季節を映す 和菓子の楽しみ

茶の湯の文化と歴史に磨かれ、育まれてきた京都の和菓子は、小さいながらひとつの世界感を表す芸術品のようです。
茶席のお菓子となるきんとんは、芯となる餡玉のまわりに、色付けした餡をそぼろにして付けてあります。形はみな同じで、そぼろの色使いと、お菓子に付けた銘だけで季節や慶びの心などを表現するので、職人さんのセンスと腕の見せどころと言われます。春まだ浅い頃の「下萌え」に始まり、春の山、かきつばた、紫陽花、そして秋はこぼれ萩、嵯峨野など菓銘と色使いが相まって、季節の情景が漂います。
つくね芋の皮で餡を包んだ薯蕷(じょうよ)饅頭もまた、表面にさっと一筆はいた色や焼印で、季節が表わされています。京都には、小さなお菓子に込められた思いをくみ取り、共有する豊かな文化が色濃く残っています。
一方、普段使いの美味しいお菓子を作る身近なお店は、肩ひじ張らず、気軽に入ることができます。店頭に並ぶおだんごやお餅の類を見て「おやつに買って帰ろかな」と、あれこれ迷いながら、やっと決めます。包んでもらうあいだ、お店の人とひと言、ふた言話すのも楽しい。包みを受け取った時「あれも食べたかったなあ」と、心残りを感じつつ、満ち足りた気持になります。こういうお店も、いつまでもあってほしい京都のひとつです。

映画の街で愛されて100年

太秦を走る嵐電
京都のまちをゆるゆる走る、通称「嵐電(らんでん)」は、通勤・通学や買い物など、市民の足として活躍しています。
この嵐電に乗っていた時、みかさ、よもぎだんご、うば玉などと書かれた張り紙が目に入りました。みごとな墨文字とお店のたたずまいに、きっと美味しいお菓子屋さんだと思いました。

田井彌六代目と娘さん
田井彌六代目と娘さん。家族みんなで創業143年の老舗を盛り立てます。

店頭に並ぶ和菓子
そのお店「田井彌本舗」は、嵐電帷子の辻(かたびらのつじ)駅のすぐ近くにあります。
明治7年(1874)東山区で創業し、50年余り祇園で営業を続け、昭和4年に現在の地に移転し、以来143年、四季折々の和菓子や、季節の習わしに沿ったお餅やお赤飯など、京都の暮らしに根ざした美味しいお菓子屋さんとして、地元で愛されています。
太秦へ移転した昭和4年は「日活太秦撮影所」が建てられた翌年にあたります。まさに日本映画の黄金期の生き生きとした時代の息吹きのなかで商いをされてきたのです。
俳優の田村高廣さんは、多井彌本舗のお菓子が好きで、東京の自宅へも送ったという、映画の街らしいエピソードを聞きました。小栗康平監督作品「泥の川」の渋い演技の田村高廣さんが相好を崩して「おっ、京都から届いたか」とか言ったのかな、などど想像すると、今は亡き名優に親しみを覚えます。

待ってました、栗赤飯

田井弥本舗の栗ご飯
お店の、くり餅、栗赤飯の張り紙を見て季節の到来を知ります。きんとんや薯蕷まんじゅうも秋の装いになっています。
お赤飯や白いお餅も作ってくれる菓子屋さん、言うところの「おまんやさん(お饅頭屋さん)」は、京都の特徴でしょう。田井彌本舗も、お赤飯、お祝やお正月のお餅を作っています。なかでも栗赤飯は、毎年多くのお客さんが待っています。
お菓子の名前を書いたすばらしい墨文字は六代目の奥さんが書かれています。この美しい文字も田井彌の一部です。
ある日の夕方、中学生の女の子が「これ一つください」と言って、くり餅を指しました。「和菓子が好きですか」と聞くと、少しはにかんで「はい」と答えてくれました。
家族で切り盛りする、まちのお菓子屋さんが、これからも京都の暮らしの習わしと、季節を知る楽しみを教えてくれます。

 

田井弥本舗
京都府京都市右京区太秦堀ヶ内町28
営業時間9:00~19:00
不定休

夏を送り 秋の気配漂う

二十四節気の暦では、今は立秋の次の時節、処暑(しょしょ)にあたり「暑さがおさまる頃」です。ことのほか厳しかった残暑が影をひそめるまであとひと息。夏を送る行事をすませると、空は高くなり、吹く風にも心地よさを感じます。夏の名残りを惜しみつつ、秋の訪れを心待ちにしています。

