職人のまち 本能学区で営む印染

二条城の東側を流れる堀川通の桜も咲き始めました。
堀川を西端とする、本能学区は豊富な水を利用して早くから染物業が盛んになり、染めの仕事に必要な様々な業種の職人が集まり、戦前までは、京都の代表的な風景の一つ、染め上がった反物の余分な染料や糊を川の中で落とす作業が見られました。
このように、多くの家が染めにかかわる仕事に従事する、典型的な職住一体のまちでしたが、繊維・和装産業が減少していくなかで、加工場跡地にマンションが建ち、「下京第二番」の番組小学校であった本能小学校も124年の歴史を閉じるなど、様相は大きく変わりしました。
しかし、長い年月をかけて培われてきた技術と、分業によって支え合うつながりを生かし、職人のまちは、時代の風を読みながら、様々な要請に応えています。
印染(しるしぞめ)とは、のれん、旗、幕、幟(のぼり)半纏(はんてん)法被(はっぴ)、ふろしきや手ぬぐいなどに家紋や屋号など、しるしになるものを染めた染物を言います。
本能学区で、印染を続ける大入商店でお話を聞きました。

かたちは変わっても、印染の出番は多い


「大入商店」は1933年(昭和8年)、綿布の小売販売の「大入屋」を開業し、二代目の時代に、縫製加工、染色加工を始め、段々と多様な印染を手がけるようになっていきました。現在は四代目の平野秀幸さんが代表を務めています。
「法被や半纏は、かつては米屋、植木屋、酒屋などで働く人たちのための作業着であり、家紋や屋号の入った半纏を着ることは、その店の一員になる、ということを意味し、誇りを持って着用されていたのです」と、最初に話されました。暖簾にしても「暖簾を守る」という言葉があるように、屋号や家紋を背負い、掲げるということは深い意味を持っているのだと思いました。今は、このような本来の目的から、イベントや販売促進の時に使われることが多くなりましたが、揃いの法被を着た一体感や高揚感は、他では生まれてこないものだと思います。

大入商店では、一番数量の多い法被をはじめ、のれん、幕、幟、手ぬぐい、ふろしきと、印染の定番のほか、タオルやTシャツ、お客様から依頼された様々な印染を扱っています。ネットでの発信や販売はしていませんが、人のつながりの縁や口コミで直接会社へ見えるお客様が多いそうです。なぜかと言うと「作ってほしいものがあるけれど、どこへ行って聞いたらいいかわからない」「ネットを見ても、書いてある内容がよくわからないことが多い」からです。それは、個人のお客様でも企業の場合でも変わりません。お客様と直接話し、希望や疑問を一つ、一つ丁寧に聞き、たくさんあるサンプルや色見本、生地見本を見ながら、具体的に提案します。最優先することは予算なのか、こだわりの染めなのか、デザインなのか。それらを見極めることが求められます。商談として成立する場合も、しない場合もありますが「みなさん相談して良かったと、喜んで帰られるのを見て、良かったなと思います」と語る言葉に、平野さんの誠実な姿勢がうかがえます。こうしてこつこつと、信頼関係を築いていることが新たな仕事や息の長い取引につながっています。

自社の強みにつながる京都の分業体制


大入商店では、図案と型作り、暖簾や幟などの縫製を自社で行っていますが、様々な要求に応えられるのは、たくさんの専門業者さんとのつながりがあるからです。平野さんは「お客様との信頼関係はもちろんですが、外注さんとの信頼関係も大切です」と語ります。
ふろしき専門の縫製、染めも用途や商品の種類により、引き染、抜染(ばっせん)注染(ちゅうせん)など、それぞれ信頼できる外注先にお願いしています。手ぬぐいの染めに関しては、京都では作るところがなくなってしまい、50年くらいの長い付き合いのある堺の工場へお願いしています。

左茶色:注染手ぬぐい 右:プリントハンカチ

染め方としては、注染とプリントがあります。プリントは細かい柄や何色も使うデザインの染め方に適しています。一方注染は、生地をじゃばら折りにして重ね、上から染料を注ぎ込みます。表も裏も同じように染まることや、1枚1枚に手作業ならではの、あじわいのあることが特長です。この「あじわい」という微妙なものが難しいところで、検品して「これは、ちょっとお客さんには渡せへんな」と見れば、染屋さんへ率直に伝え、先方も納得して染め直すこともあるそうです。それは「一緒に、きちんとしたものづくりをしよう」という姿勢が共通しているからであり、平野さんが目利きであることを認めているからです。

お話をうかがった四代目の平野秀幸さん

平野さんは「うちは小さい会社やから、自社で全部することはできないし、すべて手染め、木綿と絹しか扱いませんという老舗ではありません。でも、たくさんの専門の外注さんのおかげで、お客様の要望に最も適した提案をし、あらゆる注文に応えることができます。すべてを自社でできないことが逆に強みになっています。これは長い間続いて来た京都の呉服業界の分業制の元があるからできることです。外注さんから仕事を依頼されることもありますし、お互いにバランスのよい、いい関係が大事です。」そして「自社でも製造にかかわっているので、実際の染めや縫製、生地のことがわかっていることも大きいと思います」と続けました。分業を優れたシステムとして生かしています。

これからの京都のものづくり

プリンターにも自社製の紋入りカバー

大入商店はネットを使った発信や販売はしていませんが、平野さんの父親で先代の雅左夫社長の決断により、平成3年と早い時期に工程にパソコンを取り入れています。そして、その路線の仕事の精度は確実に上がっています。数種類のインクジェットプリンターも導入し、職人の技を大切にすると同時に、より多くの要望に応えていくための先進技術の導入もはかっています。
大入商店の取り扱い品目の多さは驚くほどです。祇園祭の山の手ぬぐい、寺社に多い修復記念のふろしき、「インターハイ出場・・・」と大書され校舎に架けられた懸垂幕、だんじりの半纏、YOSAKOIのコスチュームなど多岐にわたっています。ものづくりの協働のかたちです。
平野さんが今懸念していることは、今後の外注さんの存在です。染物は染め上がってから色をきれいに定着させる「蒸し」と、余分な染料や糊を落とす「水洗(あらい)」という工程、さらに生地のしわを伸ばし、長さをきちんと整える「湯のし」という工程を経て初めて完成します。これらの仕事場は広いスペースが必要です。今、京都はインバウンドに湧き、空前のホテルやゲストハウスの建設ラッシュが続き、地価が高騰しています。大入商店では、蒸し・洗い、湯のしも決まった所へお願いしていますが、人手不足もからみ、懸念されています。

分業制で成り立っている仕事はその中のどれかが欠ければ続けることはできません。先人が積み上げてきたこのすばらしい循環が存続することは、京都のまちの在り様も示しています。平野さんは、こうした外的な要因も踏まえながら、会社のこれから先を描いています。
「値段以上のよさを実感してもらえるものを生み出す会社にすること」と語ります。「価格の点はがんばるけれど、ただ安いと言って喜んでもらうだけではない、大入商店でこそできる商品やサービスは何か。これをみんなに伝えイメージしてもらい一緒に考えていきたい」と、将来を見すえています。平野さんは「100年ではまだ新しいと言われる京都で、うちみたいな85年しかたっていないとこは新参者です」と笑いますが、印染大入商店の「次なる創業」になるのではないでしょうか。
建都も、京都のまちの現状と暮らしを見つめ、まちづくりの視点を持って、地域に貢献してまいります。

 

大入商店
京都市中京区堀川通蛸薬師上る壺屋町263
営業時間 9:00~18:00
日曜日 定休日

作り手と人の間を紡ぐ 西陣の元学生寮

昭和初期に建てられた2軒の町家が、昭和40年代に立命館大学の学生寮となりました。やがて最後の寮生が去ってから、しばらく空き家となっていましたが、西陣を中心とした町家の有効活用を支援する団体の協力を得て、ものづくりをする人達が入居する「藤森寮(ふじのもりりょう)」として生まれ変わりました。
2軒の寮の間にあった塀を取り払い、L字型に並ぶ北棟と南棟からなる、9つのアトリエや教室、お店になっています。四季の移ろいを感じる緑の多い中庭、タイルの流し、でこぼこのできた三和土、深い色あいとなった柱など、築90年の建物が刻んできた時を感じる空間となっています。訪れる人を拒まず、9人の創作活動の場である自由な「藤森寮の時間」が流れているようです。

淡々と無心に作業をする楽しさ


藤森寮のある紫野は、船岡山から大徳寺へかけての地域をさします。船岡山は、都の北にあたり、東西南北を守る霊獣のうち、北は玄武が司るとされ、平安時代から重要な基点となっていました。また、応仁の乱では、東に陣地を置いた細川勝元を、西に陣取った山名宗全が船岡山で迎え討った歴史ある地域です。

