京都の本屋は自由 新しいおもしろい

まちに必要なもの、あってほしいもの。本屋さんと喫茶店。
以前は暮らしているそれぞれのまちの範囲にあった、近所の人が気軽に立ち寄る個人営業の店が少なくなりました。一方、店主の世界観が広がる今までなかった店も増えています。
田の字型と言われる京都のまちの中心部にある「レティシア書房」はそのさきがけです。建物は建都が建てさせていただきました。開店から7年目に入り、本好きの人達が地元京都はもとより、遠方からもやってくる「おもしろい街の本屋さん」として根付いています。

おもしろい本屋のある街がいい


取材で伺ったのは、日曜日の午後でした。近くにお風呂屋さんもあり、ご近所らしき人達が自転車や徒歩でタオル片手にやって来てきます。界隈は、京都の中心部ですが繁華街からは少し離れていて「暮らしのあるまち」の雰囲気が漂っています。お風呂屋さんに行って本屋に寄り、居酒屋でビールを飲む。そんな日曜の昼下がりなら最高です。

店主の小西徹さんは、大学を卒業して輸入レコード会社で働いた後、20年くらい本の仕事に就いていました。最後の6~7年は、大手書店で責任者としてPOSデータを見たり数字をチェックするなど管理業務で手一杯となり、本が好きなのに本にさわれないもどかしさ、また、取次店が大量に持ち込んだ新刊書を余ったら返すというシステムにも「本屋が本を選べない。これは違うという思いを抱いていました。55歳で退職。自分で本を仕入れ、店主の世界観があらわれた空間で、お客さんと一緒にステップアップできる、そんな「街のおもしろい本屋」をめざしてレティシア書房を開きました。

小西さんは「本屋の延長線上に自分のやりたいことがある」と語ります。扱うのは古本、新刊取り混ぜて並び、独立系の出版社や個人が発行するリトルプレスの種類は全国でトップクラスです。また、紙媒体だけでなく渋い選曲のCDあり、ギャラリーも併設された、店主の思いの密度が高い空間です。様々なジャンルの個展や、地元出版社の特集、ゲストを招いてのギャラリートークなど、いつも新しい何かが行なわれています。
「知識を得ることは楽しいこと。それを他人と共有できるかどうかが大切。敷居のない自由な空間でいろいろな人が交流してほしい」小西さんの思い描く街の本屋は、一つところにとどまらず常に変化しています。
ちなみにレティシアとは、フランス映画「冒険者たち」でアラン・ドロン演じる主役の一人、マヌーが恋するヒロインの名前です。映画好きの小西さんのロマンを感じるネーミングです。映画が取り結ぶ縁については、京のさんぽ道「映画のまち 京都の喫茶店」で、カフェ セバーグ店主野口研二さんとの交流にふれています。

京都の街と、これからの本屋の進行形


レティシア書房の店内は、ちょっとした宝探しのような、今日はどんな出会いがあるのかわくわく感のある空間です。熊本で地震の被害を受けながら、喫茶店と本屋を続ける女性が書いた本。保護猫が常駐し、すべて猫本、収益の一部を保護猫団体へ寄付するという夢のような本屋誕生の本。横浜の夫婦二人で営む出版社の「横濱で呑みたい人の読む肴」シリーズ。また、京都在住の女性が、喫茶店や商店街など京都の気になる対象を一人で取材、撮影、編集までこなす小冊子。

残して置きたいと思う、すてきなデザインのタブロイド判の「離島経済新聞社」や「日本で最も美しい村連合」などの情報紙など、北海道から沖縄までその土地の匂いや、出版社と著者の熱い気持ち、心意気がほとばしり、本が語りかけているようです。
古本の棚は「経年変化」の味わいとでも言える趣きを感じる本が並んでいます。すべての棚、すべての本がぞんざいに扱われることなく、一冊一冊に存在感があります。店内を移動する時、お客さん同士が譲り合うような、お互いに軽く会釈してすれ違う感じになります。狭い道で「どうぞ」「ありがとう、お先に」という場面に似ています。

取材時、ギャラリーでは亀岡市に窯を持って精力的に活動されている陶芸家、高山正道さんの個展期間中でした。ギャリ―の企画・展示は奥様が担当されています。ひそやか雰囲気の青磁や、あたたかみのある肌合いの「使ってみたい」と思う食器が並んでいます。花器には季節の花が入れられ、大野忠司さんの日本画とともに壁面を飾り、秋の野に遊ぶ心持ちになる素敵な企画展です(会期は11月4日まで)
今、各地に小さな規模の、カフェやギャラリーを併設したり雑貨を扱うなど個性的な書店ができていると聞きます。小西さんは「再販制度の循環を断ち切って、読む行為をバックアップする、30代が経営する店が生まれている」と語ります。そして「これは書店の進化したかたちですが、実は本屋の原点に戻ったということです。それにどう新しさを加えていくかです」と続けました。レティシア書房では、定期的に岩手県陸前高田市の図書館へ寄贈することで、本の次のステージをつくっています。

小西さんは、書籍スペースを常設したホテルができたように、どこへ行っても本があるそんな時代の一歩手前まで来ていると実感しています。また「電子書籍対紙の本」という線引きには首を傾げます。小西さん自身、コミックや文字の小さい文庫は、画面を拡大できて、いつでも端末から取り出せるので、電子書籍を利用しているとのこと。「老眼の者にとってほんまに便利」と笑います。

「将来はAIが読み聞かせをするようになるかもしれないし、常に新しいものを取り入れていくことが必要。これでいいと止まったらだめ。本に対する愛情があって、読むことを保障できれば、媒体は何でもいい。紙の本は、たくさんの人が係わって完成したモノとしての存在があり、なくならないと考えています。30代の店主が増え、10年後にはまったく新しい「本屋」という名前では表現しきれない店が生まれているのではないかと、予測しています。そして、1200年の歴史やはんなり感といった京都独自の文化や感性が、若い経営者にも受け継がれている」と続けました。本屋と言う名前ではくくれない、けれど「街の本屋」の原点にしっかりと立っているおもしい本屋のある街。京都はそうであってほしいと願いつつ、その可能性を感じます。

時間がゆったりと流れる落ち着いた空間


町並みにしっくりなじむレティシア書房のたたずまい。少し古い木造校舎のような感じもします。ドアや床、それぞれ主張のある本が並んだ棚。はじめて来た時も懐かしさや親しみを感じる空間です。
小西さんが思う「時間がゆっくり流れる、落ち着いた空間」となる建物。一年かけて話し合いを重ね、積み上げた到達点がレティシア書房です。小西さんは「建物と本が呼吸している」と表現します。ご縁があって、建都に建築のお話をいただき、今も良いおつき合いが続いています。
建都はこれからも住む人、暮らす人のそれぞれの思いがかなう建物をつくってまいります。

 
レティシア書房
京都市中京区高倉通り二条下がる瓦町551
営業時間 12:00〜20:00
定休日 月曜日

暮らし、商う 職住一体の京町家

おだやかな秋の訪れとなり、京都の各地で収穫に感謝するお祭りが行われています。
菅原道真公を祀る北野天満宮の正面を通ることからその名が付いたとされる御前通(おんまえどおり)。先日行われた「ずいき祭」の御神輿の巡行路にもなっています。

時代の流れとともに、この通りの町並みも変わりましたが、生まれ育った家に住み継ぐことで「京町家のある景観」を部分的にもとどめている所もあります。

おだやかに軽やかに京町家と家業を語る


北野天満宮から御前通を南へ10分ほど歩くと、重厚な木造家屋がひときわ目を引きます。
二本の大きな樫の木と、七味の文字とひょうたんの意匠が染められた暖簾とが相まって、町家が並んでいた往時を忍ばせる一角となっています。
「七味六兵衛」は、その名の通り七味唐辛子の専門店です。築130年余りの京町家で、手作業による製造と小売りをされています。