子ども達のお楽しみ「地蔵盆」

地蔵会(じぞうえ)
夏休みの思い出に「地蔵盆」と応える京都人は多く、辻々に大切に祀られているお地蔵さんは、京都のまちを強く印象付けています。
八月の末に、それぞれの町内ごとに行われる地蔵盆は、子どもの健やかな成長と、町内の安全を願う行事であり、地域のつながりのたまものと言えます。少子高齢化や職住分離の生活などにより、地蔵盆の伝統も変化してきていますが、今も多くの町内で守り伝えられ、子ども達の夏休みの最後を楽しく彩っています。
中京区の山崎町町内のお地蔵さんは、西木屋町三条下ル、高瀬川沿いの祠に祀られている大日如来です。「彦根藩邸跡」の標柱が如来さまをお守りするかのように脇に建っています。京都のまん中の繁華街、普段は子どもの姿を見かけることのない地域ですが、地蔵盆には、町外に住む子ども達が必ずやって来ます。
数珠回し
直径3メートルくらいもある、長い数珠を囲んで輪になって座り、読経に合わせて、その数珠を回していく「数珠回し」も行われています。年上の子が年下の子の面倒をよく見ています。お菓子をもらい、ゲームや福引に歓声をあげる子ども達。福引の景品やお菓子は、お世話役が飛び回って、今人気のものが集められていました。
最年少の参加は、今年の七月七日生まれの女のあかちゃんでした。地域の様子は変わっても、山崎町町内会には、つながりを大切にするまちの精神と機能が生きています。子ども達の姿は、繁華街の町内をひと時、生き生きした暮らしのまちの表情に変えていました。

お地蔵さんに供えるお膳

お地蔵さんへのお供えのお膳

お供えを作る伊藤さん
「普段お店で使っている食材でお供えも作っています」と気負いなく語る伊藤さん

山崎町では、地蔵会(じぞうえ)=地蔵盆の日と、大日如来の縁日である28日にお参りをされています。お供えするお膳は、近所に住む伊藤さんが担当しています。
28日の献立は、白飯、豆腐のすまし汁、野菜の炊き合わせ、ずいきのごま味噌、ぬか漬けでした。出汁は昆布と乾椎茸でとり、前の晩からの準備です。時代の流れのなかで、簡単にしようと思えばそうなりそうな、こういう目に見えないところも変わりなく手をかけて行われています。
読経がすむとお供物やお飾りはさっと片付けられ、祠の扉を閉じ、今年の夏を仕舞いました。

萩の花に漂う秋

萩の花
残暑のなかで、楚々とした姿を見せてくれるのが萩の花です。山上憶良は、万葉集で「萩の花、尾花、葛の花・・・」と秋の七草の筆頭にあげ、花のなかでは一番多く詠まれています。乱れ萩、こぼれ萩、萩の宿など美しい季語からは、いかにも枝がしない、風に揺れ、こぼれるように咲く萩の花の様子が目に浮かんできます。
京都には、萩の名所や似合う場所が点在し、萩祭や花の見頃には多くの人が訪れますが、桜や紅葉に比べれば、ひっそりしたものです。山道や水路の端、家の庭に咲くつつましさが、日本人の感性に合うのでしょうか。正岡子規も、こんな句を残しています。
 
萩 咲 い て   家 賃 五 円 の  家 に 住 む
 
しばらくすると秋のお彼岸です。お菓子屋さんの店先に「おはぎ」と大きく書かれています。春は牡丹の花にちなみ「ぼた餅」、秋は皮がやわらかい新小豆を使うので粒あんにし、その粒が萩の花に似ていることから「おはぎ」となったと言われています。
これも暮らしと季節が密接な日本だからこそ。こんな小さな楽しみを見つけながら、秋を待つことにしましょう。
おはぎ

京野菜とともに 海外にも挑戦

京都市南区で農業を営む石割照久さんは、2年前、大学・企業と共同し、フランスのパリ郊外で京野菜の栽培を始めました。先祖から農地を受け継いで10代目になりますが、海外進出は初めての経験です。それもこれも、農業への危機感が石割さんを動かしました。

