山の鉄則は 伐って植えて育てること

「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」は、いよいよ自然共生の知恵の源流を辿る最後の見学地、亀岡市保津町と右京区京北町へと向かいました。
今、環境や健康、日本の伝統文化と職人の技など、さまざまな観点から木や森への関心は高くなっていると感じます。50年先、100年先を見据えて、山へ入り、木と向き合う仕事から大切なことを教えてもらいました。

保津川とともに歩んで来た丹波の林業


保津町は亀岡市の東部に位置し、保津川の水運が潤いをもたらした地域です。古くは平安京の造営や、秀吉が天下人になってからは大阪城や伏見城の築城に使われた木材を、いかだに組んで運んでいました。以降も、いかだは京の都へ木材やお米、炭などを運ぶ手段となり、保津は物流の中継地として重要な位置を占めていました。

大ケ谷林産は、保津川が大きく蛇行する場所にあります。「骨まで愛して」と書かれたおちゃめな木工作品や「あたご研究会」の木の看板に思わず頬がゆるみます。代表の大ケ谷宗一さんに、話をお聞きしました。

丹波の木材は職人や作家のお墨付き


丹波の木材は昔から質が良いことで知られ、赤松も多くあったことから建築材以外に、清水焼の窯元にも納められていました。柳宗悦とともに、民藝運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「丹波の松は力があって良い」と評価していたと聞き、清水焼の伝統や作品を支える力にもなっていたことを、とても興味深く感じました。また、保津川の氾濫に備え、水の勢いを弱める効果があるとされる竹も多く植えられ、良質の真竹は茶筅などの竹細工や舟の棹などに使われ、竹のいかだもあったことにも感心しました。

木を育て、役立て、雇用を生む循環


杭にする間伐材を電動で「バター角」に揃える「角引きくん」の仕事ぶりを拝見。山でしていた仕事を屋内で早く安全に、労力をあまりかけずにできるようになったのです。杭は測量の時や工事現場で使われます。「間伐材はいらないものと思われているようですが、いらない木はありません。年代によって適材適所に使います」という言葉に、はっとし、「木の命を全うする」尊さを教えられた気がしました。大ケ谷さんは「伐って、植えて、育てるは山の鉄則ですと語り「その循環ができなくなっていて、杭にする木がなくなってきている」と続けました。
保津は「半農半林」に加え、農閑期はいかだ流しの仕事があり、その分、実入りが良かったそうです。林業は苗を植えることに始まり、枝打ち、下草刈り、伐採、製材など多くの人が様々な仕事でかかわることができます。いかだもその循環のなかで生まれ、大きな役割を果たしてきました。昭和30年代に姿を消してしまいましたが、保津川のいかだ流しを復活させようとプロジェクトを立ち上げ、多くの地元のみなさんやメンバーによって2011年、いかだ流しを実現させています。林業の現状は困難なことが多いとは思いますが、一歩ずつ今を切り開いていく力を感じました。保津町は、山と川と、そこに暮らす人がつながる、すばらしい地域です。

自然と、木の声を聞く巧みな技の協同


ツアー最後の見学先は、京北町の「株式会社原田銘木店」です。原田銘木店は「名栗(なぐり)」という、数寄屋建築に欠かせない、伝統的な技術を継承されています。主に栗の木を「ちょうな」という斧のような道具で「はつった」化粧板です。

ちょうなを手に説明をしてくださる原田さん

代表の原田隆晴さんのお話によると、「はつり」は日本だけの技術であり、思うようにできるようになるには10年かかるそうです。それは、ちょうなを使う技術とともに、木の曲がりや木目の方向を瞬時に見きわめ、はつりの間隔は、太さや木を見て決めるなど「木を読み取る力」も含まれます。力加減や刃の角度を変え、完全な手作業で仕上げていきます。はつりを実演していただきましたが、アッと言う間に一列が終わり、カメラのほうが間に合いませんでした。

