しきたりを受け継ぐ 京都の商家のお正月

建都の町家探訪の3回目。築150年の京町家で、京扇子の製造販売を営む大西さんのお家の、伝統的なお正月迎えについて教えていただきました。
新年のお祝いにだけ使われるお膳やお椀、掛け軸も決まりのもの。家族の好みも取り入れながらおせちを作り、お鏡をお供えし、注連縄を飾って、大西家のお正月準備は調い、つつがなく新年を迎えます。

銘々のお膳でお雑煮を祝う

お正月のお祝いにだけ使うお膳とお椀

三代目当主久雄さんの奥様、優子さんが、一年間仕舞われていたお膳とお椀を取り出して、あらためます。男性は低いお膳に朱塗りのお椀、女性は外側が黒で内が朱のお椀に足付きのお膳です。しばらくお膳は使っていなかったそうですが、数年前からまた使い始めた時「やっぱり、お雑煮はこれで祝わんと」と思ったそうです。
家族みんな揃ってお膳について、家紋の入ったお椀でお雑煮を祝う元旦は、どんなに清々しいことでしょう。今年は、お孫さんの慶君も小さなお膳を前に、席に連なります。2歳の子の目にはどのように映るのでしょうか。

床の間を背にした一番端は、孫の慶君のお膳
お正月の掛け軸は「初日と波涛」がきまり

お正月の準備にてんてこ舞いのさなか、お椀で遊んだり、床の間にあがったりして、優子さんに叱られていましたが「うちのお正月」は、そうやって自然と心と体のなかにしみこんでいくのだろうと感じました。
ものごころがつく前から扇子も京町家の暮らしも日常という環境で育つ慶君に、大きくなったら、ぜひ話を聞いてみたいものだと思います。

大西家のお雑煮とおせち

白みそのお雑煮が映える朱のお椀

京都のお雑煮は白みそが決まり。大西さんのお家でも、もちろん、昆布でだしを引いた白みそ仕立てです。人の頭になるようにと、大きな頭いもを切らずに一人に一つ。こいもも添えて、お雑煮大根は輪切りにします。お餅は丸い小餅ですから、角のないものばかりで、新しい一年も、人と争うことなく丸くおさめて暮らせますように、という意味が込められています。お椀に入れたら最後に花かつおをふんわりとかけます。
「みんな白いもんばかりでしょう。彩りがないと言って、赤い金時にんじんや緑の菜っぱを入れたりなんかしたら、あかんのよ。お雑煮は神様にお供えして、一緒にいただくものやから清浄な白い色。お椀は女用も、外側は黒でも内は朱やから紅白。白がよう映えてきれいでしょ」と、優子さんは教えてくれました。
また「私が嫁いで来た時、白みそはとても体が温まるから、冬の寒い寒い台所で働く、女の人の体を思って使うのやと、聞いたの」と続けました。はんなりという言葉と同様に「京都のいけず」も有名になってしまっていますが、京都の人の本当の心根は、人を思いやるやさしいものなのです。

大西家のおせちは、ごまめ、数の子、たたきごぼう、黒豆、お煮しめ、かまぼこなどのお決まりのもののほかに、家族の好みのものも加えています。優子さんの得意なおせちは、ごまめだそうです。お祝いのものなので、頭を落とさないように、気をつけて作らないとなりません。甘辛い味がからみながらも、ごまめ自体はかりっとしていて絶品。大らかに盛り合わせた御馳走は、毎年多くのお客様を楽しませています。

また今は、祝うお家も少なくなった「にらみ鯛」も、大西さんは毎年、魚屋さんに頼んで用意しています。以前「おにらみやす」と言って、三が日は箸をつけてはいけなかったと、聞いた時は、へぇー、おもしろいなと思いましたが、大西家ではあまりにらまないで元旦から、おいしくいただいているそうです。
習わしも、こんなふうに変化していくのは、良いことのように思います。

京町家の文化を楽しく発信


風格のあるどっしりした構えの玄関にりっぱな注連縄が釣り合っています。京都では、このように、ちょうど良く釣り合いがとれていることを「つろくする」と言って、大切なこととしています。京町家が今もその魅力を放ち「本当に京都らしい京都」の代表であるのも、そこに暮らしている人の息づかいを感じられるからであると思います。
そしてそこに暮らす人達はまた、当然のことながら現代の社会に生きる人達です。便利さも必要、以前と同じようには、諸般の事情からできないこともあるでしょう。それでも折り合いをつけながら、できることは続けていこうとして努力をされていることも確かです。

大西さんも「うちなんか、そんな大したことはできてないし。おせちの材料もスーパーで買う物もあるし」と話されましたが、そうしながら「大西の家のお正月」を伝えています。そこに「京町家の品格につろくする」暮らし方を見るようです。
京都の良さや伝統とは。新しい年も、建都は京都のまちと住まいについてみなさんと一緒に考え、発信してまいります。このサイトのなかでも、みなさんに楽しいさんぽ道を見つけていただけますように。

隅々まで 職人の技と心が生きる京町家

十二月十三日は事始め。一年の区切りの日とされ、日頃、お世話になっているお家へ、鏡餅を持参して挨拶する習わしがありました。
花街以外はこの風習も廃れましたが、商家では、この日からお正月の準備を始めます。前回ご紹介した、建都の町家再生プロジェクトの燈籠町の家のご近所、扇子の製造販売を営む大西さんのお宅も、年内納めの仕事や、お正月の準備であわただしさを増しています。

