宇治から届いた新茶 召しませ

桜が話題になったのも束の間、季節は初夏へと向かっています。
五月は草木が力強く繁り、まばゆい緑がかおり立つ季節です。「新茶入荷しました」の文字が目につくようになります。

今年のお茶はとてもいいらしいー最後まで気が抜けないお茶の栽培

春に宇治のお茶の栽培製造農家の方に話を聞く機会がありました。「冬に気温がぐんと下がったので、今年のお茶はいいですよ」と、胸を反らす感じでニコッとされました。お米と同様、寒暖の差が大きいほうが良いお茶ができるそうです。
夏も近づく八十八夜は、立春から数えて八十八日目。昔から農家にとって大切な日であり、種まきの目安とされてきましたが、「八十八夜の別れ霜」ということわざがあるように、最後の春霜が心配される時にもあたります。自然のご機嫌をうかがいながら、慎重に茶摘みの時をはかるなど、気の抜けない日々が続きます。

家でお茶をいれるのはどんな時

このお茶園では「お茶を急須でいれて飲むという文化が、日本から消えてしまわないように」と、ボランティアで小学校に出かけ、お茶のいれかたを教えたり、茶摘み体験を受け入れたりしています。「子ども達が感想文をくれたんです」と笑顔で見せてくれたそのなかの「今まで、麦茶やウーロン茶しか飲んだことがありませんでした。こういうお茶があることをはじめて知りました」という文章が目に止まりました。うーん。でもその感想文には続けて「今日摘んだお茶の葉を、教えてもらったように、家でいれてあげたら、みんなおいしいって喜んでくれました」と書いてありました。
かえりみて、お茶をいれる時、飲む時っていつだろうと考えてみると、小学生の感想文に驚いていられない、私も一杯のお茶も飲んでない日があるなと気付きました。

最先端の日本茶の話題、そしてお茶と日本の習慣

少し前の新聞に「東京に、世界初のハンドドリップでいれる日本茶専門店オープン」という記事が出ていました。なんでも、コーヒー専門店のように、バリスタがカウンターに立ち、独自に考案された日本茶専用のドリッパーで香り高い煎茶をいれてくれるのだそうです。流通している日本茶は、普通はブレンドされたものだそうですが、ここでは「シングルオリジン煎茶」と言って、単一農園、単一品種のお茶を味わえるのだとか。
京都でも蛸薬師通りの寺町あたりに、若い男性が経営するとても小さな「日本茶ティースタンド」があって、気軽に全国のお茶が飲めました。久しぶりに行ってみた時には残念ながら閉店していました。日本茶では難しかったのでしょうか。

玉露発祥の地、宇治小倉の巨椋(おぐら)神社の狛犬。

幼い頃、お茶をいれるとまずお仏壇にお供えするのは子どもの役目でした。また、大抵の会社で朝はみんなでお茶を飲んだと思います。その習慣は今かなり薄れているように思います。あわただしい毎日に、お茶を飲んでほっとするひと時は、気持ちのゆとりとして、しみわたる気がします。京都には、すばらしいお茶と、季節をみごとに写した美しいお菓子もあります。この楽しみをもっと味わわなくてはもったいない。今日はいつもよりていねいにお茶をいれてみよう。近所の和菓子屋さんに並んでいるお菓子はどれにしよう。なんとなく、明日もいい日かなと思えてきます。

京都に初夏を告げる 薫風吹き渡る

みずみずしい緑がまぶしい季節です。梅雨に入る前の、ひと時の爽やかさです。
日本には四季折々、2000を超える風の名前があると言われています。
かすかな風のそよぎにも、自然からのメッセージを受け止め、巡りくる季節を感じた昔の人の豊かな感受性には目を見張るものがあります。
また農作業や海の仕事にちなむ名前も多く、地方色も豊かで、なかにはくすっと笑えるユーモラスなものもあります。だれもが思い浮かべる「薫風」は、まさにこの季節を言い表しています。

田植えとカエルの合唱

田植えの季節がやってきました。
たんぼに水が張られ、風が通ると水面が揺れて、風の道が見えてくるようです。
都会ではあまり見かけなくなった光景ですが、電車や車で郊外に出ると水田が広がる地域がたくさんあり、田んぼのあぜ道で、ぼんやり座って過ごしたら気持よさそうです。
そして、夜になるとカエルの合唱が始まります。
「ケロケロ」、「ゲロゲロ」。静まりかえっていた周辺がいきなり騒がしくなり、水が張られた途端、待ちわびたように鳴き出すから不思議です。動物行動学者の故日高敏隆さんによると、オスがメスを誘うラブコールだそうです。
カエルたちは近くのあぜ道や草むらで水が張られるまでじっと待っていて、ようやく水が来たとでも思っているのでしょう。実際に見たことはありませんが、待ちわびていたプールに子どもが飛び込むのとよく似ているような気もします。ところが、カエルたちは必死なのです。鳴くのはオスだけで、メスに美声を聞いてもらい、メスはその声でオスを選ぶそうです。
どんな声がメスに好まれるのかよくわかりませんが、きっとたくましい声でないとオスは子孫を残せないのでしょう。