名栗は独特の削り痕を残す加工技術

昔は今のように人工的な植林はなく、枝打ちもされてない自然のままの木で、きずや枝のあとをはつった、下処理の加工でした。そこに趣きやあるがままの自然を感じて、名栗という意匠にまで高めたのは日本の繊細な美意識でしょう。殴るようにはつるので「なぐり」と言うようになったそうですが、現在この名栗の技術を手加工でできる人は、原田さんを含め、日本に数名しかいないのではないかと言われています。
新潟県にあった、ちょうなを製造している唯一の鍛冶屋さんも、86歳という高齢で、去年ついに廃業されてしまったそうです。作業場には、ちょうながずらっと並んでいます。頃合いに曲げてある柄は、なぜか魔法使いのおばあさんの杖を連想しました。この柄は、材料の木の調達から、曲げてちょうなに取り付けるまで、すべて自分でされるそうです。


栗の木は大抵はつりやすく、長持ちするのが特徴ということです。乾燥にだいたい3年かかり、茶室など数寄屋建築、一般住宅、床柱、駒寄、門柱、濡れ縁など様々に使われています。
この仕事に就いて2年目という息子さんからこれも日本の侘び、寂びに通じる「木に錆をつける」仕事について説明してもらいました。

こぶしや、関西では「あて」という桧葉系の木を剥いだ丸太を外に置くと黴が自然繁殖し、3週間ほどで独特の味わいが生まれます。茶室や数寄屋建築のほか、雨に強いので門柱にも適しているとのことでした。日本でも数少ない名栗の匠と、その若き後継者というお二人は、そんな重い荷物を背負っている風はなく、気さくに、そして丁寧にお話してくださいました。自然を受け入れ、時をかけた美しさや味わいは、このようにして生まれることを知りました。原田銘木店では、この名栗の良さを広く知ってほしいと、ドアの取っ手や表札など身近な所にも用途を広げています。

昭和元年に建てられた、地元の小学校の講堂だった作業場には、京名栗の板や柱、そして桧葉やこぶしのさび丸太が静かにたたずんでいました。春になって、山に咲く白いこぶしの花を見た時にはきっと、この情景を思い浮かべると思います。
今回のツアーは、木材業、設計、建築、プランナー、行政関係、学生など幅広い方が参加されていました。日常のなかで少しでも自然とのかかわりを持ち、昔の人々が築いてきた知恵や文化を受け継ぎ、山や森を活かす新しい流れにつながることを願っています。

 

大ケ谷林産
亀岡市保津町今石107

 
株式会社原田銘木店
京都市右京区京北鳥居町伏拝5-1

霧の亀岡 300年の歴史を刻む武家屋敷

前回に引き続き「京の茶室文化・数寄屋建築を支える木の文化を探るツアー」一行を乗せたバスは、京と丹波の境となる老ノ坂峠を越え亀岡市へ。
亀岡市は、注目の明智光秀の築いた亀山城の城下町として栄え、森と水に恵まれ自然も豊かです。寒の内にしては穏やかな日和のもと、市内中心部から車で5分も走ると、まわりの風景が変わります。ほどなく、古い土塀と深い藪木立に囲まれた、堂々とした門構えの建物の前に到着しました。江戸幕府の旗本、津田藩の代官を務めていた「日置(へき)家」の屋敷です。

築300年の建物を可能な限り当時のままにし、多くの人が歴史的な建物に触れることができるようにと開店した「へき亭」です。地元亀岡の野菜や地鶏を使用した美味しいお料理とともに、おかみさんの日置道代さんのお話と、大切に継承されてきた建物や貴重な調度品の見学など、得難いひと時を過ごさせていただきました。

広大な敷地と周囲の景観も含めての歴史


日置家は代々、亀山城を正面に見るこの地で代官を務めてきました。敷地600坪という邸内には、自然の姿を感じる庭や、武道の鍛錬場、江戸時代に建てられた築300年の母屋、門の前の、平安時代から人々が京へ上った古道と道沿いの藪など、すべてが「代官屋敷日置家」の歴史を物語り、現代の私たちに伝えてくれています。

バスを降りた時、土塀と古びた道に魅かれたのはやはり、長い年月を経て来た存在が放つ力だったのだと感じました。この土塀や古道、趣のある入り口も含め、度々撮影に使われるそうですが、そのまま江戸時代となるロケーションですから、最高のロケ地でしょう。

