青谷で40年 信用第一の和菓子店

訪ねた先は、前回の「東風吹かば梅香る京都青谷の春」で、少しご紹介しました和菓子店です。自店であんを炊き、その誠実で間違いのない味は、地元のみなさんからの信頼も厚く、お祝い事や季節の習わしなど、暮らしの折々を彩るお菓子として喜ばれています。
また、青谷特産の大粒で香り高く、果肉の味わいに特徴のある希少な梅「城州白(じょうしゅうはく)」を使ったお菓子を開発し、青谷地域盛り上げの一翼を担っています。こういうお店が近所にあったらうれしいと思う和菓子店「梅匠庵 若松」のお店で話をお聞きしました。

普段のお菓子に使う自家製のあん


ローカル線ののどかな気分に満ちるJR山城青谷駅の改札口を出ると、目の前が梅匠庵若松です。建物を見ただけで「きっと美味しいに違いない」と感じさせるたたずまいです。
店主の久保川守さんは、修行時代を含めると、55年の経験を積んだ職人中の職人です。独立して、はじめは宇治で開店し、その後青谷に店を構えて40年になります。移転する時「青谷の少ない人口で商売をするのは難しいよ」と言われたそうですが「地域のみなさんに可愛がってもらえて、あてにしてもらえる店に」と、一心にお菓子作りに励んだ積み重ねの年月です。「気がついたら40年たっていたというのが実感です」と静かに語ります。

中に城州白がまるごと入った梅大福

久保川さんの「和菓子はあんが命」という言葉にも、重みと力があります。和菓子にもいろいろな種類がありますが、生菓子にもお茶事やお客様用の上生菓子と、朝に作りその日のうちに売り切る「朝生菓子」略して「朝なま」と呼ばれる庶民的なものがあります。おなじみの大福やお団子、さくら餅や柏餅などがそれにあたります。
今、和菓子店で、自家製のあんを炊いている店は少ないのではないかと思います。若松の魅力、良さは、このような気軽な朝なまのお菓子にも、自家製あんを使っていることです。ここが美味しさをぐんと格上げしていると感じます。
お客様から「あんたのとこ安いなあ」と言われるそうですが、久保川さんは「毎日食べてもらう、おやつのお菓子やから。みんなに可愛がってもらって、続けていくことが一番大切」と、ためらうことはありません。質実ともに地域に根差したお店なのです。

頼もしい跡継ぎの存在が励みに


以前は町なかによく見かけた、若松のような和菓子屋さんが、めっきり少なくなった気がします。久保川さんは「この稼業も跡取りの問題が大きい。その点うちは本当にありがたい」と語ります。和菓子の道へ入って10年目という、跡継ぎの武田圭祐さんにも話をお聞きしました。
武田さんは、久保川さんの娘さんと同じ製菓学校で学び、洋菓子店に勤務した後に、結婚を機に若松へ入りました。洋菓子で使う小麦粉とバターやクリームなどの素材に対して、和菓子は油性のものをほとんど使いません。何もないところから作るのは和菓子も洋菓子も同じですが、慣れるまでは戸惑いながらの毎日だったそうです。そして「父の仕事を見ていて、和菓子は確かに職人の勘というものがあると感じます」と続けました。

久保川さんは「あんを炊いた時、時間は計るけれどそれだけではない。その日の気温や湿度、豆によっても違いがあるので、それを見極めて炊くのが難しい。しゃもじであんをすくってみて、今日はどうや。もういいか、もう少し炊くかと、ぎりぎりのせめぎ合いで、100点と思ったことは一度もない」と語りました。

武田さんの語った「和菓子職人の勘」は、毎日一緒に仕事をするなかで、心から感じたことであり、深い敬意が込められています。また久保川さんも、何度も跡継ぎの大切さを言葉にし、「これからは若い人の時代やから、どんどん前に出てきてもらう」と、武田さんを頼もしく思っている様子が言葉の端々に、にじみ出ていました。二人の和菓子に対する姿勢や、気持ちの通い合いが若松のお菓子のぶれない美味しさを作っています。

家族で担う「和菓子で地域に貢献」


若松には常時40種類近くのお菓子が並びます。そのほとんどが自家製造です。
イラスト入りの商品ポップは、武田さんの奥さんが作っています。梅まつりの期間中は、建物の外側に商品のパネルを張り出すなど、若松の和菓子をより多くの人に知ってもらうための工夫を惜しみません。

祝儀不祝儀、季節の贈答用、ちょっとした手みやげにと、以前は暮らしのなかにお菓子をお使いものにする習慣がありました。しかし今は、核家族化も進み、生活習慣の変化も伴い、以前に比べるとその需要は格段に少なくなりましたが、先日はお孫さんのお誕生の内祝いにとお赤飯の注文がありました。もちろん、お赤飯も若松製です。渡す日時からの逆算で、小豆を水につけるところから始まります。
店内には、お赤飯や上用まんじゅうの箱の見本や、季節の行事と人生の節目のお祝いの一覧が張ってあります。おめでたい事をお祝いする心をあらわす贈答の習慣をよみがえらせて、人と人のつながりをもう一度結び直せたら、どんなに良いことかと思いました。

和菓子作り教室は地元の新聞にも取り上げられました

久保川さんは、城陽市観光協会「梅の郷青谷づくり特産品部会」の主催の地域の方を対象にした和菓子作り教室での講師を務め、武田さんは、城陽高校の授業の一環として、和菓子作りを教えました。体験した高校生が「すごく美味しい」と言ってくれたと嬉しそうでした。和菓子を知らない若い世代に食べてほしい、和菓子で季節を感じてほしいという願いは、地道な取り組みのなかで必ずかなえられると思いました。

城州白を使った大福、マドレーヌ、どら焼き、ようかんなどは、青谷の地元の手みやげとして好評です。そして贈られた先の方が「美味しかったから、買いに来ました」と来てくれる時は本当にうれしいと、菓子屋冥利に尽きる物語もたくさんありそうです。
創業以来の看板商品「茶人好み」は、白あんに抹茶を練りこんだ桃山仕立てのお菓子です。城陽はお茶も有数な産地で、京都府の「お茶の京都」の広報にもこの茶人好みが紹介されました。
「信用が第一。いつも安定した美味しさでなくてはだめ。毎日緊張してお菓子を作っている」という、久保川さんの言葉に、裏切ることのない誠実な仕事への姿勢がどんなに大切なことかを教えてもらいました。和菓子のおいしさは人をつなげ、青谷の地域の幸せにつながるに違いないと感じた一日でした。
まもなく、店頭に柏餅が並ぶ風薫る季節がやって来ます。

 