広い邸内の大掃除は、この家を大切にした初代や、家造りに関わった多くの職人さんに思いを馳せる時にもなっているそうです。用事があって伺った日、忙しいなか、先日に続きお家を案内してくださいました。初代主の心意気、自然の素材とそれを生かす職人さんの技をつぶさに感じた、町家探訪その二です。

自然の素材を知りつくし、余すところなく生かす

大西常商店の扇子
様々な意匠と伝統の色彩の扇子が並ぶ店の間の奥は「供待ち」となっています。しばらく前の時代まで、大店の旦那さんは、取引先へは必ず、運転手さんや丁稚さんなどのお供を伴って行ったそうです。旦那さんが商談をしている間、お供が待っていたのが「供待ち」です。
商談が長引けば待ち時間も長くなります。「立って待つのは辛かろう、雨の中待つのは辛かろう」と、初代の常次郎さんの心遣いから生まれたものです。お茶時の際の寄付きのような趣のある造りです。働く人を大切にした常次郎さんの人柄がしのばれます。現存する京町家でも、供待ちのある家は少ないとのこと。この供待ちは、大西常商店を象徴する重要な空間なのだと感じました。
坪庭
供待ちに続く「坪庭」も、数寄を凝らした造りで、常次郎さんの洗練された文化性を感じます。壁のように張られた竹垣は「木賊張り」という工法で、釘を一本も使わずにすき間なく竹を張り合わせてあります。竹の節をうまく生かして、まっすぐに伸びる木賊のように組み合わせるのは、素材の持ち味やくせを飲み込み、それを生かす技と美意識をあわせ持った、当時の職人さんの力量に驚きます。

建材も技も、地域の中で循環させ、京町家と、まちなかの景観を守る


離れの二階は、響きが良いことから、長唄のお稽古にも使われています。お稽古の環境としては最高でしょう。階段の手すりや、長押(なげし)、床柱などは、材木の自然な枝ぶりや木肌を巧みに生かしています。押入れのふすまには、古い更紗が張られ、こんなところにも、お茶や能を嗜んだ常次郎さんの趣味の良さが伺えます。
また、お茶事の際に待合として使われている一階の部屋も、ふすまの引手や床の間の違い棚の建具など、至るところに専門の職人の手仕事の力がみなぎっています。
襖の引き手
京町家はメディアに注目され、多くの人が憧れを抱く、京都らしさの代表的なものですが、維持し、住み続けることは大変な負担であり、伝統の技術の継承も年々困難になっています。
建都では早くからプロジェクトをたちあげ、住み続けられる家屋として、京町家を改修し、維持する取り組みを続けています。
「住まいの文化」を継承する「地産地消の京町家再生」をめざし、町家の持ち主の方々や、地域コミュニティーのための、一助になっていきたいと考えています。
住み続けたい京都。大好きな京都。あこがれの京都。大西さん一家は、初代から順番に受け継いきた町家で、四季の彩りを実感しながら、変化を受け入れながらしなやかに、芯はぶれずに、ていねいに暮らしています。

建都が2006年に手がけた富小路松原の京町家再生

おくどさんが物語る 京都の暮らし 

京都の歴史や、美しい町並みを大切にした京町家再生に取り組む、建都の町家探訪。
世界中から、多くの人が訪れる京都。北、東、西になだらかな三山を眺め、まちなかを鴨川が流れる豊かな自然。そして、都の暮らしを支えてきた、様々な生業、低層の家が並ぶ町並みなど、その魅力は人々の心をとらえて離しません。
京都の町並みを形成する重要な要素である京町家は、1200年の時を重ねて育まれてきた、京都の文化と伝統の技が凝縮されています。
相続や大がかりな補修の課題、経済資源として町家を買い取る動きもからみ、町家を維持することは並大抵ではありません。そんな厳しい現状のなか、大規模な改修を施し、先祖から受け継いだ町家と、暮らしの営みを未来へつなげようと、奮闘を続けるお家を訪ね、お話を伺いました。

職住一体の伝統的京町家

大西常商店
大西常商店の前の松原通りは昔の五条通り。かつては祇園祭の巡行もここを通っていました。

伺ったのは、築150年の京町家で、約100年にわたって京扇子の製造・販売を続ける、大西常商店です。建都の「京町家再生プロジェクト」が手がけた燈籠町の家のすぐ近く、「田の字型」と言われる京都の中心部にあります。

建都が手がけた燈籠町京町家再生プロジェクト

大西常商店の家屋は、母屋と離れ、坪庭と中庭、茶室、土蔵、作業場がある、職住一体となった、伝統的な町家造りとなっています。この店や作業場の奥で、家族が暮らしを営む「職住一体」という造りは重要な意味を持つと考えます。子どもたちは、おとなが働く姿を見て育ち、そのなかで、それぞれの家の仕来りや、流儀を身に付け、先人が築いてきた多くのことを継承できたのだと思います。

店から坪庭、土間、さらに奥へ続く空間は茶席の趣きがある。


京町家を今も命ある存在として守り、暮らしの文化を伝える大西優子さんは、おくどさんを「家の心臓」と語ります。京言葉でかまどのことを意味するおくどさん、家族や職人さん、大家族の毎日の食事をまかなってきた台所の要です。
おくどさんは「うなぎの寝床」の言葉とおりの、奥へと細長く続く、走り庭と呼ばれる土間に据えられています。少し前まではよく、台所や流しのことを「走り」というお年寄りがおられました。上は「火袋」といわれる吹き抜けになっていて、煙や火の粉は高く舞い上がって消えて、火事にならないように工夫されています。
京町家は、細長い土地の形を生かして、光や風が通るようにとてもよく考えられています。
住まいの文化、暮らしの工夫に学ぶことがたくさんありそうです。これからの建築やリノベーションにも十分生かしていきたいものです。