鞍馬口通には、大正12年に料理旅館として建てられた、登録有形文化財で現役の銭湯、船岡温泉をはじめ、古い建物がまだきちんと残っています。最近は町家に手を入れて営業しているお店や、ゲストハウスも増えましたが、藤森寮はそのさきがけです。今も低層の家が並び、昔からの西陣のまちの暮らしが色濃く感じられる地域で「町内の一員」の意識を持って、それぞれが創造活動を続けています。

南棟1階にある女性店主の「アートスペースCASAneかさね」で、日頃のあわただしさから解き放された、ゆったりした時を過ごし、かさねの名前の由来を伺いました。どんなに小さな端切れでも、紙や布、糸は捨てられないと語る店主。端切れの紙でも、もう少し大きな紙の上に張って重ねれば、新しいものとしてよみがえらせることができる。この「もう一度の紙たち」という思いを「重ねる」という言葉に込めています。作り手とその受け手をつなぐ空間です。
CASAneという名前については「重ねという漢字では少しそぐわないし、ひらがなもあまり伝わらないかな」と考えていた時「スペイン語で家のことをCASAて言うし、それにneを付けたら、かさねやし、ええの違うか」という大胆で新鮮な発想の提案をしてくださった方があり「小さな部屋なのでいいかな」と、すんなり決まったとのことでした。どんなネーミング誕生物語があったのかと思いきや、このおおらかさがいい感じです。

かさねには、店主の手から生まれる様々なサイズのメモ帳やそれ自体を贈り物にしたいレターセットやしおり、カードなどの「紙のもの」と、かぎ針編みのアクセサリーや小物とポジャギ、知り合いの作り手の陶器やガラス、クラフトがいい具合に折り合い、調和を見せてたたずみ、憩い、語りかけています。かさねの店内にいると不思議に、ものにも心や気分があるように感じられます。やわらかくやさしい白の器に添えられた野の花は、千利休が残した「花は野にあるように」を思い起こす姿です。
それぞれのコーナーに個性があり、何回も行ったり来たり、また、走り庭や中庭へ出たり入ったり。店主との間合いも心地よく、つい長居をしてしまいます。

店主の作るメモ帳の一番小さなものは小指の先ほどの極小サイズです。それでもちゃんと背があり、中紙がきちんと納まっています。
使われている紙は、チラシや会期の済んだ個展のはがき、カードや封筒を作った残りの紙等々。どんな紙が使われているかも、かさねのメモ帳の楽しみです。
外国の人は、たまご、肉とか日本語が書いてあるチラシを使ってあるものがお気に入りとか。豆メモ帳もポジャギの針目も、丹念なかぎ針編みも、くらくらしそうな細かい仕事ですが「淡々と無心に、紙を揃えたり切ったりの単純な作業は楽しいです」と語ります。きっと、ものを作る時の心持と藤森寮という空間がしっくり合っているのだと思います。さらに「作家や職人と呼ばれる人達は、見てもらう場や売る場が意外とないので、ここが、ものともの、人と人をつなぐ場所であればいいなと思っています」と続けました。

藤森寮に入ってから10年くらいたつそうですが、以前京都に住んでいてアメリカへ帰国した方が、「ここでカップを買いました」と、3年たってからまた来てくれたそうです。作り手もそれをコーディネートする人も、買った人も、自分の「好き」をはっきり持っていているのですね。しかもその場所が、前に訪れた時と同じように迎えてくれたら、どんなにうれしいでしょう。売る、買うということには、こんなにいいめぐり合いもあるのだと思いました。

藤森寮を生かす入居メンバー共通の思い


雨の日曜日にまた、かさねを訪ねました。鞍馬口通の入り口から入った時と、南側の中庭から入った時では、様子が違い、何となく楽しく迷う感じがしてそれも楽しいのです。春の雨に、中庭の木々の緑は生き生きとして、白い沈丁花は、晴れた日とは違う香り方をしていました。おちょこに植えた苔も、雨を含んで柔らかく、しっとりしています。欠けたおちょこは、こうして再び生かされ、縁のあった人の所へ行きます。

今、藤森寮に入居している9人は「作りたいものを作り、それを実際に見て、触れて、感じてほしい」という共通の思いを持って創作活動をしています。そして、西陣は、道具も自分で作ったり、使えるものは使い切るという京都の職人のやり方が根付いている所だと言います。
近所にはおじいちゃん、おばあちゃんという年齢の方が多いこの地域でお世話になっている、今の西陣があるのは、元から住んでいた人達が守って来てくれたおかげとという思いを、藤森寮のみんなが持っています。
おはようさんです、とあいさつを交わしながら、朝、家の前の道路を掃く「門掃き」は、京都の
ご近所付き合いの一つとも言えます。この門掃きも「朝、門掃きはちゃんとしようね」と、当たり前のようにされているそうです。
そして寮の修繕費を積み立てたり、簡単なことなら直してしまうなど、自分達でできることは自分達でやり、単なる間借り人ではなく、地域の一員として、この建物と向き合っています。

藤森寮の界隈は、お豆腐屋さん、酒屋さん、魚屋さん、お風呂屋さんなど暮らしに密着したお店が、今もしっかり地域のみなさんの日々の暮らしを支えています。子ども達の遊ぶ姿、けんかしたり、誘い合ったりする声も聞こえてきます。西陣織の機音は少し寂しくなりましたが「普通の京都」が息づくまちです。
歴史あるものと新しい感覚、若い人が交錯し、地域の力を強くしています。京都のものづくりは、こういうところで生まれるのだと感じました。建都は「住まい」の分野で地域を支える役割を担い、これからのまちづくりをご一緒に考えてまいります。

 

藤森寮
京都市北区紫野東藤ノ森町11-1
営業時間、定休日はショップにより違います

お雛様は家族の楽しい 思い出のよすが

北野の天神さんの梅花祭も終わり、うららかな陽気の京都。三月三日の桃の節句は昔、紙で作った人形を子どもの身代わりとして、疫や災いを水に流した、流し雛が始まりだったそうです。やがて、女の子の健やかな成長を祈ってお雛様を飾る風習に。
子どもの頃、野原で摘んで来たよもぎで、草餅を作ってもらった方も多いのではないでしょうか。思い出とともに大切に仕舞われてきたお雛様が、今年もそれぞれのお家で飾られているでしょうか。

リビングで明け暮れを見守るお内裏様


哲学の道に沿って植えられた、日本画家橋本関雪ゆかりの桜の芽はまだ固いけれど、去年と同様に、今年も開花は早いそうです。近所に住む知人宅で、雅やかで気品のある、見事なお内裏様を見せてもらいました。ひな人形は、頭氏、織物氏、小道具師、手足師、髪付師、着付師の、6工程の分業で、それぞれ専門の職人さんによって製作されているそうです。最後の工程を着付師が担当し、全体の総仕上げをして完成させます。
6つの分業と言っても、藁で胴を作るところから数えると、とてもたくさんの細かい作業があり、本当に細心の注意と集中力のいる仕事だと思います。

こちらの男雛をよく見ると、装束が、以前有職故実について話を聞いた通りでした。儀式の折りの天皇にしか許されない「黄櫨染(こうろぜん)」と言う色の装束でした。他には許されない色ということで「禁色(きんじき)」と呼ばれています。頭の後ろに立っている黒く長いものは「えい」というもので、まっすぐに立っているのは、これも天皇のみなのだそうです。手には笏(しゃく)を持っています。

女雛は、十二単ですね。一糸乱れぬおすべらかしの髪の艶やかさ、袖口や衿元の重ねの美しさ。かんざし、檜扇などの小物も、サイズがミニチュアなだけで、完全に精巧に作られ、しかも有職故実にのっとっています。紗の生地がぴんと張られ、桜が描かれたぼんぼりは、灯りがともったらさぞ春の宵にふさわしいだろうと思わせます。

お雛様は、いつも家族のみなさんが一緒に過ごすリビングルームに飾ってありました。ドアに張ってあった、小学生の娘さんお手製の紙のお雛様が可愛らしく、とてもよくできていて微笑ましく思いました。

他の部屋に掛けられていた軸は、橋本関雪の立雛の色紙でした。20代の初め、日本画家として踏み出したばかり頃の作品だそうです。代表作の「玄猿」や中国に題材をとった大作をたくさん残している関雪のイメージとは違い、初々しく清新な感じがして親しみを感じました。
表具は、腕のいい職人さんの仕事でしょう。使われている裂地自体も好みも本当にいいです。床の間のない家も多いですから、軸を掛けることもなくなっていきますが、季節や折々の節目に、軸を掛けて楽しむことは、すばらしい文化です。床の間でなくても、工夫すれば茶掛けや色紙なら大きさも手頃なので何とか掛けられないものかと思っています。

