八幡の松花堂から 椿事始め

椿は梅と並び、古くから愛されてきた花です。余寒のなかで凛として咲く姿は字のごとく、春の訪れも感じさせ、私たちの心に響きます。山に自生する椿の大木、お寺の参道の落ち椿の美しさなど、その光景が目に浮かんできます。
冬から春にかけてのお茶席には、椿が入れられ、侘助、白玉など、その名も深い趣があります。奥の深い花、椿の事始めは広大な敷地の中に椿園がある、八幡市の「松花堂」から出発します。

伝統建築と、竹の文化と技術の継承

茶室松隠
松花堂の茶室松隠

松花堂は、22,000㎡の広大な庭園です。石清水八幡宮の社僧であり、茶の湯、書、絵画をよくした江戸時代初期の代表的な文化人、松花堂昭乗の草庵「松花堂」や寺坊の一つ泉坊の書院が、明治政府の「神仏分離令」により、男山から取り払われた際に東車塚古墳にある現在の地へ移築し、整備されたものです。幾多の変遷をたどりながらも守られ、平成26年(2014年)には「松花堂及び書院庭園」が国の名勝に指定されています。

松花堂の竹
2018年の地震と台風被害により、草庵「松花堂」泉坊書院、東車塚古墳のある内園区域は、残念ながら修復作業中で見学ができませんでした。そこで、まぶしいほどの日差しのもと、ゆっくり庭園をめぐりました。
松花堂庭園には、梅や椿、もみじ、などが季節ごとに楽しませてくれますが、約40種類の竹や笹が植えられています。八幡と竹は、エジソンが電球のフィラメントに使ったように質の良いことで知られます。

松花堂の金明竹
金明竹
松花堂の亀甲竹
亀甲竹

「金明竹(きんめいちく)」という、節に緑と黄色が交互に入った竹や、節が亀のこうらのようにねじれた「亀甲竹」という竹など、珍しい竹が見られます。また、柵やしおり戸、鯉が泳ぐ池の竹組など、あちこちに伝統の職人技を見ることができます。

松花堂の池

松花堂の茶室梅隱
松花堂の茶室梅隱

利休の孫にあたる千宗旦好みの四畳半の茶室を再現したという「梅隠」の内部は、行灯の周囲だけがほの明るく、陰翳が広がる静けさが漂う空間でした。外の伸び伸びとした明るさとの対比がくっきり浮かび上がっていました。
つくばいに設えられた「水琴窟」の響きは、宇宙的とでも言うような感じがします。耳を澄ますという行為そのことが今の日常には、なかなかないことです。小鳥のさえずりと、水琴窟の響きが聞こえ、馬酔木の鈴なりの花房が、かすかな音をたてているようでした。

気品、可憐、華やか。百花百様の椿

松花堂の落ち椿
園内の300本を超えるという椿は、花の盛りを過ぎた種類もありましたが、青々とした苔と落ち椿の対比は、やはり風情のあるものでした。
椿は江戸時代に一代ブームが巻き起こり、公家や大名、市井の富裕な人々が競うように珍しい椿を育て、鑑賞したそうです。そして、絵画や書、図録、また工芸品、着物や装飾品など身の回りのものにも椿の意匠が用いられていきました。昭乗は、茶の湯もよくしたので、多くの茶人と同様、椿を愛でたことでしょう。松花堂の庭園に様々な椿が植えられているゆかりです。

松花堂の燭光
燭光という品種の椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂早咲き籔椿
松花堂の椿、鹿児島
鹿児島という品種の椿

園内の椿を見ていくと、赤でも鮮やかな赤、少し黒味を帯びたような赤、紅色、薄紅色、白、絞りなど本当に微妙です。花の開き方や花芯も様々です。そしてやはり花の名前にもひかれます。「白楽天」「京雅(きょうみやび)」「燭光(しょっこう)」「細雪」「一子侘助」「常照皇寺早咲き籔椿」「霊鑑寺早咲き籔椿」など、ひとつひとつその花に込めた思いや由来を想像してみます。白地に赤い縞模様の華やかな椿は「鹿児島」という名前でした。来歴や命名の由来など興味は尽きません。

松花堂の椿、玉之浦
五島列島のから来た玉之浦

一度では、椿園のほんの一部しかわからないのですが、中に特に心に残った名前がありました。「玉之浦」です。そこで帰ってから調べてみると長崎県の五島列島で発見されたということがわかりました。美しい五島の海と玉之浦という名前はみごとに一致していました。

東高野街道再訪、長崎の五島の椿

東高野街道

松花堂は東高野街道の地点にあります。庭園を出てから街道を石清水八幡宮まで歩きました。一の鳥居前は変わらず「走井餅老舗」がお店を開けています。門前の茶屋の風景は健在です。二の鳥居近くの和菓子屋さん「みささ堂」さんへむかいました。こちらも夫婦お二人で変わりなく元気にお餅を作っています。

みささ堂の製菓道具

石清水八幡宮二の鳥居
毎日お餅を搗く石臼、重い杵、餅箱も現役です。餅箱には「昭和拾参年」「拾弐月吉日」と墨文字がうっすら見えます。「昔の道具は、長く使えるように作ってあるから、丈夫。今も現役」と笑っていました。「杵は最近重い杵が作られてないので、今あるのを大事に使わんとね。本来の道具はこうでないと」と続けました。全部がお店を続けるための大切な相棒です。二の鳥居の近くにも二種類の椿が咲いていました。

五島列島福江島
五島列島福江島の美しい浜

八幡へ行った次の日「玉之浦」を調べることにしました。
以前、五島列島の福江島出身の方から、地元の話を聞いた時、椿の話も出てきました。春になると籔椿が島にたくさん咲くこと、髪は椿油で手入れをしていることなど、にこにこと、ふるさとの福江が本当に好きなのだということが伝わってくる話ぶりでした。
福江島は、今は五島市となり、市役所の農林課には、なんと「椿・森林班」という部署があります。電話をすると、椿担当の職員さんがとても丁寧に話してくださいました。美しい椿「玉之浦」には、島のみなさんがその教訓を今も大切にしている物語がありました。後に玉之浦と命名された椿は、昭和22年、炭焼き職人さんによって山で偶然発見されたものでした。
「玉之浦」は五島市になる前の旧町名です。その玉之浦の町長さんを長く務められ方が引退後、山歩きを楽しむなかで、その椿の姿に強く心をひかれ、大切に育て、乞われて全国椿展に「玉之浦」と命名して出品したところ広く世に知られるようになりました。
五島列島の椿、玉之浦
赤い花びらに白いふちどりの、この椿は大変な人気となり、枝や根を切られるなど酷い行為により、母木は枯れてしまうという無念な結果になってしまいました。しかし、その子孫が根付き、地元のみなさんにより、種を絶やさず今も玉之浦で美しい花を咲かせているそうです。
また、玉之浦の二つの地区では、毎年1月23日に、その年の豊作を願う伝統行事「大綱引き」があり、その綱の真ん中には椿の枝がさしてあるそうです。ほかのお祝い行事にも椿を使うとお聞きし、とても雅で五島のみなさんの椿を愛す心にあふれていると感じました。
五島市の市木はやぶつばきです。椿が咲く景観をとても大切にされています。そして現在も10社ほどが椿油を製造所しているそうです。今もこのように自然の恵みを暮らしに役立てていることはすばらしいことです。五島は暖かいので今年も2月下旬には椿が咲き、とてもきれいだったそうです。「今は旅行ができませんが、コロナが収束したらぜひ島へお越しください。お待ちしています」と、うれしい言葉をいただきました。
電話口からも、五島の美しい風景とあたたかい人柄が伝わってきました。椿事始めの初回は、豊かな気持ちで満たされました。

 

松花堂庭園・美術館
八幡市八幡女郎花43-1
会館時間 9:00~17:00
休館日 月曜

地元や氏子で守る 豊かな水の恵み

川の流れがやわらかな日差しにきらきらと輝いています。光の春の訪れです。まちなかを歩くと、京都は豊かな水の都であることをあらためて感じます。川や運河があり、名水の湧く井戸があります。伝統の生業や物資の運搬にと役割を果たして来た流れや湧き出る水は、今も枯れることはありません。身近にある水の恵みをたどりました。