お話を伺った日は小春日和の暖かさでしたが、「暖房器具のない時代、冬にここで三度の食事の支度をするのは、辛抱がいったやろな」優子さんは、しみじみと言葉をつなぎました。

火を大事にして、火事にならんよう気ぃつけて、ご飯ごしらえします

何十年も、走りで働く人たちを見守ってくれる布袋さん

おくどさんの上には、入口の方向を向いた七体の布袋さんと「火廼要慎」(ひのようじん)と書かれた愛宕神社のお札が張られています。火伏(ひぶせ)の神様である愛宕神社は、京都では「愛宕さん」と親しみ込めて呼ばれています。「火、すなわち慎みを要する」という、火に対する畏敬の念を忘れずに暮らすことの大切さを教えてくれているのです。
おくどさんにかけた大小三つのお釜を、効率よく使っていきます。真ん中はご飯を炊き、右側では煮物や野菜を茹でたり。一番左の大きなお釜はお湯を沸かして、煮炊きの時や、後片付けに使うなど、火を遊ばさんように、三つの焚口とお釜を、上手に使いまわします。ひと昔前まで、台所の上がりがまちで、家内を束ねる奥さんが、うまく仕事がまわるように差配していました。

この家は、ご先祖さんからお預かりしてる家。私らも守って伝えていく


京町家に親しみ、五節句(人日=桃の節句、端午の節句、七夕、重陽)や、おくどさんでご飯を炊くなど、暮らしの文化に楽しくふれてほしいと「常の会」を立ち上げ、能、長唄、津軽三味線などのミニライブや、ワークショップなど、様々な企画で町家の魅力を広げています。初代の常次郎さんは、茶道や謡曲を嗜む趣味人で、商いだけではなく、文化サロン的な場にもなっていたそうです。優子さんは、その集まりの雰囲気を現代によみがえらせ、たくさんの人とつながる文化の発信の場にしたいと、熱い思いで会の運営にあたっています。

おくどさんで炊いたご飯は、参加者から「おいしい!」という声が次々聞かれる、本当のご馳走です。薪を焚く匂いや炎の色、シュルシュルというお釜が吹いてきた音。炊きたてのご飯の匂いと甘さを含んだ味。たくさんの人の手をかけた食物を頂くありがたさ、おかげさまという気持が生まれてきます。
「初代の努力を忘れない、常日頃を大事にする」そんな心が込められた常の会は、その名のとおり、日々、地道に歩みを続けています。

 

大西常商店
京都府京都市下京区本燈籠町23

京都の冬の始まり

雨が多かった今年の秋。季節は足早に進み、朝晩はぐんと冷え込むようになりました。
火の神様に五穀豊穣と無事をお祈りする「お火焚き祭」が、あちこちの神社で行われ、冬の暮らしを始める合図とも言える「亥の子」に因んだ話題も聞かれます。風が強く、よく晴れた日、少し寄り道をして冬の始まりのまちを歩きました。

京の都の四方四隅を守る大将軍神社


東山三条近く、千鳥酢の銘柄で知られる村山造酢の古い蔵がある、ほのかにお酢の香りが漂う小道を行くと、古式ゆかしい神社が、観光の波から離れて、ひっそりと建っています。こじんまりした境内ですが、舞殿、本殿、絵馬殿、稲荷社などの社を祀る格式のある大将軍神社です。
由緒には、桓武天皇が平安京を造営した際、都を鎮め守るために、四方四隅にスサノオノミコトを祀り大将軍神社としたうちの、東を守護すると由緒書きにあります。特に東は、京の七口のひとつ、三条口の要の地にあたり、悪い霊の侵入を防ぐために最も重要とされたとあります。また、藤原道長の父、兼家の邸宅「東三条殿」もこのあたりにあり、応仁の乱で破壊されてしまいましたが「東三條社」として境内に祀られ、その名残りをとどめています。
大将軍神社の銀杏
樹齢八百年、30メートルもあるご神木の大銀杏は、毎年見事に色付きますが、ゆっくりした気持で歩いていないと見過ごしてしまいます。
久しぶりに訪れて驚いたのは、「区民の誇りの木」にも選定されている、榎の巨木が倒れてしまっていたことです。先日の台風21号の強風で倒壊したそうです。稲荷神社も壊れ、手水舎も傾き、付近は立ち入り禁止となっていました。今年はお火焚祭も行われなかったそうです。
いつも清浄な境内が保たれ、氏子のみなさんが大切にお守りされている神社です。大変なことですが、どうか早く復興されますようにとお参りしました。

東の大将軍神社の鵺伝説

浮世絵師・月岡芳年が描いた鵺(wikipediaより)

ここは、古くは「鵺の森」と呼ばれ、平家物語の「源頼政の鵺退治」の舞台にもなったと言われています。源頼政が、丑の刻に現われて天皇を苦しめる、怪しいものを「南無八幡大菩薩」と唱えながら矢で射落としてみると、頭は申、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていたと記されています。
今は、人気のエリアとして多くの人が行き交っていますが、平安時代には物の怪が夜な夜な現れる異界であったとは。
都の歴史は、虚も実もない交ぜに、様々な物語が生まれ、伝えられています。千二百年の出来事を見つめてきた大銀杏と、一緒に立っていると思うと不思議な気分になりました。