現在は三代目の浅田昌裕さんが、普段に気軽に使える商品の開発など新しい展開も試みながら、お祖母さん、お母さんと伝授された七味唐辛子の香りと風味を守っています。

七味の7種の素材はと言うと「さて、何だっけ」となり、7種類すべてわかる人は少ないのではないでしょうか。地域や店によって多少違いがあるようですが、六兵衛では、鷹の爪、山椒、青のり、ごま、麻の実(おのみ)、しそ、陳皮の7種を使っています。素材の仕入先は当初から変わらず、素材を砕いたり、その日の気温や湿度により調合の割合を調整することもすべて手作業で行われています。
京都の七味は、東京などのピリッと最初に唐辛子の辛味がくるものと違い、唐辛子と山椒の配合に特色のあるやわらかい香りと風味です。最近は関東方面での催事販売も増え、そちらでもお客様から喜ばれているそうです。湯豆腐やきつねうどんに振りかけると、たちまち味が引き締まります。これからの季節には欠かせない常備品です。

住まいであり工房と店舗である京町家は「良好な景観を生み出す建造物」「歴史的な意匠を有し、地域の景観のシンボル的な役割を果たしている建造物」として、京都市から「景観重要建造物」「歴史的意匠建造物」の指定を受けています。
建物をはじめ、おくどさん、井戸、座敷庭を日常的に使いながら保存しています。1年を通じて水温が一定しているので夏は冷たく冬は温い井戸水や、お赤飯を炊いたりお湯を沸かす時に使う、おくどさんは、暮らしてこそわかる知恵や文化の継承です。
住み心地について浅田さんは「いや、冬はとにかく寒いですよ。風流とかそんなんと違いますよ。もし宿泊体験したら、一泊二日が限界でしょう」と笑いながら話されました。暖簾がかかった雰囲気のあるお店についても「入ってもいいのかどうかと思われる方が多いみたいですが、そんなこと全然なくて気軽に入って来てほしいのですけどね」と、至って気さくな方です。七味屋さんで六兵衛いう名はと、いわれを聞くと、親戚の方が「これがええんと違うか」と付けてくれたらしいと、これもまたおおらかな答えでした。

木造家屋は、きちんとした手入れが欠かせません。京町家を庭や井戸、おくどさんも含めて継承していくことは大変なことでしょうし、以前このさんぽ道でも取り上げたように(京町家の断熱リフォームの回)、ことに冬の寒さは並大抵ではありません。それも日常のこととしながら住み続けてもらうことで、世界の人々がイメージする「京都の景観」が保たれているのだということを強く感じました。

慎ましく並んだ京野菜の存在感

京野菜マルシェディスプレーコンテストで優秀賞受賞

七味六兵衛の少し北、御前通に面して、きれいに束ねられた野菜が並んでいます。他府県での京野菜の知名度は高く、時に仰々しさを感じることもありますが、佐伯さんの直売所の野菜には、土と太陽、そして畑の小さな生き物たちとも共生して育てられたおおらかさを感じます。自宅につくられた店先は「お隣のお家」的な親しみやすさで「今日のおかずに使いたい」という買い物にぴったりです。
露地もの、有機栽培にこだわって販売されている野菜は、佐伯さんの畑で作られたものです。すだれに手書きの「旬刊はたけ情報」がかかっています。ほうれん草の種まきなど畑仕事が待っているそうですが「一週間、お祭でほとんど仕事ができなかったので頑張ります」と、最後に小さく書いてあるのがご愛敬です。

玄関にはずいき神輿の千木につけられる藁と稲穂でつくられた梅花のお飾りが

お祭とは、もちろん、北野天満宮のずいき祭です。地元に暮らす人たちは、伝統行事の担い手でもあるのです。
はたけ情報によると、もうすぐ大根が収穫できそうとのこと。みずみずしい野菜が秋の深まりを伝え、季節を感じて暮らす豊かさを教えてくれます。

協同して、住まいと景観、文化の継承を


御前通を歩いてみて、町並みは変化していましたが、人がきちんと住み暮らす息吹を感じました。買い物帰りにご近所さん同士が立ち話をし、路地の奥からは、かすかに織機の音が聞こえてきます。
建都は、工務店さんや職人さんなど専門家のネットワークを生かして、地域のコミュニティーを形成し、住み慣れた家の親しみや京町家の良さを生かしながら、良好な生活の環境をつくるためにいっそう努力してまいります。
自然災害への対応も含め、よりみなさまの身近な住まいのために、お役に立ってまいりますので、どうぞ、どんなことでも建都にご相談ください

 

七味六兵衛
京都市上京区御前通下立売下ル下之町404
営業時間 10:00~18:00
定休日 土曜、日曜、祝日

 

京やさい 佐伯
京都市上京区仁和寺街道下がる
営業時間 9:00~18:00
定休日 日曜、祝日

京都の工房で生まれた ギターの音色

京都は言わずと知れた手仕事のまちです。伝統産業の分野では、その高度な技術をどうのように継承し、生業として成り立たせていくかが常に課題となっています。
そのなかで、町家をアトリエにして様々なジャンルの若い人たちが、新しい感覚のものづくりに取り組んでいます。西陣の繁栄を支えた職人のまちに新しいものづくりが根を下ろしています。

最初から最後まで一人で仕上げるギター


かつて平安京の朱雀大路であった千本通りの西側には、お寺がたくさんあります。
それぞれに由緒のあるお寺ですが、そのなかの華光寺という秀吉ゆかりのお寺が、池波正太郎の鬼平犯科帳に出て来ます。華光寺に、平蔵の父親のお墓があり、平蔵がお墓参りのために京へのぼるのです。池波ファンにとっては、ぜひお参りしたい聖地です。
この界隈は、近所の人が「雨で、孫の幼稚園の運動会が延期になってるんやけど」などと、立ち話をしている、ほっこりする光景が見られる界隈です。

引き戸に小さくて素敵なネームプレートが付いています

「確か近くにギターの工房があったはず」と思いながら歩いていると、ありました。
ギター工房「daily tone guitars」(デイリートン ギターズ)です。
ガラス戸越しに天井から提げられたギターや琵琶に、木を削るような機械や板もあり、何やら木工所のような趣です。一生懸命作業をされているのに、申し訳ないなと思いながらも、若い店主さんに話を聞きました。
専門学校で基本的なことを勉強してから後、ずっと一人で製作と修理、補修を手掛け18年たつそうです。最初から最後まで、外注は一切なしで、すべて一人で、手作業で仕上げます。

ギターには主に、カエデ、マホガニー、ローズウッド、ボニー(黒檀)などの木材が使われますが、しっかり乾燥できている外国産は、日本でも狂いが生じないそうです。
ボディーの表・裏、側面、ネック・銘板など、部分によって適した木材を選びます。木の種類や個体差によって、音色や色合いも変わってくるので、どんな音色をイメージしているのか、楽器全体の雰囲気なども含めて依頼主と相談しながら細部を詰め、設計図を作ります。
音色という目に見えない、はかることのできないものを想像しながらギターという立体に仕上げていくのです。


依頼主の希望によって、螺鈿や彫刻を施すこともあります。その作業も外注には出しません。
感覚・感性といった数値化できない部分と技術を融合させる仕事は、さぞ骨の折れることだろうと思うのですが、ご本人は至って楽しそうで、肩の力が抜けています。「今までにないものを作る、ゼロから作ることがとても楽しい」そうです。

オーダーメードだけでなく、修理や補正も引き受けています。ネックが完全に折れてしまったギターや、他では断られた琵琶も再生させる名医のような職人さんです。
自身もギターが好きで、高校1年の時の文化祭で、伝説のパンク ロックバンドと称される「ラフィン・ノーズ」の曲を引っ提げて演奏したそうですので、かなりロックな少年だったのではないでしょうか。今もライブハウスから声がかかると忙しい仕事の合間を縫ってプレイヤーとしての活動もされています。

工房を訪れる人はみんな口コミで、年代層も幅広く、ジャンルもいろいろです。何よりも「音楽が好き」を共通項にして、自分の楽器にさらに愛着が深まっていくのだと思います。移転先を探していた時、たまたまここが見つかったそうですが、しっくりなじんでいる雰囲気です。世界に一台だけのギターという夢がここでかなえられます。

