進取の気風に富む ギャラリー&カフェ

京都の町は、碁盤の目の通りに生業と深く関係する、低層の町家が並ぶ町並みに特徴があります。一方、大正から昭和初期にかけて建てられた特徴のある個人の住宅は、西洋建築を取り入れながら、京町家の様式を所々に受け継ぎ、みごとに京都らしい文化性と美しさを備えています。
進取の精神と自由な気風がみなぎる、北白川の梅棹忠夫邸をギャラリー&カフェ ロンドクレアントとして再生した、次男のマヤオさんに話を伺いました。

京都大学関係者が北白川の新住民

ドアと格子状の外壁が特徴のロンドクレアントの外観
すぐ近くには国の登録有形文化財となった駒井邸もあります

左京区北白川はかつて、京都市中から離れた田畑が広がり、古くから花の栽培が盛んな里でした。農家の女性が手甲脚絆姿で花を売り歩き「白川女」と呼ばれました。その北白川が住宅地になったのは、大正時代から昭和の初めにかけてでした。近くに京都大学があり、その関係者が多く住み、学生の下宿もできています。

現在の中庭にて梅棹マヤオさんと奥様の美衣さん

梅棹家が北白川の家に住み始めたのは昭和24年。家はその時点ですでに修繕が必要な個所がありましたが、梅棹氏は自ら大具道具を揃えて手を入れ、学者仲間を驚かせたそうです。
家は真ん中の枯山水の庭を囲んで、回廊を巡らせたとても独創的な造りになっています。中庭の飛石や手水鉢は、すべて西陣の生家から運んで来たもので、梅棹氏は、この石の上を歩きながら考えをまとめていたそうです。この庭を一緒に造った、京都大学造園学教室の吉村元男氏は「枯山水もかつては、庭の中に入って石組みを鑑賞していた。その意味では、枯山水を元の姿で楽しんだ『庭の改革者』です」と語ったそうです。

日本における文化人類学のパイオニア、梅棹忠夫氏

梅棹氏は、国立民族学博物館の初代館長に就任し、19年間の長い間館長を務めた民族学の大家であると同時に、探検家としても知られています。自宅には毎日のように、後輩の学者や学生、ジャーナリスト、作家といった多彩な人々が集まり、いつしか「梅棹サロン」と呼ばれるようになりました。型にはまらず、上下関係のない自由な談論風発の場となり、多くの研究者が育っていきました。
その発展形として「京都大学人類学研究会」が誕生し、会場が近衛通にあったことから「近衛ロンド」と呼ばれました。ロンドとはエスペラント語で「集まり、小集団」を意味します。梅棹氏はエスぺランチストでした。
エスペラント語は、19世紀末に、ロシア領ポーランドのユダヤ人、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語です。彼の生きた時代も、世界の各地で戦争が絶えることがなく、国境を超えた共通のことばで話し合い、理解し合うことが不可欠だと考えたのでした。マヤオさんもエスペラント語の精神に魅かれ続けたきたと言います。
マヤオさんは小さな頃から絵を描くことが好きで、高校の陶芸科からカナダの芸術大学を卒業しました。「外国へ行ってみたいと思うようになったのも、子どもの頃、家に集まるいろいろな人の話を聞いたり、なかに留学生もいて、そんな環境があったからだと思います」と語ります。「カナダへの留学や芸術大学へ進むことも反対されことはなく、自由に自分自身がやりたいことをやっていくように導いてくれたのかなと思います」と続けました。北白川の家は、梅棹サロンに集った人々やマヤオさんの源流です。

美山での35年間と北白川の家


マヤオさんは昭和56年、作陶と住まいとなる家を探している時に、築120年の大きなかやぶきの農家と出会いました。その家は、雪の量や日当たりなどの立地条件はどうでも良いと思えてくる圧倒的な存在感があり、あらがえない魅力を放っていました。
美山の大自然のなかで二人の息子さんを育て、美山の季節料理「ゆるり」を経営しました。若手の腕のいいかやぶき職人との出会いや、夏祭り、30回に及ぶコンサートの開催はなど、美山でも様々な楽しいことをつくりあげてきました。

古民家レストラン・厨房ゆるり

現在、ゆるりはマヤオさんの息子さんご夫婦が経営されています。息子さんは、子どもの頃同じように美山で遊びまわり、現在は猟師と料理人になっている二人の友人と、増えすぎたシカとイノシシを美味しく食べて、荒れてしまった里山を取りもどそうと、有限責任事業組合「一網打尽」を立ち上げました。捕獲、解体、精肉、販売までを行い、新鮮でおいしいジビエを提供しています。誰もやっていないことでも、やりたければやってみるという梅棹家の精神が、息子さんにも受け継がれています。


マヤオさんは、北白川の家を約2年かけて改修し、2015年8月にギャラリー&カフェ「ロンドクレアント」をオープンしました。名前はエスぺラント語からの造語です。ロンドは先述したように集まり、サークル。クレアントは創造者、つくり手、クリエーターといった意味です。

美山から持ってきた石臼が置かれた中庭と回廊

音楽、工芸、写真、小さな報告会など様々な人が集まり、交歓し発信していく。そんな空間となってほしいというマヤオさんの願いがこめられています。築80年以上経っている建物は、耐震化、断熱化をしっかり行うこと、回廊や中庭など基本は残すことにしました。マヤオさんの友人とその息子さん、忠夫氏とともに家つくりにかかわった工務店の次代をはじめ、デザイナー、設計者造形作家などたくさんの人が参画しました。この改修自体がまさに、梅棹サロンだったと言えます。
格子が建物の前面を覆い、シンプルで北白川の景観になじみ大きな看板を立てなくても「ちょっとのぞいてみたい」と思わせる雰囲気をかもしだしています。伝統的な京町家とモダニズムの住宅のそれぞれの良さをあわせもった新たな空間が生まれました。

人と人がつながり、育てていく


マヤオさんは、「若い人が外に向かってアートを発信しなくなっている」と感じていました。ギャラリーはもっと自由でいい。質の高い音楽を楽しみ、知らない人同士でも音楽談義ができる。通りがかりの人や近所の人が、ふらりと寄って、お茶を飲んだり本を読んだり。ごろんとして、ゆっくり過ごしてもいい。そんな空間にしたいと考えて、ロンドクレアントをオープンしました。より早く、より刺激の強いものへと向かっていくこの頃。もっとゆっくり、季節の移り変わりも感じられるような、ゆとりが必要だとも感じています。
写真展、ギャラリートーク、多彩な作品展、おとななジャズ、オーストラリアの先住民の木管楽器など民族楽器の音色やリズムが魅力的なデュオ、堅苦しいイメージを払拭したクラシックのトリオ、また未就学児も聞ける歌のコンサートなど「ジャンルは問わず質は高く」のスタンスで、すでにたくさんの企画展やコンサートが開かれ、終了後は、マヤオさんと奥様の美衣さん手づくりのおいしいお料理とワインやビールを楽しみながら、出演者を囲んで、とてもフレンドリーな雰囲気のパーティもあります。

マヤオさんは今「点が面になって来た」と実感しています。ここへ足を運んでくれた人たちが、さらにこの輪を広げてくれることでしょう。
家も住む人と一緒に歳を重ねていきます。家族やそこを訪れる人たちが良い関係を結べる家であるように、建都は今後も住まいのあり方を追求してまいります。

 

rondokreanto
京都市左京区北白川伊織町40
営業時間 11:00~19:00
定休日 月曜日

西陣の京町家 古武邸のお正月迎え

京町家は、家を建てた主の思い、建築に携わった多くの職人さんたちの心意気と技術と、暮らしの文化を伝え、継承しています。
一年のうちで一番のハレの行事、お正月迎え。「西陣の京町家 古武邸の夏のしつらえ」でご紹介した、古武さんを再びお訪ねしました。

注文しなくても毎年届くきまりのもの


冬らしい冷え込みとなった歳末。店頭にはお節材料やお飾りや丸餅、鏡餅が並んでいました。買い物をする人で混み合い、目的のものを買うにもひと苦労。
古武さんのお家では、結び柳やお花、注連縄、根付きの松など、お正月のしつらえに必要なものはすべて、40年来のお付き合いの「等持院の花屋のおばさん」から届きます。あらためて注文することはなく、毎年決まって29日に届きます。毎月1度、仏さんのお花を届けに来る「等持院のおばさん」に、お正月の一切合切も任せているのです。