亥の子とお火焚きのお菓子

11月は、お火焚祭と亥の子の二つの、いずれも宮中から庶民の間に広まった行事が行われます。お火焚祭は、火を焚いて日常のけがれや罪を祓い、心身を浄めます。火の持つ霊力によって願いがかなうとされています。
「亥の子」は、亥の月である十月(新暦11月)の最初の亥の日のこと。その亥の刻(夜の9時から11時頃)に、お餅を食べると病気にならないとされ、無病息災を願いました。また、亥、猪は多産であることにあやかり、子孫繁栄を願う意味も込められました。また、亥の子の日に「炬燵開き」「炉開き」をする風習もあり、茶の湯の炉開きもこの頃です。年配の方から「子どもの頃、どんなに寒くても亥の子までは炬燵をいれてもらえなかった」と聞きました。


古くからの行事とお菓子との結びつきは深く、特に京都では今も習わしごとに決まったお菓子を頂く習慣が続いています。お火焚祭のお供えは、宝球の焼印を押したお火焚まんじゅう、柚子おこし、みかん。亥の日にちなんだ亥の子餅は、うりぼうをかたどり、表面に黒胡麻を付けた肉桂の香りが特徴のお餅です。
帰り道に立ち寄ったお菓子屋さんは老松堂。180年この地で、季節ごとのお菓子を作り続けています。毎年決まって、柚子おこしや亥の子餅を買いに来るお客さんも多いそうです。老松堂とお客さんとの関係は、今年も変わらず、決まりのお菓子を作れること、また、無事に過ごし、お菓子を買い来られたことを、お互いに喜び合う、つながりがあると感じます。私が行った時、白髪の紳士が栗入りのお赤飯を包んでもらっていました。控えめに、ていねいに暮らすなかに生まれる豊かさを教えてもらった気持になりました。

子どもの守り神 三宅八幡宮

秋口から、あちこちの神社に「七五三参り」の案内が見られるようになります。子どもの健やかな成長に感謝し、これからも息災であるように願う七五三。「七歳までは神の子」と言われ、幼くして亡くなる子どもが多かった昔「無事に育ちますようにと祈る心は、切実なものであったことでしょう。夜泣き、かん虫封じにご利益があるとされ、子どもの守り神として、古くから信仰を集める三宅八幡宮は、七五三参りにふさわしいお宮さんです。

比叡山のふもと、自然と水が豊かな里

めずらしく気持ちよく晴れて、秋を感じる日、ゴトンゴトンと町なかを縫うようにゆっくり進む、叡電(えいでん)に乗って出かけました。京都の西を走る嵐電と対をなすと言える叡電。両方とも、地元電車=じもでん、と呼びたいおなじみの電車です。桜、新緑、紅葉、雪景色と、四季折々の車窓からの眺めのすばらしさが、多くの人に知られるようになりました。その日は比較的静かで、のんびりした気分になれました。

三宅八幡駅で降り、高野川にかかる三宅橋を渡り、旧参道から八幡宮へ向かうことにしました。比叡山が間近に見え、川の水は澄み、民家の脇を流れる用水路の水量も豊富です。旧参道には、家が建ち並んでいますが、昔は両側に桜ともみじの木が続き、春秋は本当にみごとだったし、お祭の時には参道に露店が並び、子どももたくさん来てそれはにぎやかだったと聞きました。
この一帯、上高野地域は、昔から農業が盛んでしたが、川が低い所を流れているため、水の確保には大変苦労したようです。江戸時代に造られた潅漑用の水路が、今も大切に利用されています。四方を見渡して、遮るものがないということも、気持ちが解放されます。

神様のお使いの鳩が守護

三宅八幡宮の手水場
いたる所に神様のお使いの鳩が
比叡山の谷水が引かれた池
比叡山の谷水が引かれています

三宅八幡宮本殿
三宅八幡宮は、応仁の乱により焼け落ちた神社を里の人々の力で復興させたという由緒が記されている、歴史ある神社です。庭には水の流れを巧みに生かした池があり、手水舎には、比叡山の谷川の水が引かれています。狛犬ならぬ「狛鳩」を始め、境内の到る所に鎮座する鳩の出迎えを受けてのお参りです。
「ここにいる。こんな所にも」と、次々見つけるのも楽しいものです。白い鳩は八幡宮のお使いとして、大切にされてきましたが、三宅八幡宮がなぜ、これほどまでに鳩との深い結びつきがあるのかは、定かではないそうです。本物の鳩が境内を闊歩し、時々お参りの人たちから、餌をもらっています。「生き鳩なんやから、こっちも大事にしてや」とでも言っているように、せっせとついばんでいる様子が、平和な感じで癒されます。

子どもが無事成長したお礼にお返しされた神鳩
素焼きに彩色した「神鳩」(しんばと)はつがいで授けられ、子どもが無事成長したお礼にお返しのお参りに来る習わしがあります。苔むした石灯籠に、小さなつがいの神鳩が何組も並べられているのを見て、ほっとあたたかい気持ちになりました。社務所で授与品をいただいている間にも、続けて七五三のお参りの予約の電話が入っていました。今日は静かな境内に、もうすぐ子ども達の元気な声が響くことでしょう。