建都の考える家づくり


デイリートーン ギターズの工房の近くに、建都が開発した手法で建てた、三番町の家があります。こちらもギター作りと同じく木材にこだわり、木の良さを引き出した家です。
京都の地域材を使い、低コストで木の良さを生かした、持続可能なストック型の社会に見合う家づくり、そして、地元工務店、不動産業、設計事務所が連携した「京山々木の家づくりの会」取り組みの実例でもあります。
地域で暮らすことを大切に、コミュニティーの形成と家づくりをトータルにとらえ、今喫緊の課題となっている「災害時の対応」についても、取り組んでまいります。掲げた「京都が好きな建都だから」の思いを具体化し、地域に貢献してまいります。

 

DAILY TONE GUITARS
京都市上京区上立売通千本東入姥ヶ西町609-2
営業時間  11:00~20:00

しまつでぜいたく 京都の昆布

夏は、ものを炊く気になれなかったけれど、秋の気配を感じると、ちょっとは炊く気になると「おばんざい」の名を広めた随筆家の大村しげさんは語っていました。
大豆やひじき、おから、それに季節の野菜。身近にある材料を使って、安く、手早く、おいしく作る普段のおかずが「しまつ(節約、倹約)だけれど味はぜいたく」な、おばんざいです。そこには、決して出しゃばらず、全体をおだやかにまとめる昆布の存在があります。

昆布が庶民の手に届くまで


昆布は、江戸時代に北海道の松前から北前船を使って、大阪へと運ばれたことはよく知られています。上方からさらに、九州、沖縄まで運ばれ、日本で広く消費されるようになりました。昆布の消費量の多い県は、北前船の寄港地があった日本海沿岸の岩手、青森、富山、山形と続いています。
日本の各地へもたらされた昆布は、それぞれの種類を巧みに使い分け、地域の特色ある食文化が育まれました。代表的なのが「大阪の真昆布」と「京都の利尻」です。

大阪は、コクがありながら、すっきりした上品な甘味を持つ「真昆布」を使い、酢昆布やおぼろ昆布などの細工昆布や佃煮、うどん出汁に盛んに使われるようになったということです。
一方京都では、色の濁らない、風味のよい澄んだ出汁がとれる利尻昆布を選んだのは、精進料理、懐石、湯豆腐など、あるかなきかの繊細な料理であることと関係していると考えられます。
そして、出汁をとった後の昆布で塩昆布を炊くことは、素材すべてを使い切る、京都の始末のこころにかなっています。
昆布が取れる北海道と遠く離れた沖縄で、消費量が多いことにも注目です。豚の三枚肉とこんにゃくやニンジンを一緒に炒めたクーブイリチーに代表されるように、栄養バランスの良い定番料理となりました。高温多湿の沖縄では、冷蔵方法もない時代に保存のきく昆布は、重宝されたことでしょう。

また、「喜ぶ」にかけて、結婚式や上棟式などおめでたい席や、神様への供物としても古来から大切にされてきました。
日本で昆布を食べ始めた歴史は相当古く、縄文時代までさかのぼるそうです。昆布巻きや塩昆布を食べる時、縄文時代の人たちも、食べていたのかと思うと、ロマンを感じます。

天神さんのお膝元の昆布屋さん


北野天満宮の近くにある東西に伸びる商店街は、正式には「北の商店街振興組合」という名称ですが「下の森」という通称で呼ばれています。もとは天神さんの森であった所からこの名が付いたようです。
西陣の産業で栄えた地域であり、日本初のチンチン電車の北野線が通っていました。目指す昆布屋さんは、創業50余年の「きたの昆布」です。

店には「天然稚内一等」「出汁が良く出る羅臼の耳」「昆布巻きに」など、商品の特徴がひと目でわかるぴったりの手書きの札が付いています。「神様用」と大書された札は、圧倒的な存在感がありました。角切り昆布も何種類もあり、すぐに塩昆布が炊けるようになっています。
年中、切らさずお家で塩昆布を炊く人も、だんだん少なくなってきてはいるけれど、遠くからこのお店に買いに来る方もいるそうです。今、昆布を専門に扱うお店は本当に少なくなり、お客さんから「続けてや」と言われるそうです。

煮干しや干ししいたけ、削り鰹、あらめにひじきなど乾物もあります。うま味と栄養が凝縮された乾物を使った料理は、ものや時間、どんどん入ってくる情報に振り回されない、実のある生活へ導いてくれる気がします。

京都では、何日、あるいは何の日には、何を食べるというきまりがあり、しばらく前までは、まだこのきまりは守っているお家もあったようです。
たとえば朔日は質素倹約して、今月も「しぶう、こぶう」気張りましょうと、いう意味を込めた刻んだ昆布と身欠きにしんを、ことこと煮た「にしんこぶ」をいただきます。
京都では、ことに食に関わる仕事をされる方は男性でも、昆布を「おこぶ」と言います。食材への慈しみを感じる呼び方です。
日本昆布協会では、11月15日、七五三の日を「昆布の日」と決めています。昆布を食べて元気に育ってほしい、また昆布を食べる習慣をつけてほしいという願いを込めて昆布の日としたそうです。
11月15日は、昆布と鰹で出汁をとってみる。少しだけでも、ていねいに暮らす時間が流れるに違いありません。

氏神様のように親しみのある天満宮


「きたの昆布」から少し足を伸ばし訪れた、菅原道真公を祀る北野天満宮は、平安中期847年創建とされ、全国におよそ1200ある天満宮の総本社です。
毎日多くの人が参拝に訪れ、みんな親しく「天神さん」と呼んでいます

里芋の茎、ずいきを干してから加工します

境内には「ずいき祭」の大きな旗やポスターがありました。10月1日~4日まで行われる、五穀豊穣を感謝して、収穫したての野菜や果物を神前にお供えしたことが始まりです。
ずいきで屋根を葺き、稲わらや栗や柿の実、野菜、昆布やかんぴょうなど約30種類を使ってつくり、飾った御神輿が練り歩く、大変珍しいお祭りであり、それは見事です。
今年の実りを神様に感謝する秋祭、私達に作物を育てる大変さや収穫の喜びを思う気持ち、食そのものへの感謝を持つきっかけを与えてくれます。


一の鳥居をくぐってすぐ右手には「影向松」(ようごうのまつ)があります。この松は、創建当時からあるとされ、立冬から立春前日までに初雪が降ると、天神様が降りて来られ、雪を愛で、和歌を詠まれたと伝えられている、と神職の方に教えてもらいました。
今も、初雪が枝に降り積もった日に、硯、筆、墨をお供えして「初雪祭」の神事が執り行われるそうです。松の緑と白雪、厳かな神事。あとひと月半で暦は立冬です。この優雅な神事を一度拝見したいものです。
その期待を持って、底冷えこそ京都にふさわしいと、煮炊きものでもしながらゆっくり冬を待つことにしましょう。

秋の始まりに 日本酒が合う

暑さは続いても、日差しは透明になり、時折り心地よい風が吹いてきます。
夏の終わりから初秋にかけて、日本酒の様々な味わい方を楽しめます。原酒をオンザロックやソーダ割できりっと。寒造りのお酒をゆっくり熟成させた、まろやかで軽快な、初秋のひやおろしは、冷酒や冷や(常温)で等々。
「原酒と生酒は違うの?」「ひやおろしって何?」わからないことはいろいろありますが、知りたければお店で聞いて教えてもらうのが一番です。うれしいことに、通でなくても気軽に何でも聞けるお店があります。夏の名残りををいとおしみ、秋の走りを喜ぶかたわらに、今年は日本酒が加わります。

洛中唯一の蔵の清々しく溌剌とした空気


建都の新築分譲マンション、フェミネンス二条城北の近くに、伝統ある酒蔵の建つ、ふと立ち止まりたくなる一画があります。ほのかにお酒の香りも漂ってきます。
二条城の北側は、豊臣秀吉が造った聚楽第があったところです。昔から、千利休も茶の湯に使ったとされる、良い水が湧き出ていました。今もその水脈が枯れることはありません。
明治26年創業の佐々木酒造は、当時131軒もあったなかで残った「洛中唯一」の酒蔵です。歴史的な名を冠した「聚楽第」や作家川端康成が「この酒の風味こそ京の味」と絶賛し、自著の名を揮ごうした「古都」をはじめ「洛中伝承」の製法を受け継いだ酒造りを続けています。