歴史ある番組小学校の地域の「銅駝水」

二条大橋から見た鴨川
二条大橋のたもとから見る風景はまさに「山紫水明」。まちの中心部を流れる鴨川と、ゆるやかな山並みを見渡す眺めは、やはり京都の象徴です。そこから少し北へ行き、静かな通りへ入ると「銅駝会館の銘板のある建物の前に「防火用」のプレートと蛇口があります。これがおいしい水の名が高く、毎日多くの人が汲みに来る「銅駝水(どうだすい)」です。
銅駝水
この地域は明治2年(1896)に開校した「上京第三十一番組小学校」の歴史ある校区です。銅駝小学校、銅駝中学校、そして京都市立銅駝美術工芸高等高校(美工)となった今も、教育熱心で自治の意識の高い「銅駝学区」が継承されています。そして銅駝水も、銅駝自治連合会で維持・管理し、水質検査も受けています。
銅駝水
利用者からの募金の使いみちを美工の生徒が描いた楽しいイラストで紹介するなど、学校と地域とのつながりを感じます。水を汲みに来た方に聞くと「この水でいれたコーヒーは最高です」という答えが返ってきました。汲み終えると「いつもありがたく汲ませてもらってますので、わずかですけどね」と協力金を入れて帰って行きました。
一年中24時間、だれでも自由に汲めるおいしい水。それは「自分たちのまちは、そこに住む人も参加して一緒に考え、守っていく」という地元のみなさんの努力のたまものです。150年余の歴史を刻む番組小学校の自治の伝統が脈々と受け継がれています。
京都市立銅駝美術工芸高等学校
銅駝会館に隣り合う京都市立銅駝美術工芸高等学校、通称美工は、日本で最初の画学校として明治13年(1880)に創立されました。校舎は昭和14年(1939)に7年かけて完成したコンクリート造りアールデコ様式のモダンな建物です。千年の都、京都は近代建築もしっくり調和するまちです。これからも美工と銅駝水が、地域のつながりの象徴として存続することを願っています。

疫病退散、怨霊を祀る神社の伝承の水

下御霊神社の鳥居
墨、お茶、骨董などの和文化の老舗と、明治創業の洋菓子店や画廊、ハンドメイドの雑貨店など和と洋、新旧が一体となった寺町通は、さんぽ気分でゆっくり歩いてこそ感じられる魅力があります。
朱塗りの鳥居を構えさらに正門、拝殿、本殿へと続く土塀をめぐらせた神社は、平安時代初期の神泉苑での御霊会を起源とする下御霊神社です。冤罪によって亡くなった菅原道真公をはじめとする七人の貴人の怨霊をなぐさめ、疫病厄災を退散させる「御所の産土神」として天皇、貴族、町衆に敬われてきました。
下御霊神社の手水舎下御霊神社の手水舎
正門を入ると手水舎があり、清らかな水がたたえられています。この水は、江戸時代の明和七年に京の市中が旱魃に見舞われた際、下御霊神社の神主さんが夢のお告げによって境内を掘ったところ清冽な水が湧き出て、人々に飲ませることができたと伝えられています。井戸の跡は残りませんでしたが、この当時と同じ水脈の地下水が「御霊水」名付けられ、今も多くの人がその恩恵にあずかっています。手水舎は手入れが行き届き、柄杓を置く青竹がいっそう清浄な雰囲気を漂わせています。

平成の始めに御霊水として復活してから毎日、汲みに来ているという方と出会いました。「名水と言われる他の所のお水も汲んで来たことがありましたけど、主人が、ここのお水でいれたコーヒーが一番や、よそのやと味が変わる言うて」と、少し微笑んで話してくれました。そして「それで毎日汲ませていただいて、主人にお供えしています」と続けました。
下御霊神社の梅下御霊神社
境内は八重咲の紅梅が咲き誇っています。社殿は宮廷神殿を伝えるものとして貴重であり、大門の梁の龍や、玄武と朱雀に乗った仙人の彫刻など、見どころもたくさんあります。これだけの建造物を、修復を重ねながら維持保存していくのは並大抵のことではないと思います。御霊水を汲みに来るみなさんも含め、ぜひ多くの人に身の回りの歴史に関心を持ってもらい、協力してもらえたらと思いを強くしました。

水と親しく暮らす京都の水の文化

高瀬川一之船入
高瀬川沿いの桜のつぼみの先が、そろそろふくらみ始める頃になりました。川べりにぼんぼりが灯る桜の時期の風情、また力強い若葉が影をつくる頃の散策も楽しいものです。
物資を積んだたくさんの高瀬舟が行き交った川は、今の時期立ち止まる人もなく静かに流れています。観光用に飾られたものではない、もとの京都の姿を感じられます。
以前、高瀬川を開いた角倉了以の子孫の方が「了以が考えていたことは、高瀬川から淀川を下り、外国へ出たかったのではないか」と語られていたことが今も記憶に残っています。先人の抱いた、苦労にも勝る夢があったことは、今を生きる私たちにも大切なことを教えてくれている気がします。

食文化、染織、農業など水とかかわる仕事は多くあります。水が磨き、育んできた文化とも言えます。身近に川が流れ、おとうふやお酒、お醤油が地元で作ら京野菜が育てられる、この京都の水の文化を大切にしていきたいと切に感じました。

 

下御霊神社
京都市中京区寺町丸太町下る下御霊前町634

ようこそ 京町家のおもちゃ映画博物館へ 

大正から昭和の初め、日本映画の黄金期に、映画館で上映された後に切り売りされた35ミリフィルムをおもちゃ映画と言います。そのフィルムは、一般家庭でブリキ製のおもちゃの映写機を使って楽しまれたことから、この名前が付けられました。
なぜフィルムが切り売りされたのか、日本の映画や、映画のまち京都はどのような歴史を刻んできたのか。時代の変遷とともに捨てられたり、かえりみられることなく劣化し、消えゆくフィルムには、無声映画の全盛期に携わった人々の息遣いや熱い思いが込められています。この貴重なフィルムを救いたいと「おもちゃ映画ミュージアム」を設立し、運営を担う、代表の太田米男さんと奥様で理事の文代さんにお話を伺いました。

切り売りでわずかに残った貴重な無声映画

おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん
おもちゃ映画ミュージアム代表の太田米男さん

おもちゃ映画ミュージアムが収集・復元したフィルムは約900本にのぼり、200点以上の映写機やカメラなども展示されています。太田さんの収集品に加え、このミュージアムの存在を知り寄贈されたものもあります。
取材に伺った日、太田さんは映写機をきれいに磨いて調整されていました。寄贈されたフィルムや映写機はすべてていねいにチェックして、可能な限り修復しています。復元できたフィルムはデジタル化して寄贈してくださった方へ送りていねいに感謝の気持ちを伝え、つながりを深めています。
映写機とフィルム
映画が音声付きのトーキーの時代になると、無声映画のフィルムは乳剤を洗い流して新品フィルムとして再利用されたり、廃棄されるなどオリジナル映画のほとんどが失われてしまいました。上映後に切り売りされた「おもちゃ映画」は、時間にすると20秒、30秒から1分、3分という短いものですが、今となっては、映画の歴史を伝える数少なくかけがえのない資料となっています。
時代劇を中心にアニメーションや実写のニュース映像もあり、当時の様子が映し出された歴史の証人です。太田さんは「家に古いフィルムや映写機、パンフレットなど映画に関係するものがあれば、劣化してしまう前にぜひご連絡ください」と呼びかけています。
また、京都市広報局が1956(昭和31)年から1994(平成6)年まで製作し、映画館で上映されていた「京都ニュース」の救出にも取り組んでいます。社会や暮らし、文化、今は失われた景観など、時代を映す貴重な映像資料です。製作から60年以上経過し、劣化が進んでいるなか、保存と活用に力を注いでいます。
おもちゃ映画ミュージアムの蓄音機
ミュージアムでは、手回し式の映写機でおもちゃ映画を見たり、手回しの蓄音機でSPレコードを聞くことができます。カタカタカタという映写機の音とモノクロの映像の世界に、ゆっくりと身を置いて過ごしてみてください。

無声映画の輝き「活弁」の世界の企画展


日本映画は無声映画時代「活動写真弁士」略して活弁と呼ばれた人々の語りが入った形式ができあがったことが大きな特徴です。これは日本独自のスタイルであり、文楽や落語、講談など「語りもの」の芸を楽しむ文化が下地としてあったからと聞き、腑に落ちました。名調子で映画を盛り立て、人々を熱狂させ、全国で大勢の活弁士が活躍しました。人気を博した活弁士は、当時のポスターやチラシに名前が大きく載っています。

活動写真弁士の世界展
活動写真弁士の世界展

おもちゃ映画ミュージアムでは今、「活動写真弁士の世界展 第2期黄金時代」が開かれています。現在では10人足らずとなった現役活弁士の一人、片岡一郎さんが所蔵する無声映画時代のポスターやチラシ、出版物など多数のすばらしいコレクションが展示されています。詳細なリストと解説資料も用意された渾身の企画展です。
大胆なレイアウトや個性的で迫力のある書体など、大正から昭和の初期という時代の勢いと、仕事を手がけた人々のエネルギーが伝わってきます。映画はもちろん、印刷やデザイン、モードなど様々な視点から楽しめるとても興味深い展示です。映画の黎明期から一番輝いていた時代、映画に心血を注いだ人々の様子が浮かび上がってきます。