古武さんの町内は、江戸時代の古地図でそのまま歩ける、昔からの上京のまちです。古武さんのお家では、お正月のお雑煮に欠かせない頭芋(かしらいも)や、お飾りなどは上賀茂の農家から、振り売りで来ていました。「上賀茂のおばさん」は何人もいて、それぞれ得意先が決まっていて、代替わりしても娘さんやお嫁さんに引き継がれている例もあるそうです。
古武さんは「以前は、北野の天神さんの終い天神や、下の森商店街は、お正月用に必要なものを買いに来た人でごった返していた。今は観光のための市のようになってるし、下の森も扱う商品が変わったしね」と話されました。ことに西陣は織関連の仕事が減少したことと関連し、生活様式や家族構成が大きく変化したことが影響していると見ています。

今年は古武さん自身にも、かつてないことがありました。それは先述した「等持院の花屋のおばさん」から、お正月用の決まりのものが届かなかったのです。「どうなってるんやろう。大変や、困った」とあわてましたが「電話番号も名前も知らんしね。連絡のとりようがないんやわ。あそこ代替わりしはったんと違うかとも聞いたんやけど。こんなこと40年間、一度もなかったことやから」と、困惑されていました。
一夜飾りは縁起が悪いのでしませんから、あわてて目ぼしい所を走り回って調達されたそうです。当日になって届かないという事態に、古武さんの驚きと大変さは想像に難くありませんが、40年間、注文することもなく、連絡先や名前を聞くこともなく成立し、間違いがなかったという売買に感嘆しました。


お正月のしつらえは、まず玄関の松飾と注連縄から始めました。京都では、松飾は「根引き松」です。根を付けたままの若松を和紙で向かって右が上になるように巻き、水引を真結びにします。男松と女松の一対とします。
歳神様の目印となります。根付きの松を使うのは「しっかり根がつきますように」という願いを込めてとも、平安時代に貴族が年の初めの子の日に野遊びをして、根のついた松や若草を取ってきたことにちなむとも言われているそうです。

注連縄は何種類かあるようですが、古武さんのお家の注連縄の形は古くから京都にあるもので、裏千家今日庵も同じ形の注連縄だそうです。しかし、今この形のものを売っている所がほとんどなく、まちなかでも見かけなくなったと話されました。「そやから今日、この注連縄を探すの大変やったんや」と続けました。こういうところにも、変化が見てとれます。

掃除に明け暮れるお正月準備


座敷の床の間に、波と旭日に舞う鶴が描かれた色紙が掛けられ、結び柳が生けられました。いつもの年は、結び柳はもっとたっぷりあり、畳につくくらいの長さなのだそうです。
数年前から、掛け軸や花など室内のしつらえは息子さんが担当されていると伺いました。少なくとも次の世代が係わってくれているということは、とても喜ばしいことだと思います。

お茶会の前にはもっと綺麗にされるそうです

道具や掛け軸などのしつらえも大切ですが、実は掃除に一番手間暇かかるとのことでした。たとえば庭をとってみても、落ち葉は全部拾い、山茶花や椿の葉が汚れていたら手で拭き、枯れかけたり見苦しくなった花は摘むなど、細やかな手入れが欠かせず、お正月を前にまだやることがいろいろあるということで、本当にいつも目配りが必要なのだと感じました。

そして一番大切なことは、どこか傷んでいる個所はないかを調べ、早く手を打っておくことです。古武さんは、よほどの大仕事や専門的なことでない限り、材料も工夫して自分で補修しています。「掃除」の意味は、こういったことも含んでいるのです。代々の主はこのようにして、生業の場であり暮らしの場である町家を維持継承してきたことを教えてもらいました。

子どもたちの町家体験「新春子どもお茶会」


一昨年から、京町家古武を会場に、京都市内外の小学校3年生から6年生、40数名が参加して「新春子どもお茶会~百人一首であそぼ~」が開かれています。これは二つのNPO共済の企画で、第4回めが1月5日に行われます。午前午後かく20名の募集はすぐに定員に達する関心の高さです。

古武さんは、室町時代からの上京の歴史と京町家の成り立ちと発展をお手製の町家模型や図表を駆使して、お話しされます。「百人一首、こま、凧。みんなお正月に楽しんでいたことです。こういった和の文化を子どもに達に体験してもらい、町家がどんなものか知ってもらえたら」と期待を込めています。2,3回と続けて、参加した子供たちが興味を示し、初めての体験や発見を楽しんでいると実感しました。

「建具の入れ替えは主人の仕事」と、7月に話しておられましたが、襖に替わった室内を見て「町家を継承していくには、農業と林業が再興されないと無理です。かけ離れたことを言っているようですが、補修の材料がありません。材料がなければ職人も育ちません。町家の維持継承は、分業で成り立っているような、様々な職方も含め、地場の産業が回ってこそ可能になるのです」と語ります。

 

建都も、今あるものを生かし、京都の良さと住みやすさが共存する家づくり、まちづくりに貢献してまいります。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

光と響きの美しい 木造の教会

西大路通、朱の大鳥居の平野神社の向かい側に木造の教会が見えます。「尖った屋根」という先入観を持っていると、気がつかずに通り過ぎてしまうほど、周囲の町並に溶けこんでいます。簡素で凛とした高潔なたたずまいでありながら、開放的で、人々をあたたかく迎えてくれる雰囲気を感じます。
京のさんぽ道「桜が彩る京都の町並み」でも少しご紹介しました、建都が初めて施工した教会建築、西都(せいと)教会です。
建て替えを検討し始めてから、2011年11月の竣工までの道のりや、歴史や伝統の継承について、牧師の田部郁彦(たべふみひこ)さんに話をお聞きしました。

一年かけて丁寧に積み重ねた話し合い


西都教会の前身は明治時代にさかのぼります。当初、東大路五条の大谷廟に隣り合って建ち、当時の朝日新聞、「天声人語」に、その辺りが鳥辺山と呼ばれていたことから「右は天国左は極楽 私やどつちを鳥辺山」という狂歌を添えた記事が掲載されたことがあるそうです。モダンで新しいものと、古くからあるものとの共生という、京都の気風がうかがえる興味深い話です。
しかし、昭和30年代の高度成長期に、1号線の道路拡張のため移転を余儀なくされ、現在地に移りました。開発のため、教会が移転させられるという初めて聞く話に驚きました。時代の波の影響は、どんなところにも来るのですね。
今回の建て替えに際しては、反対意見や、これまでの建物とともに過ごした歳月への思いなども含め、時間をかけ、丁寧に話し合いを重ね、15名の「建築委員会」を起ち上げ、毎月1~2回会議を開き、一年かけて取り組み、総会でみんなの理解と同意を得て、建て替えを決定しました。
最大の課題の建築資金も、それぞれができる範囲と方法で献金し、実務もすべて教会員のみなさんでやり遂げました。田部牧師は「それは信仰のあらわれです。みんなが、他人事ではなく、自らかかわることを大切にしました」と語りました。

京都市まちなかこだわり住宅

考え抜かれた採光で実現した礼拝堂の光のグラデーション

また、設計の魚谷繁礼(うおやしげのり)さんは、建都施工の「京都市まちなかこだわり住宅」の設計も担当した方です。田部牧師から「教会建築に先入観がなく、一緒に考えてもらえる人にお願いしたいと思っています」と、ご相談を受け、魚谷さんをご紹介させていただきました。
田部牧師が書いた平面図を見てもらい、京都の景観と高温多湿の気候を考慮して、木造建築にすること。礼拝堂は人々が礼拝という行為を行って初めて、単なる虚しい空間から本当の礼拝堂になるということ、光のとり方などを理解してもらい、現在の建物が完成しました。

