御霊神社
境内は八重咲の紅梅が咲き誇っています。社殿は宮廷神殿を伝えるものとして貴重であり、大門の梁の龍や、玄武と朱雀に乗った仙人の彫刻など、見どころもたくさんあります。これだけの建造物を、修復を重ねながら維持保存していくのは並大抵のことではないと思います。御霊水を汲みに来るみなさんも含め、ぜひ多くの人に身の回りの歴史に関心を持ってもらい、協力してもらえたらと思いを強くしました。

水と親しく暮らす京都の水の文化

高瀬川一之船入
高瀬川沿いの桜のつぼみの先が、そろそろふくらみ始める頃になりました。川べりにぼんぼりが灯る桜の時期の風情、また力強い若葉が影をつくる頃の散策も楽しいものです。
物資を積んだたくさんの高瀬舟が行き交った川は、今の時期立ち止まる人もなく静かに流れています。観光用に飾られたものではない、もとの京都の姿を感じられます。
以前、高瀬川を開いた角倉了以の子孫の方が「了以が考えていたことは、高瀬川から淀川を下り、外国へ出たかったのではないか」と語られていたことが今も記憶に残っています。先人の抱いた、苦労にも勝る夢があったことは、今を生きる私たちにも大切なことを教えてくれている気がします。

食文化、染織、農業など水とかかわる仕事は多くあります。水が磨き、育んできた文化とも言えます。身近に川が流れ、おとうふやお酒、お醤油が地元で作ら京野菜が育てられる、この京都の水の文化を大切にしていきたいと切に感じました。

 

下御霊神社
京都市中京区寺町丸太町下る下御霊前町634

京都発 木と火のある暮らしの提案

時雨れて底冷えのする京都。火のぬくもりが恋しくなります。薪や炭、またペレットなど、木からできる燃料の良さを広げ、木と火のある暮らしを始めようと取り組んでいる会社があります。それぞれができる、小さなことから始め、その積み重ねが、私たちの暮らしを豊かにし、京都の森を再び元気にすることにつながると語ります。名付けて「薪炭革命(しんたんかくめい)」。

だれもが参加でき、出入り自由のほのぼのとした革命は、しかし進めるのは容易ではありません。これに果敢に取り組む、株式会社Hibana(ひばな)のアンテナショップであり活動拠点の「京都ペレット町家ヒノコ」で、代表の松田直子さんにお話を伺いました。

木と火のものが集まっている町家


バイオマス、ペレット。名前は良く聞くけど何だろう。バイオマスは、生物(bio)由来の物質(mas)のことを指し、木が由来のものを「森林(木質)バイオマスと言います。地球温暖化が世界中の大きな課題となっている今、注目を集め次世代の再生可能エネルギーとして期待が高まっています。間伐材や端材、おがくずなどの粉を固めて粒状にしたものが木製ペレットです。
松田さんは、熱帯林や日本の林業に関心を持ったことから「燃料としての活用」に至り、NPOで森林バイオマスの普及活動に取組んできました。より多くの人へ広げるためには、会社の設立が必要であると考え、2006年にバイオマス研究会で一緒だったメンバーと二人でHibanaをたちあげました。「いつまでも人の心を和ませ、ぱちぱちとバイオマスの火を灯していけたら」という気持と決意をこめて社名としたそうです。

Hibanaが運営する、アンテナショップであり、環境や森林にかかわる団体や関心のある人々のプラットフォーム「京都ペレット町家ヒノコ」は、前回ご紹介しました村上開新堂のすぐ近く、京都市役所北側にあります。
「京都ペレットあります」ののぼりと「森の燃料 道具 雑貨など」の木の看板の脇に、まな板や赤い色がかわいい火ばさみや灰すくい、木のクラフトが並んでいます。寺町通りのそぞろ歩きを楽しむ人たちも足を止め「この道具、懐かしい」「桧のまな板っていい匂い」などと話したり、商品を手に取ってみています。

建物は大正時代に建てられた京町家です。走り庭と呼ばれる台所のたたきも残り、知り合いの家へ来た気分の、気兼ねなく過ごせる空間になっています。店内は、木と火にかかわるもののワンダーランドです。ペレットストーブ、炭や火おこし、七輪、スプーンやお箸、食器、アクセサリー等々、何時間いても飽きることがないと感じる空間です。

愛嬌たっぷりの大きなピンクのぶたは、ペレットグリルです。イベントに貸し出され、実際にバーべキューに使われて、木の燃料の使用を呼び掛ける広報の一翼を担う人気者です。
クリスマスが近い季節柄、サンタやかんなくずで作られたリースや花が、冬の楽しさを盛り上げています。積み重ねて仲間や家族を増やしていけるネコのおもちゃには、一つ一つ木の名前が刻印されています。
商品展示もとてもセンスが良く、作家さんや森林の仕事をする人々とヒノコの、森や環境に対する深い思いと愛情が伝わってきます。無理せずに、木や火のある暮らしを始めるよいきっかけの場となっています。

ヒノコは森と人のプラットホーム


ヒノコの2階は、イベント、教室、展示会やミーティングなどに活用できるレンタル空間です。元写真館だったという建物の2階は、高い天井、漆喰の壁、大きくとった窓など、建物の魅力を感じます。ここでは、できるだけ京都産のエネルギーを活用できる設備や道具を備えています。炉を切り、床の間を設えた和室もあり、幅広い目的、企画での使用が可能です。

ペレットストーブ、ペレット七輪、炭火を使う昔ながらの火鉢や七輪、人数によって調整のきく可動式のメインテーブル、大きなドングリ型の火鉢、木地師のていねいなつくりの器などを使用することができます。壁には250種類の木からつくられた彫刻の作品「木の卵」が並んでいます。卵にはそれぞれの木の名前が添えられています。コシアブラ、カリン、枇杷、イチイガシ・・。制作者の思いから、すべてを、手に取りさわることができます。作品を手に取ること、七輪や火鉢に火を入れることは、火事になったら、やけどをしたら、作品を傷つけたらなどの心配が尽きません。しかしヒノコは「どんどん使ってください、さわってみましょう」を実践しています。太っ腹です。
壁の漆喰はスタッフが集まって塗ったそうです。大変でしたねと言うと「楽しかったですよ。この建物のこともいろいろ知ることができましたし」という答えが返ってきました。和室の片隅には、子どもの木のおもちゃも用意されています。空間まるごと木の心地良さと火の力を体験できます。

木のエネルギーの地産地消をめざして


障子、畳と長火鉢に鉄瓶。ペレットストーブのやわらかな暖かさが心地よい部屋で話を伺いました。バイオマス普及のため、もっと認知度を高めたい。そのためには、まちなかへ打って出ようと考え、この町家にめぐり合い移転して10年がたちました。
事業化して必死に活動を続けるなかで、松田さんが気にかかったのは、70%を森林が占める京都市の木の燃料が少ないことでした。他の地域から運んでいては輸送コストや環境面での負荷が大きくなってしまいます。そこで、京都府内で初のペレット製造会社「森の力京都」の設立にかかわり、実現させました。「京都ペレット」の誕生です。
ペレットストーブは、国産メーカーができたのが2000年で、一般に認知され始めてまだ十数年しかたっていません。海外では普及していて、韓国や中国でも増えているそうです。先進国のなかで唯一ペレットが広まってないのが日本という現状です。

松田さんはペレットストーブについて「都心部や住宅街でも比較的設置しやすく、日本の住宅事情に合っている」と語ります。取り付けはエアコンに近い簡単な工事ですみ、ペレットを燃やすだけなので、手軽に扱うことができます。「ちょうど家電と薪ストーブの中間、両方のいいとこどりした暖房機」なのだそうです。
ただ松田さんは、購入を検討する人に対して「ペレットストーブの良い点だけでなく、こういうこともありますよ」と伝えることが大切だと言います。灰の掃除や燃料を毎日補充しなければならないことなどです。その多少の「不便さ」とも付き合いながら、木や火を身近に取り入れる暮らしを始めてみませんか、という提案です。ヒノコの種々のリーフレットには、森や山々に木を植えた先人への思い、多くの人とかかわれる場の大切さが、真摯に熱く、そして深くわかりやすく書かれています。環境やペレットに関しての入門書としてもうってつけです。