玄関には、当主が二条城へ登城する際に使われた駕篭が置かれ、座敷には江戸時代末期に活躍し、円山応挙と並び称され、幕末画壇の「平安四名家」と評された、岸連山の襖絵や衝立が大切に保存されています。それは奥深く仕舞われているのではなく、今も襖や衝立としての役目で使われ、私たちも目の前にすることができます。中には、りっぱなゴブラン織りで仕立てた屏風もあります。これは道代さんが「300年の建物に合う調度品を」と探し求められたそうです。狩を楽しむヨーロッパの貴族の様子が見事に織り出されたゴブラン織りは、障子や床の間、掛け軸、甲冑など日本の家屋や骨董とも調和しています。

また日置家は、弓道の流派の一つ「日置流」の祖と伝えられ、岸連山の描いた鶴の襖の上方に弓がかけられていました。観音扉を開くとお仏壇があり、見せていただいた過去帳には「文化六年」「寛政十一年」と言った年号が書かれていました。ご先祖様も篤くお守りされています。玄関の様式にも代官屋敷の格式が見て取れるなど、数寄屋建築とは異なる見どころが随所にあり、限られた時間ではとても見きれませんでした。違う季節にぜひ訪ねたいと思いました。

集い、味わう場となった代官屋敷


おかみの道代さんは、代々の当主が現在まで大切に守ってきた歴史ある建物を「実際に見て、広く知ってもらいたい」との思いで、1994年(平成6年)「へき亭」を誕生させました。地元で収穫される、折々の季節の野菜や地鶏などを使って、ていねいに作られた一品一品は、素直においしいと感じます。「家庭料理をこの空間で味わい、ゆっくりしたひと時を過ごしてほしい」という、道代さんやスタッフのみなさんの心入れが隅々までゆき渡った、本当に心がほっとする時間でした。
明治維新後、多くの城郭や武家屋敷、寺院など伝統的な建造物が姿を消していきました。そのような中でこの日置家を、増築をしながら古い建物を補修し、当時の姿を保ち、
次世代へと受け継がれてきた道のりは、並大抵ではなかったことは容易に察せられます。広く知ってもらえるように大きく舵を切り、へき亭をつくったことも、決断のいることであったでしょう。これまで代々のご当主をはじめ日置家のみなさんが、使命感や覚悟を持って守ってきたこの空間を、これからは私たち一般市民も「かけがえのない預かりもの」として、保存継承にかかわっていく時代なのだと改めて感じました。もっと言えば「かかわることができる」時代なのです。

新しい役目を持った日置家の「へき亭」は、当主以外は家族さえも許されなかった客間に誰もが入ることができ、美術館級の襖絵や調度品も惜しげもなく、本来そこにあったかたちで置かれています。しかし威圧感ではなく「ちょっとおじゃまします」といった気分で拝見ができます。このように感じることができるのも、へき亭が「建物は人が住み、暮らしていたところ」としての根がしっかりあるからではないかと思います。身分の高い武家の屋敷であっても、暮らしの営みが感じられるところが、へき亭の大きな魅力なのだと感じました。

藪を通り抜け、木々に耳を澄ます


道代さんに見送られて、へき亭を後にし、京都府森林組合連合会アドバイザー前田清二さんの説明を受けながら古道を歩きました。古道に沿って深い藪があり、見上げるほどの樫の大木もあります。木をよく知った人なら、幹を叩いてみれば、中にうろ(空洞)があるかどうかわかるとのこと。うろがあれば直接、木の音が響くそうです。また棕櫚の木を何本も見かけましたが、梵鐘を突くしゅもくの先に棕櫚の皮を巻くと、良い音が出るそうです。お寺の庭で時々棕櫚の木を見かけるのは、そのためと説明されました。森を歩くと思わぬことを知ることができます。

のどかな野道を行くと、草が萌え始めていたり、畑の梅のつぼみがふくらみかけていたり、先々で春を見つけます。亀岡は、晩秋から早春にかけて、度々「丹波霧」と呼ばれる深い霧が立ち込めます。この霧は、乾燥する時期に森や畑に水分を与え、木や作物に恵みをもたらせてくれると聞きました。この美しい季節の風物詩の霧を、亀岡の特色としてアピールされています。1月には「かめおか霧の芸術祭」が行われました。