映画への思いが人をつなぎ明日をつくる場所

おもちゃ映画ミュージアムの外観
代表の太田さんは京都生まれの京都育ち。家は撮影所のあった太秦にも近く、子どもの頃から映画はいつも身近にありました。映画とかかわる日々のなかで、「映画は財産」として大切に修復と保存・管理がなされているアメリカやヨーロッパに比べて、極端に少ない日本映画の保存状況に危機感を覚え、2003年から「玩具映画プロジェクト」を立ち上げ、その後、映画の復元と保存に関するワークショップを毎年開催し、その地道な積み重ねのうえに「おもちゃ映画ミュージアム」を設立しました。
当時の忠臣蔵のポスター
開館は2015年5月、映画が誕生して120年、また日本映画の草創紀に大活躍した尾上松之助の生誕140年という記念すべき年でした。この開館を祝うかのように、偶然にも尾上松之助の作品「忠臣蔵」のフィルムが寄贈されたのです。それは9.5ミリの特殊な規格でしたが、上映できる映写機があり、映してみると再編集された1時間ほどの、ほぼ完全なフィルムだったそうです。おもちゃ映画ミュージアムは、古い映写機やフィルムの安心の地であり貴重なフィルムが多くの人と出会う新たな場となります。
おもちゃ映画ミュージアムの映写機
戦前に日本で作られた映画で、残っている作品は5パーセントほどしかないそうです。「日本でも外国でも評価されているのは、現在フィルムが残っている映画だけです。出演が1000本を超える尾上松之助や日本映画の黄金期を築いた阪東妻三郎、大河内伝次郎なども、残っている作品はきわめて少なく知られることがありません。どこかに残っているかもしれないそれらの作品を発掘して、監督や俳優たちの名誉回復をしてあげたいですね。尾上松之助も派手な演技ばかり言われていますが、社会福祉団体に寄付するなど社会的貢献をしたことの顕彰もね」と語る太田さんの言葉には、映画にかかわるすべての人に対する敬意がにじみ、心に残りました。
おもちゃ映画ミュージアムの天井おもちゃ映画ミュージアムの中
おもちゃ映画ミュージアムの建物は、もと友禅の型染の工場だったそうで、高い天井にりっぱな梁が通り、間口は狭く奥に深い町家づくりです。ここには映画を通してつながった人たちの協力のかたちがあちこちに見られます。屋根に掲げられた一枚板の鮮やかな勘亭流の看板は、その道の専門の職人さん、内部の壁に張った板の色は、長年映画の美術を担当している方が「展示するものが映えるように」と、ちょっと汚してよい風合いにしてくれました。新しい柱も既存の部分と違和感のないように塗られています。すてきなのれんは、文代さんのお姉さんの作です。
太田さんご夫妻
太田さんは「映画の復元と保存に取り組むという思いがあれば、応援してくれる人は必ず出てくると、思っていますと語ります。実際に次に引き継ぐべき後進も育っているとのことです。昨年からコロナ対策のため、意欲的な企画を中止または延期にせざるを得ませんでしたが、歩みを止めることなく今できることを考えて取り組んでおられます。
太田さんご夫妻は今後さらに、おもちゃ映画ミュージアムが、映画関係の人や、映画が好きな人、みんなが集まって来て情報交換したり、励まし合い、様々なワークショップもできる「映画の基地」となればと考えています。以前にこの空間を生かして、前進座の俳優さんによる「松本清張作品の朗読劇」や歌舞伎の隈取のワークショップなど魅力ある企画も実施されてきました。より多くの人にミュージアムに足を運んでもらい、映画の発掘と復元、そしてこの京町家の空間ともども、明日へと継続されますよう願っています。

 

おもちゃ映画ミュージアム
京都市中京区 壬生馬場町29-1
会館時間 10:30~17:00
休館日 月曜・火曜

京都のまちかどの おとうふ屋さん

「今日は湯どうふ」と、何回もお鍋を囲んだお家も多いことと思います。季節を問わず、年中お世話になっているおとうふ。良い水に恵まれている京都は昔から「京のよきものとうふ」と名をあげていました。
上京のまちに今も、おくどさんで薪を焚いておとうふを作り続けるお店があります。
「創業文政年間」と染め抜いたのれんが、京町家にしっくり調和する入山豆腐店です。ご主人の入山貴之さんに話をお聞きました。おとうふのこと、お客さんのやりとり、京都の歴史等々の話題が次々と繰り出し「もっと聞きたい」入山さんの味なお話を、ほんの一部ですが、おすそ分けいたします。

ものは人の手がつくっている

入山とうふ
入山とうふ店主の入山貴之さん

京都のまちなかには、名水の湧く井戸がいくつもあります。上京区の「滋野井(しげのい)」の名水は、元滋野中学校の校歌にも「滋野井の泉のほとり」と歌われ、地元の宝として大切にされてきました。入山豆腐店もこの地域にあり、井戸から地下水をくみ上げています。近辺にはおとうふ、生麩、醤油など良い水があってこその生業が営まれています。
入山とうふのおくどさん
入山さんのお店では、機械を使うのは大豆をすりつぶす作業だけです。このすりつぶした大豆を、おくどさんにかけた大釜のお湯に入れて炊いていきます。ガスにすれば手間はかかりませんが、カロリーが低いので時間を要します。その点、常に火加減に注意し、微妙な調整も必要ですが、薪は火力が強く短時間で炊きあがり、香りや風味を生かすことができます。
按配のよいところを見きわめて、炊いた大豆を袋で濾すと、豆乳ができます。この豆乳に、にがりをまぜて型に流し、余分な水を除いてから水槽の中で切って、おとうふの完成です。焼豆腐は串を打って炭火で焼き上げています。これは秋から4月いっぱいくらいまでの季節のものです。焼目こんがり、こうばしい味、よい香りは「入山さんのお焼き」だけのものです。
入山とうふの油揚げ
お揚げやひろうすもおくどさんで、きれいな油を使い、丁寧に揚げているので、油抜きする必要はありません。豆乳も機械でぎゅうぎゅうしぼり切ることがないので「お客さんから、ジューシーやと、よう言われる」しっとりしたおからになります。炒らずに、そのまま使っておいしくできます。豆乳も毎日買いに来るお客さんも多く、冬は豆乳鍋にするお家もあるとか。質の良い水と原料、誠実な手仕事で作られたものは、何にしてもその素のよさが生きています。
薪を割る入山さん
大豆を水に漬けるのは前の晩、朝4時からおとうふを作りお客さんに応対し、合間には薪を割りその他諸々、仕事がたくさんあります。年2回は近くの小学校の見学を受け入れています。「体を使って働く姿を見ることがないと思う。ものは人間の手がつくり出しているのだということを知ってもらえたら」という思いです。ものづくりは人の手がつくり出す。入山豆腐店はおいしさとともに、その大切さを教えてくれます。

鐘の音と「入山さーん」と呼ぶ声

姪ごさんの太田真莉子さん
姪ごさんの太田真莉子さん

2年前から、火曜、木曜、土曜の午後は近くの町内をリヤカーでまわる「まわり」を復活させました。担当は、2年前からお店を手伝っている姪ごさんの太田真莉子さんです。真莉子さんの後にくっついて、まわりに同行させてもらいました。リヤカーに真莉子さん手書きの「入山とうふ」の看板を付け、入山さんのお祖父さんの時代からのりっぱな鐘とともに出発です。

あいにくの冷たい雨でしたが、晴天続きで井戸が枯れかけていた入山豆腐店にとっては、恵みの雨です。よく響く鐘の音が家の中にも届いて「入山さーん」と声がかかります。「雨の日は本当に助かる。まわって来てくれはるし、ありがたいわぁ。入山さんとこのは、おいしいしね」そして「雨の日は大変でしょう。気ぃつけてね。いつもありがとう」という言葉に、信頼関係や感謝の気持ちがこもった、とてもあたたかいものを感じました。
まちなかでも、このあたりはお店がなく、高齢の方をはじめ多くの人が真莉子さんのまわりを頼りにしています。一言ふた言でも、そこで交わす会話に気持ちがなごむことでしょう。
2階からかごを降ろして買う思いがけない楽しい場面にも遭遇できました。