夏の名残に冷ややロックで味わいたい、純米吟醸原酒(左)と、蔵出し原酒

また、伝統の清酒の製法である麹糖化技術を生かした、天然由来・健康志向に応える米麹飲料を開発するなど、進取の精神をも併せ持った企業としても注目されています。
出荷やお客さんの応対など、お店では、若いスタッフのみなさんがきびきびと立ち働き、重厚な蔵のなかに、新しい息吹が満ちていました。
ごくごく初歩的な質問に対して、丁寧に説明してくれました。もうすぐ終わってしまうので、ぜひ味わってみてと、初夏に桶の封を切り、火をいれずに瓶詰めした蔵出し原酒と、低温貯蔵した純米吟醸原酒をいただきました。原酒は、搾ったお酒に水を加えていないため、アルコール度数は高くなるので、飲み方はオンザロックや冷やで。

佐々木社長のお話では、今年は気温が高い日が続いたので、お酒の熟成が早いそうです。お米つくりも含め、その年、その季節の気象条件にも左右され、それぞれの工程で細やかな気配りをして、やっと良いお酒になるのですね。
夏を越したお酒が熟成して、秋に旨みがのってくることを「秋上がり」と言います。
おいしさとともに、無事に良いお酒ができたことを喜ぶ晴れ晴れとした心も込められているように感じます。

佐々木酒造の蔵と造り酒屋とひと目でわかる煙突

佐々木社長の兄で俳優の佐々木蔵之介さんという大看板と並んで、佐々木酒造イメージキャラクターの、ニャンコのあーちゃん、ちーちゃん、ちびこちゃんも大活躍しています。みんなで盛り立てる佐々木酒造の風は、確実に日本酒の裾野を広げています。
創業当時のレンガ造りの煙突は、今は使われていませんが、大切に残されています。洛中伝承の精神でお酒造りを続ける気概と、誇りの象徴のように見えてきます。

垣根なんて最初からない、角打ちです

開店の時、佐々木酒造「古都」のこも樽で鏡開きをし、佐々木社長もお祝いに来られたそうです。

木の看板には、SAKE、COFFEE、TABAKOと書かれ、「木の家」という感じのお店です。開かれた雰囲気の空間に、自然と足を踏み入れていました。
ご近所に住んでいるというお客さんが、昼間一人でビールを飲んでいます。そのお客さんから、ここが100年くらい続く老舗の酒屋さんであること、外へ出ていた息子さんが帰ってきて、おととしからこのスタイルのお店を始めたこと、気楽に飲めてお客さん同士で話ができるのが楽しいなど、お店へ入ってすぐにこのお店のあらましを聞きました。
真ん中にある正方形のがっしりした木のテーブルが、とてもいい役目をしています。

山形県米鶴酒造の夏純米、蛍ラベル

お酒は京都を中心に、石川、新潟、山形など、「帰って来た息子さん」の、店主高井さんが選んだ、それぞれに主張のあるお酒が揃っています。グラスなら気軽に試し飲みができますし、もちろん1本買いもできます。今、入荷待ちが多い丹後・伊根町の向井酒造、伏見の月の桂、そしてご近所でもある佐々木酒造のお酒も各種あります。
お酒を飲めない人も、ここへ来て楽しめるように、伏見区にあるカフェの自家焙煎豆のコーヒーがあり、オリーブオイルが大好きな高井さんの目にかなった、ハーブ入りのオリーブオイルの小さなボトルは、気のいた贈り物にもよさそうです。

はっさくを使った京都のクラフトビール

暮れなずむ頃、仕事帰りに軽く一杯という、女性グループが入ってきました。すぐに、ごく自然に言葉を交わすようになります。軽やかであり、気取る必要も物知りである必要もない、それでいてよそよそしくない、この空間の間合いはとても気持ちの良いものです。
リニューアルオープンしてから、今年の12月で2年。「コミュニケーションを通して、だれもが日本酒を楽しめる場としてのSAKE CUBE KYOTOは、このままに留まらず、もっと進化、革新していく気がします。ニューウェーブとか、スタイリッシュという言葉の範疇に入らない空間になっていくのではないでしょうか。それも楽しみです。

御用聞きをする酒屋、城の巽の方角にあり

いいね!がたくさんつきそうな、店の風貌。本当にいいですね

二条通りの、堀川と烏丸の中間くらいに、町並みになじんだ酒屋さんがあります。米屋、魚屋、八百屋など「屋」のつくお店が急激に減り、今や残っているお店はめったになくなりました。西本酒店は、二条城の巽の方角(東南)にあります。初代が明治の初めに、店舗を構える時、家の相がこの方角が良いという見立てから、この地に決めたのだそうです。
旧学区は「城巽(じょうそん)学区」であり、以前城巽中学校がありました。初代の西本与三吉さんは、自家醸造した清酒に「城巽菊」と名付け販売していました。
京都の底冷えが育んだ、優雅で気品漂うお酒だったそうです。戦争により製造が中断されてしまいました。城巽菊の復活を願う三代目、現店主の西本正博さんは、各地の蔵元を訪ねてまわり、滋賀県の酒造家と出会い、平成14年に復活を果たすことができました。

西本酒店でも、お店の前に場所を設けて角打ちで城巽菊をはじめとする日本酒や生ビールを楽しめます。以前は「お風呂上りに、パジャマのままでどうぞ」というキャッチフレーズで、近所へ生ビールの配達をしていたそうです。とても好評だったけれど、配達が大変で止むなく中止したそうです。そんな出前が頼めるなら、需要は多いでしょう。

味がある、店主手描きのPOP

店内には、ぎっしり並んだ日本酒、洋酒、焼酎のほかに、ツバメソースや焼きのりなどの、厳選された食料品も販売しています。「ここの海苔は本当に美味しくて、遠くの友達にも送っています」と、バスに乗って買いに来るお客さんもいます。ツバメソースは、京都では古くから愛用されてきたソースです。少量生産のため、ほとんど出回らないので、西本酒店に置いてあることを知って、遠方から買いに来る人もいます。
西本酒店では、サザエさんに登場する三河屋さんのように、今でも御用聞きや配達をしています。学生時代のアルバイトからずっとここで働いている、中村信彦さんの担当しています。中村さんの肩書は「番頭」です。取引先やお客さんからも「番頭さん」と呼ばれて、頼りにされています。店主の西本さんも「4代目になるべく修行中」と、頼もしそうです。蔵元も酒屋さんも、人と人をつなぎ、地域のコミュニティーに貢献しています。
「酒は百薬の長」ですね。

 

佐々木酒造株式会社
京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727

SAKE CUBE KYOTO
京都市中京区二条通西洞院西入ル西大黒町343

西本酒店
京都市中京区姉小路通西洞院西入宮木町480

毎日通いたい 京都三条会商店街

東は友禅流しが見られたという堀川、西はJR二条駅に近い千本通りまで、全長800mの京都三条会商店街。食品、飲食店、雑貨、美容院、靴の修理専門や傘屋という稀少種のお店まで、大抵のことは間に合います。

常連さんだけでなく、一見でも気持ち良く、いい買い物ができます。青果、鮮魚、総菜など日々なじみのあるお店と、ジェラートやチョコレート、カフェなど、おしゃれ系のお店も増えて、お客さんもお店の人も、幅広い年代にわたっています。また、創業100年を超す老舗や個人店と、100円ショップやスーパーマーケットがごく自然に共存しているのも特徴です。必需品を買うことはもちろん、「買い物って楽しい」と思える商店街です。
ちょっとした買い物でも、聞けば大将や奥さんがいろいろ教えてくれます。ふた言、み言の会話が心を満たしてくれます。通りの中ほどには、祇園祭には御神輿三基が参集する「又旅社」もあり、古くからの京都の歴史を発見することもできます。「こういう京都がある、京都はやっぱり、ええとこや」と思える、商店街です。

始まりは明治にさかのぼる庶民の商店街


商店街の歴史は、明治期にさかのぼります。山陰線の開通や染織関連の隆盛もあり、近隣の農家が農作物を運び、多くの人が行き交い、室町から千本までの三条通りは、早くから賑わいを見せていました。飛躍的に発展したのは、大正から昭和初期ですが、近年は、地下鉄東西線の開通により山科区あたりのお客様が増え、「この商店街おもしろい、買い物しやすい」と思って訪れる地元以外のリピーターや、観光客も増えています。お盆直前の商店街へ出かけました。