梅匠庵 若松
京都府城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日 月曜日

東風吹かば梅香る 京都青谷の春

冬とは思えない暖かい日が続き、寒風のなか、他の花に先がけて咲く梅も、今年は特に早い開花となりました。古くから梅の名所として知られていた、京都府南部の城陽市青谷地域の約1万本の梅が咲き誇っています。
昨年「山城青谷地域 希少な梅で新しい風を」でご紹介しました、青谷梅工房代表の田中昭夫さんは、毎年開催される「青谷梅林梅まつり」を盛り上げようと、いつも楽しい企画を考えています。今年はさらに「青谷梅林の魅力を梅工房がバージョンアップ」と、画期的な内容となっている様子です。春うららの一日、青谷を訪れました。

アートのある梅林へ、はじめの一歩


梅工房の梅林店を目指して歩いて行くと、木の高さほどに、円錐形に張られたロープが見えてきます。「陽」と名付けられたこの作品は、剪定された梅の枝で、淡い紅梅色に染められています。江戸時代、染の媒染に使う烏梅をつくるために広大な梅畑があったという、青谷の歴史を掘り起こして生まれた作品です。近くにテーブルと椅子が置かれ、ゆっくりした時を楽しんでいる人の姿が見られます。小道をはさんだ向かい側には4作品が展示されています。それぞれ時とともに変化する日の光を受けて、印象も変わります。

田中さんは、のどかな里山をゆっくり散策できる青谷の魅力をさらに進化させ、もっと多くの人に足を運んでもらうにはどうしたらいいかと考えていました。そこでひらめいたのが、現代アートが展示される瀬戸内の島々のような「アートのある梅林」です。田中さんがモデルとした瀬戸内国際芸術祭は、香川県をあげて取り組んでいる超大型の芸術祭で規模の違いはありますが、テーマに掲げている「海の復権」は「城州白で地域を元気に」という梅工房の思いと、根本は共通しています。そこで協力してくれる人を、つてを頼りに探しました。普段から多くの人とかかわりを持っている田中さんの強みで、知り合いを通じて、京都造形芸術大学の卒業生と在学生の協力者が見つかったのです。

3年前から梅まつりの期間中、梅林にも店を出していますが、そこがアートを展示する会場です。腰の高さまで茂った草を刈り、竹林を切り開いた場所では竹の根っこや頑固な切り株を掘り越しました。この重労働は、造形大のみなさんも一緒にやってくれました。作品の設置も含め、寒い中での作業は大変だったことと思いますが、より思いのこもった展示会場になったのではないでしょうか。作品が点在する梅林は、周囲の自然と調和した青谷の新たな景観をつくり出しています。
作品展示は3月20日(金)まで。

四季折々、歩けば感じる青谷よいとこ


さえぎるもののない空とのどかな田園風景が広がり、気持ちが解き放されていくように感じます。田んぼで何かをついばんでいる、はとに似たつがいの鳥がいました。長いくちばしと足が鮮やかな黄色をしています。「けり」です。その鳴き声から、この名がついたそうです。きっと環境が良くて、子育てしやすいのでしょう。

梅工房を通り過ぎてすぐ、旧道の趣きのある道を進むと、お茶のいい香りが漂ってきました。慶応三年の創業以来「決して天狗になってはならぬ」という家訓を守り、「天狗の宇治茶」を商標にする、伝統の宇治茶一筋の茶問屋「碧翆園」です。碾茶で名をはせるお茶の名産地城陽の茶業を支えています。碧翆園の加工場と古い民家が並ぶ一画は、とても雰囲気があります。

梅林をたどる道々は、満開の菜の花と、咲き方や色が微妙に違う梅の花を楽しむことができます。うぐいすが盛んに鳴いています。姿は見えませんがすぐ近くのようです。完璧と思う鳴き声と、あきらかに練習中の鳴き声が交互に聞こえ、すれ違う人と思わず笑いあって会釈しました。
梅林の規模や絢爛な雰囲気ではなく、田中さんも言われているように、まわりの山々や民家と一体となった里山としての景観が青谷の魅力なのだと実感しました。

城陽酒造の杉玉
青谷特産の城州白

梅の郷めぐりの終わりは、JR青谷駅すぐにある、創業明治28年の「城陽酒造」と和菓子店の「梅匠庵若松屋」へ。若松屋では、大粒で香高い青谷特産の希少な梅、城州白を使ったどら焼きや大福など、地域根ざしたお菓子を作っています。気取らずにおいしい親しみのあるお菓子が並びます。以前はそれぞれの町に一軒はあった和菓子屋さんらしい和菓子屋さん。貴重なお店です。線路を渡ると、新酒ののぼりがはためく城陽酒造が見えます。他府県ナンバーの車も次々と入って来ます。こちらの「梅サイダー」は梅工房でも定番品として置いています。また、城州白の梅酒は「梅酒バー」でもほとんどの人が注文する、ご当地自慢の梅酒です。豊かな自然、旧村の面影を残す民家。そして梅とお茶。その特産品を生かしたお酒やお菓子のお店。季節の移ろいとともに、また違った発見があることでしょう。ゆっくり歩いてみれば楽しさは尽きない、そんな思いを抱きました。

青谷地域と梅工房の明日の夢


田中さんは「まず、地元の人が行ってみたいなあと思ってもらえる梅まつりにすることが今の課題です」と語っていました。梅まつりを短期間のイベントで終わらせるのでなく、地元の人がかかわることで、日常的な結びつきをつくり、青谷を盛り上げることができないかとも考えています。そこで今年の梅まつりでは、梅工房の梅林店で「体験イベント」を企画してもらいたいと呼びかけました。去年の秋から取り組んだ結果、6つの体験ブースが決まりました。お箏、かじや、梅の枝の鉛筆づくり、染め物、ウクレレ、ヨガと本当に個性ある体験ブースが企画されました。また飲食ブースの9品の中には、龍谷大学のゼミ生によるおにぎりもありました。大変残念なことに、これらの企画は今日の状況にかんがみ中止となりましたが、この経験とつながりは必ず今後に生きると感じています。

田中さんは、このような体験や季節のイベントをつくりながらも、やはり本業の梅事業に向ける時間をもっと生み出したいと強く思っています。城州白を中心とする質の良い梅の安定的な生産と、梅を使った商品開発です。違う業種、違う世界の人たちの出会いから「青谷の梅を使って、こんなふうにすばらしいものができるのだ」という喜びは、大きな支えになっています。
城州白のブランデーをつくられた、千葉県の房総半島にある「mitosaya薬草園蒸留所(みとさややくそうえん蒸留所」代表、江口宏志さんとの出会いは、田中さん自身にとっても、また城州白という梅にとっても新しく切り開かれた可能性でした。江口さんから送られた城州白のブランデーのボトルのラベルに「FROM AODANI UMEKOBO」と梅工房の名前まで書かれていた感激は生涯忘れることはないと語ります。江口さんは「自然からの小さな発見を形にする」という目標に基づく、志あるものづくりをされています。
田中さんは、昨年の京のさんぽ道の取材のなかで「やっていることに夢があるかどうか。みんなで取り組むことでも、自分自身が夢を感じているか、です」と語っています。これからも梅と深く向き合い、楽しく地域とかかわり盛り上げていく。その夢の実現にむけて、今日も一日梅に思いをめぐらせ、梅園へ出かけます。