歴史に学び、伝統を継承する大切さ


12月の教会と言えば、私たちは即座にクリスマスと思い、ツリー、プレゼント、イブのご馳走やケーキを連想します。しかし、聖書にはキリストが生まれた日付は記されていないのだそうです。教会では25日に近い日曜日にクリスマス礼拝が行われ、その4週前の日曜日から24日までを「アドベント」(待降節たいこうせつ)と呼び、クリスマスの準備を始めるということです。そして「アドベント・カレンダー」があり、子どもたちは「クリスマスまであと何日」と楽しみにして待ち望むのだそうです。日本の「もういくつ寝ると、お正月」という気持ちに似ていますね。ささやかでも、暮らしに根付いた行事を楽しみに待つ。「待つ」という行為も大切にしたいと思います。
12月25日が当たり前と思っていたクリスマス。ギリシャ正教会など、いわゆる東方正教会はクリスマスを1月7日にするそうです。またクリスマスの装飾はヨーロッパなどでは1月6日まで飾るのが普通とか。

日曜礼拝は、ほっとできる、日常のなかの非日常と田部牧師は表現します。6日間普通の生活を送り、礼拝で御言葉という糧をいただき、また日常の世に出て行く。礼拝はまさに生活の一部であり、人生はそのくり返しと言えます。「キリスト教は歴史を大切にしてきました。今は先の見通しが難しい時ですが、そうした先が見えにくい時こそ、古いものに学ぶことが大切です。クリスマスのことでも、イベント化してしまったクリスマスから少し離れて、本来は何のためにあるのか、という問いを持ってほしいですね」と続けました。
「京都がなぜ、たくさんの新しいものを生み出せたのか。それは、背後に千年の都が築いてきた様々な築積があるからです。古いものの中から、新しいものが生まれます。ビートルズもしかり、新大陸アメリカではなく、歴史あるイギリスで生まれました。」歴史を学び、検証することの大切さが、身にしみこんだ田部牧師の言葉です。

50年先を見据えての木造建築と建都とのご縁


西都教会の設計により、魚谷さんが日本建築家協会関西建築家新人賞を受賞されたことは、西都教会にとっても大変喜ばしいことでした。
建都は、先述した「まちなかこだわり住宅」のように、京町家の再生とともに、住宅のケアリフォームや様々な事業所のお仕事もさせていただいています。

建都が設計監理でかかわらせていただいた修光学園様のワークセンターHalle!

社会福祉法人修光学園様もそのひとつで、長いおつき合いが続いています。(京のさんぽ道「京都府内産木材を活用した洋菓子店」「パン好き京都人に愛されています」)修光学園様での建都の仕事を見て信頼していただき、西都教会にご紹介くださいました。ご紹介くださった教会員の方のご両親は、初めに書きました東山の教会時代からの会員さんとのことです。結びつきの強さがしのばれます。
田部牧師には「納骨堂や旧教会堂の補修などその都度、親身に相談の乗っていただき問題解決に尽力していただきました。建築士の魚谷さんも建都さんのご紹介です。良いご縁ができて、何かと建都さんのお世話になっている教会員の方もいます」とお話しいただきました。

しっかりした木造建築は完成した後、年月を経ることで、その良さが増すという性質があります。そして当然補修も必要になります。木造の建物は、50年後くらい先を見据えて建てる必要があります。そうやって手を入れた木造建築は、私たちがいなくなっても、良さを増しながら長い年月を生き続けることができるのです。
京都の力は、継承されてきた文化や伝統を今の時代も受け継いでいる人が存在し、またそれに呼応する人々が必ずいることです。私たち建都も、いただいたご縁と信頼、社会とのかかわりや人と人のつながりを大切にして、お客様の喜びが社員一人一人の喜びとなるよう、人と建物のあり方を追究してまいります。
これからも、建都をどうぞよろしくお願いいたします。

職人の心を映す 京こまの魅力

師走に入り、日一日と慌ただしさが増してきます。
お正月の迎え方は、以前とはだいぶ変わってきていますが、新年の清々しく華やいだ気分は誰しも感じるのではないでしょうか。「お正月にはたこ揚げて、こまを回してあそびましょう」という、町かどの風景には、なかなかお目にかかれなくなりましたが、伝統を受け継ぐ京都のこまは、今も健在です。
芯に木綿の平たいひもを何重にも巻き付けて完成させる色鮮やかな「京こま」は昔、公家の女性たちが衣装の裂地を竹の芯に巻いて作ったものを始まりとする、やさしい風情のこまで、回り方も優美です。定番の形状から、創意あふれる新作まで、一つ一つと驚きの出会いがあります。手のひらに乗る小さなこまから夢が広がります。

伝統の京こまを、ただ一軒、家業として誠実に作り続ける工房を訪ねました。
御池通り、建都がリノベーションを手がけたマンションのご近所です。史跡「神泉苑」にも近い、暮らしの空気が感じられる地域です。

再び、雀休の看板を掲げる


日本玩具博物館によると、こまは世界各地に分布していますが、日本には東北、関東、関西、九州と、地方色豊かなこまがあり「こまの宝庫」と言われているそうです。
日本各地のこまが木地で作られているのに対し、京こまは心棒に平たいひもを巻くというまったく異なる方法で作られています。そして現在、京こまの作り手は「京こま匠 雀休(じゃくきゅう)」の、中村佳之さんと奥様のかおるさんのお二人だけになっています。
雀休という珍しい屋号は、京こま職人であった佳之さんのお祖母様が付けられた屋号で、庭に舞い集った雀たちを見て「雀たちが羽を休めることができる和みの場所に」という意味が込められています。以降、お父様、佳之さんと受け継がれています。

佳之さんは、子どもの頃からお祖母様とお父様の仕事ぶりを普段から見て育ち、自然と京こまを手にするようになり、中学生の時には、商品になるこまを作れるまでの腕前になりました。しかし、昭和の初めから広がり、手頃な京みやげとして人気のあった京こまも、1980年代(昭和50年代後半)になると、売り上げは減少の一途をたどり、職人さんは廃業、転職をせざるを得ない状況となり、雀休もついに廃業されました。一般企業の会社員となった佳之さんが退職し、一身をかけて、家業であった京こまの職人となり、再び雀休の看板を掲げて出発したのは2002年。廃業されてから実に20年後のことでした。
「以前のように、数少ない種類のこまだけでは通用しない。もっとおもしろいこま、子どもの遊びだけではない、新しいこまや、新商品をつくらなければ」と、一人で大車輪の活躍でした。
そして、かおるさんと結婚されたことにより、一人で手いっぱいだった状況が変わり、新しいこまの構想を話し合い、実際にかたちにして魅力ある商品が生まれていきました。

どの世代も、常日頃楽しめる京こま


店内には、基本の京こまと並んで、ストラップ、ブローチ、かんざし、ピアスなど、気軽に、いつも身に着けられるアイテムもいろいろあります。愉快なのは、創作京こまです。干支、ひな人形、鯉のぼり、祇園祭、金魚、京野菜、乾物など、日本の習わしや季節、京都をテーマにしたシリーズです。「こまはお正月のもの」と思われているので、何とか通年楽しく使ってもらえるものをと、考えたアイテムです。

伝統の手仕事に生活をかける厳しさは、外からはうかがいしれないものがあると思いますが、「京こま 野菜シリーズ」に書かれた「野菜がきらいなお子様も、コマで遊んで野菜に親しもう」という紹介の文章には、そんな重圧を感じさせない、ものづくりが好きな優しいお人柄が表れています。

京こまは、ひもを同じ強さで、きっちり巻いていかなければなりません。また、時間がたつとゆるみが出てくるので、できるだけ早くコーティングします。細い心棒に一からひもを巻き、重心を考えて仕上げるのは大変な手間と根気、技術、そして研究心が必要です。「飾っておきたい」と思う創作こまなど、どんな形のものも、すべてきちんと回るということが本当に驚きです。来年の干支の亥や京野菜の聖護院かぶら、九条ねぎが軽やかに回るのを見れば、まず目を見張り、そして思わず笑いがこぼれてきます。

新商品の開発や既存商品の改良に、お客様の言葉や感想が、とても役立つそうです。「それは、家の奥で作っているだけでは得られないこと。お客様の言葉が励ましにもなります。」と、かおるさんは語ります。すべてが夫婦二人の肩にかかっているので、慢性睡眠不足の忙しさですが、それでも「お客様に、ここにあるものは全部私達が作ったものです、と言えます。ただものを売っているのではなく、だれが、どういう人がつくっているのかが大事」と考えています。雀休のこまは、壊れたらきちんと修理してもらえます。「長く使ってほしいから」その気持ちが使い手にも伝わり、丁寧に作られたものへの愛着を育みます。