京都産の野菜や各地の旬の果物を商うお店には、顔なじみのお客さんがやってきます。顔も名前もわかっている、気心の知れた間柄で、しかも「目利き」に希望を伝えれば、間違いのない買い物ができるのです。

もうすぐお盆ということで、店頭にはお供えセットが並んでいました。青柿、蓮の葉など、お供えのために特定の農家から仕入れています。「前は、ご先祖さんが乗られる千石豆という豆もあったのですが、今は作っている農家もほとんどなくて、もう手に入らなくなりました」という話を聞きました。
お盆のお供えのお膳の内容を書いたファイルも用意されています。「お供えをちゃんとするお家もだいぶ少なくなりましたけれど、ここらへんは、まだまだ、やってはります」とのこと。古くからの習わしを、まちに住む人々と暮らしを支える地元のお店によって伝えられています。

炭火で焼く鰻や鮎がおすすめのお店は、かつて川魚専門店。琵琶湖でとれた湖魚を扱っていたそうです。今は、お店で作る総菜が、毎日の食卓に、家庭の味と季節のうるおいとなっています。葉唐がらしの佃煮と小鯵の南蛮漬けをいただきました。支払いをした時「これからまだ歩かはるんやったら、買うたもん、預かっときますよ」と、一見の私に、思わぬ親切な言葉をかけてもらい感激。

三条会を訪れた目的は買い物ともう一つは「普通のかき氷」でした。入ったお店は昭和の初めに開業した、うどん屋さん。蒸し暑さに汗だくでしたが、まずは熱い志っぽくうどんをいただき、その後、かき氷にしました。
近頃はかき氷も流行りになっていて、豪華、おしゃれ、珍しさを競っているように思いますが、私は絶対「普通」が好きです。宇治氷は、注文の都度、抹茶を点てています。次回は宇治と決め、元気回復して、商店街歩きを始めました。

次は漬物屋さんで、瓜の朝漬けと壬生菜のひね漬け、梅干しを購入。並んでいるすべてが工場製品でなく、見るからに長年の製法で手ずから作ったという感じがします。商店街のサービスシール「リボンスタンプ」を「集めないと思いますので」と、お断りすると「スタンプの代わり、気持ちだけ」と、おつりをおまけしてくれました。

歩いていて気になった「猫本サロン」へ入りました。文学系の書籍や文庫、写真集などいい感じにディスプレーされていて、猫好きは夢中になって、つい長居しそうな空間です。
オーナーのお家には「まぐろは、大間のまぐろしか食べない」という、超美食猫が家族なのだそうです。みんなが自由に気楽に来てくれて、楽しくいられるサロンのような空間にしたいという願いを持ってオープンして、ちょうど一周年を迎えました。おなじみも増えてきて、最近はここで宿題をする小学生もいるそうです。商店街の進化のかたちのひとつです。

通りの一番西のほうにある、傘専門店は、全商品日本製です。京都で唯一の製造会社が昨年廃業してしまったそうです。でも、頑張って製造を続けている取り引き先もあるので、こっちも続けてます、とのことでした。最近は遠方からのお客さん増え、日曜に来る人が多いので、日曜休みにできないと、笑っていました。

昔からの習わしを、普通に続ける地域


通りの中ほどにある「又旅社」は、貞観11年(869年)、疫病退散を願い、始まった祇園会ゆかりの神社です。66本の剣鉾を立てて、祇園社の御神輿を迎えた神泉苑の南端に位置します。
お父さんと小学生の女の子二人が、鳥居の前できちんと一礼してなかへ入っていきました。本殿の前では、きちんと二礼二拍一礼されていました。
ご近所に住んでいて、去年の祇園祭の粽を納めに来られたのだそうです。毎年続けていると話されていましたが、それがごく自然で「京都の伝統を守っています」というような気負いはまったくないところが、またすごいと感じました。

生活様式や嗜好、家族構成の変化により、商店街も様々な工夫や新しい方針で、より暮らしに密着した、魅力のある存在であることを追求しています。
三条会で出会うことができたお店の方とのやりとりや心遣いは「おもてなし」「ホスピタリティー」などという言葉とはまた違う、本当の快さ、買い物の楽しさを実感しました。
そして三条会のような商店街が、地域に支持され役割を発揮していくことが、京都に暮らす喜びでもあると実感しました。

平安の麗人と蓮と仏像 法金剛院

京都には、四季折々の花や、草木の芽吹き色づきを楽しめるお寺が多くあります。関西花の寺第十三番霊場、京都市の西方にある法金剛院(ほうこんごういん)は、桜、花菖蒲、さつき、あじさい、蓮、萩、30種ある椿など花暦を楽しむことができます。

創建は830年に遡る名刹。一時は衰退してしまった後、復興させたのは、平安時代きっての麗人、待賢門院です。
壮麗な伽藍を配した法金剛院を建立し、上皇、天皇もしばしば行幸されました。西行をはじめとする歌人や貴族が集う、超一流の華やかな文化サロンであったようです。
鳥羽天皇の中宮、待賢門院が、極楽浄土を求めて造らせた「池泉廻遊式浄土庭園」には今まさに、極楽に咲いているとされる蓮の花が、最後の見頃を迎えています。
酷暑の今年ですが、朝に法金剛院へ参拝してみてはいかがでしょう。池の廻りを歩いて蓮を愛で、ご本尊の阿弥陀如来や地蔵菩薩とまみえると、すがすがしい気持になれます。素の自分に返ることができる空間です。

平安時代の人々を、近しく感じる


壮大な堂宇や庭園も、度重なる天災や戦災で土に埋もれてしましましたが、昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、日本最古の人工の滝である「青女の滝」の石組みが、そのまま埋まっていることが確認され、2年後に、滝の石組みの復元、池や周囲の植栽の整備が行われ、平安時代の庭園がよみがえりました。
青女の滝は、国の特別名勝に指定されています。この作庭を命じた、待賢門院の才気と権勢は、目を見張るものがあります。

待賢門院像(法金剛院蔵)wikipediaより
西行像(MOA美術館蔵)wikipediaより

才気と美貌に恵まれた待賢門院は多くの人に慕われ、17歳年下の西行も恋心を抱く一人だったようです。
西行といえばまず「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」の歌が浮かんできます。無常を感じ、すべてを捨てて出家した人と思っていましたが、こういう人間模様をみると、平安時代に生きた人たちも、今とさして変わりない気もしてきました。
ご本尊の阿弥陀如来、珍しい僧形の文殊菩薩、地蔵菩薩、十一面観音を近くで拝観することができます。阿弥陀如来は、藤原時代を代表する「丈六」(じょうろく)という、高さです。これは、仏様は身長が、1丈6尺(約4.85cm)とされていることによります。その背の高さ、大きさでも威圧感はなく、包み込まれるような「安堵する」という気持になりました。僧形文殊菩薩と地蔵菩薩も平安時代のもので、いずれも一木彫です。千年を超えて、今を生きる私たちに語りかけてくれます。

身近でもあり、あまり知らない蓮のこと


法金剛院はまたの名を「蓮の寺」と言われています。広い池を埋め尽くすように、また周囲には鉢植えの蓮の花が咲いています。
今年は暑さのせいか、例年より開花が早かったそうです。茎が折れたり、花びらが散ったりと、台風12号の狼藉のあとが見られましたが「泥中の蓮」の言葉通り、清らかな美しさはほかの花にはないものでした。拝観した如来像と間の前に咲く蓮が自然と重なりました。
境内の蓮は約90品種にものぼると伺いました。その中には古代蓮とも呼ばれる、大賀ハスもありました。その存在を初めて知ったときは、2000年も前の種から芽が出て、きれいな花が咲くなんてと、古代のロマンを感じたものでした。


蓮の花の命は短くて、3~4日くらいで散ってしまい、その後はハチの巣みたいな「花托」だけになり、3週間くらいで穴に入っている実が熟し「果托」と名が変わるそうです。子どもの頃、近所に蓮池のあるお家があって、お使いに行くと、お駄賃に果托ごと実をいただき、薄皮を剥いて食べました。どんな味だったのか。とうもろこしみたいなのと言われればそうだったような気もします。また食べてみたいものです。