 

青谷梅工房
城陽市中出垣内73-5
営業時間 9:00~16:00
定休日 日曜日・祝日

 

城陽酒造
城陽市奈島久保野34-1
営業時間 平日 8:30~17:30
土曜日9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

 

梅匠庵 若松屋
城陽市市辺五島7-4
営業時間 9:00~19:00
定休日  月曜日

山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

霧の亀岡 300年の歴史を刻む武家屋敷

前回に引き続き「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」一行を乗せたバスは、京と丹波の境となる老ノ坂峠を越え亀岡市へ。
亀岡市は、注目の明智光秀の築いた亀山城の城下町として栄え、森と水に恵まれ自然も豊かです。寒の内にしては穏やかな日和のもと、市内中心部から車で5分も走ると、まわりの風景が変わります。ほどなく、古い土塀と深い藪木立に囲まれた、堂々とした門構えの建物の前に到着しました。江戸幕府の旗本、津田藩の代官を務めていた「日置(へき)家」の屋敷です。

築300年の建物を可能な限り当時のままにし、多くの人が歴史的な建物に触れることができるようにと開店した「へき亭」です。地元亀岡の野菜や地鶏を使用した美味しいお料理とともに、おかみさんの日置道代さんのお話と、大切に継承されてきた建物や貴重な調度品の見学など、得難いひと時を過ごさせていただきました。

広大な敷地と周囲の景観も含めての歴史


日置家は代々、亀山城を正面に見るこの地で代官を務めてきました。敷地600坪という邸内には、自然の姿を感じる庭や、武道の鍛錬場、江戸時代に建てられた築300年の母屋、門の前の、平安時代から人々が京へ上った古道と道沿いの藪など、すべてが「代官屋敷日置家」の歴史を物語り、現代の私たちに伝えてくれています。

バスを降りた時、土塀と古びた道に魅かれたのはやはり、長い年月を経て来た存在が放つ力だったのだと感じました。この土塀や古道、趣のある入り口も含め、度々撮影に使われるそうですが、そのまま江戸時代となるロケーションですから、最高のロケ地でしょう。

玄関には、当主が二条城へ登城する際に使われた駕篭が置かれ、座敷には江戸時代末期に活躍し、円山応挙と並び称され、幕末画壇の「平安四名家」と評された、岸連山の襖絵や衝立が大切に保存されています。それは奥深く仕舞われているのではなく、今も襖や衝立としての役目で使われ、私たちも目の前にすることができます。中には、りっぱなゴブラン織りで仕立てた屏風もあります。これは道代さんが「300年の建物に合う調度品を」と探し求められたそうです。狩を楽しむヨーロッパの貴族の様子が見事に織り出されたゴブラン織りは、障子や床の間、掛け軸、甲冑など日本の家屋や骨董とも調和しています。

また日置家は、弓道の流派の一つ「日置流」の祖と伝えられ、岸連山の描いた鶴の襖の上方に弓がかけられていました。観音扉を開くとお仏壇があり、見せていただいた過去帳には「文化六年」「寛政十一年」と言った年号が書かれていました。ご先祖様も篤くお守りされています。玄関の様式にも代官屋敷の格式が見て取れるなど、数寄屋建築とは異なる見どころが随所にあり、限られた時間ではとても見きれませんでした。違う季節にぜひ訪ねたいと思いました。

集い、味わう場となった代官屋敷


おかみの道代さんは、代々の当主が現在まで大切に守ってきた歴史ある建物を「実際に見て、広く知ってもらいたい」との思いで、1994年(平成6年)「へき亭」を誕生させました。地元で収穫される、折々の季節の野菜や地鶏などを使って、ていねいに作られた一品一品は、素直においしいと感じます。「家庭料理をこの空間で味わい、ゆっくりしたひと時を過ごしてほしい」という、道代さんやスタッフのみなさんの心入れが隅々までゆき渡った、本当に心がほっとする時間でした。
明治維新後、多くの城郭や武家屋敷、寺院など伝統的な建造物が姿を消していきました。そのような中でこの日置家を、増築をしながら古い建物を補修し、当時の姿を保ち、
次世代へと受け継がれてきた道のりは、並大抵ではなかったことは容易に察せられます。広く知ってもらえるように大きく舵を切り、へき亭をつくったことも、決断のいることであったでしょう。これまで代々のご当主をはじめ日置家のみなさんが、使命感や覚悟を持って守ってきたこの空間を、これからは私たち一般市民も「かけがえのない預かりもの」として、保存継承にかかわっていく時代なのだと改めて感じました。もっと言えば「かかわることができる」時代なのです。

新しい役目を持った日置家の「へき亭」は、当主以外は家族さえも許されなかった客間に誰もが入ることができ、美術館級の襖絵や調度品も惜しげもなく、本来そこにあったかたちで置かれています。しかし威圧感ではなく「ちょっとおじゃまします」といった気分で拝見ができます。このように感じることができるのも、へき亭が「建物は人が住み、暮らしていたところ」としての根がしっかりあるからではないかと思います。身分の高い武家の屋敷であっても、暮らしの営みが感じられるところが、へき亭の大きな魅力なのだと感じました。

藪を通り抜け、木々に耳を澄ます


道代さんに見送られて、へき亭を後にし、京都府森林組合連合会アドバイザー前田清二さんの説明を受けながら古道を歩きました。古道に沿って深い藪があり、見上げるほどの樫の大木もあります。木をよく知った人なら、幹を叩いてみれば、中にうろ(空洞)があるかどうかわかるとのこと。うろがあれば直接、木の音が響くそうです。また棕櫚の木を何本も見かけましたが、梵鐘を突くしゅもくの先に棕櫚の皮を巻くと、良い音が出るそうです。お寺の庭で時々棕櫚の木を見かけるのは、そのためと説明されました。森を歩くと思わぬことを知ることができます。

のどかな野道を行くと、草が萌え始めていたり、畑の梅のつぼみがふくらみかけていたり、先々で春を見つけます。亀岡は、晩秋から早春にかけて、度々「丹波霧」と呼ばれる深い霧が立ち込めます。この霧は、乾燥する時期に森や畑に水分を与え、木や作物に恵みをもたらせてくれると聞きました。この美しい季節の風物詩の霧を、亀岡の特色としてアピールされています。1月には「かめおか霧の芸術祭」が行われました。

次に訪れたのはへき亭の近くにある、その名も「KIRI CAFE」(キリカフェ)です。古民家をリノベーションして、霧の芸術祭の拠点としてオープンした交流スペースです。芸術系大学の学生さんの陶器の作品や、近隣の農家さんが収穫した生き生きと元気の良い野菜が並んでいました。ストーブの上のお鍋から湯気が立ち、それも気持ちをあたためてくれます。2020年内の限定でオープンされたそうですが、ぜひ継続してほしい居心地のよい空間でした。

