しまつでぜいたく 京都の昆布

夏は、ものを炊く気になれなかったけれど、秋の気配を感じると、ちょっとは炊く気になると「おばんざい」の名を広めた随筆家の大村しげさんは語っていました。
大豆やひじき、おから、それに季節の野菜。身近にある材料を使って、安く、手早く、おいしく作る普段のおかずが「しまつ(節約、倹約)だけれど味はぜいたく」な、おばんざいです。そこには、決して出しゃばらず、全体をおだやかにまとめる昆布の存在があります。

昆布が庶民の手に届くまで


昆布は、江戸時代に北海道の松前から北前船を使って、大阪へと運ばれたことはよく知られています。上方からさらに、九州、沖縄まで運ばれ、日本で広く消費されるようになりました。昆布の消費量の多い県は、北前船の寄港地があった日本海沿岸の岩手、青森、富山、山形と続いています。
日本の各地へもたらされた昆布は、それぞれの種類を巧みに使い分け、地域の特色ある食文化が育まれました。代表的なのが「大阪の真昆布」と「京都の利尻」です。

大阪は、コクがありながら、すっきりした上品な甘味を持つ「真昆布」を使い、酢昆布やおぼろ昆布などの細工昆布や佃煮、うどん出汁に盛んに使われるようになったということです。
一方京都では、色の濁らない、風味のよい澄んだ出汁がとれる利尻昆布を選んだのは、精進料理、懐石、湯豆腐など、あるかなきかの繊細な料理であることと関係していると考えられます。
そして、出汁をとった後の昆布で塩昆布を炊くことは、素材すべてを使い切る、京都の始末のこころにかなっています。
昆布が取れる北海道と遠く離れた沖縄で、消費量が多いことにも注目です。豚の三枚肉とこんにゃくやニンジンを一緒に炒めたクーブイリチーに代表されるように、栄養バランスの良い定番料理となりました。高温多湿の沖縄では、冷蔵方法もない時代に保存のきく昆布は、重宝されたことでしょう。

また、「喜ぶ」にかけて、結婚式や上棟式などおめでたい席や、神様への供物としても古来から大切にされてきました。
日本で昆布を食べ始めた歴史は相当古く、縄文時代までさかのぼるそうです。昆布巻きや塩昆布を食べる時、縄文時代の人たちも、食べていたのかと思うと、ロマンを感じます。

天神さんのお膝元の昆布屋さん


北野天満宮の近くにある東西に伸びる商店街は、正式には「北の商店街振興組合」という名称ですが「下の森」という通称で呼ばれています。もとは天神さんの森であった所からこの名が付いたようです。
西陣の産業で栄えた地域であり、日本初のチンチン電車の北野線が通っていました。目指す昆布屋さんは、創業50余年の「きたの昆布」です。

店には「天然稚内一等」「出汁が良く出る羅臼の耳」「昆布巻きに」など、商品の特徴がひと目でわかるぴったりの手書きの札が付いています。「神様用」と大書された札は、圧倒的な存在感がありました。角切り昆布も何種類もあり、すぐに塩昆布が炊けるようになっています。
年中、切らさずお家で塩昆布を炊く人も、だんだん少なくなってきてはいるけれど、遠くからこのお店に買いに来る方もいるそうです。今、昆布を専門に扱うお店は本当に少なくなり、お客さんから「続けてや」と言われるそうです。

煮干しや干ししいたけ、削り鰹、あらめにひじきなど乾物もあります。うま味と栄養が凝縮された乾物を使った料理は、ものや時間、どんどん入ってくる情報に振り回されない、実のある生活へ導いてくれる気がします。

京都では、何日、あるいは何の日には、何を食べるというきまりがあり、しばらく前までは、まだこのきまりは守っているお家もあったようです。
たとえば朔日は質素倹約して、今月も「しぶう、こぶう」気張りましょうと、いう意味を込めた刻んだ昆布と身欠きにしんを、ことこと煮た「にしんこぶ」をいただきます。
京都では、ことに食に関わる仕事をされる方は男性でも、昆布を「おこぶ」と言います。食材への慈しみを感じる呼び方です。
日本昆布協会では、11月15日、七五三の日を「昆布の日」と決めています。昆布を食べて元気に育ってほしい、また昆布を食べる習慣をつけてほしいという願いを込めて昆布の日としたそうです。
11月15日は、昆布と鰹で出汁をとってみる。少しだけでも、ていねいに暮らす時間が流れるに違いありません。

氏神様のように親しみのある天満宮


「きたの昆布」から少し足を伸ばし訪れた、菅原道真公を祀る北野天満宮は、平安中期847年創建とされ、全国におよそ1200ある天満宮の総本社です。
毎日多くの人が参拝に訪れ、みんな親しく「天神さん」と呼んでいます

里芋の茎、ずいきを干してから加工します

境内には「ずいき祭」の大きな旗やポスターがありました。10月1日~4日まで行われる、五穀豊穣を感謝して、収穫したての野菜や果物を神前にお供えしたことが始まりです。
ずいきで屋根を葺き、稲わらや栗や柿の実、野菜、昆布やかんぴょうなど約30種類を使ってつくり、飾った御神輿が練り歩く、大変珍しいお祭りであり、それは見事です。
今年の実りを神様に感謝する秋祭、私達に作物を育てる大変さや収穫の喜びを思う気持ち、食そのものへの感謝を持つきっかけを与えてくれます。


一の鳥居をくぐってすぐ右手には「影向松」(ようごうのまつ)があります。この松は、創建当時からあるとされ、立冬から立春前日までに初雪が降ると、天神様が降りて来られ、雪を愛で、和歌を詠まれたと伝えられている、と神職の方に教えてもらいました。
今も、初雪が枝に降り積もった日に、硯、筆、墨をお供えして「初雪祭」の神事が執り行われるそうです。松の緑と白雪、厳かな神事。あとひと月半で暦は立冬です。この優雅な神事を一度拝見したいものです。
その期待を持って、底冷えこそ京都にふさわしいと、煮炊きものでもしながらゆっくり冬を待つことにしましょう。

秋の始まりに 日本酒が合う

暑さは続いても、日差しは透明になり、時折り心地よい風が吹いてきます。
夏の終わりから初秋にかけて、日本酒の様々な味わい方を楽しめます。原酒をオンザロックやソーダ割できりっと。寒造りのお酒をゆっくり熟成させた、まろやかで軽快な、初秋のひやおろしは、冷酒や冷や(常温)で等々。
「原酒と生酒は違うの?」「ひやおろしって何?」わからないことはいろいろありますが、知りたければお店で聞いて教えてもらうのが一番です。うれしいことに、通でなくても気軽に何でも聞けるお店があります。夏の名残りををいとおしみ、秋の走りを喜ぶかたわらに、今年は日本酒が加わります。

洛中唯一の蔵の清々しく溌剌とした空気


建都の新築分譲マンション、フェミネンス二条城北の近くに、伝統ある酒蔵の建つ、ふと立ち止まりたくなる一画があります。ほのかにお酒の香りも漂ってきます。
二条城の北側は、豊臣秀吉が造った聚楽第があったところです。昔から、千利休も茶の湯に使ったとされる、良い水が湧き出ていました。今もその水脈が枯れることはありません。
明治26年創業の佐々木酒造は、当時131軒もあったなかで残った「洛中唯一」の酒蔵です。歴史的な名を冠した「聚楽第」や作家川端康成が「この酒の風味こそ京の味」と絶賛し、自著の名を揮ごうした「古都」をはじめ「洛中伝承」の製法を受け継いだ酒造りを続けています。

夏の名残に冷ややロックで味わいたい、純米吟醸原酒(左)と、蔵出し原酒

また、伝統の清酒の製法である麹糖化技術を生かした、天然由来・健康志向に応える米麹飲料を開発するなど、進取の精神をも併せ持った企業としても注目されています。
出荷やお客さんの応対など、お店では、若いスタッフのみなさんがきびきびと立ち働き、重厚な蔵のなかに、新しい息吹が満ちていました。
ごくごく初歩的な質問に対して、丁寧に説明してくれました。もうすぐ終わってしまうので、ぜひ味わってみてと、初夏に桶の封を切り、火をいれずに瓶詰めした蔵出し原酒と、低温貯蔵した純米吟醸原酒をいただきました。原酒は、搾ったお酒に水を加えていないため、アルコール度数は高くなるので、飲み方はオンザロックや冷やで。