応援してくれるご近所さん


かおるさんは大分県の生まれ育ち。京都に知人は一人もおらず、ものづくりの経験もありませんでしたが、佳之さんのかけがえのない相方となっています。「京都のいけず、とよく言われますが、そう言う目にあったことはないですね」と笑い、「近所の方はみなさんよくしてくださっています。がんばれと、応援してもらってると感じます」と続けました。

今、世界的に、伝統的なものづくりが注目される流れが生まれています。縁あって、これまでにロンドン、ニューヨーク、パリへ招かれ、2年生の息子さんも一緒に家族で訪れ、京こまについて語り、実演も行いました。文化や言葉の垣根を越えて、とても喜んでもらえたそうです。地元京都の大学や小学校にも出かけ、京こまについて語り、こま作り体験も実施するなど、こまにかける情熱はますます燃えています。
京都で一軒だけの京こま作り。京都で一軒ということは世界にただ一軒ということです。
息子さんも自然とこまを作り始め、ものづくり大好きなのだそうです。家族三人のこま作りの歴史が、動き始めています。年齢、性別、国籍も超えて、みんなから、ほほえみが生まれる京こまの魅力を、多くの人に知ってほしいと願っています。

 

京こま匠 雀休
京都市中京区神泉苑町1
営業時間 11:30~18:00
定休日 日曜日、月曜日

様々な人とつながり 伝統文化を後世へつなぐ

京都の紅葉が見頃を迎えています。哲学の道の桜や、京都市美術館の欅、堀川通の銀杏など街路樹も目を楽しませてくれます。また、秋は芸術、文化の季節。京都の伝統文化や作品、職人の仕事に多くの人がふれることのできる様々な催しが企画されています。京都に住んでいても、伝統文化とは縁がない、敷居が高いと思っている人も多いのではないでしょうか。
今回は陶芸の企画展示へ足を運びました。伝統を重んじながら革新し、継承されてきた「京焼・清水焼」の世界で、時代を担う30代、40代の人たちの活躍が注目されています。企画運営に携わった大学のプロジェクトの学生たちも含め、若い世代の動きに京都の底力とものづくりの可能性を感じます。

日本画家の理想郷の空間と京焼


大文字山の麓、哲学の道沿いにある「白沙村荘」は、日本画家橋本関雪が大正から昭和初期まで、半生をかけて完成させた邸宅です。10000㎡の敷地に、住まい、3つのアトリエ、茶室、持仏堂などが点在する関雪自ら設計した文人の理想郷であり、庭園7400㎡が国の名勝に指定されています。今回、京都非公開文化財特別公開とあわせて「創立60周年記念 京都伝統陶芸家協会展」が開かれ、一堂に会した京焼を代表する作家の作品を、間近で鑑賞することができました。

色づき始めた木々のあいだを縫って、足元に藪柑子の小さな赤い実を見つけたり、湿り気を帯びた苔の匂いを感じたり、自然を全身で感じながら最初の展示会場の関雪のアトリエだった大画室へ。ここはチャリティー展示即売の会場となっていました。事々しい照明はなく、池に面して大きく取ったガラス戸越しに光が差し込み、作品はそれぞれ自然な調和を見せていました。茶道を嗜んでいなくても、焼き物に造詣が深くなくても、このような出会いがあれば、やきものへの興味がわき、その楽しさや奥深さを感じるようになると思いました。

次の会場は、2014年9月にオープンした新美術館です。これは橋本関雪が晩年抱いていた「展示棟建設計画」をそのまま引き継いで建設されました。1階は100年ぶりに里帰りした関雪の作品、2階は、京都伝統陶芸家協会会員とその後継者で構成する「二凌会」会員の作品の展示です。日本の伝統工芸としての京焼をどのように復興、継承、創造していくかを追求して60年の協会です。高い技術、品位、伝統のなかに新しい息吹を感じる作品の静かな力がみなぎっていました。

テラスへ出ると大文字山が近くに見えます。今回の企画展を見て、京焼も白沙村荘も、先人が成し遂げた仕事、業績を受け継ぎ、現代に生かし、次代へとつなげていくことは同じ営みなのだと感じ、その大きさや重さを思いました。京焼が燦然と輝き、哲学の道沿いに自然と一体となった空間があることが、取りも直さず京都が京都であることの証の一つであると感じました。

京焼のまち五条坂、茶わん坂を訪ねて

今も残る登り窯の煙突

五条坂・茶わん坂ネットワーク主催の「京都やきものWeekわん椀ONE」は今年で第7回を数えます。各工房やギャラリーでの展示会、茶会、体験などが行われました。
五条坂・茶わん坂には京焼・清水焼に携わる陶器店、卸問屋、窯元がたくさんあり、歴史に名を残す陶芸家を排出してきました。やきものを通して地域の文化力を高め、広く国内外に知ってもらうことが街の活性化や繁栄につながると信じて地元の有志が集まり、起ち上げたのがこのネットワークの始まりだそうです。その活動のメインイベントが毎年11月に開催される京都やきものWeekわん椀ONEです。

現存する藤平窯の登り窯としつらえられた生け花

今年も実に多彩な企画がありました。裏面がスタンプラリーになっているマップを手に界隈をめぐり「登り窯ツアー」に参加すべく「藤平(ふじひら)窯」に行きました。
五条坂・茶わん坂界隈には現在、京都市が管理する藤平窯と河井寛次郎記念館に保存されているものを含め6基ほどが残っているそうです。藤平窯は明治42年(1909)に造られた長さ19mの大きな登り窯です。藤平窯のイベントは、京都造形芸術大学の「京焼・清水焼目利きプロジェクト」の学生のみなさんの企画・運営です。先輩たちが10年かけて地域に入り込んで取り組んだ「手仕事職人のまち東山プロジェクト」がひと区切りついたため、その後を受けてプロジェクトの内容を練り直し、京焼・清水焼に特化して新たにスタートさせました。

好きな作家さんの器を選んで抹茶と和菓子を

調査のために職人さんや販売店、窯元をピックアップし、取材依頼をすることから始まり、当日用のパネル製作やガイドの原稿作り、カフェメニュー等々、すべて11名のプロジェクトメンバーで担当したと聞いて、なかなかやるなあと感心しました。

京焼と清水焼の違いは何か。古くは粟田口焼、八坂焼など京都の各地でやきものが作られ、清水参道付近で作られたものを清水焼と言い、これらをまとめて「京焼」と呼ばれました。ところが、清水以外の所ではだんだん生産されなくなったため「清水焼」は残ったということです。現在は、五条・清水界隈、山科、宇治あたりまで含んで「京焼・清水焼」としています。
また、京都はやきものに使う土が産出しなかったため、他の土地から取り寄せた様々な土や釉薬を使ったので、磁器あり土ものあり、絵付けや形状も職人の創造性や技により、個性豊かなやきものが生まれたそうです。さらに、都であったため貴族や寺院の求めに応じて作ったことも関係しています。「京焼・清水焼」とひと口に言っても、本当に多種多様なものがあり、ここが他の産地との大きな違いです。こういうことをプロジェクトのスタッフから聞いて、なるほどと納得し、京都に住んでいても、知らないことがまだまだあると実感しました。

窯場は、素焼きの茶わんや絵付けまでした花瓶、筆や釉薬、松の割木など作陶していた時そのままの状態が残っています。登り窯の火の勢い、色、灼熱のなかでの作業など、当時の職人さんの息使いまで伝わってくるようでした。
窯いっぱいにして本焼きをするため、近所の工場のものも一緒に焼いて共同して仕事をしていたこと、本焼きに入る前はお酒をお供えして無事を祈った。それだけ窯場は神聖な場所だったことなど、取材でしっかり聞き出し、それを参加者にきちんと伝えていました。これからの京焼・清水焼について一生懸命考えている、ひたむきな姿に好感を持ちました。