ペレットストーブに使う木質ペレットは、地域の山の木でつくられています。
今は小さな単位であっても、木質ペレットを製造することでその仕事にかかわる雇用も生み出すことにもつながります。またペレットストーブはアフターメンテナンスが伴うので、その部分を担う仕事が生まれます。スト―ブ製造、燃料製造、輸送、販売、メンテナンスという地産地消ビジネスです。
Hibanaは、エネルギーと森林、木質ペレット、クラフト、そして私たちの暮らし、すべてが循環していること、少しの手間や煩わしさは、本当の豊かさをもたらすことに気づかせてくれる身近な存在です。

 

株式会社Hibana(京都ペレット町家ヒノコ)
京都市中京区寺町二条下ル榎木町98-7
営業時間 10:00~19:00
定休日 水曜日

洋菓子の香り漂う 京都寺町二条

クリスマスの華やかな色があふれる繁華街をよそに、古美術、墨、お茶、洋菓子などのお店やギャラリーや書店が並ぶ寺町二条界隈は、いつもと変わらない静かな雰囲気です。文化芸術系の店舗に交じり、暮らしを感じる鮮魚店や青果店が軒を並べています。目を引く、町並みに調和した木造の白い洋風建築は、明治40年、御所近くのこの地に開業した洋菓子の草分け「村上開新堂」です。ドアを開けてみましょう。

村上開新堂のお菓子の系譜


村上家は代々宮中に奉仕し、遷都の際には東京へ移り、引き続き御用を務めました。京都村上開新堂初代となる清太郎氏は、伯父にあたる、東京村上開新堂の初代、村上光安氏に洋菓子の製造を習い、明治40年に現の地に開業しました。

その後、各種博覧会の審査員に推され、東京大正博覧会では金杯を受賞。大正から昭和期には、現在の大丸松坂屋の食堂の喫茶部門を任され、各種学校や自治会からの注文も多く、地元に支持され、名実ともに第一級の西洋菓子舗となりました。バターやミルクの味や香りに初めて出会った当時の人々は、その話題に花を咲かせたことでしょう。
大正時代には、初代によって、紀州のみかんを使ったゼリー「好事福蘆(こうずぶくろ)」が完成しました。今も当時と同じ味わいと意匠が受け継がれる代表銘菓となりました。こうして、村上開新堂のお菓子は広く知られるようになりましたが、昭和15年頃には、砂糖が配給制となり、約10年間休業を余儀なくされました。しかし昭和26年に再開を果たし、ロシアケーキや缶入りクッキーなどの焼菓子が製造されるようになりました。

村上開新堂のお菓子は、素材の良さと、ていねいなつくり方がそのまま伝わる、てらいのないシンプルな美味しさです。好事福蘆は「ふたにも果肉が残っていますから、搾って召し上がってください」とお店で教えられたとおり、ゼリーに搾ると、たっぷりの果汁に、たちまち香りが立ちあがってきました。11月から3月までの限られた季節の味です。
ロシアケーキは、はじめサクッとしてほろっとする、独特の食感です。赤いチェリーや橙色のあんずジャムが乗った形も楽しくなります。今では製造している所は全国でも数店しかないそうです。焼菓子は均一的ではなく、それぞれの個性が感じられます。「素朴で懐かしい」という言葉では言い尽くせない深い味わいに、老舗の味を感じました。

文化歴史博物館さながらの店内

明治の三筆と言われた書家が揮ごうした店名額


焼菓子4種類と、ロシアケーキをお願いしました。箱詰めや包装ができるまでに少し間があり、店内を見させていただきました。漆喰の壁、高い天井、木製の棚、照明具もとても凝ったつくりです。古いガラス、モザイクのようなタイルも今では製造されていないものです。「開新堂」の扁額は、明治の三筆と言われた「日下部鳴鶴(くさかべめいかく)」の揮ごうとのこと。元彦根藩士で、大久保利通に使えたこともある書道家なのだそうです。店内にはこんな歴史の素材も見つけることができます。

天井には、今ではすっかり見ることもなくなった気がする、箱にかける紙ひものロールがつられています。従業員さんの包装紙で包んだり紐をかけてゆるみなく結ぶ様子に見入ってしまいます。今の暮らしのなかで「待つ」ことができなくなっていると感じます。
しかしここでは、待つことができるというより「待つことを楽しめる」のです。90年たった建物は、衰えも感じさせず、日々愛おしんで手入れされているのだなと感じました。

お菓子の箱は、銀ねず色にエジプト文様の包装紙に、ぶどう色の紐が良く映えて、きりっと結ばれています。そして包装を取ると、なんと掛け紙に幅広の真っ赤なリボンが結ばれていました。これを、お使いものにしたらどんなに喜ばれることか。今の暮らしのなかでは、贈答、お使いものという言葉も行為も少なくなっていますが、村上開新堂のお菓子とその包みは儀礼だけではない、相手を思いやる自分自身の心のゆとりが持てる贈物があるということを教えてくれた気がしました。

「村上開新堂らしさ」ということ

和紙が張られた壁と北欧家具のマッチング

四代目の村上彰一さんは「昭和初期の建物の中で、お菓子を味わいながらゆっくりしてもらいたい」と、店舗の奥の和室をカフェとしてリノベーションしました。
店舗からカフェへの通路は茶室の路地のような趣きです。カフェは個性の異なる三つのスペースからなっています。正面に坪庭の見える広いスペース、壁に黒谷の和紙を張った、照明の陰影が美しい二人用茶室を改装したクラシックな雰囲気の三つです。内部は、鶴の透かし彫りが施された床の間の羽目板や、竹を瓢箪の形に細工した欄間など、職人の技とセンスがあちこちに見られます。

錫で囲われたカウンター
カフェの席からは坪庭が見えます

濡れ縁と庭が見える場所は、季節の移ろいを感じることができます。そして濡れ縁へ出ると店舗と隣り合っている工房でお菓子を焼く、甘い香りが漂ってきて幸せな気持ちになれます。だれも考えたことのない錫のカウンター、北欧の家具や入口の李朝のタンスも違和感なく心地よく調和しています。

彰一さんはまた、お店としては35年ぶりとなる新商品をつくりました。クリームのようになめらかでコクのあり手みやげにもなる、その名も「寺町バニラプリン」と、アーモンドの香りが豊かなマドレーヌ、苦みのある塩キャラメルが味を引きしめるダックワーズです。「これまでの味をしっかり守っていきたいと思います。ただ変えないというのは何もしないということではありません。新しいことも必要です。トレンドに流されずに、しかも若い世代へのアプローチできることが必要です。新しいことのかたちがカフェでありプリンなどの新商品です」と語ります。

そして村上開新堂らしさとは、シンプルであきのこないお菓子、そしてこの場所のこの建物で営業を続けるということまで含めてのことです。その意味で、カフェの開設やプリンなど新商品の開発は、まさに村上開新堂らしい新しい一歩です」という明快な言葉に、四代目の矜持と、流されない芯の通った自信が伺えました。
取材の時、60代と思しき男性のお客様がカフェにみえ「子どもの頃から、ここのロシアケーキをよう食べてました」と、思い出につながるお菓子に久しぶりに出会えて懐かしそうでした。四代目、彰一さんが語った「この場所に、この建物が存在していること」の大きさと深い意味を感じた取材でした。
建都も地域に根付く企業として、これからも京都のまちとと営みが継承されるために、力を尽くしてまいります。

 

村上開新堂
京都市中京区寺町二条上ル東側
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜、祝日 第3月曜