へき亭もKIRI CAFÉも、単に歴史のある武家屋敷、おしゃれなカフェという所ではなく「この土地と家を受け継ぎ生かして、多くの人にその良さや力を知ってほしい。それが新たな人と人のつながりになる」という熱い思いが、すばらしい場をつくっていると感じました。建物や森は、人がきちんと手をかけることで、人よりずっと長い命をつなぎます。そのことを考えることができたことはとても良い体験となりました。

京の茶室文化 数寄屋建築を支える木の文化

京都の特徴的な文化の一つ、茶室・数寄屋建築は、林業、木材の製材・加工、大工など、多様な職人の技や知恵によって支えられてきました。
実際に現地を訪れ、木の文化の源流を学ぶツアーが「林業女子会@京都」主催、「京都発 火と木のある暮らしの提案」でご紹介しました「京都ペレット町家ヒノコ」共催により2日間にわたって開催されました。
講師は職人さんや、建築、木材の専門家という特別企画の、数寄屋建築と庭園、銘木加工、製材所見学コースに参加しました。その様子を3回続けてお届けします。

その1、日本文化の精神を感じる建築と庭


京都御所の西側の静かな住宅街に、古風な門が見えます。門から路地を入り、さらにもう一つ門をくぐると、数寄屋建築の建物と手入の行き届いた広い庭があります。ここが日本文化と歴史を伝える場としてよみがえった「有斐斎弘道館」(ゆうひさいこうどうかん)です。
江戸時代中期の京都を代表する儒者、皆川淇園(みながわきえん)が創立した学問所跡に建てられています。このあたりは「どんどん焼け」とも言われた、京の町を焼き尽くす幕末の大火に見舞われましたが、明治時代から昭和にかけて増改築された建物が現在の弘道館です。約550坪の庭に、二つの茶室と広間のある建物は、お茶事をはじめ日本の伝統文化を学ぶ場となっています。

今回のツアーでは、京都建築専門学校副校長、建築史家の桐浴邦夫さんから、数寄屋建築や茶室の見方や歴史について説明していただきました。
室町時代、東山山麓の慈照寺(銀閣寺)のように、風光明媚な自然のなかで行われていた茶の湯は、次第に市中の富裕層の間に広がっていきました。
当時の人々は、自然に乏しい町なかでも、建物の土の壁や木から、自然を感じることができるよう工夫し、それを理解する感性を備えていました。そしてこの「侘数寄」(わびすき)の風趣は、小堀遠州に代表される、自由で明るく洗練された「きれい寂」(さび)という美意識へとつながっていきました。

弘道館の茶室は、この侘数寄ときれい寂の両方を兼ね備えていて見どころが多く、何回も訪れるなかで今まで気がつかなったところが発見できる楽しみがあるとお話しされました。また「日本の庭は、より自然に近づけるかたちで人工的に造ります。自然の要素と人工的なものをどう組み合わせるか。いろいろな技術を駆使しながらも、それを露骨に見せないことが、外国の庭園と大きく違う点です」と説明されました。こうして茶室や庭の見方の概略を聞いたうえで見学するのと、ただなんとなく見ていたのでは大きな違いがありました。

より自然に近づける卓抜した技術


六畳の茶室「有斐斎」は、床の間の内壁の墨蹟窓、高い天井などに特徴があります。これまでと同じ茶室にすることに異を唱える人があらわれ、お客様をもてなすという意味合いで、点前座を狭く、お客様の場所を広くとっています。

また、床の上部に竹材が使われていますが、よく見ると漆が施されています。高い所でもあり、最初は気がつきませんでした。すぐには見えない所にも技と工夫を凝らし、木の選び方や削り方なども、荒々しくする人、優しくする人など職人さんの気性や感性が伺えるそうです。

一方の茶室「汲古庵」(きゅうこあん)は、「表千家八代 卒啄斎(そったくさい)好み七畳」の茶室の写しです。卒啄斎は、自由に遊び心を取り入れる風潮にあったお茶に厳しさを求め、もう一度侘び数寄の世界へもどり、自然を感じようと取り組んだ人です。
特殊な加工や材を使っているわけではなく、土壁と丸太で素朴さを表現し、より心で自然を感じるつくり方になっています。「茶室は極限の広さの空間でお茶を点て、喫する場であり、狭いほど客と亭主の緊張感が生まれる。」とのお話に、先人のお茶人たちの心を推しはかる気持ちになりました。茶室は亭主と招かれた側が織りなす、一期一会の物語なのだと感じました。

歴史と文化を五感で感じる場


現在の有斐斎弘道館は、以前にも和の文化サロンとして活用されていましたが、2009年に建物と庭を取り壊し、マンション計画が持ち上がりました。すでに御所近くの町家も次々と姿を消す中で、庭や路地、茶室と、日本の文化が凝縮されたこの場は、なくなれば二度と取り返すことはできないと立ち上がった、研究者や企業人などの有志による奮闘と尽力で、保存が成し遂げられました。それが現在の弘道館の礎となり、2013年には公益財団法人化され、有志のみなさんによる活動が続けられています。

当日は、フランスからのお客様を迎えてのお茶会の準備で、財団理事の太田達さんはじめ、みなさんお忙しくされていましたが、とても丁寧におもてなしいただきました。お茶会のテーマは平安時代から11世紀までの桜ということで、それにちなんだすばらしい室礼でした。吊釜が掛けられ、炉縁は花筏、生垣は望月ので、これは「花の下にて春死なむ この如月の望月の頃」と詠んだ西行の歌にちなむなど、太田さんのお話に「もっと和歌や文学、歴史の素養があったら、どんなにこの場を楽しめたことか」と、つくづく思いました。

お菓子は今年の歌会始の御題「望」にちなむ「令聞令望」を頂きました。お茶は銘々、違茶碗を出していただきました。
太田さんは京菓子調進所のご当主です。「昔は政治家や経済人でもスケッチを持って来て、こういう菓子を作ってほしいと言ったものですが」と言われました。桐浴さんの「利休は、工務店の親父みたいなもんだったし、戦前は茶人が茶室を設計する例が多かったのです」という話も興味深く聞きました。

弘道館は、2019年7月7日に再興10周年を迎え、様々な企画が行われています。畳に座った視線で眺める庭、障子越しに差す光、湿りを帯びた苔の匂い。そして茶室という静謐な空間。
自然を大切する日本の美意識や伝統文化、職人の技を未来に伝えるために、弘道館という空間のすべてが必要なのだと得心しました。維持管理には、資金はもちろん、庭の手入れなど多くの人出が必要です。ぜひ多くの人が、その担い手になっていただけるよう願っています。手始めにご自分の好きな講座や企画に参加してみてください。

 

公益財団法人 有斐斎 弘道館
京都市上京区上長者町通新町東入ル元土御門町524-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日