細川未生流の流派のみなさんにより、登り窯の中やろくろ作業場などに、花が活けられていました。「登り窯のかたわらに」のテーマそのままに、登り窯の新しい舞台となっていました。
受付スタッフから、若い人も来てくれたし、近所の人たちがたくさん来てくれてうれしかった聞き、とても良い交流ができたなのだなと思いました。五条坂・茶わん坂界隈から、伝統を今の暮らしのなかで楽しみ、心を豊かにする動きが確実に起きていると知った登り窯ツアーでした。

個人・家族、地域で守ってきた文化資産

五条にある京焼を扱うお店はモダンな佇まいで年齢、国籍問わず訪れる人が増えています

五条坂・茶わん坂の登り窯や、窯元、卸問屋などの建物、銀閣寺道の橋本関雪記念館白沙村荘。長い年月住み続け、生業の場として使われ、京都の文化を伝える大切な宝です。
時代の変遷のなかで、経済環境や暮らし方が大きく変わるなかで継承されてきたのは、並大抵なことではなかったことでしょう。「保存と開発」は簡単に答えが出せるものではありませんが、そのなかで、五条坂・茶わん坂ネットワークや造形大の目利きプロジェクトのように地道な取り組みが行われています。
今京都市内では至る所でホテルや民泊施設の建設ラッシュです。そこに暮らす人たちの権利と良好な住環境を保障し、次世代へ何を継承し、守っていくのか大事な時期を迎えていると思います。「京都が好きな建都」は、これからも京都の歴史的文化的景観を大切にしながら、住んで暮らせる京都のまちづくりに貢献してまいります。

京都の本屋は自由 新しいおもしろい

まちに必要なもの、あってほしいもの。本屋さんと喫茶店。
以前は暮らしているそれぞれのまちの範囲にあった、近所の人が気軽に立ち寄る個人営業の店が少なくなりました。一方、店主の世界観が広がる今までなかった店も増えています。
田の字型と言われる京都のまちの中心部にある「レティシア書房」はそのさきがけです。建物は建都が建てさせていただきました。開店から7年目に入り、本好きの人達が地元京都はもとより、遠方からもやってくる「おもしろい街の本屋さん」として根付いています。

おもしろい本屋のある街がいい


取材で伺ったのは、日曜日の午後でした。近くにお風呂屋さんもあり、ご近所らしき人達が自転車や徒歩でタオル片手にやって来てきます。界隈は、京都の中心部ですが繁華街からは少し離れていて「暮らしのあるまち」の雰囲気が漂っています。お風呂屋さんに行って本屋に寄り、居酒屋でビールを飲む。そんな日曜の昼下がりなら最高です。

店主の小西徹さんは、大学を卒業して輸入レコード会社で働いた後、20年くらい本の仕事に就いていました。最後の6~7年は、大手書店で責任者としてPOSデータを見たり数字をチェックするなど管理業務で手一杯となり、本が好きなのに本にさわれないもどかしさ、また、取次店が大量に持ち込んだ新刊書を余ったら返すというシステムにも「本屋が本を選べない。これは違うという思いを抱いていました。55歳で退職。自分で本を仕入れ、店主の世界観があらわれた空間で、お客さんと一緒にステップアップできる、そんな「街のおもしろい本屋」をめざしてレティシア書房を開きました。

小西さんは「本屋の延長線上に自分のやりたいことがある」と語ります。扱うのは古本、新刊取り混ぜて並び、独立系の出版社や個人が発行するリトルプレスの種類は全国でトップクラスです。また、紙媒体だけでなく渋い選曲のCDあり、ギャラリーも併設された、店主の思いの密度が高い空間です。様々なジャンルの個展や、地元出版社の特集、ゲストを招いてのギャラリートークなど、いつも新しい何かが行なわれています。
「知識を得ることは楽しいこと。それを他人と共有できるかどうかが大切。敷居のない自由な空間でいろいろな人が交流してほしい」小西さんの思い描く街の本屋は、一つところにとどまらず常に変化しています。
ちなみにレティシアとは、フランス映画「冒険者たち」でアラン・ドロン演じる主役の一人、マヌーが恋するヒロインの名前です。映画好きの小西さんのロマンを感じるネーミングです。映画が取り結ぶ縁については、京のさんぽ道「映画のまち 京都の喫茶店」で、カフェ セバーグ店主野口研二さんとの交流にふれています。

京都の街と、これからの本屋の進行形


レティシア書房の店内は、ちょっとした宝探しのような、今日はどんな出会いがあるのかわくわく感のある空間です。熊本で地震の被害を受けながら、喫茶店と本屋を続ける女性が書いた本。保護猫が常駐し、すべて猫本、収益の一部を保護猫団体へ寄付するという夢のような本屋誕生の本。横浜の夫婦二人で営む出版社の「横濱で呑みたい人の読む肴」シリーズ。また、京都在住の女性が、喫茶店や商店街など京都の気になる対象を一人で取材、撮影、編集までこなす小冊子。

残して置きたいと思う、すてきなデザインのタブロイド判の「離島経済新聞社」や「日本で最も美しい村連合」などの情報紙など、北海道から沖縄までその土地の匂いや、出版社と著者の熱い気持ち、心意気がほとばしり、本が語りかけているようです。
古本の棚は「経年変化」の味わいとでも言える趣きを感じる本が並んでいます。すべての棚、すべての本がぞんざいに扱われることなく、一冊一冊に存在感があります。店内を移動する時、お客さん同士が譲り合うような、お互いに軽く会釈してすれ違う感じになります。狭い道で「どうぞ」「ありがとう、お先に」という場面に似ています。

取材時、ギャラリーでは亀岡市に窯を持って精力的に活動されている陶芸家、高山正道さんの個展期間中でした。ギャリ―の企画・展示は奥様が担当されています。ひそやか雰囲気の青磁や、あたたかみのある肌合いの「使ってみたい」と思う食器が並んでいます。花器には季節の花が入れられ、大野忠司さんの日本画とともに壁面を飾り、秋の野に遊ぶ心持ちになる素敵な企画展です(会期は11月4日まで)
今、各地に小さな規模の、カフェやギャラリーを併設したり雑貨を扱うなど個性的な書店ができていると聞きます。小西さんは「再販制度の循環を断ち切って、読む行為をバックアップする、30代が経営する店が生まれている」と語ります。そして「これは書店の進化したかたちですが、実は本屋の原点に戻ったということです。それにどう新しさを加えていくかです」と続けました。レティシア書房では、定期的に岩手県陸前高田市の図書館へ寄贈することで、本の次のステージをつくっています。

小西さんは、書籍スペースを常設したホテルができたように、どこへ行っても本があるそんな時代の一歩手前まで来ていると実感しています。また「電子書籍対紙の本」という線引きには首を傾げます。小西さん自身、コミックや文字の小さい文庫は、画面を拡大できて、いつでも端末から取り出せるので、電子書籍を利用しているとのこと。「老眼の者にとってほんまに便利」と笑います。

「将来はAIが読み聞かせをするようになるかもしれないし、常に新しいものを取り入れていくことが必要。これでいいと止まったらだめ。本に対する愛情があって、読むことを保障できれば、媒体は何でもいい。紙の本は、たくさんの人が係わって完成したモノとしての存在があり、なくならないと考えています。30代の店主が増え、10年後にはまったく新しい「本屋」という名前では表現しきれない店が生まれているのではないかと、予測しています。そして、1200年の歴史やはんなり感といった京都独自の文化や感性が、若い経営者にも受け継がれている」と続けました。本屋と言う名前ではくくれない、けれど「街の本屋」の原点にしっかりと立っているおもしい本屋のある街。京都はそうであってほしいと願いつつ、その可能性を感じます。

時間がゆったりと流れる落ち着いた空間


町並みにしっくりなじむレティシア書房のたたずまい。少し古い木造校舎のような感じもします。ドアや床、それぞれ主張のある本が並んだ棚。はじめて来た時も懐かしさや親しみを感じる空間です。
小西さんが思う「時間がゆっくり流れる、落ち着いた空間」となる建物。一年かけて話し合いを重ね、積み上げた到達点がレティシア書房です。小西さんは「建物と本が呼吸している」と表現します。ご縁があって、建都に建築のお話をいただき、今も良いおつき合いが続いています。
建都はこれからも住む人、暮らす人のそれぞれの思いがかなう建物をつくってまいります。