 


西陣の京町家 古武邸のお正月迎え」でお正月のお飾りの話をお聞きした、西陣の古武さんのお宅へまた伺いました。
古武さんのお雛様は、とても愛らしい木目込み人形です。妹さんのものだそうです。「戦後間なしの昭和31年頃、普通に百貨店で買うた小さいもんやから、たいしたことないお雛さんで」と言われましたが、細部に至るまで、本当にきちんとした仕事がされていて、これも職人さんの技ありと、感心しました。
古武さんは「その頃はまだまだ、歳のいった腕のいい職人が大勢おったからねえ。どんなものにも職人の仕事が必要やったから、それで暮らしが成り立っていたんやね」と話されました。

奥の離れの床には「桃花千歳の春」の書に立雛が描かれていました。関雪の立雛の軸は表具も風格がある仕上げになっていましたが、こちらは現代的に明るい色調の表装です。
平安時代に薄紅色が大流行し「今どきの流行り」という意味で「今様色」と言ったそうですが、まさに今様のはんなりした、雛にふさわしい色あいでした。

雛尽くしのしつらえがされているなかに、珍しい貝雛がありました。ご近所のご高齢の女性の方から贈られたものだそうです。これも、丁寧な細かい手仕事がされています。古武さんのお話によると、「ここら辺の人はみんな手先が器用なんや。西陣関係の仕事を長いことしてた人も多いし」ということでした。
経済や暮らしぶりが急激に変化するなかで「必要ではない」とか「もっと便利なものがある」などという理由から、それまで身の回りにあったものがなくなったり、あるいは姿を変えていき、職人さんの仕事がなくなっていったことは確かです。以前と同じようにはできないけれど、良いもの、継承していかなければならないものもあると思います。今の暮らし方を、ほんの少し見直すことで何か違うことができるようになるのではないかという気がします。

古武さんの町家と上京のまちをベースとする活動はさらに新しい展開を見せています。3月23日、24日の2日間、西陣織会館を会場に「手仕事の技、魅力満載!洛中マルシェ」の企画にかかわっています。手仕事を今に生かし、使ってもらえるものを生み出していこうという意欲的な取り組みも、こうして進んでいます。
今回見せていただいた、妹さんのお雛様を毎年飾っているのは「そのお雛さんを買いに家族でそろって百貨店へ行った。家族揃って百貨店へ行くなんて後にも先にも、その時だけだってね。その時の思い出があるから」という話が心に残りました。その大切な思い出を支えているのが、職人さんの技なのだと思います。ものづくりの力は、そう簡単に消えないぞ、という声を聞いた気がしました。

茶山sweetsHalle 地元に愛され1周年

「茶山をお菓子で元気にしたい」と、みんなの夢を乗せて船出した、小さな洋菓子店「茶山sweets Halle(ちゃやまスイーツはれ)」が開店1周年を迎えました。
建都と長く良いお付き合いのある社会福祉法人 修光学園さんの就労支援施設「ワークセンターHalle!(はれ)」が運営しています。修光学園さんは、洋菓子作りに20年以上前から取り組んで来た実績があり、Halleも京都府内産の上質な素材を使ったおいしいお菓子屋さんとして、徐々に知られるようになり、顔なじみの地元のお客様も増えました。生産者の方との出会いから新商品も生まれ、洋菓子店として着実にレベルアップしています。

この、京のさんぽ道「京都府内産木材を活用した洋菓子店」でご紹介してから1年。働く利用者さんの意欲も高まるなか、満を持し、みんなで迎えた喜びの開店1周年の茶山sweets Halleを取材させていただきました。

志のある生産者さんとの出会い


茶山sweets Halleのお菓子のおいしさは、上質な素材とていねいな手作業から生まれます。商品開発を担当する深田さんは、良い素材を求めて足しげく商談会に出かけるなど、多くの生産者さんや原材料会社の担当者と会って来ました。
開店当初からの看板商品であるバウムクーヘン、ロールケーキ、プリン、マドレーヌなどに使っている米粉、たまご、蜂蜜、塩は、京都府内で誠実にものづくりをしている生産者さんのものです。独特の食感、くせのない甘味、お菓子の味を引き締めるほんのりした塩味など、その素材なくしては作れない味わいであり、茶山sweets Halleの個性となっています。

京都素材シリーズの「抹茶ふぃなんしぇ」と「城州白(じょうしゅうはく)けーき」も、そうした出会いから生まれました。フィナンシェに使う抹茶は、宇治田原町で約550年にわたり、代々受け継がれた土地でお茶づくりを続ける、小山製茶場さんの「茶農喜佐衛門(さのうきざえもん)」ブランドの抹茶です。伝統製法のお茶の豊かな風味が生きるお菓子ができました。
風薫る五月には季節限定のバウムクーヘン「茶月(さつき)」が並びます。新茶の季節感を運んでくれるバウムクーヘンです。
もうひとつの焼き菓子に使っている「城州白」は、幻の梅とも言われ、梅の郷として知られる城陽市で生産されている、香り高い大粒の梅です。梅園の保全と、城陽特産の城州白の活用に取り組む「青谷梅工房」さんと出会い、開発に1年半かけて今の商品が完成しました。
最初、梅のチョコレートっておもしろそうとひらめき、梅干しチョコを作りました。しかし、チョコレートはとてもデリケートで作り方が難しく、みんなが係わることができません。そこで、培ってきた技術もあり、みんなで係われる焼き菓子にしたとのことでした。
梅干しチョコは、商品化すればきっと話題を呼び、メディアにも取り上げられたことでしょう。しかし、みんなが大好きなお菓子作りに係われることを大切にする選択をしました。その思いが、茶山sweets Halleの神髄であり、お菓子にもあらわれています。
深田さんは「実際に生産者さんの所へ行って、思いを聞くと、こちらも同じ気持ちになって、僕たちもいいお菓子を作ろうと思うのです」と語ります。志を持って仕事に携わり、地域を大切にする人と人がつながって、ものづくりの新しい道を開いています。

おかげさまで一周年のサンクスフェア

バウム・ブリュレの表面はキャラメリゼでパリパリの食感に


1月24日からの3日間、感謝をこめてサンクスフェアが開催されました。初日に新発売された「バウム・ブリュレ」は、バウムクーヘンに自家製カスタードクリームがたっぷり詰まっています。注文を聞いてからバーナーでグラニュー糖を焦がす、キャラメリゼを施します。このひと手間が、お菓子をいっそうおいしくします。
3日間限定販売された「チーズinバウム」は、2度焼のバウムクーヘンにコクのあるチーズを合わせています。1日3回の焼き上がり時間をお知らせして、焼きたてを味わっていただく感謝企画です。

この商品は2つとも、バウムクーヘン専用オーブンを設置した工房と販売が一体となった店舗であることを、最大限に生かしています。
ガラス張りの開放的な工房は、清潔な作業場と利用者さんの働く姿が見え、利用者さんも、自分達が作ったお菓子を選んで手に取るお客様の様子がわかります。そのことで仕事への意欲とプロ魂がいっそう高まります。
また、同センターの紙器加工チームの利用者さんも、お昼休みや帰りがけに二人、三人と顔を見せてくれます。なかにはスイーツ男子もいて、品定めをしてから「チーズinバウム」をお買い上げ。「家へ帰ってから食べる」と、仲間が作ったお菓子を一つ、大切に持ち帰る姿が心に残りました。
そして、チラシ配りや日頃の営業努力が実を結び、おなじみになるお客様も増えています。「ずっと気になっていたお店で、初めて来ましたが、とてもいい感じです」「近所なので前から来ています。1周年のチラシのお菓子がおいしそうだったので」という声も聞きました。「いつもありがとうございますと、本当に心から言えるのがうれしいです」という販売担当のスタッフさんの、すがすがしく、まっすぐな情熱もファンを増やす大きな力です。

お店の前は大好きな電車とHalleのお菓子を見られるお気に入りのさんぽ道
ひえいの時刻表も張ってあります

お店は叡電の茶山駅のすぐ近く、お店の前を電車が走り過ぎます。去年3月にデビューした注目の新型車両「ひえい」も間近に見ることができます。座ってゆっくり眺めていただけるようにと、お店の前に木のベンチを置きました。好きなお菓子をベンチでひとつまみ。また時には、通りがかりにひと休み。こうしてまた、人の輪が広がっていきますように。