京都府南部 東一口のお正月のにらみ鮒

京都のお正月は、おせち料理と一緒に「にらみ鯛」と呼ばれる塩焼きの尾頭付きの鯛が並びます。今はそのとおりにするお家は少ないと思いますが「よう、おにらみやす」と、三が日は箸を付けない仕来りです。
お祝事には鯛ですが、にらみ鯛ならぬ「にらみ鮒」でお正月を祝う地域があります。京都府南部、久御山町(くみやまちょう)の「東一口(ひがしいもあらい)」地域は、近くにかつて湖のように大きな「巨椋池(おぐらいけ)」が広がり、様々な淡水魚に恵まれ、漁業が盛んであったことから、豊かな川魚の食文化が今も受け継がれています。代々東一口に住み続ける鵜ノ口家17代目、鵜ノ口彦晴さんに、にらみふな鮒を中心にするお正月や川魚の話を伺いました。

巨椋池とともにある東一口の歴史

江戸時代の巨椋池(wikipediaより)

「一口」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡、平家物語まどに「芋洗」「いもあらひ」と記され、古くから交通や軍事の重要な位置を占めていました。
三方を巨椋池に囲まれ、入口は一方だけ、つまり一つの口であったため「芋洗」を「いもあらい」としたする説や、豊臣秀吉が宴を催し、流した短冊を鯉が一口に飲み込んだからなことはという言い伝えも入り乱れ、諸説あるものの、今もって定かなことはわかっていません。芋洗という地名になったいきさつも含め、興味が尽きません。

一口地域は、東一口と西一口に分かれていますが、巨椋池の西側堤防上にある東一口は漁業を主としながら農業も営み、西一口は農業を専らとしてきました。伏見区、宇治市、久御山町に広がる巨椋池は、度々の氾濫で人々を苦しめましたが、一方で川魚の豊かな漁場として恵みももたらしました。
鮒、鯉、うなぎ、なまず、どじょう、すっぽんなど多種類の魚があがり、東一口は特別な漁業権を認められていました。その大元締めであり大庄屋であった山田家の住宅が「国登録有形文化財」の指定を受け、一般に公開されています。
巨椋池は干拓によって消滅しましたが、通称前川と呼ばれる巨椋池排水幹線と古川の二つの流れの間にあり、民家が軒を並べる東一口の集落は、巨椋池とともにあった歴史や暮らしに思いを巡らすことができます。

にらみ鮒は、ことこと三時間


ぴんぴん跳ねる大きな鮒は、1週間ほど水槽で泳がせて泥を吐かせます。そうすることで、気になるにおいや、あくがなくなります。
鵜ノ口さんが、鮮やかな包丁さばきで鮒をおろしていきます。最初にうろこを引きますが、銀鱗という表現がぴったりの美しいものでした。内蔵を取る時「苦玉(にがだま)」と呼ばれる胆のうを傷つけると1匹全体が苦くなりどうしようもなくなるので、慎重に取り出します。味がしみこみやすいように、おなかと背に飾り包丁を入れます。

大鍋に竹で組んだざるのようなものを敷き、その上にきれいにさばき終えた鮒を並べます。この竹を敷くことで、焦げ付きにくくなります。使わない時は折りたたんで収納しておけるすぐれ物です。ひたひたにお酒を入れて火にかけます。煮えてきたところで丁寧にアクをすくうのですが、水槽で泳がせた鮒からは、ほとんどアクが出ませんでした。砂糖と醤油を入れたらことこと、焦がさないようにゆっくり炊きます。だんだん良い匂いが漂ってきます。

お正月は、きれいに炊き上がった尾頭付きの大きな鮒を、銘々に一尾ずつお膳につけてお祝いします。運良く「子」が入った鮒がついたら大当たり。「鯛より旨い。子どもも喜んで食べる」そうです。鵜ノ口さんは「炊きたても旨いけれど、一日おいた鮒も旨い」と言います。そして「残った頭に番茶を注ぐと、これがまた旨い」のだそうです。
もろこの天ぷら、もろこの甘露煮が入った海苔巻きや押し寿司、型押しだんご、久御山町の特産品の淀大根の炊いたものなど、手間を惜しまず、丁寧につくられたそれぞれの家の味は、毎年のお正月、そして毎日食べても食べ飽きない美味しさがあります。

食材を余すところなく使い、それぞれの部分の味を楽しむ。これは現代においては、高度で豊かなことだと感じます。それを、声高く宣伝することもなく、普通に同じことができる暮らしが東一口には続いています。鵜ノ口さんは「古川で泳いだり釣って来た魚を料理する祖母、母親の姿することを見て育ちました。私は川魚で育って来ました」と笑って話しました。漁具や農機具などを収納する建物は、りっぱな梁が通り、天井に川魚の煮炊きに使うざるなどがかかっています。川魚漁は閉じても、その知恵や味わいは今も暮らしのなかで引き継がれています。

東一のふる里を学び、楽しみながら継承する


鵜ノ口さんのお宅の前は古川です。川の付近の草刈りや掃除など、地元の人や子どもたちの通り道を少しでも美しく、楽しくしたいという思いからです。美しい白の椿は毎年、初釜に使ってもらったり、水槽の魚を子どもたちが興味深々に見に来たり、小さなあたたかい交流が芽生えています。
平成22年に山田家が文化財に登録されたことをきっかけに、この歴史的な建物の活用と、自分たちが住んでいるふる里、東一口についてもっと学び、みんなで知ろうと「東一口のふる里を学ぶ会」が平成24年に結成されました。現在27名の会員が年間通して様々な活動にかかわっています。会長を務める片岡清嗣さんも17代目です。「農業と違って川は、ここまでがうちのもの、という区切りがありません。端から端までみんなで共有しています。そういうことが根底にあって、洪水が起きた時も力を合わせてきたから、この東一口は昔も今も、住んでいる家がほとんど残っているのだと思います」と話されました。

在りし日の巨椋池(wikipediaより)

巨椋池と川魚漁。その深い結びつきが生んだ住民の結束と、文化や知恵はこういうところが源泉にあるだと深く感じました。
それぞれのお家の、それぞれのかたちのお正月。新年を迎え、京都の町並み、暮らしと文化が継承されますよう、そしてすこやかな年となりますようお祈りし、建都もいっそう京都の企業としての役割を果たしてまいります。

京都発 木と火のある暮らしの提案

時雨れて底冷えのする京都。火のぬくもりが恋しくなります。薪や炭、またペレットなど、木からできる燃料の良さを広げ、木と火のある暮らしを始めようと取り組んでいる会社があります。それぞれができる、小さなことから始め、その積み重ねが、私たちの暮らしを豊かにし、京都の森を再び元気にすることにつながると語ります。名付けて「薪炭革命(しんたんかくめい)」。

だれもが参加でき、出入り自由のほのぼのとした革命は、しかし進めるのは容易ではありません。これに果敢に取り組む、株式会社Hibana(ひばな)のアンテナショップであり活動拠点の「京都ペレット町家ヒノコ」で、代表の松田直子さんにお話を伺いました。