 
レティシア書房
京都市中京区高倉通り二条下がる瓦町551
営業時間 12:00〜20:00
定休日 月曜日

暮らし、商う 職住一体の京町家

おだやかな秋の訪れとなり、京都の各地で収穫に感謝するお祭りが行われています。
菅原道真公を祀る北野天満宮の正面を通ることからその名が付いたとされる御前通(おんまえどおり)。先日行われた「ずいき祭」の御神輿の巡行路にもなっています。

時代の流れとともに、この通りの町並みも変わりましたが、生まれ育った家に住み継ぐことで「京町家のある景観」を部分的にもとどめている所もあります。

おだやかに軽やかに京町家と家業を語る


北野天満宮から御前通を南へ10分ほど歩くと、重厚な木造家屋がひときわ目を引きます。
二本の大きな樫の木と、七味の文字とひょうたんの意匠が染められた暖簾とが相まって、町家が並んでいた往時を忍ばせる一角となっています。
「七味六兵衛」は、その名の通り七味唐辛子の専門店です。築130年余りの京町家で、手作業による製造と小売りをされています。

現在は三代目の浅田昌裕さんが、普段に気軽に使える商品の開発など新しい展開も試みながら、お祖母さん、お母さんと伝授された七味唐辛子の香りと風味を守っています。

七味の7種の素材はと言うと「さて、何だっけ」となり、7種類すべてわかる人は少ないのではないでしょうか。地域や店によって多少違いがあるようですが、六兵衛では、鷹の爪、山椒、青のり、ごま、麻の実(おのみ)、しそ、陳皮の7種を使っています。素材の仕入先は当初から変わらず、素材を砕いたり、その日の気温や湿度により調合の割合を調整することもすべて手作業で行われています。
京都の七味は、東京などのピリッと最初に唐辛子の辛味がくるものと違い、唐辛子と山椒の配合に特色のあるやわらかい香りと風味です。最近は関東方面での催事販売も増え、そちらでもお客様から喜ばれているそうです。湯豆腐やきつねうどんに振りかけると、たちまち味が引き締まります。これからの季節には欠かせない常備品です。

住まいであり工房と店舗である京町家は「良好な景観を生み出す建造物」「歴史的な意匠を有し、地域の景観のシンボル的な役割を果たしている建造物」として、京都市から「景観重要建造物」「歴史的意匠建造物」の指定を受けています。
建物をはじめ、おくどさん、井戸、座敷庭を日常的に使いながら保存しています。1年を通じて水温が一定しているので夏は冷たく冬は温い井戸水や、お赤飯を炊いたりお湯を沸かす時に使う、おくどさんは、暮らしてこそわかる知恵や文化の継承です。
住み心地について浅田さんは「いや、冬はとにかく寒いですよ。風流とかそんなんと違いますよ。もし宿泊体験したら、一泊二日が限界でしょう」と笑いながら話されました。暖簾がかかった雰囲気のあるお店についても「入ってもいいのかどうかと思われる方が多いみたいですが、そんなこと全然なくて気軽に入って来てほしいのですけどね」と、至って気さくな方です。七味屋さんで六兵衛いう名はと、いわれを聞くと、親戚の方が「これがええんと違うか」と付けてくれたらしいと、これもまたおおらかな答えでした。

木造家屋は、きちんとした手入れが欠かせません。京町家を庭や井戸、おくどさんも含めて継承していくことは大変なことでしょうし、以前このさんぽ道でも取り上げたように(京町家の断熱リフォームの回)、ことに冬の寒さは並大抵ではありません。それも日常のこととしながら住み続けてもらうことで、世界の人々がイメージする「京都の景観」が保たれているのだということを強く感じました。

慎ましく並んだ京野菜の存在感

京野菜マルシェディスプレーコンテストで優秀賞受賞

七味六兵衛の少し北、御前通に面して、きれいに束ねられた野菜が並んでいます。他府県での京野菜の知名度は高く、時に仰々しさを感じることもありますが、佐伯さんの直売所の野菜には、土と太陽、そして畑の小さな生き物たちとも共生して育てられたおおらかさを感じます。自宅につくられた店先は「お隣のお家」的な親しみやすさで「今日のおかずに使いたい」という買い物にぴったりです。
露地もの、有機栽培にこだわって販売されている野菜は、佐伯さんの畑で作られたものです。すだれに手書きの「旬刊はたけ情報」がかかっています。ほうれん草の種まきなど畑仕事が待っているそうですが「一週間、お祭でほとんど仕事ができなかったので頑張ります」と、最後に小さく書いてあるのがご愛敬です。

玄関にはずいき神輿の千木につけられる藁と稲穂でつくられた梅花のお飾りが

お祭とは、もちろん、北野天満宮のずいき祭です。地元に暮らす人たちは、伝統行事の担い手でもあるのです。
はたけ情報によると、もうすぐ大根が収穫できそうとのこと。みずみずしい野菜が秋の深まりを伝え、季節を感じて暮らす豊かさを教えてくれます。

協同して、住まいと景観、文化の継承を


御前通を歩いてみて、町並みは変化していましたが、人がきちんと住み暮らす息吹を感じました。買い物帰りにご近所さん同士が立ち話をし、路地の奥からは、かすかに織機の音が聞こえてきます。
建都は、工務店さんや職人さんなど専門家のネットワークを生かして、地域のコミュニティーを形成し、住み慣れた家の親しみや京町家の良さを生かしながら、良好な生活の環境をつくるためにいっそう努力してまいります。
自然災害への対応も含め、よりみなさまの身近な住まいのために、お役に立ってまいりますので、どうぞ、どんなことでも建都にご相談ください

 

七味六兵衛
京都市上京区御前通下立売下ル下之町404
営業時間 10:00~18:00
定休日 土曜、日曜、祝日

 

京やさい 佐伯
京都市上京区仁和寺街道下がる
営業時間 9:00~18:00
定休日 日曜、祝日

京都の工房で生まれた ギターの音色

京都は言わずと知れた手仕事のまちです。伝統産業の分野では、その高度な技術をどうのように継承し、生業として成り立たせていくかが常に課題となっています。
そのなかで、町家をアトリエにして様々なジャンルの若い人たちが、新しい感覚のものづくりに取り組んでいます。西陣の繁栄を支えた職人のまちに新しいものづくりが根を下ろしています。

最初から最後まで一人で仕上げるギター


かつて平安京の朱雀大路であった千本通りの西側には、お寺がたくさんあります。
それぞれに由緒のあるお寺ですが、そのなかの華光寺という秀吉ゆかりのお寺が、池波正太郎の鬼平犯科帳に出て来ます。華光寺に、平蔵の父親のお墓があり、平蔵がお墓参りのために京へのぼるのです。池波ファンにとっては、ぜひお参りしたい聖地です。
この界隈は、近所の人が「雨で、孫の幼稚園の運動会が延期になってるんやけど」などと、立ち話をしている、ほっこりする光景が見られる界隈です。

引き戸に小さくて素敵なネームプレートが付いています

「確か近くにギターの工房があったはず」と思いながら歩いていると、ありました。
ギター工房「daily tone guitars」(デイリートン ギターズ)です。
ガラス戸越しに天井から提げられたギターや琵琶に、木を削るような機械や板もあり、何やら木工所のような趣です。一生懸命作業をされているのに、申し訳ないなと思いながらも、若い店主さんに話を聞きました。
専門学校で基本的なことを勉強してから後、ずっと一人で製作と修理、補修を手掛け18年たつそうです。最初から最後まで、外注は一切なしで、すべて一人で、手作業で仕上げます。

ギターには主に、カエデ、マホガニー、ローズウッド、ボニー(黒檀)などの木材が使われますが、しっかり乾燥できている外国産は、日本でも狂いが生じないそうです。
ボディーの表・裏、側面、ネック・銘板など、部分によって適した木材を選びます。木の種類や個体差によって、音色や色合いも変わってくるので、どんな音色をイメージしているのか、楽器全体の雰囲気なども含めて依頼主と相談しながら細部を詰め、設計図を作ります。
音色という目に見えない、はかることのできないものを想像しながらギターという立体に仕上げていくのです。