佐々木社長のお話では、今年は気温が高い日が続いたので、お酒の熟成が早いそうです。お米つくりも含め、その年、その季節の気象条件にも左右され、それぞれの工程で細やかな気配りをして、やっと良いお酒になるのですね。
夏を越したお酒が熟成して、秋に旨みがのってくることを「秋上がり」と言います。
おいしさとともに、無事に良いお酒ができたことを喜ぶ晴れ晴れとした心も込められているように感じます。

佐々木酒造の蔵と造り酒屋とひと目でわかる煙突

佐々木社長の兄で俳優の佐々木蔵之介さんという大看板と並んで、佐々木酒造イメージキャラクターの、ニャンコのあーちゃん、ちーちゃん、ちびこちゃんも大活躍しています。みんなで盛り立てる佐々木酒造の風は、確実に日本酒の裾野を広げています。
創業当時のレンガ造りの煙突は、今は使われていませんが、大切に残されています。洛中伝承の精神でお酒造りを続ける気概と、誇りの象徴のように見えてきます。

垣根なんて最初からない、角打ちです

開店の時、佐々木酒造「古都」のこも樽で鏡開きをし、佐々木社長もお祝いに来られたそうです。

木の看板には、SAKE、COFFEE、TABAKOと書かれ、「木の家」という感じのお店です。開かれた雰囲気の空間に、自然と足を踏み入れていました。
ご近所に住んでいるというお客さんが、昼間一人でビールを飲んでいます。そのお客さんから、ここが100年くらい続く老舗の酒屋さんであること、外へ出ていた息子さんが帰ってきて、おととしからこのスタイルのお店を始めたこと、気楽に飲めてお客さん同士で話ができるのが楽しいなど、お店へ入ってすぐにこのお店のあらましを聞きました。
真ん中にある正方形のがっしりした木のテーブルが、とてもいい役目をしています。

山形県米鶴酒造の夏純米、蛍ラベル

お酒は京都を中心に、石川、新潟、山形など、「帰って来た息子さん」の、店主高井さんが選んだ、それぞれに主張のあるお酒が揃っています。グラスなら気軽に試し飲みができますし、もちろん1本買いもできます。今、入荷待ちが多い丹後・伊根町の向井酒造、伏見の月の桂、そしてご近所でもある佐々木酒造のお酒も各種あります。
お酒を飲めない人も、ここへ来て楽しめるように、伏見区にあるカフェの自家焙煎豆のコーヒーがあり、オリーブオイルが大好きな高井さんの目にかなった、ハーブ入りのオリーブオイルの小さなボトルは、気のいた贈り物にもよさそうです。

はっさくを使った京都のクラフトビール

暮れなずむ頃、仕事帰りに軽く一杯という、女性グループが入ってきました。すぐに、ごく自然に言葉を交わすようになります。軽やかであり、気取る必要も物知りである必要もない、それでいてよそよそしくない、この空間の間合いはとても気持ちの良いものです。
リニューアルオープンしてから、今年の12月で2年。「コミュニケーションを通して、だれもが日本酒を楽しめる場としてのSAKE CUBE KYOTOは、このままに留まらず、もっと進化、革新していく気がします。ニューウェーブとか、スタイリッシュという言葉の範疇に入らない空間になっていくのではないでしょうか。それも楽しみです。

御用聞きをする酒屋、城の巽の方角にあり

いいね!がたくさんつきそうな、店の風貌。本当にいいですね

二条通りの、堀川と烏丸の中間くらいに、町並みになじんだ酒屋さんがあります。米屋、魚屋、八百屋など「屋」のつくお店が急激に減り、今や残っているお店はめったになくなりました。西本酒店は、二条城の巽の方角(東南)にあります。初代が明治の初めに、店舗を構える時、家の相がこの方角が良いという見立てから、この地に決めたのだそうです。
旧学区は「城巽(じょうそん)学区」であり、以前城巽中学校がありました。初代の西本与三吉さんは、自家醸造した清酒に「城巽菊」と名付け販売していました。
京都の底冷えが育んだ、優雅で気品漂うお酒だったそうです。戦争により製造が中断されてしまいました。城巽菊の復活を願う三代目、現店主の西本正博さんは、各地の蔵元を訪ねてまわり、滋賀県の酒造家と出会い、平成14年に復活を果たすことができました。

西本酒店でも、お店の前に場所を設けて角打ちで城巽菊をはじめとする日本酒や生ビールを楽しめます。以前は「お風呂上りに、パジャマのままでどうぞ」というキャッチフレーズで、近所へ生ビールの配達をしていたそうです。とても好評だったけれど、配達が大変で止むなく中止したそうです。そんな出前が頼めるなら、需要は多いでしょう。

味がある、店主手描きのPOP

店内には、ぎっしり並んだ日本酒、洋酒、焼酎のほかに、ツバメソースや焼きのりなどの、厳選された食料品も販売しています。「ここの海苔は本当に美味しくて、遠くの友達にも送っています」と、バスに乗って買いに来るお客さんもいます。ツバメソースは、京都では古くから愛用されてきたソースです。少量生産のため、ほとんど出回らないので、西本酒店に置いてあることを知って、遠方から買いに来る人もいます。
西本酒店では、サザエさんに登場する三河屋さんのように、今でも御用聞きや配達をしています。学生時代のアルバイトからずっとここで働いている、中村信彦さんの担当しています。中村さんの肩書は「番頭」です。取引先やお客さんからも「番頭さん」と呼ばれて、頼りにされています。店主の西本さんも「4代目になるべく修行中」と、頼もしそうです。蔵元も酒屋さんも、人と人をつなぎ、地域のコミュニティーに貢献しています。
「酒は百薬の長」ですね。

 

佐々木酒造株式会社
京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727

SAKE CUBE KYOTO
京都市中京区二条通西洞院西入ル西大黒町343

西本酒店
京都市中京区姉小路通西洞院西入宮木町480

毎日通いたい 京都三条会商店街

東は友禅流しが見られたという堀川、西はJR二条駅に近い千本通りまで、全長800mの京都三条会商店街。食品、飲食店、雑貨、美容院、靴の修理専門や傘屋という稀少種のお店まで、大抵のことは間に合います。

常連さんだけでなく、一見でも気持ち良く、いい買い物ができます。青果、鮮魚、総菜など日々なじみのあるお店と、ジェラートやチョコレート、カフェなど、おしゃれ系のお店も増えて、お客さんもお店の人も、幅広い年代にわたっています。また、創業100年を超す老舗や個人店と、100円ショップやスーパーマーケットがごく自然に共存しているのも特徴です。必需品を買うことはもちろん、「買い物って楽しい」と思える商店街です。
ちょっとした買い物でも、聞けば大将や奥さんがいろいろ教えてくれます。ふた言、み言の会話が心を満たしてくれます。通りの中ほどには、祇園祭には御神輿三基が参集する「又旅社」もあり、古くからの京都の歴史を発見することもできます。「こういう京都がある、京都はやっぱり、ええとこや」と思える、商店街です。

始まりは明治にさかのぼる庶民の商店街


商店街の歴史は、明治期にさかのぼります。山陰線の開通や染織関連の隆盛もあり、近隣の農家が農作物を運び、多くの人が行き交い、室町から千本までの三条通りは、早くから賑わいを見せていました。飛躍的に発展したのは、大正から昭和初期ですが、近年は、地下鉄東西線の開通により山科区あたりのお客様が増え、「この商店街おもしろい、買い物しやすい」と思って訪れる地元以外のリピーターや、観光客も増えています。お盆直前の商店街へ出かけました。

京都産の野菜や各地の旬の果物を商うお店には、顔なじみのお客さんがやってきます。顔も名前もわかっている、気心の知れた間柄で、しかも「目利き」に希望を伝えれば、間違いのない買い物ができるのです。