次に訪れたのはへき亭の近くにある、その名も「KIRI CAFE」(キリカフェ)です。古民家をリノベーションして、霧の芸術祭の拠点としてオープンした交流スペースです。芸術系大学の学生さんの陶器の作品や、近隣の農家さんが収穫した生き生きと元気の良い野菜が並んでいました。ストーブの上のお鍋から湯気が立ち、それも気持ちをあたためてくれます。2020年内の限定でオープンされたそうですが、ぜひ継続してほしい居心地のよい空間でした。

へき亭もKIRI CAFÉも、単に歴史のある武家屋敷、おしゃれなカフェという所ではなく「この土地と家を受け継ぎ生かして、多くの人にその良さや力を知ってほしい。それが新たな人と人のつながりになる」という熱い思いが、すばらしい場をつくっていると感じました。建物や森は、人がきちんと手をかけることで、人よりずっと長い命をつなぎます。そのことを考えることができたことはとても良い体験となりました。

京の茶室文化 数寄屋建築を支える木の文化

京都の特徴的な文化の一つ、茶室・数寄屋建築は、林業、木材の製材・加工、大工など、多様な職人の技や知恵によって支えられてきました。
実際に現地を訪れ、木の文化の源流を学ぶツアーが「林業女子会@京都」主催、「京都発 火と木のある暮らしの提案」でご紹介しました「京都ペレット町家ヒノコ」共催により2日間にわたって開催されました。
講師は職人さんや、建築、木材の専門家という特別企画の、数寄屋建築と庭園、銘木加工、製材所見学コースに参加しました。その様子を3回続けてお届けします。

その1、日本文化の精神を感じる建築と庭


京都御所の西側の静かな住宅街に、古風な門が見えます。門から路地を入り、さらにもう一つ門をくぐると、数寄屋建築の建物と手入の行き届いた広い庭があります。ここが日本文化と歴史を伝える場としてよみがえった「有斐斎弘道館」(ゆうひさいこうどうかん)です。
江戸時代中期の京都を代表する儒者、皆川淇園(みながわきえん)が創立した学問所跡に建てられています。このあたりは「どんどん焼け」とも言われた、京の町を焼き尽くす幕末の大火に見舞われましたが、明治時代から昭和にかけて増改築された建物が現在の弘道館です。約550坪の庭に、二つの茶室と広間のある建物は、お茶事をはじめ日本の伝統文化を学ぶ場となっています。

今回のツアーでは、京都建築専門学校副校長、建築史家の桐浴邦夫さんから、数寄屋建築や茶室の見方や歴史について説明していただきました。
室町時代、東山山麓の慈照寺(銀閣寺)のように、風光明媚な自然のなかで行われていた茶の湯は、次第に市中の富裕層の間に広がっていきました。
当時の人々は、自然に乏しい町なかでも、建物の土の壁や木から、自然を感じることができるよう工夫し、それを理解する感性を備えていました。そしてこの「侘数寄」(わびすき)の風趣は、小堀遠州に代表される、自由で明るく洗練された「きれい寂」(さび)という美意識へとつながっていきました。

弘道館の茶室は、この侘数寄ときれい寂の両方を兼ね備えていて見どころが多く、何回も訪れるなかで今まで気がつかなったところが発見できる楽しみがあるとお話しされました。また「日本の庭は、より自然に近づけるかたちで人工的に造ります。自然の要素と人工的なものをどう組み合わせるか。いろいろな技術を駆使しながらも、それを露骨に見せないことが、外国の庭園と大きく違う点です」と説明されました。こうして茶室や庭の見方の概略を聞いたうえで見学するのと、ただなんとなく見ていたのでは大きな違いがありました。

より自然に近づける卓抜した技術


六畳の茶室「有斐斎」は、床の間の内壁の墨蹟窓、高い天井などに特徴があります。これまでと同じ茶室にすることに異を唱える人があらわれ、お客様をもてなすという意味合いで、点前座を狭く、お客様の場所を広くとっています。

また、床の上部に竹材が使われていますが、よく見ると漆が施されています。高い所でもあり、最初は気がつきませんでした。すぐには見えない所にも技と工夫を凝らし、木の選び方や削り方なども、荒々しくする人、優しくする人など職人さんの気性や感性が伺えるそうです。