鳩は平和の使者。人と人の友好を見守ります。

奉納された絵馬
三宅八幡宮に奉納された絵馬のうち、子どものかん虫封じや十三参りなど、子どもにまつわる身近な習わしを表した133枚が、京都市有形民俗文化財に指定されています。中には、かん虫封じのお礼参りの行列、なんと638人を描いたものもあります。社務所で伺った話では、絵馬に記載された名前、地名や職業名などで、奉納した人を特定して連絡をとり、絵馬を披露されたそうです。「これはお祖父さんや」とか「先祖がこんなりっぱなものを残してくれたんやから、私ら末裔もしゃんとして生きていかんとなあ」と感慨深げに話されたということでした。

鳩をかたどった鳩餅を茶店でいただくのも、参拝のお楽しみです。もち米を蒸したしんこのお餅です。白とニッキと抹茶の三種類があります。むっちりした歯ごたえと素朴な味わいは、凝ったお菓子が多い今、返って得難いおいしさのように思います。平日の午後の茶店は、散歩のついでにお参りして、茶店に寄るという近所の常連さんの世間話が聞こえてきました。境内の茶店は、さながら「近所の行きつけの喫茶店」の様相です。気軽にお参りできるご近所の神社、三宅八幡宮は、神社と地域や人との新しい関係を築いているように感じました。
 

三宅八幡宮
京都市左京区上高野三宅町

喫茶店で始まる 京都の朝

足早に駅の改札を出て、せかせか歩いている時、どこからか漂ってくるコーヒーの香りが、あわただしい気分をなだめてくれます。
京都は喫茶店が多いまちと言われます。雑誌やムック本でも、京都のおしゃれなCafeとスイーツとか、京都人おすすめの店などとして紹介されています。
京都に住んでいる者としては、チェーン店が増えたというのが実感なのですが、それでも大きな通りから少し逸れると、ひっそりとたたずむ、いい雰囲気の店に出会います。近所の人や出勤前の人たちが、スポーツ新聞を広げたり、世間話をしながらモーニングコーヒーを楽しんでいます。こういう喫茶店に入れば、朝の始まりは上々です。

スイーツやカフェではない「喫茶店」という場所


阪急電鉄の西院駅周辺は、たくさんの飲食店がひしめいています。20〜30代の人たちが入りそうなワインバーから、テレビドラマの撮影場所にもなった、立ち飲みの店や居酒屋まで集まった駅裏の一画です。人通りも少ない朝7時に、もう店を開けている喫茶店イデヤがあります。現店主のご両親が昭和30年代に始めてから60年近く、この地で営業を続けています。

60年近い年月の、物語が感じられる店内

店内は広く,時を経ていい味わいを出しているテーブルに椅子、ソファー。東側の窓からは、やわらかな光が差し、常連のお客さんが思い思いに、朝のひと時を過ごしています。「気取りのない、いつもの朝」という空気が心地よく感じられます。
初めて入った時のこと。ミックストースト(ジャム&バター)の小とブレンドコーヒーを頼みました。しばらくして、お待たせしました、どうぞと、テーブルに置かれたトーストの分厚さに、てっきり間違って普通サイズがきたのだと思い(普通にしても厚い)「あのう、トーストは小をお願いしたのですが」と言うと、「これ小なんです」という返事に驚きました。なんと5枚切りです。普通サイズのボリュームは如何に。
このミックストーストと、ていねいに淹れてくれたコーヒーの朝食をとった日は、一日、力が途切れません。気分が乗っている日も、何となく気が重い日も、ほっとひと息つけるのは、こういう喫茶店です。
お客さんと一緒に、長い時をかけて重ねてきたなかで醸し出される、その店の空気感こそ「喫茶店」という場所の、ほかでは得がたいものなのだと思います。

代替えをつくらない家具や道具

コーヒー通とは言えない私でも、イデヤのコーヒーを最初に飲んだ時から、飲み口がやわらかくおいしいと思い、好きになりました。イデヤでは、今でも初代から引き継いだ、ネルドリップ式で淹れています。ところが、今まで仕入れていた所がこのネルフィルターの製造を中止してしまったそうです。「今あるフィルターがいつまでもつか」と、気がかりです。


開店した時からあるソファーや椅子も、何回かシートの張り替えをしたそうですが、いつも頼んでいた職人さんが高齢になり「次の張り替えの時には、他にやってくれる所を探さなあかんと思うけど、職人さんおるんかなあ」と言われました。そして「張り替えるのと、新しいのを買うのと、かかるお金は変わらへんのやけどね」と続けました。

京都の良さが生きている喫茶店の存在

お客さんは常連さんが多いですか」と聞くと「そうやね、ほとんど常連さんやね。そやからお客さんは、ほとんど年寄り。若い人はハンバーガー屋やチューン店に行くし、コンビニの100円コーヒーを売り出してからよけい来なくなった。安いし、歩きながら飲んだり、気楽に長い時間いられるしね」と、現状をほがらかに笑って話してくれました。
今のところ、華やかに取り上げられたり、行列ができたりはしない。そういうことより、開店の時からの「お客さんにとって居心地の良い、コーヒーのおいしい喫茶店」出あることを大切にして営業を続けるイデヤ。こういうところに京都の底力、京都の奥深さを感じます。そしてこの層の厚みが、多くの人にとっての「また訪れたいまち、京都」なのだと思います。