鑑賞用と、食用のれんこんにする蓮は品種が違うそうですが「先が見通せるように」と、お正月のおせちには欠かせないし、「一蓮托生」という言葉もあり、チャーハンやラーメンを食べる時に使う略称レンゲ、「散り蓮華」は、散った蓮のはなびらというそのままの名前を付けているし、身近なところで蓮に関係している言葉やモノがあります。
ちなみに、蓮の花托は蜂の巣に似ているので、蓮はまたの名をはちすとも言い、はちすから蓮になったとも聞きました。小学生の夏休みの自由研究並みですが、こんなことに頭を使ったり調べたりするのもおもしろいと思いました。

法金剛院のある双ヶ岡東麓、花園の地

wikipediaより

法金剛院のある所は、京都市の西方の双ヶ岡(ならびがおか)という三つ並んだ丘の東側です。古くから天皇が猟をして遊んだり、位の高い貴族の山荘があった場所です。四季の草花が咲く、のどかな里であったことから「花園」という地名になったとされています。
また、吉田兼好も双ヶ岡の麓で徒然草を執筆しました。法金剛院の前身である、時の右大臣、清原夏野が平安時代の初めに建てた山荘は、没後に「双丘寺」(ならびがおかでら)というお寺になりました。このように双ヶ岡は、それぞれの時代の歴史と関わってきました。そして、1941年(昭和16年)に、国の名勝に指定されています。80年近くも前に、その価値が認められていたということです。
しかし、1964年(昭和39年)に、所有者が売却を決定し、買収予定者がホテルの建設を発表したところ、地元から反対の声があがり、市民団体や学術団体などによって、政府・国会への声明を発表しました。
結局は買収予定者が資金調達ができず、ホテル建設は免れましたが、このことは、1966年に古都保存法を制定の契機となりました。開発と保存の問題は依然として全国的な課題となっていると思います。

千年はおろか、30年、50年前の景観や自然を継承することも困難な場合が多くあります。少子高齢化、人口減少社会の到来で、これまで以上に、年齢を重ねても健康で文化的な暮らし、生活の質を保っていくことに力を注がなければなりません。
法律に照らしながら、そこに住む一人一人の合意を大切にした、まちづくりをどのように進めたらよいか。住んでいる人の誇りとなり、憩いにもなる、京都の歴史的景観や文化を次世代へとつないでいくために、建都もさらに努めてまいります。

 

法金剛院
京都市右京区扇野町49
拝観時間 9:00~16:00(ハスの花期は7:00から)
拝観料  500円

空白から復興へ 祇園祭の力強さ

七月一日の切符入にから、神事や行事が滞りなく行われ、前祭りの鉾立の終わった山鉾町に祇園囃子が流れ、猛暑の京都は、祇園祭を中心にまわっていています。出版物やインターネットにも「京都観光」の祇園祭をより楽しむための記事が満載されています。

厄災をもたらす怨霊退散を祈る「御霊鎮」の祇園祭も、本来は御神輿が主体です

そんななかで、2014年に前祭、後祭の本来のかたちに復活したことをきっかけに、宵山、巡行以外の行事にも目を向け、これまでと違う楽しみ方を知る人も増えてきているように思います。それぞれの山や鉾の来歴、華やかさの裏にある、思いがけない歴史上のつながりや、ご神体に託して先人が伝えたかったこと、継承を巡る様々な出来事など、もう一歩奥を知ると「見る側」としての意識が変わります。未だに新しい発見が次々とある、祇園祭の厚みと深さは計り知れません。祭の精神を垣間見る祇園祭です。

八幡と蟷螂山、外郎家を結ぶ縁

前祭の宵山を前にした13日、八幡市観光協会と、やわた観光ガイド協会の主催による、「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という、祇園祭にふさわしく、興味深い企画があり、参加させていただきました。三者を結ぶ縁について、わかりやすくまとめられたパンフレットが役立ちました。その内容もお借りしながら、三者のつながりを記してみます。

祇園祭の蟷螂山は、御所車の上にかまきりを乗せた、唯一、からくりのある山です。車に踏み潰されそうになったかまきりが、怒って斧に似た足を振り上げて立ち向かってきた。その様子も見た王が「これが人間なら、さぞ勇敢な武将になったことだろう」と語ったという、中国の故事「蟷螂の斧」にちなんでいます。
どんなに強い相手にも、自分を顧みず立ち向かう蟷螂の姿に、南北朝時代に南朝方の武将として勇敢に戦った、四條隆資(しじょうたかすけ)卿を重ね合わせています。
隆資の死後25年目(1376年)に、陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそき)が、法要を営み、四條家の御所車に蟷螂の作り物を乗せて巡行したのが、蟷螂山の始まりとされています。隆資も外郎一族も現在の蟷螂町に住んでいたよしみと、朝廷に仕える優れた医術者、薬業者であった外郎家が、町衆の病を治すなど、民衆のために力を尽くしたことを初めて知り、とても感銘を受けました。
南北朝の戦いでは、南朝は石清水八幡宮を行宮(あんぐう)としましたが、足利軍率いる北朝に敗れ、隆資も壮烈な最期を遂げました。この「八幡合戦」(正平の役)から、666年の今年6月に、石清水八幡宮おいて、地元のみなさんによる実行委員会と蟷螂山保存会により、慰霊祭が営まれたそうです。忘れ去られていた、供養塔である正平塚も発見され整備されました。八幡のみなさんの日頃の地道な活動と地元愛が、自分たちが住んでいるまちの、身近なところに眠っていた、悠久の歴史を掘り起こしたのだと思います。

猛暑日の予報通り、どんどん気温が上がるなか、ケーブルカーに乗って、さらなるつながりを知るために八幡宮へ。眼下に広がる眺望はすばらしい、搭乗時間3分間の空中の旅です。全国中で、一番谷が深いケーブルカーなのだそうです。車内のアーム型のポールは、一風変わった形をしているのですが、これはエジソンが電球を発明した時に八幡の竹を使ったという所縁から、フィラメントをかたどっているそうで、こんなところも楽しめます。

山上の清浄な空気のなか、壮麗な社殿が見えてきます。昇殿へ参拝し、権禰宜さんのお話を伺いました。話す時間がまさかの30分では、とても話しきれないと仰って、参加者を笑わせながら、楽しく簡潔に八幡宮の創建やご神体と歴史、美術工芸的な見どころを説明くださいました。
蟷螂山との係わりは、瑞垣に見られます。三代将軍家光が寄進した瑞垣には、かまきりと橘が彫刻されています。不老長寿の効用があるとされる橘は、かまきりが好むとされているそうです。八幡宮の神紋は橘、蟷螂山の御所車にも橘の金具が付いています。また、かまきりは「蟷」の字を当てますが、これは虫偏に当る文字を組み合わせていて、武将に好まれた意匠だそうです。
信長が寄進した黄金の雨どいや左甚五郎作と伝わる目貫の猿の話、そのほかにも本当に聞いてみたい内容は尽きず、次回を期待したいと思いました。

蟷螂山と外郎家に共通する精神


西洞院四条を上がった所に蟷螂山保存会、蟷螂山があります。一昨年に移転する前、すぐご近所に建都本社を置き、蟷螂山に協賛させていただいたご縁があります。今年の巡行は、山一番を引き当て、活気のなか準備に忙しいところ、役員さんからお話を伺いました。
この地に住まいした四條隆資と外郎家の所縁の蟷螂山ですが、江戸末期から資金不足などを理由に度々不参加となっていたそうで、ついに明治25年(1872年)から休み山となっていました。そして、117年の長い時を経て、昭和56年(1981年)再興されました。その間、売却されてしまった会所のあった土地をはじめとする資産の散逸や、実際に住んでいる住民が激減するなどの困難のなか、マンションの1階に保存会を置き、マンション住民にも運営に参加してもらうことにするなど、大きな決断と改革をされ、復興されました。