桂瓜を収穫する石割さん
石割さんが農業を継いだ時、周囲から聞こえてきたのは「農業は大変だ。農業では暮らしていけない。後継者がいない」という消極的な声でした。そこで、「よっしゃ。それなら、ちゃんと儲かる農業をやってやろうやないか」と、30年前にIT関連企業を退職し、「新しい農業の追求」を続けてきました。
フランスで栽培している野菜は、賀茂なす、九条ねぎ、伏見とうがらし、大根、枝豆などです。異常寒波など困難な条件もありましたが、その都度対策をとって、フランスの風土に合うよう工夫してきました。その結果、味や色も「これなら」という野菜ができるようになり、事業は軌道に乗り始めています。
石割さんが作る野菜は、京都の歴史に育まれてきたものです。都の朝廷や社寺仏閣へは、各地から様々な産物が献上され、そのなかに野菜もあったわけです。たとえば、聖護院だいこんは尾張、聖護院かぶは近江、鹿ケ谷かぼちゃは東北というように、京野菜の祖先は日本の各地から、京へのぼって来たのです。
石割さんによると、九条ねぎは、伏見稲荷大社が建立される時に大阪から入ってきて、氏子の多くが住んでいた、九条近辺で栽培されるようになったということです。適地適作の野菜、その時代その時代の農家の研究心が、より良い京野菜に変えてきたと言えます。

価値あるものをきちんと売る

石割農園から望む桂川
石割さんの農園は、桂川に沿って広がっています。このあたりは、桂川、宇治川、木津川の三川合流視点に近く、昔から氾濫を繰り返して肥沃な土壌となり、平安時代から農地とされていたそうです。
石割さんは、料理人からの求めに応じて、京野菜を中心に年間約100種類の野菜を栽培し、納品する「オーダーメードの野菜づくり」のシステムを確立しました。

伝統野菜以外にも、ホテルからの依頼で栽培している極小カボチャ
伝統野菜以外にもホテルからの依頼で栽培している極小カボチャを手にする石割さん

「どうしたらよいものができ、それをどうやって売っていったら良いか」を必死に考えた結果でした。出荷した時、価格が市場の高い安いに左右されず、自ら値段をつけられることが大切だと考えたからです。そのためには値段の根拠となるコスト計算もきちんとしなければなりません。安値大量生産ではなく、質の高い、価値の高い野菜を、色やサイズまで細かい要求にも応えて、多くの料理人の信頼を得ています。「いいものを作り、直接売る方法」は、今他の農家にも確実に広がっています。

発想を新しくして、みんなで今より上を

石割さんは「農家みんなの暮らしが良くなればと、若い人に、知っていること、到達したことはどんどん惜しげなく教えています。そうやって、みんなで発想を新しくして、今より上を目指していけたらと願っています。」
フランスで栽培した野菜を、現地のシェフや関係者に試食してもらったところ「使ってみたいと好評だったとのこと。石割さんが信条とするのは「食べる人が幸せになる野菜」です。

石割さんが育てた野菜
艶々の皮がはち切れそうに張ったなす。茄子紺とは、こういう色なのかと思う美しさです。きゅうりや唐辛子は香りを放ち、石割さんが作った野菜はみんな、生気がみなぎっています。
保存されていた種から復活させた幻の伝統野菜「桂瓜」は、浅漬けにすると、それは爽やかなうす緑色、少し甘い香り、しゃきっとした食感がすばらしかったです。「フランスで京野菜の地産地消」が実現する日は近いかもしれません。

味のある 千本出水界隈

京都は通りの名に特徴があり、東西の通りと南北の通りを組み合わせて所在地をあらわしています。千本通と出水通は、とても簡単な名前ですが、果たしてそのまま「せんぼん」「でみず」と読んでいいものかどうか迷う通り名です。
南北の千本通は平安京の朱雀大路にあたります。一説には葬送の地、船岡山へ至る道であるため、千本の(たくさんの)卒塔婆が建てられたことに由来するとされています。壮大な朱雀大路が葬送の道すがらであったとは、イメージが結びつきにくいのですが。
一方、東西の出水通は、平安京の近衛大路にあたり、またその名の通り水が豊富な所であり、水質も良いことから名水の湧く井戸も多くあり、この地に聚楽第を造った豊臣秀吉や千利休が茶の湯に使ったと伝えられています。そして良い水は、酒、豆腐、湯葉など水が命の京都の名産品の味わいを鍛え、磨いてきました。豆腐店の店先