もうすぐお盆ということで、店頭にはお供えセットが並んでいました。青柿、蓮の葉など、お供えのために特定の農家から仕入れています。「前は、ご先祖さんが乗られる千石豆という豆もあったのですが、今は作っている農家もほとんどなくて、もう手に入らなくなりました」という話を聞きました。
お盆のお供えのお膳の内容を書いたファイルも用意されています。「お供えをちゃんとするお家もだいぶ少なくなりましたけれど、ここらへんは、まだまだ、やってはります」とのこと。古くからの習わしを、まちに住む人々と暮らしを支える地元のお店によって伝えられています。

炭火で焼く鰻や鮎がおすすめのお店は、かつて川魚専門店。琵琶湖でとれた湖魚を扱っていたそうです。今は、お店で作る総菜が、毎日の食卓に、家庭の味と季節のうるおいとなっています。葉唐がらしの佃煮と小鯵の南蛮漬けをいただきました。支払いをした時「これからまだ歩かはるんやったら、買うたもん、預かっときますよ」と、一見の私に、思わぬ親切な言葉をかけてもらい感激。

三条会を訪れた目的は買い物ともう一つは「普通のかき氷」でした。入ったお店は昭和の初めに開業した、うどん屋さん。蒸し暑さに汗だくでしたが、まずは熱い志っぽくうどんをいただき、その後、かき氷にしました。
近頃はかき氷も流行りになっていて、豪華、おしゃれ、珍しさを競っているように思いますが、私は絶対「普通」が好きです。宇治氷は、注文の都度、抹茶を点てています。次回は宇治と決め、元気回復して、商店街歩きを始めました。

次は漬物屋さんで、瓜の朝漬けと壬生菜のひね漬け、梅干しを購入。並んでいるすべてが工場製品でなく、見るからに長年の製法で手ずから作ったという感じがします。商店街のサービスシール「リボンスタンプ」を「集めないと思いますので」と、お断りすると「スタンプの代わり、気持ちだけ」と、おつりをおまけしてくれました。

歩いていて気になった「猫本サロン」へ入りました。文学系の書籍や文庫、写真集などいい感じにディスプレーされていて、猫好きは夢中になって、つい長居しそうな空間です。
オーナーのお家には「まぐろは、大間のまぐろしか食べない」という、超美食猫が家族なのだそうです。みんなが自由に気楽に来てくれて、楽しくいられるサロンのような空間にしたいという願いを持ってオープンして、ちょうど一周年を迎えました。おなじみも増えてきて、最近はここで宿題をする小学生もいるそうです。商店街の進化のかたちのひとつです。

通りの一番西のほうにある、傘専門店は、全商品日本製です。京都で唯一の製造会社が昨年廃業してしまったそうです。でも、頑張って製造を続けている取り引き先もあるので、こっちも続けてます、とのことでした。最近は遠方からのお客さん増え、日曜に来る人が多いので、日曜休みにできないと、笑っていました。

昔からの習わしを、普通に続ける地域


通りの中ほどにある「又旅社」は、貞観11年(869年)、疫病退散を願い、始まった祇園会ゆかりの神社です。66本の剣鉾を立てて、祇園社の御神輿を迎えた神泉苑の南端に位置します。
お父さんと小学生の女の子二人が、鳥居の前できちんと一礼してなかへ入っていきました。本殿の前では、きちんと二礼二拍一礼されていました。
ご近所に住んでいて、去年の祇園祭の粽を納めに来られたのだそうです。毎年続けていると話されていましたが、それがごく自然で「京都の伝統を守っています」というような気負いはまったくないところが、またすごいと感じました。

生活様式や嗜好、家族構成の変化により、商店街も様々な工夫や新しい方針で、より暮らしに密着した、魅力のある存在であることを追求しています。
三条会で出会うことができたお店の方とのやりとりや心遣いは「おもてなし」「ホスピタリティー」などという言葉とはまた違う、本当の快さ、買い物の楽しさを実感しました。
そして三条会のような商店街が、地域に支持され役割を発揮していくことが、京都に暮らす喜びでもあると実感しました。

平安の麗人と蓮と仏像 法金剛院

京都には、四季折々の花や、草木の芽吹き色づきを楽しめるお寺が多くあります。関西花の寺第十三番霊場、京都市の西方にある法金剛院(ほうこんごういん)は、桜、花菖蒲、さつき、あじさい、蓮、萩、30種ある椿など花暦を楽しむことができます。

創建は830年に遡る名刹。一時は衰退してしまった後、復興させたのは、平安時代きっての麗人、待賢門院です。
壮麗な伽藍を配した法金剛院を建立し、上皇、天皇もしばしば行幸されました。西行をはじめとする歌人や貴族が集う、超一流の華やかな文化サロンであったようです。
鳥羽天皇の中宮、待賢門院が、極楽浄土を求めて造らせた「池泉廻遊式浄土庭園」には今まさに、極楽に咲いているとされる蓮の花が、最後の見頃を迎えています。
酷暑の今年ですが、朝に法金剛院へ参拝してみてはいかがでしょう。池の廻りを歩いて蓮を愛で、ご本尊の阿弥陀如来や地蔵菩薩とまみえると、すがすがしい気持になれます。素の自分に返ることができる空間です。

平安時代の人々を、近しく感じる


壮大な堂宇や庭園も、度重なる天災や戦災で土に埋もれてしましましたが、昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、日本最古の人工の滝である「青女の滝」の石組みが、そのまま埋まっていることが確認され、2年後に、滝の石組みの復元、池や周囲の植栽の整備が行われ、平安時代の庭園がよみがえりました。
青女の滝は、国の特別名勝に指定されています。この作庭を命じた、待賢門院の才気と権勢は、目を見張るものがあります。

待賢門院像(法金剛院蔵)wikipediaより
西行像(MOA美術館蔵)wikipediaより

才気と美貌に恵まれた待賢門院は多くの人に慕われ、17歳年下の西行も恋心を抱く一人だったようです。
西行といえばまず「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」の歌が浮かんできます。無常を感じ、すべてを捨てて出家した人と思っていましたが、こういう人間模様をみると、平安時代に生きた人たちも、今とさして変わりない気もしてきました。
ご本尊の阿弥陀如来、珍しい僧形の文殊菩薩、地蔵菩薩、十一面観音を近くで拝観することができます。阿弥陀如来は、藤原時代を代表する「丈六」(じょうろく)という、高さです。これは、仏様は身長が、1丈6尺(約4.85cm)とされていることによります。その背の高さ、大きさでも威圧感はなく、包み込まれるような「安堵する」という気持になりました。僧形文殊菩薩と地蔵菩薩も平安時代のもので、いずれも一木彫です。千年を超えて、今を生きる私たちに語りかけてくれます。

身近でもあり、あまり知らない蓮のこと


法金剛院はまたの名を「蓮の寺」と言われています。広い池を埋め尽くすように、また周囲には鉢植えの蓮の花が咲いています。
今年は暑さのせいか、例年より開花が早かったそうです。茎が折れたり、花びらが散ったりと、台風12号の狼藉のあとが見られましたが「泥中の蓮」の言葉通り、清らかな美しさはほかの花にはないものでした。拝観した如来像と間の前に咲く蓮が自然と重なりました。
境内の蓮は約90品種にものぼると伺いました。その中には古代蓮とも呼ばれる、大賀ハスもありました。その存在を初めて知ったときは、2000年も前の種から芽が出て、きれいな花が咲くなんてと、古代のロマンを感じたものでした。


蓮の花の命は短くて、3~4日くらいで散ってしまい、その後はハチの巣みたいな「花托」だけになり、3週間くらいで穴に入っている実が熟し「果托」と名が変わるそうです。子どもの頃、近所に蓮池のあるお家があって、お使いに行くと、お駄賃に果托ごと実をいただき、薄皮を剥いて食べました。どんな味だったのか。とうもろこしみたいなのと言われればそうだったような気もします。また食べてみたいものです。