一方の茶室「汲古庵」(きゅうこあん)は、「表千家八代 卒啄斎(そったくさい)好み七畳」の茶室の写しです。卒啄斎は、自由に遊び心を取り入れる風潮にあったお茶に厳しさを求め、もう一度侘び数寄の世界へもどり、自然を感じようと取り組んだ人です。
特殊な加工や材を使っているわけではなく、土壁と丸太で素朴さを表現し、より心で自然を感じるつくり方になっています。「茶室は極限の広さの空間でお茶を点て、喫する場であり、狭いほど客と亭主の緊張感が生まれる。」とのお話に、先人のお茶人たちの心を推しはかる気持ちになりました。茶室は亭主と招かれた側が織りなす、一期一会の物語なのだと感じました。

歴史と文化を五感で感じる場


現在の有斐斎弘道館は、以前にも和の文化サロンとして活用されていましたが、2009年に建物と庭を取り壊し、マンション計画が持ち上がりました。すでに御所近くの町家も次々と姿を消す中で、庭や路地、茶室と、日本の文化が凝縮されたこの場は、なくなれば二度と取り返すことはできないと立ち上がった、研究者や企業人などの有志による奮闘と尽力で、保存が成し遂げられました。それが現在の弘道館の礎となり、2013年には公益財団法人化され、有志のみなさんによる活動が続けられています。

当日は、フランスからのお客様を迎えてのお茶会の準備で、財団理事の太田達さんはじめ、みなさんお忙しくされていましたが、とても丁寧におもてなしいただきました。お茶会のテーマは平安時代から11世紀までの桜ということで、それにちなんだすばらしい室礼でした。吊釜が掛けられ、炉縁は花筏、生垣は望月ので、これは「花の下にて春死なむ この如月の望月の頃」と詠んだ西行の歌にちなむなど、太田さんのお話に「もっと和歌や文学、歴史の素養があったら、どんなにこの場を楽しめたことか」と、つくづく思いました。

お菓子は今年の歌会始の御題「望」にちなむ「令聞令望」を頂きました。お茶は銘々、違茶碗を出していただきました。
太田さんは京菓子調進所のご当主です。「昔は政治家や経済人でもスケッチを持って来て、こういう菓子を作ってほしいと言ったものですが」と言われました。桐浴さんの「利休は、工務店の親父みたいなもんだったし、戦前は茶人が茶室を設計する例が多かったのです」という話も興味深く聞きました。

弘道館は、2019年7月7日に再興10周年を迎え、様々な企画が行われています。畳に座った視線で眺める庭、障子越しに差す光、湿りを帯びた苔の匂い。そして茶室という静謐な空間。
自然を大切する日本の美意識や伝統文化、職人の技を未来に伝えるために、弘道館という空間のすべてが必要なのだと得心しました。維持管理には、資金はもちろん、庭の手入れなど多くの人出が必要です。ぜひ多くの人が、その担い手になっていただけるよう願っています。手始めにご自分の好きな講座や企画に参加してみてください。

 

公益財団法人 有斐斎 弘道館
京都市上京区上長者町通新町東入ル元土御門町524-1

京都の結納屋さんに 教えてもらいました

水引工芸のりっぱな鶴亀や松竹梅が華やぎとおめでたい雰囲気をかもしだし、金封に墨痕鮮やかにしたためられた上書きには、風格と威厳が感じられます。結納屋さんのショーウインドーから、非日常の伝統文化を見分することができます。

結婚式や披露宴のかたちが多様化し、結納を伝統にのっとって行うことは少なくなり、結納店自体も減少しているそうですが、お祝い事や儀式全般の相談に、確かな知識で答えてくれる結納店は、お客さんから信頼される頼もしい存在です。春はお祝いの多い季節。大正時代の前初に創業した石本陽風堂代表 石本正宣さんにお話を伺いました。