「うちはまだ新しい。100年やから」

千本出水あたりは、室町時代から酒造りが盛んでした。地元の方の話では「昔は造り酒屋がたくさんあって、仕込みの時期には、小学校までお酒の匂いがしてきましたえ」ということでした。
今では「洛中の蔵元」は一軒だけとなりましたが、おいしいお豆腐屋さんは健在です。
水槽に入った豆腐
地元がお守りする千年前に創建された神社の隣りの豆腐店は、この道60数年、三代目で御年83歳のおじさんが、娘さんの助けもかりながら、82歳の奥さんと切り盛りしています。
長さ40センチ近い大きなお揚げは、作るのが難しく、ほかではほとんど作られていないのでは、ということです。焼いておろし生姜と生醤油をかけた熱々や、青菜や大根などその時期の野菜と炊いたり、焼き豆腐を合わせた「夫婦炊き」にと重宝します。ひろうす(飛龍頭)は夏はお休みで、そのかわり、柚子がふぅと香る絹ごし豆腐の出番です。
おじさんは毎朝バイクで、お得意さんへ配達もしています。年季の入った道具や機械は、きちんと手入れされ、代替えのきかない働き手です。「このお店、だいぶ古くからされているんですか」と聞くと「うちはまだ新しい。100年やから」と、事も無げな答えでした。

昭和の人と値段が現役のご近所

豆腐店のご主人と手作り油揚げ
絹ごし一丁と特大のお揚げ一枚で340円也。いつも申し訳ない気持ちになりますが、おじさんはほがらかです。以前、雑誌の取材を受けたこともあるけれど、つい最近はラジオの取材があったと嬉しそうでした。町内を行き交う人が減っていく現状にも一喜一憂せず、驕ることなく、毎日おいしいお豆腐を作ることに精を出す誇り高き人。
斜め向かいの44年続く女性店主の喫茶店は、毎日やって来るご常連にとって、なくてはならない憩いの場です。コーヒー1杯350円。モノの値段は安さだけではない。店の主人の心意気がつくり出す値打ちなのだと思いました。

祇園祭の伝統と新しい変化

「田の字型」と呼ばれる京都の中心部は、辻々に祇園祭の鉾や山が立ち並びます。
日中の蒸し暑さがいくらかやわらいだ頃、駒形提灯が灯り、お囃子の響きが重なり合い、一気に華やいできました。

京町家
最近は「◎◎鉾と○○大学」というように、それぞれの山鉾保存会と大学との連携が進んでいるようです。揃いのTシャツを着た学生が、一生懸命「ちまきどうですか」「手ぬぐいどうですか」と声を張りあげています。大学の多い京都の特徴です。
伝統のお祭への参加は、またとない貴重な経験になると思います。京都で学生生活を送るということは、こんなすばらしいチャンスにもめぐり合えるのです。

中国の故事や、当時はやった能の演目も題材に

山鉾の美術工芸のすばらしさは「動く美術館」と評されるほど価値の高いものですが、中国の故事や謡曲にちなむ、山や鉾の題材もまた、注目したい都の文化を示すものだと思います。

函谷鉾(かんこぼこ)
山の題材となった能を実際に演じる「宵山能」が一昨年から、後祭宵山の23日に行われています。会場は京都御所近くの能楽堂「嘉祥閣」。演者の息づかいまで感じられ、初心者にもわかりやすく、且つ趣きのある会でした。昨年は「八幡山」由来の「弓八幡」、今年は鈴鹿山にちなむ「田村」が演じられます。去年も今年も、もたもたしているうちに完売と相成り、初回を鑑賞したのみ。
祇園祭の楽しみをより深くし、これをきっかけに、能に興味を持ってもらえるようにという主宰者の思いが、伝統のお祭に新たな魅力を生みだし、これが真の京都の力だと感じます。

お囃子を復活させ、山の復興を目ざす鷹山

鷹山は、応仁の乱以前から巡行していた由緒のあるりっぱな曳山でしたが、190年前に大雨による大きな被害を受けて以来、巡行に参加しない「休み山」となり、ご神体を飾るのみの「居祭(いまつり)が続けられてきました。