「今日はお客さんが多かったです。3人だけとかいう日もあります」と真莉子さん。まわりを始めたのは、どういうことからですかという問いには「必ず需要はあると思っていました。入山豆腐店がせっかくこれまでやってきたことを大切にしないともったいない。必要とされているところ、待っていてくれている方に応えたいと思って冬も夏も、お客さんが少ない日も、曜日も時間も変えることなくまわりをしています。」
みなさんも運が良ければ真莉子さんのまわりに巡り合えるかもしれません。鐘の音が聞こえてくるか、耳をすませてみてください。

江戸時代の作り方は、究極のエコだった

入山とうふの店頭
薪をたくなつかしい匂いと、煙突からうっすらと上がるけむり。入山さんがのれんを出し、店頭にはみずみずしいおとうふをはじめ、揚げたて、焼きたてが次々と並んでいきます。同時にお客さんがやって来ます。「ただ今開店しました」というふうではなく、何となくゆるく開店する感じも、ほんわかした雰囲気です。
入山さんのお父さんが跡を継いだ時は昭和30年代、世の中が大きく変化し始めた時でした。豆腐製造業も機械化が進み、多くのお店が機械化・量産化へ舵を切りました。スーパーマーケットができ、食品へも大量生産、価格競争の波が押し寄せた時代です。お父さんも機械の導入を考え、先代に相談したところ「とうふ屋が数に走って売り上げを上げたらあかん」と返され「これまで通り」を続けてきました。「結果、よかったかな」と入山さんは思っています。

おとうふは、外国の人に多いベジタリアンやヴィーガンの人たちも食べられます。「そういう点でも日本のとうふは世界の人に安心して食べてもらえる優れた食品で、食べ方もいろいろアレンジできる。しかも歴史や文化的な価値がある。シンプルという日本人の考え方はすごい」と可能性を感じています。

おくどさんで焚く薪は、大工さんから手に入れる端材を利用し、消し炭も火付け用に取っておき、灰は豆乳をこすふきんなどを洗う時に使います。「捨てるものは何もない究極のエコ」です。あるものを生かして使い切り、循環させる作り方には、今の時代に多くの人が感じ、見つめなおして大切にしようという暮らし方、ものづくりの本来の姿があります。
入山さんは人と話すことが大好き、本が好き、いろいろなことに興味があり、多くの人、外国のお客さんともコミュニケーションを楽しんでいます。入山さんは「それが、まち店の意味」と語ります。そこからお店の経営や考え方にも柔軟性が発揮されているように感じます。

商品名を書いた札や、イラスト入りのボードなどは、すべて真莉子さんの手になります。真莉子さんの「リヤカーを、赤とか明るい色にして、もっとかわいくしたい」という構想に、入山さんは「それもええなあ」と応じます。二人のやり取りや、かもしだす雰囲気が何かいい感じです。淡々と明るく仕事を進める二人の様子は、二百年ののれんも軽々と、とても身近に感じられます。おいしいおとうふ屋さんが近くある幸せ。ささやかな喜びの積み重ねが、京都のまちと暮らしをかたちつくっています。

 

入山豆腐店
京都市上京区椹木町通油小路 東魚谷町347
営業時間 9:30頃~18:00頃

蔵を回り めぐり合った酒と人

寒中らしい、底冷えの京都です。
この厳しい寒さが、日本酒、みそ、醤油など、発酵食品のおいしさを生み出します。二条城近くの西本酒店に、今年もこの季節だけのお楽しみ、気鋭の蔵元から、寒造りの新酒が届きました。他ではなかなか手に入らないものがあり、角打ちもできるこのお店に、口コミで訪れる人が増えています。これぞ酒屋さんという風貌の西本酒店の三代目店主 西本正博さんと番頭さんの中村信彦さんに話をお聞きしました。

ビールはケース売りのみの決断

西本酒店の店内
今では珍しくなった店構えが目にとまり、はじめて西本酒店で話をお聞きしたのは2年前の秋でした。その時も日本酒の品揃えに驚きましたが、さらに充実しています。
以前は町内に1軒くらいはあった酒屋さんを、取り巻く環境は大きく変わりました。ディスカウントストアができ、コンビニやドラッグストアでもアルコールを買える時代に入ったことがあげられます。ビールを販売しても安売り価格を知っているお客様にしたら「高いなあ」ということになります。売っても喜ばれないとは「何してるこっちゃわからへん」と「ビールはケース売りのみ」の決断をし、以前から定評のあった日本酒特化へと方向を定め、力を注ぎました。
それまで顧客だった人たちが高齢になり、個人売りの販売量も減っていました。そこで個人にかわり、飲食店への販売主流に切り替え「ビールはケース売り」「日本酒へ特化」、つまり安売りはしない、もっと日本酒を追求し扱いを多くする、という決断は、西本酒店にとって新しい展開の道すじとなりました。

酒造りに一心に励む蔵元を訪ねて

西本酒店の城巽菊
西本酒店の創業は明治35年。二条城の東南の巽(たつみ)の方向にあたることから「城巽(じょうそん)」とあらわし今も地域は城巽学区と呼ばれています。この名にちなみ初代は自家醸造の日本酒「城巽菊」をつくりました。優雅で気品のあるお酒だったそうですが、戦争で製造中止を余儀なくされました。西本さんは何とか再び世に出したいと願い、滋賀県の蔵元との出会いから、平成14年に復活させました。
西本酒店にはたくさんの蔵のお酒がありますが、ことに滋賀県の蔵の品揃えが充実しています。西本さんのお話によると、滋賀県は「琵琶湖の水、よい米、腕のよい杜氏の三拍子が揃い、蔵同士が切磋琢磨して競ってきた」から、今も多くの蔵元が一生懸命研究して、伝統と新しい試みの両方にがんばっているのだそうです。

西本酒店の三代目店主 西本正博さん
西本酒店の三代目店主 西本正博さん

番頭の中村さんはアルバイトだった学生時代からずっと西本酒店で仕事を続けて今に至り、西本さんも頼もしい片腕として全幅の信頼を置いています。
中村さんは滋賀県を中心に、自分の足で蔵元を訪ね「これは」と感じるお酒を見つけて来ます。「造っている人の話を直接聞けますし、こういう人たちが造っているのだなとわかります。酒造りもやっぱり人です」と、話してくれました。そして滋賀のいいお酒をもっと置いていきたいと、静かながら、しっかりした口調で続けました。
その意気込みが伝わって「特約店」となり、一般のお店には卸していないお酒も入れることができています。そして自分たちでも「ええお酒やなあと思ったものがお客さんにも喜ばれたら、こっちもうれしいし返り注文(再注文)もできる。蔵元も喜んでくれる」という、本当に三方良しの商いが生きています。

蔵元の社長さんも訪ねてみえたそうで、良いお酒を造るつながりに、販売店も一緒に加わるということはすばらしいことだと思いました。店頭には、待つ人多しの蔵元直送の酒かすが並んでいます。複数の銘柄の酒かすを置いているのも、いかにも「日本酒に特化」のお店です。

日本酒好きは増えている確かな実感


日本酒の生産量は平均的には落ちています。しかし西本さんは、一般的に言われる「日本酒離れ」とは違う見方をしています。それは「若い人や女性が増えたこと、仕掛けられたブームや流行りという情報ではなく、自分に合う気に入ったお酒を見つけるために、みんな、しっかり質問するという点です。後ろの酒米や麹などの表示も確認します。
質問も、より深くなっていて「こっちもしっかり勉強していかんと、お客さんのほうが詳しくなってしまう」ほどの研究熱心な人ばかりだそうです。そして「燗酒好き」も若い人に多いそうです。

角打ちスペースにはお燗セットもあります

若い世代、女性の来店が多いのは、その思いにかなう品揃えやお店の対応が得られるからです。「あそには、なかなかおもしろい酒がある」という口コミによって、わざわざ足を運ぶ人もめずらしくありません。西本さんは「消費税が上がって売り上げが下がっていたところにコロナ。でも、不特定多数の個人のお客さんに助けられている。よかったなあと思う」と笑顔で語ります。「今の若い人は自分の好みで買う。そこがこれまでとの一番の違い。日本酒に特化することは時間がかかるけれど、思い切ってやってよかった。時代は変わっている」と続けました。
ディスプレイも担当し自ら考案した「MY SAKEを見つけよう」のキャッチコピーが光っています。
西本商店の店内
「造る人と買う人の仲立ちには、なってるかなと思って、生きがいを持ってやっている。一生勉強」と語る言葉も力強いです。
これまでとは行動パターンが変わった今、ゆっくりと「自分が好きなこと、もの」をさがし、向き合う時間に使うこともできます。番頭の中村さんは、こまめに面白くSNSでの発信を続けています。ぜひ、ご覧になってください。ゆっくりとかもしだされる日本酒の魅力を感じながら、燗酒など静かに傾けてみてはいかがでしょう。