木と火のものが集まっている町家


バイオマス、ペレット。名前は良く聞くけど何だろう。バイオマスは、生物(bio)由来の物質(mas)のことを指し、木が由来のものを「森林(木質)バイオマスと言います。地球温暖化が世界中の大きな課題となっている今、注目を集め次世代の再生可能エネルギーとして期待が高まっています。間伐材や端材、おがくずなどの粉を固めて粒状にしたものが木製ペレットです。
松田さんは、熱帯林や日本の林業に関心を持ったことから「燃料としての活用」に至り、NPOで森林バイオマスの普及活動に取組んできました。より多くの人へ広げるためには、会社の設立が必要であると考え、2006年にバイオマス研究会で一緒だったメンバーと二人でHibanaをたちあげました。「いつまでも人の心を和ませ、ぱちぱちとバイオマスの火を灯していけたら」という気持と決意をこめて社名としたそうです。

Hibanaが運営する、アンテナショップであり、環境や森林にかかわる団体や関心のある人々のプラットフォーム「京都ペレット町家ヒノコ」は、前回ご紹介しました村上開新堂のすぐ近く、京都市役所北側にあります。
「京都ペレットあります」ののぼりと「森の燃料 道具 雑貨など」の木の看板の脇に、まな板や赤い色がかわいい火ばさみや灰すくい、木のクラフトが並んでいます。寺町通りのそぞろ歩きを楽しむ人たちも足を止め「この道具、懐かしい」「桧のまな板っていい匂い」などと話したり、商品を手に取ってみています。

建物は大正時代に建てられた京町家です。走り庭と呼ばれる台所のたたきも残り、知り合いの家へ来た気分の、気兼ねなく過ごせる空間になっています。店内は、木と火にかかわるもののワンダーランドです。ペレットストーブ、炭や火おこし、七輪、スプーンやお箸、食器、アクセサリー等々、何時間いても飽きることがないと感じる空間です。

愛嬌たっぷりの大きなピンクのぶたは、ペレットグリルです。イベントに貸し出され、実際にバーべキューに使われて、木の燃料の使用を呼び掛ける広報の一翼を担う人気者です。
クリスマスが近い季節柄、サンタやかんなくずで作られたリースや花が、冬の楽しさを盛り上げています。積み重ねて仲間や家族を増やしていけるネコのおもちゃには、一つ一つ木の名前が刻印されています。
商品展示もとてもセンスが良く、作家さんや森林の仕事をする人々とヒノコの、森や環境に対する深い思いと愛情が伝わってきます。無理せずに、木や火のある暮らしを始めるよいきっかけの場となっています。

ヒノコは森と人のプラットホーム


ヒノコの2階は、イベント、教室、展示会やミーティングなどに活用できるレンタル空間です。元写真館だったという建物の2階は、高い天井、漆喰の壁、大きくとった窓など、建物の魅力を感じます。ここでは、できるだけ京都産のエネルギーを活用できる設備や道具を備えています。炉を切り、床の間を設えた和室もあり、幅広い目的、企画での使用が可能です。

ペレットストーブ、ペレット七輪、炭火を使う昔ながらの火鉢や七輪、人数によって調整のきく可動式のメインテーブル、大きなドングリ型の火鉢、木地師のていねいなつくりの器などを使用することができます。壁には250種類の木からつくられた彫刻の作品「木の卵」が並んでいます。卵にはそれぞれの木の名前が添えられています。コシアブラ、カリン、枇杷、イチイガシ・・。制作者の思いから、すべてを、手に取りさわることができます。作品を手に取ること、七輪や火鉢に火を入れることは、火事になったら、やけどをしたら、作品を傷つけたらなどの心配が尽きません。しかしヒノコは「どんどん使ってください、さわってみましょう」を実践しています。太っ腹です。
壁の漆喰はスタッフが集まって塗ったそうです。大変でしたねと言うと「楽しかったですよ。この建物のこともいろいろ知ることができましたし」という答えが返ってきました。和室の片隅には、子どもの木のおもちゃも用意されています。空間まるごと木の心地良さと火の力を体験できます。

木のエネルギーの地産地消をめざして


障子、畳と長火鉢に鉄瓶。ペレットストーブのやわらかな暖かさが心地よい部屋で話を伺いました。バイオマス普及のため、もっと認知度を高めたい。そのためには、まちなかへ打って出ようと考え、この町家にめぐり合い移転して10年がたちました。
事業化して必死に活動を続けるなかで、松田さんが気にかかったのは、70%を森林が占める京都市の木の燃料が少ないことでした。他の地域から運んでいては輸送コストや環境面での負荷が大きくなってしまいます。そこで、京都府内で初のペレット製造会社「森の力京都」の設立にかかわり、実現させました。「京都ペレット」の誕生です。
ペレットストーブは、国産メーカーができたのが2000年で、一般に認知され始めてまだ十数年しかたっていません。海外では普及していて、韓国や中国でも増えているそうです。先進国のなかで唯一ペレットが広まってないのが日本という現状です。

松田さんはペレットストーブについて「都心部や住宅街でも比較的設置しやすく、日本の住宅事情に合っている」と語ります。取り付けはエアコンに近い簡単な工事ですみ、ペレットを燃やすだけなので、手軽に扱うことができます。「ちょうど家電と薪ストーブの中間、両方のいいとこどりした暖房機」なのだそうです。
ただ松田さんは、購入を検討する人に対して「ペレットストーブの良い点だけでなく、こういうこともありますよ」と伝えることが大切だと言います。灰の掃除や燃料を毎日補充しなければならないことなどです。その多少の「不便さ」とも付き合いながら、木や火を身近に取り入れる暮らしを始めてみませんか、という提案です。ヒノコの種々のリーフレットには、森や山々に木を植えた先人への思い、多くの人とかかわれる場の大切さが、真摯に熱く、そして深くわかりやすく書かれています。環境やペレットに関しての入門書としてもうってつけです。

ペレットストーブに使う木質ペレットは、地域の山の木でつくられています。
今は小さな単位であっても、木質ペレットを製造することでその仕事にかかわる雇用も生み出すことにもつながります。またペレットストーブはアフターメンテナンスが伴うので、その部分を担う仕事が生まれます。スト―ブ製造、燃料製造、輸送、販売、メンテナンスという地産地消ビジネスです。
Hibanaは、エネルギーと森林、木質ペレット、クラフト、そして私たちの暮らし、すべてが循環していること、少しの手間や煩わしさは、本当の豊かさをもたらすことに気づかせてくれる身近な存在です。

 