鷹山の囃子方
そんななかで、地元の有志が集まり「鷹山復興」に向け、3年前に囃子方が結成され、その後、鷹山保存会の設立、公益財団法人の認定など、復興へ大きく弾みをつけています。地元の行事「たついけ浴衣まつり」でお囃子を披露し、「お囃子体験」は子ども達に大人気です。

ご神体をかたどった鷹山の授与品「犬みくじ」と「鷹みくじ」
鷹山のご神体は「鷹匠」「犬飼」と、樽を背負った従者の「樽負い」の三体です。かつては、樽負いが粽を食べる、からくり山だったそうです。ご神体をかたどった鷹山の授与品「犬みくじ」と「鷹みくじ」の表情がなんとも可愛いく、思わずにこっとしてしまいます。授与品は21日から23日まで販売され、夜の7時からはお囃子も披露されます。(室町三条)復興の目標は2026年。私たち一般市民も、その歴史に立ち合えると思うと、わくわくしてきます。

浴衣の子供達
時代が変わり、私たち一般市民も、何らかのかたちで、以前より近しく祇園祭や伝統文化にふれることができるようになりました。それは「もっと多くの人に知ってほしい」と願う、伝統文化に携わる方たちの「革新性」ではないでしょうか。それが、1200年の都でありながら、いつの時代も新しいものごとを追求してきた「京都らしさ」なのだと感じます。

七月一日「吉符入」

夏の京都がハレの空間となる祇園祭。
七月一日から一か月に及び続くお祭りの始まりが、吉符入(きっぷいり)と呼ばれる祭事です。
各山鉾町にて、その年の祇園祭に関する打ち合わせをし、祭りの無事を祈願します。

祇園祭と言えば、雅やかなお囃子、宵闇に浮かびあがる駒形提灯と人の波。そして都大路を行くけんらん豪華な山鉾巡行を思い浮かべる人が多いことでしょう。
でも、鉾や山には、それぞれの成り立ちや由緒、様々な行事や仕事があります。それを知ることにより、これまで気付かなかった祇園祭の魅力を発見することができます。
そしてそこには、時代の変化に柔軟に対応しながら、千百年の古式を守り、祇園祭を支える多くの人々の姿も浮かびあがってきます。

神事初めの前から進められている、お祭りの準備

函谷鉾(かんこぼこ)
起源は、応仁の乱以前にさかのぼる函谷鉾(かんこぼこ)。その名は、清少納言も歌に詠んだ、中国の孟嘗君(もうしょうくん)が家来に鶏の鳴き声をまねさせて、函谷関の門を開かせたという故事に由来します。
七月一日の吉符入が「神事始め」となりますが、早くも四月には最初の会合が持たれ、六月には、小学生の囃子方の新入会式や、火の用心とお祭の無事を祈願するため「火伏せの神さん」の愛宕神社への参拝など、準備が粛々と進みます。

重量12トンの鉾の、堅固な本体を影で支える伝統の力

優美で絢爛豪華な数々の工芸品で飾られた鉾の表の顔に対して、本体の櫓はあくまでも堅固です。七月十日から十二日までの三日間「鉾建て」が行われ「釘を一本も使わない縄で巻く工法で本体が組み立てられます。縄で巻くことによって、巡行中の揺れやきしみによる破損から守るというすばらしい知恵と技術です。その縄の巻き方が部分部分違う、実に美しい飾り結びになっています。
釘を一本も使わない縄で巻く、鉾建ての工法
この縄をつくっているのは、福知山市の田尻製縄所です。材料のわらを調達するのも困難な状況が続くなか、父親の跡を継いだ田尻 太さんと奥さんの民子さん、太さんの母親の久枝さんの三人がわら縄つくりを続けています。
「わら縄は、表舞台を影で支える地味な仕事ですが、日本の伝統文化を守る仕事に係わらせてもらっていることに誇りと喜びを感じています」と太さん。「わら縄つくりは私の代限り」とも。
たくさんの人が「神事と伝統に係わらせてもらっている」という感謝の気持で支えていることを知れば「観る」という参加も、深めることができると感じています。

 