懸想品は、人間国宝の羽田登喜男作の友禅染です。染の懸想品は蟷螂山のみです。織に比べて立体感は少ないことから、一枚ものに染めるのではなく、複数の染めた生地を綴じ合わせるなど工夫を凝らしています。
かまきりのからくりに人気が集まり、かまきりがご神体と思われていますが、ご神体は「祇園三社」と揮ごうされた、鎌倉時代の掛け軸です、と説明されました。

会所に飾ってあるかまきりは、復興前の古いもので、これは一人で操作できるのだそうです。現役のかまきりは、4~5人で操作し、複雑でしなやかな動きを得意とするところです。それを可能にしているのは、人形師の技に加え、操りにくじらのひげを使用しているからです。しかし、ワシントン条約により、捕鯨が禁止されてから入手が非常に困難になり、またとても高価になっているということでした。それでも、手に入るあいだはくじらのひげを使うそうです。
役員の方は、外郎家と蟷螂山について「反権力」の精神が共通すると話されました。外郎家は、朝廷に使える医術家であり薬業も営んでいた、言わば上層部の人たちでしたが、「土地の民衆のために薬を調合し、病を癒し、命を守りました。これは、反権力の行動です。兵力がまるで違う戦いに、それでも果敢に挑んだ隆資をモデルにした蟷螂山は反権力の山です」と続けました。
外郎家はやがて、京都では途絶え、北条早雲の招きにより小田原に移った外郎家が、今も代々伝わる薬と名物の外郎を商っています。2005年、社史編纂を通して、祇園祭の蟷螂山と外郎家のつながりを知ったご当主が、わざわざ訪ねて来られ、そこから交流が復活したという、これも本当に、歴史に残る大きな出来事です。2011年からは、ご当主も巡行に参加されているそうです。
祇園祭という、町衆の力を結集しなければ成しえない大きな祭事は、それぞれの時代に生きた人々の心が、途切れた糸をまた結びつけてくれているように思います。

伝統行事や文化の継承とは


今回、この「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という企画に参加して、その時代の出来事、歴史を伝えていくのは簡単なことではないと感じました。でも、地元のコミュニティーを大切にし、協力することを可能にするのが祭礼なのだと思います。案内してくださった、やわた観光ガイドの方が「住んでいる人が減っているから、昔の村単位に一社あるお宮は、祭礼の時だけ人が集まる。でも、それがあるからまだしもコミュニティーが生きているのです」と話していました。
この度の地震や豪雨は、甚大な被害をもたらしました。疫病や豪雨などの厄災の退散を願って始まった祇園祭は、その後も自然災害や戦火によって中断、不参加を余儀なくされましたが、志ある人々が力を合わせて復興させた歴史と現代が重なります。普通の暮らしを大切に、そしてだれかのためになることを誠実に続けていくこと。伝統行事や技術の継承は、そういったことが、きっと礎になると感じました。その思いで、山鉾へお参りしたいと思います。

西陣の京町家 古武邸の夏のしつらえ

京都は、春秋の華やかなすばらしい季節と引き換えに、夏冬の酷暑、厳冬があり、その暑さ、寒さの時期こそ一番京都らしいなどと、まことしやかな話を聞いたことがありますが、三方を山に囲まれた盆地の蒸し暑さを、どう乗り切って来たのか。知恵と感性で、涼しさを呼びこむ工夫が随所にみられる、夏仕度の京町家へおじゃましました。

人生後半を変えた一軒の町家


古武博史さんと、その町家との出会いは今から30年前、1998年のことでした。地場産業の弱まりは、西陣も例外ではなく、職住一体の家屋である町家は不要となり、壊して新しい住宅を建てる動きが活発になっていました。加えて、バブル期の地価高騰の嵐に見舞われ、たくさんの町家が消えていきました。不動産業を営む友人から「集合住宅にするために、もうすぐ壊されてしまう町家がある。もったいないが」と聞き、案内してもらったのが、運命のような現在の古武邸との出会いでした。

巧みに配置された店庭の敷石
今は出入りには使われていない店玄関
店の間の天井。人を迎える正式な部屋の天井はこの格子天井
貴重な明石緞通の敷物が敷かれた座敷玄関
表座敷
奥座敷から見える中庭

門を入ると店庭から店玄関、店の間、さらに座敷玄関と、表座敷に奥座敷、庭。渡り廊下の向こうには、離れになっていて「うなぎの寝床」を実感できます。二階には、特別のお客様を迎えるための、材に凝り、技術の粋を生かした、文化の高さが伺えるりっぱな座敷があります。調べてみると、室町時代にほぼ確立された町家の原型を再現した、大正時代の建物であることがわかりました。
家主さんの思い、大工、左官、建具、造園等々の職人さん達。この家を建てるにあたってどれだけ多くの人が係わったか。「呉服店だったこの家にたくさんの人が集い、西陣の歴史と日々の暮らしに生きる文化を学べたら」そう考えた古武さんは、仕事を早期退職して町家を買い取り、文化的催し活動施設「西陣の町家・古武」の主人となる道を選びました。つながりの輪を広げ、地域をもっと深く掘り下げ、みんなで楽しいことに取り組み、気が付けばすでに30年。
コンサートや狂言、謡曲、落語などの伝統芸能。茶道、着付けなど体験型企画、写真や生け花、陶芸などの作品展と、とても紹介しきれないほど多彩な内容の催しが行われています。

桂離宮と同じ市松の襖の離れ

毎年恒例の新年企画、小学生対象の「茶の湯とかるた会」は、すぐに定員となる人気企画です。修学旅行生や大学のゼミ、行政機関、企業の研究機関の研修や見学の講師、案内役も古武さんが務めます。外国からの視察は44か国を超えたそうです。国に関係なく、来る人は関心を持っている人達なので、見学に来た人から教えてもらうことも多くあるそうです。
気候風土を考慮した職住一体の京町家は、新しい使命を受けて、堂々と西陣の歴史と文化を伝えています。西陣の民間親善交流サロンです。

五感が働くと感じる涼しさ

「建具を入れ替えるのは、主人の仕事です」と、古武さん。それは力仕事だからということだけでなく、すだれや網代、葭戸など、入れ替えの時に、どこか傷んでいるところはないか、補修が必要かを点検する必要があるからです。また、家具を動かすついでに、在庫の商品も確認できるからだそうです。
古武邸の葭戸は、他所のお家のものを再利用しています。町家というものは大量生産品と言えるものであり、規格が決まっているので使いまわしがきくそう。よくできています。

網代を敷いた座敷

畳の上に敷かれた網代は、すべすべしてひんやりした感触です。また葭戸やすだれの、向こうが透けて見える効果も、涼しさを感じさせます。時間とともに変化する庭の光や木々の影、時々すっと通り抜ける風も気持ちを静めてくれるようです。

萩の枝の戸

四君子の透かし彫りの欄間
二階座敷の廊下。端から端まで継ぎ目がないこのような木の使い方は今では見られなくなりました

欄間の透かし彫り、二階の座敷の戸に使われている細い華奢な材は、萩なのだそうです。多分今ではもう作れないだろうということでした。
この萩の戸だけではなく、京町家の維持に必要な職人さんがどんどんいなくなっていて、今は「延命」させているに過ぎない。とても継承とは言えないと、古武さんは冷静に見ています。古武邸の修繕をお願いしている職人さんは、90歳になられたそうです。町家を支えている文化的な構造の産業が機能してこそ、と、古武さんは語ります。地場産業の衰退が町家の減少を生み、残った町家の維持も困難にしています。
では、どうするか。町家のオーナーが、その価値を自覚し、どう発信するかが重要だと語ります。それでこそ、訪れた人たちが広げていける、まずオーナー自身が楽しんでいるかどうか、と続けました。古武さん自身は、毎日が楽しいそうです。

地域の人が、地域を語ることの大切さ


古武邸のある地域は、平安時代は天皇や貴族の離宮が並び、源氏物語の舞台にもなっています。応仁の乱では西の本陣が置かれ、やがて西陣織の技術とともに、経済的に発展し、それに伴って職住一体の住居も、茶の湯や能楽などの文化的要素を取り入れていきました。
古武邸の向い側は、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が子供時代を過ごしたとされるお家があり、今も縁につながる方がお住まいです。余談ですが、桂昌院は幼名を「玉」といい、「玉の輿に乗る」の諺の由来となったという説もあります。
昔の町割りが今も残り、江戸時代の古地図を持って歩くことができる、1200年の歴史が凝縮している地域です。しかし、今回久しぶりに訪れてみて、町家がほとんど姿を消していることに驚きました。