お菓子で地域を元気にするみんなのより所


「こういうお店が地元にあってうれしい」と思っていただける洋菓子店を目指して、1年間みんなでがんばって来ました。そして今、普段のおやつをはじめ、お誕生日にもHalleのケーキを使っていただけるようになりました。家族や地域のみなさんのコミュニケーションの仲立ちができているとしたら、とてもうれしいことです。
センター長の藤田さんは、「2~3年かけて、知名度を浸透できるかなと思っています。急がず、じっくりです」と語ります。障害のあるなしに関わらず、ともに市民の一人として、地域で暮らし、茶山sweets Halleはそのより所となり、役割を果たしていくことでしょう。
建都は19年前に、障がいのある方のグループホームの内装をさせていただいてからのご縁で、茶山sweets Halleのオープンの工事では、設計監理を担当させていただきました。無垢の木材を生かした、明るく働きやすい店舗を、とのご希望をかたちにするために、工務店、株式会社小寺工業さんには、誠実なお仕事でご尽力いただきました。Halleの建物が、これからも利用者さんが生き生きと喜びをもって働き、地域のだれもが集えるかけがえのない場となることを心から願っています。
叡山電鉄茶山駅のすぐ近く、青い屋根と白い外壁の小さな洋菓子店へ、ぜひお越しください。木のぬくもりを感じる店内は、活気と幸せなお菓子の香りに満ちています。

 

茶山 sweets Halle
京都市左京区田中北春菜町14-1
営業時間 [火~金]10:30~18:00 [土・祝]10:30~17:00
定休日 日曜日、月曜日、第1・3・5土曜日

底冷えの京都 みその仕込み

「節分の頃になると、やっぱり、よう冷えるなあ」があいさつ代わり。暖かいのが何よりのこの時期に、繁忙期を迎えるのが醸造の仕事です。みそや醤油、酒は、低温でゆっくり発酵することで、味わい深い旨みのあるものとなります。
寒気のなか、みその材料のかなめである麹作りに精を出す大忙しの加藤商店の4代目、加藤昌嗣さんが取材に応じてくださいました。

手作業中心の実直なみそづくり

100年を超える木樽6個が現役で活躍

加藤商店は、初代が醤油屋から木樽をもらって独立してから100年。多くの蔵が機械化を進めるなか、手作業の多い、ゆっくり一年かけて熟成させる、昔ながらの実直なみそづくりを続けています。
寒の頃は、材料のお米や大豆の新物が出回り、空気中の雑菌が少ないことから寒仕込みが行われます。みそは、どんな麹をどんな割合で使うかで、それぞれの味わいや個性が生まれます。いろいろな菌が混じることで、奥行きのあるいい味になります。工場を案内していただいた時「この中で、いろんな菌が生きています。蔵ごとに住んでいる菌は違います」と聞き、思わず蔵を見渡しました。

ありがとうございますと書かれた木の麹蓋

麹づくりは、蒸したお米に麹菌を付け、一晩置くと熱を持つので冷まします。加藤商店では、木の麹蓋に一枚一枚広げます。発酵して熱を持つと固まるので、手でほぐし上下を入れ替える「手入れ」を7~8時間ごとにくり返し、上側だけでなく、内部にも麹菌が付くようにしなければなりません。
たとえば昼間仕込んだ麹を夕方5時か6時頃手入れし、夜の11時頃また手入れします。その都度の「微妙な温度管理もめちゃ難しく」「麹は、ほんま厄介」なのだそうですが「寒いと麹自身ががんばって中に水分をため込み、明らかにいい麹ができます」と言葉に力がこもります。
この時期の加藤さんの1週間は、日曜に洗米、月、火、水曜日に仕込み、木、金、土曜にまたその工程をくり返しです。麹づくりを優先し、この状態が3月頃まで続くとのこと。そして、大豆と塩を合わせ、ゆっくり1年寝かせて、みその仕上げとなります。加藤さんがつくる麹は、この1年の熟成期間に合う麹なのです。
木蓋の上でただ今発酵中の麹の部屋は、湯気が立ちこめ、ほんのり甘い香りが漂っています。真夏の作業はどれほど大変でしょう。部屋の外はしんしんと冷えがのぼってきます。京都の底冷えと誠実な人の手から、真実良い麹が生まれます。

「まず地域が大事」の心を受け継ぐ


加藤さんが大学在学中の20歳の時、父親の芳信さんが病で倒れたことから休学し、必死にみそづくりに取り組み、後継ぎとなりました。最初は、遠方の取引先への配達時間に遅れ、戸も開けてもらえなかったという厳しさも経験しながら、芳信さんの教えや周囲の支えもあり、生業として継続することができ、大学もみごと卒業されました。並大抵のがんばりではなかったと推察されますが、現在の加藤さんは、そんな苦労の痕のようなものは感じさせない明るさで、みそづくりについて、熱心に語ってくれます。楽しくみそづくりをしている感じが伝わってきました。

加藤さんは6年前から、母校である二条城北小学校で、食育授業の一環として「みそづくり体験」の指導をしています。5年生の時に仕込み、1年間熟成させます。夏休みには涼しい場所に移すなど、こまめに管理して6年生の時に、実際にとてもおいしい、それぞれの手前みそが完成します。手間と1年という時をかけて生まれる、発酵の力を実際に体験する、すばらしい授業に貢献しています。今では、子ども達も楽しみにしているそうです。

父親の芳信さんは面倒見が良く、町内の役も進んで引き受けてこられました。地域のみなさんからの信頼も厚く、またご自身も「うちには、米もみそもある。何か災害が起きても、近所の人たちに炊出しができる」と常々話されているそうです。地域を大事にしてこその生業、という思いはしっかり受け継がれています。

加藤商店とみそづくりの明るい展望

出荷される麹

麹への関心が確実に高まり、定着していることを、加藤商店のみんなが実感しています。芳信さんの時代から、みそづくりをする宇治の婦人会に20年近く麹を卸しています。紹介、紹介で、加藤商店の麹の需要がどんどん広がっているそうです。1年に1度、待っていてくださる個人のお客様も多く、麹でつながる縁はますます広く、長くなっていく様子です。
お米は長年、新潟産のこしひかりを使っていましたが、今年は大量にコンビニに流れたため手に入らず、はじめて富山産のこしひかりに替えたところ、結果は吉と出ました。ダマになりにくく、とても扱いやすいそうです。
このような、その時々の変化や課題を柔軟に受け止め、安定的な収益の確保を進めながら、やりたいこと、加藤商店のこれからの構想を描いています。今は製造で手一杯で、配達はごく一部しかできてないけれど、もっと外へ出て人と会うこと。会えば新しい取引先を紹介してくれたり、お客様が感じていることを直接知ることができるからです。
明るく、話好きの加藤さんはお客様に好かれているそうです。さも、ありなんです。
今後の方向性についても「地域が一番」ときっぱり答えました。「地域で使ってもらえるものを、普通の値段で」ということをとても大切にしています。一番大事な麹づくりを、機械で行うところが多いなか、木蓋の板麹でつくっている芯を変えず「ここの麹がほしい、ここのみそがいい」という価値を保ち続けることです。取引先に、名だたる料亭もありますし、つくり手として高級路線をもっと究めることも考えています。そして「どれだけファンが作れるかです」と続けました。

子どもの頃、家がみそ屋だと言うのが恥ずかしかったそうですが、今は「みそをつくる仕事」と言うと子供たちから「ええなあ」と言われると笑いました。加藤商店のおみその袋の表に「手づくりほっこり愛情一椀」裏には「自然の恵みにありがとう」と書いてあります。麹やおみそ、そして、生産者のみなさん、お客様への感謝と、良いものをつくっていこうという心がまえが表れています。

職住一体の生業が続くまち


加藤商店は西陣の一画にあります。近所には、明治年代の看板を掲げる印章のお店、組紐屋さん、有職料理の老舗が続く、落ち着いた通りです。町内の人が気軽に言葉をかけあう、暮らしを感じるあたたかい雰囲気もあります。加藤さんのお宅は、外観は町並みに溶けこむ典型的な町家です。向かい側が工場になっています。取材で伺った時、母親の延子さんがたくさんの伝票整理のお仕事中、居間へ通していただきました。住みやすくリフォームされたそうです。お仏壇があり、フローリングの床には可愛いおもちゃが置いてありました。表格子を通して、寒の内にはめずらしく、あたたかい光が差し込んでいます。加藤さんがそうであったように、お子さんたちも、まわりの仕事をするおとなの姿を見て成長されることでしょう。