*掲載した写真は許可を得て昨年撮影したものです。また(公財)函谷鉾保存会より、この「京のさんぽ道」への掲載許可をいただいています。

梅雨の晴れ間 まとう着物は春単衣

外の喧騒とは別世界の空間。
梅雨入りしたとは思えぬ、爽やかさを感じる日が続いています。週末、着物好きのみなさんの小さな集まりに仲間入りさせてもらいました。会場は銀閣寺畔、大文字山を間近に眺める、哲学の道沿いの「白沙村荘 橋本関雪記念館」(はくさそんそう はしもとかんせつきねんかん)。
関雪は、大正から昭和にわたって活躍した日本画家です。代表作「玄猿」は、美術の教科書に載っていた「手を長く伸ばしたお猿の絵」と言えば、ああ、あの、と思い出す人も多いのではないでしょうか。関雪自ら設計し、30年の歳月をかけて完成させた庭園や、制作をおこなった大画室(おおがしつ)、茶室、母屋など全体が公開されています。

茶室に飾られた枇杷の枝
上がり框にびわの枝。邸内のあちらこちらに、季節のしつらいの心遣い

着物を楽しむ醍醐味

着物の装いの楽しみは、洋服ではできない色や柄の合わせ方、季節の表現、素材や意匠の多彩さ、小さくても決めてになる帯揚げ、帯締めなどの小物の組み合わせにあると思います。
きもの暦では、6月は裏の付いていない単衣(ひとえ)の季節。単衣は6月と9月のきものですが、同じ単衣でも6月は「春単衣」(はるひとえ)。少しだけ透けていたり、涼しげな装いを意識し、9月は「秋単衣」で、残暑であっても、秋を意識したしっとりした色あい、透け感のない質感のものを心がけるそうです。
こう聞くと「着物って、やっぱり面倒」と思いがちですが、これこそ、きものの醍醐味だと思います。

美しいきもの姿に、それぞれの物語

当日参加されたみなさんの装いも、渋目の紫の着物に白地の帯、きれいな浅葱色の着物と同系の小物、生成り色の着物に焦げ茶の帯、下の着物が透ける、微妙な陰影が美しい黒い羽織、半えりに自分でスパンコールを縫いつけたりと、取り合わせや工夫がすばらしく、とてもおしゃれでした。藍色の地に大胆な縞、凝った織り方をした麻の長じゅばん、プラチナ素材のメタリックな羽織紐など、お母さんのものを受け継いでいる話も好ましく聞きました。ひと昔前のものと言っても、モダンで洗練されていて、今見てもすてきでした。
年代も20代から70代まで幅広く、様々な人たちが「きもの」でつながり、和やかな時をともに過ごしました。輝くような緑、木々を通り抜ける心地よい風、小鳥のさえずり。時間もゆっくりと過ぎていきました。

扇型の器に盛られた和菓子
白沙村荘ゆかりの走井餅でお茶を頂く。庭の青もみじがさりげなく

普通の人が親しんでこそ、伝えられるもの

織屋さんや展示会を見学させてもらった時、「これはもう織れる職人さんがいません」という説明を何度か聞きました。ひと頃に比べると、着物を着る人、関心を持つ人は増えていると思いますが、産業、生業としては困難なことなのでしょうか。
でも今、つくり手、売り手、そして着る側が一緒になって、新しい動きが出てきているのも事実です。それぞれの立場でブログを通して発信したり、今回のような集まりを企画したりと、「着物を着る人を増やしたい」「着物が好き」「着物を着てみたい」という波が、小さくても確実に広がっているように感じます。
白沙村荘で過ごしたひと時は、着物を着ることで少し非日常を楽しみ、豊かな気持になれました。着物を着ることも、名庭を訪れることも、私たちのような、多くの普通の人が親しむことで伝えていけると感じた一日でした。
橋本関雪の美意識の結晶である空間が、そういう心持へ誘ってくれた気がします。

京都の市めぐり

それぞれの土地の匂いがする名物市から、フリーマーケット、手づくり市など日本の各地に、実に様々な「市」があります。全国の主な市を集めた本も出版されるなど、すっかりみんなが楽しめるエンターテイメントになっています。
毎月21日の東寺の弘法さん、25日の北野天満宮の天神さんをはじめ、お寺や神社の境内で開かれる市、学生や若手作家によるアートフェア、若い骨董ファンが集まる古道具市など、個性的な市が多いのも、京都の特色と言えるでしょう。