依頼主の希望によって、螺鈿や彫刻を施すこともあります。その作業も外注には出しません。
感覚・感性といった数値化できない部分と技術を融合させる仕事は、さぞ骨の折れることだろうと思うのですが、ご本人は至って楽しそうで、肩の力が抜けています。「今までにないものを作る、ゼロから作ることがとても楽しい」そうです。

オーダーメードだけでなく、修理や補正も引き受けています。ネックが完全に折れてしまったギターや、他では断られた琵琶も再生させる名医のような職人さんです。
自身もギターが好きで、高校1年の時の文化祭で、伝説のパンク ロックバンドと称される「ラフィン・ノーズ」の曲を引っ提げて演奏したそうですので、かなりロックな少年だったのではないでしょうか。今もライブハウスから声がかかると忙しい仕事の合間を縫ってプレイヤーとしての活動もされています。

工房を訪れる人はみんな口コミで、年代層も幅広く、ジャンルもいろいろです。何よりも「音楽が好き」を共通項にして、自分の楽器にさらに愛着が深まっていくのだと思います。移転先を探していた時、たまたまここが見つかったそうですが、しっくりなじんでいる雰囲気です。世界に一台だけのギターという夢がここでかなえられます。

建都の考える家づくり


デイリートーン ギターズの工房の近くに、建都が開発した手法で建てた、三番町の家があります。こちらもギター作りと同じく木材にこだわり、木の良さを引き出した家です。
京都の地域材を使い、低コストで木の良さを生かした、持続可能なストック型の社会に見合う家づくり、そして、地元工務店、不動産業、設計事務所が連携した「京山々木の家づくりの会」取り組みの実例でもあります。
地域で暮らすことを大切に、コミュニティーの形成と家づくりをトータルにとらえ、今喫緊の課題となっている「災害時の対応」についても、取り組んでまいります。掲げた「京都が好きな建都だから」の思いを具体化し、地域に貢献してまいります。

 

DAILY TONE GUITARS
京都市上京区上立売通千本東入姥ヶ西町609-2
営業時間  11:00~20:00

しまつでぜいたく 京都の昆布

夏は、ものを炊く気になれなかったけれど、秋の気配を感じると、ちょっとは炊く気になると「おばんざい」の名を広めた随筆家の大村しげさんは語っていました。
大豆やひじき、おから、それに季節の野菜。身近にある材料を使って、安く、手早く、おいしく作る普段のおかずが「しまつ(節約、倹約)だけれど味はぜいたく」な、おばんざいです。そこには、決して出しゃばらず、全体をおだやかにまとめる昆布の存在があります。

昆布が庶民の手に届くまで


昆布は、江戸時代に北海道の松前から北前船を使って、大阪へと運ばれたことはよく知られています。上方からさらに、九州、沖縄まで運ばれ、日本で広く消費されるようになりました。昆布の消費量の多い県は、北前船の寄港地があった日本海沿岸の岩手、青森、富山、山形と続いています。
日本の各地へもたらされた昆布は、それぞれの種類を巧みに使い分け、地域の特色ある食文化が育まれました。代表的なのが「大阪の真昆布」と「京都の利尻」です。

大阪は、コクがありながら、すっきりした上品な甘味を持つ「真昆布」を使い、酢昆布やおぼろ昆布などの細工昆布や佃煮、うどん出汁に盛んに使われるようになったということです。
一方京都では、色の濁らない、風味のよい澄んだ出汁がとれる利尻昆布を選んだのは、精進料理、懐石、湯豆腐など、あるかなきかの繊細な料理であることと関係していると考えられます。
そして、出汁をとった後の昆布で塩昆布を炊くことは、素材すべてを使い切る、京都の始末のこころにかなっています。
昆布が取れる北海道と遠く離れた沖縄で、消費量が多いことにも注目です。豚の三枚肉とこんにゃくやニンジンを一緒に炒めたクーブイリチーに代表されるように、栄養バランスの良い定番料理となりました。高温多湿の沖縄では、冷蔵方法もない時代に保存のきく昆布は、重宝されたことでしょう。

また、「喜ぶ」にかけて、結婚式や上棟式などおめでたい席や、神様への供物としても古来から大切にされてきました。
日本で昆布を食べ始めた歴史は相当古く、縄文時代までさかのぼるそうです。昆布巻きや塩昆布を食べる時、縄文時代の人たちも、食べていたのかと思うと、ロマンを感じます。

天神さんのお膝元の昆布屋さん


北野天満宮の近くにある東西に伸びる商店街は、正式には「北の商店街振興組合」という名称ですが「下の森」という通称で呼ばれています。もとは天神さんの森であった所からこの名が付いたようです。
西陣の産業で栄えた地域であり、日本初のチンチン電車の北野線が通っていました。目指す昆布屋さんは、創業50余年の「きたの昆布」です。

店には「天然稚内一等」「出汁が良く出る羅臼の耳」「昆布巻きに」など、商品の特徴がひと目でわかるぴったりの手書きの札が付いています。「神様用」と大書された札は、圧倒的な存在感がありました。角切り昆布も何種類もあり、すぐに塩昆布が炊けるようになっています。
年中、切らさずお家で塩昆布を炊く人も、だんだん少なくなってきてはいるけれど、遠くからこのお店に買いに来る方もいるそうです。今、昆布を専門に扱うお店は本当に少なくなり、お客さんから「続けてや」と言われるそうです。

煮干しや干ししいたけ、削り鰹、あらめにひじきなど乾物もあります。うま味と栄養が凝縮された乾物を使った料理は、ものや時間、どんどん入ってくる情報に振り回されない、実のある生活へ導いてくれる気がします。

京都では、何日、あるいは何の日には、何を食べるというきまりがあり、しばらく前までは、まだこのきまりは守っているお家もあったようです。
たとえば朔日は質素倹約して、今月も「しぶう、こぶう」気張りましょうと、いう意味を込めた刻んだ昆布と身欠きにしんを、ことこと煮た「にしんこぶ」をいただきます。
京都では、ことに食に関わる仕事をされる方は男性でも、昆布を「おこぶ」と言います。食材への慈しみを感じる呼び方です。
日本昆布協会では、11月15日、七五三の日を「昆布の日」と決めています。昆布を食べて元気に育ってほしい、また昆布を食べる習慣をつけてほしいという願いを込めて昆布の日としたそうです。
11月15日は、昆布と鰹で出汁をとってみる。少しだけでも、ていねいに暮らす時間が流れるに違いありません。

氏神様のように親しみのある天満宮


「きたの昆布」から少し足を伸ばし訪れた、菅原道真公を祀る北野天満宮は、平安中期847年創建とされ、全国におよそ1200ある天満宮の総本社です。
毎日多くの人が参拝に訪れ、みんな親しく「天神さん」と呼んでいます

里芋の茎、ずいきを干してから加工します

境内には「ずいき祭」の大きな旗やポスターがありました。10月1日~4日まで行われる、五穀豊穣を感謝して、収穫したての野菜や果物を神前にお供えしたことが始まりです。
ずいきで屋根を葺き、稲わらや栗や柿の実、野菜、昆布やかんぴょうなど約30種類を使ってつくり、飾った御神輿が練り歩く、大変珍しいお祭りであり、それは見事です。
今年の実りを神様に感謝する秋祭、私達に作物を育てる大変さや収穫の喜びを思う気持ち、食そのものへの感謝を持つきっかけを与えてくれます。


一の鳥居をくぐってすぐ右手には「影向松」(ようごうのまつ)があります。この松は、創建当時からあるとされ、立冬から立春前日までに初雪が降ると、天神様が降りて来られ、雪を愛で、和歌を詠まれたと伝えられている、と神職の方に教えてもらいました。
今も、初雪が枝に降り積もった日に、硯、筆、墨をお供えして「初雪祭」の神事が執り行われるそうです。松の緑と白雪、厳かな神事。あとひと月半で暦は立冬です。この優雅な神事を一度拝見したいものです。
その期待を持って、底冷えこそ京都にふさわしいと、煮炊きものでもしながらゆっくり冬を待つことにしましょう。