中秋の名月の日 へちま加持

月が美しい季節です。濃い藍の色を残した空に、くっきりと見える月の形は、まるみを帯びてきました。
旧暦八月十五日は中秋の名月。今年は10月4日です。十五夜のお月見は、すすきや萩など秋の七草やお団子をお供えして作物の収穫を感謝し、無病息災を願う行事です。また「芋名月」とも言われ、収穫した里芋をお供えする地域もあります。家庭でお月見の行事をすることは、おおかたなくなりましたが、収穫に感謝し、月を愛で、家族の健康を願う習わしは、受け継いでいきたいものです。
京都では様々な観月の催しが行われますが、洛北「赤山禅院(せきざんぜんいん)では、ぜんそく封じの「へちま加持」が今も伝えられ、毎年たくさんの人々が参詣します。全国各地のお祭や行事が、参加しやすい週末に行われていますが、へちま加持は「十五夜の月が、その日から、だんだん欠けていくように、病を減じさせるため」とされ、必ず旧暦八月十五日に行われます。

代々の住職は大阿闍梨が

鬼門除けの猿
いたずらをしないように金網に入れられた鬼門除けの猿

洛北修学院は、京都市内の中心部より早く秋を感じます。
天台宗延暦寺塔頭の赤山禅院は、陰陽道で鬼が出入りする方角とされる都の東北の表鬼門を守る、方除けのお寺として古くから信仰を集めてきました。また、荒行として知られ、7年かけて、比叡山の峰々をたどって礼拝する「千日回峰行」と関わりの深いお寺です。「赤山苦行」と呼ばれる厳しい行程があり、千日の満行を達成した「大阿闍梨」が代々住職を務められ、数々の加持祈祷が行われています。

千日回峰行に使われたわらじ
千日回峰行に使われたわらじ

ぜんそくや気管支炎を封じ込める「へちま加持」には、大阿闍梨から授けられる、へちまの種と「へちま護どく」を求めて、毎年たくさんの人が参拝します。へちま護どくとは、へちまを乾燥させて薄い紙のようにしたものに、ありがたい梵字と塔が書かれたお札です。「お札を戴いたら、これで大丈夫と安心してしまって、お酒をたくさん飲んだり食べ過ぎたりしてしまう人が多いのです。お札に頼るだけでなく、飲み過ぎた次の日は、休肝日にするとか、自分でも努力しないといけません」とご住職は笑いました。さもありなん、です。
月が満ちることを良しとすることが多いのに、へちま加持は、欠けていく月に無病息災の願いを託しています。月の明るさも、月のない晩の闇も肌で感じていた昔の人の、物事のとらえ方の豊かさを感じます。

ちなみに、後の月と呼ばれる旧暦九月十三日、十三夜の月は11月1日。豆名月、栗名月とも言い、栗や大豆、小豆、黒豆などの収穫の時期にあたります。「片見月は縁起が悪い」とされていますので、忘れないようにしましょう。

数々の由緒が、おおらかに同居

赤山禅院の鳥居
後水尾天皇より賜った「赤山大明神」の額
お姿おみくじ
赤山大明神のお姿おみくじは、寿老人の底に穴が開いていておみくじが入っています

東山三十六峰の赤山を背景に建つ、大きな鳥居は神仏習合の寺院であることを表しています。境内には、拝殿、本殿のほかに、地蔵堂、弁財天、「京の七福神」のうちの福禄寿を祀り、大阿闍梨が護摩供を行う不動堂、密教の重要な教えを表す門のように大きな数珠など、たくさんの建物や像があります。

赤山禅院の地蔵堂
紅葉の名所。葉先がわずかに色づいて

申の日の五日に赤山さんに詣でると吉運に恵まれるという評判がたち、江戸時代には「掛け寄せ(集金)の神様」と言われるようになり、そこから「五十払い(ごとばらい)」の商習慣が広まったとか。そして「敬老会発祥の地」でもあるなど、なんとまあ、様々な由緒があることでしょう。
天台密教の教えを守り、峻厳な行と縁の深い寺院は、今もなお、京都の人々の信仰厚く、「赤山さん」と呼ばれ、親しまれています。

 

皇城表鬼門 比叡山延暦寺 赤山禅院
京都府京都市左京区修学院開根坊町18

季節を映す 和菓子の楽しみ

茶の湯の文化と歴史に磨かれ、育まれてきた京都の和菓子は、小さいながらひとつの世界感を表す芸術品のようです。
茶席のお菓子となるきんとんは、芯となる餡玉のまわりに、色付けした餡をそぼろにして付けてあります。形はみな同じで、そぼろの色使いと、お菓子に付けた銘だけで季節や慶びの心などを表現するので、職人さんのセンスと腕の見せどころと言われます。春まだ浅い頃の「下萌え」に始まり、春の山、かきつばた、紫陽花、そして秋はこぼれ萩、嵯峨野など菓銘と色使いが相まって、季節の情景が漂います。
つくね芋の皮で餡を包んだ薯蕷(じょうよ)饅頭もまた、表面にさっと一筆はいた色や焼印で、季節が表わされています。京都には、小さなお菓子に込められた思いをくみ取り、共有する豊かな文化が色濃く残っています。
一方、普段使いの美味しいお菓子を作る身近なお店は、肩ひじ張らず、気軽に入ることができます。店頭に並ぶおだんごやお餅の類を見て「おやつに買って帰ろかな」と、あれこれ迷いながら、やっと決めます。包んでもらうあいだ、お店の人とひと言、ふた言話すのも楽しい。包みを受け取った時「あれも食べたかったなあ」と、心残りを感じつつ、満ち足りた気持になります。こういうお店も、いつまでもあってほしい京都のひとつです。