暮らしながら活用する 西国街道の旧家

白壁の土蔵に塀、堂々とした門構えの民家が点在する石畳の道は束の間、昔の街道の雰囲気を感じることができます。
西国街道に面して建つ中小路家住宅は、平成20年、向日市で初めての国登録有形文化財に指定されました。この京のさんぽ道で「400年の歴史を刻む西国街道の旅籠」富永屋、「旧家に灯る地域を照らす灯り」中野家住宅に続き、西国街道の歴史を伝える古民家の3回めは、住まいである建物を「地域のサロン」として活用する道を選んだ中小路家住宅の中小路多忠也さん、睦子さんご夫妻にお話を伺いました。

今につながる170年ぶりの改修


中小路家の祖先は、菅原道真の一族で、大宰府へ従った後に、京都へもどり、道真を祀る長岡天満宮を造営したと伝わっています。中小路家に伝来する古文書などから、400年近く前から現在地に住まわれていたと推定されています。家の西側には、都のあった長岡京時代には、外国からの使者を乗せた船が着いた小畑川が流れています。現在の建物は170年前に建てられてから内蔵の増築など多少手を加えたところはありますが、座敷まわりは今日まで大きな変更なく維持されてきたことがわかっているそうです。

歴史のある建物は、現代の暮らしには不向きな部分があることを、これまでの取材のなかでお聞きしました。「虫籠窓は素通しなので風や虫はもちろん、鳥やヘビまで入って来てました」という睦子さんの話に仰天です。お母様が高齢になられたことから、寒さ対策と段差をなくす「中小路家の平成の大改修」と言えるリフォームで、安全で快適な住まいにされました。そして、ほぼ同時期に国登録有形文化財の打診があり、指定を受けました。そこで「遠くへ出かけなくても、近所で音楽を聞いたり、みんなが集まって楽しいことができたら」とイベントを企画して喜ばれ「活用しながら保存する」活動が始まりました。

小林かいちコーナーの前で当主の中小路忠也さん

内へ入ると、忠也さんが好きな竹久夢二の絵や、ご子息とのご縁のある、大正から昭和にアール・デコの画風で活躍した京都の画家「小林かいち」のコーナーなど、時代を経た和の空間にモダンな雰囲気がいい感じに調和しています。襖や神棚もあるスペースは、知り合いの家へ来たような気分になります。手さぐりで始め、それから10年。中小路家住宅は、人がつながり、様々な文化に触れる地域のサロンになりました。

ずっと来られるように、元気でいたい


畳敷きの座敷や洋間を会場に、様々なイベントが行われています。クラシックやジャズ、浪曲や落語、能、人形浄瑠璃等々ジャンルを問わず驚くほど多彩な企画です。お客さんが希望した企画が、お客さんの「つて」で実現するなど人のつながりが企画の輪を広げていきました。歌声喫茶やジャズコンサートはロングランの人気企画です。また、娘さんも強力な助っ人です。「手書きでない回覧板にしたい」「年賀状をパソコンで作りたい」などの要望があり、娘さんの指導による「パソコン教室」も開かれるようになり、そこから、お茶、アクセサリー、ピアノなど教室も増えていきました。パソコン教室は「スマホ教室」的になるなど進化もしているそうです。

奥さんの睦子さん

インターネットで中小路家住宅を検索すると、よく「喫茶」でヒットしますが、この喫茶室の始まりもお客さんの声でした。
イベントの時、飲み物をサービスしていたところ、回を重ねるうちに「普段もここでゆっくりお茶したい」とリクエストがあり、さらに「何かちょっとしたものが食べたい」となり、ケーキやオムライスなどメニューが増えました。家を公開してイベントを企画した段階で、睦子さんが喫茶の学校で勉強し、飲食提供に必要な内容を取得されています。

取材時に見えた常連のお客さん

多くの人が注文するオムライスは「ああ、この味」という、なじみのあるおいしさです。お客さんは、今どきのふわふわした卵の厚みのあるオムライスはお好みではないそうです。「注文ごとにオムライスを作るのは大変ではないですか」と聞いた時「いつも子ども達に作っていたので」と、ほほえんで答えました。「ここへ来ると落ち着くし、楽しい。これからも来られるように元気でいようと思う」とは、取材時に見えた常連のお客さんの言葉です。
地域にあってほしい、人と人が言葉を交わし、気持がやさしくなれる場所です。

これからを考えながらも今日も楽しく


今、お二人が心配しているのは地震などの自然災害が起きた時のことです。忠也さんは「想定外のことが起きた場合、お客さんに何かあったら大変です。耐震について工務店などとも相談しましたが、こういう古い建物は難しいようで、まだこれといった対策が決められていないのです」と話されました。昨年の台風では、蔵の壁の漆喰が一部はがれてしまったそうです。部分的な補修だけではだめで、全体を塗り直さないとならないそうです。こういった補修など維持管理費は大変なものであることは想像に難くありません。「それにだんだん歳もいくしね。いつまでできるかな。最初は10年だけのつもりで始めたので。お客さんも年齢がいって、畳に座るイベントはできなくなったし」「でも、行きあたりばったりでやって来たのに、あっと言う間の10年やったなあ」と、感慨深げにお二人で顔を見合わせました。
今後のことを考えれば簡単には決め難いことが多いと思いますが「今は、どっちがお客さんかわからない」常連さんや、観光で訪れる外国の人や若い人も含め、中野家住宅が西国街道沿いに「暮らしながら活用する」みんなが集う場として存在することの大きさを改めて感じました。
保全と活用の課題はさらに増えていくと考えられます。当事者でない、一般市民の私たちも、代々の努力で継承されてきた建物や町並み、暮らしの文化について考えていくことが大切だと思います。

建都も、住み慣れた家で安全に快適に住み続けられること、そしてそのことが景観を保全することにつながるよう、力を尽くしてまいります。

朝6時30分 喫茶チロルの開店

すでに太陽が高くのぼっている夏の日も、まだ暗く、息が白く見える真冬も、開店は変わらず朝6時半。喫茶チロルは、昭和43年4月開業、今年で51年を迎えました。常連さんも旅行者も「おはようございます」「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えられ、「ありがとうございました」「お気ばりやす」の言葉で見送ってもらい、みんなが、あたたかく満ち足りた気持ちになれるお店です。

お客さんが喜んでくれることが一番


JR二条駅から御池通りを東へ進んだ角。格子のはまったガラス窓と、赤と黒の縞模様の軒先テント、かわいい看板がかかった建物が見えます。外観も店内も、なんとなく山小屋の雰囲気があります。喫茶チロルは、先代の秋岡勇さん、登茂さん夫妻が開きました。息子さんが後を継ぎ、登茂さんは今も元気にお店に立っています。チロルは「子どもにも言える、だれもが覚えやすい名前」であり、また、山や写真、クラシック音楽が好きだった勇さんの感性と、「お客さんに愛される喫茶店に」との、お二人の思いがこめられています。

メニューはずっと一緒で、ホットケーキもアイスクリームもない店ですが、コーヒーの味わいとともに、まろやかな辛味のきいたカレーは、必ず注文するファン多数の名物です。そして満腹できる定食も品数多く用意されています。これは、近所で仕事をしている人たちのお昼ご飯のために「カレーだけじゃ、ちょっと気の毒」と考えられたメニューです。「アジフライ&コロッケ」「鯖の塩焼き」「てりやき丼」などもあり、「目玉焼きのせ」とか「おかずの組み合わせ・追加できます。ご相談ください」と書かれています。
「こんなに種類があると大変ですね」の問いかけに「お客さんが喜んでくれるから」と、力まない、まっすぐな答えが返ってきました。毎日、奥の厨房でつくる気取りのない美味しさは、多くの人にうれしい、お昼の楽しみです。