水引の歴史と京都の仕来り


結婚、祝儀・不祝儀、それ以外のお祝いと、それぞれにふさわしく、失礼のない金封や上書き等々、戸惑うことがけっこうあるのではないでしょうか。石本さんから伺った結納や水引にまつわる話は、京都の歴史や伝統の奥深さそのままで、大変興味深いものでした。
結納の起源は、仁徳天皇が御后を迎える際に贈り物をされたことに始まるとされ、宮中から室町時代には武家社会へ、そして江戸期代末期には一般庶民へ普及し、やがて全国に広がって、その地方ごとの風習や流儀による結納となったそうです。
石本さんは「今はインターネットで一般的な結納のことを検索できて地方ごとの特色が薄れているように感じますが、京都は京都の、またそれぞれの地方には地方のかたちがありますから、良く話し合って、そこの仕来りに沿ったかたちでされるのがいいと思います。」と言葉を添えました。

また、水引は古く奈良時代に中国からの献上品が紅白に染め分けた麻ひもで結ばれていたことが始まりとのことでした。やがて紙を撚った紐になり、段々と民間にも伝わり、時代とともにお祝いや神事、仏事にも使われるようになりました。
一番よく使われるお祝いの水引を私たちは「紅白」と呼んでいますが、石本さんが「これが本来の紅白の水引です」と出された水引はどう見ても「黒白」です。この水引は宮中でのみ使用された一番格式の高いもので、黒ではなく下に紅色を染めているので、本当の色は黒に近い玉虫色です。実際に水引を濡らして見せてくださると、うっすらと紅の色がさしてきました。京都ではこの宮中のみで使用された水引を「紅白」、私たちが普通「紅白」と呼ぶものは「赤白」と呼び分けていたそうです。
また「黄白」の水引については、玉虫色をした「紅白」水引と、庶民が使う「黒白」水引がほとんど同じ色に見えてしまうことをはばかって、不祝儀は黄白を用いるようになったそうです。そして、これは京都だけの習わしと聞き、都が置かれた京都だからこその謂われや風習がまだ色濃く反映されていることがわかりました。

日々忙しい結納屋さんの仕事


取材の日は平日の午後でしたが、ほとんど途切れることなくお客様が訪れていました。「成人になったお祝いと、もう一つは出産祝いなんやけど」「友達の結婚式には、どんなのにしたらいいですか」などの相談にのり、金封が決まったら上書きをします。料金なし、その場で上書き。それが「京都の結納屋の特長」なのだそうです。
名前も様々のうえ、金封の紙質により墨が乾きにくかったり、凹凸があったりと、見ているほうが緊張しますが、石本さんは集中しつつ、肩の力が抜けているふうで、静かに書き上げていきます。書道は子どもの頃から習っていて、家の環境もあり、文字には興味を持っていて「どうしたら、こんなふうに書けるのかな」と研究したそうです。
書いている途中に見えた「きっちりした結納をする予定はないけれど、お祝いの金封だけ渡すのは何なので、どうしたものか」というお客様とも丁寧なやり取りをされていました。中断して接客をし、また戻って同じ調子で書けるということに、京都の結納専門店の揺るぎない力を感じました。

結納の飾り物や金封は、問屋さんから仕入れていますが、一部は石本さんの奥さんが紅白の紙を重ねて、伝統の型に折ったり、結んである水引の先を丸く加工するなどの手作業をされています。水引も和紙も一度手にかけたら、もちろんやり直しはききません。迷いのない一定のリズムの手の動きから、晴れの日にふさわしい、清浄なお祝いのかたちが生まれます。石本さんは「以前は結納の仕事で忙しくて、中で加工なんてやってられませんでした。今は暇があるからできてる」と笑って話しました。忙しさの中身は以前と違っても、暮らしや人生の折り目節目を彩り、礼にかなったお祝い事に、今も変わらず心強い存在です。

大切なことは聞いてみましょう


石本陽風堂は、伏見の大手筋商店街と納屋町通りの商店街が交差する角にあります。納屋町商店街の歴史は古く、豊臣秀吉の伏見城築城と同時期に城下町として誕生しました。鮮魚店に川魚店、食料品店、呉服店、刃物屋さん、そして結納と、まちに必要とされる多くの業種が元気に商いを続け、にぎわいをつくり出し商店街が結束を強めるおもしろいイベントにも常時取組んでいます。