映画の街で愛されて100年

太秦を走る嵐電
京都のまちをゆるゆる走る、通称「嵐電(らんでん)」は、通勤・通学や買い物など、市民の足として活躍しています。
この嵐電に乗っていた時、みかさ、よもぎだんご、うば玉などと書かれた張り紙が目に入りました。みごとな墨文字とお店のたたずまいに、きっと美味しいお菓子屋さんだと思いました。

田井彌六代目と娘さん
田井彌六代目と娘さん。家族みんなで創業143年の老舗を盛り立てます。

店頭に並ぶ和菓子
そのお店「田井彌本舗」は、嵐電帷子の辻(かたびらのつじ)駅のすぐ近くにあります。
明治7年(1874)東山区で創業し、50年余り祇園で営業を続け、昭和4年に現在の地に移転し、以来143年、四季折々の和菓子や、季節の習わしに沿ったお餅やお赤飯など、京都の暮らしに根ざした美味しいお菓子屋さんとして、地元で愛されています。
太秦へ移転した昭和4年は「日活太秦撮影所」が建てられた翌年にあたります。まさに日本映画の黄金期の生き生きとした時代の息吹きのなかで商いをされてきたのです。
俳優の田村高廣さんは、多井彌本舗のお菓子が好きで、東京の自宅へも送ったという、映画の街らしいエピソードを聞きました。小栗康平監督作品「泥の川」の渋い演技の田村高廣さんが相好を崩して「おっ、京都から届いたか」とか言ったのかな、などど想像すると、今は亡き名優に親しみを覚えます。

待ってました、栗赤飯

田井弥本舗の栗ご飯
お店の、くり餅、栗赤飯の張り紙を見て季節の到来を知ります。きんとんや薯蕷まんじゅうも秋の装いになっています。
お赤飯や白いお餅も作ってくれる菓子屋さん、言うところの「おまんやさん(お饅頭屋さん)」は、京都の特徴でしょう。田井彌本舗も、お赤飯、お祝やお正月のお餅を作っています。なかでも栗赤飯は、毎年多くのお客さんが待っています。
お菓子の名前を書いたすばらしい墨文字は六代目の奥さんが書かれています。この美しい文字も田井彌の一部です。
ある日の夕方、中学生の女の子が「これ一つください」と言って、くり餅を指しました。「和菓子が好きですか」と聞くと、少しはにかんで「はい」と答えてくれました。
家族で切り盛りする、まちのお菓子屋さんが、これからも京都の暮らしの習わしと、季節を知る楽しみを教えてくれます。

 

田井弥本舗
京都府京都市右京区太秦堀ヶ内町28
営業時間9:00~19:00
不定休

夏を送り 秋の気配漂う

二十四節気の暦では、今は立秋の次の時節、処暑(しょしょ)にあたり「暑さがおさまる頃」です。ことのほか厳しかった残暑が影をひそめるまであとひと息。夏を送る行事をすませると、空は高くなり、吹く風にも心地よさを感じます。夏の名残りを惜しみつつ、秋の訪れを心待ちにしています。

子ども達のお楽しみ「地蔵盆」

地蔵会(じぞうえ)
夏休みの思い出に「地蔵盆」と応える京都人は多く、辻々に大切に祀られているお地蔵さんは、京都のまちを強く印象付けています。
八月の末に、それぞれの町内ごとに行われる地蔵盆は、子どもの健やかな成長と、町内の安全を願う行事であり、地域のつながりのたまものと言えます。少子高齢化や職住分離の生活などにより、地蔵盆の伝統も変化してきていますが、今も多くの町内で守り伝えられ、子ども達の夏休みの最後を楽しく彩っています。
中京区の山崎町町内のお地蔵さんは、西木屋町三条下ル、高瀬川沿いの祠に祀られている大日如来です。「彦根藩邸跡」の標柱が如来さまをお守りするかのように脇に建っています。京都のまん中の繁華街、普段は子どもの姿を見かけることのない地域ですが、地蔵盆には、町外に住む子ども達が必ずやって来ます。
数珠回し
直径3メートルくらいもある、長い数珠を囲んで輪になって座り、読経に合わせて、その数珠を回していく「数珠回し」も行われています。年上の子が年下の子の面倒をよく見ています。お菓子をもらい、ゲームや福引に歓声をあげる子ども達。福引の景品やお菓子は、お世話役が飛び回って、今人気のものが集められていました。
最年少の参加は、今年の七月七日生まれの女のあかちゃんでした。地域の様子は変わっても、山崎町町内会には、つながりを大切にするまちの精神と機能が生きています。子ども達の姿は、繁華街の町内をひと時、生き生きした暮らしのまちの表情に変えていました。

お地蔵さんに供えるお膳

お地蔵さんへのお供えのお膳

お供えを作る伊藤さん
「普段お店で使っている食材でお供えも作っています」と気負いなく語る伊藤さん

山崎町では、地蔵会(じぞうえ)=地蔵盆の日と、大日如来の縁日である28日にお参りをされています。お供えするお膳は、近所に住む伊藤さんが担当しています。
28日の献立は、白飯、豆腐のすまし汁、野菜の炊き合わせ、ずいきのごま味噌、ぬか漬けでした。出汁は昆布と乾椎茸でとり、前の晩からの準備です。時代の流れのなかで、簡単にしようと思えばそうなりそうな、こういう目に見えないところも変わりなく手をかけて行われています。
読経がすむとお供物やお飾りはさっと片付けられ、祠の扉を閉じ、今年の夏を仕舞いました。