毎日振り売りで近所を回るお豆腐屋さん。こちらもお味噌汁には欠かせません

主役を張るものではないけれど、人生に欠かせないと言っても過言ではないおみそ汁。
今回の取材を通して、おいしいおみそ汁が食卓にのぼる、普通の暮らしを続けられることが、どんなに大切なことなのかを改めて感じることができました。住み慣れたまちと家で、生業と暮らしの文化が継承できるよう、建都は様々な時代の変化や課題を解決するためいっそう努力してまいります。

 

加藤商店
上京区猪熊通出水上ル蛭子町400
営業時間 月~金曜日 8:00~18:00 土曜日 8:00~17:00
定休日 日曜日・祝日

進取の気風に富む ギャラリー&カフェ

京都の町は、碁盤の目の通りに生業と深く関係する、低層の町家が並ぶ町並みに特徴があります。一方、大正から昭和初期にかけて建てられた特徴のある個人の住宅は、西洋建築を取り入れながら、京町家の様式を所々に受け継ぎ、みごとに京都らしい文化性と美しさを備えています。
進取の精神と自由な気風がみなぎる、北白川の梅棹忠夫邸をギャラリー&カフェ ロンドクレアントとして再生した、次男のマヤオさんに話を伺いました。

京都大学関係者が北白川の新住民

ドアと格子状の外壁が特徴のロンドクレアントの外観
すぐ近くには国の登録有形文化財となった駒井邸もあります

左京区北白川はかつて、京都市中から離れた田畑が広がり、古くから花の栽培が盛んな里でした。農家の女性が手甲脚絆姿で花を売り歩き「白川女」と呼ばれました。その北白川が住宅地になったのは、大正時代から昭和の初めにかけてでした。近くに京都大学があり、その関係者が多く住み、学生の下宿もできています。

現在の中庭にて梅棹マヤオさんと奥様の美衣さん

梅棹家が北白川の家に住み始めたのは昭和24年。家はその時点ですでに修繕が必要な個所がありましたが、梅棹氏は自ら大具道具を揃えて手を入れ、学者仲間を驚かせたそうです。
家は真ん中の枯山水の庭を囲んで、回廊を巡らせたとても独創的な造りになっています。中庭の飛石や手水鉢は、すべて西陣の生家から運んで来たもので、梅棹氏は、この石の上を歩きながら考えをまとめていたそうです。この庭を一緒に造った、京都大学造園学教室の吉村元男氏は「枯山水もかつては、庭の中に入って石組みを鑑賞していた。その意味では、枯山水を元の姿で楽しんだ『庭の改革者』です」と語ったそうです。

日本における文化人類学のパイオニア、梅棹忠夫氏

梅棹氏は、国立民族学博物館の初代館長に就任し、19年間の長い間館長を務めた民族学の大家であると同時に、探検家としても知られています。自宅には毎日のように、後輩の学者や学生、ジャーナリスト、作家といった多彩な人々が集まり、いつしか「梅棹サロン」と呼ばれるようになりました。型にはまらず、上下関係のない自由な談論風発の場となり、多くの研究者が育っていきました。
その発展形として「京都大学人類学研究会」が誕生し、会場が近衛通にあったことから「近衛ロンド」と呼ばれました。ロンドとはエスペラント語で「集まり、小集団」を意味します。梅棹氏はエスぺランチストでした。
エスペラント語は、19世紀末に、ロシア領ポーランドのユダヤ人、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語です。彼の生きた時代も、世界の各地で戦争が絶えることがなく、国境を超えた共通のことばで話し合い、理解し合うことが不可欠だと考えたのでした。マヤオさんもエスペラント語の精神に魅かれ続けたきたと言います。
マヤオさんは小さな頃から絵を描くことが好きで、高校の陶芸科からカナダの芸術大学を卒業しました。「外国へ行ってみたいと思うようになったのも、子どもの頃、家に集まるいろいろな人の話を聞いたり、なかに留学生もいて、そんな環境があったからだと思います」と語ります。「カナダへの留学や芸術大学へ進むことも反対されことはなく、自由に自分自身がやりたいことをやっていくように導いてくれたのかなと思います」と続けました。北白川の家は、梅棹サロンに集った人々やマヤオさんの源流です。

美山での35年間と北白川の家


マヤオさんは昭和56年、作陶と住まいとなる家を探している時に、築120年の大きなかやぶきの農家と出会いました。その家は、雪の量や日当たりなどの立地条件はどうでも良いと思えてくる圧倒的な存在感があり、あらがえない魅力を放っていました。
美山の大自然のなかで二人の息子さんを育て、美山の季節料理「ゆるり」を経営しました。若手の腕のいいかやぶき職人との出会いや、夏祭り、30回に及ぶコンサートの開催はなど、美山でも様々な楽しいことをつくりあげてきました。

古民家レストラン・厨房ゆるり

現在、ゆるりはマヤオさんの息子さんご夫婦が経営されています。息子さんは、子どもの頃同じように美山で遊びまわり、現在は猟師と料理人になっている二人の友人と、増えすぎたシカとイノシシを美味しく食べて、荒れてしまった里山を取りもどそうと、有限責任事業組合「一網打尽」を立ち上げました。捕獲、解体、精肉、販売までを行い、新鮮でおいしいジビエを提供しています。誰もやっていないことでも、やりたければやってみるという梅棹家の精神が、息子さんにも受け継がれています。


マヤオさんは、北白川の家を約2年かけて改修し、2015年8月にギャラリー&カフェ「ロンドクレアント」をオープンしました。名前はエスぺラント語からの造語です。ロンドは先述したように集まり、サークル。クレアントは創造者、つくり手、クリエーターといった意味です。

美山から持ってきた石臼が置かれた中庭と回廊

音楽、工芸、写真、小さな報告会など様々な人が集まり、交歓し発信していく。そんな空間となってほしいというマヤオさんの願いがこめられています。築80年以上経っている建物は、耐震化、断熱化をしっかり行うこと、回廊や中庭など基本は残すことにしました。マヤオさんの友人とその息子さん、忠夫氏とともに家つくりにかかわった工務店の次代をはじめ、デザイナー、設計者造形作家などたくさんの人が参画しました。この改修自体がまさに、梅棹サロンだったと言えます。
格子が建物の前面を覆い、シンプルで北白川の景観になじみ大きな看板を立てなくても「ちょっとのぞいてみたい」と思わせる雰囲気をかもしだしています。伝統的な京町家とモダニズムの住宅のそれぞれの良さをあわせもった新たな空間が生まれました。

人と人がつながり、育てていく


マヤオさんは、「若い人が外に向かってアートを発信しなくなっている」と感じていました。ギャラリーはもっと自由でいい。質の高い音楽を楽しみ、知らない人同士でも音楽談義ができる。通りがかりの人や近所の人が、ふらりと寄って、お茶を飲んだり本を読んだり。ごろんとして、ゆっくり過ごしてもいい。そんな空間にしたいと考えて、ロンドクレアントをオープンしました。より早く、より刺激の強いものへと向かっていくこの頃。もっとゆっくり、季節の移り変わりも感じられるような、ゆとりが必要だとも感じています。
写真展、ギャラリートーク、多彩な作品展、おとななジャズ、オーストラリアの先住民の木管楽器など民族楽器の音色やリズムが魅力的なデュオ、堅苦しいイメージを払拭したクラシックのトリオ、また未就学児も聞ける歌のコンサートなど「ジャンルは問わず質は高く」のスタンスで、すでにたくさんの企画展やコンサートが開かれ、終了後は、マヤオさんと奥様の美衣さん手づくりのおいしいお料理とワインやビールを楽しみながら、出演者を囲んで、とてもフレンドリーな雰囲気のパーティもあります。

マヤオさんは今「点が面になって来た」と実感しています。ここへ足を運んでくれた人たちが、さらにこの輪を広げてくれることでしょう。
家も住む人と一緒に歳を重ねていきます。家族やそこを訪れる人たちが良い関係を結べる家であるように、建都は今後も住まいのあり方を追求してまいります。

 

rondokreanto
京都市左京区北白川伊織町40
営業時間 11:00~19:00
定休日 月曜日

西陣の京町家 古武邸のお正月迎え

京町家は、家を建てた主の思い、建築に携わった多くの職人さんたちの心意気と技術と、暮らしの文化を伝え、継承しています。
一年のうちで一番のハレの行事、お正月迎え。「西陣の京町家 古武邸の夏のしつらえ」でご紹介した、古武さんを再びお訪ねしました。

注文しなくても毎年届くきまりのもの


冬らしい冷え込みとなった歳末。店頭にはお節材料やお飾りや丸餅、鏡餅が並んでいました。買い物をする人で混み合い、目的のものを買うにもひと苦労。
古武さんのお家では、結び柳やお花、注連縄、根付きの松など、お正月のしつらえに必要なものはすべて、40年来のお付き合いの「等持院の花屋のおばさん」から届きます。あらためて注文することはなく、毎年決まって29日に届きます。毎月1度、仏さんのお花を届けに来る「等持院のおばさん」に、お正月の一切合切も任せているのです。