すがすがしい境内で昔ながらの市「ほんびょうさんの朝市」

「ほんびょうさん」とは、親鸞の墓所である大谷本廟のこと。
環境問題への関心が高まるなか、まず身近な「暮らしと食」を見直そうと、安全安心にこだわる生産者と、それを求める消費者をつなぐ場として、毎月第3日曜日に開かれている朝市です。「人と人が、心と言葉を交わす市。かつて、境内で開かれていた昔ながらの朝市にという趣旨にひかれて行って来ました。

大谷本廟の朝市

 
真夏を思わせる日差し、青々と葉を繁らせた木立ちに映える薄紫色ののぼり。ぽん菓子、木工品、布小物、棕櫚たわしなど、こじんまりした規模の、伸び伸びした雰囲気のなか、ゆっくり見て歩くことができます。すがすがしい緑の多さも魅力です。
きちんと黒の礼服を着た参拝の人が、出店ブースに立ち寄る光景が「ほんびょうさんの朝市」らしい感じです。
今朝、家の近くで採って来たという、葉付きのふきを買いました。葉っぱは湯がいて、よくよく水にさらしてから、ちりめんじゃこと炊きます。こうした手間仕事も、季節を味わう楽しさのうちと思います。

“世界の国からこんにちは”エネルギーあふれる弘法さんの市

こちらはすごい人です。「最高に旨い」と言って、ビールにたこ焼きで盛り上がっている人たちがいます。
上賀茂の農家で作っている柴漬けと、お買い得のすぐき漬けの葉を買いました。
瀬戸内海の島で育てた甘夏は、見た目は無骨ですが、中身がぎゅっと詰まった実直なおいしさを感じます。大人気の無農薬レモンは売り切れでした。残念がっていると、来年をお楽しみということで、お手製レモネードと、小さな甘夏1個をおまけしてくれました。

着物を選ぶ海外の女性

 
境内は外国の人の姿が目立ちます。きものをはおってみては、身ぶり手ぶりで何事か交渉しています。その店のご主人によると「外人さんのほうが、うまいこと工夫して古いものをじょうずに使わはる」そうです。
あれこれ迷って、結局、古布4枚を買いました。微妙な色あい、デザインが新鮮、細部に宿る職人技。小さな布に、京都のものづくりの心意気を垣間見る気がします。こういうめぐり合いも市の醍醐味です。

まちの面影を伝え 記憶に刻まれる並木道

毎朝、駅へ向かう道は桜並木が美しい。
まだ寒いなかで、枯れ枝のように見える梢に固いつぼみを見つけた時が、桜暦の始まりです。初々しい二分三分から、次々咲き始めると春の嵐が気にかかります。
今は緑の色濃く、葉を繁らせています。強い日差しをさえぎってくれる木陰をありがたく思う日もすぐでしょう。

京都市近郊の昭和初期に開発されたモダンな住宅地

この私鉄の駅周辺は、昭和の初めに上下水道が完備した住宅地が開発され、多くの学者や文化人、実業家が移り住み、東京の田園調布、大阪の千里や箕面などと並び、モダンな郊外型住宅のさきがけとなったそうです。
様々な人との交流があった、当時の文化的な雰囲気がうかがえる邸宅が、今も残っています。

地元の人々によって保たれる桜並木と景観

開発当初、新しい時代の住宅地にふさわしい街路樹として、ソメイヨシノが植えられ、美しい桜並木に成長しました。ソメイヨシノの樹齢は短く、細やかな管理が欠かせない大変さがありますが、地元の方の、桜とこのまちへ寄せる思いは強く、地域のシンボルとして大切にされています。秋には、見事に色付いたたくさんの落ち葉を、ご近所の方がいつも掃除しています。
こうした住む人の意識が、当初の理想が失われず、魅力を放つ住宅地を持続させているのだと思います。