鑑賞用と、食用のれんこんにする蓮は品種が違うそうですが「先が見通せるように」と、お正月のおせちには欠かせないし、「一蓮托生」という言葉もあり、チャーハンやラーメンを食べる時に使う略称レンゲ、「散り蓮華」は、散った蓮のはなびらというそのままの名前を付けているし、身近なところで蓮に関係している言葉やモノがあります。
ちなみに、蓮の花托は蜂の巣に似ているので、蓮はまたの名をはちすとも言い、はちすから蓮になったとも聞きました。小学生の夏休みの自由研究並みですが、こんなことに頭を使ったり調べたりするのもおもしろいと思いました。

法金剛院のある双ヶ岡東麓、花園の地

wikipediaより

法金剛院のある所は、京都市の西方の双ヶ岡(ならびがおか)という三つ並んだ丘の東側です。古くから天皇が猟をして遊んだり、位の高い貴族の山荘があった場所です。四季の草花が咲く、のどかな里であったことから「花園」という地名になったとされています。
また、吉田兼好も双ヶ岡の麓で徒然草を執筆しました。法金剛院の前身である、時の右大臣、清原夏野が平安時代の初めに建てた山荘は、没後に「双丘寺」(ならびがおかでら)というお寺になりました。このように双ヶ岡は、それぞれの時代の歴史と関わってきました。そして、1941年(昭和16年)に、国の名勝に指定されています。80年近くも前に、その価値が認められていたということです。
しかし、1964年(昭和39年)に、所有者が売却を決定し、買収予定者がホテルの建設を発表したところ、地元から反対の声があがり、市民団体や学術団体などによって、政府・国会への声明を発表しました。
結局は買収予定者が資金調達ができず、ホテル建設は免れましたが、このことは、1966年に古都保存法を制定の契機となりました。開発と保存の問題は依然として全国的な課題となっていると思います。

千年はおろか、30年、50年前の景観や自然を継承することも困難な場合が多くあります。少子高齢化、人口減少社会の到来で、これまで以上に、年齢を重ねても健康で文化的な暮らし、生活の質を保っていくことに力を注がなければなりません。
法律に照らしながら、そこに住む一人一人の合意を大切にした、まちづくりをどのように進めたらよいか。住んでいる人の誇りとなり、憩いにもなる、京都の歴史的景観や文化を次世代へとつないでいくために、建都もさらに努めてまいります。

 

法金剛院
京都市右京区扇野町49
拝観時間 9:00~16:00(ハスの花期は7:00から)
拝観料  500円

空白から復興へ 祇園祭の力強さ

七月一日の切符入にから、神事や行事が滞りなく行われ、前祭りの鉾立の終わった山鉾町に祇園囃子が流れ、猛暑の京都は、祇園祭を中心にまわっていています。出版物やインターネットにも「京都観光」の祇園祭をより楽しむための記事が満載されています。

厄災をもたらす怨霊退散を祈る「御霊鎮」の祇園祭も、本来は御神輿が主体です

そんななかで、2014年に前祭、後祭の本来のかたちに復活したことをきっかけに、宵山、巡行以外の行事にも目を向け、これまでと違う楽しみ方を知る人も増えてきているように思います。それぞれの山や鉾の来歴、華やかさの裏にある、思いがけない歴史上のつながりや、ご神体に託して先人が伝えたかったこと、継承を巡る様々な出来事など、もう一歩奥を知ると「見る側」としての意識が変わります。未だに新しい発見が次々とある、祇園祭の厚みと深さは計り知れません。祭の精神を垣間見る祇園祭です。

八幡と蟷螂山、外郎家を結ぶ縁

前祭の宵山を前にした13日、八幡市観光協会と、やわた観光ガイド協会の主催による、「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という、祇園祭にふさわしく、興味深い企画があり、参加させていただきました。三者を結ぶ縁について、わかりやすくまとめられたパンフレットが役立ちました。その内容もお借りしながら、三者のつながりを記してみます。

祇園祭の蟷螂山は、御所車の上にかまきりを乗せた、唯一、からくりのある山です。車に踏み潰されそうになったかまきりが、怒って斧に似た足を振り上げて立ち向かってきた。その様子も見た王が「これが人間なら、さぞ勇敢な武将になったことだろう」と語ったという、中国の故事「蟷螂の斧」にちなんでいます。
どんなに強い相手にも、自分を顧みず立ち向かう蟷螂の姿に、南北朝時代に南朝方の武将として勇敢に戦った、四條隆資(しじょうたかすけ)卿を重ね合わせています。
隆資の死後25年目(1376年)に、陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそき)が、法要を営み、四條家の御所車に蟷螂の作り物を乗せて巡行したのが、蟷螂山の始まりとされています。隆資も外郎一族も現在の蟷螂町に住んでいたよしみと、朝廷に仕える優れた医術者、薬業者であった外郎家が、町衆の病を治すなど、民衆のために力を尽くしたことを初めて知り、とても感銘を受けました。
南北朝の戦いでは、南朝は石清水八幡宮を行宮(あんぐう)としましたが、足利軍率いる北朝に敗れ、隆資も壮烈な最期を遂げました。この「八幡合戦」(正平の役)から、666年の今年6月に、石清水八幡宮おいて、地元のみなさんによる実行委員会と蟷螂山保存会により、慰霊祭が営まれたそうです。忘れ去られていた、供養塔である正平塚も発見され整備されました。八幡のみなさんの日頃の地道な活動と地元愛が、自分たちが住んでいるまちの、身近なところに眠っていた、悠久の歴史を掘り起こしたのだと思います。

猛暑日の予報通り、どんどん気温が上がるなか、ケーブルカーに乗って、さらなるつながりを知るために八幡宮へ。眼下に広がる眺望はすばらしい、搭乗時間3分間の空中の旅です。全国中で、一番谷が深いケーブルカーなのだそうです。車内のアーム型のポールは、一風変わった形をしているのですが、これはエジソンが電球を発明した時に八幡の竹を使ったという所縁から、フィラメントをかたどっているそうで、こんなところも楽しめます。

山上の清浄な空気のなか、壮麗な社殿が見えてきます。昇殿へ参拝し、権禰宜さんのお話を伺いました。話す時間がまさかの30分では、とても話しきれないと仰って、参加者を笑わせながら、楽しく簡潔に八幡宮の創建やご神体と歴史、美術工芸的な見どころを説明くださいました。
蟷螂山との係わりは、瑞垣に見られます。三代将軍家光が寄進した瑞垣には、かまきりと橘が彫刻されています。不老長寿の効用があるとされる橘は、かまきりが好むとされているそうです。八幡宮の神紋は橘、蟷螂山の御所車にも橘の金具が付いています。また、かまきりは「蟷」の字を当てますが、これは虫偏に当る文字を組み合わせていて、武将に好まれた意匠だそうです。
信長が寄進した黄金の雨どいや左甚五郎作と伝わる目貫の猿の話、そのほかにも本当に聞いてみたい内容は尽きず、次回を期待したいと思いました。

蟷螂山と外郎家に共通する精神


西洞院四条を上がった所に蟷螂山保存会、蟷螂山があります。一昨年に移転する前、すぐご近所に建都本社を置き、蟷螂山に協賛させていただいたご縁があります。今年の巡行は、山一番を引き当て、活気のなか準備に忙しいところ、役員さんからお話を伺いました。
この地に住まいした四條隆資と外郎家の所縁の蟷螂山ですが、江戸末期から資金不足などを理由に度々不参加となっていたそうで、ついに明治25年(1872年)から休み山となっていました。そして、117年の長い時を経て、昭和56年(1981年)再興されました。その間、売却されてしまった会所のあった土地をはじめとする資産の散逸や、実際に住んでいる住民が激減するなどの困難のなか、マンションの1階に保存会を置き、マンション住民にも運営に参加してもらうことにするなど、大きな決断と改革をされ、復興されました。

懸想品は、人間国宝の羽田登喜男作の友禅染です。染の懸想品は蟷螂山のみです。織に比べて立体感は少ないことから、一枚ものに染めるのではなく、複数の染めた生地を綴じ合わせるなど工夫を凝らしています。
かまきりのからくりに人気が集まり、かまきりがご神体と思われていますが、ご神体は「祇園三社」と揮ごうされた、鎌倉時代の掛け軸です、と説明されました。