朝の始まりに元気をくれる店


6時半に開店してすぐは主に、毎日通う常連さんで、モーニングのメニューも、組み合わせは自由になっていますが、「フルコース」のひと言で注文が通じます。「おかあさん」と呼ばれ、お客さんから慕われている登茂さんが「二人合わせて153歳の珍コンビ」と笑うベスト相方さんは、赤いエプロンに黒のベレー帽、スニーカーも赤で合わせた、チロルにぴったりのコーディネートで、きびきびと立ち働いています。
お客さんの「お姉さん」という呼びかけに「そう呼んでもらったら、返事も良くなる」と言って笑わせ、朝から店内は和気あいあいの空気です。7時過ぎには、ガイドブックを持った人や、外国からの旅行者など、次々とやって来てほぼ満席になりました。厨房担当の息子さんと3人での見事なチームワークで、みんなが心地よい時を過ごすことができます。

「お待たせしました」と、いい感じに焦げ目がついたトーストと、黄身のゆで加減がちょうど好みのゆで玉子が運ばれて来ました。ゆで玉子は、つるんと殻がむいてあって、まだほんのり温かみが残っています。飲み物を持って来てくれた時は「手盆ですみません」新しいお客さんが入って来た時は「すぐに整えますので、ちょっとお待ちくださいね」と、言葉を添えられます。親しげな雰囲気のなかにも、きちんとしたチロルの応対はさわやかで、とても気持ちよく感じます。
そして笑顔で「おおきに、ありがとうございました」と見送られると、今日一日頑張れる気がしてくるのです。

今も京都に根付く、喫茶店文化


チロルの壁には、写真や山が好きだった初代が、明治・大正時代の京都駅や嵐山などの大きく引き伸ばした写真を架かけています。歴史を実写したこの写真にみんなが注目し、話の糸口にもなります。また、チロルをイメージしたデザインのカードなどが置かれたおなじみさんのデザイナーのコーナーもあり、その下にお客さんのために、度数が強・中・弱と揃った老眼鏡が置いてあって、微笑ましく思いました。

京都を拠点にして、舞台や映画、テレビ等、活躍めざましい劇団「ヨーロッパ企画」を主宰する上田誠さんは、デビュー前からチロルで脚本を書いていたという、古い常連さんの一人です。訪れた人がメッセージを書き込む「ヨーロッパ企画ノート」は、もう3冊目になっています。最近の若い人は何でもSNSですますとか、字を書くことをしないなどと言われますが、このノートを見ると、それぞれが自分の思いをしっかり書いています。これも発見でした。

「ここでデートして結婚して、子どもを連れて来てくれたり。なかには30年ぶりに来て、この店まだあったんかとか、おかあさん生きてたか、なんて言う人やら。そういう時は本当にうれしい」と。そして「人それぞれ好きなことや、思っていることがあるから、私はそれを聞くだけ。いい聞き役になることが大事やと思ってます」と続けました。

「2日続けて休んでいたら、もうそわそわして、早く店へ出てお客さんと話がしたい」と思うそうです。「コーヒー飲んだこともないのに店始めて。にこにこ笑って食べてもらって、みんなに愛される店にと思ってやってて、気が付いたら50年たってたの」息子さんは「京都には昔から喫茶店文化があると言われてきました。お客さん同士が知り合って、いろいろなつながりが生まれます。そういう喫茶店を残していきたいと思っています」と話されました。全国紙に地方紙、スポーツ新聞もあり、テレビも見られて「コーヒーを飲みながら新聞を読んで出勤する」今では少なくなったタイプの喫茶店です。
暮れやすい秋の日差しが、窓辺に差し込む閉店前の静かな時間もいいものです。
毎日が楽しいことばかりではないけれど、チロルへ来れば、何となく心が軽く明るくなります。一日の始まりも終わりもチロルの、だれにもやさしい空間が待っていてくれます。

 

喫茶 チロル
京都市中京区門前町539-1
営業時間 6:30~17:00
定休日 日曜日、祝日

澄んだ空のもと ずいき神輿が行く

京都の秋祭りの先頭を切って、北野天満宮「瑞饋祭(ずいきまつり)」が始まりました。御神輿の屋根をずいき(里芋の茎)で葺き、全体を穀物や野菜、草花、乾物を使って趣向をこらした装飾がなされた、他に類を見ない「瑞饋神輿」を奉り、氏子地域を巡行します。

屋根を葺くずいきの茎

御神輿に使う材料は、この晴れの日のために、精魂こめて地元で作られたものです。細工やお祭の運営もすべて「西之京」という地域の人々によって行われています。起源は平安時代までさかのぼると言われる由緒あるこのお祭が、目まぐるしく変化する今日まで続いているのは、天神様・菅原道真公を信仰する変わらぬ心と、お祭の伝統を守るために力を合わせる、「西之京瑞饋神輿保存会」を中心とする地域の結束の賜物です。お祭を三日後に控えて、慌ただしさも最高潮のなか、会所へお邪魔させていただきました。

お祭の由来と「西之京」の地域


京都西北部の西之京に住み、北野天満宮の祭礼や供物の準備などを行う「西之京神人(にしのきょうじにん)」と呼ばれる人々が、五穀豊穣に感謝し、収穫した新米や野菜、果実などをお供えしたことが瑞饋祭の始まりとされています。
ありがたい意味の「随喜」めでたい食物を捧げる「瑞饋」と、音が同じことから、里芋の茎のずいきで屋根を葺いた「ずいき神輿」が生まれました。

西之京には「御供所」と呼ばれる拠点をつくり、天神様を祀り、今もその旧跡が残っています。保存会の近くには、最初の天満宮である「安楽時天満宮」や、道真公を北野の地に祀れとのご宣託を受けた、多治比文子の「文子(あやこ)天満宮旧跡」があり、毎年4月には「文子祭」も執り行われています。
保存会が面している天神通(てんじんみち)は、御供所などの歴史的に貴重な遺構も点在し、落ち着いた町並みの通りです。「御神酒」の張り紙や、ずいき祭のポスターを張ってあるお家もたくさんあり「西之京神人」としての精神が受け継がれ、地域全体でお祭を支え、楽しみにしている様子がうかがえます。この静けさが、お祭の熱気に包まれる巡行の日も間近です。

一年通して活動があるお祭の仕事


西之京瑞饋祭保存会の会所は、時代を経た木造の建物と、漆喰の壁のどっしりした蔵が並んでいます。取材に伺った時は、ちょうど扉が開けられていて、中を見せていただくことができました。神輿車や御神輿を担ぐ時の太い角材のような棒、その太い棒を固定させるための太い縄も見えました。縄はつやがあり、藍の色あいもすばらしく、ただ者ではない風格を漂わせています。「麻縄です。地元の祭ということで、職人が本当にいい仕事をしてくれています」と、会長の佐伯 昌和さん。強く美しい縄は、職人さんの心意気が伝わってきました。

会所の中へ入ると、御神輿を飾る各部分が競演を繰り広げているような迫力です。
「真紅(しんく)」と呼ばれる4本の柱には「ドライフラワーでよく見かける、千日紅(せんにちこう)という花が使われています。御神輿の飾り付けの準備は、9月1日のこの千日紅摘みから始まります。一つずつ花に糸を通していき、2メートルくらいになれば乾燥させ、二人で柱に糊付けしていきます。一本の柱に2000個の花が必要となり、四本の柱と子ども神輿の分も含めて一万個の花が必要なのだそうです。それを一つずつ針で糸を通してつないでいく。気が遠くなりそうな作業です。すき間もむらもなくきれいに揃った柱に、白の千日紅で「天満宮」の文字がくっりと浮かび上がっています。

天神さんの紋である梅鉢のわら細工もたくさんできあがっています。まず稲わらを作り、槌でたたいてやわらかくして、縄をない、梅鉢にかたち作ります。御神輿のお飾り用と、御神酒をいただいたお家へのお礼用も準備します。昨年「暮らし 商う 職住一体の京町家」の回にも、この梅鉢のわらのお飾りを紹介しました。