古武さんの町内は、江戸時代の古地図でそのまま歩ける、昔からの上京のまちです。古武さんのお家では、お正月のお雑煮に欠かせない頭芋(かしらいも)や、お飾りなどは上賀茂の農家から、振り売りで来ていました。「上賀茂のおばさん」は何人もいて、それぞれ得意先が決まっていて、代替わりしても娘さんやお嫁さんに引き継がれている例もあるそうです。
古武さんは「以前は、北野の天神さんの終い天神や、下の森商店街は、お正月用に必要なものを買いに来た人でごった返していた。今は観光のための市のようになってるし、下の森も扱う商品が変わったしね」と話されました。ことに西陣は織関連の仕事が減少したことと関連し、生活様式や家族構成が大きく変化したことが影響していると見ています。

今年は古武さん自身にも、かつてないことがありました。それは先述した「等持院の花屋のおばさん」から、お正月用の決まりのものが届かなかったのです。「どうなってるんやろう。大変や、困った」とあわてましたが「電話番号も名前も知らんしね。連絡のとりようがないんやわ。あそこ代替わりしはったんと違うかとも聞いたんやけど。こんなこと40年間、一度もなかったことやから」と、困惑されていました。
一夜飾りは縁起が悪いのでしませんから、あわてて目ぼしい所を走り回って調達されたそうです。当日になって届かないという事態に、古武さんの驚きと大変さは想像に難くありませんが、40年間、注文することもなく、連絡先や名前を聞くこともなく成立し、間違いがなかったという売買に感嘆しました。


お正月のしつらえは、まず玄関の松飾と注連縄から始めました。京都では、松飾は「根引き松」です。根を付けたままの若松を和紙で向かって右が上になるように巻き、水引を真結びにします。男松と女松の一対とします。
歳神様の目印となります。根付きの松を使うのは「しっかり根がつきますように」という願いを込めてとも、平安時代に貴族が年の初めの子の日に野遊びをして、根のついた松や若草を取ってきたことにちなむとも言われているそうです。

注連縄は何種類かあるようですが、古武さんのお家の注連縄の形は古くから京都にあるもので、裏千家今日庵も同じ形の注連縄だそうです。しかし、今この形のものを売っている所がほとんどなく、まちなかでも見かけなくなったと話されました。「そやから今日、この注連縄を探すの大変やったんや」と続けました。こういうところにも、変化が見てとれます。

掃除に明け暮れるお正月準備


座敷の床の間に、波と旭日に舞う鶴が描かれた色紙が掛けられ、結び柳が生けられました。いつもの年は、結び柳はもっとたっぷりあり、畳につくくらいの長さなのだそうです。
数年前から、掛け軸や花など室内のしつらえは息子さんが担当されていると伺いました。少なくとも次の世代が係わってくれているということは、とても喜ばしいことだと思います。

お茶会の前にはもっと綺麗にされるそうです

道具や掛け軸などのしつらえも大切ですが、実は掃除に一番手間暇かかるとのことでした。たとえば庭をとってみても、落ち葉は全部拾い、山茶花や椿の葉が汚れていたら手で拭き、枯れかけたり見苦しくなった花は摘むなど、細やかな手入れが欠かせず、お正月を前にまだやることがいろいろあるということで、本当にいつも目配りが必要なのだと感じました。

そして一番大切なことは、どこか傷んでいる個所はないかを調べ、早く手を打っておくことです。古武さんは、よほどの大仕事や専門的なことでない限り、材料も工夫して自分で補修しています。「掃除」の意味は、こういったことも含んでいるのです。代々の主はこのようにして、生業の場であり暮らしの場である町家を維持継承してきたことを教えてもらいました。

子どもたちの町家体験「新春子どもお茶会」


一昨年から、京町家古武を会場に、京都市内外の小学校3年生から6年生、40数名が参加して「新春子どもお茶会~百人一首であそぼ~」が開かれています。これは二つのNPO共済の企画で、第4回めが1月5日に行われます。午前午後かく20名の募集はすぐに定員に達する関心の高さです。

古武さんは、室町時代からの上京の歴史と京町家の成り立ちと発展をお手製の町家模型や図表を駆使して、お話しされます。「百人一首、こま、凧。みんなお正月に楽しんでいたことです。こういった和の文化を子どもに達に体験してもらい、町家がどんなものか知ってもらえたら」と期待を込めています。2,3回と続けて、参加した子供たちが興味を示し、初めての体験や発見を楽しんでいると実感しました。

「建具の入れ替えは主人の仕事」と、7月に話しておられましたが、襖に替わった室内を見て「町家を継承していくには、農業と林業が再興されないと無理です。かけ離れたことを言っているようですが、補修の材料がありません。材料がなければ職人も育ちません。町家の維持継承は、分業で成り立っているような、様々な職方も含め、地場の産業が回ってこそ可能になるのです」と語ります。

 

建都も、今あるものを生かし、京都の良さと住みやすさが共存する家づくり、まちづくりに貢献してまいります。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

光と響きの美しい 木造の教会

西大路通、朱の大鳥居の平野神社の向かい側に木造の教会が見えます。「尖った屋根」という先入観を持っていると、気がつかずに通り過ぎてしまうほど、周囲の町並に溶けこんでいます。簡素で凛とした高潔なたたずまいでありながら、開放的で、人々をあたたかく迎えてくれる雰囲気を感じます。
京のさんぽ道「桜が彩る京都の町並み」でも少しご紹介しました、建都が初めて施工した教会建築、西都(せいと)教会です。
建て替えを検討し始めてから、2011年11月の竣工までの道のりや、歴史や伝統の継承について、牧師の田部郁彦(たべふみひこ)さんに話をお聞きしました。

一年かけて丁寧に積み重ねた話し合い


西都教会の前身は明治時代にさかのぼります。当初、東大路五条の大谷廟に隣り合って建ち、当時の朝日新聞、「天声人語」に、その辺りが鳥辺山と呼ばれていたことから「右は天国左は極楽 私やどつちを鳥辺山」という狂歌を添えた記事が掲載されたことがあるそうです。モダンで新しいものと、古くからあるものとの共生という、京都の気風がうかがえる興味深い話です。
しかし、昭和30年代の高度成長期に、1号線の道路拡張のため移転を余儀なくされ、現在地に移りました。開発のため、教会が移転させられるという初めて聞く話に驚きました。時代の波の影響は、どんなところにも来るのですね。
今回の建て替えに際しては、反対意見や、これまでの建物とともに過ごした歳月への思いなども含め、時間をかけ、丁寧に話し合いを重ね、15名の「建築委員会」を起ち上げ、毎月1~2回会議を開き、一年かけて取り組み、総会でみんなの理解と同意を得て、建て替えを決定しました。
最大の課題の建築資金も、それぞれができる範囲と方法で献金し、実務もすべて教会員のみなさんでやり遂げました。田部牧師は「それは信仰のあらわれです。みんなが、他人事ではなく、自らかかわることを大切にしました」と語りました。

京都市まちなかこだわり住宅

考え抜かれた採光で実現した礼拝堂の光のグラデーション

また、設計の魚谷繁礼(うおやしげのり)さんは、建都施工の「京都市まちなかこだわり住宅」の設計も担当した方です。田部牧師から「教会建築に先入観がなく、一緒に考えてもらえる人にお願いしたいと思っています」と、ご相談を受け、魚谷さんをご紹介させていただきました。
田部牧師が書いた平面図を見てもらい、京都の景観と高温多湿の気候を考慮して、木造建築にすること。礼拝堂は人々が礼拝という行為を行って初めて、単なる虚しい空間から本当の礼拝堂になるということ、光のとり方などを理解してもらい、現在の建物が完成しました。

歴史に学び、伝統を継承する大切さ


12月の教会と言えば、私たちは即座にクリスマスと思い、ツリー、プレゼント、イブのご馳走やケーキを連想します。しかし、聖書にはキリストが生まれた日付は記されていないのだそうです。教会では25日に近い日曜日にクリスマス礼拝が行われ、その4週前の日曜日から24日までを「アドベント」(待降節たいこうせつ)と呼び、クリスマスの準備を始めるということです。そして「アドベント・カレンダー」があり、子どもたちは「クリスマスまであと何日」と楽しみにして待ち望むのだそうです。日本の「もういくつ寝ると、お正月」という気持ちに似ていますね。ささやかでも、暮らしに根付いた行事を楽しみに待つ。「待つ」という行為も大切にしたいと思います。
12月25日が当たり前と思っていたクリスマス。ギリシャ正教会など、いわゆる東方正教会はクリスマスを1月7日にするそうです。またクリスマスの装飾はヨーロッパなどでは1月6日まで飾るのが普通とか。