 

西本酒店
京都市中京区姉小路西洞院西 宮木町480
営業時間 10:00~19:00
定休日 日曜、祝日

清々しい青竹に感じる 新年を迎える喜び

門松や神社のしめ縄の青竹の色が新年にふさわしく、気持ちも改まります。成長が早く、地下でしっかり根を張る生命力の強い竹は、古くから縁起のよいものとされてきました。少し前までは暮らしのごく身近にあった竹について、京都の西、乙訓で茶道や華道、料理の道具をはじめインテリア、内装や建築資材など幅広く製造する「竹屋の六代目」東洋竹工代表 大塚正洋さんに話をお聞きし、新しい年を迎えることの大切さを思いました。

仕事や暮らしになじみ、根付いた日本の竹

東洋竹工
東洋竹工では門松や、初釜に使う青竹の蓋置や花入れ、料理に使う容器や箸、お正月飾りなど、新年用のあれこれの納品が終わり、目くるめく忙しさから、少しほっとした雰囲気が漂っています。その時々の新しい工夫やデザインを加えながら、新年に青竹を使う意味、改まった清々しさが伝える習わしを大切にしています。

現在、日本では孟宗竹、真竹、淡竹の3種類で竹全体の90%を占めています。孟宗竹はざる、かご、箸、また作物の支柱や稲はざ、鰹の一本釣りや海の中に沈めて魚を囲う生けすなど竹は、農業や漁業、建築資材など広範囲に使われてきました。日本古来種の真竹は編みやすく材質に優れているため、様々な竹工芸品が作られ、細く割りやすい淡竹は、茶筅に加工されています。また、竹製品はそれぞれの用途に合わせて、より丈夫で使いやすく工夫が続けられ、進化してきました。たとえばお茶の加工工程では、静電気の起きない竹の道具は非常に適していて、茶葉をふるう「通し」という作業に使う目の細かい竹の“ふるい”は、重要な品評会に出品するお茶の出来栄えにも影響するほどです。

東洋竹工の展示室
たくさんの竹製品が展示さてれている東洋竹工の展示室

縄文時代の遺跡から、漆を施したざるや、土に残った網目が発掘されているほど、竹は日本の風土に結びついて利用されてきました。竹の起源については、筍を収穫する孟宗竹は中国江南省あたりから鹿児島へ伝わったという説が有だと思うと、大塚さん。しかし「そのルートなら沖縄を通るはずだけれど、沖縄には孟宗竹はない」そうで、渡来したルート解明にも興味がわきます。またインドネシアやタイにも、日本の「かぐや姫」の物語に似た「竹から生まれ月へかえる」類の伝説があるそうです。東南アジアには竹の産地も多く、竹を加工する技術も伝承されているということで、大塚さんは「アジアは同じ民族だったのではないかと思う」と続けました。竹から広がる壮大なロマンの一端です。

竹林再生のボランティア活動の支え手

竹林整備
竹林の整備をされる大塚正洋さん(中)と健介さん(右)

産業構造や暮らし方の変化のなかで、竹を優れた資材として使う場面はめっきり減りました。また、京都の伝統野菜に指定されている「京たけのこ」の栽培も、後継者難もあり減少し、荒れた竹林の再生と保全は大きな課題となっています。
この京のさんぽ道「京都の竹林再生 幼竹がメンマに」でご紹介した任意団体で、竹林の環境整備と活用に取り組む「籔の傍」の活動に大塚さんも参加しています。地道な、そして創造的で楽しく、幅広い年代が参加する活動です。東洋竹工製造部長の高木稔さん、息子さんの健介さんも指導にあたるなど、竹の専門家としてのバックアップを続けています。向日市が整備した「竹の径」沿いに進められている伝統的構法による竹垣つくりにも、みんなで取り組んでいます。
今後は、このように景観保全や伝統の職人の技の継承に市民がかかわり、にない手となる流れが歓迎され、広がるのではないと感じます。
竹自動車
「竹は日本、日本の京都」を世界に知らしめたのは、エジソンがフィラメントの素材に八幡の真竹を使ったことです。大塚さんは大学や竹の研究者と一緒に、竹皮から繊維をとる開発に取り組んだり「竹自転車」や「竹自動車」の共同開発にも参画しました。
「世界に知られた京都の竹も、ぼうっとしていたら忘れられてしまう。100年以上前に積み上げてくれた遺産を食いつぶすことのないように」と、今も変わらず「竹の可能性」をいつも考えています。それは勿論簡単なことではないはずですが、「竹のことは一日話しても足らん」と笑う大塚さんの探求心が留まることはありません。

「もっと、おもしろく」をこれからも

羽田空港国際線ターミナル
竹のイルミネーションは国際線ターミナルに飾られ、海外の方をお出迎え

東洋竹工では、伝統の技術や乙訓産の竹の、素材としての質の良さにこだわりつつ、常に新しい出会いへのアンテナを張っています。東京の六本木ヒルズや羽田空港ターミナルのイルミネーション事業の仕事も手掛けました。

京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品
京都市の創作行灯デザインコンペで最優秀賞を受賞した作品

立体的にカットされた竹の花入れ
立体的にカットされた竹の花入れ

その時に照明デザイナーと知り合い、竹という素材の可能性やおもしろさを生かした製品が生まれました。竹を繊細に編み込んだ照明器具、竹を「三次元」にカットして竹の繊維の立体的な表情と曲線が美しい花入れ、竹の切り口を生かしたインテリアなど、竹の持ち味をこれまでにない形で生かした製品の数々です。

一人用の竹せいろ竹の盛り籠
太い孟宗竹の節に穴を開けた青竹の筒を見せてくれました。それは一人用の「せいろ」でした。大塚さんいわく「青竹の容器や箸を、1か月たっても青い色をそのまま保てるのは、板場の力」。個性的な盛り籠も料理人さんから注文されたもので「竹のことや食材のことを本当に知っている、力のある料理人が料理を盛って使いこなせる」という言葉はとても説得力がありました。
大塚さんは「竹の需要は今が一番縮こまっている時。20年たって竹の仕事があるか。次にどうするかを考えないといけない。」と語り「そういう意味では息子も、しんどい時に後継ぎになって苦労が多いと思う」と、息子さんを思いやる言葉も聞かれました。しかし、すぐに「竹という素材は応用がきく。素材から完成まで、一貫してできるのは竹」と続けました。

お正月用の花入れ
お正月用の花入れ

竹の用途が少なくなった今、竹と言う素材と用途がピタッと合うものはなかなか難しいそうですが、そのなかでふすまや障子の敷居の溝にはめ込んですべりをよくする建築材「竹すべり」は今も製造販売が続くロングセラー商品です。
東洋竹工の会社案内に書かれたキャッチコピーは「もっと、おもしろく」です。まん丸い竹は存在せず、節もそれぞれ違い同じものはありません。自然の素材を形にする難しさであり、そのおもしろさを引き出すことに作り手としての楽しさがあると言えます。伝統・現代・自然素材という要素を組み合わせる苦労から次の「おもしろい」が生まれると感じました。すっぱりと潔い青竹のたたずまいが、いっそう清々しく感じられる年の始めです。

 

東洋竹工株式会社
向日市寺戸町久々相13-2
営業時間 8:30~17:00
定休日 土・日曜、祝日

桂川のほとり 独創的野菜づくり

暑さが尾を引いた今年の秋でしたが、この野菜の端境期も終わり、冬野菜が本格的に収穫の季節を迎えています。京の伝統野菜は聖護院かぶや一年を通して出回る九条ねぎも今からが旬です。
京のさんぽ道でもこれまで2回ご紹介しました石割農園(「京野菜とともに海外にも挑戦」「京野菜農家がつくるレモン」 )でも、日の暮れまで作業が進められています。「オーダーメードの京野菜つくり」というベンチャー型農業を創業し、フランスで京野菜を作ったり、次々と新しいことを手がけるその人、石割農園代表の石割照久さんに、今どんなことを始めているのか、これからの農業についてなど、忙しい仕事の合間に話を伺いました。