御神輿の四隅を華麗に飾るのは「隅瓔珞(すみようらく)」という、吊り下げ式のものです。赤なすの赤いのと緑のと、そして五色とうがらしが材料です。全体のバランスを見ながら慎重に作業が進められていました。

御神輿の四面を飾る「欄間」「桂馬」「腰板」を見ると、自然と顔がほころんできます。担当の会員さんが、自由な発想で何を作るかを一年かけて練るのだそうです。農作物や乾物など自然のものを使用するという決まりは同じです。
御旅所で公開されるまで、何がテーマに作られているかは秘密です。とうもろこしの皮やひげ、松かさ、ひょうたん、種など工夫次第で何でも素材になります。担当した会員さんは「あれこれ細かい細工はしないで、できるだけそのものの形を生かすように心がけています」という言葉になるほどと思いました。ライオンキング、恐竜、鳥獣戯画など、今年も話題をさらいそうです。ハリネズミには肉球までちゃんと付いていました。
鳥居の柱や千木などに施された梅鉢や七宝、龍、松など、本当の金細工のような精緻な細工は、驚くことに麦わら細工です。ストロー状にした麦わらを切り開いて薄い紙のようにして和紙に貼りつけます。それを友禅染の型彫りの技法で彫ってあります。京都の職人の粋を見る思いです。
ずいき神輿は、使われている稲わら、麦わら、穀物や野菜などみんな農家の会員さんが育てたもの、そして華やかでありながら、素朴な味わいがあり、なおかつ職人の技が光る、新鮮な楽しみと見どころが満載の御神輿です。

西之京ずいき神輿が伝えることは


軒先に干してある麦わらは来年用のもので、3月からもう作業が始まるそうです。取材日の作業の終わりには、これも来年用に種を採るための赤なすを選んでいました。もうすぐ、クライマックスを迎えて終わりではなく、今年の作業をしながら来年のことを考えておられます。こうして、お祭が滞りなく続けられていきます。四日の巡行が終わり、五日には今年作った御神輿は解体して土にかえします。来年の良い作物ができる養分になるのです。

残っている麦わらストローを、近くの小学校の子ども達にプレゼントされるそうです。神様のお下がりですね。麦わらストローから、子ども達はきっと、ずいき祭や地元に息づく文化や農業について知るきっかけになることと思います。
暮らしの環境やまちの様子は変わっても「ずいき神輿のために」の思いが、困難はあってもみんなを結びつけていると感じました。高く澄んだ空に、ずいき神輿と子ども神輿が晴れやかに巡行し、たくさんの人が「今年もずいき神輿が拝めた。良かったなあ」と、感謝とともに、住み続けられる地域の良さを改めて実感されることでしょう。

 

北野天満宮 ずいき祭
神幸祭 10月1日、2日、3日 御旅所にてずいき神輿、鳳輦ともにご鎮座
還幸祭 10月4日12時30分 巡行御旅所出発
后宴祭 10月5日

旧家に灯る 地域を照らすあかり

長岡京市の南部、昔の面影を残す旧西国街道沿いに、間口の広い重厚な構えの町屋が見えます。平成22年、国の登録有形文化財に指定された「中野家住宅」です。高速道路や駅前再開発などで、町並みは大きく変わりましたが、この界隈はまだ昔の街道の雰囲気を伝えています。
平成26年に長岡京市に寄贈されたこの建物がこの度、一般社団法人 暮らしランプが借り受け、障がいのある人が働き、多くの人とつながることができる「お酒とおばんざいのお店」として、新たな歩みを始めました。
「障がいのある人たちの職域を広げ、文化財の活用にもつながる」という確信と、地域の人たちにも、観光で訪れた人たちにも「家の食卓を囲む」ような、ほっとする思いを共有してほしいという願いをこめて、8月23日「なかの邸」が誕生しました。

歴史的景観を今に伝える中野家住宅


中野家住宅は、西国街道と丹波街道の分岐点「調子八角」の交差点から旧西国街道を5分ほど歩いた所にあります。庭と道の反対側に立っている楠は、樹齢100年を超える大樹です。かつて酒販業を営んでいたことにちなみ、軒先に大きな杉玉が吊り下げられています。
すぐ近所にお住まいの方が「前から一度入ってみたいと思っていたので」と、パンフレットを持ち帰ったり、女子高生が「ごはん食べられるとこになったんや」と話しながら歩いています。いつも前を通っている大きな家が、何か新しいことを始めるらしいと、関心を持って見ている様子がうかがえます。

江戸末期に建てられた主屋の中へ入ると、広い土間があり、玄関座敷や奥座敷の壁、天井、長押や欄間、床の間のつくり、建具など、当時の職人の技がみなぎっています。建築の専門家でなくても、その繊細さと力強さ、巧みさが感じ取れます。

昭和26年に建てられた茶室と主屋の増築部は、数寄屋大工の名工であった北村傳兵衛によるものです。傳兵衛は、大山崎の「聴竹居(ちょうちくきょ)」を設計した建築家、藤井厚二と交流があり、中野家住宅の茶室にも照明等に、聴竹居との共通点が見られます。傳兵衛による近代茶室で現存するものは少なく、貴重な茶室であるそうです。
中野家住宅の新しい営みの始まりは、これまで敷地・建物を守り継承し「今後、みなさんに親しまれる建物になれば」と、期待を込める中野家のご当主の思いに応え、中野家住宅の歴史を刻む一歩となりました。

なかの邸オープンまでの道のり


秋の日はつるべ落とし。暮れなずむ頃、中野家の家紋「違い鷹の羽」を染め抜いたのれんがかけられ、戸口にはあんどんが灯りました。昼間のスタッフがきれいに掃除を終え、準備も整った午後6時。なかの邸の開店です。風格ある建物は料亭のようで、一瞬、戸を開けるのをためらいますが、中へ入ると、アートなだるまが迎えてくれました。親しくしている岡山県の生活事業所から贈られた、開店祝いの地元の民芸品「早島だるま」です。

ふすまが取り払われ、夏のしつらいを残した座敷は広々として、違い棚に飾られた古いカメラや、心地よく流れるジャズも、伝統的な和室にしっくりなじんでいます。椅子席、庭を前にする席、床の間の前と、どこの席も、すばらしい空間を眺め、身を置けるように心配りされています。座卓の高さは、座って庭が一番よい具合に眺められ、なおかつ、食事がしやすい高さを割出し、特注されたとのことでした。

席に着くと、家紋が入ったペーパーマットとお箸と箸置きがセッティングされます。スタッフは調理担当、接客担当など、それぞれの得意なことを生かせることを大切にして決めているそうです。
「お酒とおばんざいの店」と名乗るように、日本酒は京都・滋賀をはじめ、各地の地酒など20種類以上が揃い、近くのサントリービール工場から届く生ビールとともに、辛党にはうれしい限りでしょう。お酒担当のスタッフは、生ビールの注ぎ方には自信があると答えてくれました。

しっかり丁寧にとったお出汁で作るおばんざいを中心に、ローストビーフや手づくり無添加ソーセージ、釜飯、宮津名産の干物、そして手づくりのプリンやシャーベットのデザートも揃い、どんな年齢のお客様にも安心して美味しく楽しめるラインナップになっています。取材の日は、札幌からのグループ、仲良く3世代で食事を楽しむご家族が和やかに食事を楽しんでいました。