古武さんも「3軒続いて町家はない。西陣織は70の工程があり分業です。ですから、だれもがなんらかの仕事につけたのです。そして、産業がまわっている時は、普通に仕事をして普通に暮らしていれば、文化は伝わったのです。産業の衰退は仕事も文化も歴史も、学ばなければ知ることがない、伝わらなくなっているのです。」と語りました。
しかし、古武さんは、悲観的ではなく、「歴史の掘り起こしをして、暮らしに根付いた価値の発信が大事です。未来に生かすための歴史です。歴史は未来学の視点で語ることです。これからはアナログとITの共存の時代です。どうすればいいか。そのヒントが町家にあると思います」
古武さんも起ち上げメンバーの、上京区役所が地域やNPOなどと協働して開催している「上京探訪 語り部と歩く1200年」という息の長いシリーズがあります。上京区を12のコースに分けて、歴史を辿ります。「応仁の乱 東陣の地を歩く」「二大プロデューサー 義満と秀吉」など、知ってるようで知らなかった上京区の魅力満載です。語り部は地元のみなさんが担当します。
「地域のことは地域の人が語るのが一番です。町家 古武は、みんなの自己実現の場。そのなかで西陣の将来展望が見えてくると思います。町家の文化的構造を支える産業は、昔とおなじようにはなりません。その現状を見据えて、課題を整理して、どうしていくのか。未来社会を真剣に考える時に来ています。」そして「私は、衣食住遊と言ってるんです。遊びの中で、いろいろなものをつくり出していくんですよ」と、続けました。
町家のリフォームやリノベーションをさせていただいている建都も、町家の継承とまちの在り様について、今後も取り組んでまいります。

石清水八幡宮門前の 名物餅

昔から栄えた街道筋や名のある社寺の門前には、必ずと言えるほど、名物の食べ物があります。なかでも手っ取り早くお腹を満たしてくれるお餅は、多くの旅人の旅の楽しみにもなりました。今も変わらぬ味の名物餅は、参詣を終えたひと休みに、またおみやげにと、時代を超えて人々に愛されています。

はちまんさんの門前に、なくてはならぬ店

日本三大八幡宮に称せられる、国宝石清水八幡宮

梅雨の晴れ間、久しぶりの石清水詣でをしました。境内の空気は清々しくひんやりして、木々の生気を感じます。うぐいすのさえずりがすぐ近くに聞こえます。「お見事」と、声をかけてやりたいほど、高く澄んだ声で鳴いていました。同じ「ほーほけきょ」でも、求愛はやさしく、縄張りの宣言や、警戒している時は、低く鳴くそうですが、本当に珠をころがすような、美しい鳴き声でした。
八幡宮が鎮座する男山は、都の裏鬼門にあたり、鬼門の比叡山延暦寺と並び、都を守護する神社として、朝廷や貴族から篤く敬われてきました。そして地元では「はちまんさん」と親しみを込めて呼ばれ、時代を越えて多くの人々の信仰を集めてきました。一昨年に、国宝の指定を受け、八幡の歴史と文化を生かして地域をもっと元気に楽しくしようと、地元の気運も盛り上がっているようです。

一の鳥居の前にある、昔は旅籠だった趣きのある建物が「やわた走井餅老舗」です。走井餅は、江戸時代中期に大津で創業し、湧き出る「走井」の名水を使い、餡を包んだお餅を作ったことが始まります。独特の形は、平安時代の名刀工、三條小鍛冶宗近が、走井で名刀を鍛えた故事にちなみ、刀身をかたどったものと伝えられていまするそうです。明治43年、六代目の四男井口嘉四郎・イト夫妻により、本店と同じく、清らかな水の湧く現在の地に開店されました。以来100年、親子三代にわたるお客様もあるように、訪れる人みんながほっとできる、八幡様のお参りコースになくてはならないお店です。

名代名物 走井餅と邪気を祓い夏を無事こせるように願う水無月

今回は走井餅と、水無月をいただきました。走井餅は、その手間暇や苦労を感じさせない、さらりとした美味しさにあらためて感動。食べる人が「作る大変さ」を、いちいち思わなくてもいい「お餅ですから、気楽においしくどうぞ」という心を感じました。
水無月は、むっちりした、外郎生地に豆の風味が生きる小豆が一面に乗っています。6月晦日は「夏越の祓」(なごしのはらい)です。昔、昔宮中では、夏を無事乗り切れるように願って、氷室に保存した、貴重な氷のかけらを口にしたとか。この氷のかけらの形を写したと言われる水無月をいただいて、茅の輪をくぐれば、今年の夏も大丈夫な気がしてきます。

小さなことでも、こういった季節の決まり事は、ばたばたした毎日を送っているだけに、気持ちが少し和らぎます。

相槌神社のある東高野街道


一の鳥居の横の道を少し進むと、どこか旧街道の面影のある道に出ました。京都から高野への道「東高野街道」(ひがしこうやかいどう)です。河内長野で、堺から南下する西高野街道と合流するそうです。平安時代の末期、全国を行脚した高野聖によって、高野山参詣が盛んになり、たくさんの人々が行き交った道です。

「八幡相槌神社」(やわたあいづちじんじゃ)という額が掛かった小さな社と、今は使われていない井戸の跡、そして「山ノ井」と刻まれた石標がありました。由緒にはざっと「創建は不詳。伯耆国の刀工、大原五郎太夫安綱が鍛冶する時、相方がいなかった。すると神様が来られて“相槌”をつとめてくれた。よってここに神様を祀ることにした。また、走井餅とも所縁のある、三條小鍛冶宗近もここの山ノ井の水を使った。以来、1000有余年守られている」という内容が記されていました。
相槌は、鍛冶の仕事で二人が交互に槌を打ち合わせることをさしていました。そこから、相手の話にうなずき、巧みに調子を合わせること、という意味になったようです。よく知っている諺の語源の名を奉った神社との思わぬ巡り合いでした。地元のみなさんが大切に守って来られたそうですが、傷みも出てきて、今「次の千年への歴史を共に繋ぎませんか」と、募金を呼び掛ける文書が張ってありました。

新しい建築の民家が多いなかで、軒の低い、いかにも街道沿いに似合うお菓子屋さんがありました。使い込まれた蒸籠や、石臼など、今も現役の道具が目を引きます。東高野街道は、歩けばまだまだ楽しい発見がありそうです。

何年たっても、訪ねて行けばそこにある嬉しさ

多くの参拝者で賑わった、八幡淀川井筒浜の旅籠にあった、定宿を示す講札が飾られる走井餅の店内

やわた走井餅老舗は、十代目の娘さんが、次期当主、十一代目になるべく家業に専心しています。新しいメニューや季節のお菓子、新商品の紹介など、ブログはほぼ毎日発信されています。八幡のはちまんさんのおひざ元で育った土地っ子の目線で綴るブログは、仕事のこと、子どもの頃から見てきた折々の行事、豊かな自然が教えてくれる四季の変化、そして地域のにぎわいつくりの取り組みなど、とてもいい感じで中身がぎゅっと詰まっています。その中で、走井餅を伝えてきた代々の人々や、廃業した大津の本家の「走井」を月心寺というお寺として守っておられる、日本画家橋本関雪のお家のみなさんへの感謝がていねいに記されているのが印象的でした。
十代目であるお父様も「本家がちゃんと残り、走井が守られていてこその走井餅です。どれだけ感謝しても、し尽せません。本当にありがたいことです」と話しておられました。おふたりのこの言葉からも、時代は激しく変化しても、淡々と日々の仕事を実直に続けていくことの大切さを教えてもらった気がしました。お餅の味、お客様がほっとできる心遣いは、そこから生まれているのだと思います。子どもの頃のうれしかったこと、それぞれの人の楽しい思い出につながる大切な場所が、今も同じように迎えてくれる。それがやわた走井餅老舗です。

 

やわた走井餅老舗
八幡市八幡高坊19
営業時間  8:00~18:00
定休日 毎週月曜日