秋の始まりに 日本酒が合う

暑さは続いても、日差しは透明になり、時折り心地よい風が吹いてきます。
夏の終わりから初秋にかけて、日本酒の様々な味わい方を楽しめます。原酒をオンザロックやソーダ割できりっと。寒造りのお酒をゆっくり熟成させた、まろやかで軽快な、初秋のひやおろしは、冷酒や冷や(常温)で等々。
「原酒と生酒は違うの?」「ひやおろしって何?」わからないことはいろいろありますが、知りたければお店で聞いて教えてもらうのが一番です。うれしいことに、通でなくても気軽に何でも聞けるお店があります。夏の名残りををいとおしみ、秋の走りを喜ぶかたわらに、今年は日本酒が加わります。

洛中唯一の蔵の清々しく溌剌とした空気


建都の新築分譲マンション、フェミネンス二条城北の近くに、伝統ある酒蔵の建つ、ふと立ち止まりたくなる一画があります。ほのかにお酒の香りも漂ってきます。
二条城の北側は、豊臣秀吉が造った聚楽第があったところです。昔から、千利休も茶の湯に使ったとされる、良い水が湧き出ていました。今もその水脈が枯れることはありません。
明治26年創業の佐々木酒造は、当時131軒もあったなかで残った「洛中唯一」の酒蔵です。歴史的な名を冠した「聚楽第」や作家川端康成が「この酒の風味こそ京の味」と絶賛し、自著の名を揮ごうした「古都」をはじめ「洛中伝承」の製法を受け継いだ酒造りを続けています。

夏の名残に冷ややロックで味わいたい、純米吟醸原酒(左)と、蔵出し原酒

また、伝統の清酒の製法である麹糖化技術を生かした、天然由来・健康志向に応える米麹飲料を開発するなど、進取の精神をも併せ持った企業としても注目されています。
出荷やお客さんの応対など、お店では、若いスタッフのみなさんがきびきびと立ち働き、重厚な蔵のなかに、新しい息吹が満ちていました。
ごくごく初歩的な質問に対して、丁寧に説明してくれました。もうすぐ終わってしまうので、ぜひ味わってみてと、初夏に桶の封を切り、火をいれずに瓶詰めした蔵出し原酒と、低温貯蔵した純米吟醸原酒をいただきました。原酒は、搾ったお酒に水を加えていないため、アルコール度数は高くなるので、飲み方はオンザロックや冷やで。

佐々木社長のお話では、今年は気温が高い日が続いたので、お酒の熟成が早いそうです。お米つくりも含め、その年、その季節の気象条件にも左右され、それぞれの工程で細やかな気配りをして、やっと良いお酒になるのですね。
夏を越したお酒が熟成して、秋に旨みがのってくることを「秋上がり」と言います。
おいしさとともに、無事に良いお酒ができたことを喜ぶ晴れ晴れとした心も込められているように感じます。

佐々木酒造の蔵と造り酒屋とひと目でわかる煙突

佐々木社長の兄で俳優の佐々木蔵之介さんという大看板と並んで、佐々木酒造イメージキャラクターの、ニャンコのあーちゃん、ちーちゃん、ちびこちゃんも大活躍しています。みんなで盛り立てる佐々木酒造の風は、確実に日本酒の裾野を広げています。
創業当時のレンガ造りの煙突は、今は使われていませんが、大切に残されています。洛中伝承の精神でお酒造りを続ける気概と、誇りの象徴のように見えてきます。

垣根なんて最初からない、角打ちです

開店の時、佐々木酒造「古都」のこも樽で鏡開きをし、佐々木社長もお祝いに来られたそうです。

木の看板には、SAKE、COFFEE、TABAKOと書かれ、「木の家」という感じのお店です。開かれた雰囲気の空間に、自然と足を踏み入れていました。
ご近所に住んでいるというお客さんが、昼間一人でビールを飲んでいます。そのお客さんから、ここが100年くらい続く老舗の酒屋さんであること、外へ出ていた息子さんが帰ってきて、おととしからこのスタイルのお店を始めたこと、気楽に飲めてお客さん同士で話ができるのが楽しいなど、お店へ入ってすぐにこのお店のあらましを聞きました。
真ん中にある正方形のがっしりした木のテーブルが、とてもいい役目をしています。

山形県米鶴酒造の夏純米、蛍ラベル

お酒は京都を中心に、石川、新潟、山形など、「帰って来た息子さん」の、店主高井さんが選んだ、それぞれに主張のあるお酒が揃っています。グラスなら気軽に試し飲みができますし、もちろん1本買いもできます。今、入荷待ちが多い丹後・伊根町の向井酒造、伏見の月の桂、そしてご近所でもある佐々木酒造のお酒も各種あります。
お酒を飲めない人も、ここへ来て楽しめるように、伏見区にあるカフェの自家焙煎豆のコーヒーがあり、オリーブオイルが大好きな高井さんの目にかなった、ハーブ入りのオリーブオイルの小さなボトルは、気のいた贈り物にもよさそうです。

はっさくを使った京都のクラフトビール

暮れなずむ頃、仕事帰りに軽く一杯という、女性グループが入ってきました。すぐに、ごく自然に言葉を交わすようになります。軽やかであり、気取る必要も物知りである必要もない、それでいてよそよそしくない、この空間の間合いはとても気持ちの良いものです。
リニューアルオープンしてから、今年の12月で2年。「コミュニケーションを通して、だれもが日本酒を楽しめる場としてのSAKE CUBE KYOTOは、このままに留まらず、もっと進化、革新していく気がします。ニューウェーブとか、スタイリッシュという言葉の範疇に入らない空間になっていくのではないでしょうか。それも楽しみです。

御用聞きをする酒屋、城の巽の方角にあり

いいね!がたくさんつきそうな、店の風貌。本当にいいですね

二条通りの、堀川と烏丸の中間くらいに、町並みになじんだ酒屋さんがあります。米屋、魚屋、八百屋など「屋」のつくお店が急激に減り、今や残っているお店はめったになくなりました。西本酒店は、二条城の巽の方角(東南)にあります。初代が明治の初めに、店舗を構える時、家の相がこの方角が良いという見立てから、この地に決めたのだそうです。
旧学区は「城巽(じょうそん)学区」であり、以前城巽中学校がありました。初代の西本与三吉さんは、自家醸造した清酒に「城巽菊」と名付け販売していました。
京都の底冷えが育んだ、優雅で気品漂うお酒だったそうです。戦争により製造が中断されてしまいました。城巽菊の復活を願う三代目、現店主の西本正博さんは、各地の蔵元を訪ねてまわり、滋賀県の酒造家と出会い、平成14年に復活を果たすことができました。

西本酒店でも、お店の前に場所を設けて角打ちで城巽菊をはじめとする日本酒や生ビールを楽しめます。以前は「お風呂上りに、パジャマのままでどうぞ」というキャッチフレーズで、近所へ生ビールの配達をしていたそうです。とても好評だったけれど、配達が大変で止むなく中止したそうです。そんな出前が頼めるなら、需要は多いでしょう。

味がある、店主手描きのPOP

店内には、ぎっしり並んだ日本酒、洋酒、焼酎のほかに、ツバメソースや焼きのりなどの、厳選された食料品も販売しています。「ここの海苔は本当に美味しくて、遠くの友達にも送っています」と、バスに乗って買いに来るお客さんもいます。ツバメソースは、京都では古くから愛用されてきたソースです。少量生産のため、ほとんど出回らないので、西本酒店に置いてあることを知って、遠方から買いに来る人もいます。
西本酒店では、サザエさんに登場する三河屋さんのように、今でも御用聞きや配達をしています。学生時代のアルバイトからずっとここで働いている、中村信彦さんの担当しています。中村さんの肩書は「番頭」です。取引先やお客さんからも「番頭さん」と呼ばれて、頼りにされています。店主の西本さんも「4代目になるべく修行中」と、頼もしそうです。蔵元も酒屋さんも、人と人をつなぎ、地域のコミュニティーに貢献しています。
「酒は百薬の長」ですね。

 

佐々木酒造株式会社
京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727

SAKE CUBE KYOTO
京都市中京区二条通西洞院西入ル西大黒町343

西本酒店
京都市中京区姉小路通西洞院西入宮木町480