会所に飾ってあるかまきりは、復興前の古いもので、これは一人で操作できるのだそうです。現役のかまきりは、4~5人で操作し、複雑でしなやかな動きを得意とするところです。それを可能にしているのは、人形師の技に加え、操りにくじらのひげを使用しているからです。しかし、ワシントン条約により、捕鯨が禁止されてから入手が非常に困難になり、またとても高価になっているということでした。それでも、手に入るあいだはくじらのひげを使うそうです。
役員の方は、外郎家と蟷螂山について「反権力」の精神が共通すると話されました。外郎家は、朝廷に使える医術家であり薬業も営んでいた、言わば上層部の人たちでしたが、「土地の民衆のために薬を調合し、病を癒し、命を守りました。これは、反権力の行動です。兵力がまるで違う戦いに、それでも果敢に挑んだ隆資をモデルにした蟷螂山は反権力の山です」と続けました。
外郎家はやがて、京都では途絶え、北条早雲の招きにより小田原に移った外郎家が、今も代々伝わる薬と名物の外郎を商っています。2005年、社史編纂を通して、祇園祭の蟷螂山と外郎家のつながりを知ったご当主が、わざわざ訪ねて来られ、そこから交流が復活したという、これも本当に、歴史に残る大きな出来事です。2011年からは、ご当主も巡行に参加されているそうです。
祇園祭という、町衆の力を結集しなければ成しえない大きな祭事は、それぞれの時代に生きた人々の心が、途切れた糸をまた結びつけてくれているように思います。

伝統行事や文化の継承とは


今回、この「八幡のまちと祇園祭蟷螂山カマキリの縁を訪ねる」という企画に参加して、その時代の出来事、歴史を伝えていくのは簡単なことではないと感じました。でも、地元のコミュニティーを大切にし、協力することを可能にするのが祭礼なのだと思います。案内してくださった、やわた観光ガイドの方が「住んでいる人が減っているから、昔の村単位に一社あるお宮は、祭礼の時だけ人が集まる。でも、それがあるからまだしもコミュニティーが生きているのです」と話していました。
この度の地震や豪雨は、甚大な被害をもたらしました。疫病や豪雨などの厄災の退散を願って始まった祇園祭は、その後も自然災害や戦火によって中断、不参加を余儀なくされましたが、志ある人々が力を合わせて復興させた歴史と現代が重なります。普通の暮らしを大切に、そしてだれかのためになることを誠実に続けていくこと。伝統行事や技術の継承は、そういったことが、きっと礎になると感じました。その思いで、山鉾へお参りしたいと思います。

西陣の京町家 古武邸の夏のしつらえ

京都は、春秋の華やかなすばらしい季節と引き換えに、夏冬の酷暑、厳冬があり、その暑さ、寒さの時期こそ一番京都らしいなどと、まことしやかな話を聞いたことがありますが、三方を山に囲まれた盆地の蒸し暑さを、どう乗り切って来たのか。知恵と感性で、涼しさを呼びこむ工夫が随所にみられる、夏仕度の京町家へおじゃましました。

人生後半を変えた一軒の町家


古武博史さんと、その町家との出会いは今から30年前、1998年のことでした。地場産業の弱まりは、西陣も例外ではなく、職住一体の家屋である町家は不要となり、壊して新しい住宅を建てる動きが活発になっていました。加えて、バブル期の地価高騰の嵐に見舞われ、たくさんの町家が消えていきました。不動産業を営む友人から「集合住宅にするために、もうすぐ壊されてしまう町家がある。もったいないが」と聞き、案内してもらったのが、運命のような現在の古武邸との出会いでした。

巧みに配置された店庭の敷石
今は出入りには使われていない店玄関
店の間の天井。人を迎える正式な部屋の天井はこの格子天井
貴重な明石緞通の敷物が敷かれた座敷玄関
表座敷
奥座敷から見える中庭

門を入ると店庭から店玄関、店の間、さらに座敷玄関と、表座敷に奥座敷、庭。渡り廊下の向こうには、離れになっていて「うなぎの寝床」を実感できます。二階には、特別のお客様を迎えるための、材に凝り、技術の粋を生かした、文化の高さが伺えるりっぱな座敷があります。調べてみると、室町時代にほぼ確立された町家の原型を再現した、大正時代の建物であることがわかりました。
家主さんの思い、大工、左官、建具、造園等々の職人さん達。この家を建てるにあたってどれだけ多くの人が係わったか。「呉服店だったこの家にたくさんの人が集い、西陣の歴史と日々の暮らしに生きる文化を学べたら」そう考えた古武さんは、仕事を早期退職して町家を買い取り、文化的催し活動施設「西陣の町家・古武」の主人となる道を選びました。つながりの輪を広げ、地域をもっと深く掘り下げ、みんなで楽しいことに取り組み、気が付けばすでに30年。
コンサートや狂言、謡曲、落語などの伝統芸能。茶道、着付けなど体験型企画、写真や生け花、陶芸などの作品展と、とても紹介しきれないほど多彩な内容の催しが行われています。

桂離宮と同じ市松の襖の離れ

毎年恒例の新年企画、小学生対象の「茶の湯とかるた会」は、すぐに定員となる人気企画です。修学旅行生や大学のゼミ、行政機関、企業の研究機関の研修や見学の講師、案内役も古武さんが務めます。外国からの視察は44か国を超えたそうです。国に関係なく、来る人は関心を持っている人達なので、見学に来た人から教えてもらうことも多くあるそうです。
気候風土を考慮した職住一体の京町家は、新しい使命を受けて、堂々と西陣の歴史と文化を伝えています。西陣の民間親善交流サロンです。

五感が働くと感じる涼しさ

「建具を入れ替えるのは、主人の仕事です」と、古武さん。それは力仕事だからということだけでなく、すだれや網代、葭戸など、入れ替えの時に、どこか傷んでいるところはないか、補修が必要かを点検する必要があるからです。また、家具を動かすついでに、在庫の商品も確認できるからだそうです。
古武邸の葭戸は、他所のお家のものを再利用しています。町家というものは大量生産品と言えるものであり、規格が決まっているので使いまわしがきくそう。よくできています。

網代を敷いた座敷

畳の上に敷かれた網代は、すべすべしてひんやりした感触です。また葭戸やすだれの、向こうが透けて見える効果も、涼しさを感じさせます。時間とともに変化する庭の光や木々の影、時々すっと通り抜ける風も気持ちを静めてくれるようです。

萩の枝の戸

四君子の透かし彫りの欄間
二階座敷の廊下。端から端まで継ぎ目がないこのような木の使い方は今では見られなくなりました

欄間の透かし彫り、二階の座敷の戸に使われている細い華奢な材は、萩なのだそうです。多分今ではもう作れないだろうということでした。
この萩の戸だけではなく、京町家の維持に必要な職人さんがどんどんいなくなっていて、今は「延命」させているに過ぎない。とても継承とは言えないと、古武さんは冷静に見ています。古武邸の修繕をお願いしている職人さんは、90歳になられたそうです。町家を支えている文化的な構造の産業が機能してこそ、と、古武さんは語ります。地場産業の衰退が町家の減少を生み、残った町家の維持も困難にしています。
では、どうするか。町家のオーナーが、その価値を自覚し、どう発信するかが重要だと語ります。それでこそ、訪れた人たちが広げていける、まずオーナー自身が楽しんでいるかどうか、と続けました。古武さん自身は、毎日が楽しいそうです。

地域の人が、地域を語ることの大切さ


古武邸のある地域は、平安時代は天皇や貴族の離宮が並び、源氏物語の舞台にもなっています。応仁の乱では西の本陣が置かれ、やがて西陣織の技術とともに、経済的に発展し、それに伴って職住一体の住居も、茶の湯や能楽などの文化的要素を取り入れていきました。
古武邸の向い側は、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が子供時代を過ごしたとされるお家があり、今も縁につながる方がお住まいです。余談ですが、桂昌院は幼名を「玉」といい、「玉の輿に乗る」の諺の由来となったという説もあります。
昔の町割りが今も残り、江戸時代の古地図を持って歩くことができる、1200年の歴史が凝縮している地域です。しかし、今回久しぶりに訪れてみて、町家がほとんど姿を消していることに驚きました。