いつまでも残したい田んぼのある風景

厳しい掟があると知って、少し興ざめしますが、それでも私達人間が聞くと、季節を感じ心地良い響きになります。俳句に「世にでろと われに蛙(かわず)の 鳴きたつる」(小杉余子)があります。「ゲロゲロ」の響きが、早く世に出ろと聞こえてくると詠んでいます。なんともほのぼのとした句です。
やがて、水田に植えられた苗が育ち、田んぼ一面、緑一色になります。風が渡るとサラサラサラ…とかすかな音が聞こえ、「薫風に 草のさざなみ 草千里」(山口速)の句が思い浮かびます。青葉の香りを含んだ心地よい風です。
そして温かくなるに連れ、カエルの合唱も聞こえなくなります。
これが自然のサイクルで、日本人の季節感を生んでいます。この季節感を大切にしたいものですが、田んぼを受け継ぐ人が減っています。
休耕田がどんどん増えて、カエルの住みかも狭まっています。カエルの鳴き声を聞いたことのない子どもも増えているのではないでしょうか。いま一度考えたいものです。
あの合唱を聞くと「田んぼ残してケロ」と聞こえなくもないのですが。

香りと薫陶

女性経営者のセンスが感じられる、こじんまりしたカフェを最近見つけました。
ゆるやかな時間が流れ、その居心地の良さに魅かれ毎日通う常連さんもいます。材料に気を配った手づくりの焼菓子も人気です。先日は目先を変えて、白玉小豆と抹茶をいただきました。

粒よりの大納言が香る、本当においしい小豆でした。
炊き方はお母さんの薫陶のたまものでしょうか。薫陶とは、香の薫りをたきしめ、土をこねて陶器をつくることから「徳の力や品位で人を良いほうに導く」意味となったと言います。我が家にまぎれ込んできた、ネコのコトラも、ノラネコかあさんの薫陶よろしく、人間に甘える術を心得ています。

多面体の京都

「京都」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか。
春の桜、秋の紅葉、清水寺や金閣寺と名所旧跡も数知れず、江戸時代の作家、滝沢馬琴も京のよきものとして「女子、賀茂川の水、寺社」をあげています。歴史都市、文化都市、大学の街等々京都に付く冠はいろいろありますが、一番は「都」でしょう。
「都といえば京」以外になく、昔から人々の憧れをかきたててきました。

 

また古きよきもののほかに、チェーン店に押されているとは言え、まだまだ個性的な喫茶店や古い洋食屋がある、おいしいパンやケーキ、チョコレートもレベルが高い、他都市に例をみないマンガミュージアムの建設など、新進の気風もあわせ持ち、その点も世代を超えて多くの人が訪れる吸引力なのかと思います。

 

ある時、老舗の和菓子屋さんで買い物をしていると、ランドセルの女の子がばたばたとかけこんできました。そして、やおら小さな財布から小銭をじゃらじゃら出して「今日のおやつ、何にしよ」と品定めを始めたのです。お小遣いで買えるお菓子を選び「ここの水羊羹はほんまにおいしい」と言い残して帰って行きました。小学生でもりっぱに「京都のお人」です。「いけず」「京のぶぶ漬け」「一見さんお断り」など、本当の意味はいざ知らず、京都というまちの性格を表す代表的な言葉としてとらえられていますが、京都は本当に奥深いまちです。日常の些細な場面でも「おっ」と思うことに出会います。

 

尊王の思想家として吉田松陰などに影響を与えた高山彦九郎が、御所の方角に向いてひざまずいている大きな銅像の前は「土下座前」と呼ばれ、若い人たちの待ち合わせ場所となり、同じく幕末に坂本龍馬とともに京のまちを駆け巡った中岡慎太郎の「寓居跡」と刻まれた標柱が建つ場所には、抹茶ティラミスを目当てにいつも長蛇の列です。
このように、町並みや暮らしの様式、人々の意識も大きく変化しましたが、1200年の都の気質を今も受け継ぎ、京都はひとくくりにはできない、多面的な顔を持っています。最もプライベートな空間でありながら、町並みを形成する重要な要素である「住まい」を「都に建てる」建都がとらえた、様々な京都の姿をお届けしてまいります。
お気に入りのさんぽ道を見つけていただければ幸いです。