アカデミックな白川通と葵祭ゆかりの御蔭通の並木

比叡山の麓を源流とする白川に沿った、一番東の主要な通りの白川通。
銀閣寺道を北へ、しばらく欅並木が続きます。造形芸術大学、おいしいパン屋さん、入ってみたくなるカフェやレストランがあり、若い人がたくさん行き交います。欅並木が洗練された雰囲気をかもしだし、京都に使われる形容詞の「はんなり」とは違う開放的な空気を感じます。
御蔭通は、葵祭の三日前、五月十二日に執り行われる御蔭祭の神事の行列が通ります。並木はめずらしいエンジュです。「延寿」に通じる縁起の良い木とされているそうです。
以前、車で通りかかった時、房のような白い花を付けているのを見て、いったい何という木なのかと思ったことがありました。マメ科のエンジュと知ったのはずっと後のことでした。

花が咲き始めるのは7月頃です。

まちに四季の彩りを添える並木道を愛おしむ

たくさんの落ち葉の掃除は本当に大変だと思います。「その苦労を知らんと、並木道がきれいなんて」とおっしゃる向きもおありと思いますが、気忙しい毎日に、季節の訪れという自然の営みを教えてくれる木々を、愛おしく思う気持ちを持っていたいと思います。

 

 

宇治から届いた新茶 召しませ

桜が話題になったのも束の間、季節は初夏へと向かっています。
五月は草木が力強く繁り、まばゆい緑がかおり立つ季節です。「新茶入荷しました」の文字が目につくようになります。

今年のお茶はとてもいいらしいー最後まで気が抜けないお茶の栽培

春に宇治のお茶の栽培製造農家の方に話を聞く機会がありました。「冬に気温がぐんと下がったので、今年のお茶はいいですよ」と、胸を反らす感じでニコッとされました。お米と同様、寒暖の差が大きいほうが良いお茶ができるそうです。
夏も近づく八十八夜は、立春から数えて八十八日目。昔から農家にとって大切な日であり、種まきの目安とされてきましたが、「八十八夜の別れ霜」ということわざがあるように、最後の春霜が心配される時にもあたります。自然のご機嫌をうかがいながら、慎重に茶摘みの時をはかるなど、気の抜けない日々が続きます。

家でお茶をいれるのはどんな時

このお茶園では「お茶を急須でいれて飲むという文化が、日本から消えてしまわないように」と、ボランティアで小学校に出かけ、お茶のいれかたを教えたり、茶摘み体験を受け入れたりしています。「子ども達が感想文をくれたんです」と笑顔で見せてくれたそのなかの「今まで、麦茶やウーロン茶しか飲んだことがありませんでした。こういうお茶があることをはじめて知りました」という文章が目に止まりました。うーん。でもその感想文には続けて「今日摘んだお茶の葉を、教えてもらったように、家でいれてあげたら、みんなおいしいって喜んでくれました」と書いてありました。
かえりみて、お茶をいれる時、飲む時っていつだろうと考えてみると、小学生の感想文に驚いていられない、私も一杯のお茶も飲んでない日があるなと気付きました。

最先端の日本茶の話題、そしてお茶と日本の習慣

少し前の新聞に「東京に、世界初のハンドドリップでいれる日本茶専門店オープン」という記事が出ていました。なんでも、コーヒー専門店のように、バリスタがカウンターに立ち、独自に考案された日本茶専用のドリッパーで香り高い煎茶をいれてくれるのだそうです。流通している日本茶は、普通はブレンドされたものだそうですが、ここでは「シングルオリジン煎茶」と言って、単一農園、単一品種のお茶を味わえるのだとか。
京都でも蛸薬師通りの寺町あたりに、若い男性が経営するとても小さな「日本茶ティースタンド」があって、気軽に全国のお茶が飲めました。久しぶりに行ってみた時には残念ながら閉店していました。日本茶では難しかったのでしょうか。

玉露発祥の地、宇治小倉の巨椋(おぐら)神社の狛犬。

幼い頃、お茶をいれるとまずお仏壇にお供えするのは子どもの役目でした。また、大抵の会社で朝はみんなでお茶を飲んだと思います。その習慣は今かなり薄れているように思います。あわただしい毎日に、お茶を飲んでほっとするひと時は、気持ちのゆとりとして、しみわたる気がします。京都には、すばらしいお茶と、季節をみごとに写した美しいお菓子もあります。この楽しみをもっと味わわなくてはもったいない。今日はいつもよりていねいにお茶をいれてみよう。近所の和菓子屋さんに並んでいるお菓子はどれにしよう。なんとなく、明日もいい日かなと思えてきます。