暮らしランプでは、なかの邸立ち上げにあたり、2月からお昼はみんなの社食を作り、夜は調理や仕込みの練習、また金曜・土曜の夜のみ「おでかけなかの邸」としてお店を開店し、準備を重ねてきました。
そのなかで課題を解決し、難しい作業はなくし、作業工程をシンプルにして、メニューや仕事の内容を考えてきました。野菜の下ごしらえも手を抜かない、丁寧に出汁をとり、素材ごとに別々に火を通す、生ビールの樽の掃除など、毎日すべてを、自分たちの手で行っています。
支援スタッフの方に聞くと「メニューも、これを作ろう、これがいるというより、みんなができることから発想して、つながりのできた、それぞれの専門の方に相談しながら決めました。良い鰹節、良い調味料を使って、丁寧に作れば自然とおいしくできます」と語り「お酒は信頼する酒屋さんと、メニューに並ぶ料理を話し合いながら、すすめて頂いたものの中から選んでいます。それぞれの食材や調味料も、これまで築いてきた、つながりのある専門店さんの力を借りています」と続けました。
4月からは、なかの邸での準備に入り、みんなで作業室のワックスがけや、蔵の整理、庭の草引きなど、汗をびっしょりかきながら続けていた、その頃のことをよく思い出しますと、言っておられました。
その苦労がひとつずつ、ゆっくりと、しかし着実に実を結んでいます。飲み物やお料理が出てくるまで、ゆったりした気持で待てる、そんな心のゆとりや優しさを取り戻してくれる。中野邸はそういう所です。

もっと広げよう「なかの邸モデル」


マネージャーの小林明弘さんは「なかの邸は、みなさんに繰り返して来て頂ける価格設定にしています。これから、なかの邸のような事業をもっと展開していきたいと考えています。これでモデルができたわけですから、一から始めるより楽に進めていくことができると思います。昼間は働くことができない人には、夜に働く場を作り、力が発揮できるようにすること、そして、みんなの賃金をもっと高くすることを目指しています。そして、みなさんに第二の食卓、居間のように気軽に使っていただけたら」と語ります。「子どもの頃、ここへお酒を買いに来ていました」というお客様がいらっしゃって、お孫さんにもそのお話しをされていたそうです。
これから、なかの邸に集うたくさんの人々が、スタッフのみなさんも含めて楽しいひと時を共有し、その思い出につながる場所となりますよう、心から願っています。なかの邸は、何となく「明日はいい日になるかな」と思えるように、暮らしの少し先をほんのり明るくしてくれます。

 

なかの邸
長岡京市調子1丁目6-35・中野家住宅
営業時間 18:00~22:00
定休日 日曜日、月曜日

西陣の京町家 古武家のお精霊さん迎え

立秋を過ぎても猛暑日の続く京都ですが、それでも心なしか空が高くなり初秋の気配が感じられます。
お盆に、普段は離れて暮らしている家族が久しぶりに顔を合わせ、にぎやかなお家も多いことでしょう。それぞれの家庭の流儀のお盆行事を通して、ふるさとや家族を思う大切にしたい時になっています。
「西陣の京町家 古武邸の端午の節句」でご紹介した西陣の京町家 古武さんのお宅に伺い、ご家族も交えてお盆についてお話を聞きました。

八月に入ると始まるお盆の準備と行事


古武さんのお宅では、端午の節句飾りの片つけをすませると、室内を夏のしつらえに替えます。梅雨入り前の大仕事です。良い色艶になった網代や葭戸。すだれから庭の緑が透け、風が吹き抜けるような涼感を誘います。
玄関やつくばいに生けられた、むくげやすすきが野の風情を漂わせています。

普段は閉められている襖を開けて、お仏壇の扉を開きます。10年前に、それまで住んでいたお家からお移り頂いたということです。お仏壇の引越しは、お寺さんに来ていただいてお経をあげてお性根(おしょうね)を抜き、魂の入っていない容れ物として運び、新しい場所にきちんと収まるとお性根を入れ戻すそうです。こうしたところにも、何かにつけ、ご先祖様を大切にする日本の心がうかがえます。

古武さんがお参りにいく千本焔魔堂

古武家のお精霊さん(おしょうらいさん)をお迎えする行事は、まず五日から七日頃に、大徳寺の塔頭にあるお墓にお参りし、お経をあげていただきます。お墓参りがすむと近くの、大きな閻魔像を祀る千本えんま堂にお参りします。
戒名を描いてもらった卒塔婆を水に流し、迎え鐘をつくのが毎年の習わしとなっています。えんま堂は正式には引接寺(いんじょうじ)と言いますが、親しみを込めてみんな「えんま堂」と呼び、五月に行われる「大念仏狂言」でも知られています。八月七日から十五日までのお精霊迎え、十六日のお精霊送りには多くの人が訪れます。
何枚もの卒塔婆を流す参拝者とお寺の方の「ご先祖さんが、たくさんかえって来てくれはって、にぎやかなお盆になってよろしいね」というやりとりに、あたたかい地域密着のお寺の雰囲気があります。
迎え鐘をつかせていただいた時、今に感謝し、ご先祖様を精一杯おもてなしするという、お盆行事の心根に触れた思いがして、しみじみと胸が熱くなりました。お盆行事の簡略化は時代の流れですが、しかし、このような静かな心を取り戻してもくれるのもお盆の良いところです。
おかげさまで、今年もつつがなく準備完了。

お盆の迎え方もお家によってそれぞれ違いもあり、朝昼晩と毎日かわる献立のお膳などは簡単にされていますが、大事な芯のところは踏襲されていると感じます。
古武家では、十三日から十五日の三日間をお盆として、十六日は大文字の送り火を拝んで、あちらに戻られるご先祖様をお送りしています。
白いご飯、お吸い物、煮物、白和え、お漬物のお膳はおがらの箸をつけて、三日間毎朝お供えし、蓮の葉と槙の葉を入れたお水も替えます。
お吸い物は湯葉と麩にみつば、炊き合わせはにんじん、椎茸、いんげん、高野豆腐、白和えはごぼう、きゅうり、椎茸など。昆布出汁に、具は彩りも美しく、寸法に切り揃えてきっちり盛り付けられています。このお膳に加えて、十三日はお迎えだんご、十四日は白むし(白いおこわ)とおはぎ、十五日は送りだんごをお供えします。他に、野菜や果物、蓮や菊の形をした落雁のお菓子や故人の好物だったものを蓮の葉の上に盛ります。

八月に入ると、お膳や盛り物に敷く打ち敷きなどお盆用品一式の点検や、買い物の算段と俄然忙しくなります。主の博司さんはお仏壇や什器をあらため、妻の純子さんはお膳の献立やお供えを調えます。純子さんの実家は仕出し屋さんをされていたということで、料理やきれいな盛りつけはお手もの。床の間の掛け軸や花器は、息子さんの邦敏さん担当です。
「蓮の葉が小さいなあ」「手に入らへん年もあったなあ」「昔は精進揚げも山ほど作って、にぎやかで楽しみやったけど」などと話しながら、今年もいつもと同じようにお盆の準備ができたことにほっとしている様子でした。

すばらしい金蘭の打敷きや用具一式は、博司さんのお母さんが毎年使われていたもので、納めてあるダンボール箱には、お母さんの手で「お盆用品、お供え用お盆」などと書かれています。毎年出す度に、ご両親が健在で親戚一同が集まったにぎやかなお盆や、お子さんが小さかった頃のことなど懐かしく思い出すそうです。「夜店で買ったカメを、お盆に神泉苑の池に放したのは、子ども心に供養のつもりやったんかな」「盛り物は鴨川まで運んで流してた」と、今では思いもよらない話が繰り出してきます。なんとものんびりした良き時代の京都です。

お寺も商店街も気心知れた付き合いが続きます


床の間に「夢」の墨跡が掛けられました。「夢」の書は仏事に掛けることになっていると、書画にも詳しい邦敏さんに教えていただきました。
「お昼時に申し訳ありません」とお寺の住職さんが見え、棚経をあげられました。朗々とした声と独特の調子のお経を聞くうちに自然と「有り難い」心持ちになってくるから不思議です。
読経が終わると少し世間話をして、また次の檀家さんへと向かわれました。先々代からのお付き合いだそうです。その関係があって、お昼にかかる時間でしたが、失礼ながらと訪問されたのでしょう。古武さんも、そんな気心の知れたお付き合いを嬉しく思っているようでした。