古武さんも「3軒続いて町家はない。西陣織は70の工程があり分業です。ですから、だれもがなんらかの仕事につけたのです。そして、産業がまわっている時は、普通に仕事をして普通に暮らしていれば、文化は伝わったのです。産業の衰退は仕事も文化も歴史も、学ばなければ知ることがない、伝わらなくなっているのです。」と語りました。
しかし、古武さんは、悲観的ではなく、「歴史の掘り起こしをして、暮らしに根付いた価値の発信が大事です。未来に生かすための歴史です。歴史は未来学の視点で語ることです。これからはアナログとITの共存の時代です。どうすればいいか。そのヒントが町家にあると思います」
古武さんも起ち上げメンバーの、上京区役所が地域やNPOなどと協働して開催している「上京探訪 語り部と歩く1200年」という息の長いシリーズがあります。上京区を12のコースに分けて、歴史を辿ります。「応仁の乱 東陣の地を歩く」「二大プロデューサー 義満と秀吉」など、知ってるようで知らなかった上京区の魅力満載です。語り部は地元のみなさんが担当します。
「地域のことは地域の人が語るのが一番です。町家 古武は、みんなの自己実現の場。そのなかで西陣の将来展望が見えてくると思います。町家の文化的構造を支える産業は、昔とおなじようにはなりません。その現状を見据えて、課題を整理して、どうしていくのか。未来社会を真剣に考える時に来ています。」そして「私は、衣食住遊と言ってるんです。遊びの中で、いろいろなものをつくり出していくんですよ」と、続けました。
町家のリフォームやリノベーションをさせていただいている建都も、町家の継承とまちの在り様について、今後も取り組んでまいります。

石清水八幡宮門前の 名物餅

昔から栄えた街道筋や名のある社寺の門前には、必ずと言えるほど、名物の食べ物があります。なかでも手っ取り早くお腹を満たしてくれるお餅は、多くの旅人の旅の楽しみにもなりました。今も変わらぬ味の名物餅は、参詣を終えたひと休みに、またおみやげにと、時代を超えて人々に愛されています。

はちまんさんの門前に、なくてはならぬ店

日本三大八幡宮に称せられる、国宝石清水八幡宮

梅雨の晴れ間、久しぶりの石清水詣でをしました。境内の空気は清々しくひんやりして、木々の生気を感じます。うぐいすのさえずりがすぐ近くに聞こえます。「お見事」と、声をかけてやりたいほど、高く澄んだ声で鳴いていました。同じ「ほーほけきょ」でも、求愛はやさしく、縄張りの宣言や、警戒している時は、低く鳴くそうですが、本当に珠をころがすような、美しい鳴き声でした。
八幡宮が鎮座する男山は、都の裏鬼門にあたり、鬼門の比叡山延暦寺と並び、都を守護する神社として、朝廷や貴族から篤く敬われてきました。そして地元では「はちまんさん」と親しみを込めて呼ばれ、時代を越えて多くの人々の信仰を集めてきました。一昨年に、国宝の指定を受け、八幡の歴史と文化を生かして地域をもっと元気に楽しくしようと、地元の気運も盛り上がっているようです。

一の鳥居の前にある、昔は旅籠だった趣きのある建物が「やわた走井餅老舗」です。走井餅は、江戸時代中期に大津で創業し、湧き出る「走井」の名水を使い、餡を包んだお餅を作ったことが始まります。独特の形は、平安時代の名刀工、三條小鍛冶宗近が、走井で名刀を鍛えた故事にちなみ、刀身をかたどったものと伝えられていまするそうです。明治43年、六代目の四男井口嘉四郎・イト夫妻により、本店と同じく、清らかな水の湧く現在の地に開店されました。以来100年、親子三代にわたるお客様もあるように、訪れる人みんながほっとできる、八幡様のお参りコースになくてはならないお店です。

名代名物 走井餅と邪気を祓い夏を無事こせるように願う水無月

今回は走井餅と、水無月をいただきました。走井餅は、その手間暇や苦労を感じさせない、さらりとした美味しさにあらためて感動。食べる人が「作る大変さ」を、いちいち思わなくてもいい「お餅ですから、気楽においしくどうぞ」という心を感じました。
水無月は、むっちりした、外郎生地に豆の風味が生きる小豆が一面に乗っています。6月晦日は「夏越の祓」(なごしのはらい)です。昔、昔宮中では、夏を無事乗り切れるように願って、氷室に保存した、貴重な氷のかけらを口にしたとか。この氷のかけらの形を写したと言われる水無月をいただいて、茅の輪をくぐれば、今年の夏も大丈夫な気がしてきます。

小さなことでも、こういった季節の決まり事は、ばたばたした毎日を送っているだけに、気持ちが少し和らぎます。

相槌神社のある東高野街道


一の鳥居の横の道を少し進むと、どこか旧街道の面影のある道に出ました。京都から高野への道「東高野街道」(ひがしこうやかいどう)です。河内長野で、堺から南下する西高野街道と合流するそうです。平安時代の末期、全国を行脚した高野聖によって、高野山参詣が盛んになり、たくさんの人々が行き交った道です。

「八幡相槌神社」(やわたあいづちじんじゃ)という額が掛かった小さな社と、今は使われていない井戸の跡、そして「山ノ井」と刻まれた石標がありました。由緒にはざっと「創建は不詳。伯耆国の刀工、大原五郎太夫安綱が鍛冶する時、相方がいなかった。すると神様が来られて“相槌”をつとめてくれた。よってここに神様を祀ることにした。また、走井餅とも所縁のある、三條小鍛冶宗近もここの山ノ井の水を使った。以来、1000有余年守られている」という内容が記されていました。
相槌は、鍛冶の仕事で二人が交互に槌を打ち合わせることをさしていました。そこから、相手の話にうなずき、巧みに調子を合わせること、という意味になったようです。よく知っている諺の語源の名を奉った神社との思わぬ巡り合いでした。地元のみなさんが大切に守って来られたそうですが、傷みも出てきて、今「次の千年への歴史を共に繋ぎませんか」と、募金を呼び掛ける文書が張ってありました。

新しい建築の民家が多いなかで、軒の低い、いかにも街道沿いに似合うお菓子屋さんがありました。使い込まれた蒸籠や、石臼など、今も現役の道具が目を引きます。東高野街道は、歩けばまだまだ楽しい発見がありそうです。

何年たっても、訪ねて行けばそこにある嬉しさ

多くの参拝者で賑わった、八幡淀川井筒浜の旅籠にあった、定宿を示す講札が飾られる走井餅の店内

やわた走井餅老舗は、十代目の娘さんが、次期当主、十一代目になるべく家業に専心しています。新しいメニューや季節のお菓子、新商品の紹介など、ブログはほぼ毎日発信されています。八幡のはちまんさんのおひざ元で育った土地っ子の目線で綴るブログは、仕事のこと、子どもの頃から見てきた折々の行事、豊かな自然が教えてくれる四季の変化、そして地域のにぎわいつくりの取り組みなど、とてもいい感じで中身がぎゅっと詰まっています。その中で、走井餅を伝えてきた代々の人々や、廃業した大津の本家の「走井」を月心寺というお寺として守っておられる、日本画家橋本関雪のお家のみなさんへの感謝がていねいに記されているのが印象的でした。
十代目であるお父様も「本家がちゃんと残り、走井が守られていてこその走井餅です。どれだけ感謝しても、し尽せません。本当にありがたいことです」と話しておられました。おふたりのこの言葉からも、時代は激しく変化しても、淡々と日々の仕事を実直に続けていくことの大切さを教えてもらった気がしました。お餅の味、お客様がほっとできる心遣いは、そこから生まれているのだと思います。子どもの頃のうれしかったこと、それぞれの人の楽しい思い出につながる大切な場所が、今も同じように迎えてくれる。それがやわた走井餅老舗です。