日曜礼拝は、ほっとできる、日常のなかの非日常と田部牧師は表現します。6日間普通の生活を送り、礼拝で御言葉という糧をいただき、また日常の世に出て行く。礼拝はまさに生活の一部であり、人生はそのくり返しと言えます。「キリスト教は歴史を大切にしてきました。今は先の見通しが難しい時ですが、そうした先が見えにくい時こそ、古いものに学ぶことが大切です。クリスマスのことでも、イベント化してしまったクリスマスから少し離れて、本来は何のためにあるのか、という問いを持ってほしいですね」と続けました。
「京都がなぜ、たくさんの新しいものを生み出せたのか。それは、背後に千年の都が築いてきた様々な築積があるからです。古いものの中から、新しいものが生まれます。ビートルズもしかり、新大陸アメリカではなく、歴史あるイギリスで生まれました。」歴史を学び、検証することの大切さが、身にしみこんだ田部牧師の言葉です。

50年先を見据えての木造建築と建都とのご縁


西都教会の設計により、魚谷さんが日本建築家協会関西建築家新人賞を受賞されたことは、西都教会にとっても大変喜ばしいことでした。
建都は、先述した「まちなかこだわり住宅」のように、京町家の再生とともに、住宅のケアリフォームや様々な事業所のお仕事もさせていただいています。

建都が設計監理でかかわらせていただいた修光学園様のワークセンターHalle!

社会福祉法人修光学園様もそのひとつで、長いおつき合いが続いています。(京のさんぽ道「京都府内産木材を活用した洋菓子店」「パン好き京都人に愛されています」)修光学園様での建都の仕事を見て信頼していただき、西都教会にご紹介くださいました。ご紹介くださった教会員の方のご両親は、初めに書きました東山の教会時代からの会員さんとのことです。結びつきの強さがしのばれます。
田部牧師には「納骨堂や旧教会堂の補修などその都度、親身に相談の乗っていただき問題解決に尽力していただきました。建築士の魚谷さんも建都さんのご紹介です。良いご縁ができて、何かと建都さんのお世話になっている教会員の方もいます」とお話しいただきました。

しっかりした木造建築は完成した後、年月を経ることで、その良さが増すという性質があります。そして当然補修も必要になります。木造の建物は、50年後くらい先を見据えて建てる必要があります。そうやって手を入れた木造建築は、私たちがいなくなっても、良さを増しながら長い年月を生き続けることができるのです。
京都の力は、継承されてきた文化や伝統を今の時代も受け継いでいる人が存在し、またそれに呼応する人々が必ずいることです。私たち建都も、いただいたご縁と信頼、社会とのかかわりや人と人のつながりを大切にして、お客様の喜びが社員一人一人の喜びとなるよう、人と建物のあり方を追究してまいります。
これからも、建都をどうぞよろしくお願いいたします。

職人の心を映す 京こまの魅力

師走に入り、日一日と慌ただしさが増してきます。
お正月の迎え方は、以前とはだいぶ変わってきていますが、新年の清々しく華やいだ気分は誰しも感じるのではないでしょうか。「お正月にはたこ揚げて、こまを回してあそびましょう」という、町かどの風景には、なかなかお目にかかれなくなりましたが、伝統を受け継ぐ京都のこまは、今も健在です。
芯に木綿の平たいひもを何重にも巻き付けて完成させる色鮮やかな「京こま」は昔、公家の女性たちが衣装の裂地を竹の芯に巻いて作ったものを始まりとする、やさしい風情のこまで、回り方も優美です。定番の形状から、創意あふれる新作まで、一つ一つと驚きの出会いがあります。手のひらに乗る小さなこまから夢が広がります。

伝統の京こまを、ただ一軒、家業として誠実に作り続ける工房を訪ねました。
御池通り、建都がリノベーションを手がけたマンションのご近所です。史跡「神泉苑」にも近い、暮らしの空気が感じられる地域です。

再び、雀休の看板を掲げる


日本玩具博物館によると、こまは世界各地に分布していますが、日本には東北、関東、関西、九州と、地方色豊かなこまがあり「こまの宝庫」と言われているそうです。
日本各地のこまが木地で作られているのに対し、京こまは心棒に平たいひもを巻くというまったく異なる方法で作られています。そして現在、京こまの作り手は「京こま匠 雀休(じゃくきゅう)」の、中村佳之さんと奥様のかおるさんのお二人だけになっています。
雀休という珍しい屋号は、京こま職人であった佳之さんのお祖母様が付けられた屋号で、庭に舞い集った雀たちを見て「雀たちが羽を休めることができる和みの場所に」という意味が込められています。以降、お父様、佳之さんと受け継がれています。

佳之さんは、子どもの頃からお祖母様とお父様の仕事ぶりを普段から見て育ち、自然と京こまを手にするようになり、中学生の時には、商品になるこまを作れるまでの腕前になりました。しかし、昭和の初めから広がり、手頃な京みやげとして人気のあった京こまも、1980年代(昭和50年代後半)になると、売り上げは減少の一途をたどり、職人さんは廃業、転職をせざるを得ない状況となり、雀休もついに廃業されました。一般企業の会社員となった佳之さんが退職し、一身をかけて、家業であった京こまの職人となり、再び雀休の看板を掲げて出発したのは2002年。廃業されてから実に20年後のことでした。
「以前のように、数少ない種類のこまだけでは通用しない。もっとおもしろいこま、子どもの遊びだけではない、新しいこまや、新商品をつくらなければ」と、一人で大車輪の活躍でした。
そして、かおるさんと結婚されたことにより、一人で手いっぱいだった状況が変わり、新しいこまの構想を話し合い、実際にかたちにして魅力ある商品が生まれていきました。

どの世代も、常日頃楽しめる京こま


店内には、基本の京こまと並んで、ストラップ、ブローチ、かんざし、ピアスなど、気軽に、いつも身に着けられるアイテムもいろいろあります。愉快なのは、創作京こまです。干支、ひな人形、鯉のぼり、祇園祭、金魚、京野菜、乾物など、日本の習わしや季節、京都をテーマにしたシリーズです。「こまはお正月のもの」と思われているので、何とか通年楽しく使ってもらえるものをと、考えたアイテムです。

伝統の手仕事に生活をかける厳しさは、外からはうかがいしれないものがあると思いますが、「京こま 野菜シリーズ」に書かれた「野菜がきらいなお子様も、コマで遊んで野菜に親しもう」という紹介の文章には、そんな重圧を感じさせない、ものづくりが好きな優しいお人柄が表れています。

京こまは、ひもを同じ強さで、きっちり巻いていかなければなりません。また、時間がたつとゆるみが出てくるので、できるだけ早くコーティングします。細い心棒に一からひもを巻き、重心を考えて仕上げるのは大変な手間と根気、技術、そして研究心が必要です。「飾っておきたい」と思う創作こまなど、どんな形のものも、すべてきちんと回るということが本当に驚きです。来年の干支の亥や京野菜の聖護院かぶら、九条ねぎが軽やかに回るのを見れば、まず目を見張り、そして思わず笑いがこぼれてきます。

新商品の開発や既存商品の改良に、お客様の言葉や感想が、とても役立つそうです。「それは、家の奥で作っているだけでは得られないこと。お客様の言葉が励ましにもなります。」と、かおるさんは語ります。すべてが夫婦二人の肩にかかっているので、慢性睡眠不足の忙しさですが、それでも「お客様に、ここにあるものは全部私達が作ったものです、と言えます。ただものを売っているのではなく、だれが、どういう人がつくっているのかが大事」と考えています。雀休のこまは、壊れたらきちんと修理してもらえます。「長く使ってほしいから」その気持ちが使い手にも伝わり、丁寧に作られたものへの愛着を育みます。

応援してくれるご近所さん


かおるさんは大分県の生まれ育ち。京都に知人は一人もおらず、ものづくりの経験もありませんでしたが、佳之さんのかけがえのない相方となっています。「京都のいけず、とよく言われますが、そう言う目にあったことはないですね」と笑い、「近所の方はみなさんよくしてくださっています。がんばれと、応援してもらってると感じます」と続けました。