お盆に欠かせない蓮の花や葉、槙、盛り物などは、コーナーを設けてスーパーにも並び、ずいぶんと便利になったと聞きます。特売商品の目玉だけではなく、地域の慣わしに沿った商品を扱うことは良いことだと思います。
一方、地域密着の商店街もその特長を生かして、日々の暮らしを支えています。千本えんま堂の近所の上千本会も、そんな商店街です。果物、生花、食料品、和菓子など専門店が並んでいる点も魅力です。

普段使いの季節のお菓子を作る京都でいうところの、「おまんやさん」の店頭には、生菓子協同組合が作ったお盆のお供え一覧が張り出してありました。おまんじゅうに使うという餡を丸める無駄のない流れるような職人さんの手作業は、いつ見ても感心します。このお店で、お迎えだんごや送りだんごを、蓮やほうずきは並びにある花屋さんで、定番の野菜やほうずきなど上手にパック詰めされた盛り物や果物は、その先の青果店でと、お盆に必要なものはここで揃いそうです。気のおけない商店街が身近にあり、わが家で家族がお盆を迎えられ住み続けられる、そんなまちが京都の典型であるように、建都も京都に根付く企業として、さらに力をつくしてまいります。
お盆に託して、今年は大きな災害がありませんようにと祈ります。

 

千本えんま堂 引接寺
京都市上京区千本通蘆山寺通上ル閻魔前町34

山城青谷地域 希少な梅で新しい風を

近畿地方は土用に入ってから4日目に、やっと梅雨明けとなりました。この季節の仕事と言えば、6月に漬け込んだ梅の天日干があります。西に木津川が流れる京都府南部、城陽市の青谷(あおだに)地域は、府内一の梅の生産地であり、他ではほとんど生産されていない、香りに気品があり、大粒で肉厚の希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」が特産です。

建都が施工監理をさせていただいた「茶山sweets Halle!地元に愛され1周年」の記事でもご紹介しました「城州白けーき」でご縁ができた青谷梅工房代表の田中昭夫さんにお話を伺いました。

地域活動のつながりから生まれた青谷梅工房


青谷は城陽市の一番南に位置しています。青谷での梅の栽培の歴史は古く、江戸時代には、染物の媒染剤となる烏梅(うばい)をとるために、現在よりはるかに広い梅畑があったそうですから、花咲く時期は、それは見事だったことでしょう。
明治になって、外国から化学染料が輸入されると烏梅の出番はなくなっていきましたが、それにかわって、観梅の地として注目されるようになりました。
明治30年頃、保勝会が結成され、青谷のすばらしさを世に広めました。そして、優れた品種の城州白があったことで、梅の郷青谷は生産地として揺るぎないものとなりました。

青谷梅工房代表の田中昭夫さん

小学校の教師だった田中さんと青谷との出会いは「城陽生き物調査隊」の活動でした。
地元の方の厚意で梅林の中にある土地を貸していただき、子どもたちと一緒に自然観察の活動ができる「くぬぎ村」をつくりました。そのなかで、青谷の自然と、城州白という梅のすばらしさを知ったのです。城州白と青谷地域の盛り上げの一助になればと、梅まつりの期間にあわせて、くぬぎ村梅まつりを開催するなど早くから地域とのつながりをつくってきました。
生き物調査隊の事務所をさがしていたところ、元建具屋さんだった現在の建物を紹介していただくこともでき、梅まつり期間の土日限定でオープンし、また、梅びしおなど加工品の開発、梅林の整備・栽培も引き受けて活動を続けました。しかし、梅林の仕事はとても手がかかり「教師を続けるか、梅を取るか」を決断する時が来ました。そして2011年、元建具屋さんの建物を拠点として「梅工房」をたちあげ、梅干しや加工品の製造販売の事業を本格的に開始しました。
田中さんは「青谷の自然と城州白を守ろうと決意した人とか、よく言われますが、最初から梅のことを考えていたわけではないのです。なりゆきです」と笑い「それでも、こうして振り返ると、ずっと梅とかかわって来たんやなあと思います」と続けました。

建物の元持ち主に感謝を表して当時の道具を展示しています

梅工房は、地域のみなさんが気軽に立ち寄ることができる、コミュニケーションの場として歌声サロンやお茶、映画会など様々に活用されています。教師時代も含めて、たくさんの人とのつながりが生まれ、その信頼関係が大きな力になっています。
田中さんは「みんなと一緒に何かすることが好きなんですね。それと、信頼関係は、やっていることに夢があるかどうか。自分自身が夢を感じるか、です。夢があるからこの事務所の修繕も、くぬぎ村の整備も、大変なことでしたが、みんなで楽しくどんどんできました」と語りました。それぞれの夢が自分自身を成長させ、人や地域を元気にします。

茶山sweets Halle、一乗寺ブリュワリーとの出会い

楕円に近い形が特徴の城州白

梅酒ブームの後押しもあり、地元酒造会社の城州白の梅酒は広く知られるようになりました。しかしその後の不況や梅酒ブームが一段落したことなどの影響で、城州白も需要が減少してしまいました。田中さんは、せっかく農家のみなさんが手をかけて育てた城州白が収穫されず、地に落ちているのは見るに忍びないと、買い支えようと頑張りましたが、すべて買い取るには梅工房だけでは資金が足りません。
買ってもらえない状況が起きれば、農家は栽培をあきらめたり、後継者になろうと考えている若い人も意欲がそがれてしまいます。そこで「青谷に梅で元気を取りもどしたい」をテーマにクラウドファンディングに取り組み、目標額60万円を超える資金が集まりました。青谷が誇る城州白の良さをまず青梅で知ってもらい、外への出口をつくろうと「いつも頭の中は梅のことでいっぱい」の田中さんです。

そんななかで茶山Halleとの出会いがありました。蜜漬けした城州白が丸ごと入った焼き菓子は、爽やかな酸味と果物のようなやわらかな甘味が生地と良く調和して、とてもよくできています。
梅工房では、お手製のポスターを張って店内はもちろん、梅まつりの時も販売しました。「青谷の名産が入っていて話題にできるし、ちょっとした手みやげにちょうどいい」と、好評だったそうです。

梅を使ったクラフトビール城州白エール

一乗寺ブリュワリーにお願いし、一年かけて完成したクラフトビール「城州白エール」も快調です。華やかな柑橘の香りと、すっきりした飲みくちながら深い味が特長のビールです。今のところ生ビールのみで生産量も少ないので、置いてあるお店は限られます。せっかく城州白のビールができたのに、地元で飲めないなんてと、毎月第3土曜日夕方5時から10時まで開く「梅酒バー 梅月夜」での提供を始めました。

毎月1度の梅酒バーの料理作りとメニューを担当

店内に低くジャズが流れ、夕闇が徐々に濃くなります。和紙の灯りや、木のぬくもりを感じるテーブルや椅子。いい雰囲気のおとなのくつろぎの時間です。
予約されたグループが楽しそうに杯を重ねています。看板商品の梅や、仲間が作る無農薬の野菜の持ち味を生かしたおつまみも絶品で、食べる楽しさもしっかり味わえます。厨房を取り仕切るお二人の本当に楽しそうに立ち働く姿が印象的でした。

本当に美味しい梅干作りを柱に据え、もっと地域の人がつながる場に


去年、今年と梅は不作が続きました。天候はどうすることもできませんが、基本的には城州白の可能性を広げ、安定して栽培してもらえるようにすることです。
そのためには、一生懸命なものづくりをする作り手同士、また異業種の分野を結び付けることも重要な仕事です。そのなかで、ぶれずに本当に美味しい梅干しづくりにしっかり腰を据えることを一番大事にしています。