株式会社Hibana(京都ペレット町家ヒノコ)
京都市中京区寺町二条下ル榎木町98-7
営業時間 10:00~19:00
定休日 水曜日

洋菓子の香り漂う 京都寺町二条

クリスマスの華やかな色があふれる繁華街をよそに、古美術、墨、お茶、洋菓子などのお店やギャラリーや書店が並ぶ寺町二条界隈は、いつもと変わらない静かな雰囲気です。文化芸術系の店舗に交じり、暮らしを感じる鮮魚店や青果店が軒を並べています。目を引く、町並みに調和した木造の白い洋風建築は、明治40年、御所近くのこの地に開業した洋菓子の草分け「村上開新堂」です。ドアを開けてみましょう。

村上開新堂のお菓子の系譜


村上家は代々宮中に奉仕し、遷都の際には東京へ移り、引き続き御用を務めました。京都村上開新堂初代となる清太郎氏は、伯父にあたる、東京村上開新堂の初代、村上光安氏に洋菓子の製造を習い、明治40年に現の地に開業しました。

その後、各種博覧会の審査員に推され、東京大正博覧会では金杯を受賞。大正から昭和期には、現在の大丸松坂屋の食堂の喫茶部門を任され、各種学校や自治会からの注文も多く、地元に支持され、名実ともに第一級の西洋菓子舗となりました。バターやミルクの味や香りに初めて出会った当時の人々は、その話題に花を咲かせたことでしょう。
大正時代には、初代によって、紀州のみかんを使ったゼリー「好事福蘆(こうずぶくろ)」が完成しました。今も当時と同じ味わいと意匠が受け継がれる代表銘菓となりました。こうして、村上開新堂のお菓子は広く知られるようになりましたが、昭和15年頃には、砂糖が配給制となり、約10年間休業を余儀なくされました。しかし昭和26年に再開を果たし、ロシアケーキや缶入りクッキーなどの焼菓子が製造されるようになりました。

村上開新堂のお菓子は、素材の良さと、ていねいなつくり方がそのまま伝わる、てらいのないシンプルな美味しさです。好事福蘆は「ふたにも果肉が残っていますから、搾って召し上がってください」とお店で教えられたとおり、ゼリーに搾ると、たっぷりの果汁に、たちまち香りが立ちあがってきました。11月から3月までの限られた季節の味です。
ロシアケーキは、はじめサクッとしてほろっとする、独特の食感です。赤いチェリーや橙色のあんずジャムが乗った形も楽しくなります。今では製造している所は全国でも数店しかないそうです。焼菓子は均一的ではなく、それぞれの個性が感じられます。「素朴で懐かしい」という言葉では言い尽くせない深い味わいに、老舗の味を感じました。

文化歴史博物館さながらの店内

明治の三筆と言われた書家が揮ごうした店名額


焼菓子4種類と、ロシアケーキをお願いしました。箱詰めや包装ができるまでに少し間があり、店内を見させていただきました。漆喰の壁、高い天井、木製の棚、照明具もとても凝ったつくりです。古いガラス、モザイクのようなタイルも今では製造されていないものです。「開新堂」の扁額は、明治の三筆と言われた「日下部鳴鶴(くさかべめいかく)」の揮ごうとのこと。元彦根藩士で、大久保利通に使えたこともある書道家なのだそうです。店内にはこんな歴史の素材も見つけることができます。

天井には、今ではすっかり見ることもなくなった気がする、箱にかける紙ひものロールがつられています。従業員さんの包装紙で包んだり紐をかけてゆるみなく結ぶ様子に見入ってしまいます。今の暮らしのなかで「待つ」ことができなくなっていると感じます。
しかしここでは、待つことができるというより「待つことを楽しめる」のです。90年たった建物は、衰えも感じさせず、日々愛おしんで手入れされているのだなと感じました。

お菓子の箱は、銀ねず色にエジプト文様の包装紙に、ぶどう色の紐が良く映えて、きりっと結ばれています。そして包装を取ると、なんと掛け紙に幅広の真っ赤なリボンが結ばれていました。これを、お使いものにしたらどんなに喜ばれることか。今の暮らしのなかでは、贈答、お使いものという言葉も行為も少なくなっていますが、村上開新堂のお菓子とその包みは儀礼だけではない、相手を思いやる自分自身の心のゆとりが持てる贈物があるということを教えてくれた気がしました。

「村上開新堂らしさ」ということ

和紙が張られた壁と北欧家具のマッチング

四代目の村上彰一さんは「昭和初期の建物の中で、お菓子を味わいながらゆっくりしてもらいたい」と、店舗の奥の和室をカフェとしてリノベーションしました。
店舗からカフェへの通路は茶室の路地のような趣きです。カフェは個性の異なる三つのスペースからなっています。正面に坪庭の見える広いスペース、壁に黒谷の和紙を張った、照明の陰影が美しい二人用茶室を改装したクラシックな雰囲気の三つです。内部は、鶴の透かし彫りが施された床の間の羽目板や、竹を瓢箪の形に細工した欄間など、職人の技とセンスがあちこちに見られます。

錫で囲われたカウンター
カフェの席からは坪庭が見えます

濡れ縁と庭が見える場所は、季節の移ろいを感じることができます。そして濡れ縁へ出ると店舗と隣り合っている工房でお菓子を焼く、甘い香りが漂ってきて幸せな気持ちになれます。だれも考えたことのない錫のカウンター、北欧の家具や入口の李朝のタンスも違和感なく心地よく調和しています。

彰一さんはまた、お店としては35年ぶりとなる新商品をつくりました。クリームのようになめらかでコクのあり手みやげにもなる、その名も「寺町バニラプリン」と、アーモンドの香りが豊かなマドレーヌ、苦みのある塩キャラメルが味を引きしめるダックワーズです。「これまでの味をしっかり守っていきたいと思います。ただ変えないというのは何もしないということではありません。新しいことも必要です。トレンドに流されずに、しかも若い世代へのアプローチできることが必要です。新しいことのかたちがカフェでありプリンなどの新商品です」と語ります。

そして村上開新堂らしさとは、シンプルであきのこないお菓子、そしてこの場所のこの建物で営業を続けるということまで含めてのことです。その意味で、カフェの開設やプリンなど新商品の開発は、まさに村上開新堂らしい新しい一歩です」という明快な言葉に、四代目の矜持と、流されない芯の通った自信が伺えました。
取材の時、60代と思しき男性のお客様がカフェにみえ「子どもの頃から、ここのロシアケーキをよう食べてました」と、思い出につながるお菓子に久しぶりに出会えて懐かしそうでした。四代目、彰一さんが語った「この場所に、この建物が存在していること」の大きさと深い意味を感じた取材でした。
建都も地域に根付く企業として、これからも京都のまちとと営みが継承されるために、力を尽くしてまいります。

 

村上開新堂
京都市中京区寺町二条上ル東側
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜、祝日 第3月曜