今、世界的に、伝統的なものづくりが注目される流れが生まれています。縁あって、これまでにロンドン、ニューヨーク、パリへ招かれ、2年生の息子さんも一緒に家族で訪れ、京こまについて語り、実演も行いました。文化や言葉の垣根を越えて、とても喜んでもらえたそうです。地元京都の大学や小学校にも出かけ、京こまについて語り、こま作り体験も実施するなど、こまにかける情熱はますます燃えています。
京都で一軒だけの京こま作り。京都で一軒ということは世界にただ一軒ということです。
息子さんも自然とこまを作り始め、ものづくり大好きなのだそうです。家族三人のこま作りの歴史が、動き始めています。年齢、性別、国籍も超えて、みんなから、ほほえみが生まれる京こまの魅力を、多くの人に知ってほしいと願っています。

 

京こま匠 雀休
京都市中京区神泉苑町1
営業時間 11:30~18:00
定休日 日曜日、月曜日

様々な人とつながり 伝統文化を後世へつなぐ

京都の紅葉が見頃を迎えています。哲学の道の桜や、京都市美術館の欅、堀川通の銀杏など街路樹も目を楽しませてくれます。また、秋は芸術、文化の季節。京都の伝統文化や作品、職人の仕事に多くの人がふれることのできる様々な催しが企画されています。京都に住んでいても、伝統文化とは縁がない、敷居が高いと思っている人も多いのではないでしょうか。
今回は陶芸の企画展示へ足を運びました。伝統を重んじながら革新し、継承されてきた「京焼・清水焼」の世界で、時代を担う30代、40代の人たちの活躍が注目されています。企画運営に携わった大学のプロジェクトの学生たちも含め、若い世代の動きに京都の底力とものづくりの可能性を感じます。

日本画家の理想郷の空間と京焼


大文字山の麓、哲学の道沿いにある「白沙村荘」は、日本画家橋本関雪が大正から昭和初期まで、半生をかけて完成させた邸宅です。10000㎡の敷地に、住まい、3つのアトリエ、茶室、持仏堂などが点在する関雪自ら設計した文人の理想郷であり、庭園7400㎡が国の名勝に指定されています。今回、京都非公開文化財特別公開とあわせて「創立60周年記念 京都伝統陶芸家協会展」が開かれ、一堂に会した京焼を代表する作家の作品を、間近で鑑賞することができました。

色づき始めた木々のあいだを縫って、足元に藪柑子の小さな赤い実を見つけたり、湿り気を帯びた苔の匂いを感じたり、自然を全身で感じながら最初の展示会場の関雪のアトリエだった大画室へ。ここはチャリティー展示即売の会場となっていました。事々しい照明はなく、池に面して大きく取ったガラス戸越しに光が差し込み、作品はそれぞれ自然な調和を見せていました。茶道を嗜んでいなくても、焼き物に造詣が深くなくても、このような出会いがあれば、やきものへの興味がわき、その楽しさや奥深さを感じるようになると思いました。

次の会場は、2014年9月にオープンした新美術館です。これは橋本関雪が晩年抱いていた「展示棟建設計画」をそのまま引き継いで建設されました。1階は100年ぶりに里帰りした関雪の作品、2階は、京都伝統陶芸家協会会員とその後継者で構成する「二凌会」会員の作品の展示です。日本の伝統工芸としての京焼をどのように復興、継承、創造していくかを追求して60年の協会です。高い技術、品位、伝統のなかに新しい息吹を感じる作品の静かな力がみなぎっていました。

テラスへ出ると大文字山が近くに見えます。今回の企画展を見て、京焼も白沙村荘も、先人が成し遂げた仕事、業績を受け継ぎ、現代に生かし、次代へとつなげていくことは同じ営みなのだと感じ、その大きさや重さを思いました。京焼が燦然と輝き、哲学の道沿いに自然と一体となった空間があることが、取りも直さず京都が京都であることの証の一つであると感じました。

京焼のまち五条坂、茶わん坂を訪ねて

今も残る登り窯の煙突

五条坂・茶わん坂ネットワーク主催の「京都やきものWeekわん椀ONE」は今年で第7回を数えます。各工房やギャラリーでの展示会、茶会、体験などが行われました。
五条坂・茶わん坂には京焼・清水焼に携わる陶器店、卸問屋、窯元がたくさんあり、歴史に名を残す陶芸家を排出してきました。やきものを通して地域の文化力を高め、広く国内外に知ってもらうことが街の活性化や繁栄につながると信じて地元の有志が集まり、起ち上げたのがこのネットワークの始まりだそうです。その活動のメインイベントが毎年11月に開催される京都やきものWeekわん椀ONEです。

現存する藤平窯の登り窯としつらえられた生け花

今年も実に多彩な企画がありました。裏面がスタンプラリーになっているマップを手に界隈をめぐり「登り窯ツアー」に参加すべく「藤平(ふじひら)窯」に行きました。
五条坂・茶わん坂界隈には現在、京都市が管理する藤平窯と河井寛次郎記念館に保存されているものを含め6基ほどが残っているそうです。藤平窯は明治42年(1909)に造られた長さ19mの大きな登り窯です。藤平窯のイベントは、京都造形芸術大学の「京焼・清水焼目利きプロジェクト」の学生のみなさんの企画・運営です。先輩たちが10年かけて地域に入り込んで取り組んだ「手仕事職人のまち東山プロジェクト」がひと区切りついたため、その後を受けてプロジェクトの内容を練り直し、京焼・清水焼に特化して新たにスタートさせました。

好きな作家さんの器を選んで抹茶と和菓子を

調査のために職人さんや販売店、窯元をピックアップし、取材依頼をすることから始まり、当日用のパネル製作やガイドの原稿作り、カフェメニュー等々、すべて11名のプロジェクトメンバーで担当したと聞いて、なかなかやるなあと感心しました。

京焼と清水焼の違いは何か。古くは粟田口焼、八坂焼など京都の各地でやきものが作られ、清水参道付近で作られたものを清水焼と言い、これらをまとめて「京焼」と呼ばれました。ところが、清水以外の所ではだんだん生産されなくなったため「清水焼」は残ったということです。現在は、五条・清水界隈、山科、宇治あたりまで含んで「京焼・清水焼」としています。
また、京都はやきものに使う土が産出しなかったため、他の土地から取り寄せた様々な土や釉薬を使ったので、磁器あり土ものあり、絵付けや形状も職人の創造性や技により、個性豊かなやきものが生まれたそうです。さらに、都であったため貴族や寺院の求めに応じて作ったことも関係しています。「京焼・清水焼」とひと口に言っても、本当に多種多様なものがあり、ここが他の産地との大きな違いです。こういうことをプロジェクトのスタッフから聞いて、なるほどと納得し、京都に住んでいても、知らないことがまだまだあると実感しました。

窯場は、素焼きの茶わんや絵付けまでした花瓶、筆や釉薬、松の割木など作陶していた時そのままの状態が残っています。登り窯の火の勢い、色、灼熱のなかでの作業など、当時の職人さんの息使いまで伝わってくるようでした。
窯いっぱいにして本焼きをするため、近所の工場のものも一緒に焼いて共同して仕事をしていたこと、本焼きに入る前はお酒をお供えして無事を祈った。それだけ窯場は神聖な場所だったことなど、取材でしっかり聞き出し、それを参加者にきちんと伝えていました。これからの京焼・清水焼について一生懸命考えている、ひたむきな姿に好感を持ちました。

細川未生流の流派のみなさんにより、登り窯の中やろくろ作業場などに、花が活けられていました。「登り窯のかたわらに」のテーマそのままに、登り窯の新しい舞台となっていました。
受付スタッフから、若い人も来てくれたし、近所の人たちがたくさん来てくれてうれしかった聞き、とても良い交流ができたなのだなと思いました。五条坂・茶わん坂界隈から、伝統を今の暮らしのなかで楽しみ、心を豊かにする動きが確実に起きていると知った登り窯ツアーでした。

個人・家族、地域で守ってきた文化資産

五条にある京焼を扱うお店はモダンな佇まいで年齢、国籍問わず訪れる人が増えています

五条坂・茶わん坂の登り窯や、窯元、卸問屋などの建物、銀閣寺道の橋本関雪記念館白沙村荘。長い年月住み続け、生業の場として使われ、京都の文化を伝える大切な宝です。
時代の変遷のなかで、経済環境や暮らし方が大きく変わるなかで継承されてきたのは、並大抵なことではなかったことでしょう。「保存と開発」は簡単に答えが出せるものではありませんが、そのなかで、五条坂・茶わん坂ネットワークや造形大の目利きプロジェクトのように地道な取り組みが行われています。
今京都市内では至る所でホテルや民泊施設の建設ラッシュです。そこに暮らす人たちの権利と良好な住環境を保障し、次世代へ何を継承し、守っていくのか大事な時期を迎えていると思います。「京都が好きな建都」は、これからも京都の歴史的文化的景観を大切にしながら、住んで暮らせる京都のまちづくりに貢献してまいります。