昔の人の勘や経験を数値化する研究

初霜
京都では12月7日に初霜が降りました。京都地方気象台の観測データでは、平年に比べると19日も遅く、昨年からみても6日遅くなっています。朝晩は冷え込んでも、昼間はぽかぽかする小春日和の日が続きましたから、さもありなんでしょう。そしてその後、一気に冬型の天候となり、みんな「今年は暖かいと思っていたのに急に寒くなった」と言っていますが、石割さんは「今年は12月半ばから寒くなると思う」と、前から言っていたそうです。なぜ、そう思ったのかと聞くと「うるう年の年は暑さが長く続くなど季節がずれ込む。旧暦で見るとわかりやすい」という答えでした。そして「もずが鳴くと台風の直撃はないという、昔からの言い伝えがあるけれど、今年は本当にその通りでした」と続けました。
石割農園から望む桂川
石割さんの畑は桂川のほとりに広がり、対岸の西山の峰々と愛宕山を望みます。京都ではこの火伏せの神様を「愛宕さん」と、親しみを込めて呼んでいます。そして「愛宕さんに雲が参ると雨になる」という言い伝えは、日々の暮らしや農業の大切な情報として生かしてきました。気候風土とよく言われますが「空気、水、気流、それに鳥や獣の生息や習性もすべて含めての気候風土」と石割さんは考えています。
1980年代始めから西山の麓にニュータウンの建設が始まった結果、気流が変わったと語ります。そして「昔の人の教えをちゃんと聞いておかないとだめ。それは、人の話を聞く耳を持つということ」と力を込めました。身近な山や雲の様子から気象の知らせを受け取って来た先人たち。そしてその言い伝えは、今も当てはまり、私たちと自然とのかかわり方を教えてくれています。そして今、大学と共同して「昔の人の勘や経験を数値化し、科学的に証明する」という、とても興味深い研究を始めているそうです。
勘や経験という感覚的なことを今は数字で追えるという進化と、数値という厳密なものに置き換えてなお、深い意味を持つ勘や経験のすばらしさを感じます。

いかに、食べてもらう側に立つか

野菜の説明をしてくれる石割りさ
石割さんは安全な野菜作りに取り組んで来ましたが、そのきっかけはアトピーの子どもたちと、そのおかあさんたちとの出会いでした。アトピーに苦しむ子どもたちを何とかしたいという思いで「農薬を使わない野菜作り」の研究を始めました。石割さんの野菜を食べてもらい、その結果や感想をアンケートで返してもらうという協力関係をつくり、少しずつ自ら安全な野菜作りを確立していきました。農産物の規格や品質の基準のJASが広まるずっと以前のことだそうです。石割さんの子どもさんが「学食の野菜は洗剤の匂いがする。なんで家の野菜は違うんかなあ」と言い、親戚のお子さんは「これ、おっちゃんとこの野菜やなあ」と言っているそうです。
石割農園の里芋
普段食べているもので、こんなに味覚が育つということに驚きました。「自分が食べられないものは作らない。いかに食べてもらう側に立つか。あるから出荷するのではない」その「農家意識」が、農家と消費者側の私たちの友好的な関係を築いていくと実感しました。

おもしろい野菜とお正月を祝う野菜

石割農園の農具小屋
立派な作りの石割農園の農具小屋

石割農園は、江戸時代から続く農家で、京都の伝統野菜やブランド野菜の多くを作っていますが、その時々に料理人やレストランのシェフの求めによって洋野菜もいろいろ作っています。取材の日に畑で見せてもらったのは、ごく小ぶりな白菜やアンディーブ、中国野菜です。
土の匂いのする今とれたての野菜の味の濃さに驚きながらの「畑の学校」のようなひと時は、短い時間ながら最高の学びになりました。中国野菜は形がおもしろく、何種類か試作しているそうですが、何年後かは出せるようになるとのことでした。今から期待したいと思います

石割さんは、こうした新しい試みと同時に、世界中で持続可能な農業に取り組み、世界的な農業認証である「グローバルGAP(グローバルギャップ)」にも取り組んでいます。自然を相手にし、これからどんな農業をしていったらいいのか。コロナの影響で野菜の値段は半値になっているなか「京都の土に合った種を探し、使うこと」の重要性を説きました。売ることも大変だけれど、まず種を選ぶのが大変なのだそうです。同時に京野菜はその持ち味をなくして、一般的な味のものにしてはいけない、それぞれの風土が生んだ味を尊重することの重要性も強調しました。
白味噌のお雑煮
信子さんに石割家のお雑煮やお正月の決まりのお料理を聞きました。お雑煮はもちろん、白みそにかしら芋。たたきごぼう、お煮しめの野菜はすべて別々に炊くそうです。とても手間のいることです。新年のお祝いの膳に並ぶ野菜は全部、家の畑でとれたものとは何と豊かなお祝いでしょう。だれもが、自然に感謝し、家族が健康で新年を迎えることができる喜びを感じることができるよう心から願っています。

笑顔のお返し 京都寺町の駄菓子屋さん

だれもが目をきらきらさせて、どれにしようかと夢中になる駄菓子屋さん。いつまでもあってほしい大切なものの一つです。京都一番の繁華街、四条通り寺町南界隈の様子は大きく変貌しましたが、そのなかに幅広い年代の人が、吸い込まれていく駄菓子屋さんがあります。
初めてやって来た人も、子どもの頃によく来ていた人も、それぞれの思い出がよみがえり、懐かしさを感じる「船はしや」です。辻清之さん、扶公子さん夫婦で切り盛りしています。だれに対してもていねいで優しい応対に、ふっと顔がほころんで来ます。みんなを楽しく幸せな気持ちにしてくれる、とっておきの場所です。

グラフィックデザイナーの夢を乗せた店内

船はしやの店頭
いったいどのくらいあるのか想像もつかない量のお菓子やおもちゃ、人気キャラクターのお面がぎっしり、圧巻の店内です。入ると同時に迷ったり興奮したりの探検が始まります。「全部でどのくらいあるのですか」と、よく聞かれるそうですが、ついその言葉が口をついて出てしまいます。以前、おもちゃとお菓子で1,000種類くらい、お面は約300 種類と聞いたたことがありますが、今もその時と変わらない、わくわくする店内です。
船はしやのざる絵船はしやのざる絵
選んだ商品を入れるざるには「ざる絵」と呼んでいるイラストが描かれた紙が敷いてあります。イラストも、そこに添えられた言葉も清之さんの作です。お祭など季節の風物や職人尽くしなど、京都の情緒や伝統行事が楽しく描かれています。清之さんは若い頃、グラフィックの仕事を希望し、大手印刷会社に就職が決まっていましたが、卒業と同時に店を継ぎました。そこから50年。商品POPをはじめ、清之さんの夢がかたちになって店内にあふれています。

ざる絵の話をする辻清之さんと扶公子さん
ざる絵の話をする辻清之さんと扶公子さん

コミュニテイー冊子に4コマ漫画を連載し、講師をつとめる地域の絵手紙教室は、もうすぐ展覧会が始まります。お店だけではなく地元でも絵の技術を生かして活動していることを、扶公子さんが話してくれました。こういう場面も自然と息が合っていて、二人がかもし出す雰囲気も、お店の魅力です。遠くに住んでいるお孫さんにお誕生日のお祝いメッセージをLINEしたと、そのイラストを見せてくれた時は二人とも、幸せな「じっちゃん、ばっちゃん」の顔になりました。

流行りの鬼滅イラスト入りお孫さんへのメッセージ
流行りの鬼滅イラスト入りお孫さんへのメッセージ

代々のアイドルねこたちも、イラスト化され広告塔になってきました。ダンちゃん、オムちゃん、そして今も健在のジュンちゃんです。辻さんの子どもさんはみんな本好きだったことから、近所の本屋さんにちなんだ名前をつけたそうです。こんな楽しい話や発見がたくさんある船はしやです。

駄菓子の仕事から見えてくる社会の様子


船はしやは、五色豆の老舗として知られる寺町二条の船はしや総本店から分家して、清之さんのお父さんが昭和2年(1937)に豆菓子の製造卸とお菓子の小売り店として開業しました。清之さんも「煎り豆マイスター」として表彰されています。
寺町通綾小路下るにある船はし屋
電気街としてにぎわいを見せた寺町通りは、平成に入ってから電気店の減少が始まり、相次いで撤退していきました。また寺町通りの名前が示すように、仏具店、線香、すだれ・御簾などの専門店が並んでいましたが、ホテルと宿泊客のための飲食店が増えるなどまちの風景もさらに変わりました。
船はしやの店内
そして今また、コロナウイルスにより急激な変化が起きています。いつもよく話す明るい子が、最近はしゃべらなくなっているなど、お店にやって来る子どもたちもその影響を受けていると感じています。学区の運動会やお祭など行事が次々と中止になり、友だちとも自由に遊べないなど、おとなも子どもも、これまでとは違う毎日が続いていることを気にかけています。
仕入れする商品も国内生産は減少を続け、海外生産が増えているそうです。後継者の問題や利益が薄いこと、嗜好の変化、インバウンドの需要に合わせて生産していた商品の生産停止など、継続を困難にする要因があげられます。