萩の花に漂う秋

萩の花
残暑のなかで、楚々とした姿を見せてくれるのが萩の花です。山上憶良は、万葉集で「萩の花、尾花、葛の花・・・」と秋の七草の筆頭にあげ、花のなかでは一番多く詠まれています。乱れ萩、こぼれ萩、萩の宿など美しい季語からは、いかにも枝がしない、風に揺れ、こぼれるように咲く萩の花の様子が目に浮かんできます。
京都には、萩の名所や似合う場所が点在し、萩祭や花の見頃には多くの人が訪れますが、桜や紅葉に比べれば、ひっそりしたものです。山道や水路の端、家の庭に咲くつつましさが、日本人の感性に合うのでしょうか。正岡子規も、こんな句を残しています。
 
萩 咲 い て   家 賃 五 円 の  家 に 住 む
 
しばらくすると秋のお彼岸です。お菓子屋さんの店先に「おはぎ」と大きく書かれています。春は牡丹の花にちなみ「ぼた餅」、秋は皮がやわらかい新小豆を使うので粒あんにし、その粒が萩の花に似ていることから「おはぎ」となったと言われています。
これも暮らしと季節が密接な日本だからこそ。こんな小さな楽しみを見つけながら、秋を待つことにしましょう。
おはぎ

京野菜とともに 海外にも挑戦

京都市南区で農業を営む石割照久さんは、2年前、大学・企業と共同し、フランスのパリ郊外で京野菜の栽培を始めました。先祖から農地を受け継いで10代目になりますが、海外進出は初めての経験です。それもこれも、農業への危機感が石割さんを動かしました。

桂瓜を収穫する石割さん
石割さんが農業を継いだ時、周囲から聞こえてきたのは「農業は大変だ。農業では暮らしていけない。後継者がいない」という消極的な声でした。そこで、「よっしゃ。それなら、ちゃんと儲かる農業をやってやろうやないか」と、30年前にIT関連企業を退職し、「新しい農業の追求」を続けてきました。
フランスで栽培している野菜は、賀茂なす、九条ねぎ、伏見とうがらし、大根、枝豆などです。異常寒波など困難な条件もありましたが、その都度対策をとって、フランスの風土に合うよう工夫してきました。その結果、味や色も「これなら」という野菜ができるようになり、事業は軌道に乗り始めています。
石割さんが作る野菜は、京都の歴史に育まれてきたものです。都の朝廷や社寺仏閣へは、各地から様々な産物が献上され、そのなかに野菜もあったわけです。たとえば、聖護院だいこんは尾張、聖護院かぶは近江、鹿ケ谷かぼちゃは東北というように、京野菜の祖先は日本の各地から、京へのぼって来たのです。
石割さんによると、九条ねぎは、伏見稲荷大社が建立される時に大阪から入ってきて、氏子の多くが住んでいた、九条近辺で栽培されるようになったということです。適地適作の野菜、その時代その時代の農家の研究心が、より良い京野菜に変えてきたと言えます。

価値あるものをきちんと売る

石割農園から望む桂川
石割さんの農園は、桂川に沿って広がっています。このあたりは、桂川、宇治川、木津川の三川合流視点に近く、昔から氾濫を繰り返して肥沃な土壌となり、平安時代から農地とされていたそうです。
石割さんは、料理人からの求めに応じて、京野菜を中心に年間約100種類の野菜を栽培し、納品する「オーダーメードの野菜づくり」のシステムを確立しました。

伝統野菜以外にも、ホテルからの依頼で栽培している極小カボチャ
伝統野菜以外にもホテルからの依頼で栽培している極小カボチャを手にする石割さん

「どうしたらよいものができ、それをどうやって売っていったら良いか」を必死に考えた結果でした。出荷した時、価格が市場の高い安いに左右されず、自ら値段をつけられることが大切だと考えたからです。そのためには値段の根拠となるコスト計算もきちんとしなければなりません。安値大量生産ではなく、質の高い、価値の高い野菜を、色やサイズまで細かい要求にも応えて、多くの料理人の信頼を得ています。「いいものを作り、直接売る方法」は、今他の農家にも確実に広がっています。

発想を新しくして、みんなで今より上を

石割さんは「農家みんなの暮らしが良くなればと、若い人に、知っていること、到達したことはどんどん惜しげなく教えています。そうやって、みんなで発想を新しくして、今より上を目指していけたらと願っています。」
フランスで栽培した野菜を、現地のシェフや関係者に試食してもらったところ「使ってみたいと好評だったとのこと。石割さんが信条とするのは「食べる人が幸せになる野菜」です。

石割さんが育てた野菜
艶々の皮がはち切れそうに張ったなす。茄子紺とは、こういう色なのかと思う美しさです。きゅうりや唐辛子は香りを放ち、石割さんが作った野菜はみんな、生気がみなぎっています。
保存されていた種から復活させた幻の伝統野菜「桂瓜」は、浅漬けにすると、それは爽やかなうす緑色、少し甘い香り、しゃきっとした食感がすばらしかったです。「フランスで京野菜の地産地消」が実現する日は近いかもしれません。