石本さんは現在「納屋町商店街振興組合 会長」「京都結納儀式協同組合 理事長」の要職についていて、お店以外の公の仕事でも忙しくされています。陽風堂の跡を継いで35年ほどの間に、世の中の状況はかなりの速さで大きく変わりました。そのなかで今も大切にしていることは、お父さんに教えられた「結納屋は知識を売る仕事や」ということです。知識を売ると言うことは、以前と同じにすることは難しいけれど、長い年月をかけて今のかたちになった仕来りの神髄を受け継ぎ、お客様に伝えていくことです。
去年、娘さんの結納を地元の料亭で行ったそうです。お相手の方の実家は遠方だったのですが、ご両親も見え、ご本人たち二人も含め、本当に良かったと全員で喜んだそうです。これからつながりを持つ両方の家族が親しく顔を合わせ、二人の将来を安心して見守ることができる。話をお聞きして、これが結納の本来の姿なのだと感じました。石本さんは「結納もお祝いも、相手がうれしいかどうかが大切。もらう側の人のことを考えることです」と語りました。

金封本体や水引も、パステルカラーや花結びなど、若い世代の人の感性に受け止められる商品が増えています。陽風堂でも水引飾りの新しい提案を進めています。その一つが「ボトル飾り」です。日本酒やワインの贈り物を華やかにし、相手に一層喜んでもらえることでしょう。その後もリースのように飾ったり、門松に付けることもできます。
お客様が金封を選ぶ時、格調のある「檀紙」を見ると値段は少々高くても「こっちがいい」と選ぶ人がほとんどと聞きました。日本のお祝いのかたちは、間違いなく受け継がれていると感じました。
もうすぐ巣立ちの時。石本さんは、小中13校、700人分の卒業証書に名前を書く、大切な仕事が始まります。墨の香りがする、一人一人の名前がていねいで書かれた卒業証書は、卒業生へのすばらしいはなむけです。やはり結納屋さんは、人生の折り目節目に立ち合ってくれる心強い存在です。

 

結納司 石本陽風堂
京都市伏見区納屋町110-3
営業時間 9:30~19:00
定休日 火曜日

京都府南部 東一口のお正月のにらみ鮒

京都のお正月は、おせち料理と一緒に「にらみ鯛」と呼ばれる塩焼きの尾頭付きの鯛が並びます。今はそのとおりにするお家は少ないと思いますが「よう、おにらみやす」と、三が日は箸を付けない仕来りです。
お祝事には鯛ですが、にらみ鯛ならぬ「にらみ鮒」でお正月を祝う地域があります。京都府南部、久御山町(くみやまちょう)の「東一口(ひがしいもあらい)」地域は、近くにかつて湖のように大きな「巨椋池(おぐらいけ)」が広がり、様々な淡水魚に恵まれ、漁業が盛んであったことから、豊かな川魚の食文化が今も受け継がれています。代々東一口に住み続ける鵜ノ口家17代目、鵜ノ口彦晴さんに、にらみふな鮒を中心にするお正月や川魚の話を伺いました。

巨椋池とともにある東一口の歴史

江戸時代の巨椋池(wikipediaより)

「一口」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡、平家物語まどに「芋洗」「いもあらひ」と記され、古くから交通や軍事の重要な位置を占めていました。
三方を巨椋池に囲まれ、入口は一方だけ、つまり一つの口であったため「芋洗」を「いもあらい」としたする説や、豊臣秀吉が宴を催し、流した短冊を鯉が一口に飲み込んだからなことはという言い伝えも入り乱れ、諸説あるものの、今もって定かなことはわかっていません。芋洗という地名になったいきさつも含め、興味が尽きません。

一口地域は、東一口と西一口に分かれていますが、巨椋池の西側堤防上にある東一口は漁業を主としながら農業も営み、西一口は農業を専らとしてきました。伏見区、宇治市、久御山町に広がる巨椋池は、度々の氾濫で人々を苦しめましたが、一方で川魚の豊かな漁場として恵みももたらしました。
鮒、鯉、うなぎ、なまず、どじょう、すっぽんなど多種類の魚があがり、東一口は特別な漁業権を認められていました。その大元締めであり大庄屋であった山田家の住宅が「国登録有形文化財」の指定を受け、一般に公開されています。
巨椋池は干拓によって消滅しましたが、通称前川と呼ばれる巨椋池排水幹線と古川の二つの流れの間にあり、民家が軒を並べる東一口の集落は、巨椋池とともにあった歴史や暮らしに思いを巡らすことができます。