いまだ衰える兆しのない鬼滅の刃シリーズは、入荷してもすぐに品切れになり、人気は衰えそうにありませんが、昔ながらのロングセラーのきなこ飴、きなこ棒、もち類、いか、するめ類なども店頭に並んでいます。また季節の決まりのお菓子「柚子おこし」や昔懐かしいはったい粉や豆菓子、あられなど京都で長年親しまれているお菓子もあります。
国内の製造所の多くが、家内工業の小さな規模だそうです。商品の袋に記載された製造所の住所を見ると、家族や少ない従業員さんで、がんばってお菓子を作っている様子が目に浮かぶようです。そして、ほっとできる場所になっている駄菓子屋さんのある幸せを感じます。

ふたりだからできる仕事を元気に続ける

船はしやの店頭
いくつもの段ボール箱で納品された、おびただしい数の商品の検品、値付けがタブレットを使って始まりました。そしてあるべき場所へ次々と並べられていきます。入り口から奥、周囲の壁、そして天井まで目いっぱいの商品なのに、ささっと配置していく、その記憶力、またお客さんの会計は、20個、30個の点数であっても暗算という、体と頭脳の元気さに脱帽です。

遊びながら学べると人気の知育菓子
遊びながら学べると人気の知育菓子

最近の特徴的な売れ筋は「知育菓子」ということです。家族でおもしろく遊べるひと時を、金額も手頃な知育菓子がつくってくれているようです。また在宅ワークの広がりからか、おとなのお客さんが買っていくことも多いそうです。夢中になれる時間はだれにも必要なのだと感じました。お店でアルバイトをしていた人が30年ぶりに遠くから来てくれたり、子どもの頃いつも来ていた人がおとなになってたずねてくれるなど、うれしい再会もあります。観光客や関西圏のお客さんの姿も多く見られます。
「子どもの頃、100円玉を握って必死に選んでた」「こんなに大きい袋にいっぱいで1000円。ものすごいお得感」など口々に話しながらお店を後にしていました。一個税込み20円、30円などばら売りを多くして、子どもの普段のお小遣いで買えるようにしています。

清之さんは大学で、駄菓子屋と子どもとのかかわりついて講義もされました。駄菓子の歴史から人間関係論、流通や国際経済等々、多岐にわたる内容です。「駄菓子屋を知らない」という若い人も多くなっている一方で、SNSで知ってやって来る人も少なくありません。地域で子どもたちを見守り続けて50年。去年金婚式を迎えました。「二人とも健康だから、これまでやってこれた。一人ではできない仕事」と、口を揃えました。
まちの様子は大きく変わっても、船はしやは変わらぬたたずまいと笑顔でみんなを迎えてくれます。京都の庶民の文化と楽しさここにあり、です。クリスマスやお正月、子どもたちの明るい笑顔と元気なおしゃべりが聞こえますように。

 

船はしや
京都市下京区 寺町通綾小路下る中之町570
営業時間 平日 13:30頃〜18:00頃 土・日・祝 12:00頃〜18:00頃
定休日 木曜日

家族で営む京都のほっこり ちから餅食堂

朝晩の冷え込みに秋が深まります。通りを歩いていたら、出汁のいい匂いが漂ってきて「あったかい、おうどん食べよか」とお店へ入ります。うどんの味とともにお店の人と交わすひと言、ふた言にほっこりする。そんな小さな幸せが気持ちを満たしてくれます。初代が住み込み奉公から独立して構えたお店を、家族で切盛りする地域密着のお店、伏見区の「ちから餅食堂」の、のれんをくぐりました。

住み込み奉公から築いた食堂


京都市内に点在する「力餅食堂」あるいは「ちから餅食堂」と名前に「餅」がついた食堂は、どこも地域の人が日常的に使うまちの食堂です。関西以外から就職や進学で京都へやって来た人、また通常の観光ルートを外したまち歩きをした人は、この力餅食堂を「おもしろいな」と思った人もいることでしょう。
今回、取材させていただいた伏見区深草の商店街にある「ちから餅食堂」は、店主の柿中清隆さんの父親、清次さんが昭和41年に独立開店しました。清次さんは、同じく伏見区の大手筋商店街の力餅で住み込み奉公を務めた後に、親方からのれん分けを許されました。
ちから餅食堂の店内
力餅についてひも解いてみると、明治22年(1889年)に池口力蔵さんという方が開いたお饅頭のお店が始まりでした。それがお饅頭などの甘味に麺類や丼物を加えた庶民的な食堂へ発展したのだそうです。特徴は、一定の年数、経験を積んで、良しと認めた人をのれん分けして独立させていったことです。そこがチューン展開やフランチャイズ店と違うところで、みんな独立した一国一城の主です。こうして力餅食堂は、京阪神に広がっていきました。のれん分けのお店はみんな、交差した杵を染め抜いたのれんをかけています。

ちから餅食堂の調理場
手前の大きな機械は餅つき機。奥には孝子さんの姿が見えます。

清次さんの修業時代は弟子が7人もいたそうで、つらいこともあったと思いますが、奥さんの孝子さんとともに、晴れて念願の開店の日を迎えた時は、言い表せないほどの喜びだったことでしょう。清隆さんは、会社勤めをしてから後継ぎとなって今年でちょうど20年たちました。「サラリーマンから、まったく違うこのお店に入って大変ではなかったですか」とたずねると「子どもの頃からずっと、父親の仕事を見て育ったので、違和感は全然ありませんでした。ケーキ屋になれと言われたら困ったでしょうが」と笑って答えました。お店は地域に根付いて55年。家族で力を合わせて守る「柿中のちから餅」の味と、ほっとできるひと時に、多くの人がやすらぎを感じています。

安定した、飽きないおいしさ

ちから餅食堂店頭は真由美さんの担当
店頭は真由美さんの担当

朝6時から仕事を始め、10時には店頭のショーケースに二種類のおはぎ、いなり寿司、お赤飯が並びます。この売り場の担当は清隆さんの姉の真由美さんです。
開店早々にみえるお客さんの「いなり5個に、お赤飯1パック」「私はおはぎ。きな粉2個に小豆3個。あ、お赤飯も」などという様々な注文の品を手早くパックに詰め、代金を受け取っておつりを渡しています。そのきびきびした仕事ぶりと「おはようございます」のあいさつが、朝の始まりを気持ちのよいものにしてくれます。お客さん同士が「いや、久しぶりやね」などと言葉を交わす光景は、なかなかいい感じです。

ちから餅食堂の店内
清隆さんの奥さんのみさきさん

10時を少しまわると、店内にもお客さんが入り始めました。中は清隆さんの奥さんのみさきさんと母親の孝子さんの持ち場です。常連らしいお客さんは「いつものお願いとだけ言いました。みさきさんが、厨房の清隆さんに注文を通し、いなり寿司1個を「どうぞ」と運んで来ました。「いつものだけで通じるのですね」と思わず声をかけると、笑って「つーかーの仲やから」と返ってきました。
お昼の時間は近所で仕事をする人たちがいっときにやって来ます。清隆さんは「特に今は密を避けないとならないので、だんどりが大事で、それが狂うと大変ことになります。お客さんも協力してくれます」と話しました。お客さんとお店の間合いがみごとです。
ちから餅食堂のあんかけうどん
うどん屋さんの中華そばが好きと言う人も多く、また餅うどんを毎回注文する人もいます。「中華そばにしたいけどお餅も食べたい」という人には、希望の数のお餅を入れてもらえます。
このお餅は餅搗き機で店内で搗いています。チャーシューも自家製、おはぎの小豆あんも炊いています。朝6時からの仕事です。ちから餅の味はどれも、あっさりした出しゃばらない味です。だから、いなり寿司を麺類や丼物と食べても、それぞれの味を邪魔せず食べ終えることができます。また「ひと口サイズ」が多いこの頃には珍しく、いなり寿司もおはぎもたっぷりおおらかな大きさですが、濃い味付けではないのでメインメニューと一緒でも完食できるのです。
ちから餅食堂のいなり寿司
いなり寿司のすし飯には黒ごまとにんじんがまぜ込まれていますが、そのにんじんの刻み方の細かさ、丁寧さに驚きました。こういうところにも、お店の実直な仕事と姿勢が垣間見えます。孝子さんと、みさきさんの「ゆっくりしていってくださいね」という言葉に本当に気持ちがこもっていて「また来よう」と思うのです。

みんなが今日も足を運ぶ商店街

ちから餅食堂のある深草商店街
ちから餅食堂は、深草商店街の通りにあり、近くの深草小学校の子どもたちの通学路でもあります。学校帰りの子どもたちが「あ、出汁の匂いや」と言って通っているそうです。深草小学校の「校区探検」の行事で、子どもたちが見学にやって来た時の感想のまとめが、お店に張ってありました。