京繍のすそ野を 世界へ広げる

日本の文化を象徴する着物や帯を、いっそう美しく彩る日本刺繍。奈良時代に仏教とともに伝来し、やがて十二単や武将の衣服、能衣装などに様々な刺繍がほどこされて技法も発達していきました。「京繍(きょうぬい)」は、優れた技術とともに、繊細で雅な色使いや意匠を特徴とします。京繍の伝統を、日本の文化とともに多くの人に伝えたいと、体験や教室、講師育成講座、そして日本で初の「日本刺繍通信教室」を開設し、新たな展開を実現した「中村刺繍」の、伝統工芸士 中村彩園さんに話を伺いました。

波乱万丈、京繍がたどった歴史


貴族や武士階級の衣装や、社寺の装飾に用いられた京繍は、様々な技法が発達し、安土・桃山時代には絢爛豪華な能衣装や小袖が生まれ、江戸時代まで、多くの刺繍職人や下絵師が腕を振るいました。しかし、明治維新になり、強力な注文主であった武士や寺社などが力を失い、その混乱のなかで、贅沢品であった刺繍も大きな打撃を受けました。そこで、先人たちは海外に活路を見い出そうとしたのでした。

ウィーン万博に出品して好評を得たことがきっかけとなり、大量に輸出されるようになり、製品も、壁掛け、額装、ついたてなど、インテリアにも多様に応用の範囲を広げました。その中で確立されたのが、画面を細かい刺繍で表現した絹糸の艶や風合いにより、絵画以上に写実的に見える「刺繍絵画」です。これらの刺繍製品は「貿易刺繍」と呼ばれ、手の込んだ良いものはほとんどが海外へ出て行き、日本に残っているものは非常に少ないそうです。
壊滅的な打撃から立ち直るために、果敢な挑戦をした当時の先人たちの並大抵ではない、強さを感じます。京繍の繁栄は続き、仕事は大量にあり、職人さんは大忙しだったそうです。しかし、経済の波や、刺繍絵画が中国で作られるようになったこと、近年では、生活様式の変化による着物ばなれなどの影響を受け、徐々に西陣でも後継者不足や刺繍屋さんの廃業などの問題があらわれてくるようになっていきました。
そのような状況のもと、中村刺繍は、一日体験コース、日本刺繍教室や講師育成講座を開設、初の通信講座など、伝統の京繍を次世代へつなげるための一石を投じたのです。

繊細、優美な京繍の魅力


京繍は、1976年に伝統工芸品として国の指定を受けました。技法は100に及び、絹の刺繍糸は3000~4000色、針は太さの違う15種類ほどがあります。刺繍糸は絹、縫う際は両手を使う点も京繍(日本刺繍)独自です。木枠に張った布の裏側から、刺繍する部分に針を刺すのは大変難しく思いますが、中村さんの、下に隠れた右手は、ぴたっと思い通りのポイントに針を通します。ひと針、ひと針の根気のいる緻密な作業から、美しい花や鳥、おめでたい意匠が形づくられていきます。

これから額装にまわすという、みみずくと鷹の大作を見せていただきました。鋭い目、翼を広げてこちらに飛び立ってきそうな迫力です。干支シリーズ、ふくさ、制作途中の作品なども、それぞれのイメージに合った配色と縫い方で、個性的であったり、優美さや可憐さが表現されています。仕事を受けた時、色使いや縫い方など細かい指定はなく、ほとんどが「おまかせ」なのだそうです。

常時2000色はある絹糸から配色を考えて糸を選びます。刺繍糸は、細い糸12本が1本になっていますが、使う時に、その都度撚りをかけ、撚り方と本数によって太さを変えます。絵具を混ぜるように、違う色の糸を撚り合わせることもあるそうです。お客さんの年齢や、発注してきたお店の好みなどを念頭に置き、イメージを描いて「色を塗っていく感覚」で針を進めるそうです。まさに職人のセンスと腕の見せどころです。

色の系統ごとに納められている絹糸は、ため息が出る美しさです。かめ覗き、浅葱、はなだ、茜、紅梅、萌黄・・・。日本の伝統色の美しい名前が浮かびます。中村刺繍は国産の絹糸のみを使用しています。その艶と微妙な色あいは、日本の絹の美しさです。広島県に一軒残るだけという針も含めて、雅な京繍の伝統を支えています。

新しい構想を胸にあたためて


中村刺繍は、街路樹の銀杏が色付き始めた堀川通りに近く、昔から染織に関連する店や職人が多い西陣地域にあります。大正10年に刺繍職人として活躍した彩園さんのお祖父さんが初代となり、そこから90年。現在は彩園さんのお姉さんで、やはり伝統工芸士の後藤美鈴さん、ネット担当の息子さんと三人で生業として勤しんでいます。

「日本一やさしい日本刺繍教室」と銘打った教室は「初めてでも、伝統工芸士さんの指導でわかりやすく安心できる」と生徒さんが増えています。ここで基本を学び、さらに高度な技術や知識を学ぶ「講師育成講座」を巣立ち、中村刺繍の分室と言える教室を地元で開く人も続いています。現在は東京、横浜、愛知、大分など各地に広がっています。
教室に通うきっかけは「自分で刺繍した着物や帯を身に付けたい」「歌舞伎が好きでよく行くことから興味を持った」「京都の伝統文化に関心があった」など様々ですが、みなさん「自分で作ったものを身にまとう喜び」を実感されています。一日体験コースは修学旅行の中学生や外国からの観光客にも人気ということです。また、同業者のみなさんも「がんばりや」とあたたかい目で見て、応援してくれているそうです。

中村さんには、今あたためている構想があります。一つは「京繍」に代わる名称の「中村刺繍ブランド」の立ち上げです。「京繍」は「京都刺繍協同組合」の商標であり、組合員でなければ、決められた技法を使い、そのレベルは達していても、京繍という名称は使うことができないのです。伝統の技術を受け継ぐ人みんなが使えるように、そしてもっと広げていくためにも中村刺繍ブランドへの思いを強くしています。

そしてもう一つ、海外への展開についても考慮中とのことです。絹の刺繍糸は韓国や中国にもありますが、日本の色に魅力を感じる人が多く、糸が単体で売れるそうです。京繍はもちろん、日本の優れた素材も海外で十分評価されるのではないかと、中村さんはみています。また気軽に日常的に使える商品開発も恒常的に考えていきたいと語ります。
日本の伝統産業は、右肩下がりの面がよく言われますが、厳しい現状を直視しながらも、その素晴らしさ、伝統が持つ力を信じて新たな展開をあたためている人の存在が、未来を切り開いていくと感じました。中村刺繍と生徒さんが、ひと針ごとに心を込めた作品の展示会が開かれます。繊細な美しさのなかにも、それぞれの個性や感覚があらわれた力作をぜひご覧ください。そして、京繍の魅力を感じていただければと思います。

 

中村日本刺繍教室作品展「童夢」
11月29日(金)~12月1日(日)
京都市中京区御池通 東洞院北角
しまだいギャラリー西館

 

中村刺繍
京都市上京区上立売通堀川東入堀之上町5
営業時間 10:00~12:00、14:00~18:00
休業日 土曜日、日曜日、祝日