にらみ鮒は、ことこと三時間


ぴんぴん跳ねる大きな鮒は、1週間ほど水槽で泳がせて泥を吐かせます。そうすることで、気になるにおいや、あくがなくなります。
鵜ノ口さんが、鮮やかな包丁さばきで鮒をおろしていきます。最初にうろこを引きますが、銀鱗という表現がぴったりの美しいものでした。内蔵を取る時「苦玉(にがだま)」と呼ばれる胆のうを傷つけると1匹全体が苦くなりどうしようもなくなるので、慎重に取り出します。味がしみこみやすいように、おなかと背に飾り包丁を入れます。

大鍋に竹で組んだざるのようなものを敷き、その上にきれいにさばき終えた鮒を並べます。この竹を敷くことで、焦げ付きにくくなります。使わない時は折りたたんで収納しておけるすぐれ物です。ひたひたにお酒を入れて火にかけます。煮えてきたところで丁寧にアクをすくうのですが、水槽で泳がせた鮒からは、ほとんどアクが出ませんでした。砂糖と醤油を入れたらことこと、焦がさないようにゆっくり炊きます。だんだん良い匂いが漂ってきます。

お正月は、きれいに炊き上がった尾頭付きの大きな鮒を、銘々に一尾ずつお膳につけてお祝いします。運良く「子」が入った鮒がついたら大当たり。「鯛より旨い。子どもも喜んで食べる」そうです。鵜ノ口さんは「炊きたても旨いけれど、一日おいた鮒も旨い」と言います。そして「残った頭に番茶を注ぐと、これがまた旨い」のだそうです。
もろこの天ぷら、もろこの甘露煮が入った海苔巻きや押し寿司、型押しだんご、久御山町の特産品の淀大根の炊いたものなど、手間を惜しまず、丁寧につくられたそれぞれの家の味は、毎年のお正月、そして毎日食べても食べ飽きない美味しさがあります。

食材を余すところなく使い、それぞれの部分の味を楽しむ。これは現代においては、高度で豊かなことだと感じます。それを、声高く宣伝することもなく、普通に同じことができる暮らしが東一口には続いています。鵜ノ口さんは「古川で泳いだり釣って来た魚を料理する祖母、母親の姿することを見て育ちました。私は川魚で育って来ました」と笑って話しました。漁具や農機具などを収納する建物は、りっぱな梁が通り、天井に川魚の煮炊きに使うざるなどがかかっています。川魚漁は閉じても、その知恵や味わいは今も暮らしのなかで引き継がれています。

東一のふる里を学び、楽しみながら継承する


鵜ノ口さんのお宅の前は古川です。川の付近の草刈りや掃除など、地元の人や子どもたちの通り道を少しでも美しく、楽しくしたいという思いからです。美しい白の椿は毎年、初釜に使ってもらったり、水槽の魚を子どもたちが興味深々に見に来たり、小さなあたたかい交流が芽生えています。
平成22年に山田家が文化財に登録されたことをきっかけに、この歴史的な建物の活用と、自分たちが住んでいるふる里、東一口についてもっと学び、みんなで知ろうと「東一口のふる里を学ぶ会」が平成24年に結成されました。現在27名の会員が年間通して様々な活動にかかわっています。会長を務める片岡清嗣さんも17代目です。「農業と違って川は、ここまでがうちのもの、という区切りがありません。端から端までみんなで共有しています。そういうことが根底にあって、洪水が起きた時も力を合わせてきたから、この東一口は昔も今も、住んでいる家がほとんど残っているのだと思います」と話されました。

在りし日の巨椋池(wikipediaより)

巨椋池と川魚漁。その深い結びつきが生んだ住民の結束と、文化や知恵はこういうところが源泉にあるだと深く感じました。
それぞれのお家の、それぞれのかたちのお正月。新年を迎え、京都の町並み、暮らしと文化が継承されますよう、そしてすこやかな年となりますようお祈りし、建都もいっそう京都の企業としての役割を果たしてまいります。