梅工房の梅畑も年々広がっています。猛暑の日、朝から草刈をしていたみなさんが戻ってきました。ものすごい汗です。草を刈り、馬糞と木くずをまぜ合わせた肥料を施す仕事です。馬糞は乗馬体験をしている馬場から運んでもらいます。大変な量の廃棄物になるところを循環させ、質の良い肥料にします。良い城州白を作るための仕事に終点はないようです。
田中さんは本当に美味しい梅干づくりと同時に、梅工房の事業や活動に、もっと地域の参加が必要だと思っています。まだまだ地域みんなのものになっていないと感じ、どうしたらみんなのものになるのか考えをめぐらしています。
青谷の梅や、梅林の続く自然をみんなでつくり、地元の自慢、誇りにしていきたいという夢です。地域のコミュニティーセンターでの特産品講座や小学校で、講師として青谷の先人の努力や文化の香りのする地域であること、梅の健康効果などについて話をして、地元の人に愛着を持ってもらうように努めています。

田中さんが梅干作りについて話す時「紫蘇を入れたとたん、さあっと色が変わって、それはそれはきれいな色になるんですよ」と、本当にうれしそうです。
梅工房を始めた頃、梅びしおや梅ジャムを売り歩き、高齢世帯多い地域へ野菜を売りに行ったり紹介されて百貨店の売り場に立った日のこと。いずれも全然売れなかったこと。
でも梅は、きちんと手入れをしたらそれに応えるように収量が増えたこと。夢の中には、こんな経験も詰まっています。
いつも忙しいけれど、一年中で今が一番落ち着いてものが考えられる時だそうです。これからの梅工房がとても楽しみです。
建都も、それぞれの地域のみなさんがつながり、地域の素晴らしさを実感し新しい魅力を付け加えていくことができますように、まちづくり、いえづくりの場でお役に立てるよういっそう研鑽を積んでまいります。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5 JR山城青谷駅徒歩5分
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

祇園祭の始まりです ここにもお祭の醍醐味

田の字型と言われる京都のまちの中心部に、優美で絢爛豪華な祇園祭の山や鉾が建ち並び、梅雨明け前の京都は一気に華やいできました。
各山鉾は七月一日から順次吉符入りし、三十一日の厄神社夏越祭(なごしさい)まで、一か月にわたり様々な神事がとり行われます。
そこに込められた意味や心を少しずつ知ることにより、千年を超え、今もなお多くの人によって支えられ続いている祇園祭の、これまでとは違う姿が見えて来ます。

「縄がらみ」の伝統技法を支える職人と縄


前祭は10日から、後祭は18日から山や鉾が建てられていきます。山鉾の大きな特徴として「釘を1本も使わずに組み立てられている」ことがあげられます。実際に見るとそのすごさがわかります。作事方と呼ばれる職人さんたちによって、がっしりした角材で土台のやぐらが組み立てられます。重さは懸想品や、囃子方音頭取りなど人も含めて、大きな鉾になると約11~12トン、高さは約25メートルにもなるそうです。

これだけ大きく高いものを、縄とくさびだけで持ち応えさせているのです。縄とくさびだからこそ、運行中の揺れやきしみを吸収し、破損から守れるそうです。伝統技法の「縄がらみ」は、それぞれの山や鉾、また部分によって巻き方が違い、緊密で潔い美しさです。
富裕な町衆が力をつけていくなかで、その財力や文化度を示すように、山鉾もどんどん豪華に大きくなり、職人集団はどうしたらそれを組み立て、動かすことができるか知恵をしぼったのでしょう。

そして質の良いわら縄こそ、鉾建ての命綱と言っても過言ではないでしょう。函谷鉾に、今年も福知山市の田尻製縄場から納品されました。代表の太さん、奥さんの民子さん、太さんの母親の久枝さんの家族三人で縄づくりを続けています。
母親の久枝さんは今年卒寿、90歳を迎えられたそうです。ご主人と一緒に製縄所を始められて60年。しっかり身にしみ込んだ縄づくりの腕は今も衰えていないということです。民子さんは久枝さんについて「誇りを持って縄づくりをしています。一緒に暮らしていて、こういう人生もいいなあと、私のほうが励まされています」と。
また「縄は表に出るものではない、縁の下の力持ちですが、伝統のお祭に今年も無事に縄を納めることができて、ありがたいなあと感謝しています。稲わらを手に入れるのが年々大変になっているけれど、家族三人でできるだけ長くやっていきたい」と続けました。
祇園祭には、様々な部所で喜びと感謝の念を持ってたくさんの人が係わっています。

祇園祭の主役である御神輿の神事


前祭の鉾立てが始まった10日は、御神輿を鴨川の水で清める神輿洗いが行われました。
それに先立って、八坂神社からお出ましいただく御神輿をお迎えする「お迎え提灯」が行なわれました。お囃子に続き、鷺舞や赤い毛のかつらをかぶった赤熊(しゃぐま)小町踊り、祇園音頭踊りの可愛く華やかな列が続きます。暮れなずむ頃、四条通から四条大橋、祇園を行く行列は絵巻物さながらの美しさです。平日にもかかわらず沿道は人で埋めつくされ、以前は知らない人が多かったのにと、隔世の感ありです。

大松明が御神輿の先導としんがりをつとめ、「ほいっと、ほいっと」の掛け声が大音声となり、いよいよ御神輿のお出ましです。中御座、東御座、西御座の三基のうち、神輿洗式には、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る中御座が渡御されます。四条大橋の中ほどで、神職が榊に浸した鴨川から汲み上げたご神水を御神輿に振って清めます。このしずくを浴びるといいということで、見物の人たちが押し寄せます。お清めがすむと提灯行列の人々が楼門の前に並ぶ八坂神社へと戻っていきます。
四条通には、消し炭のようになった大松明のかけらを、縁起がいいということで持ち帰る人を見かけました。見ず知らずの方から「これ小さいけれど持って帰りなさい」といただきました。こんなこともお祭の醍醐味です。
山鉾の巡行が祇園祭の最高峰と思われていることが多いのですが、巡行はあくまで、神様が移られた御神輿が渡御される時の先導役なのです。ですから、17日の夜、御神輿が四条の御旅所へ行かれる神幸祭と24日に八坂神社へおもどりになる還幸祭が重要な神事とになります。
とは言え、昔の人たちも華麗な山や鉾を見て、楽しんでいたようですから、難しく考えることはないのかもしれませんが、御神輿に乗せた神様を御旅所という、人間が住んでいる世界へお連れして、都に流行った悪霊や厄神を退散させることを祈ったお祭であることは覚えておきたいと思います。

遊び心いっぱいの提灯も盛り上げる、193年ぶりの巡行参加


お迎え提灯とはだいぶ趣を異にする、おもしろい提灯が目に入りました。にわとり、ぞうり、たこ、饅頭食い人形、コーヒーカップ等々。聞くと、江戸時代には祇園の旦那衆が遊び心で、家業を表す提灯を作って楽しんだのだそうです。楽しくお祭の盛り上げに一役買えたらということで3年前に始められたそうです。28日の後祭の神輿洗式の時には練り歩きをされると聞きましたので、今から楽しみです。

今年は、鷹山が193年ぶりに、後祭に唐櫃による参加が発表され、話題となっています。
鷹山の隣りの町内にお住まいだった歴史研究科の廣田長三郎さんが95歳の時に著した「鷹山の歩み」には、幾多の試練を乗り越え、その都度、前よりよいものにして復活させてきた鷹山の歴史を解いておられます。
鷹山は「祇園社記 応仁の乱前分」に記載が見えるほど古い歴史のある山です。鷹匠、犬飼、樽負の三体のご神体をお祀りして居祭を続けられてきました。山の復興を2026年としていましたが、保存会のみなさんの勢いある活動で2022年の復活と、4年早い目標を設定されています。後祭は夜店もなく、屏風祭を見がてら、しっとりした情緒を楽しむことができます。
今年は自然災害や厄災のないことを祈ります。