 

やわた走井餅老舗
八幡市八幡高坊19
営業時間  8:00~18:00
定休日 毎週月曜日

昭和初期 モダンな京都の住宅

神社仏閣や京町家は、京都の景観を形成する重要な要素ですが、町並みに調和する明治以降の近代建築もまた、見るべきものが多く残っています。
なかでも個人の住宅は、建築主の思いや、人となりを色濃く反映し、住んでいた人たちの息遣いが伝わってくるようです。日本の優れたモダニズム建築であり、国の登録有形文化財、山科区の「栗原邸」が4日間限定で一般公開され見学してきました。

京都の近代遺産、疏水と鉄筋コンクリート住宅


地下鉄御陵駅で下車し、静かな宅街を北の山側へ山科疎水の手前まで10分ほど来ると、心なしか空気がひんやり感じられます。「登録有形文化財」のプレートをはめ込んだ堂々とした門を入ると、鬱蒼とした木々に囲まれて斬新なデザインの洋館が建っています。

この建物は、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)校長を務め、染色家でもあった鶴巻鶴一氏の居宅として建てられました。そして12年後に、日本で最初の広告業をたちあげた、栗原 伸氏に譲渡され、以降、ご子息が住まわれていました。設計は、同じ工芸学校の教授であり建築家の、本野精吾氏があたりました。本野精吾氏は、現・工芸繊維大学の3号館、現・京都考古資料館も設計しています。

玄関から奥へ続く廊下は木をモザイクのように組み合わせて

栗原邸は、当時の最先端の特殊なコンクリートブロックをむき出しにして建てられていますが、威圧感や重苦しさは感じません。そして、中へ入ると、木の安らぎ、あたたかみのある造りとなっています。風格のあるダイニングルームの壁に張った杉板は、節がそのまま見えていますが、それが木の素朴なおもしろさや個性を生かしているように感じました。

照明器具や本や食器も当時のまま残っている

テーブルや椅子、ソファーなどの家具や調度品も本野氏がデザインしたものです。大切に使われ、当時のまま、一つ一つが役割が決まっているかのように、定位置に見事におさまっています。

ダイニングルームと客間の間に大きな引き戸があり、ダイニングルームは桜とつつじ、客間は唐獅子が、鶴一氏自身のろうけつ染で描かれています。
疎水から続く裏山の木々の緑や自然と一体となっているところであり、それが作為的ではなく、あるがままの調和を見せているところに栗原邸の魅力を感じます。施主の鶴巻氏と建築家の本野氏が、理想の住まいを、伝統と進取の精神に富んだ京都で一緒に取り組んだことで実現した家なのだと言えるのではないかと思いました。
年月を経て、良い風合いになったテーブルに、外の木々が映りこみ、青もみじさながらの趣でした。めぐり来る季節を身近に感じる暮らしを大切にされていたのではないでしょうか。
当日はお子さん連れの家族も訪れていて、明るい空気が流れ、邸内が生き生きと感じられました。

時を同じくして建てられた住宅


大山崎町にある「聴竹居」は、建築家の藤井厚二氏が1928年(昭和3年)に建てた自宅です。「真に日本の気候風土にあった、日本人の身体に適した住宅」を追求し、5軒めとなった実験住宅です。地元のみなさんを中心にしたボランティア組織が維持管理にあたり、一般公開と見学者のガイドも務めています。風の流れや太陽の光など自然の力を生かした、快適で、しかも日本の感性が光る住宅は、今も多くの人に理想の住まいとして様々なことを伝えています。
同じ乙訓地域の向日市には、英米文学者であり、和紙の研究家でもある寿岳文章、しづ夫妻、長女で国語学者の章子氏、長男の天文学者潤氏が暮らした家「向日庵」(こうじつあん)があります。設計は聴竹居の藤井厚二門下の澤島英太郎氏が担当しました。風の通りや換気など藤井氏の影響を色濃く受けています。
向日庵には、民芸運動の中心人物の柳宗悦やバーナードリーチ、学者の河上肇や「広辞苑」の生みの親、新村出氏など多くの人々が訪れ、文化サロンの役割を果たしていました。施工した熊倉工務店当主の熊倉吉太郎氏は、藤井厚二氏とも交流があり、民芸運動にも共鳴した棟梁で、寿岳家の意を汲み、理解し、文化的で自由な雰囲気にあふれる住まいが誕生しました。
昨年、「NPO法人向日庵」が設立され、保存へ向けた取り組みが進んでいます。

栗原邸“継承のための”一般公開

どの窓も大きくとってあり、木洩れ日と緑が心を癒してくれる

強固なコンクリートブロッで建てられた栗原邸も、老朽化に伴う痛みが出てきました。そこで2011年度から、京都工芸繊維大学の教育プログラムにより、建築家や学生が、壁の漆喰や天井の雨漏りなどの修復を行ってきました。今、所有者である栗原さんは、傷んだ部屋の修繕費や清掃費、固定資産税などが大きな負担となっています。80歳を超える高齢であることも考えて、新たな所有者を募ることにされました。
まず、建物の歴史的価値や文化的価値を広く知ってもらいたいと、栗原さんのご協力をいただき、公開の運びとなったとのことです。
当日、ボランティアスタッフとして参加していた、修復に従事した工繊大の院生さんが「これほどの 価値のある建物なのに、古い建物だからと壊されてマンションになったりしないように、なんとかこの建物を生かしてくれるオーナーさんが現れてほしいです。壊したら二度と元に戻らないのですから」と訴えていました。

疏水の支流での魚やザリガニ取りに夢中!自然の遊び場はおもしろい

東京遷都ですっかり寂れ、元気をなくした京都復活の原動力となった疏水はすぐ近くを流れています。疏水と栗原邸。先人が築き、これまで守ってきてくれたすばらしい遺産を、専門家、市民、心あるあらゆる人の力で、今のかたちで引き継がれるよう願わずにはいられません。
建都も、家族が幸せになれる理想の住まいのあり方をお客様と一緒に考え、工務店のみなさんとのネットワークをより強くして、京都の景観と住まいの歴史的・文化的価値を生かしてまいります。

歴史の舞台 高瀬川沿いの喫茶店

京都の繁華街、河原町四条あたりは、買い物や観光の人でいつも溢れかえっています。すぐ近くなのに、その喧噪から離れてほっとひと息つける喫茶店があります。

そこは、周辺の昭和ひと桁創業の老舗や抹茶など京都モノの店、新しいモダンなタイプとも違う、けれども「まぎれもなく京都」を感じる喫茶店です。場所は、木屋町通り四条を下がり、高瀬川にかかる小さな橋のたもとです。

“madame”という呼び方が似合うオーナー

高瀬川の景観に調和する緑がシンボルカラー

高瀬川沿いの桜が緑の葉を繁らせ、鴨川踊りの朱色のぼんぼりを引き立てています。
Café yoshikoは、カウンター席のみ、10人に満たないほどの席数の、女性オーナーが一人で切り盛りしているお店です。細身の体に、ピンとアイロンのかかった真っ白なシャツを着て、ウエーブのかかった髪を黒いリボンで結んでいるのが定番スタイルです。いつも飾ってあるバラの花とも雰囲気が合っています。「おかあさん、ママ、おねえさんはどうもちがう。マダムが一番ふさわしい」と、密かに思っています。

大きな窓の高瀬川に面したカウンターは、四季の移ろいわかります。春は川岸の桜が満開の枝を差し伸べ、鴨のつがいが毎年姿を見せます。夏は川の流れが涼を運んでくれるようです。秋は桜紅葉、冬はみるみるうちに時雨れてくる薄墨色の景色。また、それよりもっと細やかな季節の変化も感じることができます。日差しの強弱や、川面の色、葉の緑の濃さ。そして、そんな小さなことに気づくと何となく、気持ちの固まりがほどけていく気がします。