深草小学校の子どもたちの地域探検レポート
深草小学校の子どもたちの地域探検レポート

「お餅は搗くもの」だということを初めて知った子は、餅搗き機のイラスト付きです。「人気NO.1中華そば」の文字も見えます。小学校の子どもたちが、地域のことを知ることはとても大切なことです。毎日の暮らしを支える地元の商店街の生き生きした姿や、プロの知識や仕事ぶりに、きっと発見や感じたこがあったと思います。
さまざまな業種がそろい、お客様が通う商店街の存在はこれからますます重要になってくると思います。コロナウイルスの影響で、商店街や学校のイベントも中止となり、さみしい状況が続きましたが、この商店街を必要とする地域のみなさんを支え支えられる、双方向の強さと気取りのない明るさのある商店街です。清隆さんは「深草商店街振興組合」の理事と動画プロジェクトのメンバーもつとめ、商店街の仕事にも一生懸命です。
ちから餅食堂のおはぎ
お店には、学生時代に来ていた、子どもの頃よく親に連れて来てもらったという人が、20年ぶり30年ぶりに現れます。そして異口同音に「この店あって良かった。前と一緒や」と言うそうです。家族で営む、みんながほっこりできるかけがえのないお店、ちから餅食堂は、これからも多くの人を、変わらぬ味とあたたかい心で迎えます。

 

ちから餅食堂
伏見区深草直違橋2丁目425-1
営業時間 10:00~18:00
定休日 日曜

深草商店街振興組合

京印章の 1000年先をつくる

社内の書類、様々な手続きなど、はんこが必要な場面は多くあります。高校卒業の記念品として「はんこをもらった」という人も多いと思います。自分の印鑑を持つことは、おとなになった気持ちを促します。
行政手続きでの押印廃止案が発表され、メディアでも頻繁に取り上げられていますが、そのような騒がしさとは別に、印章(はんこ)は、長い歴史のなかで培われてきた技術と、崇高な文化を持っています。数センチの限られた面積のはんこに込められた作り手の思いと、その可能性について、府庁前のはんこやさん、河政印房の河合良彦さん、祥子さんに話をお聞きしました。

日本のはんこの源「京印章」

河政印房
府庁前に、大きく「はんこ」と書いた看板と「年賀状印刷」「お急ぎの実印、銀行印、認印すぐ彫ります」の張り紙も見えます。
はんこの代表的な文字は「篆書体」ですが、秦の始皇帝が決めたとされる「小篆」という書体、その後の漢の時代に「印篆」という印章に適した書体が生まれ、これが「京印章」の代表的な書体となったそうです。
金の落款
良彦さんは、このような歴史や印章全般についても、よく勉強されている「学究肌」の職人さんです。このように成り立ちの一端を聞いただけでも、はんこの奥深さを感じます。
「京印章」は、地域ブランドとして国から認定を受けています。平安時代からの伝統と技術を受け継いだ職人が京都でつくる印章を京印章と規定しています。

珍しい竹の根のはんこ
珍しい竹の根のはんこ

店内に様々な書体の「寿」の印を押した色紙が展示してありました。これは、良彦さんと祥子さんが所属する京都印章技能士会の取り組みで、100種類の寿を彫るというものです。色紙には妥協のない技術と、強く静かな心持ちがみなぎっています。来年には100種類に届く予定とのことで、京印章に新たな歴史が刻まれます。

尊重し合い刺激し合って、高みをめざす


河政印房は、良彦さんが三代目です。大学卒業後、地元の会社に就職しましたが、お父様が体調を崩されたことからサラリーマンとお店の二足のわらじの生活になりました。そして、残念なことにお父様が亡くなられ、決断の時は早く来てしまいました。その頃のはんこやさんは、注文を受けてそれを職人さんに発注する形態でしたので、良彦さんも、職人としての仕事を教えられたわけではなかったのです。しかし、せっかくここまで家族で守ってきた店を閉めるのはもったいないと、会社を退職して店を継ぎました。そして、外注して売るだけでは、はんこは、いつか消えてしまう、自分でもはんこを彫れるようになろうと決心して、職人さんに教えを乞う道を選びました。奥様の祥子さんは、結婚するまで歌劇のステージという、まったく違う世界で活躍されていましたが、職人の道を良彦さんと一緒に歩み始めたのでした。

苦労のあとを微塵も感じさせない、明るいお二人ですが、話し尽くせないほど様々なことがあったことと思います。祥子さんは時々「私たち本気やなあ。よし、本気や」と、お互いに確かめ、自分自身でも確認してきたと語ります。「大変苦労をされたと思いますが」という問いに「楽しかったのです。今も楽しいです。限られた面に、私なりの表現ができた時は本当にうれしいですし、もっと、もっと上手になろうと、いつも思います」と続けました。

はんこを彫るには、最初にお客様の好みや使用目的などに沿って、書体を決め、文字を入れるバランスなどデザインを考えます。次にそれを左右逆にした鏡文字にして、印材の面に筆で書いていきます。次は荒彫り、仕上げ、微調整という工程となります。手彫りの仕事は、見ているこちらも思わず息を詰めるほど、集中しての仕事です。その極小のスペースに広がる文字の深い世界に圧倒されました。彫りの技術以外にデザイン、書、印材など幅広い専門的な力が求められる仕事です。かたわらには、何本もの印刀が並んでいます。中には仕事を辞められた大先輩の職人さんから譲ってもらったものもあるそうで、とても大切にして手入れを怠りません。
はんこを掘る道具京もの認定工芸士の証
お二人はともに、国認定の一級印章彫刻技能士、京都府の京もの認定工芸士の資格があります。また、今年の10月には、大阪府技能競技大会に二人で出場し、祥子さんは並みいるベテラン職人さんのなかで、みごと2位に入りました。この結果を、お子さん達や先輩の職人さん達も喜んでくれたそうです。
「職人夫婦」と自ら語るお二人ですが、話しの端々から、お互いに尊重し合い、刺激し合って、京印章の高みを追求していることが伝わってきました。「彼女がワークショップで実技指導をすると、みんな本当に楽しそうで、雰囲気がすごくいいのです。デザインも繊細で感性にあふれていて」と良彦さんが、語ると「それは前段で、主人がはんこの知識をいろいろ楽しく話すので、みんな興味を持ってやってくれるからです」と、祥子さんが受けます。この間というか呼吸が絶妙です。ものづくりの道を歩む同士として、またお互いの仕事の環境をつくる家族として、そのひたむきな姿勢が、まわりも勇気づけているのだと感じました。

自在に広がる、異業種のものづくりの輪


10月の末、京の台所、錦小路の店舗の一画で「錦市場で伝統工芸 @丹後テーブル」というミニ展示会とワークショップが開かれました。飾金具、金箔、漆工芸、そして印章の4業種です。たくさんの人に楽しんでもらい、手応えがあったそうで、次はこういうものもいいね、などと話しをしたそうで、今後に期待がふくらみます。
このように、異業種の志を同じくする人たちとの出会いは大きなみのりをもたらしてくれます。京のさんぽ道でご紹介した「京都におもしろい印刷会社あります」の修美社さんの企画にも参加され、文字とはんこの世界を広げています。

新製品のシーリングスタンプ
新製品の封蝋(シーリングスタンプ)

「脱はんこ」が注目され、テレビや新聞の取材が相次いだそうですが、河政印房では、もっと以前から、はんこの新しい方向性を考えていました。実印、銀行印など今まだ必要とされるはんこはもちろんのこと、遊印、花や和柄をモチーフにしたかわいいはんこ、落款、さらに封蝋(シーリングスタンプ)など、新しい企画商品が生まれています。はがきや手紙、スケッチなどに押した、朱肉のワンポイントの色は、若い世代にも、きっとすてきに映ることでしょう。生活を豊かにし、楽しむことに、はんこを使う人が増える可能性を感じます。
「パソコンが普及すれば、なくなっていくものも当然あるでしょう。だから時代にも、技術にもしっかり向き合っていきます」と明快です。作り手の個性があらわれる、はんこ。「注文した人とはんこと職人は、一期一会。そういう気持ちで彫っています。京印章の歴史は千年ですが、次の千年を今の私たちがつくっていくのだと思っています」
取材中も、注文したはんこを受け取るお客様が続けてあり、電話での問い合わせも次々かかってきました。身近にある、まちのはんこやさんを、みんなが頼りにしています。

 

河政印房
京都市中京区丸太町釜座東入 梅屋町175-1 井川ビル1階
営業時間 月曜~金曜 10:00~20:00 土曜13:00~17:00
定休日 日曜、祝日