常連さんのコーヒーチケットが並ぶ

徒歩圏内のおなじみのお客さんとマダムとのやりとり、お客さん同士の掛け合いのような話しも癒し効果に感じられます。買い物の成果、おいしい店の情報交換、みせ出しした舞妓さんのこと等々、ネットや週刊誌より「もっと京都」な内容です。常連のお客さんが多くても、他の人がなじみにくい雰囲気ではなく、マダムは誰に対しても丁寧で、みんな気兼ねなく、好きなように過ごすことができるのです。
特定の人を特別扱いしたり、またその反対に、なじみでないお客さんに、どこかぞんざいな応対をするなどは決してしない。恥ずかしいこと、みっともないことは絶対しない。そういうきりっとした姿勢に「京都人気質」を感じます。

たまごサンド マダム・ヨシコ風

注文を受けて焼く卵焼き入りのたまごサンド

メニューは飲み物と、トーストと2種類のサンドイッチとシンプルです。お腹が空いている時は、たまごサンドをいただきます。こちらのたまごサンドは、ゆで卵ではなく、注文のつど焼くたまご焼きに、きゅうりとレタスがはさんであります。トーストにした耳が美味しいので切り落とさず、そのままにしてもらいます。きつね色の香ばしいパンと3種類の具の切り口も美しく、見ただけで美味しさが伝わってきます。高級な具材を使った特別なサンドイッチもありますが、マヨネーズを手や口の周りに付けたりしながら、大きく口を開けて気取らずに食べる、親しみのあるサンドイッチがやっぱりいいなと思います。カフェ ヨシコさんのサンドイッチは、ちゃんと手づくから作ったという存在感があります。

コーヒーとジャズと歴史の交差点


角倉了以とその子素庵が開削した高瀬川は、大正時代まで約300年にわたり、高瀬舟による運搬を担いました。物流の拠点となったことから長州藩や土佐藩など藩邸を設け、その石標が建っています。高瀬川沿い、木屋町通りの三条から四条にかけては、幕末の激動期を駆け抜けた、多くの若者たちの歴史が刻まれています。近代日本の礎となった人物としてまず名前があがる坂本龍馬が投宿していた材木商の「酢屋」は、今も商家の構えと稼業を守っています。龍馬や吉田松陰らに影響を与えた開国論者の信州松代藩の佐久間象山の遭難の碑、池田屋跡などの歴史の足跡を巡る人達も見受けられます。

古いアメリカンポップスやジャズもよく弾くそう

カフェ ヨシコさんへ向かう時、木屋町四条では、たいてい若いミュージシャンがストリートでのパフォーマンスを展開しています。ギター、サックス、パーカッション、津軽三味線。楽器のケースには、100円コイン、千円札が入り混じって入っています。いつもはクラブで演奏していて休みの日に、ここへ来ているというギタリストの彼は、ストリートは楽しいと話していました。チップを入れてくれるのはほとんど外国人ですね。日本人のお客さんはきっと恥ずかしいのだと思います」と、にっこりして弾き始めた「オーバーザレインボー」を聞き、楽器ケースにありがとうの気持ちを入れました。ここに立つミュージシャンのなかから、メジャーデビューして夢をかなえる人が生まれるかもしれません。
京都は教科書にある歴史がすぐ近くにあり、私たちの日常と交錯しているのだと、改めて感じます。

京野菜農家がつくる レモン

シェフや料理人からの求めに応じて、種類もサイズも様々な野菜を栽培する「オーダーメードの野菜作り」を確立した、石割照久さんを、昨年8月の京のさんぽ道でご紹介しました。フランスでの京野菜作りなど、言葉や業界の垣根を軽々越えて、いつも新しいことに取り組んでいる石割さん。
「今やっている、新しいおもしろいことは何ですか」の問いに、氏子である松尾大社のお祭りに始まり、次々と楽しい話が繰り出してきました。「石割農園便り その2」をお届けします。

「日本第一酒造神」松尾大社の氏子


松尾大社は洛西の地あり、京都で最も古い神社のひとつです。集団でこの地に移り住んだ秦氏は、大陸の新しい文化や技術をもって、一帯を開発し、ことに酒造りは秦氏一族の特技とされ、室町時代以降は「日本第一酒造神」と仰がれるようになりました。今でも毎年11月上の卯の日に、全国の和洋酒、味噌、醤油、酢などの醸造家が参集し、醸造安全を祈願する「上卯祭(じょううさい)」が行われ、醸造が終わる4月中の酉の日は、無事完了したことを感謝する「中酉祭(ちゅうゆうさい)」が行われます。日本各地の銘酒の菰樽が積み上げられた様子は壮観です。
古くから「卯は甘酒」「酉は酒壺」を意味するとされ「酒造りは卯の日に始め、酉の日に完了する習わしがあり、お祭りの日取りはこのことに由来するそうです。現在は日曜日に設定されていますが、神様を御旅所へお迎えする「おいで」とも言われる神幸祭は、旧暦三月中卯の日に、神社へお戻りになる還幸祭「おかえり」は、旧暦四月上の酉の日にとり行われていました。

代々の氏子である石割家でも、十代目当主の照久さんが白装束に身をつつみ、先日の神幸祭に参列しました。子どもの頃、おばあさんが「おいでは卯の日うとうと、酉の日とっとと、おかえりと話してくれたと懐かしそうに語った後「今、お酒と関係するおもしろいことをやっているんです」と続けました。

京都から、日本初のクラフトジン


2016年10月に京都の蒸留所から、ヨーロッパのジンの伝統に、京都をはじめとした和の素材を加えた、日本初のクラフトジンが発売されました。玉露、柚子、生姜、山椒、桧などの風味を楽しむ「飲んだ人が日本や京都を思い浮かべることができる」スーパープレミアムクラフトジンです。旬の時期を見極めての素材の確保、また、乾燥させずに使うため、その保存も難しく、素材の特性に応じて6種類のグループに分類して別々に蒸留するなど、大変手間がかかる作り方をしています。その繊細な味わいは、ジンを好きな人にも、これまで飲んだことのなかった人にも好評だということです。

レモンの花のつぼみ

一段と香り高いと評価された、石割さんが育てた柚子やレモンが「京都が誇る伝統と匠の技、繊細さ、先進的かつ革新的な感覚」が、すべて求められるクオリティのジンの一翼をになっています。
畑に案内されると、レモンは先がほんのり薄紫のつぼみ、柚子はまん丸なかわいいつぼみを付け、ブラッドオレンジは白い花が開き、甘い香りを放っていました。石割さんが自分の畑で研究を続けた有機肥料で育てたみずみずしい実を付ける季節が楽しみです。

次に京都から発信できるものは何か

今年2月、京都の和食文化への多大な貢献に対して、京都・食文推進会議より「京都和食文化賞」を受賞。

京野菜ももとは、日本の各地から都へ献上されたものを、その時代その時代の農家が工夫し研究して、やがて伝統野菜となったものがあります。京都の土地に合った特徴のある野菜です。京都の伝統野菜に指定されている水菜の収穫量1位は茨城県ですが、そうやって京都の野菜が広く作られることは良いことだと石割さんは語ります。
「それよりも万人向けでなかった京野菜も万人向けにしてしまったことのほうが考えないとならないこと。大切なのは特徴のあるものを作って、また京都から発信していくこと」と続けました。そして「どこの地域にも発掘すれば、おもしろいものは必ずあるはず。それを自分達で見つけて発信していけばいいことやと思います。万人向けに流されず、特徴のあるものを作ったほうがおもしろいしね。今、フランスでりんご酢を作っているんやけど、最初はすっぱくて、すっぱくて」と豪快に笑いました。

ブラッドオレンジの花

ブラッドオレンジも、京都では絶対うまくいかないと言われて、「よし、そんなら美味しいオレンジを作ったろ」と栽培を始め、良いものが収穫できるようになりました。次から次へ、やることがいっぱいあって飽きることがなく、楽しくてたまらないそうです。

おみやげに頂いたずっしり重たいキャベツからは元気いっぱい吸い上げた水分がしみ出し、膝が濡れるほどでした。今年の秋には「極秘のフルーツが収穫できると思うので、楽しみにしといて。これで一世風靡したいなあと思って」というわくわくする話ももおまけにもらいました。石割さんの農業の冒険はまだまだ夢の途中です。